瞑想のやり方を教えてください パート2
ぐぐってみても
「何も考えるな」
「イメージが大切」
「松果体を意識しろ」
「クンダリーニを昇華させろ」
など結局どうすればいいのかよくわかりません。
瞑想のやり方は色々あるのかもしれませんが、
皆さんが言う「瞑想しろ」とはどのようなものなんでしょうか。
前スレ
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/esp/1300637057/
>>232
http://www4.ocn.ne.jp/~akasikku/meisou.html
ここのサイトの筆者も瞑想していると網目の模様が見えるようになったと書いてる フルフィルメント勧めてる奴いるけど
俺は勧めない
あの煙を吹きかけるヒーリングも
これは絶対に正しい!と思い込んでる奴が
念を込めたエネルギーだと思えば
それを吸い込んだら洗脳を自ら受けるのと同義だぞ
最初の奴受けたけど
魂に蟻のような真っ黒なシミがたかるビジョンが見えて
反吐が出そうになった
金は要らんからこのエネルギーを外せと
伝授した奴に言ったら外し方なんて知らないとぬかしやがる
合わなかったんですねぇ、だと 俺はフルフィルメント瞑想は良い瞑想法だと思う
フルフィルメントは超簡単な上にすごく効く
自己流瞑想はできてるのか分からないし他の瞑想法は難しい
これ以外にどんな瞑想をすればいいんだって感じ フルフィルやフリダヤは、創始者やそれを伝授してる人たちの過去をもっと調べたほうがいいよ。
あれらは正統なマントラ(ヤントラ)伝授ではないし、負の因縁をわざわざ大枚はたいて請け負っているようなものだからね。
ああいう瞑想やって効果賀あると思い込んでる人は、それ程までに汚染されてるということになる。
もし異常に気づいたのならそれはラッキーだった。
その人は、あまり心配しなくていい。
しばらくしたらそういうのは自然にとれていくから。 真の瞑想は精神(イメージコントロールでやるものではなく
身体で精神を律するもの
丹田に作られた爆発的エネルギーが脳に帰還した時
脳幹が爆発し、目に映るモノ全て
この世界自体が大変革する
それが覚醒である >245
正統かどうか自分にはわからないが
海外に長かった人から一つ伝授してもらったものがある
自分としては大事に思っていたし
瞑想やれよと聞いていたので身近な瞑想逝ったらこれでしたよ orz
もう取れてはいるんだろうけど
チーズの穴の虫喰いのように魂にすっぽり穴が開いてる感覚とか
どうにもきもいんですよ
認識の甘い自分の責任と割り切って埋める努力は自分でするけど
こんな瞑想を広める努力をしている奴らの
魂の代償を考えたら可哀そうすぎて自分のがまだマシに思えますよ 瞑想って深まっていくの? 俺は接心(一週間の瞑想練習)でコツを教えて
貰って禅定に入ることはできるようになった。それから1年ほど毎朝つづけて
みたけど、あんまり深まらなかった。ただ気持ちがいいだけ。
ただその後マラソンを始めたら、走り終わってから無茶苦茶気持ちいい。
ハイな状態が1日くらい続く。すこしきつめの運動や山登りなんかをしても同じで
家に戻ってすこし静かに坐っているとガンガン気持ち良くなる。がそれも一ヶ月も
すると感じられ無くなった。いまは毎朝10kほど走るが確かに1時間くらいは気持ちいい
がまあ普通に気持ちいいだけ。
今でも走った後で坐禅をするなど意識的に静かにしていれば恐らくかなり気持ちいい
状態になると思うがそういう気にはあまりならない。特別な能力がつくというなら
それをやってみるのも面白いかもしれないが、気持ちいいだけというのは生活の中で
そんなに必要を感じない。 セロトニンの感受がどーたらの影響でスランプになるらしいね。そこを越えるとまた深まってくみたい。 「イイコト」
自分をある状態におくことができるようになってから、「イイコト」しかやってこなくなった。
そう話すのは、ある美容室の経営者。...
ある状態、ってどんな状態?気になりますよね。
彼女の言い方によると、「周囲の現象に左右されず、
ただ感じるだけにとどめる訓練をする」
とのこと。
“感じても思考を走らせないこと”が大切なんだそうです。
例えば、足を踏まれる。そのときは、「いてて」と感じればいいのです。
そうしたらやがてそれは消えます。
ところがふつう人は、「いてて」の後に、「なんで足を踏んだんだ、あの人は」
と思考を走らせてしまいますよね。それをしないようにするのだそうです。
感じても思考を走らせないこと。
「足を踏むのは悪い人」という価値観や、「踏まれた私は被害者」、
そういう価値観を取っ払ってしまうのです。
人が何かをしても、思考を走らせず、「〜しているんだ」と観じる。
良い悪いの比較判断はしない。比較も価値観ですからね。
それで相手が失敗しそうだなと思って、本当にそうなっても、それによってその人は、気付いて、学ぶのです。
こちらがあれこれ手を差し伸べるのは、相手の成長を阻むことになるんですね。
それは子育てでも同じだといいます。
そうして、思考を走らせず、価値観を取っ払い、今起こったことだけを感じていれば、自分の中で、価値観や思考に使っていたスペースが減ります。
減るとどうなるかというと、「智恵が入ってくる」、というのです。
別の言い方をすれば直感でしょうか、「こうするといい」ということが浮かんでくるので、それをするだけで、全てがスムーズに行くというのです。
この方が経営している美容室の売上は、どれも右肩上がり。「いつも自分を感じてクリアでいれば、
源とつながることができて、いいことしか起こらなくなるんですよ」
と言ってるようです。
彼女によると、「自分がクリアになると、悪いことをしようと思わなくなるし、イイコトしかやってこなくなる」
と言うのです。
まず、「クリア」になること。余計な思考を走らせないこと。 なるほどそれは興味深いね。
確かに坐禅の効用なんかも同じような気がする。心のスペースが広がる感じはする。
でも何というか科学的に考えてみると、思考を使わないと脳神経が減って思考力が
無くなるからその分の空スペースが広がる感じではないだろうか?
例えば電卓を使い始めると暗算が出来なくなるみたいな感じでね。
ただし思考でも論理的な思考はそんなに回路を消費しない。寧ろ感情的な思考というのは
大量に脳回路を消費している。得に無駄に複雑になっている回路が沢山ある。
なのでその部分をスッキリすると脳神経は部分的に消滅したり破壊されるのだけど実質的
には頭が良く働くようになる。
自分はこんな感じで理解している。だからどこかのアフォみたいに瞑想はやり過ぎると
馬鹿になると思う。 >この方が経営している美容室の売上は、どれも右肩上がり。「いつも自分を感じてクリアでいれば、
>源とつながることができて、いいことしか起こらなくなるんですよ」
美容室の経営なんて単純だと思う。ポカーンとしていればガツガツした態度が表に出ない
のでお客さんも気持ちがいい。だから客が増える。
原理は恐らくそんな感じだろう。
自分はオッチョコチョイで気分が不安定なことが多かった。だけど坐禅をしたりマラソンを
やったりしているとあまりこまごましたことが気にならなくなって気持ちが落ち着くようになってきた。
そうすると仕事は楽しんでできるようになってきたが、売上はがたっと落ちてきた。
必ずしも頭が悪くなったという感じはしないが仕事の作業能力自体は落ちた気がする。
ただ発想力は格段に上がってきた感じはする。 瞑想しようとすると寝ちゃうし感じるだけって言われてもなかなかできないし
上手くいかねえなあ >>255
どれくらいやってるの?
ヴィパッサナー瞑想って、やっぱり良いのかな? >>256
意識状態が変わり始めるところまで来たところ。
とっても良いのでお薦めできるよ。 >>257
ありがとうございます。
今日、A・スマナサーラの「意のままに生きられる」という本を読み始めました。
少しずつやっていこうと思います。 >>257
もし、お勧めの本とかあったら教えてくださいm(_ _)m >>259
まず、実践しやすく書かれた薄めの本を1冊だけ読んで自習しつつ、瞑想会に
参加してみるというのが一番良いと思います。
マハシ系、パオ系、どちらで行きたいのかにもよるので、二通り書いておきます。
▼マハーシ
書籍:
「自分を変える気づきの瞑想法」【増補改訂版】
瞑想会:
日本テーラワーダ仏教協会
「法話と実践会」(スマナサーラ長老指導、初心者冥想指導あり)
次回、東京では来年 2/1(土) にあるようです。
▼パオ
書籍:
菩提樹文庫(ウェブサイト)
Knowing and Seeing by the Venerable Pa-Auk Tawya Sayadaw (PDF)
Buddha Abhidhamma - Ultimate Science (PDF)
瞑想会:
パオ森林僧院・日本道場
「修行者のためのアビダンマ講座」と「日曜瞑想会」(瞑想の個人指導あり)
次回、東京では来年 1/5(日) にあるようです。 >>260
ありがとうございます。
スマナサーラ長老(マハシ系?)の本を1冊読みました。
なかなか興味深い内容ですぐに読めました。
マハシ系とパオ系というのがあるんですね。初めて聞きました。
2月1日は仕事で行けないな〜
1月5日は空いてるけど、パオ系っていうのがまだ全然わからない。
検討してみます。 中部経典の「四念処経」、「安那般那念経(アーナーパーナ・サティ・スッタ)」。
長部経典の「大念住経(マハー・サティパッターナ・スッタ)」。
これが仏教の瞑想のやり方を説明した原典中の原典です。
何系であろうと、ブッダの瞑想法、仏教の瞑想修行といえば、元を辿ればここに至ります。
知っておいて損はないでしょう。 初心者であります。
瞑想の時、
松果体、眉間、丹田のうち、どこを意識すると良いのでしょうか? >>263
どこも意識しない事を意識する…ですかね?
石に成りきるのに「石に成る!」と思わない。石はそんな事考えて無いから >>263
意識するのは宇宙です。あなたも宇宙の一部ですから。
一部を意識しても意識は開きません。 瞑想は脳内麻薬出すための儀式じゃなくて、自分の意識(と思っているもの)を鎮めることで、
それが妨げていた気づきを表面にあげるためのものだと思う この宇宙は、自分という者を通して理解している
だから、この世界は自分という者の創造物というか
その上でないと認識できない。
よって、わたしとは宇宙そのものであると言える >>268
ん?
海は水で出来ている。
だけど水は海から出来ているのか?
人は宇宙の一部、だけど宇宙は人の一部と言えるのか? 誰も見ていない時、月は存在するか
我々が認識を行うとき、知覚を用いて検証作業を行っている。
ゆえに見ていない時それの認識を行う事は出来ない。
また同様に存在しない物の認識も不可能である。
また人間の特性(見えざるものの存在無しと断定するところ)により
見えないものは存在しない物として扱ってしまう。
いずれにせよ、全て認識する側の問題であり、
実際の存在に関しては全く影響を与えない。
以上により、誰も見ていない時、月は存在するかと聞かれれば、
存在するともいえぬし、するともいえぬ。
もし、我々の意識の内と範囲を限定するならば、存在しない。 たとえば不安な事
それは自分の外には無く
自分の内にある
たとえば怒り
それは自分の外には無く
自分の内にある >>271
しかし不安はどこから来るのか?
怒りはどこから来るのか?
喜び、哀しみはどこから来るのか?
全ては外から来るのだ。
自分自身と宇宙はつながっているのである。 たとえば不安について
自分の中につぎつぎとわき起こる不安
それは何かに対する不安という形をとっている。
たとえば自分の健康、自分の将来、自分の仕事など
それら心配の対象が自分の不安の原因だと思い込んでいる。
それらをなんとかしようとあがいている。
でもそれらのほとんどは、どうにもならないことが多い
それ故に心配が止まらず。苦しみはつづく
自分にできることは酒などで気を紛らわすことくらいしかできない
でも気は紛れはしない
でも不安という物の対象については、なんとかならいことは確実だと思う
しかし不安そのものは、自分の心が作り出す物とわかれば、どうにかなるのではないか?と
ただそのことに気がついても、その不安を無理矢理押さえつけて抑圧する、または不安だからそれを見ないことにして現実逃避する
ことを良くしてしまう。
それをしても無理、またその物がしつこく自分を追いかけ、寝ても覚めても絶対に逃がしてはくれない
ではどうすれば良いか? 白隠和讃
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし
況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり この様な研究がある
手を動かすとき
手を動かそうと意識して、動いたとなる
と言う事はだれでも認識できると思う
さてこの動かそうと意図したとき、その準備が意図する前に脳内で始まっているらしい
この準備を本人は知ることができない
準備ができあがったとき、動かそうと言う心が生まれるらしい
この準備から、心が生まれるまで数分という時間がたつこともある
もう一つ
手に指令が行って実際に動くのと、動いたと感じるのは
常識とは異なり動いたと先に感じて(手が先に動いて)
それに遅れて動いたという指令がやってくるらしい
これが正しいとなると、脳を観察できれば、本人より先にその行動を
予言できる様になると言うことになる。
我々の行動には、実は自由意思は存在しないのでは無いかと言うこと
どうも、身体が先で心はそれに引っ張られているだけでは無いか もしこれが正しいなら
我という物は、どうなるのか?自由なる意思という物は無くなるのではないか?
私という心は、あたかも蜃気楼の様な幻影ではないのか? >>264 >>265 >>266
わかりました!
やってみます
わかりました >>268
>>270
この認識に立つと、それは色即是空であり、空即是色であると考えられる 全宇宙は自分の認識の中で存在しているのであるから
色(物質)と想われているものは、実は認識の中の空(幻影)であることがわかる
認識の中の幻影すなわち空とは、自分が認識している物質(色)でもあるので
色即是空であり、空即是色という簡単な言葉であらわしたものと思える。 本覚(ほんがく)と言う大乗仏教の教えがある
本来の覚性(かくしょう)ということで、一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧を意味する。
如来蔵や仏性をさとりの面から言ったものと考えられる。平たく言えば、衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは元から具わっている(悟っている)ことをいう。 世界が宇宙が私の心の中にしか無いと言う事になると、その中にいる仏は一人しかいない事になる。
ただそれを知らないから、自覚しないからだけの話となってしまう。 こころとは身体の従属物であると言う結論
当たり前すぎる話で、いまさらとは思うけど
こころを何とかするには、まず先行する身体を
扱う事が大切になってくる
身体を通じて、心を見ていくという事になってくる
具体的には観る身体を観ると言う事になっていくだろう 瞑想をするとき、息を吸ったり、吐いたりを
観ていると言う事をするが、その意味合いは
相当違ってくる
何かあるのかというと、何も無いのだけど
ただそれだけのことなんだが
書いてみて
なんて説明したら良いのだろうか マントラ瞑想中、
眉間の少し上くらいがムズムズするんですけど、
これってどういうメカニズムなんでしょうか? 瞑想という物は、虫眼鏡だとおもう。
普通は見過ごしている物を、拡大して見えるようにする
身体とこころをより精密に、詳しく観ていく、その訓練が瞑想と思っている。 むずむずするとか、かゆくなるとかが観測されるようになる
これは、本当は常に生じているのだけど、からだとこころを停止させることによって
際立たせる事ができるようになる。 >>289
顔ダニを虫眼鏡で見るように、瞑想で顔ダニの痒みが増幅されるのですね。 ダニがいるのかどうかは不明だけど
皮膚は常に何かの信号を出している
普通は気がつかないか、気が紛れている
静かにしていると、それに気がつくようになる
気がつくと、そこに意識が行き、余計に気になるようになる ちょっと考えてみて欲しい
そこに意識が集中するから、むずかゆくなる
しかし、瞑想していない普通の時は、そこはむずかゆく無いはず
むずかゆいと言う事は、そこに意識がそこにあるからむずかゆいと言うのではないか?
もしむずかゆいと言う事があっても、そこに意識が無いなら、むずかゆいというのは
存在しているだろうか? 瞑想中はアルファ波がでるといいますが、
これは目に見えません。
どういう感覚になれば、瞑想状態といえるのでしょうか? クンダリニーを上げなさい
上がれば瞑想である
クンダリニーが上がれば様々な感覚が起きてくる
クンダリニーが上がっていなければ水晶はただの石ころに過ぎない クンダリニーを上げるとは
性腺のエネルギーを脳髄に上げるということである
正しく行えば
魚の三倍体のように肉体に作用する >>293
緊張も弛緩もしていないニュートラルな状態だよ
necomimi着けてα波が出ている感覚を掴んだから判る 回転する感覚
鼻筋に風を感じる
温感が登っていく
体が後方に引かれる
様々である クンダリニーを上げる時には
エーローイームー
オームー
など体内で唱えなさい 瞑想後、脳内疲労がとれた感覚はあるんですが、
これをもって上手く瞑想できたと思ってよろしいのでしょうか? 実は目を瞑って頭部に向かって流れる力を意識するだけでもエネルギーを回復させる作用がある
あまり難しく考えなくても続けているうちに段々と上達してくる >>292
ちょっと考えた。
お風呂に入っていない時、むずかゆいのは意識が皮膚に行ってるからなのか?
俺は数日風呂に入ってないから皮膚が汚れてるって意識してるからなのか?
顔ダニじゃなくて。 瞑想をやりすぎると社会生活ができなくなるとききました。
これはどういうことなのでしょうか? 瞑想ばっかで社会生活を疎かにして深い瞑想レベルに行けてるのに実生活は悲惨って人が多いのよ
そうならないよう精神世界も物質世界も両方充実させればいいだけの話 達磨大師は瞑想をやり過ぎて、脚が壊死してしまったんだな。
これがやり過ぎると社会生活がダメになる例。 >>306
まぁ、アノ映画をいまさら観る価値は無いよな
オレはそれで填った口だがw >>304と日本一の瞑想コーチ・あべ頌詠氏が申しております。 瞑想してノリが悪くなるって、
物事に動じなくなるからでしょうか? ノリが悪くなるのはある意味わかるような気がする
ノリというのは、自分の外の物に取り込まれるというか
執着する作業だから、自分を客観視するようになると、当然そうなる。
こんな事があった。あるコンサートに行ったとき、確かにノリが悪くなった。
ものすごく音を機械的に聞いている自分に気がついた
では、すこし音に執着する(掴むようにする)ことをしてみると
音に感情が載り始めて、きらめく様に聞こえた
今度は、それを外してみるとまた、機械的に音が聞こえている
非常に特異的な経験だった。
これは外界をいかに自分の感情というか、思いによって受け取っているかという例だろうとおもう。
というか、人はこの事から逃れられないとおもう。あるがままに受け取ると言うのは、至難だろう
自分は常に何かしらの捏造しながら(自分の判断、認識が入り込んでいる)、外界を判断しているのだろうと思った。
大部分の人はそんなことすら思わずに、暮らしているのだろう >>309 それもあるけど
不安でヘラヘラ同調→動じなくなる→慈悲で協調性が生まれる。 達磨大師のように瞑想で快楽を感じると、
どのような感覚になるのでしょうか? >>313
快楽物質が出てくるんだよ。
おナニーと同じ様な気持ちよさと言われてる。
達磨大師は気持ち良さのまま身を任せていたんだ。瞑想を極めるためにね。
だけどずっと座禅だったか同じ姿勢だったかので脚が壊死してしまったんだよ。 瞑想をすると、心が安らいで緊張や不安はなくなる反面、
楽しくてテンションがあがることもなくなりますか? 先の読めない時代、次代を掴むにはまったく新しい認識が必要です。
メルマガ“るい”は、常識を覆し日々進化する「るいネット」の旬の記事を厳選して、
毎週お届けするメールマガジンです。
◆http://www.rui.jp/new/kousei/kousei_19.html
◆http://www.rui.jp/ 瞑想中、首が張ったり、体が後ろにひかれるのですが、
これらはどういうことなのでしょうか? 瞑想始めて何か感覚的な変化を求めてしまうんですが、何か変化が起きてるのかわからなくてモチベーションがあがりません。
2ヶ月続けてますが。
瞑想の効果なのかなと思うのは
ハッキリした夢を見るようにはなりました。
あと瞑想中にアリス症候群?のような体がめちゃくちゃ大きくなってたり、小さくなったりするような感覚を感じる事があります。
結果を求めてやるものじゃないと思うのですがこれも効果なのでしょうか?、 かと言ってこのリアルな夢を見ることやアリス症候群のような感覚が自分にプラスなのか疑問に思ってしまいます。
特に体が大きくなったり、小さくなったりする感覚は吐き気を催すほど不快ですし。 AKIRAも目醒めて全てのものを呑み込んで巨大化して行ってたな。 リラックス出来る音楽を聴いたりしながらすると良いと何かに書いてあったからしばらくはヘッドホンで聞きながらやってたけど、
無音の方が時間が経つのが早く感じる。
あとローソクを見つめて残像を見るというのもやってたけど、
音楽も聞かずローソクも見つめず目を瞑って呼吸に集中するのが一番スッキリする気がする。
皆さんはどうやってますか? マントラとか祝詞は仏教界や神道界、宗教的システムに
自分が汲み上げた自然エネルギーを搾取されるようだからな。
オススメしない 数息観から雑念が減ってきたら→随息。数息観だけで終わるときもあります。 明日の16時39分頃に気をつけて下さい。
日本にも世界にも巨大地震が起きませんように。
皆さんも一緒に祈って下さい。
太陽フレアのXが発生したそうです。
太陽黒点数の100越えが24日間継続しているようです。 フレアは発生しても地球の方向に飛んでこなければ無問題だよ。 ヘミシンク瞑想や大天使召喚の儀式をしていたら、突然光の玉が出てきました。
光の玉は神仏を名乗りました。
仏は「この世は偶然やカオスによって流れるのではなく、
カルマや善悪の積み重ねによって決定されている」
と話しかけてきました。 (続く) 神仏?(光の玉)はカルマの清算を私にさせました。
私たちの本質は魂。私たちは神仏の分け御霊である他者に対して思いやりの心を持つことが大事です。
心のきれいなひとほど、良い人生を送れるのだと言います。 心の綺麗な人ほどバカを見るからね。
心の綺麗な人が幸せなんてのは、奴隷支配者の洗脳でしか無いよ。
だからテレビで気持ち悪いニセ占い師が説教するみたいな番組作るのだよ。 心がきれいって言葉ってうまく利用されてる感があって胡散臭い 結局このスレをみても、
どういう状態が瞑想状態なのかわかりません。
誰かわかりやすく解説お願いします。 その人の善意も善行も、結果はその人に属します。
無条件の愛(無償の愛)といいますが、
光の玉も「取ってくだけの人間は嫌」だそうです。 そもそも人は誰かを傷つけたり、他の生物を殺めたりして生きて行くものだよね。
それなのに純粋な心で美しくなんてあり得ない。
美しい心なんて自分に都合の良い理解をしてるだけのエゴ。