魏延の長安奇襲策
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姜維と張翼との関係性が好き。何かと暴走したがる姜維を抑えながらも最期は「姜維の策とは、いつもこうだ」なんてヤレヤレ感満載ながらずっと姜維を支え続けた張翼はいい人。楊儀と魏延とか相手の裏をかいてやろうなんてあくせくしてる連中に見習わせたい。 張翼は、融通が利かずコンプライアンスに厳しいせいで、南蛮が反乱を起こされてしまい、都督をクビになった
それでも、後任者が来るまで仕事をないがしろにせず、諸葛亮に絶賛された張翼は、諸葛亮に通じる生真面目さをもった学級委員長タイプ
一方、同じ法家系の官僚でも、楊儀は陰険なやり方でライバルを蹴落とし、自己の利益を追求した秦の李斯に似ている 楊儀は関羽の元に来てすぐに劉備の方に使者として出されてるから関羽も嫌ってたりして
劉備も一時は気に入ったけど劉巴と喧嘩して左遷されたしどこ行っても嫌われ者
でも陰険なやり方でライバルを蹴落としたことはないだろ? 諸葛亮 北伐に反対のくせに、立身出世のため面従腹背する費禕
李厳 罷免の発議に費禕賛成
劉琰 魏延との争いに費禕仲裁せず
魏延 楊儀の魏延抹殺の企てに参加し、魏延をだます
楊儀 ちゅっとグチを言っただけなのに、費禕に告げ口され流罪
蔣琬 蔣琬不在の朝廷で宗論を尚書令として北伐反対に傾け、諸葛亮の遺志を継ぐべく病身で頑張る蔣琬の努力をぶち壊し
姜維 同じ録尚書事としてライバルの姜維が功績を立てないように、費禕が兵力を制限
劉禅 費禕は董允のように劉禅に諫言するどころか、享楽的な生活態度を見せつけ、バカ殿化を加速 >>281
> 先主復領益州牧、諸葛亮為股肱、法正為謀主、關羽・張飛・馬超為爪牙、許靖・麋竺・簡雍為賓友。
> 及董和・黄權・李嚴等本璋之所授用也、呉壹・費觀等又璋之婚親也、彭羔又璋之所排擯也、劉巴者宿昔之所忌恨也、皆處之顯任、盡其器能。
武官トップ3が関羽・張飛・馬超、賓客トップ3は許靖・麋竺・簡雍、諸葛亮・法正を除く文官トップ3が董和・黄権・李厳という並び順からみても、黄権は李厳より上位の扱い。
黄権が夷陵の戦いで帰還できていれば、諸葛亮の後継者は蔣琬でも李厳でもなく黄権だったろうな。 >>525
>黄権とか敵陣の呉の真っ只中で見捨てられて魏に亡命とか美談だけど
この地形で、夷道から巫まですでに呉軍が充満しているのに、峡谷を出た荊州側北岸に展開している黄権が帰れるわけもない。
峡谷■■■■■■■■■■■■■■■■■
夷陵
益州 永安 巫 秭帰 信陵 江陵
夷道
峡谷■■■■■■■■■■■■■■■■■
自分ひとりならともかく兵たちもいるので、呉に降るぐらいなら・・という選択肢しかなかった。
呉に降った蜀将は誰もいない。
傅彤・程畿もそうだし、零陵で反乱を起こしてかつての同僚の潘濬に討たれた習珍も投降を拒んだ。
呉に降った杜路・劉寧は蛮族の指導者で、蜀将じゃない。 >>964
年齢的に黄権は諸葛亮とほぼ同じぐらいで李厳より年上かな
諸葛亮、李厳、蒋琬は荊州人グループで黄権は巴西出身の益州人グループ
黄権は220年に光禄勲、
李厳は222年に尚書令、223年劉備死去劉禅即位で光禄勲を追加され仮節を受ける
220-222年の序列としては黄権が上だね
ただ出身地や劉禅との関係だと留守政府長吏の蒋琬が劉禅期には信頼されていたかなあと思う
まあ黄権が魏に降らず南蛮平定、北伐など外征に従軍せず成都にいたらまた劉禅との関係も近くなっていたかも知らないけど
ただ劉璋、劉備時代のキャリアからして蜀に留まっていたら北伐には漢中の丞相府参軍として従軍していただろうから姜維のように軍司令官として漢中にいる事の方が長くなりそうだけどねえ え、てことは孔明は李厳より年上なの?、とウィキ見ると不詳なのか。
李厳は208年に県令、若すぎる気がする。
そんなに毛並み良いのか、とウィキ見ると親類のコネがない... 181年生まれの孔明が李厳より年上で李厳が182年生まれだとすると
李厳より二十数歳年下の費観は213年に十歳前後で李厳の参軍になったことになるから
孔明は李厳より年下でしょ 宮城谷三国志では黄権の評価が高くて軍略については諸葛亮以上。
人柄もいいし蜀は惜しい人材を失った。 曹丕の魏に行ってからも孟達のように孤立せず曹叡時代も順調に出世して車騎将軍・儀同三司にまで登り詰めたからね
魏に降ってからの功績は不明なので出世の要因も不明だけど
曹丕から曹叡への代替わりが起きた時に孟達の蜀への帰参という事態もあった後の話だから二の轍を踏まないように降将優遇を見せつけて蜀や呉から同じ様に魏に降った将軍を残材にはしませんよっていうメッセージを含んだ人事だったと思うけどね >>969
諸葛亮より上というより、諸葛亮は戦術家としては凡庸、戦略家として上の下ってとこだろう
黄権や法正、龐統、馬良などがいれば、内政に専念したんじゃないかな
あるいは、李厳が野心を見せなければ、李厳に任せたかもしれない
なお、士大夫ではない魏延は、しょせんは駒に過ぎないので、後継者とは思わなかった
馬謖や姜維への極端な贔屓も、軍事に自信がないことの表れだろう
だから、死を前にした劉備は、諸葛亮に軍事を任せず、李厳を軍事の統括者に指名し、さらに馬謖の扱いに注意した 劉備死後の蜀で、上級幹部になれた非士大夫系は魏延、王平ぐらいで文官はなしか
優秀な平民が官吏になっても、県か郡に仕える役人以上になれず、軍官になって武功をたてるしか、上に上がる道がなかったんだろうな
九品法以降の魏と同じく「上品に寒門なし、下品に勢族なし」という状況 >>972
その王平も辛い
漢中争奪戦の時に蜀に降ってから15年以上働き続け、
馬謖の失敗を救い、
北伐で働き続け、
魏延を殺してようやく後典軍
一方、士大夫たちは、中央の中級官僚か太守を務めたら偏将軍や稗将軍、中郎将
参軍・典軍どころか護軍も珍しくない
「中卒・高卒」と「大卒・院卒」以上に差がある超格差社会 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。