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X68000に足りなかったもの

レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001ナイコンさん
垢版 |
2022/02/22(火) 02:37:36.35
パターン定義用のSRAM
スプライトのサイズ
高品質なADPCM音源
0854ナイコンさん
垢版 |
2022/04/23(土) 00:22:55.03
>>847
>性能も悪かったし機能もいろいろ足りてない

他機種ユーザーだが、そこは訂正すべきだ。
何が足りなかったのか具体例も出さず煽っているだけの発現は許せない。
0856ナイコンさん
垢版 |
2022/04/23(土) 07:29:55.94
しょーもな、やっぱり友達x0が乱立させたスレか。
ねぇ、友達x0はあいかわらず頭ん中糞まみれなの?
0857ナイコンさん
垢版 |
2022/04/23(土) 07:32:21.97
他機種ユーザーになりすましバレバレのお馬鹿X68ユーザーw
0859ナイコンさん
垢版 |
2022/04/23(土) 08:17:52.12
全機種あわせて15万台くらいだっけ
ぴゅう太と同じくらいなんだなw
0862ナイコンさん
垢版 |
2022/04/23(土) 10:29:04.09
きょうもはってみる

p426-p428 渡辺繁

Q:しかし、映像作品のレーベルを立ち上げていたとはいえ、入社3年目のメーカーのサラリーマンと、
大阪でアマチュアフィルムをつくっていた人たちが、劇場公開大作映画をつくってしまったとは、何度聞いても実感が持てないんですよ。

渡辺:そうですか?しかし岡田さんたちも戦略を考えていましたけど、僕もきちんとステップを踏んで進めていったんですよ。
まずパイロットフィルムをつくって、製作と営業の目鼻をつける。
それが完成したのが1985年。そしてパイロットフィルムを社内はもちろん、いろんなところに見せてまわった。
押井さんにも見せましたし、庵野秀明さんが『風の谷のナウシカ』に参加していた縁をたどって、宮崎駿さんのところにも見せに行きました。
当時、宮崎さんの個人事務所、二馬力が阿佐ヶ谷駅の近くにあったんですけど、僕はそこにひとりで会いに行きました。
目的はまず、直接的にフィルムの感想を聞くこと。そしてもうひとつ、宮崎さんは「ナウシカ」の仕事で、映像の世界に確固たる存在感を示していたので、
もしその宮崎さんがフィルムを評価してくれれば、バンダイの内部も説得できるようになるだろうと考えていたんです。
0863ナイコンさん
垢版 |
2022/04/23(土) 10:29:28.90
Q:宮崎さんの反応はいかがでした。

渡辺:宮崎さんとは3時間にわたって話して、といっても宮崎さんが2時間30分お話しになって、僕は10分だけでしたけど(笑)。
そのときに宮崎さんは「庵野君たちはアマチュアだけど、ちょっと違う存在だと思う」と評価してくれたんです。
「アマチュアには豪華な出窓はつくれても、基礎をきちっとつくるという部分でふらつく人間が多い。しかし彼らはきちんと基礎をつくって、
たぶん新しい建物をつくることができそうな気がするから、もしも必要ならばバンダイの役員会の皆さんの前で、アドバイスなどをして差し上げてもいいですよ」
とまで言ってくれたんですよ。
もうそれだけで、僕は我が意を得たりといいますか、「これで大丈夫だ」という気分になりました。
実際に役員会でも、「宮崎さんはこうおっしゃった」と伝えたら、それで企画は通ってしまいました(笑)。
ただし、その段階では満額の予算はリスキーだから、とりあえず全体の4分の1は認めてやる。それで制作を開始し、その間に配給会社を決めて興行を確定してこいということになった。
これは僕の手には負えなかったので、当時広告代理店にいたプロデューサーがバンダイに出向してくれて、僕の上司になり、彼が動いて決定してくれた。
こういう人がいたから映画も実現できたんです。こういう段階を踏んで、公開に繋げていったわけですよ。
0864ナイコンさん
垢版 |
2022/04/23(土) 10:29:50.22
Q:それらの段階を、渡辺さん本人はどのように体感していたのでしょうか?毎日が楽しくて仕方がないという感じでしょうか。

渡辺:背景を知らないままに始めて、しかしだんだんいろんなことがわかってくるとプレッシャーも感じてくるし、怖くもなりましたね。
白い目で見られて、迫害されながらも、待ち受ける障害を突破していく。
ほとんど「王立宇宙軍オネアミスの翼」の物語そのままですよ。「誰もやったことがないことをやる」という過程は、あの映画で語り尽くされていますよね。
あの作品の構造そのものだと思います。公開した当時、「僕たちの物語だ」という文脈で、雑誌に取り上げられたりしましたけど、実際、みんな無名だった。
それが徒党を組んで歯を食いしばりながらやった作品が「王立宇宙軍」だったんです。いい経験をさせてもらったと思います。
もしあの映画が実現していなかったら、今の僕もなかったわけですから。

Q:制作過程で出来上がってくる映像についてはどのように感じていたのでしょうか。やはり出来にわくわくするようなものがあったのでしょうか。

渡辺:それはありましたね。そういうものがなかったら、企画を推進するモチベーションにならないじゃないですか。
岡田斗司夫さんや山賀博之さんと話して出てくる展望や、ほかのスタッフに見せてもらった絵は、僕にとってやはり「やる気の薪」のようなものでした。
どんどん自分にくべていきました。
0865ナイコンさん
垢版 |
2022/04/23(土) 10:30:11.96
Q:これはすごい映画になるぞ、という高揚感のようなものを感じていたということでしょうか。

渡辺:「つくれるものなら、こんな映画をつくってみろ」と人に誇れる映画を、つくっているんだという感覚だったような気がします。まあ、思い込みなんですけどね。
「こんなすごい映画があったのか」とも感じていましたしね。あの頃は、ほとんど毎日のように吉祥寺に移ったガイナックスのスタジオに通っていましたよ。
そこで動画のテスト撮影のビデオなんかを見せてもらって「すげえな」と思っていました。
でも、祭りの準備じゃないですけど、できるまでがいちばんわくわくするんですよね(笑)。
完成が近づくにつれて、前売り券をバンダイのグループの中でさばかないといけないという大きなプレッシャーも出てきましたし。それが興行を確定する条件だったんですよ。
本当はそういう、タコが自分の足を食べるような行為は間違いなんですけど。そうした現実を前にどんどん不安になる自分と、高揚していく自分とが交錯していました。
もう十数年も前の話ですけど。

Q:当時は、ほとんど寝ていないという日常で......。

渡辺:いや、そんなことはない。ちゃんと寝ていました。酒を飲んでおねえちゃんと遊びにも行ってましたし。
不眠不休でというよりも、なんか自然にでかい顔して、ことに当たっていました。
でも、年々やっていることがしんどくなってくるんですけどね(笑)。大変です。しかし、今でも思いますよ。
「王立宇宙軍」の主人公だったシロッグのように、障害をどんどん突き破っていかないといけない。誰もやったことがないことをやろうとしたら。
0866ナイコンさん
垢版 |
2022/04/23(土) 10:30:33.81
Q:現在では、バンダイビジュアルの国内のアニメーションのパッケージソフト市場におけるシェアは3割近くになるそうですが。

渡辺:すごく簡単にはじまっちゃったんですよ(笑)。ガイナックスのみなさんとの出会いも、すごく軽い感じでしたしね。
映画制作のことはなにも知らないままに「王立宇宙軍」をはじめてしまった。それと、企画開始の当時は、バンダイもまだ株式公開する以前で、いい意味でまだ中小企業でしたからね。
風通しがよく意見・提案を聞いてくれる風土もあったし、「チャンスがあれば、失敗を恐れずに打席に立ってバットを振ってみろ。
ベンチの裏で素振りをしていても永遠にヒットは打てない。三振でもいいからとにかく打席に立って振ってこい」と、さんざん言われていました。
そういう会社でしたから、こんな素人みたいな僕に、入社3年目か4年目の僕に、映画をつくらせてくれたんだと思います。

(2004年2月バンダイビジュアル社内にて)
0867ナイコンさん
垢版 |
2022/04/23(土) 11:27:14.63
>>859
2桁代の本数しか売れてないアプリのユーザーが3桁(もしかすると5桁!)もいたというのがX68。
ハードが売れなくても、それ以上に売れないのがソフトです。
0868ナイコンさん
垢版 |
2022/04/23(土) 11:29:30.33
なんか技術的なネタが最近無くなってるな
VRAMの解像度が(公式には)256の倍数しか無いのは
Y座標の計算がしやすいソフトウェア的な理由なのか
設計がしやすくコストが低減できるハードウェア的な理由なのか
どっちなんだろう
0870ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 08:34:06.77
荒らしまわるクソなユーザーの前に技術的なうんぬんを語って「X68はすごいきかいなんだー!」ってやろうとしても無駄だからだろ。
0871ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 08:50:49.06
きょうもはってみる

貞本義行 1962年、山口県徳山市(現・周南市)生まれ。
漫画家、アニメーター、キャラクターデザイナー。
「週刊少年チャンピオン」第16回新人まんが賞に入選、漫画家としてデビューする。
翌年に大学の後輩であった前田真宏氏の誘いでテレビアニメ『超時空要塞マクロス』('82)の制作現場に参加。
庵野秀明氏、山賀博之氏らとの運命の出会いを果たし、「DAICON4」のオープニングアニメ制作に参加する。
大学卒業後、テレコム・アニメーションフィルムに入社。
その後退職し、1987年に公開された劇場映画「王立宇宙軍オネアミスの翼」にキャラクターデザイン、作画監督として参加した。

アニメと漫画の両分野で業績を残す人

アニメーションや漫画作品の登場人物は、現実のなにかを継承しながらも、線で描かれた現実には存在しない姿かたちの存在。いわゆるキャラクターである。
写実ではなく、人の心が生み出したキャラクターは、より人の本能に忠実であり、ときに実在の人物をはるかに凌駕する魅力を放ち、人をトリコにする。
貞本氏は、1987年に公開された劇場映画『王立宇宙軍オネアミスの翼』において、作画監督とキャラクターデザインを担当した。
当時、貞本氏は数本のアニメ作品の原画を描いたというキャリアがあったのみ。まだ20代前半であった。しかし貞本氏はこの大役を見事に成し遂げる。
「王立」の舞台はオネアミスという、現実と似ているが異なる架空の世界。これはアニメーションという表現の中で「現実にいる人間」を描くために、
監督の山賀博之氏が意図的に選択した方法だった。この作品において、貞本氏の創造したキャラクターは、観る者に「こういう人っているなあ」という実在感を感じさせる。

文:堀田純司 ガイナックスインタビューズ p124より
0872ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 08:51:23.92
p134-p136 貞本義行

現場はぐちゃぐちゃになってからが面白い

Q:ガイナックス作品は、見ると「うわ、自分もその制作の現場にいたかった」と感じるという特徴がありますね。

貞本:会社の成り立ちからして仲間うちでの自主制作が母体ですから、そこはほかの会社とは違うでしょうね。
ガイナックスの最初の礎石となった作品、「王立」なんかは「参加して楽しかったなあ」と、今でも思い返します。

Q:現場の楽しさとは、どういう部分にあるものなのでしょうか?

貞本:現場っていうものは、進行がぐちゃぐちゃになって、システマチックに動かなくなればなるほど、面白いんですよ(笑)。
「ナディア」でもそうでしたけど、「エヴァンゲリオン」で後半、紙芝居みたいになったりするじゃないですか。僕は「エヴァ」では基本的に現場にはいなかったですが、
放映を見ていてすごく羨ましかったですよ。「うわ、コンテをそのまま撮影しているよ」とか(笑)。もう激怒巨烈かもしれませんけど。
スタッフは本当に楽しかったでしょうね。お客さんにしてみれば「なんだこれは?」ってことになるでしょうけど。
つくり手側にとっては「やっぱりこういう修羅場がないと!」って思います。醍醐味ですね。そういう状況で、みんなでなんとかしていくのが(笑)。
「うわあ、2週間でホントに30分できたよ!」とかね。その面白さは現場にいないと楽しめないです。ぜひ参加してほしいですね。
0873ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 08:51:39.44
Q:作品について意見をぶつけ合ったりもするわけですね。

貞本:やっぱり年齢が近いですから、大いに議論しますよ。監督から動画まで年齢差が10歳もありませんでしたから。
これがスタジオジブリとかならニュアンスが違ってくるんだろうな。宮崎さんなんか、みんなでソバを食べたりとか、現場を一体化させようと気を遣ってますよね。
僕らはそうした一体感を、もとから努力なしに素で持っている。普通は、動画をやっている立場で、監督が目の前にいるのに「つまんないよ、これ」とか、
横で色指定やっているのに「なにこの色」って平気で言える環境って、なかなかないですからね(笑)。
しかし今では、ガイナックスもスタッフにちょっと年齢差が出てきて、新人さんなんか庵野さんや僕を見かけると「そそくさー」という感じでいなくなったりします。
そういうのを見ると「ああ、ウチの会社もちゃんと会社らしくなってきたなあ」と感じるんですよ。少し寂しいものもありますけどね。

Q:アニメーションの現場に参加したのはまだ学生だった当時、『超時空要塞マクロス』が最初だそうですね。

貞本:その頃、庵野さんや山賀さんが大阪から出てきて、「マクロス」の現場に参加していたんです。アートランドという会社でつくっていたんですけど、
そこを手伝わないかという話があって、「アニメとはなんぞや」という感じで、僕もちょっと見学がてら行ってみた。それがきっかけでした。
あの頃はもう、訳もわからずやっていましたけど。
0874ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 08:52:00.76
Q:「当時、すでにアニメーションを職業にしようと考えていたのでしょうか?

貞本:全然考えてないですね。いや、とにかく絵しか取り得がなかったんで、絵で将来食べていきたいという希望はありました。
しかし「絵で食う」といっても間口が広くて、学校の美術の先生とか、看板屋さんだとか、いろいろあるじゃないですか。
だから、「せっかく山口から出てきたんだから、なにか絵で食っていけたらいいなあ」というぐらいの心境でした。

Q:みんなでつくる楽しさは、「マクロス」でいきなり知ってしまったんですか。

貞本:そうですね。「マクロス」の時期に、ガイナックスの母体であるDAICONFILMの自主制作にも参加していましたけど、わりと当時の体質がそのまま
「王立」に移行していると思いまます。

Q:集団でつくる楽しさはある程度、集団でつくる現場に普遍的にあるものでしょうか。

貞本:どうでしょうか。今のガイナックスでも、あの「王立」の頃の感じがあるかというと、やっぱり昔とは違ってきているんですよ。
あの頃は、自分たちの中にカリスマがいなかったんです。
たとえば新人さんが今、この会社に入って庵野さんや鶴巻を見ると、「うわっ、庵野さんが、鶴巻さんが歩いている!」って思っちゃうじゃないですか。
そういうのは僕たちにはなかった。あくまでも同列の仲間が集まって、カリスマどころかダメ人間が集まってつくっているという感覚でした(笑)。
しかしその一方で、「俺たち、すごいぜ。すごいもんつくってやるぜ」という無闇な盛り上がりもあったんです。「成り上がろうぜ」という野心もありましたし。
最初のガイナックスの仕事場って、六畳二間ぐらいの普通の民家だったんですよ。で、そこでは毎晩、押し入れの上の戸袋にまで人が寝ていましたね(笑)。
寝ている人と起きている人が、入れ替わり立ち代わりで仕事していました。あの頃は、机の下に簡易ベッドを置いて、仕事をしている人のすぐ横で寝ていたりして、
庵野さんにしても僕にしても家に帰らなかった。それで夜な夜な、2時をまわってみんな疲れてくると、酒盛りをしたりとかですね。やっぱり楽しかったですよ。
でも、そういう雰囲気は今ではもう、ないかなあ。新人さんもいっぱい入ってきていますけど、もっとハメをはずしてバカ話とかすればいいのに。
0875ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 08:52:13.43
Q:そういう現場は聞くだに憧れますねえ。

貞本:だから今は少し寂しいですよ。こういうことばっかり言うと「またオヤジが昔話を」って、言われちゃいますけど(笑)。

Q:いえ、しかし昔の創作の現場は、どの分野でも濃かったですよね。

貞本:そうですよね。たとえば、いつも短パンに首から手ぬぐいをぶらさげて会社の中を歩きまわっている摩砂雪さんという人がいますけど(笑)、
よく摩砂雪さんと、夜中に観てきた映画について話し合ったりするんですよ。それは議論なんてレベルじゃないです。
酒を飲みながら「あのシーンはバカでよかった」とか、たわいのないバカ話なんですけど、そういうバカ話の楽しさから、作品をつくる面白さってはじまってるのかなと思うんですよ。
僕から見ると、動画を始めたばかりの新人さんがなんで家に帰るのかなと、不思議に感じます。家に帰ってもすることはないだろうに。テレビを観に帰るのかな。
「だったら会社にいたほうが楽しいでしょう」と思いますよ。僕はあまり現場には口を出さないようにしていますし、イラストのように作品に付随する仕事は、
できるだけ若い人にふってほしいと考えているんです。そうしてもっとチャンスをつくっていかないと、若い人も自分で自分に壁をつくってしまうので、それは気をつけています。

(2003年5月ガイナックススタジオにて)
0877ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 09:22:31.21
>>874
すいません 訂正

僕自身は地味な服が好ァッション雑誌を見るなんて、やっぱり抵抗ありましたもん。

僕自身は地味な服が好きなので、あまりファッションに興味はなかったんですよ。見てもらえばわかりますけど(笑)。
昔、「ポパイ」とか男向けのファッション誌が創刊された当時、僕はそういうものに対してなんとなく軟派なイメージを持っていたんです。
だから「男が、こんな雑誌を見るとは......」と思っていました。しかしおかげさまで、あのへんのファッション雑誌を手に取るのが、抵抗なくなりましたね(笑)。
若い人が聞いたら「なに言ってんの」と思うかもしれないけど、ファッション雑誌を見るなんて、やっぱり抵抗ありましたもん。
0878ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 12:50:52.04
反論できないと発狂コピペって何歳なんだよ
0880ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 13:31:53.02
BUSINESS PRO68Kというのがあったらしいが例によって「在っただけ」っぽいな。
VisiCalcやそのパチモン?のSuperCalcやMultiPlan、Lotus1-2-3などの有名どころはリリース時期的にはX68000に移植されていてもおかしくはない。
それでも68の孤独なガラパゴスパソコンの地位は不動のままだった。
0881ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 16:03:46.10
X68にはワープロすらまともな製品がないのに表計算アプリがシャープから出てるだけでも驚きだわw
0883ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 17:12:01.89
X68の「まともなワープロ」って、入力も表示も遅くて日本語変換がバカなフォントが替えられるだけが取り柄のゴミのことかな?
0884ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 17:24:35.13
表示を日本語にして、日本語が通るだけレベルのカスタマイズした英文ワードプロセッサを「ワープロ」として「移植」した恥ずかしい奴ならあったろ。
あとASK68つかってる時点で「まともな」という形容詞は着けちゃいけない。
0885ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 17:31:53.41
雷語とかそれなりに便利だった記憶しかないが
0886ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 17:34:48.15
98やFMRと比べると漢字入力は信じられないくらいもっさりしてた
0887ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 17:36:44.55
                   負
                   け
       /⌒\     オ 犬
      ノ)´・ \・`    h の
     (/ (   ▼ヽ    ボ
       / \_人_)    エ
      /|\ソ ヽ\
     /  ̄L\|∩)
     | \ /\)\\
      \ 〆  /  | \\
       |\/ ∧゚ |  \\_
       |   / \|_  | /
     _|_ ノ  ̄\  \ レ  オエ〜〜♪
     .|\\__レ  |  |
     .|  | ̄   |  | | | |
     .|  |    |  | | | |
     \|    |__|_|___|_|
        ̄ ̄  | | | |
            ヽ_ヽヽ_ヽ
0888ナイコンさん
垢版 |
2022/04/24(日) 22:52:26.63
>>857
TOWNSスレが荒らされてないのはX68000ユーザーが紳士的だという証拠だな
これを書くと自演して荒らすのかもしれんがね
0891ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 05:27:10.13
wiki荒らした前科持ちですよねX68ユーザ。
どこが紳士なんです?
ただのクズな犯罪者じゃないですかーw
0892ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 05:51:15.69
X68ユーザは人種者別発言繰り返したり殺人賛美的な発言も繰り返してる。
無関係なスレに98を侮蔑する書き込みを繰り返してもいる。
X68はこのようなすばらしい紳士である。
0894ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 06:33:00.90
X68は荒らし行為をTOWNSユーザのせいにしようとしてる立派な紳士ですねw

X68ユーザが荒らしてるのはバレバレだよ。
0895ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 07:47:19.32
X68ユーザは紳士と言うなの犯罪者
0896ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 07:51:22.58
TOWNユーザーなんてそもそも絶対数少ないしマウント取ってる人も少ない
絶対数の多い98ユーザーにもやべえやつは居るだろうがX68ユーザーはほとんどがやべえやつ(犯罪者)
0897ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 08:12:59.61
この前まで「98ユーザーがX68ユーザーを貶めるために〜」とか言ってたやつか。
節操なくて草。
0898ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 09:26:23.47
X68ユーザに無いのは節操だけじゃなくて常識と良識と知能もないよ。
あったら人種差別まるだしの発言繰り返したりしないものね。
0899ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 09:37:34.69
祝一平みたいなのが代表的なX68000ユーザー像だな
0900ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 10:14:00.58
きょうもはってみる

p156-p160 貞本義行

Q:しかしそれほどまでに愛される二次元の、描線でできた造形物とは、不思議なものですね。それを生み出す能力とは、それだけで天才的な才能だと思います。

貞本:ただ、キャラクターが描線でできているといっても、僕の場合は二次元の造形にこだわってはつくってないですよ。
ナディアの例にしても、やっぱり自分がそれまでに実際に見てきた女の子のコラージュというか、「あの子はすっごい暗かったけど、なにか魅力的だった」とか、
そういう僕自身が会ったことのある人の印象が、重なりあって出てきているんです。
庵野さんもキャラクターを考えるとき、ヴィジュアルを主体にしていないと思います。あの人の場合、そのキャラクターを演じる声優さんの性格だとか、
過去のエピソードをライブ感覚でストーリーの中に入れこんでいったりするんですよ。
血液型だとか誕生日だとかも聞き出して、作品が進む中、脚本で追いかけてそれを反映させていく。それはそれで面白いなと思います。
でもそうなると果たしてそれが、純粋に二次元の世界の中で遊んでいるキャラクターなのか、現実の人格の反映なのか、境界線がわからなくなってきますよね。

Q:しかしどこかで、その貞本さんが経験した抽象的なイメージの積み重ねが、紙の上の具体的な造形に変換されるわけでしょう。
それは、そうした能力がない人間からすると不思議な瞬間にも感じられます。

貞本:でも、似顔絵ってわりと誰でも描くじゃないですか。人の特徴をとらえて似顔絵を描いていこうとすると、特徴を表せば表すほど、その絵は、
どんどんどんどんキャラクターになっていくと思いますけど。
「王立」のときも、実際に身のまわりにいる人をモデルにしてしまうことから始まっています。
0901ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 10:14:17.99
山賀監督に「このキャラクターってどういう人?」と聞くと「この人はB型で、こういう人で、こういうときにこういう行動をする人」と、性格を詳しく解説してくれるんですけど、
それが全部誰のことか丸わかりなんですよ(笑)。ああ、あの人ね、この人ねと。そうするとやっぱり、その人の顔を思い浮かべながらデザインしていくことになります。
ただ、そっくり描いてしまうと似顔絵にしかならないんで、そこは特徴を自分の中でアニメのキャラクターとして翻訳しながら、デザインしていきました。
でも描いてみて絵になる人と、ならない人ってあるんですよね。僕なんかは絵にならない(笑)。
ただそういう現実の絵から発想していく方法も、やりすぎると「王立」みたいに、絵的に地味な作品になってしまってあまり売れなかったりもする(笑)。
そのつらさも味わっていますので、「ナディア」では、アイドルアニメをつくろうと「王立」とはがらっと方法を変えて取り組みました。
その後、またちょっとリアルな方向に戻して「エヴァ」をつくってみたりと、僕としてはいろいろな作品の中で、
キャラクターづくりの方法のヴァリエーションを楽しんでいるような感覚がありますね。

キャラクターデザインの試行錯誤

Q:しかし「王立」は地味といっても、線に荒々しさがあっていいですね。

貞本:荒々しさというか、迷っている感じがしますよね。自分で言うのも妙なんですけど、その迷いがかわいいみたいな(笑)。
まだいろんなものに染まっていない感じが、伝わってくるんですよ。「気負っているところが青いなあ」と感じます。
今見直すと、「こうすればいいのに」と、過去に戻って自分にアドバイスしてあげたくなるんですよ。そういう心境になって見てしまいます。
0902ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 10:14:51.66
Q:どういうアドバイスを送ります?

貞本:やっぱり目とか鼻とか、一つひとつのパーツの処理ですね。特に僕の場合、宮崎駿さんのいた会社の出身なので、どうしてもどこか宮崎さんっぽい絵柄になってしまうんです。
だからあの頃は、なんとか宮崎さんから離れた方向でキャラクターをつくれないかと、試行錯誤していた。
かと言って、その頃は『機動戦士ガンダム』の安彦良和さんのようなリアルな傾向の画風もありましたけど、そちらにも行けないし。
「王立」のときは、まだ誰もやっていない、見たことのない画って、どんなものだろうと考えながら取り組んでいました。
あの頃の、中途半端にリアルなものを描くしかできなかった僕のところに行って、「エヴァンゲリオンってのがあるんだけどね」と、ちょっと見せてあげたいですね(笑)。
でも「王立」は「エヴァ」よりは、やはりリアルな造形の方向になりますから、それこそプロダクションI.Gの沖之さんとかを、そのまま過去に送りこんだほうがいいかもしれませんね。
「この人に手伝ってもらえ」という感じでね(笑)。

Q:ただ「王立」は貞本さんのみならず、各パートにスタッフの皆さんのそうした試行錯誤が伝わってくる作品で、それを含めて魅カのある作品ですね。

貞本:そういうふうに「当時はほかに方法はなかったんだ」と見てくれるといいんですけど。脚本とかストーリーは、時代が経ってもそんなには色あせないですけど、
作画面、技術的なものは、どんどん新しいものが出てくるので、やはり後の時代のほうが良く見える。最新の映画と並べられると、ちょっとつらいものがありますね。
0903ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 10:15:15.91
Q:男性キャラをつくる場合は、女性と感覚が違うものでしょうか。

貞本:女性の場合は、自分の経験の中で、魅力を感じた人を発端にしてデザインしていきますけど、男の場合はわりと真面目に(笑)、
「こういうことをする人はいったいどんな顔をしているんだろう」と考えてつくっていきます。
「トップ2」の鶴巻の場合は男にも注文が多いんですよ。髪型がこうで、と写真を持ってきて。それを見て描いても「いやそうじゃなくて」と、ものすごく注文が厳しくてですね。
「微妙な違いだよなあ」と僕は思うんですけど、「こういった男に憧れてんの、実はホモ?」というくらい、具体的な注文が細かいんですよ(笑)。
「こういう感じの男になってみたい」とか、そういう感覚で男性キャラクターをつくっていくことは、あまり自分にはないですね。鶴巻はそれがあるみたいですけど(笑)。
庵野さんは、キャラクターの細かいデザインには、あまり文句は言わないですね。もうちょっと年齢を下げてとかそれくらいで、わりと観念的な注文になります。

Q:自分の携わった作品を、「ここがいいんだよなあ」と見返したりとかはします?

貞本:いや、「いいよなあ」というよりは、「あそこの俺は天才だった。なんであれができたんだろう」という気持ちで見直すことは、それはたまーにありますね。
「なんてあのときの俺は天才だったんだろう」と。まあ、一瞬だったわけなんですけど(笑)。
そのときの感覚、あのデザインの神様が僕に降りてきたときの感覚を思い出せないかと、あせっていろいろ試してみたりするんですよ。
原宿に出て一日中、ずうっと目の前を歩いている女の子を観察するとか、わけもわからずやりましたからね。
0904ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 10:16:28.13
Q:それは参考になりました?

貞本:いや、効果ありましたよ。まず面白い服装に関して、鼻が利くようになりました。
「原宿に、ちょっと派手でおしゃれな女の子が集う店があるよ」と聞いて、その店の前で、ジュースを飲むふりをしてですね(笑)、
ガードレールに座ってそこに出入りする女の子をずっと観察してみたことがあるんです。「わー、すっげえ服着てるな」とか感心しながら見ていましたけど、面白かった。
実際に変わったファッションをしてる人を見かけて、それがデザインのヒントになったこともありましたよ。たとえば「エヴァ」のミサトの服は、街で見かけた、
男物のライダースーツみたいな服を上に着て、それでスカートをはいてた女の子が参考になっているんです。
スカートをはいている以上、その人は絶対バイクには乗ってないはずですけど、それなのに首からゴーグルを下げていた。こういう女性はいいなと思いました。
だからミサトの服って、実はオートバイ用のものが原型なんです。ただ男ものをそのままだとカッコ悪いところもあるので、そこを考えていじっていって、あの形になりました。
あとは、そもそもファッションというものに興味を持てるようになったのが大きいですね。僕自身は地味な服が好ァッション雑誌を見るなんて、やっぱり抵抗ありましたもん。

Q:わかります。

貞本:男気があったんで。

Q:わかります、わかります。男子たるもの、そんなもの。

貞本:そうそう、「バイク乗りはこんなの読んで、ブランドがどうのこうの言っちゃいかん!」みたいな。「百歩譲ってアディダスなら良し!」と(笑)。
0905ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 10:16:49.01
アニメーションは現場が楽しいんです

Q:「王立」で、劇場映画のキャラクターデザインと作画監督を担当して、その後アニメーションの世界でさまざまな仕事を残し、貞本さんの名前は映像の世界でビッグになりましたが、
そこでなにか変わったことはあったのでしょうか。

貞本:や、これが意外とないですねえ。イベントとかに行ってファンの前に立つ機会があっても、目立たないようにほかのゲストの間にまぎれたいと思っちゃうんですよ(笑)。
あんまり「ここにいますよー」というタイプじゃないんです。見た目も派手じゃありませんしね。
普段、僕がつき合ってるような仲間って、車とかバイクの関係の人間で、あまりアニメーションの世界に関わってない人が多いんですよ。
そういう人たちに「こういった作品、やってるんだよ」と言っても、「へえ、すごいね」で話が終わっちゃいますからね。

(2003年5月ガイナックススタジオにて)
0906ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 10:29:42.62
こういう著作権無視と迷惑行為がX68ユーザの典型だな
0908ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 11:06:19.78
スペハリの改造だね。大量に出回ったな
絵のパッチじゃなくて、ソフトそのものをコピーしまくったんだっけ
X68000のコピー蔓延の象徴
0909ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 13:51:32.22
>>889
そりゃ当然
68のグラフィック性能の不満点解消してんだし
スパグラのグラフィック性能が開発時の元の仕様だったわけだし
0910ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 17:18:16.25
ネットに公開してたソフトをコミケで有料で配布してた、なんて話しがあったのもX68じゃなかったかな?
0911ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 17:48:25.20
.───┐    ∠_      \L
 ̄ ̄ ̄| |     llヽ _|      ヽ  
      | |     |l ̄| |       l X68終わったな
      | |    /  ´\     /        
      | |     ヽ、_   `^イ          
二二二 」 _ __ lニ二二l、           ____
─┴┐ ⊆フ_)__./   ┌ヽ ヽ┐   /´       `\
二二二二二二l  /    |  |   | |.  /             ヽ
_l_____| /`ー─‐|_|   |_| /             ヽ
  |       /`ヽ__, ─ 、ノ |─l  l               l   
  |───/  /lニ/  /二ニluul.  |                 !  終わってんのはお前だよ
  |    ___| ̄ |  |  |_|.      l                /
 └─(    )(ニ|  ̄|./二ニ)     ヽ              /
      ̄ ̄  /   )            >━━━━━━ く
            `ー ´            /               ヽ
0912ナイコンさん
垢版 |
2022/04/25(月) 20:09:45.53
>>909
シャープは技術者に逃げられたのか?
0915ナイコンさん
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2022/04/26(火) 00:28:52.42
あのハドソンに逃げられるとかどんだけシャープが技術者を蔑ろにしていたんだよwww
0916ナイコンさん
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2022/04/26(火) 05:00:58.16
任天堂のファミコン開発者もシャープからの転職だったね。
0918ナイコンさん
垢版 |
2022/04/26(火) 09:00:09.97
きょうもはってみる

樋口真嗣 1965年、東京都生まれ。そのキャリアは1984年公開の映画「ゴジラ」にて、特殊造型助手を務めたことよりスタートする。
「ゴジラ」の後、樋口氏は大阪を拠点とする映画自主制作集団DAICONFILMの活動にその身を投じ、自主制作特撮映画『八岐之大蛇の逆襲』('85)に参加。DAICONFILMの活動終了後、
樋口氏はガイナックスの第1作、劇場版アニメーション映画『王立宇宙軍オネアミスの翼』('87)に演出スタッフとして加わる。


華々しい伝統を持つ日本の特撮。しかし特撮作品は1980年代初頭、新たなる表現技法に「娯楽の王者」の座をとって代わられた。
その表現とは、かつて巨人・手塚治虫氏が情熱を注いだ映像技術、アニメーションである。特撮がアニメにとって代わられた理由のひとつに、その制作コストが挙げられる。
特撮映像制作そのものが多くの時間、人員、予算、そして高度なノウハウを必要とする上、特撮番組は、特撮部分を制作する特撮班と、本編班の2系統のスタッフを持たねばならず、
その分費用がかさむ。また、もしかするとこの時期、特撮はジャンルとしての活力を失い、新しい人材が生まれ難くなっていたのかもしれない。
日本の特撮作品は、1980年代初頭より長らく雌伏の時代に突入することになる。その時代の終焉を告げる作品が、1995年に公開された映画『ガメラ大怪獣空中決戦』。
この作品によって特撮映画の希望の星となった人が、この章に登場する樋口真嗣氏である。
樋口氏は、当時すでに特撮作品のみならずアニメーションの分野でも実績を残すという、稀有な経歴を持つ創作者だった。植口氏の世に知られたユニークな仕事ぶりのひとつはその画の発想法である。
ミニチュアセットの中に対象を置いて、それをいかに撮影するかと発想する従来の特撮に対して、樋口氏はまず脳内で画を発想し、それを具現するためにミニチュアセットを組むという。
これは「イメージしたもの以外、映像に現れない」という特徴を持つアニメーションの絵の発想に、通じるものがあると感じられる。樋口氏がアニメーションの領域でも優れた仕事を残すのは、
もしかすると必然かもしれない。

文:堀田純司 ガイナックスインタビューズ p236-p237より
0919ナイコンさん
垢版 |
2022/04/26(火) 09:00:48.82
p247-p251 樋口真嗣

Q:樋口さんは撮影所で働いた後、DAICONFILMの自主制作映画に参加したわけでしょうか。

樋口:映画学校の同級生で山口宏という、今では脚本家になったヤツがいて、そいつが赤井孝美さんと同郷で、俺と知り合う前にDAICONFILMの手伝いもしていたんです。
『愛國戰隊大日本』で、アイキャッチの絵を描いたり戦闘員やったり。後に俺もヤツも学校を辞めて、俺はアルバイトで「ゴジラ」の現場に行ってて、
その頃あいつは「劇場版マクロス」の第2原画をやっていたのかな。終電がなくなると、いつも山口の家に泊めてもらってたんです。
そこで初めて、DAICONFILMのビデオを観させられた。その場で本当に素直に「すごいなあ」と感じたんです。「こういうことをやっている人たちがいるんだ」と思った。
その後に「今度DAICONFILMの上映会があるから」と誘われて行った九段会館で、庵野秀明さんに紹介されたんです。
庵野さんに紹介されたとき、俺は間違って「特撮のプロの人だ」と伝わってたみたいなんですよね。ただのバイトなのにね(笑)。最初は庵野さんも完全に勘違いしてました。
庵野さんは、俺に「今、大阪の連中が怪獣映画をつくっているから、遊びにおいでよ」と言ってくれました。まあ、社交辞令だったんでしょうけど(笑)、俺も馬鹿だから、言葉どおりに受け取って。
0920ナイコンさん
垢版 |
2022/04/26(火) 09:01:05.18
Q:その怪獣映画というのが、後に樋口さんも参加して特撮パートを担当した「八岐之大蛇の逆襲」だったわけですね。

樋口:ちょうどその頃の俺は、「ゴジラ」の撮影が終わって仕事が一段落したところだったんです。しかし、映画の現場を見たくてアルバイトを始めたはずだったのに、
生意気なことに「これじゃ、いかんのじゃないか。こうしたほうがいいんじゃないか」というようなことを感じ始めていたんですよ。ほんと生意気なんですけど。
俺の「ゴジラ」での仕事は、造型部の「つくり物付き」というやつで、現場でつくり物のメンテナンスや、ゴジラのぬいぐるみを役者に着せたり、脱がせたりする役割なんです。
だから、撮影中の不測の事態に備えて、いつもゴジラのそばにいなきゃならない。つまり「つくり物付き」の担当者は結果的に、「いつも被写体の中心のそばにいる」ということになるんですよ。
カメラは絶えずこちらを向いているし、撮影部の人がメジャーで焦点距離を測りにきたり、メーターで露出を測ったりとか、いろんな人が入れ替わり立ち替わりで俺のところにやってくる。
監督も来ます。まあ俺のところに来るんじゃなくて、俺の隣にいる主役のところに来てるわけなんですけど(笑)。これが今にしてみると、俺にとってものすごい幸運でしたね。
初心者のくせにいつもステージの真ん中にいることで、現場の様子がよく見えたんですよ。それに、ぬいぐるみの中に入る役者のお世話も俺の仕事ですから、
そのために「今から何を撮るのか」という段取りを、嫌でも把握している必要がありました。
同じようにバイトで入って、バックヤードでひたすらに物をつくっているヤツもいたし、スタジオの入り口でお茶を配ってる人もいました。
しかし、ラッキーにも俺はステージの真ん中にいることができた。でね、その場所から現場のいろんな状況を見ていると、「なんでああやってるんだろう、俺だったらこうすんのにな」と、
そのうち勘違いをしはじめるわけですよ(笑)。「なんでカメラ位置がこんなに高いんだよ」とか。
0921ナイコンさん
垢版 |
2022/04/26(火) 09:01:21.99
大阪への旅立ち

樋口:それに撮影所でバイトしていると、「誰よりも先に映画を観る」ことの最たるものとして、前日に撮ったフィルムを次の日に試写室で確認する、いわゆるラッシュを観ることができた。
しかしそのラッシュが歴然と......「これじゃ、ただ見たままを撮っただけじゃん!」という映像だったりする場合があった。そういうものを観ているうちに、失望と同時に、
「こうすればいいのになあ」という気持ちが、むくむくと芽生えてきたんです。DAICONFILMの作品、特に『DAICONFILM版帰ってきたウルトラマン」なんかを観ると、
明らかにそちらのほうが画づくりに対する、正しい取り組みと工夫を感じる。「本物ではないものを使って、どのように本物に見せるか」という意志が伝わってきた。
あの頃、プロの現場にいて、「大阪の学生でもこれだけやってんのに、大の大人が集まってこの体たらくはなんだ」と感じて、やっぱりがっかりしてきたんですね。
いろいろなことを考えましたけど、正直なところ、そこまでしてプロの撮影現場にしがみつきたいという気持ちをかなり......。

Q:失ってしまった。

樋口:そう。「いっか、もう......」と。ということで撮影所のアルバイトを辞めてしまったんです。で、どうしようかと考えたときに、なぜかあのメガネのもじゃもじゃ頭の人を思い出しまして(笑)、
「大阪は楽しそうだなぁ」と考えたんですよ。それでとにかく大阪のDAICONFILMに遊びに行かせてもらおうと、庵野さんに電話してみたんです。
庵野さんは「もうちょいで仕事も終わるっス」みたいなことを言ってくれたので、その場で「じゃあ、いついつ行きましょう」と予定を決めた。
それでいざ、その当日に庵野さんのところに行ってみたら『メガゾーン23』かなにかの仕事をやっていて、「ちょっと待ってて」と言われました。
それでちょっと待ってたら、そのまま二晩待つことになった......。今にして思うと「あの当時からそれか!」みたいな(笑)。
0922ナイコンさん
垢版 |
2022/04/26(火) 09:02:04.73
Q:うはははははは。

樋口:桜台にあったグラビトンというスタジオだったんですけど、そこの押し入れで二晩寝て待ちました。それから「じゃあ、終わったから行こうか」と、庵野さんとふたりで大阪に向かったんですよ。
あの頃は庵野さんも俺も貧乏でしたから、大阪に行くのに新幹線なんて使えないわけです。8時10分発だったかな。大垣行きの快速に青春18きっぷで乗り込んで、大阪へと向かった。
あのときは車内が混んでいて、連結部分、車両を頭同士でくっつけているあたりの、運転席周辺の余裕のあるところで、ふたりで互い違いになるようにして床で寝ていました。
大阪に着いて、淀川の『八岐之大蛇の逆襲』の撮影現場に行ったら、これがやっぱり楽しそうなんですよね。まあ、一応こちらはプロの現場にいたわけですから、
その目で見れば「素人だな」と思えるところがいっぱいあるわけです。たとえばミニチュアを吊るすのに、テグスを使ってて、これがすぐ切れてしまう。
「ピアノ線でやんないんですか?」とたずねると「おお、さすがプロの人だあ」なんて、すごいテクノロジーをもたらしたように受け取ってもらえたり(笑)。
俺のつたない経験がこんなにお役に立てるなんて!(笑)。しかし、逆に「え、これでいいの?」みたいなやり方で効果を生んでたりして、驚くこともありました。
ビニールプールをふくらませるポンプで、ホコリを吹き上げてみたりとか、むしろ「なんだ、これでいいんだ」と思うことが多かった。
それは素人映画をつくっている人たちをバカにするとかじゃなくて、「あれ、この程度でもあんな画をつくれるんだ。これでいいじゃん」という、新鮮な感動がありましたね。
その場所で初めて「俺はここにいてもいいんだ!」と感じたんですよ。東京のプロの現場に居場所がなくて、今にして思えば自分を探しに大阪に出かけたら、
そこに「あっ、ここは僕がいてもいいんだ」と思える場所があった。
0923ナイコンさん
垢版 |
2022/04/26(火) 09:02:52.38
Q:プロの現場ではそれほどまでに、「自分のやることがない」という感じだったんですか。

樋口:そうですね。かなりその、距離感を感じていました。いや、それよりも、プロで自分のやりたいことを獲得するよりも「大阪に行ったほうが楽しそうだ」という感覚だったんです。
あの頃はまだ18歳かそれぐらいですから、刹那的で、10年後のことなんかまったく考えずに「明日さえ生きられればそれでいい」という、
快楽だけを求めてケダモノのような生き方をしていたんですよ。通常であれば、その世代が求める快楽って、セックスや麻雀、改造バイクだったりするわけじゃないですか。
それが俺の場合は、なぜか特撮だった(笑)。「より良きものがそっちにある。じゃあ大阪だ」とか言って、本当に押しかけて、そのままスタジオに住み込みました。

Q:庵野さんといっしょに出かけて、そのまま大阪に移住なさったんですか。

樋口:最初に遊びに行ったときは、一度東京に帰ったんです。そのときに「また来てもいいっすかねえ」と頼んだら、「おいで、おいで」と言ってくれたんです。
俺は「ああ?本当?マジマジ?」とよろこんでいましたけど、しかしまあ、それって社会人としての社交辞令ってもんじゃないですか。でも俺は、まったく額面どおり鵜呑みにして、また押しかけた。
みんな「えっ、ホントに来たの?」と驚いていましたよ(笑)。しかも俺、家出して大阪に行きましたからね。実家では捜索願まで出していたらしいです。

Q:現場としての「オロチ」はいかがでした?プロの現場に感じていた距離感が、一気にゼロになったという感じだったのでしょうか。

樋口:そうですね。「オロチ」は、手を挙げたヤツが、なんでも勝手にやっていく、逆に言えば、そうやっていかないと何も進まないというすごくオープンな現場だったんです。
それは楽しかった。通信販売で、40キログラムもあるでっかい鋳物の戦車を買ってきて、映画に出てくる新型戦車に改造してるヤツがいたりとかね。
絶対画面に写らないようなところまで、ずうっとひとりで、来る日も来る日もその巨大戦車をいじってるんですよ。完全に目的を見失ってましたね、あいつは。
「どうすんだよ、それ?」「俺にもわからん」(笑)。まあ、それが今のGONZOの村濱章司だったりするわけなんですけど。結局1年半ぐらい大阪にいたんですよね。
0924ナイコンさん
垢版 |
2022/04/26(火) 09:03:10.53
Q:その期間の生活費はどうしていたのでしょうか。自主制作だからみなさんボランティアで参加していたんですよね。

樋口:「ゴジラ」のときのアルバイトで稼いだお金がほとんどそのまま残っていたので、あの頃は1年くらいは暮らしていけるくらいの莫大な(笑)お金を持っていたんですよ。
ただ後半はやっぱりきつくなってきて、武田さんとかに無心をするようになった。それがまた自分の運命を大きく変えたんです......。そこで初めてガイナックスが出てくるんですよ。
「オロチ」の後半は、だいたい月に4万円ぐらいおこづかいをもらって暮らしていたんです。さすがにはるばる東京から来てるということで、俺だけ特別だったんですが。
俺はてっきりそれをご褒美だと思っていたんですけど......。「オロチ」が終わって「これからどうする?」って話になったときに、
すでに『王立宇宙軍オネアミスの翼」の制作に入ってた岡田斗司夫さんが、「このまま東京に出てきて『王立』を手伝うんだったら、あの借金はチャラにしてやる」って。
「ええっ!借金ってなに?ええっ?」。そんな『ナニワ金融道』みたいな!人身売買で俺はガイナックスに......。

(2004年11月 渋谷にて)
0925ナイコンさん
垢版 |
2022/04/26(火) 17:11:49.72
X68に足りないのはユーザのモラルだねw
0926ナイコンさん
垢版 |
2022/04/26(火) 17:43:01.24
次スレ立てるならワッチョイ入れてくれ
0928ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 01:39:23.63
>>927
まじ!?
友達X0が還暦間近にしてようやく『モラル』という単語を覚えたのか!?
0929ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 02:20:51.33
『モラル』という単語を覚えても、意味が理解できてないのがX68ユーザ。
0930ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:26:26.42
きょうもはってみる

村濱章司氏 1964年、大阪府生まれ。
追手門学院大学在学時より映画自主制作集団「DAICONFILM」の活動に参加。

ガイナックスチルドレンのひとり

1998年に発表された『青の6号』という作品がある。前田真宏氏、村田蓮爾氏ら気鋭のスタッフが参加し、工程をデジタル化して制作された、このOVA作品は、発売当時大きな話題を集めただけではなく、
個性的な映像と音楽で、一目観れば強烈に心に残る作品として、今もなお世界中で新たなファンを獲得している。
この作品を世に送った会社が、ゴンゾであり、この章に登場する村濱章司氏は、この設立メンバーのひとりにして『青の6号』のプロデューサーである。
村濱氏は1964年、大阪府生まれ。追手門学院大学在学時より映画自主制作集団「DAICONFILM」の活動に参加。赤井孝美氏による特撮映画『八岐之大蛇の逆襲』のスタッフとして独自の存在感を示した後、上京。
そして1987年に公開された映画『王立宇宙軍オネアミスの翼』に、制作進行として参加する。多くのクリエーターを輩出したことで知られるこの映画は、やがて日本のアニメーションの世界で、
個性的な映像作品を生み出すグループを率いていくプロデューサーをもスタッフとして擁していたことになる。「王立」の後、村濱氏は『ふしぎの海のナディア』にアニメーションプロデューサーとして参加、
そして1992年にガイナックスを退社する。同年、樋口真嗣氏、前田真宏氏、山口宏氏らとともにクリエーター集団・ゴンゾを設立した。このグループは、早くよりデジタル技術を駆使したアニメーション制作に取り組み、
ゲームのイベントムービーなどの作品で高い評価を獲得。実績を重ねた上で、1998年に発表した作品が『青の6号』であった。
ゴンゾは、90年代初頭よりデジタルとネットワークに目を向け、既成の方法にとらわれない斬新な映像を提供してきた。『戦闘妖精雪風』の華麗な戦闘シーン、小型機の高速戦闘から、
巨大空中戦艦のスケールの大きい戦闘場面までを作品世界に持つ『LASTEXILE』、濃密な映像で広く話題となった『巖窟王』など、ゴンゾの作品はほかでは観たことのない画を見せる。

文:堀田純司 ガイナックスインタビューズ p276より
0931ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:26:58.86
p278-p284 村濱章司

キャラクター産業の市場規模はアメリカより大きいかもしれない

Q:ゴンゾの作品『青の6号』などは、国内はもとより海外での人気が特に高いそうですね。国際競争力で考えると、漫画やアニメーションが実写に優っているのが現状だと感じます。

村濱:そうですね、残念ながら。

Q:そうすると同じ国民がつくっていながら、アニメと実写ではなにが違うのだろうと疑問に思うのですが。

村濱:それには明確な答えがあって、ずばり市場の大きさの違いだと思います。やっぱり実写映像の市場規模は、日本はアメリカにまったくもってかなわない。
ただアニメーションのようにキャラクターが登場する作品の市場規模ならば、アメリカに対抗できる。もしくは、日本国内のキャラクター産業の市場規模はアメリカより大きいかもしれない。
数字的なことは切り取り方によって変わってくるでしょうが、日本国内でのキャラクタービジネスは、めちゃくちゃに競争が激しい。
そこで勝ち上がってきた作品は、「どこの国のどの作品にも対抗できる素晴らしいものだ」という原理が働いているんじゃないかと思います。
0932ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:27:36.43
Q:キャラクターライセンスを与えられた製品の総生産額は2兆円との説もありますね。

村濱:日本の、漫画作品を原作とするアニメで考えると、まずコミケというアマチュアの作品発表の場があって、そこに8万人が来ますよね。
その全部というわけではありませんが、かなりの人が絵を描いたりしていると思うんですよ。で、さらにその中の数万人が実際に漫画を描いて、そこから切磋琢磨してプロになる人が出てくる。
まあコミケの場合はプロになりたくない人もいるでしょうけど。そしていざプロになったら、今度は何百という漫画雑誌で競争して、その市場の中で勝ち上がった作品がアニメになるわけですよね。
アメリカの場合ですと、アニメーションを制作するにあたって、まずパイロットフィルムを何本か発注して、それをモニターに見せてアンケートをとるなどして、いろんなところでスクリーニング、
ふるい分けを行ってつくっていく。それだとせいぜいが10本くらいのパイロットフィルムから作品を選んでつくっていくことになるわけですが、日本の原作モノの作品だと、
実は数万の中から企画を選んでつくっているに等しい。これが競争優位の源泉じゃないかと思っています。それとゲームの分野で、日本のハードがシェアを獲得したことも大きいですね。
ゲーム機が世界市場に打って出て、ハードのシェアを獲得したおかげで、その結果、日本産のソフトも認知されやすくなった。
ゲーム機がシェアを獲得する以前は、国内でいかに優れたソフトウェアコンテンツをつくっても、海外で認知されるためにはものすごい苦労がともなったんです。
しかしそれが今では、いいものは必ず伝わるようになった。やはりもとが本当に魅力的なものですから、障害が少なくなった結果、自然に存在感が大きくなっていったんだと思います。
あとは「ポケモン」の大成功が示しているように、ゲームやカードなどいろんなものと組み合わせて作品を発表していく方法、いわゆるメディアミックスですね。
これがうまく機能していることもアニメの強さの理由のひとつかなと思いますね。
0933ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:28:17.71
Q:なるほど。ゲーム、漫画、アニメを合わせると、日本のキャラクタービジネスの市場は非常に大きいということですね。

村濱:アメリカの映像制作の高コスト化も大きな問題だと思います。それにあちらのスクリーニングの方法は非常にロジカルですから、その結果、袋小路に入っていきつつあるんじゃないか。
だって、論理的に「これはやっちゃいけない、あれはやっちゃいけない。こうすればウケるよ」と絞り込んでいくわけでしょう。それを続けているとやがては袋小路に入ってしまうことになるかもしれないと感じるんです。
日本に置き換えて考えてみると、たとえば今「メイドモノをつくると当たる」という市場調査があったとするじゃないですか。じゃあメイドモノをつくろうと企画する。これは昔、自分たちが
アニメファンだったころには考えられないことですけど(笑)。そうすると現在、市場にあふれているほかのメイドモノと差別化して、競争力をつけるために「ではメガネをかけたメイドさんがいい」と考える。
それで「うちのメイドさんはみんなメガネをかけてますよ」と、メガネっ娘のメイドさんがたくさん出てくる作品をつくってですね。仮にそれが、強い競争力を発揮して、ほかの作品に対して勝ったとします。
しかしそこで問題になるのは「じゃあ、次になにをつくればいいか」ですよ。結局またターゲットを絞ってつくっていくことになる。
でも、歴史的なヒットとなる作品は、その時代の創作の可能性をフルに使いきるような作品だと思うんですよ。今のアメリカのつくり方だとそれは出てこない。
だからコアセグメント(中心となる要素)を絞ってつくっていく限り、作品制作はどんどん袋小路に入っていく。それは「限界があるんじゃないか」という気がします。
0934ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:29:25.40
Q:アメリカでは、1本の脚本に1年間かけて、観客に受ける要素を検討してつくることが、ごく普通に行われているそうですね。
確かにそうやってロジカルにつくられる作品に観客は「もう飽きてきた」という雰囲気も感じます。そうした状況の中で、ゴンゾはどのようなスタンスで作品をつくっていこうと考えているのでしょうか。

村濱:ビジネスの面で現実的にいうと、今のアニメーション市場におけるニッチの部分を拾っていかざるを得ないところは、どうしてもありますね。たくさんの提供料を使って、
ゴールデンタイムに放映される作品の制作にも挑戦したいと思ってはいるんですけど、我々の現状の力では無理なんです。ただ、できるだけ挑戦したいとは思っています。
現時点の我々は、「アニメーションに対して、強力な購入動機を持つお客さんがコアターゲットだ」と考えています。しかしできるだけ一般のお客さんにも受ける要素を、
一所懸命入れてつくっていくようにも努力しているんですよ。なぜかというと、先のアメリカの例のようにターゲットセグメントを絞れば絞るほど、やるべきことも絞られてしまって、
やがてどうしようもないことになっていく。もちろん中心となるお客さんを設定してつくりもしますが、しかしそこにターゲットを絞りきってしまわずに、同時に、「広く一般にも受け入れられるような要素を
入れていかなければならない」と考えているんです。『LASTEXILE』や『GADGUARD』などの作品でも、そういう意味で広く受け入れられる要素を、頑張って入れたつもりなんですよ。
0935ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:29:46.82
Q:ある漫画家さんが、「アクション・スター、アホヅラ理論」というのを提唱しています。
それは「ハリウッドのアクション・スターである、アーノルド・シュワルツェネッガー、ウィル・スミス、ブルース・ウィリスなどを見渡すとみんなアホヅラである。
ゆえにアクション・スターというものはアホヅラでないといけない」というものなのですが、これは存外にエンターテインメントの本質をついている気がします。娯楽作品は美男子一辺倒で押し通すものではなく、
どこか抜けていたほうがいい。「カッコいい」ものをというよりも「カッチョいい」とでも申しましょうか。実はゴンゾの作品に対して、「非常にスタイリッシュでハンサムな作品」という先入観があったのですが、
実際に観ると必ずしも決してそのような芸風のみではありませんね。

村濱:一作ごとそれぞれに、「ゴンゾをいかに変えていくか」という、我々自身で我々を変革していく試みを行うように、常に心がけているんです。日々頑張って、努力しています。
しかし、いい意味で「ああゴンゾの作品だ」と、どの作品からも伝わってきますね。
それは私もちょっと不思議なところなんですけど(笑)。変えようと思っていても、いざ出来上がると「ゴンゾっぽいね」と、よく言われるんですよね。やっぱり演出さんたちにしろ誰にしろ、
ひとつ屋根の下で作品をつくっているからには「こういう美意識っていいよね」というカラーが、ある程度共有されているんでしょうね。
0936ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:30:44.25
Q:そうしたスタイルの源流には、やはり村濱さんの趣味も自然と反映されているのではないかと思うのですが、そもそも学生時代はわりとカッコいい音楽が好きだったとか。

村濱:大学受験の前あたりに、またテレビを見始めたんですよ(笑)。そのときにたまたま出会ったのが『戦闘メカザブングル』というヤツ。この作品を観てものすごく驚いたんですよ。
私はアニメについては、まず子供が観るものだという先入観があって、なおかつフォーマットが決まっていて、最後の5分間でヒーローが戦って悪いヤツをやっつける。
そしてその場限りで話が終わって、次回からはなにごともなかったようにまた話が始まるものだと思い込んでいたんですけど、でも『ザブングル』を観て、それがくつがえされた。
「わっ、これはSFだ。アニメってこんなことができるんだ、すごい」と感じたんですよ。
それからアニメが気になりだして、『聖戦士ダンバイン』とか、『装甲騎兵ボトムズ』だとか、そのあたりは全部観ました。
そういう土台があったところで追手門学院大学に入学して、SF研究会に入ったんですよ。「SFとかが好きなんですけど、なにかいいサークルはありませんかね」と聞いて、勧められたのがSF研究会でした。
そうしたらそこが、DAICON3やDAICON4の運営主体、「関西学生SF研究会連盟」の主力SF研のひとつで、DAICONFILMの人員供給源だったんです。
ほかには、大阪大学や近畿大学や、大阪芸術大学が人員の供給元でした。ガイナックスってけっこう、学閥があるんですよね。
って、もちろん冗談ですけど、そう言うと信じる人が出るくらいに、クリエイティブ面は大阪芸大と東京造形大で固めていて、経営とかプロデュース面は近畿大学と追手門学院大が固めていました(笑)。
私も、DAICONの活動が楽しそうだったので、まあ参加して。学校の単位をほったらかしてそっちのほうに熱中してしまいまして。そこに自分でもできることがあったんですよ。
だから活動がものすごく面白かった。
0938ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:32:17.35
Q:DAICONFILMの特撮大作『八岐之大蛇の逆襲』では、巨大な塔や、戦車を細かいディテールに至るまでほぼ村濱さんの独力でつくり上げてしまったそうですね。

村濱:それはちょっと違いますね。戦車では、細かいところばかりつくっていたら、私の進行があまりにも遅いので、今のガイナックスの神村靖宏さんにパッと取り上げられてしまった(笑)。
それで神村さんから返ってきたらもう全体の形ができていました。でもそれからまた私は、細かいディテールアップに取り組んで。
それと、皆生温泉という温泉が米子にあるんですけど、そこのビルをつくって、それを爆発させました。
しかし8ミリで撮影しているので、瓦がふっとぶところなど細かい部分は、映りづらいんですよ。当時、ソニーのベータマックスかなにかのビデオの箱で銀色のものがあったんですよね。
その箱を細かく切って屋根の上に散らばらせてみたら、爆発のとき光をキラキラ反射させながら飛び散って良かったですよ。そんな感じでいろいろ工夫していました。

村濱、東京に行かへんか

Q:「ラジエーターのスリットを一枚一枚プラ板でつくるという、気の遠くなるような作業を行って周囲を驚かせた」という証言を聞いたことがあります。

村濱:むしろ当時は、ディテールなど細かいことはできるんですけど、大きな、全体に関することはできないという自分にすごく驚いていましたね。
0939ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:32:56.76
Q:その頃に映画を監督しようとか、脚本を書こうなどと思ったことはありませんでしたか。

村濱:夢的にはありましたけど、それは思いもよらないことでした。当時の私のまわりにいた人というと、庵野秀明さん、赤井孝美さん、山賀博之さん、樋口真嗣さんというような、
優れた表現者としての才能を持つ人たちばかりなわけですよ。そんな環境で自分がなにをすればいいんですか。
「こういったものでご飯を食べられるといいな」とは感じていたんですけど、メディアの世界で活躍するプロフェッショナルな人って、そのときの自分にしてみれば雲の上の人、
「まったく自分とはかけはなれたスキルを持ったすごい人たちだ」と思い込んでいました。でも今考えると、そんなふうに最高の人たちと、若い時分に知り合えたのはすごくハッピーなことでしたね。
ただ、作品をつくる上で、クリエイティブな才能はもちろん大切ですが、プロデュースする才能も同じように大切なのだろうと思うのですが。
しかし当時はプロデューサーってなにをする人なのか、よく知らなかったですね。とにかく自分の居場所を見つけようと思って、誰かがやらないことで、
自分が得意そうなことを見つけては一所懸命やっていた。そうしているうちにガイナックスの武田康廣さん―当時はまだゼネラルプロダクツですけど―から電話がかかってきて
「村濱、東京に行かへんか」と誘われたんですよ。「『王立』の制作進行をやらないか」と。
0940ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:33:38.45
Q:「オロチ」の制作が終わった後ですね。

村濱:こちらはその場で「あ、行きます」と、答えました。即答です。プロの世界への入り口が見つかったんですよ。
「自分なんかには絶対無理だ」「声なんかかからないだろう」と思っていましたから「これは逃がしたらあかん」と思いました。
「考えます」とか言っているうちにほかの人が行くことになったら困るので、即答で「行きます」と返事したんです。で、すぐ親に話して大学を休学して東京に出ました。
なぜ、あのときに私に声がかかったのか、よくわからないんですよね(笑)。ガイナックスの人たちも、ほかの人には「さすがに大学をやめさせるのはどうか」と、躊躇したのかもしれません。
そのあたりはよくわからないけども、私にとっては千載一遇のチャンスでした。ガイナックスさんが自分を制作進行として使おうと考えなかったら、今の自分もなかった。
だからお世辞とかそういうのは抜きで、ガイナックスさんには本当に感謝しています。
0941ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:33:45.71
Q:「オロチ」の制作が終わった後ですね。

村濱:こちらはその場で「あ、行きます」と、答えました。即答です。プロの世界への入り口が見つかったんですよ。
「自分なんかには絶対無理だ」「声なんかかからないだろう」と思っていましたから「これは逃がしたらあかん」と思いました。
「考えます」とか言っているうちにほかの人が行くことになったら困るので、即答で「行きます」と返事したんです。で、すぐ親に話して大学を休学して東京に出ました。
なぜ、あのときに私に声がかかったのか、よくわからないんですよね(笑)。ガイナックスの人たちも、ほかの人には「さすがに大学をやめさせるのはどうか」と、躊躇したのかもしれません。
そのあたりはよくわからないけども、私にとっては千載一遇のチャンスでした。ガイナックスさんが自分を制作進行として使おうと考えなかったら、今の自分もなかった。
だからお世辞とかそういうのは抜きで、ガイナックスさんには本当に感謝しています。
0942ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:35:07.11
p284-p286 村濱章司  オネアミス制作進行へ

Q:「王立宇宙軍」のスタッフからは、その後長く活躍するクリエーターが輩出されていますが、村濱さんのようなプロデューサーの才能をも擁していた、というのが面白いですね。

村濱:「王立」で担当した制作進行という仕事は、アニメーションのカットなどを円滑に次のプロセスに運んで、アニメーターさんに画を上げてもらって、
それを回収してまた次のプロセスに正しい形で渡して、その進行状況を記録していく仕事なんですよ。最初はただ運転手みたいな感じで、うろうろしていました。
しかしだんだんデータベースなんかを活用して、どうしたら効率よく物事が進むかと考えるようになりましたけど、まあ、いちばんいいやり方をとっていたとはあまり思えないです。
でも当時のガイナックスの方針として、すでに自分のやり方を持っているプロフェッショナルな人というのは、スタッフとしてあまり入れなかったんじゃないかなあ。
あのころのガイナックスには「自分たちのやり方でやる。自分たちで方法も決めるし、自分たちでつくる」という風土が、あったような気がします。
だから私も、自分なりに一所懸命考えて、解決していくしかなかったんですよ。「王立」という作品そのものについては、制作進行という下働きしかやっていないんで私にはなにも言えませんが。
ただ、あの時代には特徴があってですね。『宇宙戦艦ヤマト』でアニメファンになって、『機動戦士ガンダム」で、プラモを買ったりしてアニメにお金を使うようになって、
『超時空要塞マクロス』)で業界に入ったという世代の塊が、あの時期から、アニメを自分たちのものとして、自分たちで考えてつくりだした。
あくまでも全体としての印象の話ですけど、それまでのアニメは仕事として「ああしなさい、こうしなさい」と、既存の制約に縛られながらつくられるものだった。
0943ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:35:32.16
しかし、世代が変わって「マニアの人たちが、マニアの人たちのために優れた作品をつくる」というと怒られるのかもしれないですけど、「自分たちと同じような人のために、
自分たちが満足のいくやり方で作品を提供する」という時代が来た。そういう感覚を共有していた時代だったように思います。
アニメに対する一種の思想的な基盤が芽生えて、ガイナックスはその集積率が高かったんですよね。
前後数年のズレはありますけど、あの当時、アニメの世界ではけっこういろんなことが変わっているんですよ。
ガイナックスもそうですが、プロダクションIGさんやジブリさんが生まれたのもあの時期ですし、ほかにもいくつもの制作会社が設立されています。

Q:村濱さんがかつて在籍したガイナックスは、クリエーター主体の会社というか、むしろクリエーターが制作サイド、プロデューサーの役割を兼ねてしまう会社というイメージがありますね。

村濱:ガイナックスは、制作に携わる人材を系統立てて育てていなかったかもしれないですね。自分も制作について基本から教わっていなかったので、誰かを育てることなんてできなかったですし。
今にして思えば、後継者を育てていなかったのは、ちょっと申し訳ないと思います。
0944ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:36:12.43
Q:間違っていると申し訳ないのですが、村濱さんはガイナックスから独立した当時、「プロデューサーとして世に出るためには、優れたクリエーターが会社を引っ張るガイナックスを離れたほうがいい」と
考えたのではないかと想像していたのですが。

村濱:「プロデューサーになりたい」とは考えていましたけど。と言いますのは、制作進行としてこの業界に入った人間のキャリアアッププランとして、
アシスタントプロデューサーを経てプロデューサーになるという、きれいな道筋があるわけですよ。人によっては途中で演出さんになられる場合もあるんですけど。
自分は絵が描けないですし、演出をやれるようなクリエイティブな人間とも思えなかったので、「やはり目指すならプロデューサーなのかな」と考えていました。
「プロデューサーになって自分がつくりたいと思う作品をつくりたい、いい作品をつくりたい」という目標はあって、まあ一応、そちらに向かって一所懸命に進んでいったわけですけど、
でも、辞めた当時に、自分の会社をつくって社長になるなんていうことは、夢にも想像していませんでしたよ。なおかつこんなにたくさんの作品をつくることになるとは!流れ流れて現在にいたっています。
0945ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 11:36:46.55
Q:制作作品数や社員の数でいうと、古巣よりもすっかり大きくなってしまいましたね。

村濱:今となってはそうですね。でも映像の世界への影響力では、まだまだ学ぶところが多いです。
私が独立した当時はまだ28歳。プロデューサーになるどころか、まずはなんとか食っていかないと、という状況でした。まずフリーランスで制作進行をやって。
辞めた瞬間には、「そもそも自分はアニメを続けるべきなのかどうか」と迷っていました。危なかったですよ。もしかするとあのときにアニメを辞めてしまっていたかもしれない。
「アニメでなにがなんでもメシを食うんだ」という心境ではなかったわけですか。
むしろ「アニメでは食えない」ってことが、もうわかっていたんですよ(笑)。ただ私は、物事を決めるのにあんまり時間がかからない性格なんです。
あのときも、たぶん4日ぐらい悩んだような気がするんですけど、でも「じゃあなにかほかのことができんのか」って考えると、なにもできない自分にすぐ気がつきました。
「だったらアニメをやるしかない」と考え直して、それでフリーのプロデューサーというか、制作進行として仕事をしていたんですよ。
そうしていたら樋口真嗣、前田真宏、山口宏の3人から、「刺激とコラボレーションができる場所がほしいんだ。でもコピー機とかファックスを買ったりする作業は嫌だ。おまえが買え」と
声がかかったんです(笑)。あれは樋口真嗣にかなあ、「村濱だったらできると思うんだ」と言われまして。こちらも「じゃあ、僕でよければやらせていただきます」という感じでした。

2004年3月 GDHにて取材 
0947ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 12:47:09.20
という事にしたい自演バレバレな荒らしX68ユーザーであったw
0950ナイコンさん
垢版 |
2022/04/27(水) 14:16:03.27
もし5年間クロック向上以外の変更なしで通用するマシンにするなら
CPUは68020、スプライトパターンRAMは64KB、スプライトサイズは最大32×32、ADPCMは4音(独立音量付)でスタートしなければならなかった
しかしコスト的に無理であろう
つまり激動のコンピュータ界で5年通用するマシン等無理なのである
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。