明治以降作った参拝のルール(笑)
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きのうの秋篠宮文仁親王殿下の誕生日会見でも、
秋篠宮様は、来年行われる大嘗祭(天皇の代替わりの行事・神事)のことをはっきり
「宗教行事」
と発言されていたよ。
神道の祭祀王の皇子様が
「宗教行事」
と発言されているんだ。
あとは察しろ。 戦後にできた二例に拍手いっぱいとか言うのが
全部靴履き洋服仕様になってるのが草
室内でやること想定してないよw なんか聞きかじった知識で明治のせいでだとかうだうだ言ってるが
だったら自分の好きなように何回でも拍手すればいいだけのことだろ。
皆がわかりやすいように公式な参拝方法を提示しているだけで
それをやらなかったら逮捕されるとかリンチされるとかいうこと
もないんだから。勝手に「強制された」とか騒いでる被害妄想者は
神社よりも先に病院に行くべきでしょうな。 >>163
それが本当のやり方だとか、日本古来の伝統だとかいう(思わせてる)ことがアカンやろってことだ >>165
公式に出されたものだから正式といえば正式だろう。
そして伝統といえば伝統で間違いない。
伝統のうちの一つの形に統一したものが、今の参拝法であって
左翼系がよく言うように「でっちあげた」ものではない。
「でっちあげた」言ってる連中はただの勉強不足。
根拠はあるがわざわざ教えない。「でっちあげ」うんぬん騒ぐ前に
まずはちゃんと自分で調べるのが筋だ。 そもそも参拝方法にケチつけてる連中がまともな信心から参拝に
行くとは思えない。
立憲民主党の幹部連中は意外にもまともな信心があったようで、
見直したが。左翼じじい達からしたらとんでもない裏切りだろうw
。 左翼ってのはマルキシストのことで、マルキシストってのは無神論者のことなんだけどね。
そして無神論者というのは実はそれを装った
サタニスト(悪魔崇拝者)
というのが実態である。
だから眉に唾付けてみてるけどね。 >>1
そろそろこの幼稚園児のような妄説を得意げに話すことは
かなり恥ずかしい赤っ恥だと知ったほうがいいですよ。
完全に左翼の作った妄説ですから。本当に。 >>170
その通り
明治維新ってのはウルトラ左翼がやったことだからな 明治政府完全大敗北
京都市は、世界遺産・二条城(京都市中京区)敷地内の砂利道を舗装する方針を決めた。
訪日外国人客らから「歩きにくい」との声が上がっていたためで、130年以上続く砂利敷きを見直す。
新年度予算案に調査費900万円を計上する。
二条城は、徳川家康が1603年に築城。1867年の大政奉還の舞台としても知られる。
敷地内の通路約1・8キロは元々土敷きだったが、明治維新後の84年、宮内省(現宮内庁)に
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管理が移った際、砂利が敷かれたとされる。 >>167
まともな信心を持つことのほうが異常だとは思わんのか?
自然崇拝系、天変地異の抑止、あるいは氏神さんとか日頃の平穏を感謝するとかならまだわかる。
しかし賽銭とかぶちまけて願掛けとかする人って狂ってるとしか思えんわ。
アマテラスだのなんとかのカミだの、そこらの人間どもが拵えた架空のモノの何を信じろってか? そもそも神社ってのはお願い事()する場所じゃないからな
安土桃山時代辺りから変わったんだろか >>181
ご名答。そもそも地域の神社は宮座・頭屋(とうのや)・年神主といって、地域の方々自身が回り持ちで潔斎して神主を務めていたし、神道管領長上・吉田家から立派に許状も発行されていた。
大社を除けば、専属の神職=世襲の社家なんて稀だった。 >>182
徳川幕府(江戸時代)は、
キリスト教国(ヨーロッパ諸国)がキリスト教の布教を尖兵、隠れ蓑にして、情報収集。
その後に軍を送り平定して植民地する様を知って
キリスト教を禁止して、キリスト教団を排除する施策を行います。
代わりに全ての民衆を統治する手立てとして
国民が皆、寺(仏教)の管理下におく
寺請け制度を敷きます。
要は、各地の寺が各種の役所の肩代わりをするというもの。
民衆は必ず何れかの寺の所謂、檀家に入ることが強制されました。
もしその枠からはみ出る輩は体制に反抗する輩として取り締まりの対象(お尋ね者)=半ば犯罪者扱い。
寺が担った業務は多岐に渡り、まず今の役所の住民課(戸籍を管理。パスポート/身分証明の発給)。税務署。検察。(簡易)裁判所。、弁護士、公文書(上訴文)を作成する行政書士。公会堂。
およそ、統治の実務全般。、、、町村役場のようなもの。
だから、お寺の住職はその長官でもあるので、権威と権力を有し、揉め事や困り事があれば、お寺の住職に相談、裁定してもらい、場合によっては上訴をしてもらい、、、
明治維新政府は、この徳川幕藩体制の統治の根幹であると考えた寺請け制度を
実務は役場役所に移しますが、そのまま神社(国民皆神道)に移し変えを行って、前時代とは違う(維新、刷新)事を露にしました。
拝み形も、神仏混合、習合が主流で有った事による神前読経を禁止。
神社の由来系統などで様々な拝礼作法が有った(当然の事ですが)のを
簡略化(歴史的には神様に対し無礼、失礼)、画一化して強制。
それが二拝二拍手一拝。(太平洋戦争以前まで、何度か変遷、改変は有った) 江戸時代は社であって神社では無かっただろうし
祠が多かったと思うのだが
荒神を祀った若宮社とかでもない限り
小規模の社では専門の祭祀者は少なかっただろう
そもそも神仏習合下の寺請けで
寺院境内に社があったと思うけど
明治以降、とくに原敬時代に一村一社制で一か所にまとめられたんじゃないの
無茶苦茶なことばかりするからな 人が入れる大きさの社が一般的に作られるようになったのは鎌倉時代以降らしい 特定の「社」のために空間を仕切るという発想も興味深いね
現代の様に玉垣で境内を世俗空間と仕切るのは明治以降に盛んにおこなわれたことで
平安期は御所や都の魔除けとして
それぞれの四界で結界として境界祭祀を行っていた
これが変わったのは後白河法皇が
修験道排除を打ち出したことが原因なのかも知れない
修験僧への対抗勢力たる源平という武家勢力が
専用の祭祀施設を設けたとか、そういう流れかもね
あの頃から武家中心に地蔵菩薩信仰が盛んになって勝軍地蔵とかが生まれる そういえば霊場整備は花山天皇のころだったかな
こちらは災害対策が目的だったけど
不特定多数の人間を対象とする参詣の起源はこのあたりか 古来日本では三礼三拍手一礼だった明治以降は二礼二拍手一礼に変更された * ヘ´ ̄ ̄羊羹 ̄ ̄ ̄丶、
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| 丶 `¨¨´ -‐… / / | 野党保守叩いてるのにターゲットだけで恥ずかしいスノヲタ >>10
あれ聞いてくるなよ
アイスタイル昨日のスレッドに詳しい人がコネ作るためのパーティーでしょ めちゃくちゃ小便でるな
20日で跳べるとか大口叩いてたチュッキョとえらい違いだな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています