源義経=チンギス・ハン説を議論しよう
高木アキミツの成吉思汗の秘密を読んだのだが、義経がチンギスになった可能性はあったのだろうか?
俺は衣川で死なずに逃げ延びたぐらいはあったと思うのだが。 >>83
ヴォォォォーイッ!?
北条政子が吠えてます(>_<) >71
使うてば。匈奴時代にはすでに猛威振るってる。
「騎馬に乗りながら背面に射る」だけなら日本も源平合戦のころにはすでにあった。
が、鎌倉武士は軽装騎兵ではないし、騎兵のみの軍団による包囲殲滅戦法なんか
しなかっただろうが。 軍備は変遷がある。
モンゴル軍も
騎馬だけから、城攻め武器も使った軍団に代わっている。
地域の特性にあわせて、かえてもおかしくない 義経=ジンギスカンは無理があるにしても、今で言う軍事顧問、兵法を編み出したのは同根の人種かもしれません。
高木氏の本にある通り、平泉の富の源泉がどこから来て、どこに消えたのか?本当に興味があります。
私は藤原3代の前の安倍氏に、その影響を見ますが、彼らは前9年の役後も結構生き残っているんですよ。
黄金はもちろん、鉄、交易品の数々は、吉次に代表される武装商人によってもたらされたのは確実でしょう。
彼らの行動範囲が、どこまで広がっていたのか。
最近、奄美の喜界島で、同時期の遺跡が見つかって大騒ぎになっています。
中尊寺に使われている夜光貝の産地は奄美産の様子ですので、ここすら武装商人団の1拠点だった可能性があります。
義経というより、この交易集団の範囲&行方が判れば、大陸への逃避行くらい何でもないかも知れません。 90
光秀=天海説
は、私もかなりそう思う。
これでスレたててほしい。
89勉強になります。・
>>90に同意
義経がチンギスか・・・・・・
それより安彦良和先生の安東(あんとん)
面白いぞー 日本て恥ずかしいね
義経をチンギスハンって言ったり
小野小町を世界の三大美女のうちに勝手に数えてるし
ってか義経=チンギスハンは同一人物と証明できますか? おまいら日本の歴史人物を韓国人起源だと言われて怒るくせに
モンゴルの英雄に日本人起源なんて言うなよ
モンゴル人聞いたら怒るぞ
>>103
日本人は特別な存在だから、日本人起源はとても名誉なことなんでしょうw トンでも論は日本では主流にはならんよ
だからこそファンタジーはファンタジーとして楽しむのもあり
まぁ江戸の講釈もんに癇癪起こしても始まらんだろ。
と思うくらい、江戸時代の義経像は高かったらしい。
実際はその下地を生かして幕府を貶めようとした明治期あたりだろ。
だからこの伝説は復讐をテーマにしてる点で単なるマンセーじゃないってとこだな w 元の記録では鎌倉幕府との戦闘(元寇)の他に蝦夷地のアイヌとも戦闘したという記録があり、
現に海を渡りアイヌと戦闘したとか、逆にアイヌが海を渡り、モンゴルと騎馬戦したという記録がある。
だから、源義経=チンギスハン説ではなく、更に北方に落ち延びてアイヌにかくまわれて、
アイヌを鍛えたと見るほうが適切ではないか? チンギスハン=本能寺で逃げ延びた信長説を強くもってた時期もあったが、
モンゴルに失礼なので流石に捨てた。 ヌルハチと相撲とって舎弟にしたり、イワン雷帝と一戦交えたりした後、
ラストはインディアンの酋長になったアレか? >>109
いや、あれはクビライがモンゴル皇帝を名乗った1260年に樺太アイヌらしい「骨嵬」とかいう
連中が、間宮海峡を渡ってアムール川周辺にいてモンゴル帝国に帰順していた女直などの現地住民を
襲撃して来たんで、彼らがモンゴル帝国側(クビライの方だったと思うが)に救援要請を出したのが
きっかけ。
クビライ政府側がたびたび起きる襲撃を対して、メインの対カイドゥの中央アジア遠征とか南宋遠征、
日本遠征などの合間を縫って応急処置的に現地の女直などの兵力を編成して迎撃に当たらせていた。
最終的に弘安の役が終わったクビライの晩年に再び女直などを中心に編成した兵力一万ほどを狗橇
(イヌゾリ)に載せて凍結した間宮海峡を渡って樺太に侵攻させ、当地の「骨嵬」の勢力を討伐して
臣従させた、ってことらしい。あとで樺太に軍を駐留させたそうだが、騎馬部隊はどうだったろうか。
>>110
これについては論文がある。主要典拠は『元史』と『高麗史』だったと思う。
中村和之「『北からの蒙古襲来』小論―元朝のサハリン侵攻をめぐって―」『史朋』26号 1992年 >>115
超時空戦国大名オダノブナガ。
姉妹作品に超時空太閤トヨトミヒデヨシ、超時空宰相コイズミジュンイチロウなどがあります。 超時空糞宰相ゴミズミジュンイチロウ
あんな日本をガタガタにした売国奴、非国民をおなじような場所に立たせるでない。 これ日本史板にあったスレやん。
何で歴史難民板にあんの? 新説・日本の歴史第21弾 義経北行説を検証する ttp://home.att.ne.jp/banana/history/Dai21-Yoshitune.html 義経=チンギスカン説は根拠を示さない朝鮮人の種々起源説と違って、色々それなりの根拠がある。モンゴルに失礼だというが、チンギスカンの生誕から青年期の記録が曖昧であることも確かである。
一方、義経いなければ平家は滅びなかったろうと言われるほどの軍事天才の義経が死んだ以降、客観的なチンギスカンの活躍が始まる。すなわちこの説を否定するアリバイがない。そして、この説の根拠は私が記臆する限りこれだけある。
1義経の首が夏のあついさかりに一月もかけて運ばれたこと(義経の首の判別が不能)
2義経の身代わりになった伝説がある
3義経の北行伝説がある。(この場合、数騎の移動では伝説にならない。かなりの数の移動があったと考えられる)
4チンギスカンはモンゴル人ではなく外国人である可能性がある
5旗揚げの時、九本の白旗をあげた(源氏は白旗、義経は九郎判官と呼ばれた)
6チンギスカンの鎧は鉄でできていた(これはチンギスカンの軍隊が鉄の鎧を着ていて強い軍隊であったことを予想させる。ちなみに旧来のモンゴルの鎧は革製であった。)
7チンギスカンは漢字が読めた
8チンギスカンが作らせたモンゴル文字は50音順に近い。しかも,日本語のかなと同じものがいくつか含まれている(ただし多くの文字はウィグル文字を基本としている)
9チンギスカンの作戦が義経の作戦と似ているところがある
この他にも色々根拠があり,単なるこじつけではない。偶然にしてはあまりにもできすぎているような気がします。 モンゴルは親日らしい。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/MONGOLIA/kankei.html
>2004年11月に在モンゴル日本国大使館が実施した世論調査では、「日本に親しみを感じる」と答えた回答が7割を超えたほか、
>「最も親しくすべき国」として第1位になるなど、現在のモンゴル国はきわめて良好な対日感情を有する国となっている。
モンゴルは中国を嫌っているらしい。
モンゴルの極右勢力が過激な「反中」運動を展開―中国紙
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0721&f=politics_0721_005.shtml
>歴史的に何度も中国からの侵攻を受けたモンゴル国は、中国に対する激しい敵対心を抱いており、
>中国人がモンゴルで襲われるほどである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E4%B8%AD
>歴史的に中国との関係は悪く、今でも一部の民衆には反中感情がある。
>例えば日本人観光客が中国人に間違えられるとトラブルに巻き込まれ、
>中国関連の施設に「看板等に使用している漢字を3日以内にモンゴル語に変えなければ、強制的に撤去するかペンキで塗り潰す」
>という過激な内容警告文を出され、さらに独立記念日に活動家に襲撃される事もあるくらいである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD
モンゴル国の国際関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82
南に隣接する中国とは、伝統的に関係が悪い。「娘が中国人と結婚したら一家の恥」との通念が今でも通用しているし、国政選挙でも中国との関係改善の是非が争点になる。
モンゴルが漢字文化を一切受容しなかったのも、モンゴル人が中国人を嫌ったためである。
モンゴル人にとって「中国人のようだ」というのは最大の悪口となり、選挙でも「あの候補は家系に中国の血が入っている」というのは最大のスキャンダルとなる。
日本人を含めた東洋系外国人が、街頭で「中国人か?」と聞かれることはまずない。中国人は蔑称であり、喧嘩を売っていることになるからである。
通常であれば、「中国生まれのモンゴル人(または韓国人)か?」と聞かれる場合が多い。ただし、日本とはまだ縁遠いため、日本人かと聞かれることは少ない。
モンゴル人と中国人との衝突事件、あるいは中華料理店に対する襲撃事件は、ニュースにもならないほど日常的に起きている。
学校教育で、中国人に敵意を煽る教育は行なわれていないが、家庭教育で敵意を植え付けている場合が多い。
モンゴル人の子どもが語る「学校の怪談」でも、中国人による殺人事件が頻繁に登場する。
現在、中国人が嫌いなモンゴル人は9割、好きなモンゴル人は1割と言われる。
衣料品や、家庭電化製品は、中国製がほとんどであるが、モンゴル人は、「中国の商品は構わないが、中国人の思想が気に食わない」と語る。
確かに義経=チンギス。ハン説は私も若い頃には、馬鹿馬鹿しいと考えたが 類似点が
200以上も有っては嘘とも思えない チンギス。ハンがモンゴルで死ぬ時に残した言葉も
気になる 我 大命を果たし思うこと無し 故郷で死にたかったと言っている モンゴルが
故郷では無いと言う事 我はニロン族の出身なりニロン族のキャート族なりと言っている
ニロン族とは日本族と言う意味でキャート族とは京都族で有る それと源頼朝がチンギス ハーン
がテムジンの時にモンゴルに調査団を派遣している 何のための調査団か今もわからない
チンギス。ハーンが死んだ時 その巨体は一丈から八尺の並の体格に縮んだと書かれている
義経=チンギスハンは、俺の中では、もう確信になってしまった。 北条の支配に反発する武士が義経を追って、モンゴルへ渡って行ったと
いう事は、考えられないだろうか?
モンゴル騎兵と武士は流鏑馬ができるという意味で似ていると思うのだが。 チンギスハーンはある年の8月15日に死んだと伝えられているが不思議な事に。その日に
京都の鞍馬山では義経の霊を慰める祭りが行われる チンギスハーンが死んだ日に
なんで義経祭りがおこなわれるのか? 俺個人の考えかる知れないが チンギス ハーンを漢字で書けば成吉汗となる
これを訳したら吉を思って成功した男となる 吉(静御前)静よ俺は成功したど
訪ねてこいと言う意味になる
チンギスハンの墓を発掘したら不味いだろ
大した教育受けてないテムジンがあの戦術あの力量は有り得ないし
チンギスハンよりも側近部下がそんまま付いていたと思われるから厄介だ モンゴル人力士がほとんど日本人と変わらない
レベルで流暢に日本語喋ってるのを見ると、
逆に義経が数年でネイティブレベルにモンゴル語を
マスターしたとしても不思議はないと思う。 最近読んだ本に
「義経は小男、チンギス・ハーンは大男だから義経=チンギス・ハーン説はありえない。むしろ弁慶=チンギス・ハーンだ」
と書いてあった 一の谷、屋島、壇ノ浦で活躍した約200騎の義経の家来はどこに消えたのだろう。
馬の世話をする者を合わせると500人から600人の武者は義経をしたって
平泉まで向かった可能性がある。平泉にあった軍資金はどこに消えたのか。
吉野山で鎌倉の追っ手200騎に包囲された「義経かくれや」では、佐藤兄が身代わりになって
脱出している。
吉野山から平泉まで、うっそうとした日本列島を縦断して鎌倉の包囲網をかく乱して
脱出した一騎当千の武者たちが東北の田舎サムライに簡単に殺されるだろうか。 力道山は関脇まで相撲界で活躍してからアメリカに渡っている。イチロウも20代を日本球界で活躍してから
アメリカに渡って世界新記録を出して今も活躍している。
義経は15歳から20歳までの間、どこで何をしていたのだろう。藤原氏の勢力範囲は岩手から北海道にかけて
あったはずであるから、無駄に過ごしていなかったと思う。アイヌのホンカイ様伝説はこの時期のものでは
ないだろうか。もし、この時期のものであるならアイヌの中に義経をしたって家来になったアイヌ武者も
たくさんいただろう。 義経郎党は20歳代に日本全国北海道、東北、関東、中部、信越、近畿、中国、四国、山陰、九州
を駆け巡っていた。寝泊り、食料、馬のえさ、案内人はどうしていたのだろうか。
これだけ行動範囲の広かった武将は義経郎党だけである。
藤原秀衛は佐藤兄弟に相当の金塊を持たせたのではないか。一の谷の逆落としでは、馬のあつかいに優れた武将を
数百人必要とした。これらの武将の心をひきつけるには人格とオーラと資金が必要であったと思われる。
これらの武将が大物の浦で忽然と消えるとは、とてもおもえない。
ばらばらに分かれて平泉に向かったのではないだろうか、
家のあとを継ぐ者は地元に戻っただろうが、義経のオーラに魅了された剣に自身のある次男坊、三男坊は義経に夢をかけて平泉まで
追いかけただろう。
義経一党と泰衡の家来を合わせると3000騎4000騎になるから、少数で
大群を討つ義経戦法からすると十分鎌倉に勝つことが出来ただろう。
なぜ、戦わなかったのか。兄と弟だったからだとおもう。日本の歴史上、弟が兄を殺して天下を取ったことがない。
残るはひとつ消えることである。 鞍馬寺の本山は比叡山延暦寺である。延暦寺は天台宗であるから、当時も日本全国に天台宗の
お寺があったはずである。
鎌倉の追手からどのように逃れて吉野山から平泉まで約1000キロの山道を到達できたか?
稀代の英雄を20代の若さで失うのは惜しいと思い鞍馬寺の僧侶が延暦寺の僧侶に相談して
寺から寺えと駅伝のように逃がしたのではないか。寝泊まり、食料、道案内はすべて解決する。
寺であるから秘密も守られるし、鎌倉も手出しはできない。しかし、完ぺきではない。平泉に
到着すると、鎌倉もうすうすきずく、秀衛が存命のうちは手出しはしないが、亡くなるとそうはいかない。
鎌倉と一戦交えても所詮朝敵である。平将門の乱と同じで日本全国を敵にすることになる。
藤原氏の生き残る道はない。一か八かの考えで、義経の首を差し出し藤原氏は鎌倉に従うとの意思表示をして生き残りをねらった。
平家を滅ぼした鎌倉は、義経の首ではなく何かの理由をつけて藤原氏を滅ぼすことが定のうちであった。
どの道、義経と藤原氏は滅ぼされる運命にあった。こんなことは藤原秀衛は百も承知していたとおもう。だから子供のころから義経を
可愛がって平泉まで連れてきたのである。鎌倉も義経が生きていることは知っていたはずである。源平の戦いほどの戦はしなかったし、
泰衡の首はとったが、義経の怒りを買うほどのことはしなかった。 義経を慕って平泉の地へたどり着いた武将達は数百騎いたのではないかと思われる。これらの武将達の生活費は相当な金額であり、いつまでもやっかいになってばかりいられない、いずれはこの地を去らなければならない。
鎌倉と戦うにしても、自分達の身内と戦う事になるのでそんな事はしたくない。戦う事で自分を主張したい武将達にとって農業・漁業で生計を立てることは出来ない。戦いを探して他の地に行くしかない。
これまでに身につけてきた力を試してみたい、そこにその力を試す大きな大陸がある、軍資金の金は黒竜江の地にしこたまある。死の床で秀衛から渡された錦の袋の中にあった地図を頼りに少しずつ北海道に渡ったのではないだろうか。
北海道に渡った武将達は二手に分かれた。一方は弁慶を頭とした先遣隊であり、先に大陸に渡り足場を作っておく。北海道の西に小さな岬があり弁慶岬といい京都に武具を注文した弁慶がその地に立って船を待っていたと伝えられている。
一方は義経を隊長とした本隊で樺太に渡り、北上して尼港事件のあった地であるニコライスクに行き、砂金の宝庫である黒竜江の下流域で軍資金を確保して先遣隊である弁慶隊に合流する。
ニコライスクで伝えられている伝説として「この地にたどり着いた日本の武将がこの地を去った後、漢国の王様になった」というものがある。これは間宮林蔵がこの地の酋長から聞いた口碑伝説を北海道テレビが二十数年前ドキュメントとして放送していた。
大陸に渡ったが金に困って満州あたりで山賊として生き、山賊として死んだという説を聞いたことがある 十数年前、満州族の血を継ぐひとに「成吉思汗」の漢字を提示したら、チェンジースーハンとの答えが返ってきた。
高木あきみつ氏の「成吉思汗の秘密」の中に書いてあった「克羅」の漢字を提示したら、クローという答えが返ってきてその意味は「満州では成吉思汗のことをクローと呼んでいる」と、また「源義経」の
漢字を提示したら、「ウエイーチー」と答え、その意味は「満州の昔の歴史と地理の本の名称」だと言っていた。
そのひとは、お婆ちゃんが満州族の出身だといっていた。今はシナに同化され純粋な満州族は残っていないとも言っていた。日本で資金をためカナダへ移住して家族を呼ぶのが夢だと言っていた。
成吉思汗はウラル山脈を越え、ドイツの辺りまで攻め込んでいったようである。ドイツ人の成吉思汗に対する恐怖心は大変なものだっただろう。ドイツ人の事であるからただ恐怖心だけで何もしなかったとは思えない。
シーボルトが鎖国の日本にオランダ人に成りすまして訪れたのは、ドイツ皇帝の命を受けて成吉思汗の研究にきたのではないか。有名なシーボルト事件は日本の地図を海外に持ち出そうとした。
「恐怖のアンゴルモアの大王」が源義経である事を知っていて、それを調査してドイツ皇帝に報告してまた日本に戻ったのではないか。
先遣隊である弁慶隊はウラジオストクへ渡ったのではないだろうか。智謀の優れた弁慶がウラジオ辺りの部族と戦ったり懐柔したりして
足場を固め本隊である義経隊を待ち合流する。合流地点は黒竜江の中流域ではないだろうか。なぜか、義経隊が手に入れた黄金は数十トン
に及ぶと思われるからである。大量の黄金を一度に運ぶには船を使い、馬に引かせて上流に上って行くのが楽だし、大陸の中央上部に構えられる。
ちなみにウラジオとは、日本語(浦塩)ではないだろうか。ロシア語では「東方を征する」という意味らしいが、
ロシアが沿海州を手に入れたのは1860年の北京条約であるから義経の時代から約450年も後である。その地にはシナ人・アイヌ人・日本人の
東洋人(ツングース系)の人間が住んでいたのではと思われ、浦塩がロシア語の東方と言う言葉になったのではないか。
それからナホトカとは、国後(クナシリ)・択捉(エトロフ)・はば舞(ハバマイ)などアイヌ語ではないだろうか。
源義経のとてつもない才能を見抜いたのは、
5歳で平清盛が自分の子供と比べ比類なき才能を恐れたが、殺すには忍びなく鞍馬寺に預けた。
10歳で鞍馬寺と延暦寺の僧侶が認めて清盛との約束を破り、僧侶にさせるのではなく自由にさせた。
15歳で藤原秀衛が認めて平泉に引き取った。
20歳から25歳で一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで天皇及び日本全国の人々が認めた。
そして、30歳以後世界へと羽ばたき、アレキサンダー大王・フレデリック大王と肩を並べる大王に
なったのではないか。 義経ゆかりの地にはほとんど行きましたが、シナ大陸・樺太にはまだ行っていません。
これまでのところでこれは変だと思うところは列挙してください。 財布が立派なのに中に入れるお金が空っぽでは話にならない。財布以上のお金を入れるのが
普通である。中尊寺の金色堂の中のお経を手に入れるため、数トンの黄金をシナに送ったという
資料があるらしい。確認はしていない。 藤原三代のの栄華は黄金の力ではないだろうか。(高木アキミツ氏の成吉思汗の秘密より)源氏・平氏・藤原氏と日本を三分した栄華
が忽然と消えた。その後に東北どこかが繁栄したのであれば問題ないのであるが、今日まで繁栄した形跡がない。繁栄の重要な条件の
何かがなかったと考えるしかない。昭和50年代から60年代の日本の繁栄は世界のお金が日本に入ってきたからである事を考えると、
藤原氏の栄華の元は黄金ではなかったか。その後その黄金の供給が途絶えたので周到をむかえたと考えるのが正しい解釈ではないだろうか。
今日、日本は未曾有の不況に陥っているが、その原因は日本にあったお金がみんな中国に行ってしまった(円高)から起きている現象である。
どこかが出っ張れば、どこかがしぼむ。藤原氏がしぼんだあと出っ張った所はどこかを考えたとき、日本国内の源氏は異常に繁栄して黄金の
お寺を作ったという記録はない。日本国内になければ外国と言う事になる。即モンゴル帝国の繁栄と言えば、飛躍しすぎるかも知れないが、
ジンギスカンの初期の遠征費用・武具などの軍資金はどこから出ていたのだろうか。一回の遠征費用は莫大なものである。敵のものを略奪
しただろうが、はたしてそれだけでまかなえただろうか。自分達にも死傷者が出ただろうからモンゴル兵が段々減って言ってしまう。
略奪・虐殺ばかりしていたら恨みを買ってその後の統治が出来ないし、新たな侵略も出来ない。スパイを入れたり、敵の中を金で懐柔したり
しただろうから莫大な軍資金の後ろ立てが必要であったはずである。
最初からジンギスカンには軍資金があったと考えるしかない。藤原氏に供給されていた黄金が何時からかジンギスカンに供給されるようになった。
その供給源は黒竜江の下流域であり、現在でも世界の金の生産高の多くはシベリアの地と言われている。
これでジンギスカンの世界制覇の能力・兵力・資金の三大要素が解決したのではないだろうか。
私の実家は日本初の荘園と言われている所のど真ん中です。
国道をつくるということで、私が小学校の時から土地の買い上げが始まりました。
買い上げから完成まで50近く経っていますが、まだ完全には完成していません。
それは発掘があったからです。学生の時、アルバイトで発掘に参加しましたが、
古墳時代にものがいろいろ発掘されました。そのなかで鎌倉時代のものは祖母から
聞いていたこととある程度一致していました。口碑伝説なるものはバカにできない
ものであると感じました。
源義経が成吉思汗である証明が完成するのには、後10年かかると思っています。
それは証明のしようがないし、証明したからと言ってもだから何なんだで終わりだからです。
ノストラダムスの予言「アンゴルモアの大王の復活」によって証明されるのではないかと考え
ました。この予言は人類の滅亡と考えられていましたが、見事にはずれました。
私はこの解釈を人類の滅亡ではなく1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見から
500年続いた白人支配の終わりと考えたからです。
1999年7の月を7月のある日に清和源氏の血を引く義経の生まれ変わりが誕生した。
「アヌスがその前後平和の名の下に支配するだろう」をアメリカが前後10年世界を支配すると
解釈すると、1989年が共産主義の崩壊(ソ連の崩壊)、2010年が資本主義の崩壊(黒人大統領オバマの出現、
日本の原発事故など)となります。資本主義を支えたエネルギーの危機により、これから10年
世界は混沌とした時代になるのではないでしょうか。その後に何かがあり、そして証明される。 1999年7の月のある日がアンゴルモアの大王の誕生日という所までは同意見です。
ただノストラダムスはチンギス・ハーン=源義経説など知らなかったでしょうね
あまり関係ないけど1999年7月といえば朝青龍が三段目に昇進した月ですね(白鵬は2000年10月25日に初来日)。 1992年の宮沢総理の頃でした。TBSのテレビ番組で次の総理は誰でしょうというものでした。
小沢一郎氏、羽田つとむ氏、伊東正義氏、梶山静六氏、小淵恵三氏など、その当時の次期総理候補を
10人くらいのパネルを出して東欧の予知能力のある婦人が当てるというもので、これはおもしろいと
思って観ていました。
その婦人の見立ては「次期総理はこの中にはいません」でした。アナウンサーがびっくりした顔で橋本
龍太郎氏を指して「この人ではないですか」と質問したら、その婦人は「この人は総理に成るかもしれないが、
次期ではない」との答えでした。呆れた顔をしてアナウンサーは早々とコマ―シャルにしました。
その後に次期総理になったのは、当時熊本県知事のパネルになかった細川護煕氏でした。
その時を思い出して予言者なるものは「何かを持っている人」なのだと思うようになりました。
それから、その婦人は「将来世界が混とんとした時代になるが、その時日本人の中から世界を救うひとが現れるだろう」
と、アナウンサーが当時騒がれていた「オウムの麻原か?」と質問したら、「いや違う人だ」と答えました。
はたして婦人の予言が当たるか?
予言どうりに世界が動いたとしたら、これから混とんとした時代が10年くらい続くことになる。 チンギス・ハンは地元民に「クロー」と呼ばれていた
九郎とは源九郎義経と同じ呼び名である
「大男チンギス・ハンは死して小男に戻った」的言い伝えがあると
読んだ本で覚えてるのはこのくらいで大半忘れた 数年前に見たお話では、義経氏は不老不死でまだ生きてるって・・・。
ごめんなさい、オカ板に帰ります。 成吉思汗の孫であるフビライは元の都大都の紫禁城で中心的宮殿の名称を
「太和殿、中和殿、保和殿の総称。紫禁城の中心的建造物。外朝三殿ともいう。」
としたようである。
清朝の愛新覚羅氏も北京の紫禁城でその名称を継承している。
ところが、中華民国の初代総統である袁世凱は総統としての初仕事として行った
ことはその名称の変更であったと言われている。
これらを合わせると清和源(元)氏ということになる。
高木アキミツ氏の著「成吉思汗の秘密」では、成吉思汗を日本読みすると「吉成りて汗思う」
となり、それは「吉野山の約束を果たしたが、それでも静のことを思っているよ」となる
ようです。
清朝の愛新覚羅氏を日本読みすると、「新しきを愛し羅を覚える」となる。
羅とは「克羅」クローであり、「我らは成吉思汗の子孫である」となる。
元王朝は明のため万里の長城の外に追われたが、その血は女真族に継がれ
英雄ヌルハチの誕生となった。
当時、シナでは日本は和国・倭人と呼ばれ、その旗印は日の丸であったようである。
昭和も和であったが、アメリカを中心とする白人の非情な日本つぶしによってトタンの
苦しみをあじわされた。
日本では、1000年に一人大英雄が現れるようである。
東日本大震災も1000年に一度の大震災であった。そろそろ1000年に一人現れる
大英雄が生まれてきてもいい時期になっているのではないか。 また朝から爆笑
http://www13.ocn.ne.jp/~t-adachi/no_7.htm#3
>東部西比利亜及び満洲等を旅行して彼地に日本式の古い神社の在ること及び笹竜胆の紋章を用ゐ居ると且つ満洲人に姓を源と名乗る者が多いと聞くこと等である。
>ハバロフスクの博物館には其の地方より發掘したといふ日本式の古き甲胄の一部及び笹龍膽と木瓜の紋章がある朱塗の古き経机があるといひ、或はハバロフスクに以前義経を祀った神社があったといひ、興安嶺にも日本式の神社があるなど一々枚拳に遑がない。 先の大戦において、山本五十六氏は義経の鵯越の奇襲を参考にして真珠湾を奇襲攻撃
したと思われるが、義経と山本氏ではその器量に格段の差が有った。
私ごとき凡人が批評するのは変であるが、稀代の英雄義経と山本氏を比べるとその才能の
大きさが天と地ほどの差があったようにおもえるからである。
山本氏は何をもって日米戦の勝利と考えていたのか。義経は平氏を滅ぼし三種の神器を奪取する
ことを完遂してその勝利と考え、それに向かって作戦を考えて一の谷・屋島・壇ノ浦で戦って勝利した。
山本氏は真珠湾の奇襲の勝利だけである。
孫子の兵法にも敵の愛するものを奪えとある。ワシントンのホワイトハウスを占領してルーズベルト大統領に
降伏文書の署名をさせなければならなかった。
三たび爆笑
http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=henjin&dd=16&re=126
http://www2.ezbbs.net/16/henjin/img/1233055965_1.jpg
>・黒竜江の沿岸に日本人が鎌倉時代に創立せる永寧寺あり
>・ハバロフスクに笹竜胆の紋を着ける武像を祀る廟あり
>・小興安嶺における日本人の古蹟
>・満州人源姓を名乗り義経の後裔と称す
>・興安嶺に日本式の神社存在す
>・北満州の王稜に笹竜胆の紋ある墳墓あり
http://electronic-journal.seesaa.net/image/82P82U82S82S8D86.jpg
昔見た時、モンゴル紋はドコが笹竜胆だよ全然違うだろとしか思わなかったが
あらためてよく見るとそうでも無いな
源氏紋の中央の花すぐ下の小さな○の辺り
この辺が下へ押し出される様に降りてくるとモンゴル紋になるのか、なるほど
モンゴル紋の○は日の丸とか小谷部がトンデモ言うから先入観持ってしまって今まで気付かなかったわ 9月15日に鞍馬寺で義経の法要がある。(700年以上毎年欠かさず行われているとのことである)
興味のある人は行ってみるといいでしょう。
五条の大橋から15歳の子供が奥の院まで走って帰ってきたらしい。
剣術の道場主の娘をたぶらかして兵法書を読み漁ってたらしい。
社務所の係りの人の言では、山道を走って帰ってきたとのことである。
9月15日に鞍馬寺で義経の法要がある。(700年以上毎年欠かさず行われているとのことである)
興味のある人は行ってみるといいでしょう。
五条の大橋から15歳の子供が奥の院まで走って帰ってきたらしい。
剣術の道場主の娘をたぶらかして兵法書を読み漁ってたらしい。
社務所の係りの人の言では、山道を走って帰ってきたとのことである。
大英博物館の成吉思汗像にも笹竜胆あるって話
話だけで画像見た記憶無いわ、ホントにあるのか?
1.藤原三代の栄華の後ろ盾は何だったのか?
2.その後栄華が続かなかったなぜか?
3.義経騎馬隊の資金源(馬のえさ、行軍費用)はどこから調達したか?
4.成吉思汗の軍資金の謎(数万の兵を数カ月から数年動かすには相当な費用が必要である)
秀吉は小田原攻めのとき、町をつくってしまった。
謙信は農繁期には地元にかえったし、佐渡銀山もあった。
信長の後ろだては堺の商人だった。
毛利の後ろ盾は石見銀山だった。
5.モンゴルにはその後英雄はでないのか? 孫文がイギリスのロンドンに留学中、日露戦争での日本勝利の報を聞いて喜び外へ出たところ、
日英同盟のイギリス人は暗い顔をしてうつむいていたと言う話は有名である。
白人が世界の覇権を握ったのは産業革命以後である。それまではイスラムの方が強かった。
ノストラダムスの予言が白人の世界支配の終わりであると心のどこかできずいていたのではないか?
そして、成吉思汗が日本人であるときずいていたのでは?
だから、ポーツマス条約では満州の地を日本ではなく清朝に帰属させた。そして、オレンジ計画で
日本滅亡の計画を立て実行した。ところが共産ソ連の台頭によりその計画は頓挫した。
皮肉な事に共産ソ連をつぶすと日本が復興し、日本をたたくと今度は共産中国がその牙をむいてくる。
そうしているうちにアメリカ自体が混血アメリカ人に支配され身動きできなくなってきた。
小谷部全一郎氏「成吉思汗は義経なり」P268
「成吉思汗の子孫54代の時に日本から蒙古に再現して蒙古を救うと言う予言もある」
54代とは、どういう数え方なのか解らないが、日本の天皇陛下が125代で2670年
であるから約1000年と考えれば、そろそろ現れてもいい頃である。 予断であるが、東ジャワに「ジョヨボヨ王の予言」と言うものがあり、1942年にその予言が実現された。
その予言とは、白い杖を持った白人に奴隷にされていたジャワ人を北から来た黄色い人々が解放してくれるといった
ものだったらしい。
10年ほど前に、源義経の文字を提示した時に吉林省出身の満州族の血を引く女性はウエイーチイと読めたが、
西安出身の男性と福建省出身の女性は読めなかった。
言い伝えとか伝説とか予言とかは、その地方・部族に細く長く伝わってゆくのではないだろうか。
そして、その中にひつこい人がいて何かに書き残してある。
東日本震災の津波についても、ここまで逃げるようにとの石碑があったようである。
地震から数十分あとの津波であるから石碑を知っていた人々は助かったはずである。 義経の日本での大きな戦いは3つ、一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いであるが、
その中で義経の天才的な才能が発揮されたのは屋島の戦いだと思う。
一の谷の勝利を確信して戦う前に平氏一党が屋島に逃れることを予測して次の一手を打っていた
いたからである。