五胡十六国南北朝を語るスレ19
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五胡十六国南北朝を語るスレ18
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1663590952/
晋書
ttps://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8
→晋書訳サイト二点。
・晋書簡訳所
ttps://readingnotesofjinshu.com/
・いつか読みたい晋書訳
ttp://3guozhi.net/sy/top.html
魏書
ttps://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AD%8F%E6%9B%B8
資治通鑑
ttps://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91
資治通鑑本末訳(渡辺 省氏)
tp://www2.ktarn.or.jp/~habuku/tsukankize.htm
勢力変遷動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=ugjAoQJKBWc
ttps://www.youtube.com/watch?v=uFGyv6WhrLE >>200
即位するも短期間で滅んだ冉閔に異例ともいうべき「武悼天王」という諡号が贈られたのは
ぶっちゃけ前燕に半年にもわたって干魃と蝗害をもたらすという甚大な祟りをなしたから
前燕は冉閔の祟りだと震えあがって諡号を贈ったうえで丁重に祀っている 侯景が爾朱栄軍団のモブではなく漢民族だったらのIF
侯景は爾朱栄死後20数年後皇帝に上り詰めたから
モブにしては悪くない人生 >>201
そんなのは知ってるよハゲ
実際に冉閔の祟りと言い切れるか?って事だぞ? >>203
少なくとも前燕は冉閔の祟りだと認識していた
というのも、冉閔を処刑してから幾分も立たない内に雨が全く降らなくなり、干魃と蝗害が広がっていったから
ちなみに、冉閔に武悼天王と諡号を贈って丁重に祀って幾分も立たない内に、今度は雨と大雪となっている
あれだけ大虐殺をやらかした冉閔の子孫が族滅されずに生き延びて、北魏で貴族にまでなっているところをみると
冉閔の子孫を粗末に扱うと冉閔に祟られるという認識が広まっていたからだと思われる ニワカで苻堅を殺したのと後秦建てたぐらいしか知らなかったから姚萇が前秦の為に結構働いてたのに驚いたわ >>204
冉閔そんだけ神通力使えるなら生前に使えと
冉閔に劉琨の息子が仕えていたのは不思議 僅か1年間ほどだったけど冉魏の全盛期は
人材が集まって官制も整えられてたので
冉閔は政治力もあったのではないかと思う
あまりにも最盛期が短すぎたので武力以外は計れないところがあるけど
未知の魅力と政治手腕を秘めている 逆に瞬殺されたから
武力も魅力も政治手腕も人材も
所詮そんな程度と(ry >>207
あれはアレクサンドリア図書館や知恵の館を焼失させたのに並ぶ人類退化の蛮行だからな… そんな冉閔でも戦闘民族慕容氏には敵わなかった
絞りカスみたいな慕容永でも勝利フラグ立ちまくりの苻丕を瞬殺するほど >>207
石勒や石虎が居ない後趙を滅ぼしても何の自慢にならないような 前秦に瞬殺されて併合された代とか言うその他大勢が
北魏という華北統一王朝に化けたという不思議 >>213
五胡十六国の十六国は
前涼(301-376)、前趙(304-329)、成漢(304-347)、後趙(319-351)、
前燕(337-370)、前秦(351-394)、後燕(384-409)、後秦(384-417)、
西秦(385-431)、後涼(389-403)、南涼(397-439)、北涼(397-439)、
南燕(398-410)、西涼(400-421)、夏(407-431)、北燕(409-436)
で代(315-376)は
仇池(296-506)、冉魏(350-352)、西燕(384-394)、翟魏(388-392)、後蜀(405-413)
らと同じ十六国外の扱いなのがな…
少なくとも代は前燕に対抗出来るぐらいの勢力なのに 代がノーカンなのは後継の北魏との連続性を考慮してとかじゃね? 「十六国」を規定したのは北魏孝文帝やぞ
ならはじめっから北魏は十六国以外やぞ >>216
崔鴻の『十六国春秋』が元ネタならもう少し後のような >>214
南涼の滅亡年おかしくね
北涼と同じ年になってる >>214
最も長く続いたのに十年保たないモブ国家と同じ扱いの仇池…
そして仇池よりも長く続いたのにほぼアウトオブ眼中扱いの吐谷渾(286-663)… >>220
「中華の歴史書」になにを期待しとんのだ
「中華」にとっての影響力が低けりゃカウント外ですわ >>220
吐谷渾は
『晋書』『宋書』『南斉書』『梁書』『魏書』『周書』
『南史』『北史』『隋書』『旧唐書』『新唐書』『新五代史』
に出てくる大人気ぶりなのに中華外扱い… 岳飛、袁崇煥
中国の救国の英雄は味方に殺されてるな
政敵からすれば国が亡ぶより夷敵のケツ穴を舐めた方がマシという 東晋は初めは陳くらいの領土だった
簒奪狙いの英雄によって領土が段階的に拡大していくという皮肉
国家体制の整備も彼らによってだし
南朝は東晋末〜劉宋初期の最大領土からまた陳まで一進一退で減っていく歴史 >>225
あくまで皇帝主権の政治と中原での政権を志していただけで、簒奪狙いではない
輿論(と嘯く貴族の信任)が絶望的にないため好き放題貶めてる感じ
司馬氏によって罪家に落とされた血統、子孫の桓玄が実際に簒奪したっていう経歴だから、史書でもヒール扱いしやすい >>214
東晋にはばかったのかってくらい他の国には東つかないな
燕が前後西南北あるのに東だけなくてモヤモヤする >>223
立場考えて裏切ったら裏切ったで秦檜呉三桂みたいに裏切り者の代名詞みたいにされるし国の末期はどうなっても悲惨だな >>226
苻生が雷弱児を殺したのは
石虎が逯明を殺したのと同じで
どんなに取り繕って元暴君が忠臣を殺す性は消しようがない >>229
ちょうど西晋から、裏切り者の救いの道は禅譲(簒奪)という宿命を背負ったのに起因している
天皇幕府、カリフスルタン制のように並立する権威という文化が無理になった
故に最後まで奪い尽くすか、奪わず粛清されるかの二択になりがち
権威を捨てて生き延びる道も東晋で閉ざされたのが痛い >>223
それどころか寸前まで対峙していた敵国に下って
故国に引導を渡すというのも 三国志といったら魏呉蜀だけど
北周・北斉・陳
遼・西夏・宋
朱元璋 ・陳友諒・張士誠
の三つ巴の戦いも面白い >>237
個人個人での魅力としては1番上の三国志が面白そうなんだけどなぁ〜
国内でのグダグダが酷すぎて酷すぎてw
グダらず三つ巴を制してその後モンゴルを追い出した朱元璋さんはさすがよ >>237
<`∀´>「三つ巴といえば高句麗、新羅、百済に決まってるニダ」 >>237
北周北斉梁は通鑑でも「再び三国鼎立す」と書かれるくらいやからな
キャラも高歓、宇文泰、菩薩皇帝とトップからしてキャラも立ってる 張士誠が陳友諒の誘いに乗って朱元璋を挟撃していれば危なかったが
漁夫の利を狙っていたからね張士誠
>>240
当初は軍事的に一番優勢だった北斉が
最終的には陳にまで領土を侵食されるほど衰退する様は見てられんよ・・・ >>238
魏と呉はグダグダやね
蜀は孟獲の反乱や魏延の謀反を除けば概ね安定してる 魅力的な武将はポイントを抑えてるんだが内紛が多すぎて見苦しいのよな、南北朝版三国志 東映実録ヤクザ映画やアウトレイジみたく「登場人物全員悪人」みたいな路線にしたほうがウケそう >>240
>>242
北周北斉梁(→陳)の中で北斉が最も先に(勢力)消滅したのは
斛律光や高長恭みたいな優秀な人材が居ても国家として最も致命的な欠陥持ってたのだろうな
同じく曹魏孫呉季漢の中で季漢が最も先に滅んだのは
グダグダな曹魏孫呉よりも致命的な欠陥持ってたのだろう
季漢は人口が孫呉の半分以下なのに官吏の数が孫呉の倍近く
どうみても無駄飯喰らいの多い破綻国家 >>245
何番の統治に役人が多く必要だったのかもしれないよ
兵士の兵糧官吏とカ事務仕事も多いし >>246
北周≒曹魏=継承国家という意味では
季漢=泡沫国家とは天地との差が
曹魏は東漢からの継承国家で勢力完全消滅したのは陳滅亡(589年)ともとれる
そこまでいかなくても曹家が二王三恪で劉宋の諸侯王(479年)
まで存在していたとすると五十歩百歩では失礼な格差 反乱から始まった五胡は三国志に征服された移民だから自然的に漢人になる運命だったよ。契丹やモンゴルと違って侵略じゃないよ。 清が中原に入って清・順・南明の三国志になるかと思いきや
順も南明も瞬殺されたな
順は寄せ集めの反乱軍だし、南明は既に人心を失っていたから東晋や南宋みたいに長くは続かなかったね >>238
と言うか
魏呉蜀のどれかが世紀単位で存続できるほどの鉄板だったら
4世紀も頃し合いしてなかったろうな >>245
国力も人口も多いが纏まるための軸がなかったから分解した、というのが北斉
北魏が過度に漢化した時の負の遺産を背負ってるから、まず内部対立から始まってる
4つの派閥(漢派胡人、胡派胡人、漢派漢人、胡派漢人)と皇帝の主導権争いで、有能な奴がいても足の引っ張り合いばかり
しまいには北魏が使用してた団結手段(仏教)に反して皇帝が放蕩三昧という有様
確固たる軸(鮮卑至上主義、仏教による中央集権)を持った他の二国に比べ、あまりにも脆かった
>>248
某クラスタのトンチキ話
「交易による利益のため官僚が必要だった、ケ艾はその交易に蓋して季漢に致命傷を与えた」
を思い出してしまった 岳飛があのまま戦っていたら金を駆逐出来ていた?
むしろ和議を望んでいたのは金の方で
支配地の拡大に伴う統治の問題や契丹族の残党への対処で
長く戦いを続けられる状態ではなかったというのが実情だったそうだ 契丹、金、西夏は宋からの歳幣により豊かになったが
尚武の気風が薄れてしまった
世界史的に共通してるが生活が豊かになった蛮族は軍事的に弱体化する傾向 南側による統一出来た可能性があるとすれば
前秦崩壊後の華北混乱状態につけ込んで東晋がずっと北上するしかなかったな
北魏VS劉宋のガチンコバトルもあったけど結果ボロ負けだし
北魏が華北を統一する前に行くしかなかった
中国史全体で見ても南から天下取ったのは明と中華民国のみだし
朱元璋クラスの英雄が出るか、
辛亥革命の時みたいに現政権打倒の気運が頂点に達してる時でないと無理か >>254
どの国でも改革派が既得権益を保持したい守旧派に妨害されるのは常だが
中国では特にそれが顕著だからな
国力では清>>>>>日本であり、光緒帝の改革が成功していればまだまだ巻き返せる可能性はあったが
西太后一派に潰されてしまった・・・ >>248
季漢だけでなく曹魏も孫呉も内患で異民族抱えて対策に悩まされていたり
一方で諸々外国とも交易してた訳で言い訳にもならない
五胡十六国南北朝時代だけでなく中華の歴史不変の現代でも通ずる課題なんだろう
北魏はじめ北朝が華北統一しても新たに獏北に勢力勃興した柔然や突厥への対策に悩まされたり
五胡はじめ異民族が中華支配しても別の異民族への対応に悩まされるのはある意味楽しい 遼みたくモンゴル高原を手放さない状態で中華に浸出するとかでもしないとね 柔然「ヒャッハー」
北魏「蛮族め」
劉宋「アレお前らの昔の姿やで・・・」 夏の桀王の子の獯粥が北方へ行き匈奴の前身である葷粥を築いたという説
だから夏なんだな赫連勃勃 >>257
いや謝玄や劉牢之が出張った上で失敗してますが
ガヤガヤする頃にはすでに慕容垂がのさばってましたよ、無理無理 >>256
人間てか生き物が抱える問題やな
過酷な環境であればあるほど強くなる
これを克服するには鉄砲とか新兵器を開発するしか方法はないんじゃね? のちの五胡時代の子孫にも李陵らの子孫がいただろうし、
漢人の血やはすでに入ってたんだろうな
中行説…は子孫は残せなかったが
漢人にもはねっかえりはいたし
中行説の逆バージョンといえるのが靳準 小勢で大軍を破るには
・淝水での朱序みたいな内通者作って破壊工作させる
・桶狭間の信長みたく敵総大将を討ち取る
・項羽や呂布のような猛将を突っ込ませて無双させる
・サルフでの後金みたく敵の部隊を確固撃破していく
他なんかある? なんか狭隘な地形に誘い込むか結果的にそういう地勢上有利な所でバトルするか 途中で投稿しちゃった
つまりアジャンクールの戦いみたいな 266、67の全てを備えているって思うのが
劉秀VS新の昆陽の戦いだと思うが淝水ほどの知名度がないな >>262
匈奴とか明らかに蔑視用語だから葷粥名乗ればいいのに
まぁ似たようなケースは多々あるので >>270
トルコなんて最近までターキー(バカ)と世界中から呼ばれるのを甘んじて受け入れてたからな
しかも代わりに要求したのはテュルキエ(トルコ語読みにしただけ)
やはり集団のアイデンティティーというのは大事
フン族や称号カンといい、ここら辺は古来から変わらないのだろう 「インディアン」と呼んでくれ、というネイティブアメリカンも居るしな >>270
匈奴は降奴で高句麗は下句麗と勝手に呼び方変えた莽は有罪? よくわからんけどジャパンとジャップで全然意味が違うしターキーとテュルキエも侮蔑的な意味を含むかどうか大きな差があっても不思議では無さそうな気がする
チャイナとシナも似たようなもん? 元からの国書には大蒙古国皇帝とあったけど
現代モンゴル人は蒙古と書くと嫌がるから注意な 今の中国語で日本はリーベンだが中世の中国語で日本はジーベン
それが欧州に伝わってジパング、ジャパンになった
チャイナの語源は秦
ちなみにロシア語では中国をキタイといい契丹が語源 >>275
そりゃ「時代遅れ」って意味だからな
五胡や鮮卑隋唐+テュルク宋を知ってると、この文字選定に納得するようになる >>273
今思うと王莽ってネトウヨちっくなネーミングセンス >>275
そら「蒙を啓く」とか「無知蒙昧」って言葉もあるようにものを知らんって意味なんだからそら当然怒るわな 禿髪烏孤とか漢字で意味が分かってて自分の名前を書いたことあるんかな
北周に至るまで数百年間も鮮卑は自民族の呼称に卑しいという字が入ってるのに
違和感を感じなかったのか不思議だ 卑弥呼とか卑しいの字をあてられてるのに日本人は気にしねえなあ >>281
禿は頭髪の量が不自由な人に対するヘイトスピーチやな(適当) 鮮卑なんか鮮(すく)ない卑(いや)しいで字面からして侮辱感がすごいな
蒙古は蒙古斑や蒙古タンメンくらいは勘弁してほしい
あと今の時代、肌色も差別用語とか面倒な世の中になったな・・・
>>282
でも倭は小さいという意味で嫌がったので国号を日本にした 満州族は漢族に辮髪を強要したが、僧侶と禿は見逃したそうだ 中国、北方遊牧民、朝鮮だと片手に剣、もう片手に盾というスタイルだが
日本は盾を持たず両手で刀を持つスタイル
この違いはなんだろう? >>286
鎧の大袖がガンダムのザクがつけてるアレみたいな感じで盾になってるとか
集団歩兵戦術が発展しなかったとか刺突武器がーとか弓メインがーとか
置き盾専門の兵士がーとか色々理由があって廃れたけど、
五胡十六国時代ってか飛鳥時代の日本は手盾に剣のスタイルやったね >>284
石勒「はあ?胡も差別用語やからな国人って呼べや」
ポリコレは五胡十六国時代からあったのだ >>269
正直、昆陽と淝水じゃそこまで知名度に差はないと思う
光武帝は宮城谷昌光が小説に書いたから日本だと昆陽の方が勝ってる可能性もありそう >>289
漢族はあまり蔑称が思いあたらないが
半島民はどう呼んでも
<#;`Д´ >「シャベツニダ!」
になるのでもうチョンでいいやという感
王莽は正しかった 呂尚、張良、荀ケ、諸葛亮、陸遜、王猛、劉基
北条幻庵、太原雪斎、山本勘介、竹中半兵衛、黒田官兵衛
他におすすめの軍師いる? >>290
光武帝はなろうもびっくりのチート主人公やから 淝水における慕容垂はワーテルローのグルーシー、
関ヶ原の島津義弘みたいなもんだな
主力軍が潰走し始めたと見るや、ここで捨てガマリだろうに
関ヶ原と違って慕容垂軍はそれでも10万、東晋軍は8万なんだから
ここで東晋軍も殲滅してドサクサに紛れて苻堅まで討ち取れただろうに
島津義弘ならやってただろうと思う 日本史だと織田軍3,000 VS 今川軍25,000の兵力差8倍の桶狭間がMAXだけど
中国史だと兵力差10倍以上でも逆転大勝利した戦いが結構あったりするんだよな… 河越夜戦の古河公方・山内扇谷両上杉の8万は明らかに数盛ってるから注意な
中国ならともかく日本でそんな大軍を動かせるのは豊臣や徳川のような天下政権でないと無理 >>295
戦闘幅と倫理の問題
どんなに大軍呼んでも、一回に会戦できる人員は戦線によって決まってる
全軍で数的有利だったとしても、会戦で大敗したり不信が広がると逃亡者が続出して崩壊するのがシナの通例
五十歩百歩のなりたちからでも分かる 淝水の華北版といえるのが
淝水前秦(王猛)VS前燕(慕容評)の潞川の戦いだろうな
川を挟んでという地勢や、兵力を淝水からひとまわり小さくしたような
この大会戦で王猛は一発で前燕滅亡までもっていってるからすごいよな
淝水は東晋が前秦を「撃退」しただけで前秦が勝手に崩壊しただけ、前秦が立て直す目もあったわけで
東晋の国是である中原回復と西晋時代の領土回復という戦略目標が達成されたわけではない 淝水の華北版といえるのが
淝水前秦(王猛)VS前燕(慕容評)の潞川の戦いだろうな
川を挟んでという地勢や、兵力を淝水からひとまわり小さくしたような
この大会戦で王猛は一発で前燕滅亡までもっていってるからすごいよな
淝水は東晋が前秦を「撃退」しただけで前秦が勝手に崩壊しただけ、前秦が立て直す目もあったわけで
東晋の国是である中原回復と西晋時代の領土回復という戦略目標が達成されたわけではない 島津が伊東との何かの合戦でで10倍差を勝利してなかったっけ
その変わり島津もほとんど死んだけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています