神道思想史について語るスレ
神道思想史について語りましょう
空海
度会家行
北畠親房
慈遍
吉田兼倶
林羅山
吉川惟足
出口延佳
山崎闇斎
賀茂真淵
本居宣長
平田篤胤
大国隆正
葦津珍彦
など 神道は妄想糞カルト
神がいると信じてる知恵遅れ糖質神道ガイジは覚醒剤大麻などやってるせいで幻覚みてんだろうな
神は存在しない想像上の絵と設定なのに 空海(774〜835)
日本真言宗の祖。
中国で恵果より学び、帰国後に東寺や金剛峰寺を建立し日本で大乗密教を広める。
仏教者ではあるが神道の神に対しても敬意を持っており、多度神宮寺を東寺の別院とするなど
全国的に神宮寺の建立を推し進め、日本における神道と仏教の融合を進めた 成尊(1012〜1074)
真言宗の僧。自著『真言付法纂要抄』の中で大日如来と天照大御神が同体であると説き
平安時代に盛んになった本地垂迹説を初めて体系的にまとめた。
日本は大日如来の加護を受けた特別な国だとする密教的神国思想を主張した。 日蓮(1222〜1282)
日蓮宗の祖。
法華経及び釈迦への帰依を強く主張し、念仏、真言宗、律宗、禅宗を排撃した。
その一方で神道への信仰は厚く、法華経に基づく正しい仏法が行われている場合には、
天照大御神や八幡大菩薩などの善神が国土を加護すると主張した。 日像(1269〜1342)
日蓮の弟子。
熱田大明神を筆頭とする三十の神々が一ヶ月三十日の間交代して法華経の護持に当たるという
「三十番信仰」などを日蓮宗に取り入れ、「法華神道」を大成した。 存覚(1290〜1373)
浄土真宗の僧。
『諸神本懐集』を著して浄土真宗における神道の扱いを明確化した。
神道の神々を仏を本地に持つ「権社」と、そうではない「実社」に分け、「権社」のみであれば崇拝して良いと主張した。 義源(生没年不詳)
鎌倉時代から南北朝時代に活躍した天台僧。
山王神道の代表的著作『山家要略記』を著して天台宗流の神道説を大成した。
日吉大社の七社の神にそれぞれ本地仏を当て、本地垂迹説を主張した。 光宗(生没年不詳)
天台僧で義源の弟子。
『渓嵐拾葉集』を著して山王神道を完成させる。天台宗の教説と山王神道を結びつけて説いた。
また、人々は生まれながらにして悟りを開いているとする天台宗の「本覚思想」を本地垂迹説に
取り入れ、本地である仏以上に垂迹である神こそが尊いとする神本仏迹説を主張した。 度会行忠(1236〜1306)
伊勢神宮外宮の神職。
外宮の祭神である豊受大神に「皇」の字をつけたことから、内宮との間に「皇字論争」を引き起こす。
その後「神道五部書」のうち三巻を著述して神宮外宮の重要性を説き、伊勢神道を創始した。 度会家行(1256〜1351)
伊勢神宮外宮の神職で度会行忠の後継者。
『類聚神祇本源』を著して伊勢神道を大成する。従来の神仏習合思想に立った上で
豊受大神を天御中主神と同体であると説き、外宮が内宮に上回ると主張した。
また、世界が生成される以前の状態である「機前」を重んじなければならないという独自の教説も説いた。 慈遍(生没年不詳)
鎌倉時代末期から南北朝時代に活動した天台僧。
『旧事本紀玄義』を著し、尊皇論とともに儒教の教理を取り入れて天皇の政治論を説く。
神道思想において初めて政治論を前面に出した。 北畠親房(1293〜1354)
公卿。後醍醐天皇の忠臣としても知られる。
幼帝後村上天皇への帝王学として書かれたとされる『神皇正統記』の中で
王朝交代を繰り返してきた異朝に対する、万世一系を続けてきた皇朝の偉大さを説く一方
儒教の有徳為君の思想の影響も受け、天皇自身が立派な徳を持たなければ王朝は途絶えると説き厳しく指導した。 吉田兼倶(1435〜1511)
吉田神社の神主。
応仁の乱後、古典籍の焼失を背景に、多数の経典を偽作して次々に新しい作法を生み出して
唯一神道を創始し、喧伝によって幕府や公家に取り入り、全国の神社を統括する立場を得た。
宇宙の根元神である国常立命を中心に八百万の神々を祀る祭場所大元宮を創設し、全宇宙を表現。
また、慈遍が提唱した「根本枝葉果実説」を大々的に訴え、神道を中心とする「唯一宗源神道」こそ
正当な神道説であり、本地垂迹説を「両部習合神道」として批判した。 神龍院梵舜(1553〜1632)
吉田兼倶の曾孫。
近世初期にあって豊臣秀吉や徳川家康ら権力者に接近して神道式の葬式を行うことに成功し
豊国神社や久能山東照宮などを建立。神道において忌避されてきた死や葬送儀礼を神道に取り込む。
一説に『心学五倫書』の著者とされ、天道思想を中心に儒教、仏教、神道、耶蘇教をも含有するイデオロギーの統合を図ろうとした。 林羅山(1583〜1657)
儒者。徳川政権初期に幕府に重用される。
朱子学の思想に基づいた新たな神道説「理当心地神道」を説き、儒家神道の嚆矢を為した。
朱子学において存在の本質とされる「理」と、神道における神々が一致すると説く。
さらに三種の神器は儒教における「三徳」を表したものだとした。 吉川惟足(1616〜1695)
神道家。
吉田神道に入門して正統な後継者となったが、その後吉田神道の教理から仏説を排除して
儒教を取り入れた、新たな神道説である「吉川神道」を創始した。
君臣関係を第一に重んじ、神道の本質は行法祭式ではなく君臣の道であると論じる。
また、神と儒教の「理」の一致を説き、人は皆体内に「神」を宿しているが
心の汚れによって本来の神人一体の姿が曇っているため、「つつしみ」によって
本来の神人一体の姿を取り戻さなくてはならないと説いた。 出口延佳(1615〜1690)
伊勢神宮外宮の神職。
度会氏の伊勢神道を引き継ぎつつ、儒家神道流に再解釈し後期伊勢神道の創始者となる。
神道の本質は祭式行法ではなく、日常生活において徹底して清浄と正直を守る日用の道であるとする。
また神儒仏は根本的には一致するので、神道を中心とするならば補助として儒仏を学んでも良いが、仏教以上に儒教の方を神道の補助として学ぶべきだとした。 山崎闇斎(1618〜1682)
朱子学者。
会津藩時代に吉川惟足に神道説を学んで垂加神道を創始し、儒家神道を大成した。
「天人唯一之道」を主張し、人々は必ず神霊を内在させているため人と神は一致すると説く。
祈祷によって神の冥加を受けて、その通りに行動することが神道の本質であるが
冥加を受けるには、人は「つつしみ」による「正直」の状態でなくてはならないとした。 中江藤樹(1608〜1648)
陽明学者。
「太虚神道」を提唱。諸教を超越する普遍真理として「太虚」という概念を示し、
儒教も神道もこの太虚が中国や日本において発現したものに過ぎず、その太虚を考えることが重要であると主張した。 土御門泰福(1655〜1717)
陰陽師・公卿。朝廷の陰陽寮を代々世襲した土御門家の当主。
山崎闇斎より垂加神道説を学んだ後、土御門家伝来の陰陽道に垂加神道説を取り入れて
土御門神道を創設した。 玉木正英(1671〜1736)
梅宮大社の神職。
山崎闇斎の高弟・正親町公通より垂加神道説を学んだ後、橘以貞より
橘氏伝来とされる神道説を伝授され、両者を結びつけて橘家神道を創始した。
兵法的な側面が大きく、中世兵法流派の影響も受けている。 荷田春満(1669〜1736)
伏見稲荷大社の神主。
契沖の実証主義的な古典研究を受け継ぎつつ、そこに若干の神学的要素を加えた。
儒教中心の学校教育を批判し、日本について学ぶ教育を行うべきだとする「創学校啓」を著したことで名高い。 吉見幸和(1673〜1761)
国学者。
元々は垂加神道の門下であったが、垂加神道で重んじられていた「神道五部書」を実証的
研究に基づいて中世の偽作であると見抜き、その後垂加神道を離れ契沖門下の国学者に転じた。
神道は「我国天皇之道」であり、これを明らかにするには偽書造言を正すことが先決だとした。
幸和の動きは、垂加神道から国学へ移行するこの時期の神道思想の動きを象徴している。 賀茂真淵(1697〜1769)
国学者。荷田春満の弟子。
契沖以来の実証主義的な研究を受け継いで歌学研究を進め、枕詞を研究した『冠辞考』や
萬葉集研究『歌意考』を著し、萬葉集を「ますらをぶり」古今集以降を「たをやめぶり」と評した。
また、国学における思想的な面を拡張し、『国意考』を著して仏教や儒教を批判して
日本古来の精神性を称揚、また老荘思想を日本の古意にかなう思想として評価した。 本居宣長(1730〜1781)
賀茂真淵門下の国学者。国学実証主義を完成させ、言語学に多大な功績を残す。
ありのままの感情を大切にし、物事を合理的に解釈しない日本古来の精神性を見出し、
感情を否定して物事を理屈立てる「漢心」を排斥した。神代記に記されたことを全て
事実として受け入れ、世界の運行は全て神々が司っているとする一方で、理想視した
古の日本を規範化したり、古の日本に立ち返る運動を行うことは強く否定し、世界は全て
尊い神々が司っている以上、誤りのある現状においても、上の行う政治にただ従うべきであるという積極的な現状肯定主義を貫いた。 富士谷御杖(1768〜1824)
国学者。
「言霊」を特に重視し、日本神話の内容は言霊の霊力によって古代人の生活を説話として
表現したものであると主張して、日本神話の内容をそのままにして受け入れるべきだとした本居宣長の神学論を否定した。 増穂残口(1655〜1742)
京都周辺で活動した俗神道家。神道の教説を平易に民衆に説いて回った。
神道を中心としながら仏教や儒教、老荘思想の文言を自由に切り貼りして教説を説いた。
民衆においては、まずその封建的身分を受け入れて、日々の仕事をしっかりこなし、
身分相応に楽しくめでたく暮らして安心立命を得ることこそが神道の本質であるとした。 □ イスラム教関係の本が今月末に一冊出るようだ
イスラム教再考 18億人が信仰する世界宗教の実相 (扶桑社新書) 2021/2/28発売 飯山 陽 (著)
多発する「過激派テロ」、「信教の自由」も「LGBT」も否定、「子供への体罰」や「児童婚」が蔓延、「女性の価値」は
男性の半分……。イスラム教は本当に異教徒に寛容で穏健な宗教なのか?
世界的に突出して偏向している日本の「通説」を検証することにより、「イスラム教のリアル」が見えてくる。
学者・メディアによってつくられた「常識」を問い直し、イスラム教徒とのあるべき共生の道筋を示す!
【目次】
はじめに―イスラム研究者が拡散させた「誤ったイスラム像」
第一章 「イスラムは平和の宗教」か
第二章 「イスラム教ではなくイスラームと呼ぶべき」か
第三章 「イスラムは異教徒に寛容な宗教」か
第四章 「イスラム過激派テロの原因は社会にある」か
第五章 「ヒジャーブはイスラム教徒女性の自由と解放の象徴」か
第六章 「ほとんどのイスラム教徒は穏健派」か
第七章 「イスラム教を怖いと思うのは差別」か
第八章 「飯山陽はヘイトを煽る差別主義者」か
終 章 イスラム教を正しく理解するために 古代日本において、飛鳥・奈良・平安時代に神道家になった人(神職に就いた人)たちってのは、元々はどんな出自なんだろう?
公家?武家?それとも農家の家柄? >>36
地方の豪族だな
古代は政治的権力と祭祀権力は一体化してた
例えば伊勢神宮を例にすると、伊勢神宮の神主は度会と荒木田が世襲したが
度会も荒木田も古墳時代の伊勢地域における有力な豪族だった
ヤマト王権が各地に進出するに伴ってそういった勢力がヤマト王権と結びつき
ヤマト王権管理下の神社の神主家を世襲するようになった >>37
ご説明を有難うございます。
奈良・京都だと葛城氏・鴨(賀茂・加茂)氏・秦氏・八坂氏等、では滋賀や大阪だとどうなのでしょうか?丁度古墳造成中の頃の大阪等はどの豪族でせうか? 久居にある、悪魔の神道と悪神霊、悪仏教、全部で何体ある、白魔術で爆破したらいいけど、喋りたい子は、霊能者呼んで喋ったらいいけど。