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源義経=チンギス・ハン説を議論しよう

0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/02/12(月) 17:31:04
高木アキミツの成吉思汗の秘密を読んだのだが、義経がチンギスになった可能性はあったのだろうか?
俺は衣川で死なずに逃げ延びたぐらいはあったと思うのだが。
0306名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/04/26(土) 00:13:29.71
http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/25560558.html
98: 日本@名無史さん 2001/11/27 01:14:00
>>93
滅ぼされた元の子孫、成吉思汗の末裔はどうなったのでしょうか。
実は、その子孫たちが明を滅ぼし清を建てたのだというのです。
イギリス公使デビスの『清国総録』によりますと、
『成吉思汗の孫、忽必烈の子孫は、明朝のために放逐されて、
蒙古の故地及び満州にのがれ酋長の娘と結婚して、諸公子を産んだ。
彼らはやがて勢力を増し、後に大挙して明朝を滅ぼし、国を清と号した。
清帝を成吉思汗の孫、忽必烈の後裔とするのは、このためである。』
となっているのです。
0307名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/04/26(土) 00:27:45.62

これも定番お馴染みだけど改めて読むと何だかなあ
出所を辿ると恐らく義経再興記辺りまで遡るんじゃないのか
だとしたら百年以上前のコピペが延々出回ってるわけで
このデビスって人や本、あるいはこの文が実在するのか
今まで誰も検証してないんじゃないのか
実際その辺って全然見たこと聞いたこと無いし
0308名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/04/27(日) 00:49:11.47
ちょっとメモ
このサイト、画像も充実してて初心者向けだけど
アフィ貼りすぎててやたら重いのが難点
下のサイトはテキストだけで軽い

成吉思汗の孫、忽必烈(フビライ)の子孫は、明朝のために放逐されて、蒙古の故地及び満州にのがれ、長の娘と婚して、諸公子を産んだ。
彼らは朔地に割拠して勢威をふるい、後に大挙して明朝を滅ぼし、国を清と号した。
清帝を成吉思汗の孫、忽必烈の後裔とするのは、けだし、このためである。
――デビス著、『清国総録』より
http://electronic-journal.seesaa.net/article/5940903.html
http://intec-j.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=155692206
0309名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/04/27(日) 01:18:29.70
そういえば
成吉思汗の父エスゲイが蝦夷海の訛りは
末松が言いだしっぺってよく言われるけど
ホエルンイケ+センシ皇后で池の禅尼ってやつ
これも末松の発見というか発明でいいのかな?
でもこのセンシ皇后ってソース何だろ?元史?
これもちょっと今まで見た記憶が無いな
0310名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/04/28(月) 04:03:09.38
以下、高木彬光『成吉思汗の秘密』から清国総録の部分
小説が手元に無いから正確そうな引用をネットで探してみた

イギリス公使デビス著の『清国総録』という本に、「成吉思汗の孫、忽必烈の子孫は、明朝のために放逐されて、蒙古の故地及び満州にのがれ長の娘と結婚して、諸公子を産んだ。
・・・彼らは(以下略)、後に大挙して明朝を滅ぼし、国を清と号した。清帝(愛新覺羅)を成吉思汗の孫、忽必烈の後裔とするのは、けだし、このためである」という文面が見受けられた
ttp://d.hatena.ne.jp/raita24/20110513/1305256679
イギリス公使デビスの「清国総録」の中に「成吉思汗の孫、忽必烈の子孫は明朝のために放逐されて、蒙古の故地及び満州にのがれ酋長の娘と婚して諸公子を産んだ。
彼らは朔地に割拠して勢威をふるい、後に大挙して明朝を滅ぼし、国を清と号した。清帝は成吉思汗の孫、忽必烈の後裔とするのは、けだし、このためである」の文章がある
ttp://kilkhor.cc.iwate-u.ac.jp/~hitoaki/cgi-bin/hw_form.cgi?FName=../hwi/ih85.txt
0312名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/04/28(月) 04:34:43.54
>>309の続き
ホエルンイケセンシでググるとセンシの漢字が分かった
http://www.eonet.ne.jp/~tajikara/Rekishi/yoshitune/yoshitsune.html
>ジンギスカンはこの母に宣懿〈センシ〉皇后という名をプレゼント

この宣懿も加えて更にググるともう一つ出て来たけど
http://blog.livedoor.jp/mumeikai/archives/2006-01.html
>成吉思汗は彼女の死に際し、「宣懿(せんい)皇后」の諡(おく)り名をした

ん?せんし?せんい?どっちだ?
0313名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/04/28(月) 04:47:45.23
試しにウィキペディアで探してみると宣懿皇后の項があった
読みは「せんい」が正しいのか、でもホエルンの話は何も出てないな
ホエルンの項にも宣懿のことは書いてない

宣懿皇后 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E6%87%BF%E7%9A%87%E5%90%8E
ホエルン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3

読みは「せんし」じゃなかったし、ホエルン=宣懿皇后のソースも不明なまま
ホントに成り立つのか、「イケ+センシ=池の禅尼」説ってw
0314名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/04/29(火) 02:11:10.06
>>310-311続き
昭和に書かれた高木『成吉思汗』から更に遡ると
大正期の小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』
これは>>305のサイト内で検索できた

清朝時代の駐清英国公使デビス著清國総録に記して曰く、成吉思汗の孫、忽必烈の子孫は明朝の為に放逐されて満洲の故地及び蒙古に逃れ、酋長の女と結婚して諸公子を生んだ。
彼等は朔北に割拠して勢威を振ひ、後に大拳して明朝を亡ぽし、國を清と號した。清帝を成吉思汗の孫、忽必烈の裔なりとするのは、けだし是れが為である云々と。
苛くも時の駐清大英国公使たる責任の地位にある人が、清朝時代に清帝を成吉思汗の裔なりとその著書に発表するには確乎たる論證に拠ったものであろう。斯のように清朝は成吉思汗の裔苗であること外書に明記している
http://www13.ocn.ne.jp/~t-adachi/no_1.htm#4
0315名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/04/29(火) 02:34:49.17
思ったとおり高木彬光の訳文はほぼ小谷部の丸コピペ
英国公使が根拠無く書くはずが無い(キリッってとこまで同じ
でもこれ小谷部が自分で読んだり訳したのか?
それとも小谷部もまた先行書の丸コピペなのか?
やっぱり末松著・内田訳「義経再興記」まで遡ってみる必要あるな
0318名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/05/01(木) 03:58:24.87
義経再興記の中の該当箇所やっと見つけた、ふう
原著の百六頁にあった

支那二駐在シタル英國(国)全權(権)公使「フランシスダビス」氏著支那帝國總(総)録中二曰ク
成吉思汗ノ孫、忽必烈ノ子孫、明朝ノ爲(為)メ二放逐セラレ東韃靼中二隱(隠)レ土人ト婚シ乃チ滿(満)洲諸公子ヲ生メリ
是レ天命ヲ受テ明朝ヲ亡ボセシ人ナリC(清)帝ヲ忽必烈ノ裔ナリトハ乃チ之ガ爲(為)メナリ云々
若シ此記事果シテ事實(実)ナラバ成吉思汗ハC(清)朝ノ遠○(祖)タラザルベカラズ
0319名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/05/01(木) 04:10:04.22
>>318の書き起こしは以下から
http://kindai.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F993759&;contentNo=57&outputScale=4
俺はGoogleブックスの再版PDFを落として読んだけど
複数ある近デジの中のこの5版が一番読みやすいかな

近代デジタルライブラリー - 義経再興記(1886 5版)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993759
義経再興記 - 末松謙澄, 内田弥八 - Google ブックス(1885 再版)
http://books.google.co.jp/books/about/%E7%BE%A9%E7%B5%8C%E5%86%8D%E8%88%88%E8%A8%98.html?id=_FjO5Rg-NlMC
0320名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/05/01(木) 04:27:58.46
うーん
>>314>>318を比べると基本的には同じなんだけど
末松・内田「是レ天命ヲ受テ明朝ヲ亡ボセシ人ナリ」
小谷部「彼等は朔北に割拠して勢威を振ひ、後に大拳して明朝を亡ぽし、國を清と號した。」
ここの部分がハッキリ違うかなあ
小谷部はダビスだかデビスだかの原著を読んで変えたのかな
0321名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/05/01(木) 11:47:24.12
>>316 これは愉快w
0322名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/05/01(木) 22:00:02.19
>>316
源義経の幼少期の逸話アニメいいね。
0323名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/05/02(金) 01:22:18.16
えーっと
>>306>>308>>310>>314>>318とコピペ元を遡ってきたけど
予想と違って末松・内田→小谷部の間に違いを発見
どうも清とか支那の総録という本も実在しそうな感じ
でもググってもそんな題名の本は出てこないしなあ
0324名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/05/02(金) 01:35:03.45
そういえば>>318までざっと見た限りでは
エスゲイやホエルンイケの語呂合わせも無かった
明治の本だし更に読み進めるのはもうキツイわw
再興記の現代語訳はネットには無いんだよな
0325名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/05/03(土) 10:46:39.55
>清帝を成吉思汗の孫、忽必烈の後裔とするのは、けだし、このためである。

ヌルハチがホントにジンギスカンの子孫なら
最初の国号が「金」なんてことはないだろうに。
ホンタイジがモンゴル帝国(北元)併合して皇位に就いたのが、
300年経つと曲解されて、そんなことなったんだな。
0326名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/05/07(水) 01:24:34.96
>>325
>ホンタイジがモンゴル帝国(北元)併合して皇位に
>300年経つと曲解
あー、なるほど
清とモンゴルってそういう関係だったのか
中国史とか知識無いから、全然考えたことなかったわ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%B8#.E7.94.9F.E6.B6.AF
天聡5年(1631年)にはチャハル部のリンダン・ハーンに勝利し、天聡9年(1635年)にはチャハル部を組み入れ、元の玉璽をリンダンの息子エジェイ(中国語版)から譲り受けた。
1636年、ホンタイジは玉璽を手に入れたことを機に、満州族・漢族・モンゴル族の三族から推戴を受けた。すなわち国王から正式に皇帝となり、国号を大清とし、併せて崇徳と改元した。
0327名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/05/07(水) 01:48:46.34
>>1もそうだけど
義経=成吉思汗説って高木彬光の小説から入る人が多いわけだけど

清と元の関係について小説ではまず
「清は満州族の王朝で元と関係無いでしょ」
とヒロイン役の大麻鎮子が突っ込んだ直後に
「いやデビス著の『清国総録』によれば〜」
と探偵役の神津恭介が言い張って強引に話が進むんだよな
0328名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/05/07(水) 02:23:57.45
そういえば
>>314のリンク先ではデビス清国総録の話のすぐ前で
「クロパトキン著、満蒙処分論」という本の話をしてて
この本は「クロパトキン 満蒙処分論」でググればすぐ出る
近デジでもGoogleブックスでも直接読める

一方、清国総録の方は定番コピペ以外に出てこないw
この本、たぶん邦訳されてないんじゃないかと思うけど
それだと原題が分からないから探し様も無いんだよな

(近代デジタルライブラリー 満蒙処分論)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951337
(Googleブックス 満蒙処分論)
http://books.google.co.jp/books/about/%E6%BA%80%E8%92%99%E5%87%A6%E5%88%86%E8%AB%96.html?id=JK1AusYTVYQC
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