X68000に足りなかったもの
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
パターン定義用のSRAM
スプライトのサイズ
高品質なADPCM音源 マンハッタンシェイプで洗練されてるのかなと思ったらモノラルスピーカーだったこと ADPCMステレオ化、PCM対応、高サンプリング化 足りなかったもの・・・
X68版がオリジナルのソフト。
今でいうところのオフィススイート。
68030(ECつかない奴)搭載モデル。
DOSもどきじゃない、ちゃんとしたマルチタスクなOS。
なによりもモラルがあるユーザー。 あと10万上乗せしていいからSRAMは増やして欲しかった だからよお、ゲーム機じゃねえんだから気に入らなければゲーム売らなきゃ良いだけだろ >>1
音質は当時としてはそこまで悪くなかった
カプコンのCPシステムよりサンプリングレートが上
足りなかったのはチャンネル数
4音は欲しかった SRAMはみんな口を揃えて言う
64KBは欲しかった 廉価版
512とか768モードもPC機能もいらないからゲーム特化型にして出して欲しかった
スーファミみたいに3万くらいで >>7
ID消し自演スレ
深夜から朝方にかけて過疎板の新スレが盛り上がるわけないだろ 1987年の段階では、9801もEMSでメガメモリ持ってたマシンなんて
そんなになかったからねぇ。
9801は最大で640KBだけど、X68000は最小でそれを超えていた。
まさにザクとガンダムの違いレベル。 テキストVRAM512KBは豪盛すぎたな
テキストVRAMは256KBに削ってその分のコストを
グラフィックVRAM768KBで768×512ドット65536色モード搭載か
もしくはスプライトRAM64KBの方が良かったかも >>19
細長い1MB増設ユニットの話ね。最初から同時購入した。3万だっけ
本体価格が高い上に1MB増設せよ。が多かったから(自分の使いたいソフトが?!)
を考えたら同梱・装着済みで良かったんじゃないかと >>22
要2MBのソフトが出てきたのはEXPERTが発売されてからだと思う >>23
用もなく初代を最初から増設メモリが必須というノリで買ったんだよね
「MZ歴代シリーズのようにゲームや自作プログラムが複雑になってから
必要に迫られたときに買おう」 とは思わなかったんだよね。
「最初から多い方が良い」という雑誌記事でもあったのかな どうやってもMIDI音源の音には適わないんだからサウンド回りはあれでいいわ 当時ではあれでハイスペック
PCM何チャンネルも搭載したゲーム機が出たのって95年頃だしな >>27
FM-TOWNsは1989年で8音だが
NEO-GEOが1990年、スーファミが1991年だっけ >>26
MIDI音源はPCMの代わりにならねえって何度言ったら分かるんだ >>28
タウンズ持ってたけどx68000より音は悪い
スーファミは音色のバッファが殆どないのでマトモな音が出ない
まあネオジオはマトモだったけど >>30
効果音同士でPCM奪い合って音が途切れ途切れになるX68000よりマシですよw X68000は後期はソフトで8音合成出来たから全然不自由なかったんだが
ユーザーでなかった奴がケチを付けてんだろ 効果音てことはゲームだろうからその他の負荷によるよねそこは human68k上で動いてる昔のゲームなら単にpcm8常駐させたら複数効果音同時に鳴るし ちなみにゴリーのツイートによるとx68000のadpcmは4ビットデータで演算結果は12ビットらしい
タウンズのpcmは8ビットらしいので音悪いなーと思った俺は間違ってない >>32
当時X68000使ってたならゲームにPCM8組み込んだら死ぬほどクソ重いの知ってるはずだろw
しかもどんなに合成しても元が1音だから各チャンネル個別にパンポット振ったりもできず全部真ん中から出力しかできないし 俺はXVI使ってたから全然重くなかったが10Mhz機使ってた奴は重かったかも知れんなw >>37
スペースハリアーにPCM8組み込んだらXVIでもガタガタだぞw シャープの留守番電話用のADPCMチップ流用したんだっけ
そりゃ音質は良くないだろ
誰だよ擁護してる変態は >>39
シャープの電話に使われたかは知らんがOKI製だね
あの時代なら音質はあんなもんで十分かなと思ったけどアミーガ辺りと比べるとローとハイが出てなくてスカスカに聴こえるな
まぁ音質より足りないのは兎に角チャンネル数と音量機能、各チャンネル独立PANも欲しい
欲を言えば音階機能もあると遊び甲斐がある タウンズIIから1chだけ16ビットPCMを搭載したらしいがそんなもん対応してるソフトが無いがなw 90年当時のPCMに関してはネオジオが一番だと思った
次点でスーファミかな 白タウンズは1993年ぐらいだからちょっと時代が違うかな >>40
声の周波数に合わせたのでは?
バスはスッカスカだったね >>30
>>43
ネオジオにあるCh6つのPCMはサンプリング周波数18.5kHz固定でX68に近く効果音には良いが
音源として使うとちょっと微妙だぞ。
スーファミの方がメモリが少ないが、32kHz16bitなんで綺麗な音が出せる。 スーファミが良いのはDSPでエフェクタかかるとこ
FM音源もだけどパソコンは得てして後段にエフェクタなくてもったいない スーファミできれいな音なんて聞いたことがない
大抵楽器音ではないモワッとした音が流れてるだけw スーファミはシャープが開発したらしいけど、あのPCMが良いってのは理解できんなあ
どっちにしろスーファミはCPUがクソだったからアクションゲームが殆ど発売されないクソマシンだったしw
ゲーム機で本当にマトモな音が鳴るようになったのはPSSS以降 スーファミよりメガドラの方が音が良かった
そんな話聞いたことが無いわw MDはノイズが乗るとかそういう問題はあったけどアクションゲームはスーファミより楽に動いていた
スーファミは後半はほぼRPGとSLGしか発売されない状態になってた 68000はレジスタが32ビットあるからクロック遅くても当時としては処理が速かったけどな 初代が出た当初だけはな。
すぐに時代遅れの産廃になってしまっま。 あの当時すでに12.5MHz版もあったのに採用せずSRAMも32KBとケチったシャープに何も期待出来なかったわ 定価50万ぐらいになっても買えた大金持ちなんかw
当時の現実的な価格考えたらあんなもんだろ >>47
ADPCMかどうかあまり関係ない、周波数の差が大きい
>>49
ネオジオのPCM比であり、X68のPCM比でもあるからSFCの方が良い
メモリの問題と使い難さは別問題として。
>>51
実質8bitのバンク切り替えみたいなメモリに、データバス8bit、本体128kBのRAMアクセス時2.68MHz
使い方によっては6502モードの方が処理が速い、サウンド用メモリにもCPUで1バイトずつ送る
>>55
Z80の3.58MHz(NTSC)の2倍という訳でなく7.67MHz/NTSC、7.60MHz/PALという
少しでも定格の8MHzに近づけているようなのでちょっと違う。
>>57
メモリアクセスが遅く、クロックの割に速度が出なく、速いとは言わなかったような 信仰心がなかったら、そもそも買わんからねぇ。
何もわからずに9801やタウンズを買ってたんだよ、一般人は。 ガキンチョでDOSの優位性やらNECの営業力しらんから
スペックだけみて68一択 スペックもたいしたことなかったけどな
2年前のセガの基板よりずっと格下だったし
何を考えてたのかシャープよ >>67
ワンパターンだよねぇ
もう少し上で境界知能ではという指摘も。
検索してテキトーなこと言いまくったらカタログ1M君と突っ込まれちゃったんで
ゲーム機でいくことにしたんだろうな 主流から外れた上に時代遅れの68kを選んだことや、お茶濁しなDOSモドキなOSだったこと、メーカーからなソフトハウスへの働きかけが全く足りてなかったことなど企業サイドの落ち度を数えあげたらキリがない。
まぁ、それらの欠点が無くても
ユーザのピーコ攻勢が全てを台無しにした史実の前にはタラレバ以前なんだけどね。 超絶に美化されたキモオタなピーコユーザの記憶の中にだけ存在する妄想の産物がX68と言う機械、ということか。 またいつもの内容。その辺も境界知能と言われる所以だろうに
ハードウェアなんかに自己を投影してるから、そういう醜態をさらすんじゃねえのかね。
ユーザーの大半は道具として68使ってたわけで、今更ゲーム機と比較したところで「だから何」という話にしかならんし、ロクに使えてなかった奴の戯言にはツッコミが入るっつー毎度毎度の繰り返し
ピーコ連呼君には難しい話かな 大半のユーザーはピーコでゲーム機として68使ってたわけで、ゲーム機と比較するのが順当w ピーコがすべて台無しにしたという事実を言われてファビョるキモいくそ爺どもがX68ユーザですw X68に足りなかったもの。
シャープの営業努力。
ユーザーのモラル。
とくに足りなかったのが「ユーザーのモラル」です。 図星をつかれて連投
今度は営業努力とモラルに転進だ 欠陥スプライトの88VAよりマシだろ。あれメモリ増設やプログラミングでどうにかなるレベルじゃないだろ。 もう結論は出たね
ADPCMが4音(各ch独立の音量とパンポット)
サンプリングRAM256KB
スプライトサイズ可変16×16〜32×32ドット
スプライトRAM64KB
31kHzモードで横320ドットいっぱい表示できる画面モード
これだけで殆どみんなが満足得られる状態になりそうだ
後は高速機の投入を前倒ししてくれれば鬼に金棒 >>83
それが上位モデルで20万プラスくらいならそっち買ってたかもな
あとサウンド用にZ80-4MHzも欲しいかな ゴミなX68と、さらにゴミなVA比べたってX68がゴミという事実は変えられないんですけねぇ。 >>83が実現してようやくゲーム機として使えるレベル
どっちにしろ90年代のゲームは移植不可能だけどな ハードを進化させても、ピーコ対策がされない限り商業的には失敗する未来しかないのは史実が証明しちゃってるけどね。 任天堂みたいにしっかりコピー対策をしないとだめ
シャープには見習って欲しい、もう遅いかw アンチばっかり寄ってきてるが、なんで今でもヘイトしてるんかね?
何時までも粘着するとか、○○○みたいとか言われたい訳でもないだろうに
>>83
そこまでしても値段が上がるばかりで売れなくなるし、
初代からスペックアップしなかったハードベッタリ部分だから根本的改善も延命も僅かにしかならんと思う
CPU回りとかとブロック毎にスペックアップしやすい構成にしておく方が良かったかも。
移植のしやすさの為に、640x400/200モードも持たせるとか
最初から384x256もサポートするとか
768x512は当時としては高解像度で悪くないのですが、512x512や256x256がねえ。 >>89
640×400ドットモードは実際にあったでしょ?
3モードのモニターなら表示できた(24kHz) >>90
384x256同様に標準ではなかったのと、メモリ的には可能なので
640x400で、65536色、256色x2、256色+16色x2、16色x4画面等が使えてればねと。 640x400があっても当時のユーザたちは「こんな低解像度使えねーよ!」とか言いそうだけどな。 >>92
640x400が駄目なら512x512は論外だろう。
98でも640x400を超える解像度の普及には時間がかかった。 >>93
68には768×512ドットがあったじゃん
インターレースだけどIOCSに1024×848ドットモードもあったよ >>9
コレ
あと768x512x256色x2面の画面モード 640x400のモードがあれば98のゲーム簡単に移植できたんだがな
アホな仕様にした開発者が悪い 画面サイズが98と同じで、98のソフト(ゲームに限らず)が移植されてたら「糞つまらない機械」と評されて見向きもされなかっただろうね。 >>97
アケ劣化移植ピーコPCがそんな面白い機械だったか? >>99
史実でも面白い面白くない関係なく低スペックな現実から目をそらしてピーコしまくっても「X68はすごい機械なんだじょ〜!」ってやってるような連中だからね。
「98と同じ」というただそれだけで「クソつまらない機械」と決めつけるだけだよ。
今と同じにね。 最初から3.5インチにしてくれたら良かったのに(オートイジェクトは楽しかったけど) BGとスプライトキャラデータ混みでSRAM16KBという産廃仕様にした理由を知りたい >>104
やめろ俺が3年ローン組んで最初に買ったパソコンだ >>103
32KBだよ
16KBなのはバッテリーバックアップRAMでスプライトとはなんの関係もないだろw >>97なるほど、X68ユーザが盛んにVAをクソミソに言うのは98と同じ画面だからなのかw
X68ユーザってキモいな。 X68ユーザに著作権保護やライセンス順守という考えはない。 今やこの板最強のキチは68アンチというのがよく現れてるスレだ
ぱらっと見ると叩きどころの主要点はPCMだけか、たいしたところないんだな もう30年経ってて未だに機種叩きの争いしてるやつなんだから相当キモい
68アンチは恨みに生きている人間の文章ばっか そりゃピーコされまくって人件費足りなくなって会社クビにされた人間は恨むでしょう 逆に聞くとPC98には
パターン定義用のSRAM
スプライトのサイズ
高品質なADPCM音源
全員がピーコなぞ一切したことないユーザー層
これらがあったのかと どれも全く無いようだが
X68だけ限定でPC98は目をつぶって下さいたのむってこと?
あとこのところ急増してるX68叩きスレはほぼ同じ人がたててるよね 98言うなよ、Townsなんですけど
1よTowns版のスレ立ててくれ わかりやすい98ユーザーだなw このそらし方
で98にスプライトやADPCM音源あるの? Windows世代のPC-98ならソフトウェア処理でぺけロクなんかぶっちよw ああ同年代の比較では負けるのでしないで下さいってことね
同年代ではFM音源はおろかPSGすら使えない98beep音さんだもんね
しかし90年代に出た98の創作グラディウスはひどかったな、その次代でも動きがガクガク X68ユーザーはわかってないな。
98を叩いたところで過去の悪行が消えてなくなるわけじゃないんだぞ。
お前らは死んだ後も叩かれ続けるだけの悪行を重ねてきてるんだぞ。 脳死でピーコしてた奴らになに言っても通じるわけがない townsに無かった違法コピーだがそのせいで不人気だから市場が育たない
98なんか大成功なわけで
法整備の遅れもあったよなMODチップみたいにさっさとファイラーを違法化して
なんてやったら98の市場も育たないかまあ必要悪だったのかも
今のネットでIDに紐づけ課金なんかもコピー対策の末路だし ピーコユーザーはCDのtownsを除くどの機種も均等にいたわけで別に68だけでない
多分このスレでピーコがーて言ってるやつが一番ピーコやってた人物だと思われ 68叩きなんていつもやってるのは同じ人間でこれまでので98の一人ってのはわかってるわけで
ここの文章見る通り脳が欠損してて全く話が通じる頭持ってない、いつも自分のこと言ってるようだし
この破綻した文で「なんでも相手のせい」とする甘えた文章はまるで「なんでも日本のせい」と言い出す隣のアレと同じ
文体見る限りほとんどこのスレもその一人で書いてきたんだろうね、ガイキチすぎるわ 118 おいおい全然自分らの側はADPCMがなかったことの言い訳になってないぞ
お前が過去にも現行でもやってる悪行が消えるわけではないぞ、この対立煽りはほぼお前一人で仕掛けてるんだよな
みんな気づいてるぞ いつも勝てないから後発の機種をぶつけるパターンがお前の弱さだもんな
さあお前の側がADPCMない言い訳しろ、お前が用意した評価基準なんだからお前がやらないとあかんぞ、さあ すごい決めつけ(しかも的外れww)までして「ぼくらはわるくないんだじょ!」というバカ丸出しのX68ユーザがおるなぁw
でも、お前らが悪いことしていた事実はなくならないんだよww いやお前が長年やってきた68の機種叩きはもう隠しようがないよ
こんな頭の悪い厨も、68にただ憎しみ持ってるの伝わるだけのやつも複数はいない、お前一人だけ
68ユーザーを一括にするバカもお前一人だけ
ここの全体の書き込み見る限り誰が見ても悪の属性は68使いでなくお前だよ マジで頭の悪い決めつけしてるキモイX68ユーザーだなぁw
どんなに言葉を重ねたところで、他人に墨を擦り付けようとしたところで、
悪いのはX68ユーザという事実は変えられないんだけどねww >悪いのはX68ユーザ ←これで根拠なく決めつけてるのが自分だろう
しかもいつもこの言い回しだから’毎度同じ人’とここで全員に知れ渡ってしまってるアホ この定例の68アンチの書き込み見て皆がまず思うのは「68は足りてない」じゃなくて
「この人なんで親を56されたみたいにいつも68恨んでるんだろ」だよな
しかもこんなに頭悪そうな文章で書いて人生の全てをかけてるぐらい長期間
68叩きをしてるから「うまくいかないのを何か(68)のせいにしてる可哀想な人」と思って終わってしまう 68アンチなんていないのに68アンチと決めつけてる時点でバカなのがモロバレw
X68ユーザが諸悪の根源ですがなにか?
悔しかったら歴史を書き換えてきてくださいねww 叩かれてるのはX68ではありません。X68ユーザです。 ソフトウェアにお金を払わない文化はまずかったな
挙げ句の果てにクロックアップ改造するようになってハードウェアにもお金払わなくなってシャープも本体が売れず開発費が捻出できず後継機が出せず終了してしまった 金出さないクソみたいなユーザーばかりで結局台湾の会社になっちゃったし シリーズ累計で十数万台くらいしか売れてないパソコンなのに、このソフトが2万本売れないのはおかしいコピーユーザーが蔓延してるせいって雑誌のインタビューに答えちゃうメーカーも大概だろ。 まぁ例の奴が延々と書いてるだけだからな
薄っぺらいからすぐばれる 一太郎と123
冗談はともかく肝心なところで色々足りないマシンだった、環境という意味で。
これで実験レポートや卒研書いた漢ってどれくらい居るんだろう? >>137
98と競合しても意味がない
それよりMacが得意な分野における日本でのシェアを獲れればよかったけどそんなプロレベルのソフトウェアや周辺機器が発売されなかった… >>140
68Macがマルチタスクってどこの世界線の話だよ… >>141
疑似マルチタスクだったよ
Mac持ってなかったんだね 68Macが擬似マルチタスクならSX-Windowも擬似マルチタスクになるね。
68Macは使っててアプリの立ち上がりが遅いとか感じなかったけと、SX-Windowは妙に遅かったな。
何かに引っかかってるような感じ。 SX-Window自体Human68k上で動作してたアプリだから ペケロッパはキラーアプリがなかったのが最大の欠陥。
パーソナルワークステーションというにはOSが貧弱すぎて名前倒れなんも良くない。
純正品として10BASE5が安価に提供されていればWS代替品に使おうという層に認知されていた可能性はゼロではない程度にはあっただろうが、それも今となってはタラレバ。 UNIXのX-WindowがOSの上で動くアプリだったからな
完全マルチタスクだったけど >>148
GUIっていうインターフェイスの違いだけでUNIXOSはコマンドラインでもマルチタスクだったぞ
しったかやめてくれ >>146
フォトショップとデジタルパフォーマーとライトウェーブが移植されてたらなぁ
あとDTPのプロ用ソフトウェア(詳しくないので名前は知らない)
Human68kだとOSレベルでのDPI管理やカラーマネージメントないから厳しいか? >>149
別にX-Windowだけがマルチタスクだとは言っていない
Windowsが固まるとカーネルごと落ちるMS-Windowsと違うことを言いたかっただけ x68k 発売当時にMacintoshにMultiFinderって実装されてたの? >>151
マックも爆弾マーク出たらシステムごと落ちるんじゃなかったか? そりゃOSかハードに問題あればどのOSでも落ちるだろ
WIN10でもWIN11でも同じ
最近のMacOSはあまり聞かないが UNIXもECCメモリで2ビットエラーになると
PANICメッセージ出してメモリダンプ吐いて落ちるしな >>154
OSやハードに問題なくてもあの頃のマックOSはメモリ保護実装してないからアプリ側のバグでシステム破壊して爆弾マークで落ちることあったでしょ Segmentation fault (core dumped) 個人的な経験だと、爆弾でるより無反応になるほうが多かった。 SX-Windowは国産OSの中では一番いい線行ってた Human68K自体DOS劣化パクリのゴミだったのにそれありきで起動するSX-Windowのどこら辺が良かったのか・・ >>160
GDIやフォントマネージャみたいな各種マネージャを制御して、
オフィスツールやシムアースくらいが作れるようなAPIを揃えた国産OSって他にあったっけ? >>161
それよりいいOSの名前を出してみて下さい ちなみにSX-WindowもX-Windowのもろパクです 要するにX68Kに独自性は全く無いです
ハードのアーキテクチャ、ソフトやOSに関しても全て過去の物をパクっただけです シャープ自体がパクりを認めていたしどうしようも無い事実です 時期XはUNIXだったはずなので、そのタイミングでSX-Windowもリファインしてたら
UNIXウィンドウシステムのスタンダードになれたかもしれない CPUをパクっちゃうNEC98勢が言える立場じゃないし EWSはGA積んでいたからウィンドウの描画が速かった SX-Windowって実はJWといい勝負。
JWのが出てきたの遅いけど。 マルチウィンドウなんて最低でもXGAじゃないと使えたもんじゃないけどな そんなもんあったって買わなかった
当時はCPUのクロック、処理速度にしか興味なかった
ゲームの処理落ちが減るだけで嬉しかったよ >>177
CG計算用のコプロ基板を取り付ける人とかいたな
SCSIとMIDIで2ポート埋まってしまって買わなかったけど >>168
マウスとトラックボールが兼用な斬新デザインの付属マウス
3年前に発売したMZ-2500とピンアサインからシリアルデータまで完全コンパチで助かった
2500でマウスを使う機会がないから68のオマケでついてくるまでメモリー解放の関係で使ったことがなかった 1991〜1992年頃になれば386や486SXのPC/AT互換機が十分安くて日本国内でも流通し始めて、386BSDや黎明期のLinuxが少しずつ知られて来るようになるので、秋葉原に行けた先進的なユーザーはLinux使いたさにPC/ATに乗り替えて行くんだなあ
LinuxのCD-ROM流通はもう少し後で1993年頃か
そのくらいになればWindows3.1も出て勝負が決まる
5年間惰眠を貪っていたX68000では満足出来なくなる MPUに68030、OSに4.3BSD。これをXVIのタイミングでやってないのでPC/ATにはどうやっても勝てない。
やっていたとしても、Windows95の時に負ける。 ethernetとX11対応があればX端末としての用途もあっただろう。 >>166
どこがそうなるんだろう。ネットワーク透過でもないし、ウィンドウマネージャも自由に選べないし。そもそもX-Windowって。。。(呼称)
ko-windowのコンセプトの方がXに近いと思う。 仮想メモリは無くてもいいから標準でプリエンプティブなマルチタスクOSを準備して欲しかった。ワークステーションと名乗る以上は。 >>186
ごめん。標準で、と言うことは本体添付で、若しくはシャープ純正で、という意味。 アドレスレジスタの上位8ビットにフラグ入れちゃうのは酷すぎるわ
折角アドレスレジスタが32ビットになってて上位32ビットMPUも既に存在してたのに将来の発展の可能性を自ら塞ぐという愚行… >>174
JW
https://www.youtube.com/watch?v=k_3-5k0PDws
いい勝負ねぇ・・考え方は人それぞれだが。厳しいねぇ
ウィンドウシステムと呼ぶことすら異議がありそうな出来でしょこれ。 >>187
OS-9 X68kはシャープから販売か。でも主流にはなれなかったよね。AMIGAのAmigaOSのように、標準OSでプリエンプティブマルチタスクだったら面白かった。(OS-9ベースでも) 何が面白いの?
プリエンプティブだったら何がどうよかったわけ?
具体的に書いてくれ マルチタスクよりもっとPCMチャンネル数とパターンRAMが欲しい
768×512ドットで65536色表示できたらCG方面も無敵(いいソフトウェアがないのが問題だが) >>176
1024x768はインターレースで表示できた
1024x1024(仮想画面)も可能 あれ、違ったかな?
仮想画面はあってると思うが忘れたな
ハードを改造したら表示できるツールは存在してた >>189
SX-Window
https://www.youtube.com/watch?v=Y5MwOMuyPZg
見た目は今のOSとほとんど一緒、内部的にもイベントドリブンなプログラミングスタイルだし
電脳倶楽部のフォーマットはHTMLみたいなもので、各種プログラム・データを
ブラウザのハイパーリンクから駆動できる仕組み。
XDTPとかEasyWord、Datacalc等高価なビジネスアプリの動作も見てみたかったな >>193
インターレース1024×848ドットだと思う
IOCSでもサポートされてる画面モード >>196
848ドットだったか
インターレースだったが実用的で広い画面に感動した記憶ある なんとなくMacっぽいことがしてみたかったってだけで明確なビジョンがなかった感じ X68000に限らず国産PCってみんなそうだけど日本人って木を見て森を見ずだよね PC-98はWindows1.0
TownsはCD-ROM
x68は? >>189
一太郎が動く、ただそれだけでもJWの勝ちですね〜w
ペケロクにはキラーアプリ無いからww
JW2だとマクロとか作れたそうだけど、使い勝手どうだったんだろう。 テキストで構成されたような画面なのにウィンドウシステムはないな
全画面表示で右側にスクロールバーのような装飾があるだけ
一太郎のサブルーチンを流用して作ったサブプログラムでしかないな、
これならMZ-6500のほうが上だわ
https://www.youtube.com/watch?v=WNL3D4MWOPo
こっちのがウィンドウしてる 見た目だけでアプリ無いのがペケロッパだからね。
見た目だけを凄いだろー!とやるしかないよね。
アプリ出してもピーコされて売れないからみんな撤退しちゃったから仕方ないけど。
哀れだね、ペケロッパって、そんなユーザばかりで。 無いものは作れと息巻いたはいいがユーザーが少なすぎてエコシステムが作れなかったから 1998〜1999年頃にOh!Xが一時期復刊してたけど、この当時ですらX68000が過去機種扱いされてて製品寿命の短さに泣ける 9801でWindows3.1や95、98、NTが、9821は2000まで動いてたしな。
OS/2もwarpまで動いたんじゃなかったっけ?
BSD系もLinuxもポーティングされてたし。
Linuxすらポーティングが途中で終わった68kって凄いガラパゴスだよね。 2000まで98版があったのはNECが金出してたからだよ OS-9、NetBSDくらいが動きゃいいだろ
X68000には早くからμEmacsやGNUツールが移植されてガラパゴスなんて実感はなかったわ
むしろ真っ先にUNIXの技術に触れられたパソコンだった 4対3のブラウン管に1対1のドット比で横にべろんと伸びて見えるゴミマシーン GNUツール移植されるばかりで、X68発祥のアプリがなーんも無いんですよね。
本家へのフィードバックもポーティンク、ローカライズするためのものだけでメインストリームへの影響まったく無し。
つまりコンテンツ消費型しか居ないの。
まぁ、ピーコなんて消費型の最終形態みたいなもんだから当然といえば当然なんだけどね。 そりゃそうだろパソ通で欲しいソフトのピーコ譲ってくれる人血眼になって探してたんだもん X68ユーザたちのオフ会はピーコ品の交換会だった。 68kのには行ったことないが、温泉宿やら飲食店やらにあつまって雑談しながら酒飲んで飯食う集まり・・・みたいな感じかなぁ。
身なりも年齢層も不揃いな集団がぞろぞろ歩いてて職質に来たおまわりさんを「りあるぽりすめんきたー!」みたいな危ないノリで逆に包囲したりとか。
流れ集合流れ解散な会場にしたファミレスがいつの間にか貸し切り状態になってたりとか。
モバイラー多すぎてPHSのアンテナがたつのにまったくつながらなかったりとか、これはだいぶ後の話だけど。 イースが再移植されたみたいね
知らんかったわ
TOWNSにはイースのィの字もなかったイースが二回も 遥かに出来がいいWindows版があるからいらんやろ イースよりドラゴンナイト4や同級生2の98エロゲやりたいわ 8bitゲーはいらんからブランディッシュの移植をしてくれよ アケゲーのクソなド劣化移植がX68の唯一無二のコンテンツでしたねw それもゲーセンからとっくに撤去されてるような大昔のアーケードの移植な それでも出来が良ければ「懐かしのアケゲー復古」みたいな感じで需要が出たかもしれないね。 結局80年代中期の設計を引きずっている時点で察し
スプライトも音源もFDDも外部拡張も皆中途半端になってしまった
エンタメ志向した割にはAmigaやAtari-STのようなグラフィックや音楽のキラーソフトも無かった > キラーソフトも無かった
これが一番「足りなかったもの」。
PRO-68Kシリーズ持ってるユーザはたくさんいても、使ってるユーザがほとんどいなかった。
酷い言い方なるけどアプリの過疎地域をこえた不毛地帯。
PRO-68Kシリーズがリファレンスとなって、それの簡易版や高価でも機能拡張高性能化した製品がでてて、かつ売れてれば、ユーザのすそ野が広がっただろう。 68Kが欲しくなるゲームってのは無かったな
古めのアーケードの移植は全く興味無かったし
ビジネスソフトでも色々出ていたらまた変わったのかもね SX-WindowはGUIアプリ作る為のAPIはあまり整備されて無かったの? >>236
SXコール(Win32APIみたいなもの)は1000くらいあるな
メモリマン・エクセプションマン・マウスマン・アニメーションマン・キーボードマン・キーマン
イベントマン・リソースマン・グラフマン・ウィンドウマン・メニューマン
コントロールマン・ダイアログマン・テキストマン・タスクマン
プリントマン(V1.1〜)・サブウィンドウマン(V1.1〜)
フォントマン(V3.0〜)・セマフォマン(V3.0〜)・カラーマン(V3.0〜)・ビデオマン(V3.0〜)
移植しやすいようにある程度はMacのシステムコールに合わせてるらしいから同等数はあるはず 普通に考えて、ビジネスユーザー
金持ってないガキとクリエイターがメインユーザーじゃ儲けようがないよな クリエイターなんて居たか?
著名クリエイターで昔68使ってましたって人見たこと無いけど パソコンサンデー本編とCMに出てきた女性ミュージシャンが
お付き合いでMUSIC PRO68Kでウルトラマンと外国の国歌をアレンジしてた
今ではエロゲー作家らしい >>240
ゲーム作っている人、CGやってる人は結構ロッパー多いだろ
専門学校に68導入されていたし >>242
卒業した後も68k愛用、というのがどれくらい居る?
学校から一歩外に出たらX68kには触りません、が多数派でしょ。
商用でCGはほぼMacだったし。 専門学校だと3DCGは98に演算処理ボード+多発色ボードみたいなの付けて使ってた気がする 俺の出た専門学校はHPのワークステーション使ってた >>245
あー、昔○イオニアで仕事でHP9000使ってたわ
懐かしくてヤフオク探してもなかなか無い… UX/4800は純粋なSVR4.2のクローンで標準で2バイトコードに対応していて
manページも全部日本語が用意されていていいOSだったよ X68000はほかの機種と互換性がないガラパゴスPC。
学校で使い方を覚えてもつぶしがきかない、産業廃棄物。 DoGA CGA System・・・3Dアニメ統合システム
XL/Image・・・高性能レンダラ Personal LINKS L/Imageの移植版
3Dアトリエ・・・モデリングツール
マチエール・・・2Dペイント マッピングと変形で3Dのような絵が描ける
EX-System・・・Z's Staff/マチエールで動作するアドオンシステム
-彩-・・・2Dペイント 見たことはないがWindowsで有名になってた
これらを使いこなせばかなりのものが作れる
CGAコンテストではX68の独壇場だった Oh!X誌上で丹・横内コンビが開発してた3Dエンジンはグランツーリスモに繋がった >>252
とても仕事では使えないうんこみたいなソフトばっか
グラフィックツールならレイヤー機能やデータ非破壊エフェクト機能ぐらい実装してないと アンチはびっくりするほど何も知らないよな
勝手な思い込みの間違った知識で叩いてるから対処に困るわ アンチはバカだからな
なにも知らなくて当然
仕事でもわかりませーんとか言って上司に怒られてそう >>252
すまんが何一つ知らねーんだわw
ドマイナーなうえにアプリ自体が出てくるのが遅すぎてなww
という冗談はともかく、そこに上がってるのほとんど「使い勝手がいまいち」な評価の残念賞ばっかりじゃん。
だいたいX68k向けのアプリは移植されてもそのあとにバージョンアップされない一発屋ばかりだったから操作性とか悪いままで終わったもんな。
彩ぐらいか? 一応まともな評価あったの。 >>252
DoGA CGA System テクスチャマッピングできない
マチエール レイヤーがない
Macに移行して海外アプリの凄さに腰を抜かした
68に限らず日本人の作るアプリは発想の視野が狭くて駄目だと気付く >>265
フォントも変えられない一太郎なんかクソゴミ
DAW方面でもレコポとかSTed2とか一行ずつひたすら数値入力特化みたいな設計で日本人ってなんでこう近視眼的な発想しかできないんだろうって感じる
初めて海外DAWのLogicに触れた時にぶったまげたわ あの頃のCPUは力不足で漢字ROM+TEXT画面の方がずっと高速に処理できたんだよ >>264
DoGAはテクスチャマッピングできるぞ
最初はツールが完成していないのを理由にドキュメント化されなかったが
手入力すればレンダリング可能な状態だったのでしばらくして解禁された
マチエールが出たときはPhotoShopだってレイヤー対応してなかった マチエールはメモリを追加すると裏画面4枚まで使えた
そしてマスクと透明度を使った合成が出来る >>269
裏画面w
そんな低レベルなこと言ってるから日本人は世界で負けるんだよ 3万円のソフトと15万円のソフトを比較するのが 酷 >>270
裏画面って一つのキャンバスみたいなもんだよ、それと合成出来るんだからレイヤーみたいなもんだ
レイヤーが使えない当時のPhotoshopに比べたらマチエールのほうが断然使えた
基本的なレタッチ機能もあったし、ブラシも優秀だったからペイント機能も他より良かった 世の中に出たのも遅すぎたしな。
ハードもタイミング悪ければ、アプリはそれに輪をかけてタイミングが遅い。
遅いのはタイミングだけでなく、ソフトの動きも遅くて色々と機能あっても、それ使わずにMacつかって手で描いた方が早くて綺麗に仕上がるぐらい。 ユーザー数。まあ、モニター入れた値段も考えると高かったしなあ。 当時のワープロ需要層にまったくアピールできない「高いだけのゲーム機」は売れなくて当然。
wp.xやシャーペン.xが標準でついてくると言われても、フォントがいじれるだけのテキストエディタが、
アイデアプロセッサ的な使い方もできてフォントの装飾や表組をはじめとしたワープロ専用機が持っていた機能はほぼ全て実装していた一太郎の代わりに成れはしない。 X68にはソフトの対価をちゃんと払うユーザが圧倒的に足りなかった。 元々市販ソフト使うんじゃなくて
自分でいじり倒したい人向けの作りだったしな
でなきゃモトローラのCPUなんか採用せんし >>278
アメリカのハッカー文化がそんなんだったんだよ
それでMSのBASICも海賊版がシェアされてゲイツ激怒 まぁ98も一太郎を一本だけ買って事業部で使い回すなんての
昔は普通にやってたけど X68はパワーユーザー多いから
どんな頑丈なプロテクト入れても破られちゃう
SRAMに感染するウイルス入れてばら撒く奴もおった X68はゲーム機じゃない
X68は高級なMSX2だ! たしかに一太郎を一本だけ買って課内や部内で使いまわすのはあちこちで見られた光景。
だが、コピーを外に持ち出して配り歩くようなことをするのはいなかった。
しかし、ペケロクユーザはコピーを外に持ち出して配り歩いた。
ただで配り歩くのではなく、ほかのソフトのコピーをもらうという対価を得ていたので非常に質が悪い。 会社にあるPC98のソフト片っ端にコピーして自宅のPCに入れてた
それができるからPC98買ったってのもあった
さらに友達にもコピーを配った 98はそこかしこで使われていたからどっかからコピーが入手できた
友達に頼んで大学のをコピーしてもらうとか >>284
法人が会社ぐるみでコピーしたソフトで業務する方がいいの・・・?? 一太郎はワープロ専用機と競ってた旧世代のワープロ
キャラクタベースじゃ表現力が制限されまくる >>289
倍角表示するために結局テキスト画面じゃなくてグラフィック画面に描画してるの笑えるよな ワープロはMacのEGWordもSX-Windowに移植されたよ ことえりもASK68Kも日本語を知らなさ過ぎた。
DOS標準のFEPを見習ってほしかった。 NECAIは標準でDOSに入ってるのに、ワープロソフト同梱や単品販売のFEPと互角な精度を持ってたな。
技術評論社のFEP評価の連載で、文豪と同じ辞書つかってるんじゃね?的な事が書かれてたな。
シャープには書院というワープロがあったのにASK68Kときたら・・・ 68000Macはそんなに遅くなく使い勝手も悪く無かったのにSX-Windowの駄目さときたら Ko-Windowあったじゃん
使ったことないけど MS-Windowsなんて486でもモッサリで使い物にならなかった。 >>301
いや、DX4ならNT4位まで、実用に耐えうる速度だった 486時代はまだWindows3.1の頃じゃね?
グラボがS3とか 486DXじゃないと68000と勝負にならないのか 486時代ならX68030が現行機種だ
NECの奴らって過去機種と張り合うよな
88SRとノーマルX1とかな 98ってちょっとCPU速くしたのをちょこちょこ出すから
一年前の機種がゴミになる >>306
X68000もちょこちょこでいいから高速化していって欲しかったわ >>299
画面描画にCPUの処理が食われてたから。
Windows最初の頃のPC98もATも標準の描画機能だと描画に処理食われて超モッサリだけど、グラフィックアクセラレータボードつけるとサクサクになる。
98はそれが一般的だったけど、X68kはその手の拡張ボードが流行らないうちに終わった。
つい最近のGHzマシンだってWindowsやlinuxでレガシーなSVGAドライバで画面描画すればモッサリになる。 ウィンドウシステムは最低でも1024×768ないとマルチウィンドウでは使えんよ
UNIXのX-Windowはモノクロでも解像度は1280×1024あった ちょっと前に指摘された間違いを学習しないでまた書き込んでるな 具体的に何が間違っているか指摘してくれないと学習できないね モノクロで解像度が1280×1024なのはXじゃなくてsmalltalk Xといえば、sun-3は68020だった。
会社で使ってたのはSPARCになってからだったな X the mark of the leader
You've gotta be more than just a day dreams
How about a scientist or an inventor
Studied all my lesson's now i've got wisdom
X the mark of the leader
You can't perpetrate or be a deciever
It stand's for what is right
And I believe in the truth, the love, the equality X Sunのワークステーション使ってたけど、X68のようにモッサリはしてなかったな。 新しいモデル出ても、何が変わったか分からないのがX68000と言うパソコンだった。 出てる出てるッッッ!!!
モンスターうんちみたいに産んじゃってるのおおっっ!!! わたしっ! あひっ!! この世界に召喚されてっ、いろいろなモンスターに犯されたッッ!! いいっっ!! でもっ!! いひっ!! 麗子がっ!! あひっ!! 麗子のオチ○チンがッ!! あひっ!! 麗子がッ!! あひっ!! 麗子のがッ!! ひっ!! 麗子のセックスがッ!! 麗子がッ!! 麗子だからッ!! 麗子が一番いいいいいいーーーーーッッッ!!!! モデルチェンジする度にMPU高速化と実装済みメモリ容量増加と最大メモリの引き上げのどれかを行っていればまだしもねぇ・・・
シャープは商売が下手なのもあるが、もともとの設計が悪いんだろうな。 >>323
お前、Unix使ったことないのかよw
SX-WindowはSunOSと比べると妙なモタツキ感があって使っててイラついた。 だからSX-WindowはHuman68Kで動くアプリなんだから重くて当たり前なんだよ
カーネル直で動作するUnixのGUIと比べるものじゃない UX/4800とHP-UXは無料で有償ソフトが使えてた
UX/4800はpidebugって保守用コマンドで有償ビットを立てて使ってた
HP-UXはDARTってコードワード不要の専用媒体があった
HP-UXはHPのイントラだとネットワークでインストールできるリポジトリもあった
個人的にmuleは好きになれなかったんでFDcloneをコンパイルして使ってた
途中でReflection-Xってのを使ってNTのデスクトップにXを表示して使っていた
SolarisはFirewall-1を運用で使ってた程度
UXにはGoahnetっていうインターネットサーバ用のパッケージがあった
UXではDBは何故かUNIFYとSYBASEを使っていた
HP-UXではKclassサーバにEMCのSymmetrixをFCで繋いでOracleを動かしていた
EMCのエンジニアはインド人だったが日本語が堪能だった
そういや初めてWWWにアクセスしたのはEWS4800のMosaicだった
Linuxはrawデバイスを意識する事がなくなって味気なくなったって思った
以上記憶違いが混ざっているかも ちなみに昔のNetnewsではUNIXを「Unix」と書くと叩かれた >>328
XはOS上で動くただのアプリです。ユーザモードで動いています。
更にいえばTCP/IP等ネットワーク経由で動く設計だからオーバーヘッドは大きいです。 68000 10MHzで動くX-Windowで使ったことあるのかよ
68030 25MHzで動くSX-Windowで使ったことあるのかよ X11はローカルだとSocketで通信するからオーバーヘッドは殆どないよ
単純にリソース食うだけ MC68000搭載のUNIXマシンあるか調べてみたが
SUNの一番古いのしか見つからんかった(2番目以降は68010)
これOSがV7ベースらしいからXどころかTCP/IPも未実装じゃね? SystemV系にTCP/IPが実装されたのは4.3BSDと統合されたSVR4からでつ 初めて使ったワークステーションはHP64000だった
SKエディタというテキストエディタ、クロスコンパイラ、ROMライタ
組み込みのクロス開発マシンでICEを実機に接続してデバッグしてたな
GPIBでプリンタとかハーディスクに接続されていた。すごく使いやすかった。
スレチだなw >X68000に足りなかったもの
・4:3で正方形ピクセルの画面モードの正式対応。512x384と256x192。640x400/480と320x200/240もあるとよい
・スプライト/BG用SRAM64KB
・22kHz止まりで良いので、リニアPCMを2ch。CDDAのダウンサンプリング再生を辛うじてギリギリ可能に
・キャラクタ型テキストVRAM。史実のプレーナ型と交換ではなく、追加で
・10MHzで構わないので、010でスタート(Humanによる仮想メモリサポート)
・30pinSIMMメモリボードの公式・安価な投入
あとは
・ストレージは最初からSCSI(1でいい)で
・030機の投入をせめて1年早く
・
…くらいかしら
原理主義信者は逆上するかなフフ X68030使うぐらいならXVIを使う。これ常識。 >>339
>キャラクタ型テキストVRAM
そんな汎用性の低いものは要らねえ
史実のビットプレーンテキストにビット単位高速パターン転送機能でも付けた方が汎用性が高くて良い
どうしてもってんならBGをテキストとして使え
MSXのテキストと同等だ そんなものつけたら98みたいなキャラクタから脱却できないパソコンになるところだった X68000には時代に合った性能が足りなかったな
同じ68k系のマシンと比べてみただけでもはっきりわかる
1983年 Sun-2 68010/10MHz
1984年 Macintosh(初代) 68000/7.8MHz
1985年 Sun-3 68020/16.67MHz
1986年 Macintosh Plus 68000/8MHz
↑
X68000発売以前のMacと比べたら、革新的に見えるが・・・
1987年 X68000 68000/10MHz
Macintosh II 68020/16MHz + 68881FPU
↑
同年のMacで既に距離が開いていて・・・
1988年 X68000 ACE 68000/10MHz
Macintosh II 68030/16MHz
↑
次の年ではその差が大きくなって・・・
1991年 X68000 XVI 68000/16MHz
Mac Quadra 700 68040/25Mhz
↑
待望の高速化モデルが出るも置いてきぼりなまま。
1993年 X68030 68EC030/25MHz
Mac Quadra 840AV 68040/40Mhz
↑
MPUが新しくなりました! でもMacにはもう追いつけませんでした。 Macintosh II って100万くらいしただろ ゲーセンでも使われてた68000だけは量産効果で特別安かったんだろう
それ以外を採用するのは現実的ではなかった そりゃ性能が高い分値段も高いよ
性能が低ければその分値段も安い 五年間スペック変えないってのはシャープの正式な表明なの?
都市伝説にしてはOh!Xとかでも書かれてたし。 もはや5ch利用者が弱者連合なのにその中で叩き合ってるのか >>342
シャープの人がおし着せのマイクロコードしか実行できないGDCは載せないと言ってたからな
ユーザーが自由にコントロールできるものしか載せたくないと、DSPが一つの解決策だ語ってた
現在のGPUのピクセルシェーダやGPGPUもその一つと言えるな、GDIはほぼ使われてない DSP載せるなら画像処理だけじゃなくPCMの波形合成にも使えるぐらいじゃないきゃつまらんな。 サウンドバッファ128KB以上載ったMSM6295のadpcmボードが早期に出て、
各種ソフト対応されてれば良かったのにな
これはどの機種でも言える話だが >>296
X68000より2年前に発売した8bitパソコンMZ-2500は書院の辞書ROM搭載で変換が速く的確だった >>371
辞書ROMは別売で連文節変換できなかっただろ
変換速度が速かったのは確かだが 媒体が高かったから
ピーコ貧乏人には5インチが似合うとシャープも思ってたんだろう 記憶メディアが主流に合わせないとユーザーが不幸になる
90年代はIBM-PCが勢力を増してきてたから3.5インチを出した >>371
ROMにしてしまうのはクリーンコンピュータ思想に反する Xシリーズ設計哲学
・クリーンコンピュータ
・5年は仕様を変えない
・ユーザーがコントロールできないものは載せない
他にあるかな >>374
5.25インチでオートイジェクトとロックLEDを搭載したかったんです
90度回転させて挿入したり裏面挿入したとき自動で吐きだしたかったんです
FDD内の電解コンデンサが漏らしまくりで迷惑 >>378
X68000だって漢字ROMやモッサリIOCSをROM化しちゃってたじゃん
テキスト表示とスクロールが死ぬほど鈍かった(MZ-2500比較
中期になると有志が提供するパッチで遜色なく高速表示できるようになったけど >>381
ほんと漢字フォントなんてROMに持つもんじゃないね
hiocs.xじゃなくても純正のiocs.xでも十分高速化されてテキストスクロールは滑らかになったけどね フォントをRAMだけにしたらロードする前どうすんだよ・・・ 高速化のためにDOS/VのEMMドライバでBIOSをRAMにコピーしてたのがあっただろ。
それと同じようにフォントデータでもBIOSでもRAMにコピーすりゃいい。 PC/ATのマザーボードとグラフィックボードを分離する仕様が画期的過ぎたな
画期的過ぎて最初は理解できなかった >>388
OSやシェルはパクリだったが本体デザインは独創的で革新的だったな そして動かすソフトは誰かがピーコしたやつのさらにピーコしたもの・・・
デザイン以外にオリジナリティがない。 NECはあるものを使う!の精神だな
リアルモードですが何か?の精神 本体クロック周波数の段階的な向上
98と比べて1ラインでしか出せないんだから
初代(8MHz)→ACE(10MHz)→EXPERT(12MHz)→XVI(16MHz)→SUPER(20MHz)
と毎年クロック周波数を向上させた新モデルを出すべきだった リアルとネイティブ
今の世代にはなんのこっちゃだろうな >>394
20MHzの68000って製造されてなかった気がする
16MHzすら日立製はなくてモトローラ製を使ってた気がする >>394
小出しな速度アップの方がユーザーに優しくて安心して買えるんだよな
突然大幅速度アップだと直前に遅いモデル買ったら泣きを見るので中々手を出せなくて購入に踏み切れない 初代ユーザ「ACE? 性能変わらないならこのまま使おう」
ACEユーザ「SUPER? 性能変わらないならこのまま使おう」
SUPERユーザ「EXPERT? 性能変わらないならこのまま使おう」
EXPERTユーザ「XVI? まだ買ってそんなに経ってないからな。見送ろう」
XVIユーザー「030かぁ。 互換性がなぁ・・・」
030ユーザー「え? 次のモデルでないの・・・?」 多少なりとも性能上げていけば買い換えするコアユーザーも居たのにねえ
XVI出たころにはX68自体オワコンだったわけで 386以降の32bitプロテクトモードだからこそ68000が時代遅れになったんだし
名乗るならX80386じゃないと
AT互換機にして68000搭載拡張グラフィックボードに全部組み込まれてる形で生き残るような方向なら面白そうではある 仮想アドレッシングモードでメモリアクセス領域を増やしたり色々やってたがもう過去だな
それに当時メモリ高くてそんなに積めなかったし DOSのソフト資産がほしいだけなのでリアルモードでないとダメなんです。 1988年
X68000 ACE。68000/10MHz
PC-9801RA。386DX/16MHz
1989年
X68000 EXPERT。68000/10MHz
FM-TOWNS。386DX/16MHz
1991年
X68000 XVI。68000/16MHz
FM-TOWNS II モデルCX。386DX/16MHz
PC-9801DA。386DX/20MHz
こうして比べてみると、肝心なプロセッサ性能がお粗末で初代X68000の印象だけで凄い凄いと言われているだけなのが明らかですな。
どうみてもTOWNS以下です。 >>407
TOWNSを引き合いに出すのやめてもらっていいですか?
粘着されてWikiまで荒らされるのはもう懲り懲りっす('A`) TOWNSは世代が進む度にCPU速度は上がったが、パーツの質はどんどん低下してていったな
バブルの崩壊と共に バブル弾けて次が出なかったX68は幸せだったのかもしれないな。 640x400・640x480にはココロときめかなかったのよ グラディウスより機甲師団やロボクラッシュがやりたかってん タウンズにボロ負けしてるから、グラフィック画面の広さだけは勝てる98を叩く、か。
でもCPU性能ではボロ負けで何も言えないからユーザを貶す、と。
ホント、ガキだねぇ。 まあ、パソコンが趣味の人でタウンズがほしい人っていないよね。 タウンズユーザもX68欲しいとか羨ましいとか、思わないもんな。
X68って静止画だけのマシンだし。 ソフマップ行けば世界はPC98のゲームで埋め尽くされていたのに
なんでX68kやFM-Towns買おうと思ったのかな。 そりゃX68教って言うカルト宗教の狂信者だからだろ。 だだっだだっだだっだだっだっだっへーへい
だだっだだっだだっだだっだっだっへーへい X68用のソフトのパッケージがまったく無いって店舗は珍しくなかったけどね。 じゃあビジネス向けはどうかと言うと
当時のキラーアプリと言えば一太郎やVzエディタ。 X68のサードパーティなハードベンダで、金もらって物を出さないって事件あったね。 モンスタークレーマーなせいで社長さんが倒れた事件か? 満開の満子ちゃんのキーボードセレクタ出す出す詐欺事件じゃねえのか? 030が1年早く出て、グラフィック、音源機能はほぼ倍増ぐらいの拡張。それで延命しても、PSやサターンが出る頃まで。
ゲーム専用機と正面勝負しないような販売戦略が一番足りなかったのかね。 富士通のような購入後の(当時としてはかなり)手厚いフォローや、
NECのような露骨なソフトハウスへの機材貸与でソフトの嵩増しするとか、
そういう経営努力が足りなかった。
シャープがやったのは「モノは作った。あとは勝手にやってくれ」レベルの放置プレイに近い。 富士通は元々サポートが優秀なのと当時秋葉原にサポート窓口置いてたのとFM-R由来の教育市場向けの端末販売と(TOWNS限定だが)当時出始めのCD-ROMコンテンツ制作支援とかやってたからでは
NECはBit-inn由来のユーザーサポートもやってたけどシャープのX1/X68000はテレビの延長なので基本は売切り
MZは知らん 修理とかは最寄りのシャープの営業所が対応するだろ、一度家に来てもらった事があるよ むしろ家電やってたシャープのほうがカスタマーサービスが充実してたかもしれん 大金出して買ったシャープのCD Wラジカセがよくテープが絡むので
子供だったおれにはあまりにもショックだったので二度とシャープの製品を買うことはなかった。
あっ今使ってるガラケーはシャープだったわ。 >>439
そりゃX68000のスプライトを8bitバス対応版にしたようなものだからなのでは 家電のサポートならシャープより松下のが良かったよ。 一太郎でワープロができてレポートが書け
言語処置系も欧米系の製品が移植されて揃い
主要なPC用ゲームが必ず発売されて遊べる98に対して
ただ性能で上回った物を出された所で消費者は買わないよ。
日本に限らず米国だってMacintoshがカラーになって
CPUもグレードアップし続けても大半はPC互換機を買ったわけだし。
業務用にOS-9を使っていたところはクロス環境用に普及したけど。
X68000が出てから評価ボードを誰も使わなくなった。 >>446 実際、当時はみんな論文を一太郎のあの変な本文と属性が分かれたファイルフォーマットでたくさん文章を保存してたじゃない。
研究室で作業をするならとりあえず一太郎入れないと話にならなかった。
あ、ごめん、おまえ専門卒か >>437
MZ-2500は発売日に間に合うように最初の50〜100タイトル移植を各ソフトハウスに依頼してたっぽい
X68000はカード型電卓にシリアルナンバーを印字したユーザーサポートがあったじゃないか…(遠い目 >>450
Texで書くよりPostScriptで書いたほうがきめ細かい印刷できるぞw コンピュータ、ソフトなければただの箱。
X68000はこの「ただの箱」でしたね。 PC98はださい箱。X68Kはオブジェにもなるかっこいい箱。 × X68Kはオブジェにもなるかっこいい箱。
○ X68Kはオブジェにしかならない見た目だけはかっこいい箱。 >>439
そりゃスプライトチップの設計担当者が同じなんだから似てて当然だろ。 X68ACEのキーボードはキータイプに追従してこないという致命傷もあったが、
今どきの1万円しないような中華製のモバイルPCのキーボードほどではなかったが、キーを打つとたわんでなんとなく打ちにくかった。 どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!
どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!
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どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ!どぴゅ! >>459
電気製品って途中から改良することもあるが、手抜きを始めるんだよね
一太郎PRO68K作って貰えば良かったのに 画面の広さ(ピクセル数)以外はすべて足りてないのがX68000です。 98であぐらかいてたからWindowsへの移行が遅れたな
プログラム技術も未熟で一太郎はバグだらけATOKはメモリリークしまくり
WORDにシェア奪われて当然だった 98とNECと国産PCを貶せれば嘘も平気でつくチョンがこんなスレにまで・・・
ここも荒らされて終わりだな。 一太郎と123のプレインストールモデルを売るなってMSがパソコンメーカーに圧力かけたんだよな。
123潰しにExcelは隠しAPI使って高速化するなんてこともやってたな。
X68000が商品として終わった後の話しだけどね。 >>464
512*512はMZ-2000(1982年発売)より横幅が狭い 元々一太郎みたいなショボいアプリで世界市場を掌握できるわけないじゃんw >>469
x68000には
ノンインターレースで768×512
インターレースで1024×848
があるで 花子ってのもあったな
なにもかもダサい
ネーミングが MZ-2500もASKだけど馬鹿ではなかったような X68ではFixer使ってな
MZ-2500の辞書ROMは連文節変換できないので頭がいいとか悪いとか以前の問題だが 単文節変換のほうが頭の負担少なく楽じゃね?
連文節の人は長く打って変換して正しいかどうかもう一回前に戻って読み直してるの?
しかもIMEが馬鹿だった場合修正とか余計に面倒でしょ。 87年ごろであればまだFEPは群雄割拠状態でATOK6、EGB、Katana、VJE-Σ/β、松茸など多数のFEPがしのぎを削っていた。
Fixerは「テラ」というワープロのFEPで割と賢いほうだった。
しかし、長めの文章を返還させようとすると複数の単語をおかしく笑える組み合わせで候補に挙げることが少なくない、おかしな日本語を作ってしまう特技を持っていた。 87年はまだFixerはX68000に移植されて無かったはずだが・・・? MZは1985年だから仕方がないな。書院ROM辞書+FDD(メモリー学習) 8bitパソコンとしては頑張った方 MINIXはX68kに移植されてたっけ?
当時のAmigaやAtari-STには移植されてたと思うけど シャープ、富士通、NECで真っ先に独自アーキが潰れたのがシャープ。
潰れた理由も、ユーザのピーコによる不採算化と言う世界的に類を見ない恥さらしというオチw
X68に足りないのはユーザのモラル、ユーザの民度というヒューマンファクターでしたw w w 「いちいちカッコつけて、パソコンライフ過ごすのは実は息苦しい」事を教えてくれた反面教師パソコン >>491
会社丸ごと台湾企業に身売りしたシャープに比べれば・・・ シャープ版「プレイステーション(的な立ち位置)」のゲーム専用機化X68000を赤字覚悟で4万円台で販売
プレステとセガサターンに戦いを挑んでいれば、ソフト量の先行性で良い勝負が出来てた、もしかしたら今日のプレイステーション5の立ち位置に居れたのでは >>496
バーチャファイター、リッジレーサーで売れたのよ?
X68で作れた? >>497
もちろん、そのままの性能ではなく、完全互換の性能アップで そんなの意味ないって。
FM-TOWNSで富士通がやったけど誰も相手にしなかった。
もっと言うとゲーム機だって3DOが大失敗で
プレステだけが生き残ったわけだし。 「スマホOS業界の一角」か、「ゲーム専用機の雄」以外に成功してたビジネスモデルは無かった訳で
どっちかになる事でしか現在まで生き残れなかったのだし プレステサターンが出てからはポリゴンゲーム戦争だったからな
2Dゲーム機は相手にされなかった
パソコンも同じような境遇で、唯一グラボで3Dに対応したWindowsだけが生き残れたな X68000(その頃はX68030がスタンダード?)もグラボ詰めるモデル出してたでしょ、首の皮一枚繋がった「赤字覚悟状態」で続けてくれてたら
ドリームキャストもプレステ3も、本体売れれば売れる程、メーカーは赤字だったのに、市場を押さえるが為に踏ん張った(セガは耐えきれず辞めたけど、SONYは見事にやり遂げた)
アップルは経営破綻しかけても、市に体でも、頑張ってMacを売り続けた(その結果、WEB系エンジニアの殆どはMacユーザーに) >>496
部屋中そこかしこに空きビールびんやらデラべっぴんやら宇宙企画のAVテープ(そばにはツタヤかゲオのレンタル袋)が転がり、部屋の空気もタバコのヤニまみれ
お買い物はドンキーホーテや業務スーパーやしまむら、パチスロ大好き、気の合う友達と木更津キャッツアイな草野球プレイ
そういう人達が「カメクラにX68K-Station用の中古ゲームソフト、安くていいの入ってないかなー」とボヤいてる世界線w 安っぽい話。
X68030を赤字で売ってその先に何があるというんだ。
売り続けたMacの市場シェアは現在一体どれだけだ?
数字を読めない奴の話は一考に値しない。 院君損 団寸損
南漢電南漢壇氏断
音蓮暢 丹念電
妊娠私論 矜持は毒
二次元だとフレーゲル男爵やロイエンタール、リアルだと西崎義展やカールスモーキー石井やジュリーの晩年みたくなる >>506
藤崎竜版の銀英伝だと、無駄に格好つけたがりのキャラが色々居て、1990年前後頃にリアルに日本人として存在してたら絶対ペケロクユーザーになってたなぁ・・・
ウィレム・ホーランドとかマルコム・ワイドボーンとかイザーク・フェルナンド・フォン・トゥルナイゼンとか >>502
グラボって松○さんが作ってたシーラスのやつのこといってんの? >>496
compactXVI は 売値 10万程度。
プレステとセガサターン の頃には、
もう X68エミュ EX68 存在していた。 X68kが実売10万って中古屋がWin95が出て互換機一色になるのが見えてきたぐらいの頃にボッタで売ってるぐらいしか思い浮かばない微妙な値段だな。 compactXVIが売れなかったのは3.5FDDだから周りとピーコ出来なかったから
開発機として見れば優秀なのに勿体ない oh!x 1993年12月
https://archive.org/details/OhX1990-1995/Oh%21X_1993-12/page/n161/mode/2up
compactXVI+モニターセット P&A価格 \162000円
compactXVI ツクモ特価 \99800円
満開の RED ZONE \12万ぐらい XVIの時点で見限られたからだろ。
性能向上しました、っていっても68000の16MHzじゃ他の機種と比べたらゴミみたいなものだったから。 >>515 開発機としても遅かったよ。
GNU Cなんかとても動かす気になれなかった。
10MHz機よりはましという程度。
そもそもマイナー機なのにさらに3.5インチFDDで
他機との互換性を損ねて、X1で一度やらかしたのに
懲りずにまたやった大失敗の商品企画。 93年にPC-98のVXの16MHz化モデルを10万で限定販売しますって言って売れるか?
それと同じで93年に10万円でガラパゴスパソコンのX68が売れるはずがない。 キャラクタベースの一太郎みたいなワープロしか誇るものがないPC98のほうが
余程ガラパゴスパソコンに思える X68はワープロすらなかったから一太郎が羨ましい、と素直になれないX68ユーザでしたw MicrosoftとBorlandの開発環境があったし、
大学ならFORTRANも使った。
一太郎が気に入らなければ松と松茸でもいいし
Vz EditorとVJEでも構わない。MIFESでも。
Bio_100%他フリーソフトもあって
もちろん市販のゲームソフトもまず98にリリース。
拡張ボードや安価なサードパーティ製メモリが揃い
386機になったらMEMORY-PROで仮想メモリを
設定できた。
わざわざ他の機種を選ぶ理由がない。 >>516
それ、翌年に内蔵メモリ増設済みのREDZONEを買った記憶が。
本当はXVIが欲しかったけど、そっちは安売りしてくれなかったわ。 「ガラパゴスな」MS-DOSが使えるパソコン
IBM。PS/2、PC/AT、PS/55など多数
NEC。PC-9801シリーズ
富士通。FM-Rシリーズ、FM-TOWNS
東芝。J-3100シリーズ
他。PC/AT互換機、各社から多数。
「ガラパゴスではない」Human68kが動くパソコン
シャープ X68000シリーズ
あれ? 「ガラパゴス」のほうが種類豊富だよ? ガラパゴス諸島というよりオーストラリア(オセアニア)かもしれんね。
独自の進化って意味で。 >>516
1993年末にタイムリープしたいは
PC互換機にWindows3.1もあったし楽しそう ガラパゴス化 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%91%E3%82%B4%E3%82%B9%E5%8C%96
ガラパゴス化(ガラパゴスか)とは、日本のビジネス用語のひとつで、孤立した環境(日本市場)で製品やサービスの最適化が著しく進行すると、外部(外国)の製品との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、適応性(汎用性)と生存能力(低価格)の高い製品や技術が外部から導入されると、最終的に淘汰される危険に陥るという、 >>506
藤井フミヤ、ラモス瑠偉、興梠慎三、江川達也、竹田恒泰 >>524
小文字と大文字が混在する問題があったけどMS-DOS読み書きできた不満68k >>532
小文字の問題もなかったMSX-DOSに負けてますねw
ロングネームFATとかV-FATって呼ばれるようなDOS 8.3形式を保持しながらの拡張だったら問題なかったのにね。 独自仕様をガラパゴスというならAmigaやMacもガラパゴスパソコンになるな Macはしぶとく残ってるけど、Amigaは滅んだな。 当時の98はとりあえずIntelの高速CPUがどんどん入っていったから、とりあえず処理速度に不満はなかった。
仕事でX68000を使ってたけど、常に同時期の98より遅かった。
X68030も出るの遅かった。 Human68Kも実質そうでしょ。
というより当時の単一のアプリがPCの全資源を
占有する感覚の中で、特権モードなんて意味がなかった。 縦型ディスプレイを出していただきたかった
(´・ω・`) X68は、画面が広〜いw
X68は、発色数が多〜いww
勝ち誇ってるのってこれだけだもんねぇ。
X68ユーザーもX68000は基礎的で基本的なプロセッサ性能がPC-9801低いのはわかってるから自分たちからは触れられないんだよ。 8bitパソコンは200ラインでも400ラインでも横640に慣れてたので
横512は小さくないか? 512と640はあまり差を感じなかったが、SVGAを使った後だと512も640も狭く感じた。 X68000標準CRT(600D)がボケすぎて本体まで嫌いになった(側面のフォーカス調整してもボケボケ)
数年後にPC-TV455を買ってきたら鮮明すぎて驚いた。S端子も21P端子もない癖に高かった600D 浦和レッズサポーターとX68000ユーザー、どっちもええカッコしいとこが共通 ノ L X68K LOVE ミ 人_人_人_人_人_人人_人_人人_人_人_人_人
⌒. 丿ヾノノ丿ノノヾノ丿 ) 98で出ているあのソフトをX68Kで出せっ!!
| \ / .| < 出せば必ず買うというに!!
| ;;;;;;;;./ ヽ.;;;;;;;; | )
i~`| ;;;;;;; |。.____.。」;;;;;;;; |~`i ⌒V⌒V⌒V⌒V⌒V⌒V⌒V⌒V⌒V⌒V⌒
ヾ│ 。ヽ ∠二ゝ / 。│/
| 。 。 )| │(. 。 。|
ヽ____|_│___.ノl!| !
/  ̄ヽ_ノ ̄ \ |i
/ ヽ !l ヽi
( 丶- 、 しE |そ ドンッ!!
`ー、_ノ ? l、E ノ <
レY^V^ヽl
r X68K愛ヽ ついに移植されたか
( _ ノノノノノノヾ ) 持ってるやつを見つけてコピーしないとな・・・
| ノ \ / 、
(6 "" r._.ュ'"ヽ えっ、絶対買うって話はどうなったって?
| ∵) ∠二ゝ( | あれは嘘だ
人 `ー ' | 割ればタダで手に入るもんに金なんか払うかよw
/ \. ノ そんなやついたらアホだろww
\_`ー一'/ \ 「X68持ってるんだ、いいなぁ」
「98持ってるんだ、ふーん」 「X68持ってるんだ、いいなぁ。どうしても欲しいとは思わないけど」
「98持ってるんだ、ふーん。俺も持ってる」 「X68持ってるんだ、ゲーム何持ってる?」
「98持ってるんだ、エロゲ何持ってる?」 X68は大失敗だったな。
TOWNSより先に終わってしまったし。 塩漬け5年宣言の時点で大失敗確定だっただろが!
足りないものの最たるものはユーザの民度だったわけだけどなw でもプログラミングや2D・3Dグラフィックのこととか色々勉強できたよいマシンだった
68000マシン語でのソフト作成の経験のおかげで今がある >>562
え、アセンブリ言語じゃなくて機械語コード直打ちしてたの? バイナリだけをマシン語という風潮はない
命令が一対一になるアセンブラはマシン語そのものだ言われる
そんなツッコミになるのはマシン語プログラム未経験者 GNU C Compilerが移植されてたはず。
Compiler Collectionになる遥か昔の話し。 Expert購入とほぼ同時に純正のC言語を買ったが
分厚いマニュアルが4冊くらいついてきて、しっかりしてた印象ある
CライクなX-BASICもそうだし、最初からC言語を見据えた環境だったと思う
祝さんのC言語連載も始まってたしX68000でCは必須科目だった 68000のCは構造体や共用体でchar使うと例外不可避なコードを吐くという落とし穴があったな。 X68に限界がないってのは単なる錯覚だよw
限界にたどり着くまえに、制限多くて何も成果があがらないから限界が見えるところにすらたどり着けないだけだよw 68000はCを意識して作られたから美しいコードを生成する
Cが吐く86のコードは酷いもんだった 見た目が美しいコードでもバグがあったらそれはゴミ。 一太郎って5万円もするのに68におまけで付いてきたワープロよりも低機能なんだな
98で売るソフトが一太郎しかないからしょうがないんだけど 一太郎が出ていた頃の98はLotus 123とか高価な各種開発ソフトとかアシスト社の廉価版ワープロとか既に多数存在してた
80年代末期で98とのソフトウェア資産の差は歴然で、X68kユーザーは最初は無いものは作ると息巻いていながらゲームに堕落し98をメイン環境にしたりと言行不一致だったから MSのCコンパイラは10万円した
買えない奴はLSI-C86試食版を使っていた 386以降ならemx(gcc)がDOSでも動く筈。ただしファイル名制限が付くからOS/2でしか使ったことがない。(gccは。コンパイル済みバイナリはDOSでもemxで使えた) gccも、98でFreeBSDやLinuxが動いちゃったからX68より優位に立てちゃうねw 98でUNIXってX68でOS-9動かすより意味なさそう 宇宙刑事ギャバンは戦闘の際、コンバットスーツを蒸着するタイムはわずか0.05秒にすぎない
では、蒸着プロセスをもう一度見てみよう!w
じょーちゃく!w
https://logo-imagecluster.img.mixi.jp/photo/comm/57/77/2935777_18.gif X68030でCPUをEC無しに交換しないとNetBSDが使えなかったのよりはユーザーの多かった386以降の98でサクッとFreeBSD使えた方が良かった >>573
68系はC言語との親和性とかアセンブリ言語の記述し易さを売りにしてたけど、そのせいで86系よりトランジスタの数が多くて高速化の妨げになって終わった。
逆に86系はダメな所がC言語で隠蔽されたお陰で助けられて成功した。 仮想記憶がないX68000じゃ、RA以降のPC-98にはどうやっても勝てないわな。 そもそもX68は1986年から全く基本設計が変わってないゴミだからな
68030なんて下位互換も無くて使い物にならなかったし グラフィックのハードウェア支援がなくて描画がとてもおそいクソなX68は教材に使うには向いてるけど実用には向かないゴミだからな。 wpやシャーペンは一太郎を超えたすごいワープロなんだぞ! X68向けのUNIXはMPU載せ替え前提。
PC-98向けのUNIXはハード改造不要。
そう考えるとX68000向けのUNIXは存在することそのものが無意味だな 販売価格と CPU単価的に難しかった。
あれでも ディスカウントプライス。
本物の 68030搭載 EWS機器のプライス調べてみなよ。 98はOSすら本体に付いてこなかったからな
まさにエロゲー専用機 x86のパソコンで動くLinuxが動かないパーソナルワークステーションw FreeBSD(98)が動くことを自慢してエロゲしかやらない98ユーザwww ディスカウントプライスって言うか、安物買いの銭失いと言うかは人によるところだが、
X68は値段相応な低性能だったともいえる。 X68の方が高性能なのはわかりきっているが
最優先事項がエロゲなので98をチョイスする98ユーザ 本体さえ売れればソフトがコピーされるのは知ったこっちゃなしのNEC
しかし本体の売り上げが減るのは許せないのでエプソン互換機は徹底的に排除 >>593
X68030出たのは1993年で、その頃はMacintosh IIは040になってだいぶ経ってるし68030は型落ちになりつつある
ぼったくりだとは言わないが相場より高い感じなのは仕方ない X68でもエロゲはあったし、それなりに売れてたよ。
ただ、ほかのアプリ同様に、売れた数の数倍どころか数百倍のユーザがプレイしていたようだけど。 ゲーム機の相場は25000円
価格20倍のボッタクリ PSは39800円でSSは44800円だったろ
せいぜい10倍のぼったくりだよ
性能は10分の1以下だけどな X68000は発売された時点で時代遅れなマシンでした・・・ それをさらに劣化させた88VAっていうのをX68の一年遅れで出したけどな X1の5年後にX68000のようなマシンを設計出来るとは思わなかったと設計者自身が驚いてたな
それくらい驚異的だった もっと早くしろってのはコスト的に無理な話だわ
何百万とするワークステーションで使われてた68000は
ようやくコストが下がってきて時期的にベストだったと思う >>608
68000積んだアミーガは1985年なんだが X68が発表されたのは1986年10月
88VAが発表されたのは197年3月 >>608
ベストではないし、時代遅れに差し掛かった時期、登場時期から考えてもと考える。
それでメモリ周りが遅い68000に頼り切ったグラフィック関係
CPUとメモリのクロックや進化に互換性を保ちながらアップデートし難い設計
X1なんかも結局CPU回りクロック上げられもせず延命。
結局x86系マシン以外は大体後アップデートや継引継ぎ失敗してるけどね、何処も。
MacはCPUさえ別物に変えてもやり切った意味で凄い。
それだけの信者とキラーソフトを抱えてないと厳しいということか。 ハード性能が据え置きでも良質なアプリが、せめてなにかのキラーアプリがあれば史実よりはマシだったはずなんだ。
しかしソフトが無いせいでCG用途ではMacに大きく水をあけられ、DTMでは先行の他社製品のなにひとつ切り崩せず、オフィスユースでは言わずもがな。
最後の牙城になってしまったゲームも鳴かず飛ばず。
何でもできる=器用貧乏の図式が完璧に当てはまった高価な駄作に終わってしまった。
アプリが出る芽が片っ端から摘まれたのが痛い。
>>611
弥生時代に出た88VAと昭和に出たX68000を比べるなよ。 Atari STからすると68000パソコン自体はもっと早くに出ていて良かった
Atari STで既にタイミング遅く、amigaに至ってはグラフィック周りに対してCPUが貧弱でバランス悪くなってた
第二世代機でグラフィック拡張してバランス悪いってなるパターンを最初の機種からやってしまってた たしかにX68は画面に描いた絵をRAWでそのまま保存できないバランスが狂ってるハード。 性能が悪い
バランスが悪い
ユーザの質が悪い
X68000はまるで奇跡の人になれなかったヘレン・ケラーのようだな。 俺はヘレンケラー尊敬しているからそれでいいよ
98は例えるならプーチンだな DAWはMu-1 Superってのがあったな
割と評判よかったみたい >>614
アプリが出るには十分尖った性能か、普及率という数が必要になる。
性能は登場時は兎も角、中途半端になってしまったことが問題。
初代で頑張った周辺部分がアップグレードし難かったせいで足を引っ張った。
TOWNSに倣って途中からCD-ROM標準搭載に踏み切って居れば少しはマシになっただろうか?
或いは初代は8MHzであれば、もっと早く上手く16MHz化も出来ただろうか。 X68叩いている奴って今になってX68のこと色々調べてるの? エロゲーの漢字間違いの酷いこと
バカが作ってんのがバレバレだった >>615
お前のPC98のほうがバランス悪いだろ
どうかんがても >>620
全く話になんねーよ
それ以前にX68kにはマルチポートMIDIインターフェースとかプロユース向けの周辺機器が揃ってないし X68ユーザが叩かれるのも、X68ユーザが荒らしをするのも昔からだろ。
コロナ不況で首切られて暇になったとかそういう下らない理由で荒らし活動に精を出してるんだろうさ。 MIDI thruで繋ぎさえすりゃどうとでもなるだろ >>630
68には仕事で使えるレベルのソフトウェアがねえって話だろ? 結局98ユーザがX68にちょっかい出してるだけだからスルーされたら終わりなのよね 発狂してるX68ユーザをからかってるけど、面白いように反応してくるよw 98太郎「もうね、荒らすしかないんですよ。特に何もしてこなかったので。」 X68ユーザのやってること
・クソスレ立てる。
・マルチする。
・嘘をしつこく書き込む。
・人格攻撃する。
どうみても荒らしてるのはX68ユーザですw X68に足りなかったもの。
プロセッサの性能w
質の良いアプリww
質の良いユーザーwww X68Kユーザー
無ければ作る=嘘
欲しければピーコする=正解 マジでX68ユーザはパソコン史上最大の汚点だからね。
名指しで「コピー止めろ!」なんて意見広告だされるとか、最低最悪だよ。 X68000に足りないもの
マシンの性能
アプリ
ユーザーのモラル
足りないもので「ユーザーのモラル」が挙がるのなんてX68000だけ。 コピーが氾濫してんのはNEC機だろ
ハードの絶対数多いから収益にダメージ少なかっただけで
NEC機はショップからしてコピーソフト付属してくれたからな
専門学校や大学とかwin3.1やdosも1本使いまわししてるし >>311
Windows98くらいまではノートpcは800×600の解像度が普通で、特に過不足なく仕事で実用的に使えてたけどねえ
あなたはかなり贅沢な人だったんだね X68000の表示限界が512x512だと思ってる奴がいるけど
それは垂直型VRAMのほうで、水平型VRAMは標準で768×512。
インターレースで1024x848(実画面1024x1024)までいける
その範囲で垂直型VRAMを自在に配置できる変態CRTCだ 「表示できる」と「使える」は別もの。
1024x848にすると超我慢強い人なら使えるレベルにまで速度が落ちる。 512x512でもモッサリだったぞ
描画性能がホントにゴミ 設計の時点でマシンパワーが足りないことに意識があれば、68000の10MHzに拘るなら、DSPを載せておくべきだった。
μPD7720、HD61810、TMS32010ならX68設計時点でも存在していたのだから載せられなかったはずがない。
DSPを載せなかったのはシャープの怠惰。 >>578
386以降ならdjgpp等の移植があった
「386SXは下に見てた」X68kユーザーが386SXユーザーにGCCホルホルしたらさすがにウザがられて
「お前のは16bitの劣化移植だろ」と事実を指摘され逆上して暴行事件を起こしたという話が当時あった >>650
怠惰というより技術力がなかっただけだろ。
87年の時点で68000/10MHzなんて産廃だしてるのがその証拠だよ。 アーケードの移植しやすいようにCPUを選定しただけというね dosで動くgccって大丈夫か?って感じするけどな >>647
何言ってんだ?
垂直型VRAMの方も
インターレース1024×848、ノンインターレース768×512ドット表示できるんだが
(実画面1024×1024ドット) 安易に680x0のWS出すのがメーカーに流行ってたからそれに乗っかっただけだろ。
アケゲー移植前提ならあんなグラフィック重いクソみたいなハードにはならん。 >>656
848という中途半端なドット数はどうやって決められたんだろうな 高機能化や高性能化ではなく、初代モデル(プラスCD-ROMドライブ)の更なる低価格化が必要だったな(あと、ソフトメーカーに対し、安価流通が可能でコピーし辛いCD-ROMへの移行を推奨)
無駄な高性能化追求という点では、NECのPCエンジンにも似てた。 . テキスト画面が1024×1024ドット 4プレーンって
使い道が何かあったのかと思う Human68kのコンソールで、ラスタコピーじゃなくて表示画面座標でスクロールしたらもっと早くできたよね。
もっとも、ソフトウェアキーボードも一緒に流れちゃうけど。 >>669
ファンクションキーの表示もマウスの座標も電卓も位置修正しないといけないのでプログラム的に面倒くさそう >>664
スト2ダッシュやスパ2では普通に背景画面として使われてたけど >>672
テキスト画面て65,536色中16色のパレットを使えるのが4面それぞれ独自にスクロールとか出来たの? >>674
テキスト画面は16色一画面だよ
スクロールレジスタも一組
ビットプレーン×4枚=16色
98のグラフィック画面構造と同じ
ラスターコピー機能はプレーン毎に指定できるから
文字描いてるプレーンはスクロールさせて
ソフトウェアキーボードはスクロールさせない
とかはできる >>675
そうだっけ?x68k発売当時の雑誌記事でグラディウスの一面のバックの星空はテキスト4面使って別々にスクロールさせて処理してるってのを見た記憶があるんだけど? >>678
その記事にはグラフィックを4画面使って星を4重スクロールって書いてあった
手前の背景はBG、レーザーがテキスト画面と書いてあった
実際にはレーザーはグラフィック画面だったけどw レーザーはテキストだろ?
水平型VRAMは転送命令一つで16ドット打てるから超お得なはずなんだが >>680
レーザーはグラフィックだよ
エミュレータで各画面をオンオフできるから調べてみ
雑誌の記事ってあてにならないなと思ったよw 確認してみた、SPSグラディウスのレーザーはグラフィック画面だな
グラフィックでレーザーを描くのは非効率だが、
まあ初期の作品だし、CPUパワーも余ってたから問題なかったってことか
後に出たSPSネメシス'90ではテキスト画面だな
コナミのグラディウス2とパロディウスはスプライトだった
アーケードのコードからの流用だと思うが、ちらつくこともなく余裕で描画してるのが驚き オリジナルゲーム
X68にあったのは劣化移植とパクりゲーだけ マイコンショウとかの記事だっけ?
プログラマから直接取材したわけじゃないだろうから
事実と違うことはあるかもな むしろ豪華移植しかなかった印象。
機種別のMIDI音源対応がデフォだったし。HDDインストールとか。
ドラスピは縦置きの画面モード用意したり、いたせりつくせり。 256x256というクソ仕様のせいで全てが劣化移植 288x224,320x200,576x448,640x400は
欲しかったね オンタイムで青春をx68kに捧げた身としてはあれもこれもよい思い出でしかない
PC286Vも持ってたけどなんの思いも無いのと対象的 「豪華移植」とはチープなX68に見栄えだけはそれなりになるように移植する事 >>687
カプコンのゲームはゲーセンに近い384x256が選べたよ CRTCで解像度弄ったゲームなんて数本しか無かったけどね >>694
仕様上、可能なことには変わりないので。 >>690
CRTC弄ってもアスペクト比が柔軟に変わるわけじゃないぞ
黒枠部分が変わるだけ 1:1じゃないアスペクト比でCGマシンは無いわなw アスペクト比なんてモニタのツマミをいじればいいだけだろ・・・ >>701
CompactXVIから98のしょぼい24kHzモニタでも映せるようにした 別にツマミいじらなくても512x512を1:1表示することもできる TOWNSのゲーム画面みたいな正方形モードだな
かっこ悪い 画面周りの勝負でX68を上から目線できる機種ってどれなんだよw
PC98のグラフィックがX68のテキスト画面で、それさえ
640x400x16に対して768x512(1024x1024)x16でPC98は負けてるんだから
勝負になってないんだが・・・?
画面モードもそれしかないだろw >>696
カプゲーは512x256で作られてて、そのうち横384しか使っていないようだ。
CRTC弄って384x256にするとアスペクト比1:1に近くなって収まりが良くなる。
柔軟に変わるんだなこれが。 まあ自慢のスプライト機能もPCエンジンとどっこいどっこいだしサターンにはボロ負けだし CRTC弄ったゲームって何があったっけ
ぷよぷよは両脇に黒枠出来てたよな >>704
初代機でもモードディスプレイならうつるぞ
CompactXVIで追加されたのはディスプレイ31kHzモードで映る640×480(VGA)だよ >>708
だからアスペクト比は2つだけだろ
柔軟ってほど沢山はない >>701
elfのゲームで24KHzモードの640*400に切り替えできたな
deja2以降の全部 >>712
水平垂直ドット数は自由に設定できるんだから
モニタが追従する限り無数にあるぞ X68000って画面以外はすべてが足りないゴミ機種だったろ。 24KHzの無いモニターを売ってたから、640x400は標準にできんよな 一方富士通は、TOWNSではトリニトロンを採用した
ゼネラルのモニターの品質がイマイチだったのもあるが テレビ事業部が作っただけあって、モニターは手抜きってことでしょう。
産業機器事業部が手掛けてたらもっとましなモニター使ってたはず。 PC-100用みたいな縦横両用モニタを出すべきだった 正直テレビ機能はいらなかったな。モノラルだったし
ステレオになったのはSUPERの頃だっけ? SUPERの頃なら、もっと他に改良すべきところはあったろうに… 純正モニタはX1turboの頃からたいして変わっていないのでは
NECみたいにビジネス用途を意識してないから製品グレードを造り分ける事もしなかったし ACEからEXPART2はただの停滞だよね
PROはバリエーションとしていい感じだったのに、
SRAMの不具合をリコールもせずに放置してたし >>727
PROとEXPERTの2ラインナップになったのに同じスペックってのがね…
わざわざ2ラインにしたならツインタワーモデルは高クロックモデルにするとか差別化すりゃいいのに 2モデル制にするなら、エントリーモデルとフラグシップモデルのような区別化があって然るべきだったのにね。 >>730
FM77AV40のゼネラルのモニタはドットピッチが解像度に追いついてなくて、
400ライン時に文字が読めないくらい滲んでた
FM77L4の時はまともだったんだよ。とても高価だったけど >>731
ACEのあと、SUPERとPRO、XVIとPRO2だったらまだ納得できたかな なんかの雑誌の付録で、ロゴのシール無かったっけ
無印にEXPERTのシール張っても、機能が同じなので虚しいだけ X68000のロゴや機種名が書いたシールで、無印とかに張るとACEやEXPERTに偽造できるやつ
oh!mzだったかなぁ? なんの付録だったか全く覚えてない PCエンジンとX68000の映像チップは設計者が同じ人だったのか
PCエンジンの方がより洗練された感じなんだろうな >>744
これはわりと衝撃的
X68000の画面回りの提案はハドソンで、
さらにシャープの設計者がハドソンに来てPCエンジンの画面周りを作ったのか >>709
68を下地にPCEの描画性能決めたと聞いたわ
それとPCEは世間で言うスパグラが開発時の仕様だったとさ >>746
256×256ドットっておかしな解像度になったのはハドソンのせいか どうせなら付属BASICも
Hu-BASICを維持して欲しかったな X68kのグラフィックとテキスト取り去って低価格化して、
68kよりも安くて高速な高クロック6502でゲーム機化したのがPCエンジンだったのか
X68kに65C816追加したテラドライブのようなPCエンジン一体機がX1twinじゃなく出てれば良かったのに なるほど、X1twinはシュリンクしたX68000だったのか
その後が続かなかったのは、スーパーファミコンも絡んできそうだね ここらへんとても興味深い
>テキストVRAMとグラフィックVRAMを別々にしたのもハドソン提案。
>テキストVRAMの設計はHuman68kを設計制作した本迫氏、
>グラフィックVRAMの設計はゲーム設計チーフだった野沢氏だった筈(記憶があやふや。間違ってるかも)
>スプライトの実装はハドソンのゲーム開発チーム担当部長の強い推しによる実装だったと記憶。
>おかげでVDPチップの開発者が発売ギリギリまで死んでたって話
>(テキストとグラフィックとスプライトを同時表示するなんて不可能って言われてた) >>749
スプライトを扱うモードなら妥当だろう
全然おかしくない X68000の後に出たカプコンのCPS1も似たような設計だな
何か技術的な提携があったんだろうか、両社大阪だし。
X68000(10Mhz)でYM2151+OKI電気のADPCM
スプライトの詳細は知らんが性能は似てる 240×240と480×480であるべきだったような
テレビと組み合わせてるのからすると 512x256でもスプライト扱えるから
そのモードでCRTCの設定を384x256にすりゃいいだけ
どうにでもなる >>758
256と384の間もあれば完璧だったのに >>759
カプコンは自分のゲームに合うように384にしてるだけで、
512x256に収まる画面サイズなら調整が効くんじゃないの?知らんけど
X68000って最終的にすべてを合成するチップがあるから
スプライトチップの解像度=画面解像度、だけにはならないようだ 68000って16MHz版と16.67MHz版が別々にあったの? あったところで使われてなかったからX68は低性能なままオワコンになりましたw ピーコ連呼してたのはTOWNユーザーだな
改めてスレ読み返すとよくわかる TOWNSユーザーはちゃんとソフトを買ってたんだよな
そりゃソフトハウスも68やめてTOWNSに鞍替えするわ >TOWNSユーザーはちゃんとソフトを買ってたんだよな
そりゃCD-ROMだからな
ゲームをコピーしたいのに出来なかったから
その鬱憤が掲示板の荒らし行為になってるようだ ??
コピーしたい人がコピーできない機種を買う意味ある? PC-98もコピーはあったはずなのに異常なほどピーコ連呼してるからおかしいと思ったんだよな
どの立ち位置から言ってんだよと思ったが、コピーできなかったTOWNSの立ち位置なら納得だわ >ソフトハウスも68やめてTOWNSに鞍替え
どこのこと言ってんだろ? 全国に10万人しかいなかった68ユーザーが98ユーザーよりコピーしてたわけがないんだよな 光栄とか、データウエストとか、工画堂とか、スタークラフトとか、ボーステックとか
エロゲだとカクテルソフトとかアリスソフトとか
エロゲメーカーの方が多いかもね D.A.P.S.みたいなフレームワークはX68には出てこなかったもんな。 >>771
そういえば銀河英雄伝説のIIIは68で出なかったのを思い出した
ボーステックにお願いの葉書出したのになぁ 銀英伝TOWNSも大して出てないじゃん
鞍替えしたって程でもない 当時のX68ユーザーのTOWNS叩きがまじで酷かった
TOWNS買った奴の悪口をクラスに広めたり虐めの対象にさせたりしてた >>781
いや、冗談じゃなくてマジそうだった
煽ってたのがoh!Xな
TOWNSより遥に早い詐欺は忘れない >>779
oh!Xが捏造してまで対立煽ってたしな 捏造したのは覚えてるけど、何号だったかは忘れちゃった
ガリガリにチューニングした68と、初代TOWNSをベンチで比較した記事
さすがに訂正とお詫びが入って、連載中止になったんだっけ どう逆立ちしたってCPUパワーでは勝てん…
68000じゃ同クロックの80286の半分ぐらいの性能しかない
ライバルはV30だよ 単純なMIPS値だと86系が上回るかもしれんが
68系はレジスタが多く、命令に多彩なアドレッシングを包括してるから実際はそんなに差がない
セグメントもないしね
それに80286は68020と同じ年のチップなんだけどな いや、82年に発表、84年に発売でいいのか
紛らわしい 単純にMIPS値で比較できないとか言われても68000@10MHz(X68000)と286@10MHz(PC9801VX2)のMIPS値は違いすぎる。
68000が命令2つ実行してる間に286は3つ命令実行し終わって4つ目にとりかかってる、と言えばわかるか?
これじゃレジスタ幅とアドレッシングモードの違いからくる差も、単純な動作速度で負ける。
ちなみに、V30@8MHz(VM2)だとX68000が勝てる(大差はつかない)が、V30HL@16MHz(PC9801UR)には負ける。
68000ってのはそれぐらい非力なMPU。 >>791
競うなら80286と68020だと言ってる
68000と勝負したいなら8086ね >>785
わざとらしい自演キモ
Wikipediaと違って5chなら出典なくても消されないから良かったな >>793
68000と8086するのは「同時期の機種」で比べると負けちゃうからだよねw >>794
スマホはコロコロ変わるで?
ワッチョイ付いてないスレで単発や自演とかオツムレトロやで >>791
VM2はV30の10MHzだね
68とほぼ同じパワーだったと記憶 VXなら8MHz、10MHz切り替えだからそっちと間違えたんでは?
レジスタ幅が広いぶんだけは68000が有利だけど68000とV30はだいたい性能同じだよ。 >>794
実際にあったことだぞ?
これ証拠な
50Pの下のカコミ
https://archive.org/details/OhX_1993-05/page/n51/mode/2up
ちなみに、3月号とというのも嘘で4月号の記事な
この雑誌嘘ばかりだぜ >>801
80286と68000と比べようとしてるお前らが、初代TOWNSと比べるのはずるいって言うのか?
改造してることは明記してあっての内容じゃん
初代TOWNSとの記載がなかっただけで、数字的に嘘もついていない
200の差が「遥かに」が過剰表現にあるとかどうかの話だろ
これを嘘つきだと言いまわるお前のほうが嘘つきだわ いいかげんおっさんだろうに、こんなゴミ言い訳しかできないのかw 全然大したことないな
注釈の一言にこんなに噛みついてるほうが異常。
素直な浮動小数点の計算能力についての評価で、
68000の数値演算プロセッサ遅いという導入だし、
別にTOWNSをいう機種を貶めようとする悪意もない なるほど、元記事これかぁ。
https://archive.org/details/OhX_1993-04/page/n105/mode/2up
うわ、これは超恥ずかしい。中二病全開の記事だな。
X68000ユーザーってこんな本崇めてたのかw Oh!Xの誌面上でTOWNSに関係してる訂正記事を見つけて腹が立っただけだろ・・・ >>800
あったあった、この記事覚えてるわ。
この号だけ買ったのでなんの事かさっぱりわからなかったが、こういうことだったのか。 >>805
いやいや、TOWNSを貶める気満載だが…
TOWNS側のベンチマークの条件が一切書いてないのに、悪意が無いと? >>795
68000は発売が8086と80186の丁度間の物&186は空気なんで、比べるなら286より8086なのは正しい
286と比べるなら68020?辺りで386とも。
逆にX68000では登場時点で時代遅れで10MHzと速くもないCPUを使って
さらにグラフィック周りまでCPUに頼る設計なのが問題。
当時としては広くリニアなメモリ空間や割とアセンブラで作り易いCPUなのは良い点ではあるが。 >>809
注釈の一文にそんなに情報盛り込めるわけないだろ
そんなことは記事の本筋じゃないってわからんのか 本筋じゃなければ問題ないってか?
そもそもTOWNSと比較する必要が無い
貶める気が無いならな
TOWNS側の条件は秘密だけど、俺の68の方がTOWNSより遥に速いって記事、なんの冗談だよw >>800
これ、不当にTOWNSを貶してごめんなさいって謝罪してるのな
しかもoh!Xのライターが自らTOWNSのベンチをしたのじゃなくて、
余所の雑誌からの切り取りだったという
これはあかんやろ…
しかし30MHzのXVIでwetstoneが900未満って
68000遅っw なんとなくはってみる
Q:いつの間にか自分で自分を売り払っていたんですね......。
樋口:そうそう、そうそう。ガイナックスに俺を売ってしまったんですよ(笑)。
この本にガイナックスにかかわった何人もの人が登場してくると思いますけど、俺だけだと思いますよ。
ガイナックスに買われてきたのは。人買いかよ!(笑)
それに「オロチ」の撮影もだいたい終わって編集をはじめたあたりになると、音の打ち合わせとかで、何度か東京にお使いに行く機会があったんです。
そうすると東京で泊まる場所は高田馬場のガイナックスのスタジオで、そこでは「王立」のパイロット版をつくっていた。そこに行くとですね、
なんとスタッフの女の人が、ご飯をつくってくれるんですよ。スタジオでみんな原画を描いている。
俺はすることがなくてビデオとか観て過ごしている。そうすると、だんだんいい匂いがしてきて、
夕方になると「はい、ご飯よー」という声が響いて、そしたらみんな「わーっ」と集まっていくんです。
「いいね!ここ。ご飯が出るのか。賄いつきかよ!」と思いましたよ。「オロチ」では自炊で、1年間ほとんどおかずが日清焼きソバでしたから(笑)。
そんな環境とくらべて、東京には遥かに文明の香りがあった。なんといっても「手料理」ですから。それには憧れましたね。
Q:しかしわざわざ身柄を買いとってまで「王立」に連れていこうとしたとは、それだけ当時の樋口さんの力量が買われていたのでしょうね。
樋口:どうなんでしょうね。そこは?
Q:「王立」で最初に担当した仕事は、どのようなものだったのでしょうか。
樋口:演出部に入ったんですけど、最初はずっとコンテを描いていましたよ。でもそれはインチキコンテ......。
要するにあの、監督の山賀博之さんの手が遅かったんですよ。それでその、進行状況が遅れている。
でも出資者であるバンダイビジュアルさんには「ここまでやって、これからはこんなになりますわー」
という進行状況と展望を、見せないといけない。そのための偽コンテを「ちょっと描いといて」と言われました。
「えっ?」(笑)。「どうせ台本を読んで物語を頭に入れなきゃならないんだから、ついでにコンテを描いといて」と言われて、
よくわからないままにコンテを描いていました。 Q:そのコンテは......。
樋口:採用されないですよ、もちろん。そこまで世の中甘くないですよ。
当たってくだけろ、前向きに行け
Q:『太閤記」みたいにはいきませんか。
樋口:それはそれでね、闇から闇へと葬り去られました(笑)。台本ができるかできないかの頃、もうすぐスタッフが大勢やってくるというので、
岡田さんが会議を開いたんですよ。「これから来るスタッフに、この物語の世界観を徹底的に理解してもらわねばならない。
そのために演出部は全員、山賀の分身たるぐらい、山賀の演出の意図を、山賀がなにを考えているのかを頭に叩き込んでもらいたい」と言われた。
またいかにも岡田さんが、言いそうじゃないですか(笑)。あの人はそういう枠組みとか概念が好きでしたから。
当時、ガイナックスのいちばん奥に、サンセットビーチみたいな壁紙を張った社長室があったんですけど、反対側の壁は一面鏡張りだったんですよ。
そこでまずね、「喫茶店の鏡理論」というところから会議が始まるわけですよ。「喫茶店になぜ鏡があるか?鏡があると店内が広く見えるじゃないか。
映画というものはそういうものではないか?」って、俺はもうその時点で脱落して「置いていかれる!とめてくれー」という感じなんですけど(笑)、
増尾昭一さんなんかは「ふむふむ」と、ずっとうなずいているんです(笑)。「えっ、ホントにわかってんの?」。
赤井さんは赤井さんで「でも山賀は、そういうこと言うけど、本当に言いたいのは」という感じで、
自分のフィールドに持っていこうとして全然違うことを言い始めて(笑)。俺だけなんかリタイヤ......。 Q:(笑)
樋口:「ああ、なんか俺はとんでもないところに来ちゃったぞ」と思ってました。最初の頃は、
「王立」という映画がなにをやろうとしているのかさっぱりわかんなかった。
なにをつくろうとしているのか、監督の口から聞けば聞くほど、わからなくなりました(笑)。
正直に言うと、人から「この映画はなんだ」と聞かれても、答えられなかったのに答えてました。
わかったふりして。出来上がった映画を見ればわかるんですけどね。あの作品の舞台は異世界でした。
ルールとしてあったものは、人間の文化の段階は同じなんだけれども、違う発展の仕方をしてきた世界。
登場人物のまわりに存在するものは、すべて実世界のものと違う形にしようと考えていた。だから最初の頃は、
デザイン作業にバイトで美大生たちを集めてきて「じゃあ、今日はスプーンを考えましょう」と提案して、
「そもそもスプーンとはなんぞや?」というところから発想を始めてました。
しかし考えていくうちにわかってきたのは、人間の口の形が決まっている以上、スプーンの形もやっぱり決まってくる。
あの形になるんですよね。だとしたら後は材質とか、取っ手の部分の構造とか、
そういう部分を考えていくことになる。そんな感じであらゆるものについて、一日2時間くらいディスカッションしていました。
ペース配分が滅茶苦茶なんですよ。「あっ、リイクニが持つ食器のデザインで2ヵ月かかっちゃった」とか(笑)。
その結果、最後のロケットの発射の場面を1週間でやらなきゃならなくなったりね。大事なのはこっちなのに。
しかしあの恐ろしく効率が悪く出口の見えない作業が、今にして思うととても大切な財産になっているんです。 Q:若くて、体力があるうちにしかできないこともあったでしょう
樋口:知識や常識が足りなかったからやれた、ということもある。ただやっぱり、「王立」の仕事を断るアニメーターもいましたね。
打ち合わせまでしたのに、辞めていった人もいた。あの作品では、ものすごくアニメーターに対する依存率の高いつくり方をしていましたから。
作画打ち合わせのときに上がっているコンテとフィルムを観てよろこんで、で時々群集シーンのひとりとして逃げ回って(笑)。非常に楽しかった。
毎日が学園祭ですよね。それでいくとガイナックスに入って「王立」をつくっていたときは、いちばん勉強になった時間というか、
正しいやり方かどうかはわかりませんが、自分にとって初めて、映画を一から立ち上げて、最後までつくり上げるという行為を、すべて体験できた。
あんな体験はあれっきりです。いまだにない。
でも考えてみれば、それがすべての間違いのもとかもしれません(笑)。ものをつくる上の姿勢として、
立ちはだかるすべての障害を情熱で突き崩せという思想。当たってくだけても、前向きに行け、「死して屍拾う者なし」とかですね。
いまだに思っていますから。「とにかく前に進め、という姿勢が美しい」。
(2004年11月 渋谷にて) と、プッツンして荒らしまわってる嘘つきピーコX68ユーザが言ってますw X68000に足りなかったもの?
そんなの「ユーザーの民度」「人徳」「リテラシー」以外無いだろう。
いくら良いハード・ソフトがあっても、他機種を煽り、人のせいにして
反省もせず、自らの言動で愛機を貶めるユーザーが粘着する環境、
ぶっちゃけ寄り付きたくはないよ。 90年代に入って急に失速した事が全てを物語っている
TOWNSだってもっと長生きしたのに >>821
コンビニ遺体はいいのに客が酷くて潰れた話みたいだな >>821
自己紹介おつかれさん。
なるほど、お前みたいな人間がユーザじゃないからX68は発展したんだな。 きょうもはってみる
渡辺繁 1957年、福島県平市(現・いわき市平)生まれ。
バンダイビジュアル専務取締役(2004)。
1981年にバンダイに入社。
1984年より、大阪で映像自主制作を行っていた集団とともに劇場版アニメーション映画製作に取り組み、1987年3月に公開する。
p423-p426 渡辺繁
Q:初対面の印象はいかがでした?
渡辺:「なんか変な人たちだな」と、思いましたね(笑)。ケッタイな人っていいますか。年も近かったですし、すぐに友人みたいな感覚でつき合うようになりました。
もう漫才のコンビみたいで、武田さんと岡田さんのふたりは話が面白いしね。どっちがボケかツッコミかよくわからないんですけど。
そのうちに岡田さんに紹介してもらって、山賀博之さんや庵野秀明さんにもお会いしました。あれは1982年かな。西武新宿駅のはす向かいにあった喫茶店で、
リアルホビーシリーズの、バルタン星人の頭部を彼らに見てもらったんですよ。目が肥えた人に、この商品がいけるかどうかを鑑定していただいた。
(中略)
渡辺:リアルホビーシリーズを実現して、ソフビ人形も開発が始まり「ようやく軌道に乗ったな」と思ったところで、「おまえビデオやれ」と命じられて、
ビデオ新レーベルの創設を担当することになったんです。その当時、入社3年目でした。 Q:「EMOTION」レーベルですね。
渡辺:その時期は「機動戦士ガンダム」の大ブームが一段落ついた後で、当時「モビルスーツバリエーション」というプラモデルのシリーズがヒットしていました。
これも安井さん(プラモ狂四郎原作者)が仕掛けたシリーズで、「ガンダム」を原色系ではなく、ミリタリー色に塗ったラインナップなんですが、
「このシリーズのプロモーションアニメを、DAICONFILMというアマチュア集団につくらせてみないか」という企画を、岡田さんは提案したんです。
あれは1984年の前半かな。最初は驚いたんですが、監督としてはDAICON4のオープニングアニメを担当した山賀博之という男がいる、
「風の谷のナウシカ」で原画をやった庵野秀明という男もいると、企画説明を受けてですね。僕も少し実現を考えたんですけど、
当時はサンライズもバンダイグループではなかったし、「ガンダム」をほかのプロダクションでアニメ化する許諾がおりるはずもなく、この企画は流れました。
しかしこの企画が空中分解してから、しばらくしてまた、オリジナルビデオアニメという新しい媒体も定着し、「ナウシカ」や「マクロス」のような
作品が生まれてきた現況を踏まえて、今こそ若者に向けて若者がアニメをつくらなくちゃいけないんだ」というようなことを、とうとうと書いてある企画書を携えてですね(笑)、
岡田さんがやってきた。その企画が「王立宇宙軍」だったわけです。
「ついてはゼネプロとは独立して、高田馬場にスタジオをつくって、そこをベースにパイロットフィルムを制作したい。
ゆくゆくは劇場映画化に向けてプロジェクトを進めたいから、いっしょにやらないか」と提案されました。 Q:企画書を見て一体、どのように感じたのでしょうか?
渡辺:面白いと思いましたね。とにかくそのときに、岡田さんや、山賀さんたちのような熱い連中と組んで映画をつくりたいと感じたんです。
「じゃあ準備しようか」という軽いノリで映画づくりがはじまりました。岡田さんたちが「王立宇宙軍」の準備室として、高田馬場のアパートの一室を借りて、
会社としてガイナックスが発足したのが1984年のクリスマス。高田馬場の飲み屋でパイロットフィルムの打ち合わせをしながら、
会社設立のパーティみたいなものをやったのを覚えています。
それから、いろんな手練手管を駆使して企画を通したものです。当時、宮崎駿さんに「岡田さんの企画書にだまされたバンダイ」と言われましたよ。
そのバンダイでもいちばん初めにだまされたのが僕だと(笑)。しかし、だますとかだまされるとか、そんな話ではなくてですね。僕は単純な人間ですから、
ただ面白そうだからやってみたかった。誰もバンダイが映画をオリジナルでつくれるなんて思わなかった。ノウハウだってまったくなかったし。
しかし、だからこそ面白いと思ったんです。
(2004年2月バンダイビジュアル社内にて) 「X68は発展したんだ」だってさぁ、大爆笑したよ!
細々とした代わり映えしないラインナップに乏しいサードパーティ製の周辺機器のX68が発展?
ギャハハー!って奴だよねぇw >>792
6502にはポストインクリメントがないからな
6809のほうが絶対いいわ 夢があっても夢が実現するようにユーザーが動かなかったのがX68k
発売時期が遅かったし価格も頑なに下げないまま98とDOS/Vにシェアを取られていった ユーザの悪行の数々を見てれば「X68? どうせゴミでしょ」ってなるよな。 ユーザのモラルと常識と良識が足りてなかった悲劇のマシンX68000。 などとウソつきピーコX68ユーザが泣きながら負け犬の遠吠えしていますw 98太郎じゃなく、荒らしてたのは成りすましのTOWNS太郎だったな
98ユーザーには謝罪しとくわ
つっこみの余地のあるレスしてもつっこんで来なかったからおかしいとは思った 68とうんこの煽りあいしてるお爺ちゃんって痴呆症かなにか? 今度はうんずユーザーまで巻き込んで書き込み伸ばそうとしてるのか基地外X68野郎は TOWNSなら勝てるとおもったんだろうけど、現実は惨敗なんだよな TOWNS太郎「今度は”うんず”ユーザーまで巻き込んで〜」
プ 家電屋のおもちゃは16ビットまでなんだよ
68なんてぴゅう太のお仲間だろ ttps://the-eye.eu/dmca.mp4 ttps://pbs.twimg.com/profile_images/513073783142236160/Or3iYleh.jpeg X68はユーザが人間性がクソでゴミな屑ばっかりな上に性能も悪かったし機能もいろいろ足りてない、
ないないづくしのプワーマシンだった。 文豪も移植してもらえなかった
シャープも見捨てた68 文豪じゃなくて書院でしょ。
ただ、書院を移植したmz書院は黙殺されていたが。 >>847
>性能も悪かったし機能もいろいろ足りてない
他機種ユーザーだが、そこは訂正すべきだ。
何が足りなかったのか具体例も出さず煽っているだけの発現は許せない。 しょーもな、やっぱり友達x0が乱立させたスレか。
ねぇ、友達x0はあいかわらず頭ん中糞まみれなの? 他機種ユーザーになりすましバレバレのお馬鹿X68ユーザーw 全機種あわせて15万台くらいだっけ
ぴゅう太と同じくらいなんだなw きょうもはってみる
p426-p428 渡辺繁
Q:しかし、映像作品のレーベルを立ち上げていたとはいえ、入社3年目のメーカーのサラリーマンと、
大阪でアマチュアフィルムをつくっていた人たちが、劇場公開大作映画をつくってしまったとは、何度聞いても実感が持てないんですよ。
渡辺:そうですか?しかし岡田さんたちも戦略を考えていましたけど、僕もきちんとステップを踏んで進めていったんですよ。
まずパイロットフィルムをつくって、製作と営業の目鼻をつける。
それが完成したのが1985年。そしてパイロットフィルムを社内はもちろん、いろんなところに見せてまわった。
押井さんにも見せましたし、庵野秀明さんが『風の谷のナウシカ』に参加していた縁をたどって、宮崎駿さんのところにも見せに行きました。
当時、宮崎さんの個人事務所、二馬力が阿佐ヶ谷駅の近くにあったんですけど、僕はそこにひとりで会いに行きました。
目的はまず、直接的にフィルムの感想を聞くこと。そしてもうひとつ、宮崎さんは「ナウシカ」の仕事で、映像の世界に確固たる存在感を示していたので、
もしその宮崎さんがフィルムを評価してくれれば、バンダイの内部も説得できるようになるだろうと考えていたんです。 Q:宮崎さんの反応はいかがでした。
渡辺:宮崎さんとは3時間にわたって話して、といっても宮崎さんが2時間30分お話しになって、僕は10分だけでしたけど(笑)。
そのときに宮崎さんは「庵野君たちはアマチュアだけど、ちょっと違う存在だと思う」と評価してくれたんです。
「アマチュアには豪華な出窓はつくれても、基礎をきちっとつくるという部分でふらつく人間が多い。しかし彼らはきちんと基礎をつくって、
たぶん新しい建物をつくることができそうな気がするから、もしも必要ならばバンダイの役員会の皆さんの前で、アドバイスなどをして差し上げてもいいですよ」
とまで言ってくれたんですよ。
もうそれだけで、僕は我が意を得たりといいますか、「これで大丈夫だ」という気分になりました。
実際に役員会でも、「宮崎さんはこうおっしゃった」と伝えたら、それで企画は通ってしまいました(笑)。
ただし、その段階では満額の予算はリスキーだから、とりあえず全体の4分の1は認めてやる。それで制作を開始し、その間に配給会社を決めて興行を確定してこいということになった。
これは僕の手には負えなかったので、当時広告代理店にいたプロデューサーがバンダイに出向してくれて、僕の上司になり、彼が動いて決定してくれた。
こういう人がいたから映画も実現できたんです。こういう段階を踏んで、公開に繋げていったわけですよ。 Q:それらの段階を、渡辺さん本人はどのように体感していたのでしょうか?毎日が楽しくて仕方がないという感じでしょうか。
渡辺:背景を知らないままに始めて、しかしだんだんいろんなことがわかってくるとプレッシャーも感じてくるし、怖くもなりましたね。
白い目で見られて、迫害されながらも、待ち受ける障害を突破していく。
ほとんど「王立宇宙軍オネアミスの翼」の物語そのままですよ。「誰もやったことがないことをやる」という過程は、あの映画で語り尽くされていますよね。
あの作品の構造そのものだと思います。公開した当時、「僕たちの物語だ」という文脈で、雑誌に取り上げられたりしましたけど、実際、みんな無名だった。
それが徒党を組んで歯を食いしばりながらやった作品が「王立宇宙軍」だったんです。いい経験をさせてもらったと思います。
もしあの映画が実現していなかったら、今の僕もなかったわけですから。
Q:制作過程で出来上がってくる映像についてはどのように感じていたのでしょうか。やはり出来にわくわくするようなものがあったのでしょうか。
渡辺:それはありましたね。そういうものがなかったら、企画を推進するモチベーションにならないじゃないですか。
岡田斗司夫さんや山賀博之さんと話して出てくる展望や、ほかのスタッフに見せてもらった絵は、僕にとってやはり「やる気の薪」のようなものでした。
どんどん自分にくべていきました。 Q:これはすごい映画になるぞ、という高揚感のようなものを感じていたということでしょうか。
渡辺:「つくれるものなら、こんな映画をつくってみろ」と人に誇れる映画を、つくっているんだという感覚だったような気がします。まあ、思い込みなんですけどね。
「こんなすごい映画があったのか」とも感じていましたしね。あの頃は、ほとんど毎日のように吉祥寺に移ったガイナックスのスタジオに通っていましたよ。
そこで動画のテスト撮影のビデオなんかを見せてもらって「すげえな」と思っていました。
でも、祭りの準備じゃないですけど、できるまでがいちばんわくわくするんですよね(笑)。
完成が近づくにつれて、前売り券をバンダイのグループの中でさばかないといけないという大きなプレッシャーも出てきましたし。それが興行を確定する条件だったんですよ。
本当はそういう、タコが自分の足を食べるような行為は間違いなんですけど。そうした現実を前にどんどん不安になる自分と、高揚していく自分とが交錯していました。
もう十数年も前の話ですけど。
Q:当時は、ほとんど寝ていないという日常で......。
渡辺:いや、そんなことはない。ちゃんと寝ていました。酒を飲んでおねえちゃんと遊びにも行ってましたし。
不眠不休でというよりも、なんか自然にでかい顔して、ことに当たっていました。
でも、年々やっていることがしんどくなってくるんですけどね(笑)。大変です。しかし、今でも思いますよ。
「王立宇宙軍」の主人公だったシロッグのように、障害をどんどん突き破っていかないといけない。誰もやったことがないことをやろうとしたら。 Q:現在では、バンダイビジュアルの国内のアニメーションのパッケージソフト市場におけるシェアは3割近くになるそうですが。
渡辺:すごく簡単にはじまっちゃったんですよ(笑)。ガイナックスのみなさんとの出会いも、すごく軽い感じでしたしね。
映画制作のことはなにも知らないままに「王立宇宙軍」をはじめてしまった。それと、企画開始の当時は、バンダイもまだ株式公開する以前で、いい意味でまだ中小企業でしたからね。
風通しがよく意見・提案を聞いてくれる風土もあったし、「チャンスがあれば、失敗を恐れずに打席に立ってバットを振ってみろ。
ベンチの裏で素振りをしていても永遠にヒットは打てない。三振でもいいからとにかく打席に立って振ってこい」と、さんざん言われていました。
そういう会社でしたから、こんな素人みたいな僕に、入社3年目か4年目の僕に、映画をつくらせてくれたんだと思います。
(2004年2月バンダイビジュアル社内にて) >>859
2桁代の本数しか売れてないアプリのユーザーが3桁(もしかすると5桁!)もいたというのがX68。
ハードが売れなくても、それ以上に売れないのがソフトです。 なんか技術的なネタが最近無くなってるな
VRAMの解像度が(公式には)256の倍数しか無いのは
Y座標の計算がしやすいソフトウェア的な理由なのか
設計がしやすくコストが低減できるハードウェア的な理由なのか
どっちなんだろう 荒らしまわるクソなユーザーの前に技術的なうんぬんを語って「X68はすごいきかいなんだー!」ってやろうとしても無駄だからだろ。 きょうもはってみる
貞本義行 1962年、山口県徳山市(現・周南市)生まれ。
漫画家、アニメーター、キャラクターデザイナー。
「週刊少年チャンピオン」第16回新人まんが賞に入選、漫画家としてデビューする。
翌年に大学の後輩であった前田真宏氏の誘いでテレビアニメ『超時空要塞マクロス』('82)の制作現場に参加。
庵野秀明氏、山賀博之氏らとの運命の出会いを果たし、「DAICON4」のオープニングアニメ制作に参加する。
大学卒業後、テレコム・アニメーションフィルムに入社。
その後退職し、1987年に公開された劇場映画「王立宇宙軍オネアミスの翼」にキャラクターデザイン、作画監督として参加した。
アニメと漫画の両分野で業績を残す人
アニメーションや漫画作品の登場人物は、現実のなにかを継承しながらも、線で描かれた現実には存在しない姿かたちの存在。いわゆるキャラクターである。
写実ではなく、人の心が生み出したキャラクターは、より人の本能に忠実であり、ときに実在の人物をはるかに凌駕する魅力を放ち、人をトリコにする。
貞本氏は、1987年に公開された劇場映画『王立宇宙軍オネアミスの翼』において、作画監督とキャラクターデザインを担当した。
当時、貞本氏は数本のアニメ作品の原画を描いたというキャリアがあったのみ。まだ20代前半であった。しかし貞本氏はこの大役を見事に成し遂げる。
「王立」の舞台はオネアミスという、現実と似ているが異なる架空の世界。これはアニメーションという表現の中で「現実にいる人間」を描くために、
監督の山賀博之氏が意図的に選択した方法だった。この作品において、貞本氏の創造したキャラクターは、観る者に「こういう人っているなあ」という実在感を感じさせる。
文:堀田純司 ガイナックスインタビューズ p124より p134-p136 貞本義行
現場はぐちゃぐちゃになってからが面白い
Q:ガイナックス作品は、見ると「うわ、自分もその制作の現場にいたかった」と感じるという特徴がありますね。
貞本:会社の成り立ちからして仲間うちでの自主制作が母体ですから、そこはほかの会社とは違うでしょうね。
ガイナックスの最初の礎石となった作品、「王立」なんかは「参加して楽しかったなあ」と、今でも思い返します。
Q:現場の楽しさとは、どういう部分にあるものなのでしょうか?
貞本:現場っていうものは、進行がぐちゃぐちゃになって、システマチックに動かなくなればなるほど、面白いんですよ(笑)。
「ナディア」でもそうでしたけど、「エヴァンゲリオン」で後半、紙芝居みたいになったりするじゃないですか。僕は「エヴァ」では基本的に現場にはいなかったですが、
放映を見ていてすごく羨ましかったですよ。「うわ、コンテをそのまま撮影しているよ」とか(笑)。もう激怒巨烈かもしれませんけど。
スタッフは本当に楽しかったでしょうね。お客さんにしてみれば「なんだこれは?」ってことになるでしょうけど。
つくり手側にとっては「やっぱりこういう修羅場がないと!」って思います。醍醐味ですね。そういう状況で、みんなでなんとかしていくのが(笑)。
「うわあ、2週間でホントに30分できたよ!」とかね。その面白さは現場にいないと楽しめないです。ぜひ参加してほしいですね。 Q:作品について意見をぶつけ合ったりもするわけですね。
貞本:やっぱり年齢が近いですから、大いに議論しますよ。監督から動画まで年齢差が10歳もありませんでしたから。
これがスタジオジブリとかならニュアンスが違ってくるんだろうな。宮崎さんなんか、みんなでソバを食べたりとか、現場を一体化させようと気を遣ってますよね。
僕らはそうした一体感を、もとから努力なしに素で持っている。普通は、動画をやっている立場で、監督が目の前にいるのに「つまんないよ、これ」とか、
横で色指定やっているのに「なにこの色」って平気で言える環境って、なかなかないですからね(笑)。
しかし今では、ガイナックスもスタッフにちょっと年齢差が出てきて、新人さんなんか庵野さんや僕を見かけると「そそくさー」という感じでいなくなったりします。
そういうのを見ると「ああ、ウチの会社もちゃんと会社らしくなってきたなあ」と感じるんですよ。少し寂しいものもありますけどね。
Q:アニメーションの現場に参加したのはまだ学生だった当時、『超時空要塞マクロス』が最初だそうですね。
貞本:その頃、庵野さんや山賀さんが大阪から出てきて、「マクロス」の現場に参加していたんです。アートランドという会社でつくっていたんですけど、
そこを手伝わないかという話があって、「アニメとはなんぞや」という感じで、僕もちょっと見学がてら行ってみた。それがきっかけでした。
あの頃はもう、訳もわからずやっていましたけど。 Q:「当時、すでにアニメーションを職業にしようと考えていたのでしょうか?
貞本:全然考えてないですね。いや、とにかく絵しか取り得がなかったんで、絵で将来食べていきたいという希望はありました。
しかし「絵で食う」といっても間口が広くて、学校の美術の先生とか、看板屋さんだとか、いろいろあるじゃないですか。
だから、「せっかく山口から出てきたんだから、なにか絵で食っていけたらいいなあ」というぐらいの心境でした。
Q:みんなでつくる楽しさは、「マクロス」でいきなり知ってしまったんですか。
貞本:そうですね。「マクロス」の時期に、ガイナックスの母体であるDAICONFILMの自主制作にも参加していましたけど、わりと当時の体質がそのまま
「王立」に移行していると思いまます。
Q:集団でつくる楽しさはある程度、集団でつくる現場に普遍的にあるものでしょうか。
貞本:どうでしょうか。今のガイナックスでも、あの「王立」の頃の感じがあるかというと、やっぱり昔とは違ってきているんですよ。
あの頃は、自分たちの中にカリスマがいなかったんです。
たとえば新人さんが今、この会社に入って庵野さんや鶴巻を見ると、「うわっ、庵野さんが、鶴巻さんが歩いている!」って思っちゃうじゃないですか。
そういうのは僕たちにはなかった。あくまでも同列の仲間が集まって、カリスマどころかダメ人間が集まってつくっているという感覚でした(笑)。
しかしその一方で、「俺たち、すごいぜ。すごいもんつくってやるぜ」という無闇な盛り上がりもあったんです。「成り上がろうぜ」という野心もありましたし。
最初のガイナックスの仕事場って、六畳二間ぐらいの普通の民家だったんですよ。で、そこでは毎晩、押し入れの上の戸袋にまで人が寝ていましたね(笑)。
寝ている人と起きている人が、入れ替わり立ち代わりで仕事していました。あの頃は、机の下に簡易ベッドを置いて、仕事をしている人のすぐ横で寝ていたりして、
庵野さんにしても僕にしても家に帰らなかった。それで夜な夜な、2時をまわってみんな疲れてくると、酒盛りをしたりとかですね。やっぱり楽しかったですよ。
でも、そういう雰囲気は今ではもう、ないかなあ。新人さんもいっぱい入ってきていますけど、もっとハメをはずしてバカ話とかすればいいのに。 Q:そういう現場は聞くだに憧れますねえ。
貞本:だから今は少し寂しいですよ。こういうことばっかり言うと「またオヤジが昔話を」って、言われちゃいますけど(笑)。
Q:いえ、しかし昔の創作の現場は、どの分野でも濃かったですよね。
貞本:そうですよね。たとえば、いつも短パンに首から手ぬぐいをぶらさげて会社の中を歩きまわっている摩砂雪さんという人がいますけど(笑)、
よく摩砂雪さんと、夜中に観てきた映画について話し合ったりするんですよ。それは議論なんてレベルじゃないです。
酒を飲みながら「あのシーンはバカでよかった」とか、たわいのないバカ話なんですけど、そういうバカ話の楽しさから、作品をつくる面白さってはじまってるのかなと思うんですよ。
僕から見ると、動画を始めたばかりの新人さんがなんで家に帰るのかなと、不思議に感じます。家に帰ってもすることはないだろうに。テレビを観に帰るのかな。
「だったら会社にいたほうが楽しいでしょう」と思いますよ。僕はあまり現場には口を出さないようにしていますし、イラストのように作品に付随する仕事は、
できるだけ若い人にふってほしいと考えているんです。そうしてもっとチャンスをつくっていかないと、若い人も自分で自分に壁をつくってしまうので、それは気をつけています。
(2003年5月ガイナックススタジオにて) >>874
すいません 訂正
僕自身は地味な服が好ァッション雑誌を見るなんて、やっぱり抵抗ありましたもん。
↓
僕自身は地味な服が好きなので、あまりファッションに興味はなかったんですよ。見てもらえばわかりますけど(笑)。
昔、「ポパイ」とか男向けのファッション誌が創刊された当時、僕はそういうものに対してなんとなく軟派なイメージを持っていたんです。
だから「男が、こんな雑誌を見るとは......」と思っていました。しかしおかげさまで、あのへんのファッション雑誌を手に取るのが、抵抗なくなりましたね(笑)。
若い人が聞いたら「なに言ってんの」と思うかもしれないけど、ファッション雑誌を見るなんて、やっぱり抵抗ありましたもん。 BUSINESS PRO68Kというのがあったらしいが例によって「在っただけ」っぽいな。
VisiCalcやそのパチモン?のSuperCalcやMultiPlan、Lotus1-2-3などの有名どころはリリース時期的にはX68000に移植されていてもおかしくはない。
それでも68の孤独なガラパゴスパソコンの地位は不動のままだった。 X68にはワープロすらまともな製品がないのに表計算アプリがシャープから出てるだけでも驚きだわw X68の「まともなワープロ」って、入力も表示も遅くて日本語変換がバカなフォントが替えられるだけが取り柄のゴミのことかな? 表示を日本語にして、日本語が通るだけレベルのカスタマイズした英文ワードプロセッサを「ワープロ」として「移植」した恥ずかしい奴ならあったろ。
あとASK68つかってる時点で「まともな」という形容詞は着けちゃいけない。 98やFMRと比べると漢字入力は信じられないくらいもっさりしてた 負
け
/⌒\ オ 犬
ノ)´・ \・` h の
(/ ( ▼ヽ ボ
/ \_人_) エ
/|\ソ ヽ\
/  ̄L\|∩)
| \ /\)\\
\ 〆 / | \\
|\/ ∧゚ | \\_
| / \|_ | /
_|_ ノ  ̄\ \ レ オエ〜〜♪
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ヽ_ヽヽ_ヽ >>857
TOWNSスレが荒らされてないのはX68000ユーザーが紳士的だという証拠だな
これを書くと自演して荒らすのかもしれんがね wiki荒らした前科持ちですよねX68ユーザ。
どこが紳士なんです?
ただのクズな犯罪者じゃないですかーw X68ユーザは人種者別発言繰り返したり殺人賛美的な発言も繰り返してる。
無関係なスレに98を侮蔑する書き込みを繰り返してもいる。
X68はこのようなすばらしい紳士である。 X68は荒らし行為をTOWNSユーザのせいにしようとしてる立派な紳士ですねw
X68ユーザが荒らしてるのはバレバレだよ。 TOWNユーザーなんてそもそも絶対数少ないしマウント取ってる人も少ない
絶対数の多い98ユーザーにもやべえやつは居るだろうがX68ユーザーはほとんどがやべえやつ(犯罪者) この前まで「98ユーザーがX68ユーザーを貶めるために〜」とか言ってたやつか。
節操なくて草。 X68ユーザに無いのは節操だけじゃなくて常識と良識と知能もないよ。
あったら人種差別まるだしの発言繰り返したりしないものね。 祝一平みたいなのが代表的なX68000ユーザー像だな きょうもはってみる
p156-p160 貞本義行
Q:しかしそれほどまでに愛される二次元の、描線でできた造形物とは、不思議なものですね。それを生み出す能力とは、それだけで天才的な才能だと思います。
貞本:ただ、キャラクターが描線でできているといっても、僕の場合は二次元の造形にこだわってはつくってないですよ。
ナディアの例にしても、やっぱり自分がそれまでに実際に見てきた女の子のコラージュというか、「あの子はすっごい暗かったけど、なにか魅力的だった」とか、
そういう僕自身が会ったことのある人の印象が、重なりあって出てきているんです。
庵野さんもキャラクターを考えるとき、ヴィジュアルを主体にしていないと思います。あの人の場合、そのキャラクターを演じる声優さんの性格だとか、
過去のエピソードをライブ感覚でストーリーの中に入れこんでいったりするんですよ。
血液型だとか誕生日だとかも聞き出して、作品が進む中、脚本で追いかけてそれを反映させていく。それはそれで面白いなと思います。
でもそうなると果たしてそれが、純粋に二次元の世界の中で遊んでいるキャラクターなのか、現実の人格の反映なのか、境界線がわからなくなってきますよね。
Q:しかしどこかで、その貞本さんが経験した抽象的なイメージの積み重ねが、紙の上の具体的な造形に変換されるわけでしょう。
それは、そうした能力がない人間からすると不思議な瞬間にも感じられます。
貞本:でも、似顔絵ってわりと誰でも描くじゃないですか。人の特徴をとらえて似顔絵を描いていこうとすると、特徴を表せば表すほど、その絵は、
どんどんどんどんキャラクターになっていくと思いますけど。
「王立」のときも、実際に身のまわりにいる人をモデルにしてしまうことから始まっています。 山賀監督に「このキャラクターってどういう人?」と聞くと「この人はB型で、こういう人で、こういうときにこういう行動をする人」と、性格を詳しく解説してくれるんですけど、
それが全部誰のことか丸わかりなんですよ(笑)。ああ、あの人ね、この人ねと。そうするとやっぱり、その人の顔を思い浮かべながらデザインしていくことになります。
ただ、そっくり描いてしまうと似顔絵にしかならないんで、そこは特徴を自分の中でアニメのキャラクターとして翻訳しながら、デザインしていきました。
でも描いてみて絵になる人と、ならない人ってあるんですよね。僕なんかは絵にならない(笑)。
ただそういう現実の絵から発想していく方法も、やりすぎると「王立」みたいに、絵的に地味な作品になってしまってあまり売れなかったりもする(笑)。
そのつらさも味わっていますので、「ナディア」では、アイドルアニメをつくろうと「王立」とはがらっと方法を変えて取り組みました。
その後、またちょっとリアルな方向に戻して「エヴァ」をつくってみたりと、僕としてはいろいろな作品の中で、
キャラクターづくりの方法のヴァリエーションを楽しんでいるような感覚がありますね。
キャラクターデザインの試行錯誤
Q:しかし「王立」は地味といっても、線に荒々しさがあっていいですね。
貞本:荒々しさというか、迷っている感じがしますよね。自分で言うのも妙なんですけど、その迷いがかわいいみたいな(笑)。
まだいろんなものに染まっていない感じが、伝わってくるんですよ。「気負っているところが青いなあ」と感じます。
今見直すと、「こうすればいいのに」と、過去に戻って自分にアドバイスしてあげたくなるんですよ。そういう心境になって見てしまいます。 Q:どういうアドバイスを送ります?
貞本:やっぱり目とか鼻とか、一つひとつのパーツの処理ですね。特に僕の場合、宮崎駿さんのいた会社の出身なので、どうしてもどこか宮崎さんっぽい絵柄になってしまうんです。
だからあの頃は、なんとか宮崎さんから離れた方向でキャラクターをつくれないかと、試行錯誤していた。
かと言って、その頃は『機動戦士ガンダム』の安彦良和さんのようなリアルな傾向の画風もありましたけど、そちらにも行けないし。
「王立」のときは、まだ誰もやっていない、見たことのない画って、どんなものだろうと考えながら取り組んでいました。
あの頃の、中途半端にリアルなものを描くしかできなかった僕のところに行って、「エヴァンゲリオンってのがあるんだけどね」と、ちょっと見せてあげたいですね(笑)。
でも「王立」は「エヴァ」よりは、やはりリアルな造形の方向になりますから、それこそプロダクションI.Gの沖之さんとかを、そのまま過去に送りこんだほうがいいかもしれませんね。
「この人に手伝ってもらえ」という感じでね(笑)。
Q:ただ「王立」は貞本さんのみならず、各パートにスタッフの皆さんのそうした試行錯誤が伝わってくる作品で、それを含めて魅カのある作品ですね。
貞本:そういうふうに「当時はほかに方法はなかったんだ」と見てくれるといいんですけど。脚本とかストーリーは、時代が経ってもそんなには色あせないですけど、
作画面、技術的なものは、どんどん新しいものが出てくるので、やはり後の時代のほうが良く見える。最新の映画と並べられると、ちょっとつらいものがありますね。 Q:男性キャラをつくる場合は、女性と感覚が違うものでしょうか。
貞本:女性の場合は、自分の経験の中で、魅力を感じた人を発端にしてデザインしていきますけど、男の場合はわりと真面目に(笑)、
「こういうことをする人はいったいどんな顔をしているんだろう」と考えてつくっていきます。
「トップ2」の鶴巻の場合は男にも注文が多いんですよ。髪型がこうで、と写真を持ってきて。それを見て描いても「いやそうじゃなくて」と、ものすごく注文が厳しくてですね。
「微妙な違いだよなあ」と僕は思うんですけど、「こういった男に憧れてんの、実はホモ?」というくらい、具体的な注文が細かいんですよ(笑)。
「こういう感じの男になってみたい」とか、そういう感覚で男性キャラクターをつくっていくことは、あまり自分にはないですね。鶴巻はそれがあるみたいですけど(笑)。
庵野さんは、キャラクターの細かいデザインには、あまり文句は言わないですね。もうちょっと年齢を下げてとかそれくらいで、わりと観念的な注文になります。
Q:自分の携わった作品を、「ここがいいんだよなあ」と見返したりとかはします?
貞本:いや、「いいよなあ」というよりは、「あそこの俺は天才だった。なんであれができたんだろう」という気持ちで見直すことは、それはたまーにありますね。
「なんてあのときの俺は天才だったんだろう」と。まあ、一瞬だったわけなんですけど(笑)。
そのときの感覚、あのデザインの神様が僕に降りてきたときの感覚を思い出せないかと、あせっていろいろ試してみたりするんですよ。
原宿に出て一日中、ずうっと目の前を歩いている女の子を観察するとか、わけもわからずやりましたからね。 Q:それは参考になりました?
貞本:いや、効果ありましたよ。まず面白い服装に関して、鼻が利くようになりました。
「原宿に、ちょっと派手でおしゃれな女の子が集う店があるよ」と聞いて、その店の前で、ジュースを飲むふりをしてですね(笑)、
ガードレールに座ってそこに出入りする女の子をずっと観察してみたことがあるんです。「わー、すっげえ服着てるな」とか感心しながら見ていましたけど、面白かった。
実際に変わったファッションをしてる人を見かけて、それがデザインのヒントになったこともありましたよ。たとえば「エヴァ」のミサトの服は、街で見かけた、
男物のライダースーツみたいな服を上に着て、それでスカートをはいてた女の子が参考になっているんです。
スカートをはいている以上、その人は絶対バイクには乗ってないはずですけど、それなのに首からゴーグルを下げていた。こういう女性はいいなと思いました。
だからミサトの服って、実はオートバイ用のものが原型なんです。ただ男ものをそのままだとカッコ悪いところもあるので、そこを考えていじっていって、あの形になりました。
あとは、そもそもファッションというものに興味を持てるようになったのが大きいですね。僕自身は地味な服が好ァッション雑誌を見るなんて、やっぱり抵抗ありましたもん。
Q:わかります。
貞本:男気があったんで。
Q:わかります、わかります。男子たるもの、そんなもの。
貞本:そうそう、「バイク乗りはこんなの読んで、ブランドがどうのこうの言っちゃいかん!」みたいな。「百歩譲ってアディダスなら良し!」と(笑)。 アニメーションは現場が楽しいんです
Q:「王立」で、劇場映画のキャラクターデザインと作画監督を担当して、その後アニメーションの世界でさまざまな仕事を残し、貞本さんの名前は映像の世界でビッグになりましたが、
そこでなにか変わったことはあったのでしょうか。
貞本:や、これが意外とないですねえ。イベントとかに行ってファンの前に立つ機会があっても、目立たないようにほかのゲストの間にまぎれたいと思っちゃうんですよ(笑)。
あんまり「ここにいますよー」というタイプじゃないんです。見た目も派手じゃありませんしね。
普段、僕がつき合ってるような仲間って、車とかバイクの関係の人間で、あまりアニメーションの世界に関わってない人が多いんですよ。
そういう人たちに「こういった作品、やってるんだよ」と言っても、「へえ、すごいね」で話が終わっちゃいますからね。
(2003年5月ガイナックススタジオにて) こういう著作権無視と迷惑行為がX68ユーザの典型だな スペハリの改造だね。大量に出回ったな
絵のパッチじゃなくて、ソフトそのものをコピーしまくったんだっけ
X68000のコピー蔓延の象徴 >>889
そりゃ当然
68のグラフィック性能の不満点解消してんだし
スパグラのグラフィック性能が開発時の元の仕様だったわけだし ネットに公開してたソフトをコミケで有料で配布してた、なんて話しがあったのもX68じゃなかったかな? .───┐ ∠_ \L
 ̄ ̄ ̄| | llヽ _| ヽ
| | |l ̄| | l X68終わったな
| | / ´\ /
| | ヽ、_ `^イ
二二二 」 _ __ lニ二二l、 ____
─┴┐ ⊆フ_)__./ ┌ヽ ヽ┐ /´ `\
二二二二二二l / | | | |. / ヽ
_l_____| /`ー─‐|_| |_| / ヽ
| /`ヽ__, ─ 、ノ |─l l l
|───/ /lニ/ /二ニluul. | ! 終わってんのはお前だよ
| ___| ̄ | | |_|. l /
└─( )(ニ|  ̄|./二ニ) ヽ /
 ̄ ̄ / ) >━━━━━━ く
`ー ´ / ヽ >>909
PCEにグラフィック画面なんて無いだろ あのハドソンに逃げられるとかどんだけシャープが技術者を蔑ろにしていたんだよwww 任天堂のファミコン開発者もシャープからの転職だったね。 きょうもはってみる
樋口真嗣 1965年、東京都生まれ。そのキャリアは1984年公開の映画「ゴジラ」にて、特殊造型助手を務めたことよりスタートする。
「ゴジラ」の後、樋口氏は大阪を拠点とする映画自主制作集団DAICONFILMの活動にその身を投じ、自主制作特撮映画『八岐之大蛇の逆襲』('85)に参加。DAICONFILMの活動終了後、
樋口氏はガイナックスの第1作、劇場版アニメーション映画『王立宇宙軍オネアミスの翼』('87)に演出スタッフとして加わる。
華々しい伝統を持つ日本の特撮。しかし特撮作品は1980年代初頭、新たなる表現技法に「娯楽の王者」の座をとって代わられた。
その表現とは、かつて巨人・手塚治虫氏が情熱を注いだ映像技術、アニメーションである。特撮がアニメにとって代わられた理由のひとつに、その制作コストが挙げられる。
特撮映像制作そのものが多くの時間、人員、予算、そして高度なノウハウを必要とする上、特撮番組は、特撮部分を制作する特撮班と、本編班の2系統のスタッフを持たねばならず、
その分費用がかさむ。また、もしかするとこの時期、特撮はジャンルとしての活力を失い、新しい人材が生まれ難くなっていたのかもしれない。
日本の特撮作品は、1980年代初頭より長らく雌伏の時代に突入することになる。その時代の終焉を告げる作品が、1995年に公開された映画『ガメラ大怪獣空中決戦』。
この作品によって特撮映画の希望の星となった人が、この章に登場する樋口真嗣氏である。
樋口氏は、当時すでに特撮作品のみならずアニメーションの分野でも実績を残すという、稀有な経歴を持つ創作者だった。植口氏の世に知られたユニークな仕事ぶりのひとつはその画の発想法である。
ミニチュアセットの中に対象を置いて、それをいかに撮影するかと発想する従来の特撮に対して、樋口氏はまず脳内で画を発想し、それを具現するためにミニチュアセットを組むという。
これは「イメージしたもの以外、映像に現れない」という特徴を持つアニメーションの絵の発想に、通じるものがあると感じられる。樋口氏がアニメーションの領域でも優れた仕事を残すのは、
もしかすると必然かもしれない。
文:堀田純司 ガイナックスインタビューズ p236-p237より p247-p251 樋口真嗣
Q:樋口さんは撮影所で働いた後、DAICONFILMの自主制作映画に参加したわけでしょうか。
樋口:映画学校の同級生で山口宏という、今では脚本家になったヤツがいて、そいつが赤井孝美さんと同郷で、俺と知り合う前にDAICONFILMの手伝いもしていたんです。
『愛國戰隊大日本』で、アイキャッチの絵を描いたり戦闘員やったり。後に俺もヤツも学校を辞めて、俺はアルバイトで「ゴジラ」の現場に行ってて、
その頃あいつは「劇場版マクロス」の第2原画をやっていたのかな。終電がなくなると、いつも山口の家に泊めてもらってたんです。
そこで初めて、DAICONFILMのビデオを観させられた。その場で本当に素直に「すごいなあ」と感じたんです。「こういうことをやっている人たちがいるんだ」と思った。
その後に「今度DAICONFILMの上映会があるから」と誘われて行った九段会館で、庵野秀明さんに紹介されたんです。
庵野さんに紹介されたとき、俺は間違って「特撮のプロの人だ」と伝わってたみたいなんですよね。ただのバイトなのにね(笑)。最初は庵野さんも完全に勘違いしてました。
庵野さんは、俺に「今、大阪の連中が怪獣映画をつくっているから、遊びにおいでよ」と言ってくれました。まあ、社交辞令だったんでしょうけど(笑)、俺も馬鹿だから、言葉どおりに受け取って。 Q:その怪獣映画というのが、後に樋口さんも参加して特撮パートを担当した「八岐之大蛇の逆襲」だったわけですね。
樋口:ちょうどその頃の俺は、「ゴジラ」の撮影が終わって仕事が一段落したところだったんです。しかし、映画の現場を見たくてアルバイトを始めたはずだったのに、
生意気なことに「これじゃ、いかんのじゃないか。こうしたほうがいいんじゃないか」というようなことを感じ始めていたんですよ。ほんと生意気なんですけど。
俺の「ゴジラ」での仕事は、造型部の「つくり物付き」というやつで、現場でつくり物のメンテナンスや、ゴジラのぬいぐるみを役者に着せたり、脱がせたりする役割なんです。
だから、撮影中の不測の事態に備えて、いつもゴジラのそばにいなきゃならない。つまり「つくり物付き」の担当者は結果的に、「いつも被写体の中心のそばにいる」ということになるんですよ。
カメラは絶えずこちらを向いているし、撮影部の人がメジャーで焦点距離を測りにきたり、メーターで露出を測ったりとか、いろんな人が入れ替わり立ち替わりで俺のところにやってくる。
監督も来ます。まあ俺のところに来るんじゃなくて、俺の隣にいる主役のところに来てるわけなんですけど(笑)。これが今にしてみると、俺にとってものすごい幸運でしたね。
初心者のくせにいつもステージの真ん中にいることで、現場の様子がよく見えたんですよ。それに、ぬいぐるみの中に入る役者のお世話も俺の仕事ですから、
そのために「今から何を撮るのか」という段取りを、嫌でも把握している必要がありました。
同じようにバイトで入って、バックヤードでひたすらに物をつくっているヤツもいたし、スタジオの入り口でお茶を配ってる人もいました。
しかし、ラッキーにも俺はステージの真ん中にいることができた。でね、その場所から現場のいろんな状況を見ていると、「なんでああやってるんだろう、俺だったらこうすんのにな」と、
そのうち勘違いをしはじめるわけですよ(笑)。「なんでカメラ位置がこんなに高いんだよ」とか。 大阪への旅立ち
樋口:それに撮影所でバイトしていると、「誰よりも先に映画を観る」ことの最たるものとして、前日に撮ったフィルムを次の日に試写室で確認する、いわゆるラッシュを観ることができた。
しかしそのラッシュが歴然と......「これじゃ、ただ見たままを撮っただけじゃん!」という映像だったりする場合があった。そういうものを観ているうちに、失望と同時に、
「こうすればいいのになあ」という気持ちが、むくむくと芽生えてきたんです。DAICONFILMの作品、特に『DAICONFILM版帰ってきたウルトラマン」なんかを観ると、
明らかにそちらのほうが画づくりに対する、正しい取り組みと工夫を感じる。「本物ではないものを使って、どのように本物に見せるか」という意志が伝わってきた。
あの頃、プロの現場にいて、「大阪の学生でもこれだけやってんのに、大の大人が集まってこの体たらくはなんだ」と感じて、やっぱりがっかりしてきたんですね。
いろいろなことを考えましたけど、正直なところ、そこまでしてプロの撮影現場にしがみつきたいという気持ちをかなり......。
Q:失ってしまった。
樋口:そう。「いっか、もう......」と。ということで撮影所のアルバイトを辞めてしまったんです。で、どうしようかと考えたときに、なぜかあのメガネのもじゃもじゃ頭の人を思い出しまして(笑)、
「大阪は楽しそうだなぁ」と考えたんですよ。それでとにかく大阪のDAICONFILMに遊びに行かせてもらおうと、庵野さんに電話してみたんです。
庵野さんは「もうちょいで仕事も終わるっス」みたいなことを言ってくれたので、その場で「じゃあ、いついつ行きましょう」と予定を決めた。
それでいざ、その当日に庵野さんのところに行ってみたら『メガゾーン23』かなにかの仕事をやっていて、「ちょっと待ってて」と言われました。
それでちょっと待ってたら、そのまま二晩待つことになった......。今にして思うと「あの当時からそれか!」みたいな(笑)。 Q:うはははははは。
樋口:桜台にあったグラビトンというスタジオだったんですけど、そこの押し入れで二晩寝て待ちました。それから「じゃあ、終わったから行こうか」と、庵野さんとふたりで大阪に向かったんですよ。
あの頃は庵野さんも俺も貧乏でしたから、大阪に行くのに新幹線なんて使えないわけです。8時10分発だったかな。大垣行きの快速に青春18きっぷで乗り込んで、大阪へと向かった。
あのときは車内が混んでいて、連結部分、車両を頭同士でくっつけているあたりの、運転席周辺の余裕のあるところで、ふたりで互い違いになるようにして床で寝ていました。
大阪に着いて、淀川の『八岐之大蛇の逆襲』の撮影現場に行ったら、これがやっぱり楽しそうなんですよね。まあ、一応こちらはプロの現場にいたわけですから、
その目で見れば「素人だな」と思えるところがいっぱいあるわけです。たとえばミニチュアを吊るすのに、テグスを使ってて、これがすぐ切れてしまう。
「ピアノ線でやんないんですか?」とたずねると「おお、さすがプロの人だあ」なんて、すごいテクノロジーをもたらしたように受け取ってもらえたり(笑)。
俺のつたない経験がこんなにお役に立てるなんて!(笑)。しかし、逆に「え、これでいいの?」みたいなやり方で効果を生んでたりして、驚くこともありました。
ビニールプールをふくらませるポンプで、ホコリを吹き上げてみたりとか、むしろ「なんだ、これでいいんだ」と思うことが多かった。
それは素人映画をつくっている人たちをバカにするとかじゃなくて、「あれ、この程度でもあんな画をつくれるんだ。これでいいじゃん」という、新鮮な感動がありましたね。
その場所で初めて「俺はここにいてもいいんだ!」と感じたんですよ。東京のプロの現場に居場所がなくて、今にして思えば自分を探しに大阪に出かけたら、
そこに「あっ、ここは僕がいてもいいんだ」と思える場所があった。 Q:プロの現場ではそれほどまでに、「自分のやることがない」という感じだったんですか。
樋口:そうですね。かなりその、距離感を感じていました。いや、それよりも、プロで自分のやりたいことを獲得するよりも「大阪に行ったほうが楽しそうだ」という感覚だったんです。
あの頃はまだ18歳かそれぐらいですから、刹那的で、10年後のことなんかまったく考えずに「明日さえ生きられればそれでいい」という、
快楽だけを求めてケダモノのような生き方をしていたんですよ。通常であれば、その世代が求める快楽って、セックスや麻雀、改造バイクだったりするわけじゃないですか。
それが俺の場合は、なぜか特撮だった(笑)。「より良きものがそっちにある。じゃあ大阪だ」とか言って、本当に押しかけて、そのままスタジオに住み込みました。
Q:庵野さんといっしょに出かけて、そのまま大阪に移住なさったんですか。
樋口:最初に遊びに行ったときは、一度東京に帰ったんです。そのときに「また来てもいいっすかねえ」と頼んだら、「おいで、おいで」と言ってくれたんです。
俺は「ああ?本当?マジマジ?」とよろこんでいましたけど、しかしまあ、それって社会人としての社交辞令ってもんじゃないですか。でも俺は、まったく額面どおり鵜呑みにして、また押しかけた。
みんな「えっ、ホントに来たの?」と驚いていましたよ(笑)。しかも俺、家出して大阪に行きましたからね。実家では捜索願まで出していたらしいです。
Q:現場としての「オロチ」はいかがでした?プロの現場に感じていた距離感が、一気にゼロになったという感じだったのでしょうか。
樋口:そうですね。「オロチ」は、手を挙げたヤツが、なんでも勝手にやっていく、逆に言えば、そうやっていかないと何も進まないというすごくオープンな現場だったんです。
それは楽しかった。通信販売で、40キログラムもあるでっかい鋳物の戦車を買ってきて、映画に出てくる新型戦車に改造してるヤツがいたりとかね。
絶対画面に写らないようなところまで、ずうっとひとりで、来る日も来る日もその巨大戦車をいじってるんですよ。完全に目的を見失ってましたね、あいつは。
「どうすんだよ、それ?」「俺にもわからん」(笑)。まあ、それが今のGONZOの村濱章司だったりするわけなんですけど。結局1年半ぐらい大阪にいたんですよね。 Q:その期間の生活費はどうしていたのでしょうか。自主制作だからみなさんボランティアで参加していたんですよね。
樋口:「ゴジラ」のときのアルバイトで稼いだお金がほとんどそのまま残っていたので、あの頃は1年くらいは暮らしていけるくらいの莫大な(笑)お金を持っていたんですよ。
ただ後半はやっぱりきつくなってきて、武田さんとかに無心をするようになった。それがまた自分の運命を大きく変えたんです......。そこで初めてガイナックスが出てくるんですよ。
「オロチ」の後半は、だいたい月に4万円ぐらいおこづかいをもらって暮らしていたんです。さすがにはるばる東京から来てるということで、俺だけ特別だったんですが。
俺はてっきりそれをご褒美だと思っていたんですけど......。「オロチ」が終わって「これからどうする?」って話になったときに、
すでに『王立宇宙軍オネアミスの翼」の制作に入ってた岡田斗司夫さんが、「このまま東京に出てきて『王立』を手伝うんだったら、あの借金はチャラにしてやる」って。
「ええっ!借金ってなに?ええっ?」。そんな『ナニワ金融道』みたいな!人身売買で俺はガイナックスに......。
(2004年11月 渋谷にて) >>927
まじ!?
友達X0が還暦間近にしてようやく『モラル』という単語を覚えたのか!? 『モラル』という単語を覚えても、意味が理解できてないのがX68ユーザ。 きょうもはってみる
村濱章司氏 1964年、大阪府生まれ。
追手門学院大学在学時より映画自主制作集団「DAICONFILM」の活動に参加。
ガイナックスチルドレンのひとり
1998年に発表された『青の6号』という作品がある。前田真宏氏、村田蓮爾氏ら気鋭のスタッフが参加し、工程をデジタル化して制作された、このOVA作品は、発売当時大きな話題を集めただけではなく、
個性的な映像と音楽で、一目観れば強烈に心に残る作品として、今もなお世界中で新たなファンを獲得している。
この作品を世に送った会社が、ゴンゾであり、この章に登場する村濱章司氏は、この設立メンバーのひとりにして『青の6号』のプロデューサーである。
村濱氏は1964年、大阪府生まれ。追手門学院大学在学時より映画自主制作集団「DAICONFILM」の活動に参加。赤井孝美氏による特撮映画『八岐之大蛇の逆襲』のスタッフとして独自の存在感を示した後、上京。
そして1987年に公開された映画『王立宇宙軍オネアミスの翼』に、制作進行として参加する。多くのクリエーターを輩出したことで知られるこの映画は、やがて日本のアニメーションの世界で、
個性的な映像作品を生み出すグループを率いていくプロデューサーをもスタッフとして擁していたことになる。「王立」の後、村濱氏は『ふしぎの海のナディア』にアニメーションプロデューサーとして参加、
そして1992年にガイナックスを退社する。同年、樋口真嗣氏、前田真宏氏、山口宏氏らとともにクリエーター集団・ゴンゾを設立した。このグループは、早くよりデジタル技術を駆使したアニメーション制作に取り組み、
ゲームのイベントムービーなどの作品で高い評価を獲得。実績を重ねた上で、1998年に発表した作品が『青の6号』であった。
ゴンゾは、90年代初頭よりデジタルとネットワークに目を向け、既成の方法にとらわれない斬新な映像を提供してきた。『戦闘妖精雪風』の華麗な戦闘シーン、小型機の高速戦闘から、
巨大空中戦艦のスケールの大きい戦闘場面までを作品世界に持つ『LASTEXILE』、濃密な映像で広く話題となった『巖窟王』など、ゴンゾの作品はほかでは観たことのない画を見せる。
文:堀田純司 ガイナックスインタビューズ p276より p278-p284 村濱章司
キャラクター産業の市場規模はアメリカより大きいかもしれない
Q:ゴンゾの作品『青の6号』などは、国内はもとより海外での人気が特に高いそうですね。国際競争力で考えると、漫画やアニメーションが実写に優っているのが現状だと感じます。
村濱:そうですね、残念ながら。
Q:そうすると同じ国民がつくっていながら、アニメと実写ではなにが違うのだろうと疑問に思うのですが。
村濱:それには明確な答えがあって、ずばり市場の大きさの違いだと思います。やっぱり実写映像の市場規模は、日本はアメリカにまったくもってかなわない。
ただアニメーションのようにキャラクターが登場する作品の市場規模ならば、アメリカに対抗できる。もしくは、日本国内のキャラクター産業の市場規模はアメリカより大きいかもしれない。
数字的なことは切り取り方によって変わってくるでしょうが、日本国内でのキャラクタービジネスは、めちゃくちゃに競争が激しい。
そこで勝ち上がってきた作品は、「どこの国のどの作品にも対抗できる素晴らしいものだ」という原理が働いているんじゃないかと思います。 Q:キャラクターライセンスを与えられた製品の総生産額は2兆円との説もありますね。
村濱:日本の、漫画作品を原作とするアニメで考えると、まずコミケというアマチュアの作品発表の場があって、そこに8万人が来ますよね。
その全部というわけではありませんが、かなりの人が絵を描いたりしていると思うんですよ。で、さらにその中の数万人が実際に漫画を描いて、そこから切磋琢磨してプロになる人が出てくる。
まあコミケの場合はプロになりたくない人もいるでしょうけど。そしていざプロになったら、今度は何百という漫画雑誌で競争して、その市場の中で勝ち上がった作品がアニメになるわけですよね。
アメリカの場合ですと、アニメーションを制作するにあたって、まずパイロットフィルムを何本か発注して、それをモニターに見せてアンケートをとるなどして、いろんなところでスクリーニング、
ふるい分けを行ってつくっていく。それだとせいぜいが10本くらいのパイロットフィルムから作品を選んでつくっていくことになるわけですが、日本の原作モノの作品だと、
実は数万の中から企画を選んでつくっているに等しい。これが競争優位の源泉じゃないかと思っています。それとゲームの分野で、日本のハードがシェアを獲得したことも大きいですね。
ゲーム機が世界市場に打って出て、ハードのシェアを獲得したおかげで、その結果、日本産のソフトも認知されやすくなった。
ゲーム機がシェアを獲得する以前は、国内でいかに優れたソフトウェアコンテンツをつくっても、海外で認知されるためにはものすごい苦労がともなったんです。
しかしそれが今では、いいものは必ず伝わるようになった。やはりもとが本当に魅力的なものですから、障害が少なくなった結果、自然に存在感が大きくなっていったんだと思います。
あとは「ポケモン」の大成功が示しているように、ゲームやカードなどいろんなものと組み合わせて作品を発表していく方法、いわゆるメディアミックスですね。
これがうまく機能していることもアニメの強さの理由のひとつかなと思いますね。 Q:なるほど。ゲーム、漫画、アニメを合わせると、日本のキャラクタービジネスの市場は非常に大きいということですね。
村濱:アメリカの映像制作の高コスト化も大きな問題だと思います。それにあちらのスクリーニングの方法は非常にロジカルですから、その結果、袋小路に入っていきつつあるんじゃないか。
だって、論理的に「これはやっちゃいけない、あれはやっちゃいけない。こうすればウケるよ」と絞り込んでいくわけでしょう。それを続けているとやがては袋小路に入ってしまうことになるかもしれないと感じるんです。
日本に置き換えて考えてみると、たとえば今「メイドモノをつくると当たる」という市場調査があったとするじゃないですか。じゃあメイドモノをつくろうと企画する。これは昔、自分たちが
アニメファンだったころには考えられないことですけど(笑)。そうすると現在、市場にあふれているほかのメイドモノと差別化して、競争力をつけるために「ではメガネをかけたメイドさんがいい」と考える。
それで「うちのメイドさんはみんなメガネをかけてますよ」と、メガネっ娘のメイドさんがたくさん出てくる作品をつくってですね。仮にそれが、強い競争力を発揮して、ほかの作品に対して勝ったとします。
しかしそこで問題になるのは「じゃあ、次になにをつくればいいか」ですよ。結局またターゲットを絞ってつくっていくことになる。
でも、歴史的なヒットとなる作品は、その時代の創作の可能性をフルに使いきるような作品だと思うんですよ。今のアメリカのつくり方だとそれは出てこない。
だからコアセグメント(中心となる要素)を絞ってつくっていく限り、作品制作はどんどん袋小路に入っていく。それは「限界があるんじゃないか」という気がします。 Q:アメリカでは、1本の脚本に1年間かけて、観客に受ける要素を検討してつくることが、ごく普通に行われているそうですね。
確かにそうやってロジカルにつくられる作品に観客は「もう飽きてきた」という雰囲気も感じます。そうした状況の中で、ゴンゾはどのようなスタンスで作品をつくっていこうと考えているのでしょうか。
村濱:ビジネスの面で現実的にいうと、今のアニメーション市場におけるニッチの部分を拾っていかざるを得ないところは、どうしてもありますね。たくさんの提供料を使って、
ゴールデンタイムに放映される作品の制作にも挑戦したいと思ってはいるんですけど、我々の現状の力では無理なんです。ただ、できるだけ挑戦したいとは思っています。
現時点の我々は、「アニメーションに対して、強力な購入動機を持つお客さんがコアターゲットだ」と考えています。しかしできるだけ一般のお客さんにも受ける要素を、
一所懸命入れてつくっていくようにも努力しているんですよ。なぜかというと、先のアメリカの例のようにターゲットセグメントを絞れば絞るほど、やるべきことも絞られてしまって、
やがてどうしようもないことになっていく。もちろん中心となるお客さんを設定してつくりもしますが、しかしそこにターゲットを絞りきってしまわずに、同時に、「広く一般にも受け入れられるような要素を
入れていかなければならない」と考えているんです。『LASTEXILE』や『GADGUARD』などの作品でも、そういう意味で広く受け入れられる要素を、頑張って入れたつもりなんですよ。 Q:ある漫画家さんが、「アクション・スター、アホヅラ理論」というのを提唱しています。
それは「ハリウッドのアクション・スターである、アーノルド・シュワルツェネッガー、ウィル・スミス、ブルース・ウィリスなどを見渡すとみんなアホヅラである。
ゆえにアクション・スターというものはアホヅラでないといけない」というものなのですが、これは存外にエンターテインメントの本質をついている気がします。娯楽作品は美男子一辺倒で押し通すものではなく、
どこか抜けていたほうがいい。「カッコいい」ものをというよりも「カッチョいい」とでも申しましょうか。実はゴンゾの作品に対して、「非常にスタイリッシュでハンサムな作品」という先入観があったのですが、
実際に観ると必ずしも決してそのような芸風のみではありませんね。
村濱:一作ごとそれぞれに、「ゴンゾをいかに変えていくか」という、我々自身で我々を変革していく試みを行うように、常に心がけているんです。日々頑張って、努力しています。
しかし、いい意味で「ああゴンゾの作品だ」と、どの作品からも伝わってきますね。
それは私もちょっと不思議なところなんですけど(笑)。変えようと思っていても、いざ出来上がると「ゴンゾっぽいね」と、よく言われるんですよね。やっぱり演出さんたちにしろ誰にしろ、
ひとつ屋根の下で作品をつくっているからには「こういう美意識っていいよね」というカラーが、ある程度共有されているんでしょうね。 Q:そうしたスタイルの源流には、やはり村濱さんの趣味も自然と反映されているのではないかと思うのですが、そもそも学生時代はわりとカッコいい音楽が好きだったとか。
村濱:大学受験の前あたりに、またテレビを見始めたんですよ(笑)。そのときにたまたま出会ったのが『戦闘メカザブングル』というヤツ。この作品を観てものすごく驚いたんですよ。
私はアニメについては、まず子供が観るものだという先入観があって、なおかつフォーマットが決まっていて、最後の5分間でヒーローが戦って悪いヤツをやっつける。
そしてその場限りで話が終わって、次回からはなにごともなかったようにまた話が始まるものだと思い込んでいたんですけど、でも『ザブングル』を観て、それがくつがえされた。
「わっ、これはSFだ。アニメってこんなことができるんだ、すごい」と感じたんですよ。
それからアニメが気になりだして、『聖戦士ダンバイン』とか、『装甲騎兵ボトムズ』だとか、そのあたりは全部観ました。
そういう土台があったところで追手門学院大学に入学して、SF研究会に入ったんですよ。「SFとかが好きなんですけど、なにかいいサークルはありませんかね」と聞いて、勧められたのがSF研究会でした。
そうしたらそこが、DAICON3やDAICON4の運営主体、「関西学生SF研究会連盟」の主力SF研のひとつで、DAICONFILMの人員供給源だったんです。
ほかには、大阪大学や近畿大学や、大阪芸術大学が人員の供給元でした。ガイナックスってけっこう、学閥があるんですよね。
って、もちろん冗談ですけど、そう言うと信じる人が出るくらいに、クリエイティブ面は大阪芸大と東京造形大で固めていて、経営とかプロデュース面は近畿大学と追手門学院大が固めていました(笑)。
私も、DAICONの活動が楽しそうだったので、まあ参加して。学校の単位をほったらかしてそっちのほうに熱中してしまいまして。そこに自分でもできることがあったんですよ。
だから活動がものすごく面白かった。 Q:DAICONFILMの特撮大作『八岐之大蛇の逆襲』では、巨大な塔や、戦車を細かいディテールに至るまでほぼ村濱さんの独力でつくり上げてしまったそうですね。
村濱:それはちょっと違いますね。戦車では、細かいところばかりつくっていたら、私の進行があまりにも遅いので、今のガイナックスの神村靖宏さんにパッと取り上げられてしまった(笑)。
それで神村さんから返ってきたらもう全体の形ができていました。でもそれからまた私は、細かいディテールアップに取り組んで。
それと、皆生温泉という温泉が米子にあるんですけど、そこのビルをつくって、それを爆発させました。
しかし8ミリで撮影しているので、瓦がふっとぶところなど細かい部分は、映りづらいんですよ。当時、ソニーのベータマックスかなにかのビデオの箱で銀色のものがあったんですよね。
その箱を細かく切って屋根の上に散らばらせてみたら、爆発のとき光をキラキラ反射させながら飛び散って良かったですよ。そんな感じでいろいろ工夫していました。
村濱、東京に行かへんか
Q:「ラジエーターのスリットを一枚一枚プラ板でつくるという、気の遠くなるような作業を行って周囲を驚かせた」という証言を聞いたことがあります。
村濱:むしろ当時は、ディテールなど細かいことはできるんですけど、大きな、全体に関することはできないという自分にすごく驚いていましたね。 Q:その頃に映画を監督しようとか、脚本を書こうなどと思ったことはありませんでしたか。
村濱:夢的にはありましたけど、それは思いもよらないことでした。当時の私のまわりにいた人というと、庵野秀明さん、赤井孝美さん、山賀博之さん、樋口真嗣さんというような、
優れた表現者としての才能を持つ人たちばかりなわけですよ。そんな環境で自分がなにをすればいいんですか。
「こういったものでご飯を食べられるといいな」とは感じていたんですけど、メディアの世界で活躍するプロフェッショナルな人って、そのときの自分にしてみれば雲の上の人、
「まったく自分とはかけはなれたスキルを持ったすごい人たちだ」と思い込んでいました。でも今考えると、そんなふうに最高の人たちと、若い時分に知り合えたのはすごくハッピーなことでしたね。
ただ、作品をつくる上で、クリエイティブな才能はもちろん大切ですが、プロデュースする才能も同じように大切なのだろうと思うのですが。
しかし当時はプロデューサーってなにをする人なのか、よく知らなかったですね。とにかく自分の居場所を見つけようと思って、誰かがやらないことで、
自分が得意そうなことを見つけては一所懸命やっていた。そうしているうちにガイナックスの武田康廣さん―当時はまだゼネラルプロダクツですけど―から電話がかかってきて
「村濱、東京に行かへんか」と誘われたんですよ。「『王立』の制作進行をやらないか」と。 Q:「オロチ」の制作が終わった後ですね。
村濱:こちらはその場で「あ、行きます」と、答えました。即答です。プロの世界への入り口が見つかったんですよ。
「自分なんかには絶対無理だ」「声なんかかからないだろう」と思っていましたから「これは逃がしたらあかん」と思いました。
「考えます」とか言っているうちにほかの人が行くことになったら困るので、即答で「行きます」と返事したんです。で、すぐ親に話して大学を休学して東京に出ました。
なぜ、あのときに私に声がかかったのか、よくわからないんですよね(笑)。ガイナックスの人たちも、ほかの人には「さすがに大学をやめさせるのはどうか」と、躊躇したのかもしれません。
そのあたりはよくわからないけども、私にとっては千載一遇のチャンスでした。ガイナックスさんが自分を制作進行として使おうと考えなかったら、今の自分もなかった。
だからお世辞とかそういうのは抜きで、ガイナックスさんには本当に感謝しています。 Q:「オロチ」の制作が終わった後ですね。
村濱:こちらはその場で「あ、行きます」と、答えました。即答です。プロの世界への入り口が見つかったんですよ。
「自分なんかには絶対無理だ」「声なんかかからないだろう」と思っていましたから「これは逃がしたらあかん」と思いました。
「考えます」とか言っているうちにほかの人が行くことになったら困るので、即答で「行きます」と返事したんです。で、すぐ親に話して大学を休学して東京に出ました。
なぜ、あのときに私に声がかかったのか、よくわからないんですよね(笑)。ガイナックスの人たちも、ほかの人には「さすがに大学をやめさせるのはどうか」と、躊躇したのかもしれません。
そのあたりはよくわからないけども、私にとっては千載一遇のチャンスでした。ガイナックスさんが自分を制作進行として使おうと考えなかったら、今の自分もなかった。
だからお世辞とかそういうのは抜きで、ガイナックスさんには本当に感謝しています。 p284-p286 村濱章司 オネアミス制作進行へ
Q:「王立宇宙軍」のスタッフからは、その後長く活躍するクリエーターが輩出されていますが、村濱さんのようなプロデューサーの才能をも擁していた、というのが面白いですね。
村濱:「王立」で担当した制作進行という仕事は、アニメーションのカットなどを円滑に次のプロセスに運んで、アニメーターさんに画を上げてもらって、
それを回収してまた次のプロセスに正しい形で渡して、その進行状況を記録していく仕事なんですよ。最初はただ運転手みたいな感じで、うろうろしていました。
しかしだんだんデータベースなんかを活用して、どうしたら効率よく物事が進むかと考えるようになりましたけど、まあ、いちばんいいやり方をとっていたとはあまり思えないです。
でも当時のガイナックスの方針として、すでに自分のやり方を持っているプロフェッショナルな人というのは、スタッフとしてあまり入れなかったんじゃないかなあ。
あのころのガイナックスには「自分たちのやり方でやる。自分たちで方法も決めるし、自分たちでつくる」という風土が、あったような気がします。
だから私も、自分なりに一所懸命考えて、解決していくしかなかったんですよ。「王立」という作品そのものについては、制作進行という下働きしかやっていないんで私にはなにも言えませんが。
ただ、あの時代には特徴があってですね。『宇宙戦艦ヤマト』でアニメファンになって、『機動戦士ガンダム」で、プラモを買ったりしてアニメにお金を使うようになって、
『超時空要塞マクロス』)で業界に入ったという世代の塊が、あの時期から、アニメを自分たちのものとして、自分たちで考えてつくりだした。
あくまでも全体としての印象の話ですけど、それまでのアニメは仕事として「ああしなさい、こうしなさい」と、既存の制約に縛られながらつくられるものだった。 しかし、世代が変わって「マニアの人たちが、マニアの人たちのために優れた作品をつくる」というと怒られるのかもしれないですけど、「自分たちと同じような人のために、
自分たちが満足のいくやり方で作品を提供する」という時代が来た。そういう感覚を共有していた時代だったように思います。
アニメに対する一種の思想的な基盤が芽生えて、ガイナックスはその集積率が高かったんですよね。
前後数年のズレはありますけど、あの当時、アニメの世界ではけっこういろんなことが変わっているんですよ。
ガイナックスもそうですが、プロダクションIGさんやジブリさんが生まれたのもあの時期ですし、ほかにもいくつもの制作会社が設立されています。
Q:村濱さんがかつて在籍したガイナックスは、クリエーター主体の会社というか、むしろクリエーターが制作サイド、プロデューサーの役割を兼ねてしまう会社というイメージがありますね。
村濱:ガイナックスは、制作に携わる人材を系統立てて育てていなかったかもしれないですね。自分も制作について基本から教わっていなかったので、誰かを育てることなんてできなかったですし。
今にして思えば、後継者を育てていなかったのは、ちょっと申し訳ないと思います。 Q:間違っていると申し訳ないのですが、村濱さんはガイナックスから独立した当時、「プロデューサーとして世に出るためには、優れたクリエーターが会社を引っ張るガイナックスを離れたほうがいい」と
考えたのではないかと想像していたのですが。
村濱:「プロデューサーになりたい」とは考えていましたけど。と言いますのは、制作進行としてこの業界に入った人間のキャリアアッププランとして、
アシスタントプロデューサーを経てプロデューサーになるという、きれいな道筋があるわけですよ。人によっては途中で演出さんになられる場合もあるんですけど。
自分は絵が描けないですし、演出をやれるようなクリエイティブな人間とも思えなかったので、「やはり目指すならプロデューサーなのかな」と考えていました。
「プロデューサーになって自分がつくりたいと思う作品をつくりたい、いい作品をつくりたい」という目標はあって、まあ一応、そちらに向かって一所懸命に進んでいったわけですけど、
でも、辞めた当時に、自分の会社をつくって社長になるなんていうことは、夢にも想像していませんでしたよ。なおかつこんなにたくさんの作品をつくることになるとは!流れ流れて現在にいたっています。 Q:制作作品数や社員の数でいうと、古巣よりもすっかり大きくなってしまいましたね。
村濱:今となってはそうですね。でも映像の世界への影響力では、まだまだ学ぶところが多いです。
私が独立した当時はまだ28歳。プロデューサーになるどころか、まずはなんとか食っていかないと、という状況でした。まずフリーランスで制作進行をやって。
辞めた瞬間には、「そもそも自分はアニメを続けるべきなのかどうか」と迷っていました。危なかったですよ。もしかするとあのときにアニメを辞めてしまっていたかもしれない。
「アニメでなにがなんでもメシを食うんだ」という心境ではなかったわけですか。
むしろ「アニメでは食えない」ってことが、もうわかっていたんですよ(笑)。ただ私は、物事を決めるのにあんまり時間がかからない性格なんです。
あのときも、たぶん4日ぐらい悩んだような気がするんですけど、でも「じゃあなにかほかのことができんのか」って考えると、なにもできない自分にすぐ気がつきました。
「だったらアニメをやるしかない」と考え直して、それでフリーのプロデューサーというか、制作進行として仕事をしていたんですよ。
そうしていたら樋口真嗣、前田真宏、山口宏の3人から、「刺激とコラボレーションができる場所がほしいんだ。でもコピー機とかファックスを買ったりする作業は嫌だ。おまえが買え」と
声がかかったんです(笑)。あれは樋口真嗣にかなあ、「村濱だったらできると思うんだ」と言われまして。こちらも「じゃあ、僕でよければやらせていただきます」という感じでした。
2004年3月 GDHにて取材 という事にしたい自演バレバレな荒らしX68ユーザーであったw もし5年間クロック向上以外の変更なしで通用するマシンにするなら
CPUは68020、スプライトパターンRAMは64KB、スプライトサイズは最大32×32、ADPCMは4音(独立音量付)でスタートしなければならなかった
しかしコスト的に無理であろう
つまり激動のコンピュータ界で5年通用するマシン等無理なのである CPU性能が低い時代の策だからそう言いなさんな
ただ、そのせいでアーケードの移植マシンで終わってしまったのは事実 X68000の性能を活かしたオリジナルソフトって何かある?
メガドライブやPCエンジンで不可能なやつ アクション系のエロゲかな
98でできない動きの
D.O.とか作ってたよ >>954
移植不可能なソフトって、高解像度必須のビジネスソフトぐらいでしょ。
ゲームはそのままでは無理でもアレンジすればどれでも行けるぐらいの性能差しかないし。 >>952
あの時代はCPUだけでなくメモリも遅かったからスプライトがないと60フレームで滑らかに動くゲームが作れない
メモリが高速になって全フレームバッファ描画で60fps出せるようになるのはプレステやサターン時代になってからだ
つまり1994年だな ○○可能だった!とか後知恵バイアス全開で語るアホにはうんざりだわ 足りなかったものって後知恵で振り返ってるスレで言われても PCエンジンで存在意義が揺らぎ、メガドライブでトドメを刺されたって感じ
高いだけでアーケードの移植くらいしか取り柄がない
しかもコピー天国w TOWNS太郎が今更矛先反らしで他の機種を持ち出しても正体バレてんだよ PC-98相手に勝ち目がないと思い知らされて、昔ボロボロに負けてるのにTOWNS相手に喧嘩を売り始めるキチガイX68ユーザであったw >>963
TOWNSユーザー「('A`)ソーナンダーヨカッタネー」 コピーは98の方が遥かに酷かった
当時サードウェーブが入ってたビルの近くのビルの一室で玲於奈を入れた98を3台ほど置いて
98のソフトを有料でコピーさせてた店があったけど、68でそんな店見た事無い という事にしたい、ピーコしまくっていた犯罪者X68ユーザーであったw きょうもはってみる
庵野秀明 1960年 山口県宇部市生まれ。
大阪芸術大学在学中、同級生であった赤井孝美氏、山賀博之氏らとともに第20回日本SF大会(通称「DAICON3」)のオープニングアニメ制作に参加、
その後、テレビシリーズ『超時空要塞マクロス』('82)を皮切りにプロの世界に身を投じる。
宮崎駿監督「風の谷のナウシカ('84)、山賀博之監督『王立宇宙軍オネアミスの翼』('87)ではアニメーターとして世界最高水準の技量を発揮。
世界最高水準のアニメーター、そして先鋭的な演出家
庵野秀明氏は、その仕事が広く注目される映像作家である。庵野氏のキャリアは1981年に学生が中心となって主催した第2回日本SF大会「DAICON3」のオープニングアニメーションより始まった。
このアニメの打ち合わせの際、庵野氏が喫茶店でさらさらとパワードスーツを作画し、それをパラパラ動かしてみせたというエピソードは伝説となっている。
庵野氏、そして当時、庵野氏の同級生であった赤井孝美氏、山賀博之氏らが中心となって制作したアニメーションは喝采をもって迎えられ、その技量はプロの注目をも集めることとなった。
庵野氏はその後、アニメーターとしてプロの世界で活動するようになる。この時期はまた、日本においていわゆるオタク文化が産声を上げた時代でもあった。
80年代の中盤、庵野氏は河森正治監督『超時空要塞マクロス愛・おぼえていますか』、宮崎駿監督『風の谷のナウシカ』などの作品に参加し、その技量を発揮する。『マクロス』で氏が描いたメカは、
そのカッコよさでファンの心をつかみ、「ナウシカ」では「巨神兵」の壮絶な作画で一躍プロの世界でも名を馳せた。1987年に公開された山賀博之監督の『王立宇宙軍オネアミスの翼』では、
貞本義行氏とともに作画監督を担当。庵野氏作画による物語のクライマックス、ロケットの発射場面は、日本のアニメーション史に残るシーンとなった。
この時期、庵野氏はメカの戦闘シーンや爆発を描くことにかけて、間違いなく世界最高のアニメーターだった。
文:堀田純司 ガイナックスインタビューズ p58より p60- 庵野秀明
Q:2004年でガイナックスは設立20周年を迎えますが、この期間については長かったでしょうか。短かったでしょうか。
庵野:長いのでしょうけど、なにか短い感じがしますね。
Q:映像の世界に入ったきっかけは1981年に開催された日本SF大会、「DAICON3」のオープニングアニメを制作したこと、と考えてよいでしょうか。
庵野:結果的にはそうですね。それが、そもそものキッカケです。
Q:後の1987年に『王立宇宙軍オネアミスの翼』を監督することになる山賀博之さんは、DAICON3の当時、プロになるためのプレゼンテーションという前提でオープニングアニメを
制作していたという意識だったそうですが、それは庵野さんも同様でしたか。
庵野:それは山賀だけじゃないですかね。僕はあまりプロになろうとは考えていなかったし、プロという言葉にもあまりいいイメージがなかったし。趣味の延長でやっていて、それでご飯が食べられるのなら、
それでいいやというぐらいの感覚でした。
Q:絵を描くという技巧を持つ人の感性は、描けない人間にとって計り知れないところがあります。たとえば漫画家でも「この画を描くのを楽しみにしていた」「この画なら描いてみたい」という発言をするでしょう。
そうした楽しさが仕事の原動力なのでしょうか。
庵野:仕事になってしまうとそんなに楽しいという感覚はないですね。楽しさというより、面白さですね。 Q:現代の日本の文化として「世界に誇る代表的なコンテンツ産業」などと語られることが多いですが。
庵野:それは世界において、日本がアニメを独占しているだけだと思います。週間ペースでアニメをこんなに量産できる方法論と余裕を持っている国は日本だけですから。
アメリカですら、もう難しくなってると思います。ほかにライバルがいなければ、世界に誇れるのは必定ではないかと。世間や官が、アニメをどれほど理解して真に評価しているかは、甚だ疑問が残りますね。
不況だとはいわれますけど、日本は物理的に時間的に経済的に豊かだから、アニメーションを今でもこんなに量産できるんだと思います。しかし、精神的には豊かだとはあまり思えない。
それよりも、民度が低いとか、見方が幼稚であるとか、トータルで子供っぽいですよね、この国は。それは当然、僕も含めてですけど。
東京の街の景観をチラッと見ても、この国の文化的なレベルはこれか、とわかりますね。最近の建築物には美意識なんてものはなく、ただ経済や物流の効率のみの、単一目的で街を造ってます。
この頃ようやく、景観や情緒を大事にしようという動きが世間に出てくるようになりましたけど、それはいいことだと思います。
もちろんこの国でつくられるすべての作品が、稚拙だというわけではありません。どれだけの確率かはわからないですけど、良いものもあると思います。僕が言っているのは一般論です。
99%、まあ言ってしまえばクズみたいなものがあって、その上で1%の良いものがあるというバランスで、文化は成り立っていると思いますから。それはアニメに限らず、すべてに言えると思います。 けど残念ながら、その良いものを、自分の感性で感じて判断できる人があまりに少ないと思います。ちゃんと良いものを感じられる人に限って、あまり声に出さないんですね。
だから偏った言葉だけが、閉じた世界にはびこってしまう。僕もなにかその事態を糾弾しようとか考えているわけではないです。ただ「それを現実として認識しようよ」とは、思うんですよ。
この国の文化はあまりに貧しい。しかし誰もそれを言わずにごまかしているから、自分は口に出したほうがいいだろうと。言葉の演出上、挑発的にとられるだけかもしれませんが、
「これは常に誰かが言い続けてないといかんかなあ」と感じます。この国の文化の現状は実際にはこういうものなんだということを認識した上で、ものごとは進めたほうがいいと思いますから。
僕自身が少なくとも感覚的に理解できるのは戦後でしかないので、それ以前のことは知識でしかない。だから僕が言うのは戦後、もしくはこの数十年の状況についてなんですけど。
この国が育てているのはオタクであって、芸術家ではないという感じがしますね。この国に今あるのは芸術ではなく、オタク文化だと思います。オタクはものすごい勢いで量産されていると感じます。
しかしいわゆる芸術の人はそんなに今いないんじゃないですかね。なんか現代美術もオタク化していますし。マンガやアニメっぽい方向に流れつつある感じがします。
メインカルチャーというか主たるものがきちんと存在した上で、アニメみたいなものが共存共栄という形でサブとしてある、というのが本来の姿のような気がするんですよ。
今はメインのほうがパッタリとなくなって、みんなサプになってしまった。そのサブの中でもちょっと目立って大きめなアニメがものすごく肥大化して見えているのが、現状なんじゃないかと思います。
なにかアニメも、一昔前の経済的なバブルに似た状況にあると、今感じますね。アニメバブルですかね。
Q:庵野さん自身がメインになる、とは考えないわけでしょうか。
庵野:ええ。メインになるのは自分じゃないとは思いますよ。僕はその脇で好きなことをやりたいと思いますね。僕がやっているのはあくまでも観客に対するサービスの延長でしかないんです。
この仕事はサービス業ですから。 Q:そもそもメインのものとは、どういうものなのでしょう。
庵野:メイン。なんだろう。どっしりとしてきちんと構えているようなものですよね。むしろそれがあるからみんなが安心して違うことができるような。
1960年代以降はカウンターカルチャーしかなかったと思うんですよ。なにかがあって、それに反発して、結局その反発したものに対するまた反発。この繰り返しでしかなかった。
今はその反発すべきものすらなくなっているので、創作行為はリサイクルとコピーコラージュみたいなものでしかなくなってしまった。今つくられているものはコピーペーストによるものだけですよね。
これはもうしようがないと思っていますけど。人ひとりが持っているポテンシャルがここまで低くなって、こんなに情報だけ増えた今では、コピーペーストぐらいしか出てこないんでしょうね。
いつかはこうした状況も、今の日本の社会的な状況も含めて、変わっていくとは思うんですけどね。 Q:しかし不思議なもので、日本のものと寸分たがわぬオタク精神が、今、世界に広がっていますね。
庵野:オタクはもう万国共通だと感じます。ヨーロッパでも韓国でも台湾でも香港でもアメリカでも、オタクは本当に変わらないですね。これはすごいと思います。
オタクに対して非難めいたことを言っているようですけど、否定してるわけじゃないんですよ。単に「一歩ひいて見たらこうなんだ」ってことを自覚しようと言っているだけです。
自覚して現状を認識した上で、確信犯的にやっている分にはまったくいいと思うんですよ。ただ社会と断絶してまでのめり込むのは、いかがなものかと感じるだけで。
僕も社会に参加することの素晴らしさなんてわかりませんからね。だから「オタク的なものをやめてもっと社会的になろうよ」とまで呼びかける気はないんですよ。
ただ、世界にはほかに面白いものはたくさんあるし、拒絶することはないと思うだけです。
けど、オタク以外の人からオタクを非難されると腹が立ちますね。「うるさいバカ」と思います。なにもわかってないくせにと(笑)。実際わかってないような人が、本当にいっぱいいますからね。
そういう人たちにアレコレ言われるまでもなく、そんなことはわかってるんですよ。なにを言われても「今更」って感じがします。でもそういった批判はまだマシなほうで、完全に的外れな発言のほうが多いですけど。
理解しようともしていない人が偉そうにオタクについて語ってたりしていると、本当に頭が悪い人だなと思います。 意味も分からないし、どっちに対しての嫌がらせかも分からない どうみてもX68ユーザが、「X68のことを良く言わない=嘘をつかない」ことに腹を立てての長文コピペで嫌がらせしてるだけでしょ。 自分のPCエンジン25000円はノーメンテナンスではいまだに故障せず元気だけど
X68はメンテしてないと腐ってるでしょ?50万円もするのに >>979
お前しかわからねーよアスペ
全文読んで解釈しようなんて一人もおらんから X68は高解像度モードの画面のピクセル数、低解像度モードの同時発色数以外はPC-98にぼろ負けしていると指摘され、反論()が封じられててからのスレ違いな書込みを連続する荒らしが無視されてからの長文コピペ荒らしだからな。
どう見てもX68ユーザがファビョってるのがまるわかりだよw 初代機作って満足したのか力尽きちゃって、ACE以降は蛇足でしかない
改良すべき所は沢山あったのにな 初代機は めちゃめちゃ輝いていた、
心踊る物があった。 >>983
下手に改良するとturboZみたいなスペック詐欺が生まれるからな 最低限のCPUの高速化だけやってたPC-98は叩かれるのに、それすらサボったX68を叩けないわけがない。 初代は8MHzで良かった
次のACEで16進数のA(=10)と掛けて10MHzで出せば良かった モニタに3つも周波数が必要ってクソ仕様をさっさと改めるべきだったな きょうもはってみる
Q:庵野さんは学生時代に漫画を描いたこともあるそうですが、ひとりで作品をつくるのは結構つらいものでしょうか。
庵野:ひとりでつくるのが別につらいってことはないですけど......、面白くないんですよ。ひとりでつくったほうがストレスは絶対に少ないと思います。
けど、ただひとりでつくってそれで面白いモノがあがるかっていうと、僕は無理ですね。
僕ひとりの持つイメージってたいしたことないんですよ。僕がひとりでアニメをつくっても面白いモノになるとは思えないんです。
だから集団のほうがいい。ひとりよりはふたり、ふたりより3人のほうがいい。それだけ面白いモノになる確率が増えるんです。
Q:1983年に制作された『DAICONFILM版帰ってきたウルトラマン』では、制作終盤で監督の庵野さんが現場を離れ、そのあと赤井孝美さんが作品を仕上げたそうですね。
その際、赤井さんが完成させた作品を観て庵野さんは赤井さんに大感謝したと聞きますが、率直に言ってとても「いいな」と感じます。
作品がどうなろうと「自分がやったのでなければもう観たくもない」と感じるのも創作の世界では自然なことだと思いますし、そうしたこだわりもそれはそれでアリな気がしますが。
庵野:自分の至らなさから制作途中で監督を降ろされてしまって、その後の作業はすべて赤井君がやってくれました。完成まで持っていってもらえたのは、すべて彼のおかげです。
完成したフィルムを東京の上映会で初めて観たときは大泣きしてしまいました。ホント、感謝しています。あと、結果論ですけどあの作品では、編集と音は僕がやらないほうがよかったと感じます。
自分がやっていたらあれだけの作品にはなっていなかった。それもよかったと思います 思いどおりにならないから実写は面白い
Q:アニメや漫画では一応、画面に現れるものすべてにイメージを持たなければなりませんが。
庵野:アニメや漫画はイメージの具現化が基本になってますので。頭の中にあるものをいかに形にするかですよね。そのための方法だし技術だと思います。
自分の思いどおりにつくるんだったらアニメをやったほうが絶対にいいですね。今の映像制作のシステムの中ではアニメがいちばんそれに適していると思います。ただ僕はそのシステムでずっと長くやってきたので、
今は思いどおりにならないもののほうがいいと感じるんですよ。「思惑とぜんぜん違う」という部分を「どうしよう」と考える過程を含めて、面白いですね。 Q:しかし庵野さんの実写作品を拝見すると、「この人は現実に息づいている人間を映像として定着させる気はないんだ!」と感じるのですが......。
この印象が正しければ、相当役者さんの演技を制御しようとしているのではないかと考えていました。
庵野:役者さんの制御は、ほとんどしていないですよ。演技指導って嫌いなんですよね。しなきゃいけないときには仕方なくやりますけど。基本的にはその人のやりたいようにやってもらっています。
『ラブ&ポップ』では、特にそうでした。言葉は悪いですけど、放し飼いでしたね。女子高生をカメラの前に置いて、そこで自由にやってもらって、欲しいところだけ切り取って編集しました。
基本的には台本は無視していいと。「この言葉とこの言葉が入っていれば、後は自分の言い回しに変えていいよ」という方針でやってもらったんです。そのほうがよりリアルかなと。
それだと妙につくり込まなくて済みますからね。あの作品にいた4人の女の子は現役の女子高生ですから、その子たちがやっていることはすでに本物なんですよ。それで充分ですよね。
僕らみたいなおじさんが、余計な介入をしないほうがいいんじゃないかと。『ラブ&ポップ』では120時間以上、カメラを回しています。その中から必要なものを2時間弱、110分だけ選んで作品に入れているわけです。
その過程でどうしても監督の意図みたいなものは入ってきます。それに僕はどうもないものねだりというか、アニメをやっているときは生っぽいものに憧れて、実写をやっていると、
やっぱり生っぽいものを切り捨てようとしてしまいますよね。僕の生理的なものだと思うのですが、必要以上に生っぽいものはいらないと考えてしまうんです。
自分でも妙なんですけど。そういうところを特に感じれば「現実の人間を定着させる気はない」という感想も出てくるのだろうと思います。
『式日』では芝居そのものは、もう役者さんたちにおまかせしているんですけど、カメラだけはものすごくコントロールしています。
決められた場所にカメラを持っていってカメラ位置や画面の切り方とか実景とかにはこだわる。つまり絵にこだわる。そこはフェチっぽい感じがすると思いますが。 実感を持ってものを考えられる範囲
Q:アニメから実写への移行は庵野さんの中では特に意識することではなく、ごく自然に行っていることなのですね。
庵野:アニメにしても実写にしても、僕から見れば現場が違うだけで、つくり方自体はそんなに違う感じはないんですよ。基本的にどちらも同じで、映画をつくっていて自分が気をつけることといえば、
客がどうやったら寝ないで済むかということだけです。それだけですね。お客さんが30分なら30分、2時間なら2時間の間に椅子が痛いなあと、どうやったら思わないだろうかとか、どうやったら寝ないだろうかとか。
フィルムをつくりながら考えてるのはそこです。
緩急とかそういうものですね。人間がひとつのことをやり続けることができるのは3分が限度らしいんです。だから5分間授業をして、その後5分休むという学校の授業サイクルが人間にはいちばん良くできているわけですよ。
人間の集中力はそうは続かない。だから始まって5分でこれぐらいの情報を提示して5分くらいでこんなもので、そろそろ飽きたかな、眠いかなというところで目の覚めるようなものを入れる。
それは編集の段階でも考えますけど。そうした作品の大きな流れにいちばん気を使うようにしています。 Q:そうした発想は言語化して、誰かに伝えることができて、しかもそれをきちんとマスターした人は誰でも80点くらいまでは行けるというものなのでしょうか。
庵野:理屈ではやってないんですよ。理屈っぽくつくっているように見られがちですけど。根拠になるものはほとんど雰囲気とか気分とかそうしたあいまいなものですね。
自分の中で持っているそういった感じは大切にしようとしています。セリフにしてもカットのつながりにしても、「なんかこれ違うな」という違和感を外していくんですよ。
自分で見ていて、「ここでこういうものが来てほしい」という感覚的なものですね。
発想のとっかかりは、こういう画をやりたいとか、こういうシチュエーションを描いてみたいとか、そうしたヴィジュアルイメージであることが多いです。スタートはそんな他愛もないものですよ。
ただいちばん最初にやりたかったものって結果として、早々にどこかへ行ってしまうんです。「これいちばんやりたかったのに」というところも(笑)、シナリオとかの段階でどうしても入んなかったりして、
なぜか消えてなくなってますね。
結局、自分の好きなものってそんなに幅がないんで。結果として写っているものはたいてい似通ってきちゃいますよね。映画1本の中で、8割9割はやっぱり自分の好きなものを入れていると思います。
自分の好みじゃないものが写っても外しちゃうんですよね。ただ残りの1割2割、今回これが新たに好きになりましたとか、スタッフが好きなものを入れるようにしています。
Q:1割2割入れていこうとするのは結構大変な量ですね。
庵野:それくらいはあるかなと思うんです。ただそれは僕の感覚的なもので、お客さんから見れば一緒かもしれないですが。ここは今までと同じですけど、ここだけ違いますというものがどこかにないと、
つくっていて自分が面白くないんですよ。永遠に同じものをつくることができれば、それはそれでいいんですけど、どうもまだできないですね。そのうちにできるようになるかもしれないですけど、
今はそうはいかないですね。自分が飽きっぽいのもあるんでしょうね。あまり同じテイストでつくりたくはないです。 Q:漫画でも描いてみたい1枚の絵や、キャラクターのイメージから作品全体を逆算して発想するというやり方はよくあるそうですが、その一方で、
「そもそも今なにを映像は訴えるべきか」というあたりから発想していく方法もあるかと思います。こうしたやり方を採ってみようと考えたりはするのでしょうか。
庵野:自分には無理ですよね。人間、できることとできないことがありますので、そういう方法論を採ることは可能なんですけど、自分にはそのやり方では面白いものをつくれないと思います。
そういうやり方でつくって出来上がったものがつまらなければ、あまり意味をなさない気がするんですよ。それは本末転倒であろうと。
僕の場合、社会の状況まで視野に入れてものを考えることはないです。社会の状況というよりも、自分が暮らしている環境ですね。日本の国政がどうとか、アメリカとイラクが戦争するとかっていう話は、
僕にとってはテレビや新聞とかインターネットを通してやってくるただの情報でしかない。それは僕がいる環境のかなり外側にあるものではあるんですけど、そこには僕の実感はまるで手が届かない。
そりゃあ140億光年の宇宙の果てよりは身近に感じますけど、感覚的にはそう変わらないですね。自分の環境とは、自分の手の届くところ、自分の見えるところ、自分が実感を持って理解できるところまでだと思いますが、
その環境の中で「こっちのほうがいい」とか、「こっちのほうが面白そうだ」とか判断しています。アンテナを広範囲に拡げれば、日本語文化圏全体までは実感を持って考えることができるでしょうが。
常に世界から間接的な影響は受けてはいますけど、自分の環境の外のことはもう、わからないです。 Q:ゲームもプレイなさるのですか。
庵野:今はもうゲームはぜんぜんやってないですけど、以前「今はとにかく『ドラクエ』をやらなきゃだめだ」と友人らが言うので借りてやったんですよ。そうしたらさっぱりわからなくて、とにかく攻略本を見ながらプレイしました(笑)。
ゲーム中に無駄なことをするのが嫌いなんです。そこでストレスがたまるのが嫌でしたね。攻略本に載ってる「ラスボスを倒すには経験値がいくつ必要」というのをクリアして、しかもその2倍ぐらいまでいってないと、
ラスボスの前に行かなかったです。確実に殺せるというところまでいって、倒してました。で、何本かやると、なるほどこういうものがロールプレイングなんだってある程度わかったから、もうやらなくなりました。 Q:ゲームはやったかいありましたか?
庵野:ゲームをやる人の気持ちが少しわかりました。あと、自分はこういうものはやらないんだっていうことがわかりました(笑)。「ちょっとゲームを好きになってみよう」という気持ちはあったんですけど、
自分の中であまり好きになれなかったです。ひとりで遊ぶゲームのシステムを楽しめなかったんですね。そんな自分でも、ハマったゲームは「スーパーロボット大戦」シリーズですね。
でもあれはゲームが好きというよりも、ゲーム制作者の気持ちに対する共感とか、登場するロボットそのもの、オリジナルの作品への思い入れとか、そういう部分で好きでしたから。
あとは麻雀ゲームくらいですね。ちょっとした時間つぶしにやってました。それももうぜんぜんやってないですけど。
Q:「スーパーロボット大戦」に「エヴァンゲリオン」を出すんだとおっしゃっていたそうですね。実現しましたが。
庵野:切望していたので、あれはうれしかったです。最近は仲間にいれてもらえなくて、寂しいです(悲)。 Q:永井豪さんが『デビルマン』を執筆していらっしゃったとき、5分描いては横になって休み、5分描いては休みというのを繰り返すぐらいのテンションだったそうですが、『エヴァンゲリオン』でも、
やはりとんでもないテンションだったのではないでしょうか。
庵野:『エヴァ』のテレビシリーズでは、スケジュール的にも精神的にもどんどん余裕がなくなっていきました。そのうちにトリップしているというか、集団でイッちゃってるような感じになりましたね。
ああいう体験には、なかなかお目にかかれないです。ああいうギリギリで切羽詰まっている状態は、むしろ楽しかったですね。ものすごくハイになっていました。
ずっと脳内麻薬が延々と出っ放しになってたんじゃないでしょうかね、何ヵ月も。実際、そんな感じでした。
自分でも変なことしてるなと思いますね(笑)。スタッフも含めてそうでしたけど、「あのときはおかしなことやってるなぁ」と。たとえばアニメのキャラクターで、アイデンティティを確実に表現できる部分は、
キャラクターの持っている髪の形と色、それと声でしかないんですよ。第弐拾弐話でアスカの内面を映像化しているんですけど、現場にいた声優さん全員に、アスカの声を演じてもらった。
そして、その違う声のアスカを本来の宮村優子の声が否定しているという場面があるんです。やはりそういうのは、自分でもおかしいと思いますね。傍から見ると楽屋落ちにしか見えないと思います。
けど、当時はそういったマイナーなことまでやってました。自分のアニメの表現に対する疑問がかなり高まっていたんだと思います。セルアニメで人間の持つ生っぽさを表現できるのは結局、声というか音だけかと。
Q:庵野さん自身は、自分も体験してきたアニメ史に残る作品、「ヤマト」や「ガンダム」に「エヴァンゲリオン」は匹敵すると考えているのでしょうか?
庵野:いや、ぜんぜん。 Q:評論家的な物言いはいかんとは思うのですが、なんだか日本の創作にはなにか良くない流れがある。しかしその一方でなにか新しいものが生まれるんじゃないかという感覚も感じます。
庵野:それは閉塞感というか、息の詰まった感じが延々と続いてきていますから、そろそろなにか出てきてほしいという願望が感じさせるものでしょう(笑)。
ただこれは変な感覚ですけど、世界というものは人のイメージがつくるものだとなんとなく思います。だから「変われ」という願いが満ちてくれば、変わるんじゃないかとは感じます。
でもそれも日本という狭い地域での感覚でしかないでしょうけど。この頃では、ディテール偏重とか、テクニック重視とかが蔓延して表層的な見方しか、制作者も観客もできなくなっていると思います。
互いに本質を必要としなくなってきてるんですね。自分の考えた世界、内向した世界観での安定した遊びでしか、快楽を感じられなくなってきていると思います。
その同じような快楽の中で一生を過ごしたいんですね。変化を求めないんですよ。 Q:その世界を変える作品を俺がつくる、と思うのはそれこそ野心ではないでしょうか。
庵野:自分がやれればそれはそれでいいんですけど、そこまでは考えないですね。もし仮にそうなったとしてもそれは結果、そうなったということでしかない。「あっ、俺だったのか」というそういう感じですよ。
どんなアニメにしても映画にしても売れないよりは売れたほうがいいし、お客さんが入らないよりは入ったほうがいい。それと同じように、変わらないよりは変わったほうがいいですけどね。
もう自分がやらなきゃいかんとなれば別ですけど、自分が真っ先にといったこだわりはあんまりないです。とは言いながらも、この現状は打破したいですね。それは常に、わずかでも。
|2003年3月、ガイナックスにて取材。 このスレッドは1000を超えました。
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