1985年8月12日の日航123便墜落事故について、事故当日、相模湾で、海上自衛隊が実施していた誘導ミサイルの検証実験中の事故に巻き込まれたために発生したと考えられます。
異常事態後、クルーが酸素マスクを着用しないで、20分間、高度7000㍍を維持したまま、操縦を継続したこと等から、日航機内に、頑強な垂直尾翼を破壊するような急減圧は発生しなかったと思われます。
異常事態直後、機長は気圧のことは言及しないで、「まずい、何か分かったぞ。」と発言した上で、「ギア、見て、ギア」と指示していますけれども、これは、減圧兆候が見受けられなかったためであり、作動したのは、客室高度警報音ではなく、車輪の異常を報せる離陸警報音であったと考えられます。
日航機は、機体を安定させるために車輪を出し、山梨県大月市上空で、右旋回をしながら高度を下げ、横田基地への緊急着陸態勢に入っていましたが、機長が「これは、駄目かも分からんね。」と発言した辺りから、北西に進路を変更し、秩父山岳地帯に向かって行きます。これについて、機体を完全には制御出来ない以上、地上で二次災害を発生させる恐れがあるとして、やむを得ず断念したと思われます。
山腹への不時着でありながら、事故直後には、衝撃が緩和された後部座席を中心に多数の方が生存し、結果的に、4名の方が救出されたのですから、最後まで諦めなかったクルーの姿勢は、高く評価されるべきであると考えます。
事故から9分後、長野県川上村梓山地区に住む女性が、正確な位置情報を長野県警臼田警察署に通報していること、沖縄県嘉手納基地から横田基地に向けて飛行していた米軍C-130輸送機が、20分後、現場上空に到達し、米陸軍キャンプ座間に対して、救難ヘリUH-1 の出動を要請していること等から、事故直後に、現場は特定されていましたが、北西に8.5km離れた長野県御座山等、誤った情報を流すことにより、意図的に救助活動を遅らせ、事故翌朝、午前8時49分、空挺部隊(習志野)が降下するまでの間に、証拠隠滅が図られていたと思われます。