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刑死者慰霊塔の近くに引越しするか悩む
0001名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/07(日) 14:59:10.73ID:Jkyvap/A0
大逆事件て知ってるか?

その犯人11人が死刑になった慰霊塔の近くに
綺麗なマンションがあり引越し悩んでる

市ヶ谷刑務所、東京監獄の跡地なんだよな
新宿の余丁町

スピリチュアル詳しいやつ、どうや?
0004名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/24(水) 10:36:02.90ID:zsG+0e0A0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 00.大綱序

生きとし生ける者たちは迷っているために、帰るべきわが家を知らないから、地獄や餓鬼や畜生(三趣)の世界に沈んで、四種の「生あるもの」(母胎から生まれる・卵から生まれる・湿気から生まれる・突然に生まれる)に生まれかわり死にかわりして、さまよい苦しんでいる。
如来は、そのような無知な者をあわれんで、その帰るべき道をお示しになったのである。帰り道には、まっすぐなものもあれば、まがったものもある。
しかし、密教のすばらしい車は、虚空を速やかに飛び越えて、この一生の間に、かならず到着することができる。
いま、この「大日経」を根拠として、真言行を実践する者の、心のありかたの次第を明らかにしてゆこう。


空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 01.異生羝羊心(いしょうていようしん) - 煩悩にまみれた心1

羝羊(雄羊)は動物の中で、もっとも性向が下劣で劣っている。それは、ただ水と草と淫欲とのみを思って、ほかに知ることがない。故に、インドの語法の上から、迷える者の類に喩えたのである。
大火事の家の中にいるような、八つの苦しみを直視しなければ、どうして「罪の報いとして、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちる」と信ずることができようか。

迷いの世界における、「生」「老」「病」「死」が四苦。
さらに、「愛別離苦(愛する者と離別する苦)」「怨憎会苦(にくむべき者と会う苦)」「求不得苦(求めても得られない苦)」「五蘊盛苦(肉体上・精神上の苦)」を加えて八苦。

身体の「悪しき、はたらき」には三種ある。殺すこと、盗むこと、男女の道を乱すこと。
言葉の「悪しき、はたらき」には四種ある。嘘をつくこと、ののしりの言葉を使うこと、二枚舌、うわべを飾った言葉。
意の「悪しき、はたらき」には三種ある。貪り、怒り、癡(おろか)さ。
以上のような、十種の「悪しき、はたらき」は、その一つずつが、みな「三種の悪しき世界(三悪道)」に至る原因となる。
0005名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/24(水) 10:36:28.31ID:zsG+0e0A0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 01.異生羝羊心(いしょうていようしん) - 煩悩にまみれた心2

・地獄趣
二つの八大地獄がある。炎と寒であって、たがいに通ずることはない。煮られ、ただれることは、魚や鳥のようであり、焼かれることは、いつの年に終わるのであろう。
極熱地獄は、「殺し」「盗み」「男女の道を乱すこと」「飲酒」「虚言」「偏見」「修行の尼に過失を起こさせること」の七悪による。
無間地獄は、「殺母」「殺父」「殺阿羅漢」「出仏身血」「破和合僧」という五つの重罪による。

・餓鬼趣
すべての餓鬼は、みな貪りや妬みが原因となって生ずる。さまざまな悪心によって、さまざまな悪業をつくり、飢渇の火によって、その身を焼かれる。
少しの食物も分かち、甘味を割き与える者は、そのままに、この災難から脱れることができる。

「正法念処経」に依る。――もし邪まな道を実践し、邪まな考えによる教えを説き、「これは真実である」と思って、正しい真実の教えを信じなければ、魔羅身餓鬼の中に堕ちる。

・畜生趣
畜生はどこから出現したのであろうか。もとはと言えば愚癡の人間である。
情も身もほしいままにし、聖人・賢人のいましめを信ずることがない。悠々たる彼の愚かな者は、これこそ畜生と生まれる原因である。
強弱たがいに食いあって、助けを誰にむかって呼べばよいのであろうか。

「正法念処経」に依る。――相随畜生というものは、誰でもが、ただ生死のために布施をなすとき、ついで二人ともに、「来世に再び夫妻となろう」という願いを起こし、のちに命命鳥・オシドリ・ハトとなって生まれ、多く楽しんで愛欲をなす。
0008名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/24(水) 10:37:17.52ID:zsG+0e0A0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 01.異生羝羊心(いしょうていようしん) - 煩悩にまみれた心3

・龍趣
「正法念処経」に言う。――法にしたがう行為をなす龍王の住む宮殿には、熱沙を雨降らさない。それは、前世において外道の戒をうけ、布施をするけれども、清浄ではない。
――善心をもっているので、時には雨を降らし、もろもろの世間の五穀をみのらせ、豊作の安楽を与え安穏にして、霰の災厄を降らさず、仏・法・僧の三宝を信じて、四天下に甘露の雨を降りそそがせる。
――理法にかなった行ないをしない龍王の住むところには、常に熱沙が降り、宮殿やその眷属を焼き尽くし、それらは滅してまた生ずるのである。

・阿修羅趣
「おもねり」「たかぶり」の心によって布施をする者は、死後、かならず阿修羅道に至るであろう。

「正法念処経」に言う。――あらまし二種類がある。1.餓鬼道におさめられるもの。2.畜生におさめられるもの。
――餓鬼道におさめられるものは、魔身餓鬼であり、神通力をもっている。信仰がなく、常に戦闘を願うものは、羅ご阿修羅の中に生まれる。
――種々の食物を破戒雑行の人に施して、心に正しく思念することがない。このように施しをした者は、陀摩ご阿修羅の中に生まれる。
――精進持戒第一の人が来るのを見て、その乞い求めに応じて一食を施し、「お前は下賤の人である、何の福徳があろうか」などと言う者は、鉢呵婆阿修羅の中に生まれる。
0010名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/24(水) 10:38:05.49ID:zsG+0e0A0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 01.異生羝羊心(いしょうていようしん) - 煩悩にまみれた心4

・人間趣(前半)
「華厳経」に言う。――殺生の罪は、生ける者を地獄・餓鬼・畜生に堕とすことになる。もし、人間界に生まれれば、二種類の報いを受ける。一つは、短命であること。二つは、多病であること。生命を傷つけ殺すからである。

「華厳経」に言う。――盗みの罪は、生ける者を地獄・餓鬼・畜生に堕とすことになる。もし、人間界に生まれれば、二種類の報いを受ける。一つは、貧窮であること。二つは、「共通の財産しかなく不自由である」こと。物を欠乏させるからである。

「華厳経」に言う。――邪淫の罪は、生ける者を地獄・餓鬼・畜生に堕とすことになる。もし、人間界に生まれれば、二種類の報いを受ける。一つは、「婦人が貞節でない」こと。二つは、「意にしたがう仲間がいない」こと。人の愛する者を奪うからである。

「華厳経」に言う。――虚言の罪は、生ける者を地獄・餓鬼・畜生に堕とすことになる。もし、人間界に生まれれば、二種類の報いを受ける。一つは、多く誹られること。二つは、人に誑かされること。誠実ではないからである。

「華厳経」に言う。――二枚舌の罪は、生ける者を地獄・餓鬼・畜生に堕とすことになる。もし、人間界に生まれれば、二種類の報いを受ける。一つは、悪い仲間を得ること。二つは、不和の仲間を得ること。人の親愛を離れさせるからである。
0011名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/24(水) 10:38:28.16ID:zsG+0e0A0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 01.異生羝羊心(いしょうていようしん) - 煩悩にまみれた心5

・人間趣(後半)
「華厳経」に言う。――悪口の罪は、生ける者を地獄・餓鬼・畜生に堕とすことになる。もし、人間界に生まれれば、二種類の報いを受ける。一つは、常に不快な声を聞くこと。二つは、「言葉を発するところに常に諍いがある」こと。もろもろの道徳に逆らっているからである。

「華厳経」に言う。――正しい意味内容のない言葉の罪は、生ける者を地獄・餓鬼・畜生に堕とすことになる。もし、人間界に生まれれば、二種類の報いを受ける。一つは、「何を言っても人の信用を受けられない」こと。二つは、「何かを言っても意味をはっきりさせられない」こと。みな愚かであることによる。

「華厳経」に言う。――貪欲の罪は、生ける者を地獄・餓鬼・畜生に堕とすことになる。もし、人間界に生まれれば、二種類の報いを受ける。一つは、多欲であること。二つは、満足に至らないこと。求めて厭くことがないからである。

「華厳経」に言う。――怒りの罪は、生ける者を地獄・餓鬼・畜生に堕とすことになる。もし、人間界に生まれれば、二種類の報いを受ける。一つは、「すべての人びとから常にその長所・短所を指摘される」こと。二つは、「常に他の人びとから悩まされ傷つけられる」こと。「他人を包容することができない」からである。

「華厳経」に言う。――邪見の罪は、生ける者を地獄・餓鬼・畜生に堕とすことになる。もし、人間界に生まれれば、二種類の報いを受ける。一つは、「邪まな見解の持ち主の家に生まれる」こと。二つは、おもねりの心を持つこと。正しい理法を知らないからである。

もし、よく悪に反して善をなす人がいれば、その人は、すなわち我が師である。
0012名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/24(水) 10:38:48.63ID:zsG+0e0A0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 01.異生羝羊心(いしょうていようしん) - 煩悩にまみれた心6

・羝羊外道
時間や物質要素や自在天が存在の本源だと考える外道、ヨガの実習で自我を究竟する外道、魂の存在を主張する外道、すべての存在は自然に有ると考える老荘、三十の大外道は、それぞれに、真実に迷い輪廻する。
仏教の中の犢子部と、および説一切有部との両部は、「過去・未来・現在の、三世を通じての実在がある」と主張している。
もし、「過去・未来・現在が実在している」のであれば、「数取趣(『さくしゅしゅ』と読み、『個体存在』の意)が存在している」のと同じであり、仏のお説きになった、三種の真理のしるし(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)に矛盾する。
インドのもろもろの菩薩が、種々の論を著して、これらの主張を論破している。
また、もし魂が輪廻の世界に遍在するのであれば、どうして、また生と死があるのか。
もし、仏教を信ずる人が、自らの心の、真実の姿を見ることなく、誤って認識し、それに執着すれば、「我あり」とする誤った見解と同じことになる。
0013名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/25(木) 10:09:46.59ID:MzCk+Yr00
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 02.愚童持斎心(ぐどうじさいしん) - 道徳の目覚め・儒教的境地1

愚童持斎心というのは、すなわち、人間としての存在(人趣)において、やや善なる心がきざし、迷える者が、自分の心の根底に本来、有する、仏の心に帰るはじめである。
あやまちを知れば必ず改め、賢人を見ては、「それと等しいものになろう」と思い、初めて因果の道理を信じ、だんだんと善い行ないと悪い行ないの、報いの結果にうなずく。

・六心
種子の心とは、「大日経疏」に言う。――世の中には、遠いはるかな昔より、今に至るまで、次第に伝え伝えられてきた、善と言われる物事がある。突然として、おのずから善に対する思いが生ずる。
牙種の心とは、「大日経」に言う。――「貪り求めるのを止めたことで、内に利益・安楽を得る」のを見て、「この善きことを実践して増大せしめよう」と思うから、自分の財として用いるものを捨てて、最も親しい人々に与えるのである。
疱種の心とは、「大日経」に言う。――また、これをもって見知らぬ他人にも施し与える。
葉種の心とは、「大日経」に言う。――また、この施しを「才能のすぐれた徳の高い人」に与える。すなわち、これは聡い性質が次第に開けて、正しい道理を説く者にめぐりあう理由である。
花種の心とは、「大日経」に言う。――音楽家や長老など、施すところの相手の是非を分けて選び取り、「その他の者のためになる」ことを見る。
成果の心とは、「大日経」に言う。――布施を実践して心が純粋に熟し、ただ歓喜するだけではなく、また、よく親しみ、慈しむ心によって、すべての、すぐれた行ないの人に施し与える。
0014名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/25(木) 10:10:28.59ID:MzCk+Yr00
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 02.愚童持斎心(ぐどうじさいしん) - 道徳の目覚め・儒教的境地2

・三帰戒
子牛に母牛がなければ、必ず死ぬことは疑いがなく、ヤマイヌや狼が、すべて走って、やって来る。
生けるものが仏に帰依しなければ、悪魔や鬼人が、みな、やって来て取り囲む。世間の道徳をたもって犯すことがなければ、来世に美名をはせる。
王は彼に語って、汝が恐れなきことを求めるならば、我が国境から出てはいけない。我が教えに違反してはいけない。必ず汝を救い護るであろう、と言うようなものである。
仏・法・僧の三宝に帰依し、仏の教えに違うことがなければ、悪魔に囚われることはない。

・五戒
そもそも五戒とは、中国の典籍にある五常の教えと同じである。すなわち、仁・義・礼・智・信である。
「あわれんで殺さない」のを仁と言い、相手を害なうのを防いで「男女の道を、乱すことをしない」のを義と言い、「ことさらに、心に酒を禁ずる」のを礼と言い、「清らかに思察して盗みをしない」のを智と言い、「道理にのっとった言葉でなければ語らない」のを信と言う。

「薩婆多論」に言う。――過去七仏中の第六の、迦葉仏のときに、在家の男性の信者がいた。彼は飲酒することによって他人の妻を犯し、他のものの鶏を盗んで殺した。他人がやって来て問うのに、「盗まない」と言って、嘘の罪を犯した。
偈に言う。――五戒は身をたすけて、人間界・天上界に生まれる果報を受ける。

・八戒
八戒とは、八斎戒の略で、在家の信者が一日一夜、守るべき戒めのこと。毎月の六斎日(8日、14日、15日、23日、29日、30日)に守る。
一には、生物を殺さない。二には、盗みをしない。三には、邪まな関係をもたない。四には、嘘をつかない。五には、酒を飲まない。六には、きらびやかに飾ることなく、歌舞を聴視しない。七には、高くゆったりとしたベッドに寝ない、という戒めである。

「善生経」に言う。「八戒を受ける者は、五逆罪(殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)を除いて、他のすべての悪はみな消滅する」と云々。
0015名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/25(木) 10:11:11.67ID:MzCk+Yr00
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 02.愚童持斎心(ぐどうじさいしん) - 道徳の目覚め・儒教的境地3

・十善戒
「正法念処経」巻二に言う。
――殺生と怨みとを離れて、慈しみを生ずれば、神々に守護される。死後、天界に生まれる。
――盗まず、「足る」を知って施せば、みな信頼する。死後、天界に生まれる。
――異性に対する邪まな行為を離れて、煩悩の心がなければ、自分の妻に満足し、もろもろの善きことを摂める。死後、天界に生まれる。
――嘘を離れたならば、すべての人はみな信じる。死後、天界に生まれる。
――二枚舌を離れた者は、親しい人とも、疎い人とも関係が確かで、「怨みによって破られること」はない。死後、天界に生まれる。
――悪口を離れて、やさしい言葉で語れば、人はみな安らかである。死後、天界に生まれる。
――飾った言葉を離れた人は、正しい言葉を説くので、世の中で尊重される。わずかに、やわらかい言葉で説くと、他人に理解されやすい。死後、天界に生まれる。
――他人の財産を貪らず、心に願わなければ、現世に珠宝を得る。死後、天界に生まれる。
――怒りを離れた者は、人びとによって愛し念われ、「恐ろしい悪処(地獄)に関係をもつこと」もない。死後、天界に生まれる。
――邪まな見解を捨てた者は、すべての煩悩という、害をなすものから、みなことごとく離れる。死後、天界に生まれる。

――このような十善の、上と中と下の部類は、小国の王と転輪聖王(理想の帝王)と三乗(「教えを聞いて」さとる声聞乗・「自分で」さとる縁覚乗・「他者をさとりに到らせる」よう努める菩薩乗)との、いずれかになるものである。
0016名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/25(木) 10:11:44.80ID:MzCk+Yr00
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 02.愚童持斎心(ぐどうじさいしん) - 道徳の目覚め・儒教的境地4

・不正治国王
「金光明経」に言う。――四天王は、ともに仏に申し上げた。
――もし人間の王があり、その国土に、この経典があっても、広まっておらず、よく聞こうと願わず、供養することがない。
――正しい理法を信ずることなく悪人に親しみ、国中の大臣と役人とが、へつらいとおもねりを心にいだいて、ともに、ことごとく非法を行なう。
――国を守護する諸天および薬叉は、国の領土を捨て去って他方に行く。国土に災害変事がたびたび現れる。

・正治国王(1/3)
「金光明経」の経文にしたがえば、国王の正しい政治には、かならず3つの条件がある。
1つには、怠けることなく有徳の人に親しみ近づく。2つには、正しい信仰をもって、この経文を聴聞し受持する。3つには、「王法を犯した者」を正しい理法によって罰する。

「王法正論経」に言う。――「国王の過失」とは、どういうことか。
――族姓が高くない。官僚のいましめにしたがうので、詩歌管弦の遊びを興さない。群臣の小さな過失を見て、重い法をもって刑罰を加える。
――群臣たちが仕え守ること清廉であっても、手柄に報いることが完全でなく、滞ったりして、ようやく与える。
――心のねじけた者の、おもねりの言葉を受け取る。さまざまな仕事を、国の法律の中において、委任するにたえない者に任す。
――恩賞を与えるべき者に刑罰を与え、刑罰を与えるべき者に恩賞を与える。
――慈(楽を与える)・悲(苦を除く)・喜(「他者が安楽を得る」のを喜ぶ)・捨(他者に対し愛憎など心の差別がない)の心をもって、広く救済する行為も起こさない。
――年老い衰えた、かつて親しみ仕えていた群臣に、階位・給与を与えず、捨ててかえりみない。五欲(財・色・飲食・名・睡眠)にひたすら沈み、慎むことができない。
0017名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/25(木) 10:12:18.40ID:MzCk+Yr00
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 02.愚童持斎心(ぐどうじさいしん) - 道徳の目覚め・儒教的境地5

・正治国王(2/3)
――「国王のすぐれた特性」というのは、どういうことか。
――王族に生まれ、あらゆる人民を恵み養い、仏・法・僧の三宝を浄らかに信仰する。これを、「族姓が高い」と言う。
――詩歌管弦の遊びを興し、命令が広く行きわたって、滞ることがない。
――群臣たちが、少々のあやまちを犯すことがあっても、よく許す。群臣たちに「大きな誤り」があっても、重い法律をもって刑罰せず、過失の軽重によって、あわれみをもって裁く。
――群臣の心が清廉であれば、時々、正しく円満な言葉でいたわり、恩賞をわかち与える。忠実で、潔白で、よく法律にしたがう人の進言を信じ用いる。
――何かをなすときには、よく思い、よく選んで、そののち実行して、また乱暴でない。
――群臣たちの集まりにおいても、意見の終わりまで、言葉を発して、「他の人の論」を中断させることなく、かならず待って論議を起こし、先王の教えのとおりに実行する。

――「王の衰え」とは、どういうことか。
――群臣たちの忠信・技芸・智慧の区別を、よくえらびとることなく、厚く位階・給与を与え、重ねて地位を与え、委任し、いたわる。
――この群臣は、財宝を浪費し、敵に遭っても逃げだし、主君を心配することもない。
――群臣の忠信・技芸・智慧をえらびわけても、位階・俸禄を与えず、相当する仕事を任せることがない。急難の時にのぞんで、諸臣たちに特別の位階を与える。
――群臣たちは互いに言う。「国王は、危険がせまっているので、我らにしばらく恩恵を与えようとしているが、長つづきする心からではない」と。
――国王がいて、国務などの事において、時々に独り、あるいは智慧ある士とともに、なすべき手だてを正しく考えず、布施や恩賞をなさず、戦時の任務を心におかない。
――国王がいて、王家・宮廷・庫蔵への人の出入りを禁じず、国家の秘密を婦人に向かって説き、狩猟や賭博に財宝を浪費する。
――国王がいて、清らかで聡明な沙門に質問し、教えを聞くことができても、そのとおりに修行しない。
――この国王は、「現世の報いを失い、来世には人間界・天界の福徳を失う」と知るべきである。
0018名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/25(木) 10:12:39.24ID:MzCk+Yr00
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 02.愚童持斎心(ぐどうじさいしん) - 道徳の目覚め・儒教的境地6

・正治国王(3/3)
――「王の愛すべきもの」とは、どのようなものか。
――すべての正しい事柄をはっきりと認識し、手段を講じて争うことなく反対派を包容する。
――倉庫の増減を考えて、物惜しみせず平等に、時候の様子にしたがって給与する。医者に食事の内容を聞いて、その指示にしたがって、分配する。

――「王の善き事柄を勤め修める」とは、どういうことか。
――国王がいて、王子・大臣と、ともに布施を実践し、受戒・瞑想をなし、護摩の息災と増益をなし、曼荼羅を建立し、灌頂を受ける。
――毎日、早朝に、この秘密主(金剛薩た)の教を、あるいは読み、あるいは唱えて、これによって修行する国王を、聖王と名づけ、法王と名づける。
――諸仏・菩薩・護法の神龍は、常に守護する。

・輪王
「順正理論」に依る。――「契経」に言う。「善王が、王族に生まれ、王位を継ぎ、仏の戒めを受けるとき、東方に(王を先導して敵を降伏させる)金輪宝が現れる」と。
――「同経」に言う。「七宝が世間に出現する。いわゆる輪宝と象宝と馬宝と珠宝と女宝(理想の妃)と主蔵臣宝(財政を担当する、有能な大臣)と主兵臣宝(すぐれた将軍)とである」と。

「起世経」に言う。――転輪聖王が歿すれば、七宝も、みな隠れてしまう。城はかわらと土に変わり、人民が減少して滅亡してしまう。

「十住毘婆沙論」に言う。――「聖位の菩薩の、十の修行段階」のうちの、「第二の境地」にいる菩薩が、まだ欲望を離れていないならば、転輪聖王となる。
0020名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/26(金) 15:16:42.07ID:IKfYN+/Y0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 03.嬰童無畏心(ようどうむいしん) - 超俗志向・インド哲学、老荘思想の境地1

愚かな児童のような心も、心のうちにある絶対真実の影響によって、苦を嫌がる。
仏の戒めを守って天界に生まれ、善を修めて地獄を脱しようとする。そうなると、下をにくむ心と、上を喜ぶ願いが、はじめて起こってくる。
嬰童(子供)とは、「初心ということ」から名づけられ、無畏(畏れなきこと)とは、「煩悩の束縛を脱すること」にちなんで名がたてられた。

・仏教以外の三宝と世間的な瞑想
「大日経」に言う。――これは天であり、すべての楽を与える者である。もし真心をこめて供養すれば、願いとするところのものは、みな満足する。
――いわゆる自在天・梵天である。誰でも、このようなことを聞いて、心に喜びをいだき、恭しく敬い、したがい、修行する。

これは、戒めを守って、仏教以外の三宝(仏宝・法宝・僧宝)に帰依することである。

「大日経疏」に言う。――戒めを守ることにより、現世でもろもろの恩恵を得て、名聞と利得のために心身が安楽である。死後は、天界に生まれることができる。

仏の教えの、すぐれていることを聞いて、帰依する。

「大日経疏」に言う。
――もし修行者が、正しく「原因と条件との意義」を理解せずに、瞑想を修めれば、自らの心に執着して、それを内的な自我だとする。
――世間の、すべての存在するものは、心によって存在することを見て、「神我によって創造された」と思うのである。
――深奥なる境地を求めれば、自我のみが独り存在する。あるいは、「すべてが空である」と観察する瞑想を明らかにする。
――このゆえに、かえって迷いの世界に堕ちる。これは、外道の、世間の人びとの瞑想である。
0021名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/26(金) 15:17:35.91ID:IKfYN+/Y0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 03.嬰童無畏心(ようどうむいしん) - 超俗志向・インド哲学、老荘思想の境地2

・十六外道
第一は、「原因の中に結果がある」と執われる雨際外道。
第二は、「本よりある存在が、条件によって顕れる」と考える、インド六派哲学の、精神・物質の二元論や、声常住論。
第三は、「過去・未来という時間が実在する」と考える、インド六派哲学の勝論や、バラモン教系の時間論。
第四は、「自我が実在する」と考える、ジャイナ教や、仏教部派の犢子部。
第五は、最高神イーシーカを祀る外道などで、「何か永遠なるもの」を考える。
第六は、「苦を生み出す、過去世の悪しき原因を消滅させる」と執れ、苦行を修める無繋外道。
第七は、「苦楽は、大自在天が原因である」と考える。
第八は、「肉を食べたいので、供犠は正しい」と討論する、五濁悪世の婆羅門。
第九は、「限界と無限界について瞑想する」が、有限の想念に住する。
第十は、「不死であるところの、秘密の天に仕えている」などと言う、四種の不死矯乱外道。四種とは、1.真理を会得していない者、2.思いあがりを起こした者、3.心境が確定できていない者、4.愚鈍な者。
第十一は、「すべての存在に原因はない」と考える無因外道。
第十二は、「自分が死ねば、何も存在しない」と考え、断を計する論者。
第十三は、「因果もなく、善悪もなく、聖者もいない」と考え、空見を計する論者。
第十四は、「婆羅門は勝れた族姓だが、他は劣っている」と考える。
第十五は、「沐浴・犬のマネ・裸形・苦行、あるいは、灰や油墨や糞穢を身に塗るなどの行為で、清らかになる」と考える。
第十六は、「吉祥の相を占う」と日月を供養する。
0022名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/26(金) 15:18:22.93ID:IKfYN+/Y0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 03.嬰童無畏心(ようどうむいしん) - 超俗志向・インド哲学、老荘思想の境地3

・瞑想の四段階と精神世界
初めの瞑想とは、「順正理論」に言う。――下方の段階である、欲望の世界を対象とするとき、粗大・苦悩・障害のうち、1つがあらわれる。上法の段階である、離生喜楽地(「欲望の世界の悪を離れる」ことによって生ずる喜楽を得る段階)を対象とするとき、静寂・殊妙・分離のうち、1つがあらわれる。

第二の静慮とは、 「順正理論」に言う。――第1段階の瞑想を対象とするとき、粗大・苦悩・障害のうち、1つがあらわれる。上法の段階である、定生喜楽地(瞑想によって生ずる喜楽の段階)を対象とするとき、静寂・殊妙・分離のうち、1つがあらわれる。

第三の瞑想とは、 「順正理論」に言う。――第2段階の瞑想を対象とするとき、粗大・苦悩・障害のうち、1つがあらわれる。上法の段階である、離喜妙楽地(妙なる楽を得る段階)を対象とするとき、静寂・殊妙・分離のうち、1つがあらわれる。

第四の瞑想とは、 「順正理論」に言う。――第3段階の瞑想を対象とするとき、粗大・苦悩・障害のうち、1つがあらわれる。上法の段階である、捨念清浄地(念慮を捨て去った清らかな段階)を対象とするとき、静寂・殊妙・分離のうち、1つがあらわれる。

「倶舎論」に言う。――上方の段階の瞑想において、下方の段階の汚染を離れているから、「解脱への道の、第九の段階の尽きるところ」が現れるときには、かならず上方の段階の瞑想に入る。

・三界の諸天
「戒めを守って天に生まれる」ということに、三種がある。一には、仏教以外の教えの護戒生天。二には、上座部仏教の護戒生天。三には、大乗仏教の護戒生天。
天界の分類に、三種がある。一には、欲望の世界である「欲界」。二には、物質世界である「色界」。三には、精神世界である「無色界」。
0024名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/26(金) 15:19:50.06ID:IKfYN+/Y0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 03.嬰童無畏心(ようどうむいしん) - 超俗志向・インド哲学、老荘思想の境地4

・欲界の諸天 - 欲望の世界
「起世経」に言う。――帝釈天の宮殿の外に、三十三天の宮殿がある。
「倶舎論」に言う。――次の生涯において、仏となることが約束されている菩薩は、都率天の中に生まれる。

十の善を修めることによって、下の部類は、星・月・日の天宮に生じる。中の部類は、四天王と、三十三天と、夜摩天に生じる。上の部類は、都率天と、化楽天と、他化自在天に生ずる。
欲望の世界の、六つの諸天は、みな煩悩の心がある。彼が、怠けることがなければ、この天の上に生まれ、もし怠ければ墜落するであろう。

・色界の諸天 - 物質世界
「順正理論」の第八十に言う。――上の階位の生を受くべき、現世の行為が、次の次の未来世に結果を受ける業をつくったのである。
――かの行為の報いがすでに熟して、まさに目のあたりに現れようとするとき、勢力がたかまって瞑想を起こさせることとなる。まだ下方の段階の煩悩が離れていない場合には、かならずしも上方の段階に生まれることはない。

無想天とは、「倶舎論」に言う。迷える者・仏教以外の者は、この瞑想による。
――彼らは「想念がない」ということに執われ、それを真実の解脱と考え、「煩悩から離れ出よう」という想いを起こして、瞑想を実習する。

瞑想は善であるから、かの天の報いを招く。無想天において死ねば、かならず欲望の世界に生まれるが、五趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天)のいずれかは不確定である。

・無色界の諸天 - 精神世界
「倶舎論」に説一切有部が言う。――精神世界には、物質的存在がないから、方向も場もない。
「瑜伽論」の五十三に言う。――精神世界の中には、瞑想の対象界としての身体があって、すべてを変ずる。

諸師の説くことが不同である。引用は右のとおりである。
空無辺処と識無辺処と無所有処との、「上ること」と「退くこと」とは、「怠けること」と「怠けないこと」とに、ほかならない。
非想非非想処の一つのところは、かならず下方に生ずる。矢を空中に射ても、力が尽きれば地上に落ちるようなものである。
0025名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/26(金) 15:20:17.82ID:IKfYN+/Y0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 03.嬰童無畏心(ようどうむいしん) - 超俗志向・インド哲学、老荘思想の境地5

・真言の密意
嬰童無畏心とは、「天に生まれる」という教えである。天乗には、二種類の理解のしかたがある。一には浅略的理解と、二には深秘的理解とである。
「大日経」に、「我はすなわち天・龍・餓鬼などである」と言う云々。言うところの我とは、大日如来である。
「大日経」に、もろもろの天・人・餓鬼などの真言がある。また、もろもろの世天などの、普明の心真言がある。

――ロキヤロキヤ(世間・暗冥・無明)キヤラヤ(智慧を作る)サラバ(すべての)デイバ(天)ナウギヤ(龍)ヤキシヤ(「夜乞叉」という名の、護法の神龍)ゲンタラバ(「健闥縛」という名の、護法の神龍)アソラギヤ(「阿修羅」という名の、護法の神龍)ロダ(「掲露荼」という名の、護法の神龍)キンダラ(「緊那羅」という名の、護法の神龍)マゴラギヤ(「摩呼羅伽」という名の、護法の神龍)デイ(等)カリダヤ(心)タヤキヤヤ(摂めて真理を会得させる)ビシツタラギヤチ(実践)ソワカ

すべての世間の「条件によって、生起するもの」の存在は、さまざまな色彩・形態・相をそなえている。
「一切万有は、本来、生起しない」ことを阿字が象徴表現する、と説く、その阿字門に入るならば、すべての相を離れることになる。
相を離れた相とは、「真実そのものを身体とする仏が、すがたかたちをとった色身」であって、曼陀羅をそなえている。
世天の真言と大日如来の真言とは、「別ならざるもの」なのである。この一字を読誦すれば、すべての、人・天の、教えの法門を持つことになる。

「大日経」に言う。
――世尊は、さまざまの手段をもって、智慧を説きたもう。この智慧の道は一味であり、如来の解脱味である。
――あるいは声聞乗・縁覚乗の道、あるいは大乗・五通(1.思うところに行ける神足通、2.超自然的な視力の天眼通、3.世間のあらゆる声を聞く天耳通、4.他者の心中を知る他心通、5.自他の過去の状態を知る宿命通)智の道、あるいは天・人中、および、龍・夜叉・乾闥婆・摩喉羅伽に生まれる教えを説きたもう。
――このような如来の象徴は、菩薩のしるしと同じである。「身体の動作は、みな秘密の印契であり、舌より生ずる言葉は、みな真言である」と知るべきである。
0026名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/27(土) 09:48:34.92ID:iMzk/iSR0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 04.唯蘊無我心 (ゆいうんむがしん)- 上座部仏教のうち声聞の境地1

修行僧(比丘)の戒律である二百五十戒は、身・口の非法なることを防ぎ、三十七菩提分法は、身心の善の実践をすすめる。
この世は苦であり(苦諦)、苦の原因は煩悩であり(集諦)、妄執を断つことで「さとりへの世界」が開かれ(滅諦)、そのために八正道を実践する(道諦)。
八正道とは、正しく四諦の道理を見て(正見)、正しく四諦の道理を思惟し(正思惟)、正しく四諦の道理を語り(正語)、正しい行動をし(正業)、正しく日々を過ごし(正命)、八正道の実践に努め励み(正精進)、四諦の道理を憶念して邪念を払い(正念)、清浄なるさとりの境地に入る(正定)、八種の生活規範である。
これは、自利のために修行する、声聞のさとりの成果であり、煩悩のとらわれから離れる方途である。

・声聞の教えを唯蘊無我という理由
大日如来が秘密主(金剛薩た)に、次のように仰せられた。――「ただ存在要素のみが実在し、実体的な自我は存在しない」のを明らかにさとることである(「大日経」住心品)。
「華厳経」に言う。――すぐれた十の善き行為で、自分のための修行をする。その智慧は、まだ狭く劣っているので、三界の輪廻を怖れて、生きとし生けるものの苦を救う大悲が欠けている。他の師の、教えの声を聞いて理解し、さとりを得ることができるので、声聞と名づける。

「唯蘊無我」という一句のなかに、すべての小乗の教えがおさめられている。「蘊」は、「積み集められたもの」の意。
「存在を構成する五要素(物質・感覚・表象・意思・識別)のみが実在(唯蘊)であり、個々別々の存在には実体がない(無我)」という心のあり方である。
「世界は常住不滅であり、我も永久に不滅である」と主張する見解や、「世界も我も断絶する」との主張の、二つの極端な、誤った見解を離れることによって、真実を解する智慧が生ずる。
0027名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/27(土) 09:49:25.58ID:iMzk/iSR0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 04.唯蘊無我心 (ゆいうんむがしん)- 上座部仏教のうち声聞の境地2

・声聞の修行階梯の第一「五停心観」
煩悩を停止するための五つの観法が、五停心観である。
一には、外界の不浄な様相を観じて、貪りの心を止める(不浄観)。貪欲に悩まされる、多くの人が実践する。
二には、生きとし生けるものを観察して、慈悲の心を起こし、怒りを静める(慈悲観)。
三には、「あらゆる存在が、原因と条件とによって生ずる」と観察して、愚かな心を止める(因縁観)。
四には、五蘊などを観察して、「存在には実態がある、とする妄見」を止める(界分別観)。「色(物質)」「受(感覚)」「想(表象)」「行(意思)」「識(識別)」を「五蘊」と言う。「五蘊」は「五つの集まり」の意。
五には、自らの呼吸を数えて、心を治める(数息観)。あれこれと思い煩うことの多い人が実践する。

[阿字の子が 阿字のふるさと 立ち出でて また立ち帰る 阿字のふるさと](cf)「十住心論」9巻の「真言の密意」
※智積院(京都)智山派総本山の阿字観ネット予約https://chisan.or.jp/chishakuin/event/schedule/%E9%98%BF%E5%AD%97%E8%A6%B3%E4%BC%9A
※成田山新勝寺(千葉)智山派大本山の数息観ネット予約https://www.naritasan.or.jp/lecture/zazen/

「倶舎論」の詩に言う。――修行に入る肝要の門は二つである。不浄観と数息観とである。

「倶舎論」に言う。――不浄観を実践するのは、四種の貪りを治すためである。白骨の想によって不浄観を修めれば、四つの貪りを断つことができる。
――1.他人の体や、あらわれている色に対する貪欲(顕色貪)。2.すがたかたちに対する貪欲(形色貪)。3.体の触感に対する貪欲(妙触貪)。4.他人の服従・起居動作に対する貪欲(承奉貪)。

「倶舎論」に言う。――数息観は、智慧によって息の出入りを観ずる。1.呼吸をととのえる数息。2.心を散らさない随息。3.考えを静める。4.心の対象を観察。5.反省する。6.妄想が起こらない。
0028名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/27(土) 09:50:14.87ID:iMzk/iSR0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 04.唯蘊無我心 (ゆいうんむがしん)- 上座部仏教のうち声聞の境地3

・声聞の修行階梯の第二「別相念住」
「倶舎論」に言う。――別相念住とは、五停心観を修めおわって、四念住という観想法を修習し、妄見を破ることである。
――1.肉身は不浄である(身念住)。2.煩悩を有する存在の本性は不楽である(受念住)。3.心は無常である(心念住)。4.存在する、すべてのものには実体がない(法念住)。

・声聞の修行階梯の第三「総相念住」
「倶舎論」に言う。――総相念住とは、無常・苦・空・無我の、四つの心のはたらきを実修することである(四行相)。
――苦聖諦を観察する。恒存性がなく苦であり、仮の存在で、実体性がない。
――集聖諦を観察する。愛執は苦の原因であり、苦を集起させ、苦の助縁である。
――滅聖諦を観察する。苦滅の理想郷は繋縛を滅し、煩悩を静め、殊妙の境地で、災禍から離れている。
――道聖諦を観察する。苦滅への聖道は、聖者実践の正道であり、迷いの生存を超出する。

・声聞の境界
「倶舎論」に言う。――須陀垣(しゅだおん)とは、欲界の苦聖諦を所縁として、聖智を生ずる。斯陀含(しだごん)とは、情意的煩悩を一部類から六部類まで断つ。阿那含(あなごん)とは、欲界の迷情をすべて断つ。阿羅漢(あらかん)とは、涅槃に入って、ふたたび迷いの世界に生を受けることはない。
0029名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/27(土) 09:51:00.94ID:iMzk/iSR0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 04.唯蘊無我心 (ゆいうんむがしん)- 上座部仏教のうち声聞の境地4

・五位七十五法の修行体系
「倶舎論」の巻二十三に言う。――「解脱の因となるもの」を種えようとする者は、速い者で、三たび生を受けて、解脱の因を得る。
――第一生で、解脱の因にしたがう心を起こす。第二生で、四つの聖なる真実の理法を見て、智慧の因にしたがう。第三生で、聖者の道に入り、解脱を得る。

生けるものが人間界で、あるいは他に一食を施し、あるいは戒律の一つを守り、解脱する願いを捨てないから、解脱の因となる善を増長させる。
遅い者だと、六十劫(「劫」は、カルパの訳語で「時分(顕教)」「妄執(密教)」)という、無限に長い時間を要する。[巻末要語29]
第二生に入るための、準備的な修行には三種類ある。(ア)智慧の実修と、(イ)身器を整えること、(ウ)さとりを求める修行である。

(ア)世親は智慧の相を注解して、次のように述べている。――「教えを聞くことによって生ずる智慧」が聞所成。「正しい理法を思惟することによって生ずる智慧」が思所成。「定(瞑想)を修することによって生ずる智慧」が修所成。

(イ)身器をととのえるとは、「倶舎論」に言う。
――1.身心遠離。悪友から離れる。不善を求めることから離れる。
――2.喜足小欲。わずかなものに満足し、大欲を起こさない。
――3.四聖種に住する。1.衣服において、足りることを知る。2.飲食において、足りることを知る。3.臥具において、足りることを知る。4.聖者への道を修行しようと願う。

(ウ)さとりを求める修行とは、四聖諦に通達して、生死の苦しみを超え、涅槃の境界を得るものである。
「五停心観」「別相念住」「総相念住」すべてを併せて対象とし、「別相念住」の、観想の四「存在する、すべてのものには実体がない(法念住)」これを繰り返し実修する。そして、欲界の苦のみを観ずる。
0030名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/27(土) 09:52:03.72ID:iMzk/iSR0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 04.唯蘊無我心 (ゆいうんむがしん)- 上座部仏教のうち声聞の境地5

・煩悩を断つ依りどころ
三空とは、「我と我の所有するものには実体がない」と観じ(空三昧)、「空であるがために差別の相がない」ことを観じ(無相三昧)、「故に何も願い求めるものはない」と観ずる(無願三昧)。
「道理に迷う」とは、まず苦諦に迷うことで、十の煩悩を引き起こす。理に迷う知的な煩悩(見惑)と、事象に迷う情意的な煩悩(思惑)がある。
1.「実体としての身体がある」と執着する。2.極端な見解を「正しい」と執着する。3.因果の道理を認めない。4.誤った見解を「正しい」と執着する。5.低劣な誤った見解などに執着する。6.むさぼり。7.いかり。8.おごり。9.真実を疑う。10.おろかな迷い。

・さとりの定まっている人と、そうでない人の相違
声聞の最高境地である、阿羅漢果を得る人に、二種類の別がある。
一には、「かならず声聞となる」と約束された定性。二には、声聞・縁覚・菩薩のうち、いずれの成果を得るか確定していない不定性である。
不定性の者は、教え導く人に遇って、大乗の教えに向かい、菩薩の善行を実践して、如来の正しいさとりを成就する。

道宣律師は、「四分律刪繁補闕行事鈔」で、次のように述べている。
――そもそも、大乗・小乗の、教えの間にへだたりはない。
――釈尊が、クシナガラの沙羅双樹のもとに入滅して、最後に、「すべての生きとし生けるものが、本来、仏陀となる本性を有する」と顕らかにされたけれども、そこに居合わせた聴衆は、小乗をさとって、阿羅漢果を成就したにすぎなかった。
――さとりは、教えを聞く者の心による。だから世尊は、およそ大衆に法を説く場合、必ず戒律を主として説かれた云々。
――「勝鬘経」に説いて、「律とはすなわち大乗である」云々。
0031名無しさん@京都板じゃないよ
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2024/04/27(土) 09:53:03.70ID:iMzk/iSR0
空海コレクション「十住心論」(ちくま学芸文庫)抜粋 04.唯蘊無我心 (ゆいうんむがしん)- 上座部仏教のうち声聞の境地6

・真言の密意
――ケ(声聞の実践行)イ(瞑想)ト(声聞が入るところの絶対真実)ハ(声聞が観ずる絶対真実)ラ(煩悩)チヤヤ(声聞の教え)ビ(煩悩)ギヤタ(離れる行)キヤラマジリジヤタム(恐るべき障害)

「大日経」巻二に、声聞の真言が説かれている。
「恐るべき障害」という言葉を含む。声聞の人は、生死を厭い怖れることが、極めて切実だからである。
声聞の教えは、そのまま、「すべての生けるものが成仏すべき道」を説く仏乗であり、両者は別々でなく一体である。
もしも理解しようとしない者がいれば、菩薩に対して毒となる。
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