【富士山】浅間大社・浅間神社
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>>748
>>751
私も浅間神社縛りで御朱印集めようと思っているんですけど、
高い社格とか気になってしまうんですけど、気にしすぎでしょうか? 新五合目で日の出見て、富士山本宮浅間大社行って、東口本宮行って山中浅間神社と諏訪神社行ってきた
諏訪神社に鳥居なかったけど何でなんだろう
御朱印頂いて山中湖眺めてたら富士山から龍みたいな雲が出てていいもん見た気分
また時間作って絶対行く
http://i.imgur.com/3FJC9CF.jpg いい写真ですね
俺は富士宮の浅間大社行って河口湖の御室浅間神社行って小室浅間神社行って
北口本宮行って東口本宮行って最後に三島大社寄って家路に着くという
富士山を一周したという達成感に浸るということをよくやってますw >>755
お聞きしたいのですが、下吉田の小室浅間神社には神職の方は常駐しておられるのでしょうか? >>756
おそらく常駐してますよ。
小室浅間神社には神馬がいるんですよ
お札とか売ってる所に「馬のえさあります」って書いてあったので思わず購入したのですが
その際に神職の方がにんじんを切ってきてくれましたよw
やさしそうでいい方でしたよ。 >>757
ありがとうございました。
神社の御祭神とは関係無いのですが、大塔宮さまの事で直接お聞きしたい事がありまして、去年参拝に赴いた際にはたまたまなのかどなたもおられませんでしたので。 ttps://www.youtube.com/watch?v=zEnKnYQcFrw
浅間神社がモデルなのですか? わしがどこにいるずらかさがしてくださいずら
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1401625619928950&set=a.287261814698675.68591.100002445769642&type=3&theater 1,2年前の事なんだけど山宮浅間神社に行った時の事、
駐車場に止まっている高級車(うる覚えだけど都内ナンバーだった気がする)から髪の長い一族?(3〜4人)みたいな人たちが降りてきて
拝殿(跡)の柵の前にゴザ的なものを敷いて(ここまで見てた)おそらく祈りでもしたんだろうけど
その人達が何者なのか知ってる人いる?このスレ知ってそのこと思いだして知りたくなった わしは小学校以来イジメを受けてて、毎日靴を隠されたり、男の子・女の子からリンチ受ける等されて、
宿題の日記で先生に助けを求める内容を何度か書いたのに取り合って貰えず、本気で死のうと思ったずら。
悔しいので貧乏だが雅楽に身を投じて生計を立てて、イジメた輩を見返してやろうと誓ったずら。
私をいじめた一人の男の子は20代で自殺したずら。自分でした事がいずれは跳ね返るんだと思ったずら。 山梨の甲斐国一宮浅間神社にお詣りに行ってきた。
ちょうど桃祭りでお祭り屋台がたくさん出てた。
桃の御守りを頂いて来たよ。
陰陽石が、まさにそのものでちょっと感動。
一升瓶ワインと桃をお土産に買って帰ってきた。 2005年 静岡市内で色んなキッカケで雅楽の笛を習い始める
2006年 東京にある武蔵野雅楽教室でS先生に本格的に笛を習い始める
地元の先輩に笙を習い始める
2008年 色んなご縁で東京の雅楽団体(麻布雅楽会)に入会→所属 O先生に笛を習い始める
2009年 色々ご縁があって静岡県内をはじめ、全国の式場で笛と笙で神前挙式雅楽生演奏を行う
2011年 色々ご縁があって江戸の東京都神道雅楽クラブに入会→所属 主席奏者
龍笛吹きですが、笙も篳篥も吹けます。 今川氏真の雅楽奏楽シーンで流れていたのは盤渉調「青海波」
『おんな城主 直虎』、気賀の城主に! 勢力拡大を続ける武田信玄が初登場
えっへん!
わし凄いずら!
自称だいれいじんさま ここにいる
自称だいれいじんちょうさまって
こえだめくさいひとでしょうか? 明日は高野山で同期の送別会。大師教会本部から独立し、高野山真言宗からの自立を目指す中村泰教は自分で交通費を出す。拙僧は節約も兼ねて大阪まで長距離バスを利用して行くことにした。
長距離バスの利用は初めてだったのでバス乗り場がわからず大遅刻、搭乗するさいにみんなから冷ややかな目で見られてしまった。
冷ややかな視線に本山での数日間の研修時代を思い出す。「自分は大師教会教使だ、こいつらとは違う」とそう思いこみ、嫌な気分をかき消した。
拙僧が乗る長距離バスは4列だ。値段で選んだのは失敗だった。狭いシートに尻が痛む。
到着するまで寝ようと思ったが隣が若い女性ということもあり緊張して寝られなかった。
そこで拙僧は小腹を満たすためにバス乗る前に買ったマックを食べることにした。
ガサゴソと包装紙からメガマックを取り出し口いっぱいにほおばる。たまらない。
ポテトの塩が濃かったのと車内が乾燥してるせいもあってLサイズのコーラはあっという間に空になった。
腹を満たしてしばらくすると、バスはSAで休憩についた。SAにはいろんな店があり、拙僧は時間を忘れて食べ歩きした。
再びバスに乗り、バスは目的地の高野山へ向けバスは出発したのも束の間、拙僧に凄まじい便意とかつてない尿意に降りかかった。
「もぉダメェ!!我慢できないナリ!!漏れちゃうナリィィィィィ!!(ブリブリブリドバドビュパッブブブブゥ!!!!!ジョボボボボジョボボボ!!!!!!!ブバッババブッチッパッパッパパ!!!!!!」
高野山真言宗から追放されようとしている大師教会教使の奇声が大阪行きのバスの中でこだました。 今更ながら>>761
多分スピ系の御一行の怪しげな儀式かとw
山宮は昔からその門あけて中へ入ってお参りするのが普通
地元民や事情を知る人は昔からそうしてきた
それをしないってことは我流である何よりの証 あやしい!
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=660137854082252&set=pb.100002581303843.-2207520000.1524186340.&type=3&theater ここの怜人してる農家!
神職の資格もないのに偉そう!
資格とってから注意しろよ!
下手くそな演奏して偉そうに言うな!
し
お
か
わ 今日は浅間神社巡りしてきた
静岡側は冨士六所浅間神社と富士山本宮浅間大社、
山梨側は御室浅間神社と小室浅間神社と一之宮の浅間(あさま)神社
富士山を守ってくれていつもありがとうございますって伝えてきた
個人的には富士宮の富士山本宮浅間大社(やさしい陽の気溢れる)と
下吉田の小室浅間神社(馬がいるからw今日はネコも迎えてくれたw)が好きだわ
わしは静岡の人間だけど山梨はいい神社多いね山梨自体が好きだわ
なによりわしが好きなフルーツやらもろこしやらがめっちゃうまい!
今度は山宮と北口本宮と河口浅間神社行くんだ!
おすすめあったら教えてね 山開き報告ないのかよ・・・
埼玉・志木市の敷島神社にある
田子山富士塚の山開きに行ってきた。
ここは実に見事な富士塚で、正月・大安・友引・イベント日には登拝もできる。
今回は地元のゆるキャラが参戦。
カピル君は着ぐるみのままで急坂の富士塚に登ってた。
足元見えない着ぐるみで大丈夫なのかよ?と思ったけど
意外としっかりとした足取りで無事登頂。
サポート役の人、ファンの人たちが上り下りを手伝ってた。
http://2ch-dc.net/v8/src/1530423410233.jpg
http://2ch-dc.net/v8/src/1530423381042.jpg
http://2ch-dc.net/v8/src/1530423440951.jpg
http://2ch-dc.net/v8/src/1530423455336.jpg 御室浅間神社の里宮の屋根面白いね
鰹木が無くって千木だけがズラッと並んでる 富士(浅間)信仰をめぐって浅間大社と村山浅間神社とが主導権争いをした。
明治になるまでは村山浅間神社が優勢であった。
http://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/llti2b0000001lrf.html
村山浅間神社は山伏が築いた富士山興法寺が基になっているらしい。
村山というのは修験の村で熊野系らしい。
富士の登山代行を請け負っていた。もともと山伏というのは寺社への代参を
主要な仕事としていた。
浅間大社との間で、八合目から頂上までは村山浅間神社の支配とするという
取り決めがあった。頂上に大日堂という祠を有していたようである。
しかし、神仏分離で興法寺がなくなり、一挙に劣勢に陥る。
山頂の支配も失う。
その背景に明治政府の力を背景にした神祇官から送りこまれた神主の働きがあった。
神仏分離や廃仏毀釈で寺は駄目になり、官幣大社の威光にかなうはずもない。
地蔵や積み石は全部捨てられた。
村山登山道も使われなくなった。
新田次郎 芙蓉の人 の、富士山に小屋を建てるなと言ってくる山伏は村山修験
である。しかし観測小屋造りに協力したのもこの人たちである。 村山は雰囲気がすごい良かった
浅間大社は規模がでかくなりすぎて観光神社と化してた 明治政府には神祇官と太政官が置かれた。
どっちが上かというと、太政官は人の世の政治を司る機関。
これに対して神祇官は神社など神様を扱う機関なんだから当然神祇官が
上だということにされた。
神祇官には旧幕時代の神官とか国学者が採用された。
国学者というのは、古事記や日本書紀の記述をそのまま真実と受け止め、
神国思想に凝り固まった連中が多かった。
主要な神社には神祇官から神主が派遣され、仏像や仏堂の一掃や仏僧の
排除、そして祭神のすげ替えが行われた。
寺を無理矢理神社にしてしまうこともあった。
例えば奈良の談山神社が。多武峰寺(とうのみねでら)という、かつて僧兵を擁した
大寺院だったが、藤原氏との関係が深いので神社にする必要があり、寺は廃せざるを
得なかった。400もの守寺や僧坊があったというが全部破却された。
鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮は鶴ヶ岡八幡宮寺という寺だったが、寺の部分は一掃された。
やったのは坊主たちだという。自分たちが神官として残りたくて、神祇官に迎合して
壊しまくったのである。壮麗な仏堂は全部無くなり、現在の八幡宮の規模は
江戸時代の三分の一以下だという。
神祇官による廃仏毀釈には当然抵抗があったが、これに対しては警察の力を使って
強圧的な弾圧が行われた。浅間大社では死者が出ている。
浅間大社に派遣されたのは、薩摩の狂信的な国学者であった宍野半という男だった。 ここにいる伶人気取りの
しおかわ
まさあき
って、なんなんだ!
神職気取りで最悪·最低!
こえだめくさくて、しね! 富士山本宮浅間大社と富士山本宮浅間大社奥宮は別々に官幣大社に
列格されているんだな。つまり別々の宗教法人。
http://www.genbu.net/engi/indexsya.htm
上に書いたように村山興法寺が富士八合目以上を支配し、頂上に大日堂を
置いたが(大日如来のお堂である)、このお堂を浅間大社の奥宮であるとしてしまった。
奥宮である以上、浅間大社の一部であるはずだが、わざわざこれを独立の神社とし、
おまけに官幣大社にしてしまったのである。
浅間大社の一部とすると、興法寺(これは明治になって無くなったから正確には
村山浅間神社だが)から返還請求がなされかねない。
いや、請求されるに決まっている。
そこで浅間大社に累が及ばぬよう独立の神社とし、かつ官幣大社という社格を
与えてしまったのだ。
宍野半がやったのだろうが、ものすごいことをやるもんだ。やりたい放題だな。
浅間大社の祭神を木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)にしたのも笑える。
官幣大社にするには天皇家や天皇家の祖神とかかわりのある神でなければならない。
山の神は女といわれているので女神であって、かつ天皇家とのかかわり有りというと
天つ神の皇子ニニギノミコトの妻であるコノハナサクヤヒメが丁度よいのである。
皇室の先祖にあたるからである。神武天皇のひいおばあさんになるのか。
しかし、一介の官吏が千年続いているかも知れない神社の
祭神を新たに勝手に決め、さらに皇室の祖神コノハナサクヤヒメを富士山の山の神に
してしまうなど、おそろしいばかりである。 そのとおり。明治の神祇官による祭神のすげ替えで、古代からの伝統のある神社が
まるっきり別のものになってしまった。。
主要な神社の神様は古事記や日本書紀に出てくる神様に統一されてしまったのである。
武蔵一宮である大宮氷川神社を見てみよう。
明治以降、皇室の四方拝の対象ともされた神社でも寛政の頃はこうだった。
https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/bfd06a3e34f0c2348d9a1101c821a707
境内に天神も稲荷も愛宕神社も住吉神社も石上神宮もある。
一方で観音堂も不動堂もある。
主祭神として男神と女神と中氷川様といわれる神(たぶん男神と女神の子)が祀られている。
池の向こうにあるので、おそらく古い時代には上賀茂神社のように白砂を山にして
神の依代(よりしろ)としてあったのだろう。
さらに古い時代は、森の中のただの空間(神地のみ) であった。(沖の島のような祭り方)。
図面は江戸寺際のものだから、神仏混淆が進んで寺のようになっている。
参道を挟むように神宮寺が並んでいる。それぞれ「○○院」という塔頭の形式である。
(大徳寺に塔頭が二十いくつある。みな○○院という寺号である。高桐院などを知っている
だろう。ああいうのと同じ。)。このいずれかに別当が住んでいた。
神宮寺は明治になって全部破壊され、神主の館だけが残っている。今の建物はたぶん明治
以降のものだろうが寺院の形式である。 氷川神社にも維新後に交野時万という尊攘派の元公家が大宮司として入り込んだ 。
そして廃仏毀釈をやった。
廃仏毀釈運動では、仏体のご神体を強制的に取り除くだけでなく、より積極的に信仰が
改変されていく。「復古神道」の実現を名目として、 『古事記』『日本書紀』『延喜式』等に
書かれていない神を異端扱いし、祭神のすげ替えまでが 実施されたのである。
氷川神社も祭神のすげ替えをやられた。
氷川神社と別のところにある女体社(氷川女体神社)と中氷川社の三社は一体であるので
女体社と中氷川社は合祀。三柱の神は男神と女神とその子供か何からしい神なので、
須佐之男命 (すさのお の みこと)
稲田姫命 (いなだひめ の みこと)
大己貴命 (おおなむち の みこと) の三神とした。
稲田姫命 はクシナダヒメで、オロチに食べられてしまうところをスサノオに助けられ妻に
なった女神。大己貴命はオオクニヌシノミコトで、スサノオの娘の婿さんである。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ふざけた選択である。
おそらく大宮氷川神社の神は三匹の蛇だったのだろう。
それが皇室の祖神であるスサノオ等の三神に変えられた。
それ故に皇室の正月の行事である四方拝の対象とされ、さらに明治以降天皇が数度
遙拝に訪れたりもしたのである。 奈良の橿原神宮なんか明治23年に作られた官製の神社だもんな。
神武天皇はあちこちの朝敵を征伐した後、橿原で即位した。
初代の天皇になってここに宮殿を建てたとされている。
だからここに神社なければいけないというので作ったわけ。
ついでに神武天皇陵という古墳まで作ってしまった。
橿原神宮の裏の森の中にあるのがそれだよ。
明治時代に作られた古墳って何? とか考えてはいけない。
神社はまことに壮大である。何もかもが大きい。
靖国神社の十倍はあるか。国家の権威をかけて建てたという感じ。
だが、そもそも神武天皇はいたかどうかも分からない。
天皇も六代目あたりから歴史時代に入って実在すると考えられているが、
五代ぐらいまではまことに混沌とした神話の世界の話。
それを実在したがごとく陵墓まで作ってしまうんだからすごい。
天孫降臨の神話(高千穂峰にニニギノミコトが降臨した)に合わせて
霧島神宮その他の神社が作られたのと同じ。
古代からあるものと思うとそうではないんだよな。 富士大神から木花咲耶姫に変わったのは確かだが、江戸初期には木花咲耶姫を祭神としていたところはあった
父神の大山祇神が一緒に祭られてる事が多いのをみると、どちらかというとそちらの流れじゃないか
大日如来から連想するなら、それこそ天照大神を当てはめた方が手っ取り早いわけだし ウィキ情報っぱいが・・・・
江戸時代には国学者とか神主以外誰もコノハナサクヤヒメなんか知らないよw
神仏混淆といったって神の方は仏に圧倒されてた。
今神社になっているものも江戸時代には寺だったところがほとんど。
寺の中に神の祠もチラホラあるという程度だった。
江戸時代までは、仏には合掌し神には柏手をたたくなんて風習もなかった。
江戸の人達は神と仏を区別していなかった。
あとね
浅草寺のは元々は何の木造だかわかったもんじゃない >>797
葛飾北斎が富嶽百景で木花咲耶姫を描いてるの見たことあるけど それは葛飾北斎が学(教養)があったということだ。
北斎が富岳百景を描いた頃はもう幕末に近く、国学の思想が普及してきた時代でもある。
絵の中に解説のように木花開耶姫命と書き込んである。
これがないと何だか分からないからだ。
とりあえず言っておくが、表題のようなものは全部に書き込んである。
しかし鳥越の不二とか青山の不二とか場所が書いてあるだけで、
内容については書いていない。
それが木花開耶姫命の絵だけは何が描いてあるのかがしっかり説明してある。
木花咲耶姫は神仏習合では観音の垂迹である。だから浅間権現なの。
(だから浅草寺にある木花咲耶姫の木造は「浅草の観音様」の洒落w) 木花咲耶姫は亭主がニニギノミコトで、ニニギノミコトは高千穂峰に天から降り立った
ぐらいの神だからその女房も山に縁があるだろうと思ったんだろ
それに二ニギノミコトと木花咲耶姫の子供は山幸彦。海彦と山彦の山彦。
だからこれも山に因縁が深いと思ったんじゃないの。 平安中期以降観音信仰が盛んになり、仏像では特に密教的な十一面観音が
人気を集めた。頭の上に十一面の相を備えるややグロテスクな菩薩である。
グロテスクといえば千手観音も人気であった。
観音信仰は現世利益を求める信仰だったので、普通の仏よりインパクトのある
相貌の菩薩が好まれたのである。
なお、菩薩は人間であり(実体は仏だったりするのだが)この世の存在である。
これに対して仏は最低でも如来であり自分の浄土に住まいする。遠い遠い存在
である(自分の浄土に往生した人を迎えると本願を立てた阿弥陀如来は別)。
だから菩薩はこの世で人を助けることができると考え、人は菩薩に救いを求めた
のである。
平安時代後期から聖徳太子が観音の化身であるという太子信仰も始まった。
太子信仰は観音信仰の一種であり、太子堂があちこちの寺に建てられたのである。
木花咲耶姫は本地垂迹説では観音の垂迹(現れ)である。だから観音信仰の一種と
して木花咲耶姫信仰もあったのである。
ただ聖徳太子と違って拝んでも功徳があるとも思えない。
だから浅間信仰と結びついて山の神として拝まれるようになったと思われる。
ただし、この信仰は多くの山伏の中のごく少数の一派がやったことだろう。
始まったのは江戸初期からか。 ↑の下から四行目 つながりが悪いので加筆
>ただ聖徳太子と違って拝んでも功徳があるとも思えない。
>だから浅間信仰と結びついて山の神として拝まれるようになったと思われる。
観音信仰の一種であったが、同じく観音信仰である太子信仰と違って民衆の間に
広がらなかった。
それでごく限られた範囲、すなわち不二信仰で食べている行者や御師(おし)の
間にわずかに残ったのだろうということ。
なお、観音信仰というのは登山と結びつきやすい。
なぜなら観音の浄土(菩薩浄土なので娑婆にある)は補陀洛山という山の上に
広がっていると考えられていたからである。
今日でも観音堂と呼ばれるような観音像を祀ったお堂は坂の上にあることが多い。
長谷寺や東大寺の二月堂は何故わざわざ登廊(のぼりろう)を登るのか?
清水寺は何故坂の上にあるのか?
長谷寺や清水寺の舞台は何を表しているのか、考えたことはあるだろうか。
観音信仰の行き着くところ、山登りということになるのは当然であった。
山といえば富士、そこで富士山の上の夕焼け雲にに観音のお姿が映えている
というのがよい図柄なのだが、日本では山は山の神のものである。
仏ではなく神のものである。
さらに山の神は女神である。
そこで観音の垂迹が丁度良く女神であることから、木花開耶姫命を富士の山の神と
したのであったと思われる。
以上は、しかし仏教の考え方である。
平田神学の狂信者宍野半(ししのなかば)の考えはそうではなかった。 京都の伏見稲荷大社はきわめて由緒のある神社。
平安時代から官幣社だった。
だから明治になったときに、これを官幣社にしないわけにはいかなかった。
だが、祭神が困る。稲荷なんだからどう考えても狐だろ。狐さんだよ、コンコン。
しかし、狐に天皇が祭幣を奉るわけにはいかないだろ。
しかも官幣社にするには古事記や日本書紀に名前の出ている天皇家の祖神でなければならない。
そこで明治の神祇官は
稲荷→稲を実らせる五穀豊穣の神ということで
五穀豊穣の神を古事記や日本書紀の中に探すと、それらしいのがあったんだな。
江戸初期ぐらいに同じようなことを言っている神官だか国学者はいたんだけどね。
当時から狐じゃ困ると考えてた人はいたということだ。
ウカノミタマ という神を祭神にしたのだ。
古事記ではスサノオの後妻さんであるカムオオイチヒメが産んだ子である。
この子供の同母の兄が大年神(おおとしのかみ)。年神様というのはお正月に来る「お正月さん」。
日本書紀ではイザナギとイザナミの間に生まれた子である。
飢えていたときに生まれた子なので、ご飯が食べたかったろう→豊穣の神ということになった。
論理が分からないが。
古事記でも日本書紀でもいい加減に扱われている。
しかし、祭神としては宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ)という重々しい名前になっている。 祭神の適当さをどんどん暴いて明治以前の1500年間信仰された在るべき姿に戻して欲しい >>795 の補充
なお、>>795 の神武天皇陵は、何もないところに作ったわけじゃなく、
ごく小さな古墳があったのだという。
奈良では野原や畑の中に誰のものとも分からない古墳(ただの土の盛り上がり)がある
ことなど珍しくなかった。地元ではミサンザイはん、と呼ばれていた。
なお、ミサンザイと呼ばれる古墳は多数ある。ミササギ(陵と書く)のなまりだという。
この古墳があったからこの場所に神宮が作られることになったのだろう。
さすがに何もないところからでは伝説も作りようがないから。
幕末文久の頃から神武天皇陵への作り替えが始まったという。
国学者や神学の徒たちがやったことである。
こういう人たちが神祇官の官僚となってさらに大規模なものにしていった。
森も植林で作っていったのである。巨木を移植したりもしたらしい。
ここ面白い。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/23/133823
このページは神武天皇の陵は本当はどこにあったのか、という問題意識で書かれているが、
残念ながら神武を実在の天皇と考える人はきわめて少数派だろう。
しかし、こういうブログを読むと、大仙古墳なんかもあの巨大さと形の整った様は怪しいと
思えてくる。あの周濠や堤は復元工事によるものであることは知られている。
そのときに意図的に大きくされてたりしないよな?
調査を拒むのはそういう理由もあったりして。 祭神の適当さというのは、段々意味が分からなくなっていったものだから。
だから、もっと前だよ縄文とか何億年前w 当時はそれが主流だった時の流れとともに歪みが酷くなりそのものの意味がなくなってしまったが、その祭神だけ残っているものが多いんだよ。
鬼ももう鬼ではなく化け物、今は化け物の時代になってしまっているんだよ。 >>803
ほとんど意味が変わっているような感じだけど、スサノオもいざなきももう意味がないものになっていると思う。 御由緒の絵
左は月。
アメリカなんかは月が低いところで見えている。
生臭いものを感じた。
右は太陽。
太陽が沈んだままという意味なのかちょっと、分からない。
これも生臭いもの。 富士山は地盤沈下で出来たやっぱり日本の象徴の山として出来たもの。
活火山ではない。
この富士山が崩れることは許されないとなっている。 悪名高きバス女
親友
こえだめ
自称
大怜人長さま https://ameblo.jp/purna-aqua/entry-12316693267.html
冨士講の御師の家から出てきた木花咲耶姫の画像
掛け軸なのかな。これだけ赤い染料は昔はない。
明治以降のものじゃないかな。
上の向かって右が太陽で左が月
木花咲耶姫の裾は開き、女陰の形になっている。
クリトリスのようなものまで描かれている。
上の富士山が男根で、太陽と月は睾丸だろう。
本当は富士や日月は下に描いて、その上に木花咲耶姫が乗っかって
いる姿を描くはずなんだろうが、それでは卑猥過ぎるのでこんなかんじに
なったのだろうか。
御師というのはツアーコンダクターのようなもの。
伊勢参りでも伊勢神宮の手前の船着き場で待っていて、団体を率いて
参拝から土産物の手配まで世話をした。 神の言葉に男と女の営みに関することは悪魔の言葉。
何故そう見えるのか、そうなったのか謎ですな。 ググった内容をそのまま知識人のごとくあげる
こえだめ
自称大怜人長さま
しおかわ
うざいずら! 明治まで過去の天皇を神社の祭神として祀った例はなかった。唯一の例外は崇徳天皇である(※)。
しかし崇徳天皇は怨霊になってしまったので、その祟りを封じるために神と祀ったのである。
神として奉戴すれば機嫌がよくなり怒りも鎮まるだろうと考えたのだ。
天皇は現人神(あらひとがみ。人間としてこの世に現れた神)なのだから、人間として生きている
間だけが神。死ねばそれまでなのである。天皇を拝みたければ今生きている天皇を拝めばよい。
死んでしまった天皇を神社の祭神として崇拝の対象にするなど、宗教として健全なことではない。
※ 八幡宮では八幡神は応神天皇であるとしているところが多い。これに父の仲哀天皇や
母の神功皇后、重臣の武内宿禰などを取り混ぜ、全員を総称したものが八幡神であると説明
している神社もある。しかし、これらの人物たちは実在しないと解するのが普通。
八幡神という神が訳の分からない神なので(つまり古事記にも記紀にも出てこない)、
そのままだと官幣社にできない。
そこで記紀に出てくる実在しない天皇や皇后たちを無理矢理にあてはめて、とりあえず説明の
つく形にしたということだろう。(戸籍のない神に戸籍を与えたようなものか)。 去年だったから、蔵王山に出てきたのもその八幡神だぞw >>819
気象庁の蔵王山監視カメラ。
どの監視カメラだったかなw
身の丈15mはあったぞw >>818
六国史に一切登場しない神って式内社の大半だと思うぜ 明治まで過去の天皇を神社の祭神として祀った例はなかった。唯一の例外は崇徳天皇である(※)。
しかし崇徳天皇は怨霊になってしまったので、その祟りを封じるために神と祀ったのである。
神として奉戴すれば機嫌がよくなり怒りも鎮まるだろうと考えたのだ。
天皇は現人神(あらひとがみ。人間としてこの世に現れた神)なのだから、人間として生きている
間だけが神。死ねばそれまでなのである。天皇を拝みたければ今生きている天皇を拝めばよい。
死んでしまった天皇を神社の祭神として崇拝の対象にするなど、宗教として健全なことではない。
※八幡神は実在の天皇を祀ったものでないことは上述
にもかかわらず太政官は、樫原神宮以外にも天皇を祀る神宮を作った。
明治28年、京都に平安神宮建立。
これは平安遷都を実行し京都での最初の天皇になった桓武天皇を祀った神社。
ついでみたいに京都での最後の天皇である孝明天皇も祀られている。
そして大正9年に明治天皇を祀った明治神宮建立。
これは東京遷都により東京で最初になった天皇ということで。
帝都の鎮めとして建てたんだな。 神武と桓武をあげたなら、忘れちゃいけない天智天皇。
近江に遷都し近江朝廷を作った天皇なので、滋賀(志賀)の都にも神宮を作らねばならない。
滋賀県大津の大津宮跡に近江神宮を建立。
皇紀2600年の記念行事として昭和15年に建てられたのである。
神社は明治神宮を参考にしたのか、明治神宮によく似ている。
同じ工匠たちが作ったのかも知れない。
明治神宮と同じように広い森に囲まれている。
明治神宮の森は代々木ヶ原という周辺の原っぱを森にしたものであるが、ここも同様。
もともとは森なんか無かったところに植林によって森が作られたのである。
しかし、神社というものは記念行事として建てたりしていいものなのか。
そういうものじゃないだろうと思うのだが。 宍野半は富士山本宮浅間大社の宮司となった後、つづけて周辺の神社の社司になった。
北口本宮浅間大社は元々は諏訪神社であり、境内の片隅に富士権現が祀られているだけで
あった。富士権現の祠は武田信玄が建立したと伝えられている。
神社は江戸時代に入ってから荒廃していたが、享保のときに冨士講の指導者・村上光清が
再建、富士吉田口の起点となり、門前には宿坊が100軒ほども立ち並んでいたという。
宍野半はこれらの冨士講全体の上にも君臨する。まずは富士一山講社という団体を設立、
御師たちの指導者的立場に立ち、各冨士講を一つにまとめあげた。
(これは多分に国家権力を後ろ盾にした強制手段を伴うものであった。)。
その後、扶桑教という富士山を崇める教派神道の一派を設立し、その教祖となる。
北口本宮浅間大社に隣接して宗教本部が建てられたが、後に世田谷区松原に移転。
浅間大社の隣接地に元祠が残されている。
八合目にある富士山天拝宮はこの宗派の社である。
元祖室(がんそむろ)という山小屋が併設されている(というかこちらが中心)。 >>826
明らかに無理やりニュースにして国民に認識をじわじわ浸透させようとしてるわな 数ある浅間神社でオススメありますか
古くからある方がいいっす ありますね 富士吉田市にある北口本宮浅間神社ですね まじオススメです 816 名前:名無しさん@1周年 [] 投稿日:2020/03/20(金) 15:37:47.09 ID:FbNdadST0 [4/4]
市長がチャッカマンで点火wwwwww
チャッカマン 聖火
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/olympic/1584827614/ 出雲大社:「2013年4月2日(神武天皇)に、
雲南市でワクチン接種後の保育園児24人を、
風疹に罹患させてしまいました。
2013年発の、スペインの太陽で済みません。
ガラクタで済みません。
実は祭神は、ジブリのナウシカの巨神兵なんです。
シクシク、お許しを・・・。」
No.1598 保育園における風しんの集団発生
[ 詳細報告 ]
分野名:ウィルス性感染症
登録日:2016/03/08
最終更新日:2016/05/27
衛研名:島根県保健環境科学研究所
発生地域:島根県雲南市
事例発生日:2013年4月2日
事例終息日:2013年6月6日
発生規模:
患者被害報告数:24名
死亡者数:0名
原因物質:風しんウイルス
キーワード:風しんウイルス、集団発生、MRワクチン効果
No.1598 保育園における風しんの集団発生 ? H・CRISIS
https://h-crisis.niph.go.jp/?p=84267 富士山に近い浅間神社でご祈祷をして頂ける神社はいくつぐらい有りますかね
以前ご縁のあった方が一番メジャーな所では無い(静岡では無い?)富士浅間神社に関係して居る方で、その神社でご祈祷をお願いしたいと思っております
たしかその神社で代々神職を受け継いでいるとお聞きしました
ご存知の方がいらっしゃいましたら宜しくお願い致します ありがとうございます
色々調べた結果、北口本宮浅間神社にお願いしようと思います 開山祭
7月10日 午前9時前後 (浅間大社 拝殿)
7・8・9月の富士山山開きにあたり、安全を祈願する祭りです。
祭典終了後、湧水献上、山岳救助隊出発式、
村山浅間神社等において開山式が行われます。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています