日立ベーシックマスターシリーズ レベル11
今は亡き日立ベーシックマスターシリーズ の11スレ目です
前スレ
日立ベーシックマスターシリーズ レベル3 Mark6
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/i4004/1345048044/ >>361
後年の資料では、PC-8001立ち上げ時は汎用機グループの協力を得られなかったので、
テレビグループ(HEかな)の協力で作ったとありますね。
実はテレビの方もPC-6001を同時期に開発していて、後に統合されたとか。
ただ、ちゃんとしたプロジェクトで、お遊びという感じではないです。 >>365
考えてみれば、海外、というか、アメリカはベンチャーが作って出したPCが市場を席巻していったのに対して、
日本はほぼ終始大手企業主導で市場展開していったんだよねぇ。
大まかに言えば、いわば、こんなことができそうだぞと作ったものと、自社の半導体を売るために作ったものと…。 9801が凄すぎたからなぁ
画面の為だけに白いICを2個積むとかやりすぎでしょ PCがベンチャー???
IBMは当時既に大企業だーよ。社内ベンチャー()まで含むならベンチャーだけど。 日本で黎明期からのパソコンベンチャーといえばソードだけど
M5を出すまではスモールビジネスが最重点でマニア市場は気にしてなかった感じ
(芸夢狂人氏が最初に買ったのはM100だそうだが)
ベーシックマスターは対ユーザーの活動は頑張ってたみたいだけど
アスキーのレベル3のロードテストで外部バスの仕様をマニュアルに書いてないと苦言を呈されていたり
サードパーティーの力も借りて市場を形成するって考え方は薄かったんじゃないの
>>374
PC-8801がPC-8001由来のCRTCの画面とグラフィック画面とを合成しているのと
同じような構成にしようとしたら(そうしないとBASICの互換を取るのが果てしなく面倒になる)
自然とそうなったってことじゃないのかなー 372のいうPCはベンチャーのアップルやコモドールのことだろう。
当時日本で生きてたなら、PCがNECかIBMかパーソナルコンピューターか、注意深く読むのは当然の習性のはずだが。 >>374
GDCを二個も積んで
8086乗っけて
メモリーが 128KBってのは 化け物級のスペックだったよね
Cバスはアドレスバスが 20bit なぜか 86系ではあんまり必要性のない REQ/ACKも定義されていました
つまりは情勢によっては 68000も乗っけられるようになっていた(有名な話ですが・・・・・・)
地味だけど当時は超先進的なパソコンでした ゲームがまだ揃わなかったのでホビー向けには
しばらくそっぽ向かれたけどね 当時の ASCIIは NECIIと揶揄されていたから・・・・・・ PC-8001が出てくるまではコモドールが流行っていた
AppleIIは高価に過ぎたので お金持ちだけ
お医者さんとかがよく使っていた
システムズフォーミュレートは残念だった サードパーティーに盛り上げてもらおうって発想を強く打ち出したのは
PC-9801からかなぁ
それまではユーザーとフレンドリーになろうっていろいろペーパー出したり
ハムショップとかで催し物をやったりしていたけど
日立は日立製品の卸会社が定期的にイベントやったりしていた
でも高価だから 買ってね、とまでは言ってこなくて
持ってますと言ったら 逆に良くこんな高いもの持ってるね、とレベル3の時に言われた >>375
8ビットPCからの話をしててIBMが出てくる、って知ったかぶり丸出しよ キアヌ主演のジョン・ウィックにコモドール64が使われてた
コンチネンタルホテルのオーダー担当者が使う端末
「コード11-11-1、1時間後にウィック追放!」
2014年製作だから、既に骨董品だな
MZ-80シリーズはニュージランドで唯一販売されたPCなので現在でも熱狂的ユーザグループあるらしい
国策で海外PCの輸入が制限されてて唯一シャープだけが許されていたかららしい スレチになってしまうけど
MZ-80K/C良いよね
今、発売になったら買うよ
コモドールは PETがインパクトあった デカい重い 変なキーボード(MZ-80Kもそうだったけど) The PCは社内ベンチャーみたいな誕生をしたらしいよ
中心人物は飛行機事故で亡くなってしまった
ちなみに まただけど ベーシックマスター16000は The PC つまり IBM-PCの互換機でした
まんざらスレチでもないです
あまりにも早すぎたもくろみだった・・・・・・日立オリジナルのパソコンって、確かに凄い部分があるけど
徹底的に致命的に間抜けな部分や 後追いされたり 時代を読み切れない悲しさがあったよね
ベーシックマスターが滅んだ後 そのキーマンが今のスマホを当時の技術でデッカい筐体に詰めん込んだ
複合機を提案して発売したけど やっぱりダメだった 技術的には評価されたけどね 日立の失敗は、やっぱりレベル3で互換性を断ち切ってしまったことかな
なぜかMZも同じことするんだけどね
あと、ベーシックマスターと言いつつ、実質マシン語マスターにならなければ使いこなせないのもね
Jrの広告、ひどかったな;ぁ。「機械語重視の8ビット」ってどんなキャッチコピーやねん
初心者向けじゃないんかいw 日立はワークステーションでも毎回互換性断ち切ってたよね。
2050から3050、3050から3050RXかなにか。
下手に日立がシェア取ってたら回りとしてはやっかいだったかも。 NがマイクロソフトのBASICでヒットかまして
それでヨソがこぞってBASICをマイクロソフトにしちゃった被害を
最も大きく被ったのがこの日立ってことかな? >>389
そうなんだ
さ す が 日 立
ワークステーションでも迷走 S1が拾ってくれたら良かったかもね。
それ以降、フローラまでぱっとしなかった印象。 >>388
LEVEL 2系はjr.に互換性が引き継がれるじゃん レベル2というか初代が酷すぎて誰も見向きもしないという(笑) >>395
む!初代ユーザーだけど?
カセットI/Fのリレーは部品取り寄せて
自分で半田付けしたよ
Level2 ROMも取り寄せて自分で換装
DRAMも換装して32KBへ
酷いというか、マシン語の解説があまりにもおざなりなんだよ
ニーモニック対象表と簡単な説明、マシン語モニタの簡単な使い方
例として、INKEYルーチンが載ってた位
本体は、アームレスト部分の塗装が剥げて下地のアルミが剥き出しになったので、糊に大理石の粉混ぜた美術用パテ塗ってヤスリ掛けして補強した
毎日5時間以上操作してたからねー
雑誌ではBMは相手にされず、仲間も居ないから、全部自分の想像と工夫でなんとかするしかなかった時代 そんなやつらが集まって天下をとったのがベーマガだったの巻 2020とか2050とかHi-UXとか動かして1986年にしては野心的な作りやったんな 初代ベーシックマスターが発売された当初は
もっといーかげんなマイコンもたくさんあって面白かった >>396
凄いね
その点 Z80はシャープのテクニカルマニュアルの出来がものすごく良くて
MZ-80Kユーザーは本当にマシン語書くのに抵抗無い人多かった
PC-8001も恩恵を受けた口なのかな アルゴ船には本体回路図とかIOCSのソースコードも載ってたからねえ >>399
ソフト的にはアップルIIコンパチだけどフロッピーディスクドライブが繋がらなくてどうにもならないマシンがあったな。 >>402
オレンジという、パクりなのか相乗りなのか分からない無骨な筐体のが当時I/O広告ページに8万円位で載ってたのをよく覚えている
>>403
BMUG?なんだっけ?
Macユーザーズグループ?
Beep!メガドラ、じゃないな オレンジはsc/mpというどマイナーcpu使ってたな
やはりz80でないと売れないな H68/TRはあの当時に拡張性を考慮した設計だったんやな H68/TR用にもBASICが提供されてたよね
それがベーシックマスターシリーズ搭載のと関わりあったんだろうか BMUGはベーシックマスターユーザーズグループだろ BMUGなんて有ったのか!
当時も今も知らなんだ
何しろ情報が無くてね
日立GAINに聞いても知らんと言われるし 日立の方のベーシックマスタークラブとは別らしいね
クラブの方の会報は一つの号を除いてまだ持ってる HITAC-10なら学校で使ってた
すでに国立科学博物館に収蔵されてんのに
物持ちの良い学校やw
リレー式コンピュータがまだあった学校だからなー
(机代わりに使われてた)
そのおかげで、紙テープやテープR/W付きタイパーも使えた
歴史になったモノを使えたってことはある意味ラッキー 工場にまだある
>紙テープやテープR/W付きタイパー(NEC製)
もう使っていないけどね ベーシックマスターレベル3 mark5は和製Apple][と呼ばれていたとかなんとか ソフトの数は百分の1、いや千分の1もないかもだが。 8801、FM8よりはるかに扱いやすいマシンだったが
VRAMがメインメモリ兼用なのとドット単位で色を変えられないってのが致命傷だった
ノーウェイトVRAMが虚しい >>417
I/Oの速報記事でそう書かれていたような
実際は・・・・・・でも後で和製 IBM-PCになれたけどね
あと、グレープってのあったような ベーシックマスターの方がPC-8001より早く出たのに、アドバンテージを活かせないのは如何にも重電志向な日立流なんやな 日立評論の過去記事検索でも、2020や2050のことや半導体デバイスは頻繁に取り上げても、ベーシックマスターシリーズはホントにサラッとしか書かれて無くて泣ける >>416
専用電源12,000円が笑わせてくれる
>8色カラーBASIC
本体のガワが8色だったら更に笑わせてくれたのに
モノクロ表示BASICだったりして
8bit OSが3〜4万、FDD2台で35万円
恐ろしい時代だったね ベーシックマスターL2用にもFLEX販売されてたな
高過ぎて自分には非現実的だったが
専用電源や周辺機器が本体デザインと統一されてて未来的なのは良かった オプションが1万〜20万台でも、それを買えた時代やったんや… PC-8001は値段がまだ安かったからね
当時、レベル3の 298,000は異常な値付けだった
縁あって最初のロットのを買ってもらえたけど
流通途中で何度も箱から出して使われた痕跡があるわ
箱はボロボロだわでとても悲しかった
NECはそういうことは無かったと聞く キヤノンがだしたハンドヘルドのX-07っての新品で買ったのに、何故か音楽演奏プログラムが本体に保存されてたww
あまりに売れず、車載コンピューターとしての活路も上手くいかず消えていった可哀想なマシン
プリンタが4色ボールペンヘッドのX-Yプロッターしかないのが敗因だな
X-Yプロッターでプログラムリストを印刷させるもんじゃない MZ-731をdisるのは(`・д・´)コラ、ヤメタマエ!! 愛社精神は封印して6502使えば倍は速くなってたのに 無理に 6809使わないで Z80使っていれば良かったりして・・・・・・
当時は究極の 8bitプロセッサ 6809ってのが殺し文句だったからなぁ
レベル3が出た頃は もうザイログ(インテル)とモトローラに絞られてきていたから
6502は難しかっただろうなぁ 当時は愛好家も多かったけど 63C09も出してたしHD64180も出してたし
技術はあるのに80桁固定フルウェイトのバカマシンに完敗とは情けない OS-9をイチオシしてたけど
結局Z-80ボードだしたから完敗だね
OS-9はマルチユーザ、マルチタスクだ!
なんていってたが、マルチユーザで使ってた人いるのかね? 6502だったら、アップルやアタリ、コモドールの進んだソフトウェアが容易に移植できてバカ売れしたかも?? 米国は兎に角、マルチプランとかの表計算ソフト無いと売れない時代だったが
日本ではホビー色強かったから
ロータス1-2-3出た辺りから日本でも表計算ソフトが注目され始めたかな
Apple][ですら、表計算ソフトを作れ!と販売店から注文されたんだっけか >>日本ではビジカルク売ってなかったし
それが事実がどうかは知らないけど
同じ日本に住んでいながら知っている人もいる以上は
知らない人の勉強不足でしょう
見苦しい言い訳するな
>>Apple][ですら、表計算ソフトを作れ!と販売店から注文されたんだっけか
知ったかするな 一太郎のおかけで PC-9801勝利したよなぁ
Fでだいたい勝負が見えてきて Vmで確定したって感じ
B16触ったことあるけどいいパソコンでした でもホビー向けじゃ無かったし
S1も最後はパソコン通信で生き残ってましたっけ z80のパチモンは作ったのにpcには採用しなかった 日立もレベル3の時代から純正ソフトでBMカルクって表計算ソフトを用意していたから
それなりに需要があるって認識はしてたはず
レベル3マーク5にはカセットテープ版がおまけで付いてた
かなり遅かったしデータもそんなに入力できなかったから実用になったかはちょっと疑問だけど 富士通がFM-7にPIPSを付けてたけど
使っていた人少ないんじゃないかなぁ
共同でPIPS採用してデータ互換が有るとでも宣伝して
キャンペーンしてたら面白かったかも
PISP参考
ttps://aozla.exblog.jp/21014804/ YouTubeを見る限りだとbmcalcはそれなりに使えそうな感じ
関数とかは少ないかもしれないが FM-7に付属してたのはデービーソフトのnew VIP X-07は赤外線通信が売りだったかな。
ETみたいな赤外線送受信部が格好良かった。 >>438
そっちこそ知ったかするな
wikiに書かれた事が全てと思うな
販売店から指摘されて、そのビジカルクを移植するハメになったんだよ
ビジカルク開発会社が小さなガレージで僅か3人で作り出された超ローカルマシンの事なんて知るわけないだろう
同時期発売されたPET2001のコモドールと比べようもないんだぞ? 銀行だって相手にしてくなかった零細企業なのに
ジョブズたちが移植しないで誰がしてくれるってんだw >>449
ビジカルクのオリジナルは間違いなくアップルIIだよ。
しばらくアップル専用で、後にTRSやPET、ATARIに等に移植された。
恥の上塗りは止めなさい。 ビジカルクはアップル2版が元相。
ひどい嘘つきがいるな。w 449は頭おかしいか、どこぞの並行世界の人間だろw
ジョブズはビジカルクの価値が理解出来ずに売り込みにきたブルックリン氏をけんもほろろに追い返したんだよw
その後大ヒットしたビジカルクを見直して、後継機アップル///を開発した際に権利を買い取ってアップル社のブランドで売り出したんだよ http://ascii.jp/elem/000/001/462/1462002/ から引用
さてそのVisiCorpの話をする前に、Software Artsという会社を紹介したい。この会社は、Dan Bricklin氏とBob Frankston氏の2人により、1979年に創業された。
そもそもBricklin氏は1973年にマサチューセッツ工科大学のコンピューター科学学科を卒業後、DECに就職するものの、1976年にはキャッシュレジスターを製造する会社に転職する(なぜかは知らない)。
ただここに飽き足りなかったのか、1977年には退職してハーバード大で経営学修士を取得することにした。1978年からBricklin氏は再び学生となるわけだが、この講義を受けている最中に氏は表計算ソフトのアイディアを思いつく。
当時講義の中で、さまざまな金融モデルの式にいろいろなパラメーターを与えてその結果を算出する、ということが行われていたらしい。
これをするのに、黒板を升目状に分解し、おそらくは左端にパラメーターを書き、その次のカラムに数式を入れて、その次のカラムに計算結果を入れ、という形で行なっており、
例えば計算結果が間違っていたらそのカラムを消して正しい計算結果を入れ、その結果を元に次のカラムの計算をやり直し、……という具合に講義は行われていたようだ。
これを眺めていたBricklin氏は、「これをコンピューターでやらせればもっとスマートにできるのに」と閃いた。
最初のプロトタイプは1978年の春、Apple II上で動いた。これに先立ち、ハーバード大のTSS(タイムシェアリングシステム:端末がたくさんぶら下がった大型コンピューター)上でBasic言語を使い画面レイアウトをいくつか試作し、
アイディアが実際にコンピューターに実装できることを確信したらしい。
できればマウスを使いたかったようだが、これはApple IIのゲームパドルを代用したものの、精度が悪くて自在に扱うのは難しいということで、最終的に矢印キーを使うことにした。
ちなみに最初のプロトタイプは、Apple Basicで記述されたという。
中略
このプロトタイプは名前も決まっておらず、“Calcu-ledger”という仮の名前がついていた。
VisiCalcという名前そのものは、最終的にFylstra氏が決めたものだ。“Calcu-ledger!という名前はいかにも泥臭く、それもあっていくつかの名前がリストアップされており、その一覧の中から決められたのだという。 >>449
うあ・・・
こりゃ何のネタだよ
何を演じてるんだよ
>>wikiに書かれた事が全てと思うな
wikiなんか知らんがな
wikiに何書いてあるかなんて知らないよ
何故そこで突然にwikiが出てくるのか・・
指摘されて慌ててwiki読んだの? 痴呆が進んでるからな
意味不明なことばかり書き込まれていく なんでベーシックマスターでVisiCalcなんや… BMカルクという黒歴史が
MB-16000ではIBM-PC版の lotus1-2-3動いたよ いつからAppleスレになったんだ?
完全完成品として国内初のベーシックマスターL1なのに
MZ-80Kのおかげで日陰者になった
海外製のカッコイイPET2001やAppleIIなんてものが発売されて益々追いやられたってのに
表計算なんて、どーでもいいんだよ! 弩アホウが余りに戯けたこと抜かすから突っ込まれただけだろw 当時、Z80の方が使いやすいと周囲の人が言っていた
6800は考え方としてはミニコンの縮小版だったらしいのでスケールバランスが取れていないところが
Z80は 8080を改良したものだったからマイクロコンピューターならではの機械語の書きやすさがあったと思います メモリなどが少ない時代には早すぎたんだな、6800系は。
で、ちょっとメモリが増えたら8086になってしまったの巻。 6800はアキュームレータはAとBの2つあったが
インデックスレジスタがXの1個しかなかった。
しかもPUSH/PULLできるのはAとBだけで、Xはできない(6801で追加されたが)
8080はアキュームレータこそAの1個だけだったが
インデックスレジスタはHLと、命令一発でHLと交換できるDEがあったので実質2つあった。
さらに緊急避難的にBCもインデックスとして使えた。しかも3つともPUSH/POPもできた。
さらにZ80ではIX/IYが追加されて、より便利になった(ただしクソ重たかったが)
なので早い段階で6800にインデックスYを追加し、EXG X,Y相当命令とPSHX/PULXの3命令だけでも
追加してれば、8080にはもちろん、Z80にも多少は対抗できたかと思う。
まぁ68kとQ極の8bitCPU 6809の登場が控えていたので、戦略的に低いままにされたのかもね。
(ただし6809は6800バイナリ非互換だったが)
ようやく6800バイナリ互換でインデックスYが追加されたのは6811だったが、
さすがにこれは(組み込み向けとしては兎も角、PC向けには)登場が遅すぎたと思う。
まぁモトローラの戦略ミスだろうね。 はじめからDEとHLがインデックスレジスタで
BCがループカウンタ用レジスタみたいな位置づけだったっぽいねぇ。 >>467
それはZ80以降だな。
8080にはブロック命令系やDJNZ命令は無かった。
もっとも8080でもブロック転送しようとすると、アドレス計算の利便性から転送元/転送先にHL/DEを割り当て、
一時データ格納用にAを使うと、BCしか残らないので必然的にBCがループカウンタになっちまう訳だが。
とにかく8080ではDE/HLを交換するXCHG命令(EX DE,HL)の存在は大きかった。
XCHG命令自体はJK-FlipFlop1個を叩くだけの命令(だから4clockで済んだ)で、
そのJK-FFの出力Qの状態でDE/HL選択信号をひっくり返す・返さないという単純仕様だったようだ。
この仕組みを応用したのがZ80の裏レジスタ群だな。あれもEXA命令やEXX命令一発でひっくり返せた。 当時、6800マシン語解説本あればなー
ニーモニック表だけ掲載して、どないせーちゅーねん セグメントがーと言いつつも
当時のたいていのプログラムは 64Kbyteあればなんとかなったもんなぁ
セグメントレジスタ使えば 1Mbyte使えたし