後漢「50以上生きた皇帝は光武帝と献帝だけです」
明で50 以上生きた皇帝は洪武帝・永楽帝・嘉靖帝・万暦帝の4 人だが、前2者と後2者の落差が激しいな。 1光武帝 64
2和帝 48
3章帝 32←竇太后からの外戚ムーブ
4和帝 28
5殤帝 2
6安帝 32
7少帝懿 不明 在位たったの200日
8順帝 30
9沖帝 3
10質帝 9
11桓帝 37←党錮の禁
12霊帝 34
13少弁帝 18←董卓様
14献帝 54
キリがいいから50以上にしたけど40以上でも3人だけ 1、清の高宗 乾隆帝 89歳
2、梁の武帝 蕭衍 86歳
3、唐の則天武后(武則天) 82歳
中国の皇帝の平均寿命は39歳位らしい・・・・・こわっ 徳川慶喜が歴代将軍で最高寿命だったのも、将軍辞めてから悠々自適の生活
だったからかもな。最高権力者は意外に長生きできないね。 後漢皇帝は即位年齢が若いというか幼すぎるのばかり
少帝弁が4番目の高齢即位ってどういうことだよ 梁の武帝は英雄、名君、暴君、亡国の暗君と全て一人でこなしたのが凄い
長生きするってこういうことなんだなって >>16
あんたの粛清祭りのせいである意味一回滅んでるんで… >>15
スケールは違うが東郷平八郎も似た者だった >>20
寵妃と乳繰りあっているところを見られた周昌に「今の陛下は夏の桀王や殷の紂王と同じに見えます」と言われていたな。 牧伯制の導入により、豪族勢力による地方支配と、豪族の自律が既成事実と化した。後漢の朝廷がもつ権威は、後退が決定的となった。軍閥が割拠する情勢に、拍車がかかった。 >>18
ムガベは最初は本物の英雄だったのに最後は老害になって国は最悪状況になった。
マンデラとの違いがデカすぎる。まあマンデラは最初は英雄と言うより凶悪テロリストだったが
改心してぐう聖に変わったから逆なのかもしれないが。 インドのアショカ王も最初は残虐極まりない暴君だったのに最後は聖王に変身した。
国を安定さえのちの世にも大きな利益をもたらした。
前半の統治とはまるで人が変わったかのよう。
変われなかったのが金の海陵王 名馬も老いては駄馬にも劣る
梁の武帝
孫権
豊臣秀吉
ロバート・ムガベ
ウラジーミル・プーチン
プーチンもロシア人の平均寿命に近い年齢だし老いと焦りが生じているのは間違いないね。 >>10
梁の武帝は宇宙大将軍に殺されなければもう少しは長生きしたかも 短命が多いということで浮かぶのは後漢と東晋と北魏かな?
もっと短い王朝も入れれば曹魏、北斉、北周も短いよね。 >>23
秀吉の場合は実子おらんかったから生きるしかないんやけどな、どうなろうとも
これが秀長長命もしくは秀長に男子があって養子で秀吉の子として小田原征伐に出征したというところまで実績積めていればその後太閤秀吉、関白その養子というトップを秀長と北政所一門で支える体制に何とか持ち込めたかも知れんけども
それでも朝鮮出兵を実行する前には秀吉には消えてもらわんと無理やろうなあ 秀吉の母すら孫じゃなく他人の子扱いだし
秀吉の子だとしても不倫の子だと思われてるからもう終わり
漢字の皇帝も恵帝の子じゃないとされて処刑されたし 両晋は自然死じゃない皇帝多いし、こいつ長生きしていたら違っただろうなって皇帝もおらん(強いて言えば武帝が長生きして司馬衷が武帝より早く死んでたら違っただろうが) 実は平和主義の中華王朝、兵戸制を嫌う。
後に、兵戸は蔑視され、それで兵戸制は崩壊した。
中華の王朝は我々がイメージするよりも、実はずっと平和的である。
武を蔑む傾向がある。
そもそも中華の成り立ちは、交易である。
交易は平和、友好関係が前提だからである。 淝水の戦いは、
淮河線で起きる。
ここから先は騎馬が使えない。
文化、文明の境目と言える。
ここを見て、
緩い紐帯で結びついていた前秦が崩壊した。
東晋の謀略でも、何でもない。
文明の境目を突破するほどの結び付きは
前秦にはなかった。 生年不詳だが、多分40代の後半であったと思われる。