宮本武蔵ってホントに強かったの?
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無敗伝説も自伝や身内が言ってるだけだから
吉岡家伝によると負けたのは武蔵らしいし
巌流島の巌流は佐々木小次郎の異名らしいし
客観的に強さがわかるものが無くないか 小次郎は60歳すぎの爺さんで武蔵は二十代だった
タイマンの約束なのにそれをみんなでボコボコにしたらしい 武蔵って強かったのかもしれないけど民衆からは軽蔑されてた気がする
勝てばなんでもいいなんて武士じゃない >>2
三十過ぎてからはほとんど戦ってなくて絵を描いたりしてたからな ヒクソン・グレイシーみたいなやつだろうな
強いは強いけど でも初戦は13歳で相手は剣豪だったらしいね
ソースは自伝だけど ガチ頂点だったのかは検証のしようもないけど
バトル偏差値が70超えてたのは間違いないのでは まあオスとしての格からしたら
為朝やら将門の従卒レベルでしかないわけだが 五輪書や独行道でそれなりの人物であったことはわかる
強さはきっと武蔵を尊敬していた大山倍達と同じ種類のものだったのだろう
梶原一騎に出会えなかったので天下は取れなかったが
まあ二刀流というのもよほど腕力がないと無理だからそう普及しなかったかな
あの長さの鉄の棒片手で振り回すんだからね 武蔵の養子・宮本伊織が書いた『小倉碑文』によれば、武蔵の父親の新免無二が吉岡と三度試合をしていて、無二が二勝一敗だったため「日下無双兵法術者」の称号を賜っています。その因縁もあり、武蔵は吉岡家当主の吉岡清十郎と闘うことになりました。
『兵法大祖武州玄信公伝来』によると、試合当日、武蔵は病気を理由に断りましたが、何度も催促が来るので、竹輿に乗って試合場に向かいました。
病気の具合を聞こうと覗き込んだ清十郎を武蔵は木刀で殴打。清十郎は板に載せられて弟子に運ばれました。治療後、清十郎は回復はしましたが、兵術をやめて出家。
なんでもありワロタ 確か普通に兵卒として戦にも出てるんだよね
ただしその時は何もできないまま投石で負傷したらしい バキ道読んだら
範馬勇次郎と同格レベルで強かったよ >>15
巌流島はもともと船島という名前で巌流というのは佐々木小次郎の流派で殺された小次郎が気の毒で巌流島と名づけられたらしい 真っ向勝負で強かったんじゃなくて不意打ちとかの先手必勝パターンで勝った人 みんな「うわコイツきたねえ」って引いてたんだろうな
だから強さが語り継がれなかった 武蔵の親父はなんかバタフライナイフみたいな十手の使い手だったみたいで親父のほうが強そう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています