【縦横家】蘇秦・張儀と鬼谷子伝説【春秋戦国】
この時代の中国は地域によって言葉は全然違うんだろ?
語学が大変だな 蘇秦が実は張儀より大分後に出てきた人物って司馬遷さぁ…
あんなもっともらしい因縁話書いといてさぁ… >>3
司隷周辺では標準語みたいのがあって、中国全土の貴族の多くは
喋れたみたいな話を聞いたことある。 中国は嘘つきばかりなのに、結構他人の話を信用する
日本は正直者ばかりなのに、めったに他人の話を信用しない
面白いのは、日本人は中国人の話をコロッと信用してしまうことだ 日本は正直者ばかり(笑)
これはどういうこと?生まれてこのかた学校行ってないとか、働いたことない人? キッシンジャーは女たらし
鬼谷子読んで口説き方勉強したのかよ 日本にも縦横家みたいのがいたんだろうが、あまり重要視されないな >>13
嘘つきは比較の話でしょ
中国人は嘘かもと思ってもチャンスがあればリスク取る傾向は強そう >>23
坂本は小説的ヒーロー扱いを切り離すと使い走りwなんて酷評されてるの見ると確かに軽視される傾向はあるのかな?と思ってしまう >>5
いま「戦争の中国古代史」という本を読んでいるのだが、張儀が恵文王の時代の人で、蘇秦は次の昭襄王の初期に活躍したと書いてあった…
しかもその根拠が1970年に出土した戦国縦横家書とかいう、半世紀前の研究だと知った
周知の事実のはずなのに最近発売された史記の入門書には書いてないんだよなあ >>30
嫪毐の祖先なのか。
樛斿もそうだったという記録はあるのか? >>36
最低でも話をしたことはあっただろう。
二人の会話を想像して楽しもう。 古代ってむしろ君主と宰相ぐらいしか権限持ったのいないような >>43
それが何時なのかだよね
史記に書かれている時期なのか
それとも、戦国縦横家書に書かれている時期なのか 史記の記述には元々無理というか矛盾があった。
史記によれば、
蘇秦の初仕事は、燕の昭王に進言して趙との同盟を成立させた事。
その後、韓・魏・斉・楚の王を説いて回り、戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟を
成立させ、六国の宰相を兼任、以後、秦は15年に渡って東に侵攻しなかった。
そして、不遇だった張儀はすでに趙で出世していた蘇秦を頼って訪ねたが、予期に反して
大いに侮辱されたため、発奮した張儀はこの屈辱をばねに秦に仕官する事が出来た。
となっている。
しかし、昭王即位は紀元前312年。
張儀は紀元前316年頃に秦に仕官し、309年に死去している。 >>48
>蘇秦の初仕事は、燕の昭王に進言して
Wikipediaの記述は間違ってるよ。
史記には燕の文公となっている。 そうだな、だいたい紀元前334年以前頃だな。
この頃、ある縦横家が燕の文公に取り入ったんだろうな。
蘇秦かもしれないし、そうじゃないかもしれない。 どっちが酷いとか優劣決めて喜ぶネトウヨはゴミクズだけど、
一人っ子政策の後の少子化で人口比率がこれから厳しそうなのは確かではあるな。
少子化がどれだけ成長の足枷と財政問題に影を落とすかはジャップラン土民が一番知ってるだけに楽観視できないわな。 そうなったら中国市場が縮小して日本企業が死ぬだけじゃないのか
インドはまだ中国みたいに中間層少ないしな まるで失われた30年が過去のものだったかのような言い草だけどまだ続いてるからね。
仮に中国が後追いで成長鈍化するとしてもその頃の日本なんて目も当てられないだろ。 公子嬰とあり、秦王子嬰なら
公子子嬰の子子と子が続くのを間違いと誤認したのではないのだろうか >>48
張儀が最初に秦の宰相になったのは紀元前328年頃
紀元前322年頃に趙に行って趙の宰相になった
紀元前319年頃に秦戻って、その後再び秦の宰相になった 項羽に処刑された秦の一族八百人だから結構残っていた
官人5000人、公務員・貴族?はそんな数しかいなかった
蜀は滅亡時4万人、呉も32000人もいたのに
秦は滅亡時に皇族800人、官吏5000人だけだった ┌────────────────────────────┐
│ .│
│ .│
│ 家臣 → 上は約束守らないし何するか分からねえ ...│
│ .│
│ .│
│ 主君 → あいつらこっちを敬わず何するか分からねえ │
│ .│
│ .│
└────────────────────────────┘ 水を意味していた語が横を意味するようになり、横を意味していた語が手・腕を意味するようになるパターンを思い出してください。それと同じように、水を意味していた語が下を意味するようになり、下を意味していた語が足・脚を意味するようになるパターンがあるのです。 朝鮮の三国時代も同様で、単純に新羅と高句麗と百済で同じ言語が話されていたと考えてはいけません。新羅語は、現代の朝鮮語に至る言語です。高句麗語と百済語は、新羅が朝鮮半島を統一したことによって消滅した言語です。高句麗語と百済語は、わずかな記録が残っているだけです。しかし、そのわずかに残された記録を見ると、高句麗語と百済語は新羅語よりむしろ日本語に近いのではないかと思わせるところがあります。 奈良時代の日本語のkageは、「光」を意味したり、「姿」を意味したり、「影・陰」を意味したりするかなり微妙な語でした。 古代中国語のsaw(騷)に似たケースなので、古代中国語のsyew(少)シエウにも触れておきます。古代中国語のsyew(少)は、日本語にseuという音読みで取り入れられ、その後syōに変化しましたが、これがすべてではないようです。saw(騷)の場合は、単純に母音aを付け足してsawaとし、これがzawazawa(ザワザワ)などにつながっていきましたが、syew(少)の場合は、母音aを付け足すと同時に若干の調整を行ってsiwaとし、これがziwaziwa(じわじわ)などにつながっていったようです。「少しずつ」と同じような意味を持つziwaziwa(じわじわ)です。 蘇氏の縦横家で判明してるのは蘇秦、蘇代、蘇獅フ3人だけなのか? 史記の「正統」 (講談社学術文庫) 文庫 – 2007/12/10
平勢 隆郎 著
¥220
この本で矛盾する蘇秦一家が本当がどうだったか考察してる 『隋書』には、600年と609年に、日本から男王が使者を遣ったと書いてある。『日本書紀』では、女帝・推古天皇の時代のはずで、食い違う。推古天皇の記録ですら、『日本書紀』はあやふやだ。
『明史』で、日本の戦国時代をメチャクチャに書いている。でも中国の史書は、けっこう正確だと思う。 張華は、幽州や烏丸を担当した。張華は、東方の現地に赴任したから、事情に詳しいはずである。その張華の子分・陳寿が、知識を得て「烏丸・鮮卑・東夷伝」を書いた。 中臣鎌足の功績が、華々しくかかれるのは、なぜか。中臣鎌足の曾孫・聖武天皇を飾るためである。 『日本書紀』には、5つの王家が登場する。
35代の舒明天皇より後が、天武天皇が属する「現代史」の王朝である。当事者が生きているから、ウソを書くことが出来ない。
だがそれ以前は、中国の歴史書を切り貼りして、創作したものだ。 仁徳天皇より前は、兄弟相続が1件もないフィクションである。古いほど偽作しやすいから、ウソである。
仁徳天皇が登場する直前には、神功皇后がいる。
神功皇后の記録は、香椎宮の海神の伝説を、取り込んだものだ。香椎宮は九州にあり、白村江の戦いに勝つため、新興&信仰された神様だ。 神功天皇の実在を否定する根拠は、
○神功皇后は上陸せず、海上にずっといる
○皇后の記録には、海や魚族の霊験譚、海人が住む地名ばかり
○皇后は、住吉三神という海神との関わりが深い
○夫の応神天皇は、『書紀』に主人公の逸話がない架空の人
○皇居や陵墓の位置が、『書紀』の記録や遺跡がない ____
/ ノ ヽ\
/ (○)}liil{(○)
/ (__人__) ヽ
| |!!il|l| | こっちじゃ刑死は不名誉?
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/ ヽ 殉教の尊さがわかんねーのかお!?
しヽ ト、ノ
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i へ___ ヽゝ=-'"/ ● _,,> ヽ
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/ i 人 ノ l 明教大要!
,' ' ,_,,ノ `─-‐' ヽ l
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', i_/ / _ ' /
ヽ、  ̄ ̄ /
ヽ、_ /
`¨i ヽ
/ ヽ
/ ヽ その後は、劉備や曹丕がいつ攻めてくるか、あるいはこちらから討って出るかという情勢であるから、孫権としては、もはや軍事的に欠かせない存在となった陸遜と真っ向対立する後継者選びが困難になってしまったのではないだろうか。 孫権が呉王になったころの孫登(まだ少年)は、長子という点では後継者候補と言うべき存在だったはずだが、その割に孫権からも魏からもそういう扱いをされていないように見える。 何故かと考えると、まず彼が既に失寵していた徐夫人を母と慕い、同時に孫権が寵愛し正妻にと考えていた歩氏には敢えて礼に差を付けるという、若くして少々可愛げの無いことをするような子だったことがあるのではないだろうか。 呉の孫権が魏帝曹丕によって呉王に封建されたとき、孫権の長子孫登は列侯に封じられようとし、同時に孫権は孫登を魏へ入朝させようと思っていたらしい。
よくよく考えると、普通は皇帝でも王でも列侯でも、後継ぎ扱いされている子は父と別個に封建されることはないのが通例であるようなので(曹丕が好例)、この孫登への扱いは実は「彼を後継ぎと思っていない」という措置だということになる。 ちちからしねといわれたふそはくのうしただろうがぎゃくにいえばいうとおもっていたんだな ただし、後継ぎになりうる長子ではあるから、魏からすると呉で何かあった場合に傀儡として立てるには最適な存在と言えるので、魏にとって価値は十分あるだろう。遼東公孫氏における公孫晃がそれに当たると思う。 三互謂婚姻之家及両州人不得交互為官也。謝承書曰「史弼遷山陽太守、其妻鉅野薛氏女、以三互自上、轉拜平原相」是也。