>>310-311続き
昭和に書かれた高木『成吉思汗』から更に遡ると
大正期の小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』
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清朝時代の駐清英国公使デビス著清國総録に記して曰く、成吉思汗の孫、忽必烈の子孫は明朝の為に放逐されて満洲の故地及び蒙古に逃れ、酋長の女と結婚して諸公子を生んだ。
彼等は朔北に割拠して勢威を振ひ、後に大拳して明朝を亡ぽし、國を清と號した。清帝を成吉思汗の孫、忽必烈の裔なりとするのは、けだし是れが為である云々と。
苛くも時の駐清大英国公使たる責任の地位にある人が、清朝時代に清帝を成吉思汗の裔なりとその著書に発表するには確乎たる論證に拠ったものであろう。斯のように清朝は成吉思汗の裔苗であること外書に明記している
http://www13.ocn.ne.jp/~t-adachi/no_1.htm#4