NHK朝の連続テレビ小説「芋たこなんきん」 ★3
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路面電車の中でオノマチがプロポーズされたと惚気話に夢中だった場面で
隣に座ってたタイのキックボクサーみたいな顔した
着物姿の婆さんが迷惑そうに愛想笑いしてたのがウケたw 写真を撮りに来た出征兵士の夫婦の一組目
椅子に座ってた奥さんが立つと、夫より頭ひとつ背が高かった
ワザとあんな組み合わせにしたのかな 前スレ>>986
実際のツンツンの写真も華やかな美人でまさに細雪の世界ね
あの写真が載ってる本「田辺写真館が見た昭和」に
ツンツンは2番目の妹で「上の妹は早くに結婚した」とだけ書いてある
田辺さんの18歳当時の日記本はまだ読んでないんだけど、好きになれない叔母さんだったんだね
辛いこと腹立たしいことはふんわりとユーモアに包んで書く田辺先生だったから、
18歳日記本は生々しい感情が書いてありそうで読むのためらってるんだけど… 前スレにアンカー付けても該当するレスが参照できないから無駄
かえってややこしくなるだけということを理解して欲しい 15歳の町子は可愛いなあ
普通に美少女やん
20数年でああなってしまうのはしゃーないけどなあ
伊藤沙莉は悪く無いけど身長が小さすぎる
今さらで関係無いけど糞ガキとホームレスの時計壊したオッサンの
「ほっちっち」ってやつ死ぬほどムカついた
あんなわらべ歌?京都で流行ってたんやな
何で京都の歌を大阪で?って感じだったが
あれ目の前で歌われたら一日中頭に血が昇りそう
>>8
あんただけだよ、そんな文句言ってる奴
普通にわかりやすいだろ 無駄にアンカー付けてる自覚はないんだなw
その訳~も知らずに~♪ 昨日途中から観たら知らない可愛い子が出てたから同じ趣味の友達が出来たのかと思った 銃後の守りを~なんてアムールのママがカーネーションに出てた時の決め台詞じゃんw
町子も国防婦人会のリーダーになれる資質を兼ね備えていた訳だ
しかも言い争いしてるのが糸子だし 町子が読み上げてた自作小説は実際に田辺聖子が当時書いてたもので自伝「欲しがりません勝つまでは」にも載ってる
女学生時代の田辺聖子は少女小説やら時代物やら冒険物やらいろんなジャンルの中二病小説を量産してたんだけど自伝中のセルフ突っ込みもおもしろい 今日の回、最後に「新聞の大本営鵜呑みにしてたらあかんで」っていう台詞があったね
放送当時に買ったこのドラマのガイド本に時代考証の先生が書いてたけど、
戦時下でも大阪の庶民は「この戦争あかんで」「負けるんちゃうか」って普通に言ってたらしい
大阪人には戦争の大義名分でなくまず第一に命を考える合理精神がある、ってことらしい
大阪出身の兵士で構成された部隊は激弱で有名だったそうだし、
訓練では住民を率いてた青年団員がいざ空襲が始まると真っ先に逃げ出したという証言もあったそうだ >>16
『カーネーション』でも、糸子の親世代にあたる近所のオッチャン達が悟った感じで言っていたね。
「新聞を鵜呑みにしたらあかん」という台詞、今のご時世にも充分通じる重みのある言葉。 外に持ち出せない外国の本の基準は何だったのだろう
英訳版は原作者がどこの国の人であれ禁止なのか
麗子先生の持ってた本にアンデルセンがあったがデンマーク人だ
逆に日本語訳版だったらどこの国の作家のでもOK?
町子が持ってた「大地」はアメリカ人作家だ
カンジがやたら勧めるレイモントは、当時入手できるものだったのか 弾よけのおまじない
天気予報!天気予報!にワラタ
まだあの時期天気予報やってたんだ
とっくに発表しなくなったと思ってた 町子の友達の家(工場の子)はどこなんだ
途中の川は淀川?
当時の淀川付近の風景は分からないが
あのあたりからあんなに近くに山が見えるか >>16
8連隊のことならそう言われてるだけで実際は別に弱くはなかったらしいけど >>20
田辺先生が通っていらっしゃった女学校は淀之水(現在の昇陽中学校・高校)だっけ?
此花区の中心あたり。
その界隈に住んでいるとしたら、淡路島の山々が見えていたかも。 京阪神って江戸時代もお江戸=東京にように支配階級の武家の多い街でもなく
明治〜も商売や生産の町でお役人が幅きかせていばりくさっている地域ではなく
東京中心である政治や権威主義を嫌う
戦争に関する見方もシビアで客観的にちゃんと見えていたんだとおもう あのブサ子役が今の町子になるのは自然だったが
女学生役からは殺して戸籍乗っ取ったレベル ツンツンは戦後に満州から引き上げて来れたんだろうか?
純ちゃんの応援歌・マー姉ちゃん・いだてんを見ていたら容易ではないと感じでしまう >>21
でも時代考証の先生がそう言ってるからなあ
上の話で言ったら、むしろ大阪出身者の部隊は志気が弱くないと理屈に合わないし ひまわりに松嶋菜々子の親友でオノマチにそっくりなOLがいるな >>28
ツンツンは上海から無事に帰ってこられたみたい。旦那さんも復員できたんだって
でも戦後は「ゆっくり会うひまもなく、やがて十なん年前、叔母の訃報を聞いた。はかない薄い縁であった」と2003年頃に田辺さんが書いてる
ちょっと寂しい話だけど姪が流行作家になったのに別にすり寄っていかないところがツンツンらしいのかも >>16
亡き父も「負け戦なのに馬鹿らしいと思っていた。戦争に呆れてる人と、日本は負けるはずがないが2分化していた」って言ってた
後者は戦況が悪くなるにつれて、半狂乱になっていき手がつけられなかったって 隣のカフェローズは閉店してるね
カーネーションのCafe太鼓は名前を喫茶太鼓に替えて営業していたが
その太鼓も吉田屋が倒産した昭和19年には政府のお達しで閉店してた
同じカフェでもカフェローズは商売の種類が違うから「薔薇」に替えたらOKでもなく
とっくに閉店させられたのだろう
町子がいくつの時だったのだろう、その時の町子も見たかった 軍国少女は頭でっかちで可愛げなくて好かん
反戦主義の方が健気で惹かれるよ >>29
「激弱で有名だった」のは事実だけど
実際には激弱だったという事実はないということだよ >>37
意味分からん
上の理屈から言ったら弱くて当然だし、事実じゃなかったら有名になりようがないだろ
「全ての部隊が弱かったとまで確定されてるわけではない」とかいう話ならまだ分かるが 動きのある演劇の写真撮影って当時のカメラでは
シャッター速度と露出の兼ね合いがむずかしかったろうな 知っている方が歌舞伎や文楽とかの伝芸をも含む舞台写真家だけど
舞台写真の専門家に助手として長年ついて修行してたなぁ
お父ちゃんは爺ちゃんの「もうけ、もうけ」を良く思っていないけど
だんだん家族写真を撮る人もへり出征兵士さんの写真を撮るようなことも
時勢的に困難になるかもしれないし
あの立派な写真館と家族の生活を守るためにって思いなんだろうな
でもじっくり撮影にむきあいたいお父ちゃんの気持ちもわかる 4年梅組と本人が言ってるのだから、わざわざ年齢聞かなくても 写真館自体はどうなったのかな
しげる(城島じゃない)はどうなったのかな >>43
最初の頃の回想で説明済みだよ
写真館は空襲で焼け落ち、父もその年の暮れに亡くなった なにもかも灰燼と帰してしまうんだな
来週は暗い週になりそうだな >>38
調べもせずに誰かが言ってるから事実に違いないとか
この理屈からいけばそうに違いないという思い込む奴が
たくさんいれば事実無根の話でも事実として広まるだろ >>49
再建できなかったのはまだ明かされてない事も >>48
そもそも「強い」「弱い」自体が曖昧な評価なんだからそこはどうでもいいだろ
大阪人は合理的だから自分達の命を優先して考える、という証言がいくつもあるねという話じゃん キクちゃん、尼神インターの誠子に似てる
学徒出陣は盛大な壮行会した昭和18年が始まりと思われてるが
実際は昭和16年から始まって大学生や専門学校生は出征してる
昭和17年には高等学校も対象になって、二十歳になってる生徒は卒業繰り上げで10月に出征してる >>50
前に弟がどこかから昔の花岡写真館の写真袋もらってきて懐かしがっていたっけ
浦田くんも店出したりもしてないのかな完全になくなってしまったなら残念 >>52
昭和16年と昭和17年の学徒召集は就業年限の短縮措置だけど、昭和18年は即時召集
入学したとたんに召集されるのもあり 信次にいちゃんは学徒動員で神宮行進して戻ってこないんだろうな 従兄を男性として意識して、憧れから恋愛感情に変わって。
そこから紆余曲折を経てカモカのおっちゃんという相手に行き着くとは、人生は本当に分からない。 >>60
小学生町子の時は面白かったのにね
やっぱり戦争はつまんなくなるね 戦争見るの嫌いという人は仕方ないけど、芋たこの戦時描写は朝ドラ屈指のクオリティだよ
前半のクライマックスだと思ってるんだけど
今はまだ平和なうちだから淡々と進むけど印象的なシーンがいくつもある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています