北条政子 Wikipedia

本人が「北条政子」を名乗った事実は確認されておらず、あくまで後世の歴史用語に過ぎない[12][13]。

「政子」の諱(成人名、天皇に対する名乗り)は、夫の死から19年後の建保6年(1218年)、朝廷が従三位の位を授与するのに際して、位記などの文書に記載するため、3年前に死去した父時政の一字(偏諱)を取って授けた名前であり、それ以前の名前は不明[14]。嘉字(良い字)+子型の人名は官位を受けるときなどに名乗るもので、当時の社会通念上、出生名に政子とつけることはない[14]。幼名は鎌倉時代末期成立の『真名本曾我物語』では「万寿」、室町時代の『仮名本曾我物語』では「朝日」となっているが、信憑性は不明[15]。中世の女性は外向けには実名(幼名または諱)を名乗らないのが社会通念だったから(忌み名のタブー)、娘時代の呼称はおそらく「大姫」(在地領主の長女の意)、公文書には「平氏女」(たいらのうじのにょ)と署名していたと推測される[12]。

諱を受けた当時の一般的な呼称は「尼御台所」[14]。現代日本でも目上の人を呼び捨てにすることは非礼とされるが、この時代は実名呼称回避の慣習が特に強力な時代であり、二代目将軍源頼家ですら北条一門の実名を呼んだことが確執の一因になった程であった(『吾妻鏡』)[16]。親や夫は既に死去しているうえ、出家の身である彼女が日常的に法名や仮名 (通称)ではなく「政子」を名乗り、かつ人々に呼称された可能性はほぼ無い[14]。