五胡十六国南北朝を語るスレ16
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五胡十六国南北朝を語るスレ15
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1628202812/
晋書
ttps://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8
→晋書訳サイト二点。
・晋書簡訳所
ttps://readingnotesofjinshu.com/
・いつか読みたい晋書訳
ttp://3guozhi.net/sy/top.html
魏書
ttps://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AD%8F%E6%9B%B8
資治通鑑
ttps://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91
資治通鑑本末訳(渡辺 省氏)
tp://www2.ktarn.or.jp/~habuku/tsukankize.htm
勢力変遷動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=ugjAoQJKBWc >>748
司馬遼太郎は1923年生まれでノモンハン事件(1939年)当時は中学生だけどな
確かに司馬遼太郎は後に満州関東軍の戦車隊に配属されたがノモンハンから5年後の1944年で
更に終戦当時は栃木県佐野市に居たので司馬遼太郎はノモンハン方面には行った事がないぞ
司馬遼太郎のノモンハン事件や司馬氏や胡十六国南北朝時代についての造詣は
このスレ出入りしている人全員束にかかっても敵わないのは衆目の一致するところなのは認める 西晋を興した司馬氏のふるまいは、五胡時代すでに評判が悪かったらしい。
石勒は
「大丈夫たるもの、大事を成すには白日のもとで正々堂々と行うべきであって
曹操や司馬懿父子のように、卑怯なやり方で天下を盗るような真似はしてはいけない」
と述べたし。
一方の東晋では、簒奪に意欲を燃やしていた桓温も、その野心をくじかれたとき、
「男子として生まれたからには、悪名でもいいから後世に名を残したいのに、
俺は文景(司馬師と司馬昭のこと)の臭も残せないのか!」
と嘆息したという。
どちらも悪しき見本として創業期の司馬氏を挙げている。 >>751
旧孫呉地域出身の虞預や干宝は司馬氏(司馬懿)ベタ褒めだけどなw >>750
1944満州の四平陸軍戦車学校入学
1945本土防衛のために佐野に配属 >>752
立場の違い
司馬氏は皇帝を置物から道具へ格下げし、貴族の蚕食を容易にしたからこそ
治世のための強い皇帝を志向する者にとっては人間の屑、皇帝を道具にしたい者にとっては人間の鑑になる
孫呉は皇帝が道具化を嫌ったから、成功例の司馬懿はさぞ持て囃されただろう >>747
殷侯として封じられた武庚禄父は金文では王子聖(耳口で下の王はない)
彔子聖や彔子耿と発掘資料にあるが
彔子の意味は不明だが、王子と呼びたくないからなのは明白
聖(耳口)と耿はどちらも発音が似ていてコウみたいな音らしい
一説には(学会では認めない)
朝鮮侯の殷叔の養子になって王位を継いだとか 殷の紂王(帝辛)は先帝を文武帝としていて
史記等にある帝乙は卜辞(甲骨文)では見つからない
ただし、周側の記録で文武帝乙とあるので間違えたか先代を理由があって否定したか
王子聖は帝辛の弟、もしくは先代の子かもしれない
または辛とか乙が氏族名(名字?)で別族の可能性もある 前涼の白興という人は自分の妻を廃して娘を妻にしたのて張駿に誅殺された
なんやこいつ…
マイナーだけど面白いやつだな 力と知恵はあっても勇気がない、というのが石虎
圧倒的な武功だけでなく禅譲の手際の良さ
治世で時折見せる漢文化への造旨の深さ
現場の将軍よりも的確な指示が送れる空間把握力
どれを取っても優れているのは間違いない
反面、勇気のなさが治世の地味さを生み出した
他者に委任する勇気がないため神経質になり
都を空ける勇気がないことで親征ができず肥え太り
自身の選択を信じる勇気すら失い宮中に籠り
独断しないであろう末子を立てて国を傾かせた
石勒の資質の中で最も優れていた勇気こそ、石虎に必要だったというのが感慨深い >>762
石虎は『ゼルダの伝説』のトライフォースでいえば
ガノンドロフ(力)とゼルダ姫(知恵)のトライフォースは持ってても
リンク(勇気)のトライフォースを持ってないという事か
残念ながら石虎にはマスターソード(退魔の剣)は持てなかったという事で
ボードゲーム『お化け屋敷ゲーム』でいえば石虎は
のっぺらぼうとか河童とか(「力」「知恵」が弱点)には勝てるが
フランケンシュタイン(「勇気」が弱点)には負けるという事か この時代はアホアホな皇帝もかなり輩出してるよね。
どこの皇帝だったかは忘れたが、
お気に入りの妃が「城が落ちるところが見たい」と言うので戦争に連れて行って
敵の城を総攻撃。ただし
「朕と妃の輿が現地に到着するまでは落城させてはならぬ」と厳命したので
軍は落城寸前までこぎつけるも、一時中断して帝の到着を待った。
ところが妃が化粧に時間がかかって到着が遅れてしまい、
その間に敵方は防衛体制を強化したので、結局城を落とすことができず、すごすごと退却。
中断さえなければ完全勝利だったのに、命がけで戦っていた現場の士卒の心境や如何に。 というか
いきなり二人目の皇帝である二世皇帝が
「馬鹿」の語源となるイベントをやらかした超アホだしな キチガイの振りして
ると見せかけてほんとにキチガイだった慕容超さん キチガイの振りした
と見せかけて結局キチガイだった慕容超 >>765
『馬鹿(バカ)』の語源はサンスクリット語で
「癡、愚か」を意味するmohaの音写である
『莫迦(バカ)』の読みからくるとする説がある
二世皇帝胡亥のだと『馬鹿(バロク)』(音読み)もしくは
『馬鹿(うましか)』(訓読み)なので 北斉は慕容部ウィルスに感染したのかと思うほど基地外の宝庫
北周に対して3〜4倍の国力があったのに捲られるとか舐めプにも程がある 北周は西魏時代に漢中と益州と北荊州を獲得してるから北斉との国力はかなり縮まってる ギリギリの状況で良く戦った宇文泰に比べると宇文邕の東征は色々雑
でも相手がびっくりするぐらいカスだったので勝てた あれほどあっさり北斉が潰えるとは、北周側も想定していなかった。 武成帝は段韶と斛律光、そして高長恭をうまく使えてるところを見ると
軍事面ではやはり高氏の才能を出してる >>773
段韶が一番優秀っぽいのに一番マイナーなの悲しみ >>775
段韶は斛律光の1年前
高長恭の2年前に死んでるからじゃないかな
多分2人よりも長生きしてたら死んでる暇ないぞ 世襲は難しいよね。
名君の子が名君になるとは限らんから。
北周なんてもともと暗君が少なくて、武帝の代で天下統一に王手をかけた状態までいったのに
その後を継いだのが天元皇帝だからなあ。
外戚の普六茹那羅延(漢名楊堅)に美味しいところ全部持っていかれちゃった。
もっとも、漢民族にとってはその方が良かったかも。
北周の国是である鮮卑民族主義を「漢魏の旧に復し」たのは普六茹那羅延改め楊堅だし、
もし宇文氏が中華を統一していたら、今ごろ現代中国語は鮮卑語ベースで、
中国人の名前も、孫文とか袁世凱とか習近平ではなく、「破六韓跋乙根」とか「叱奴干骨羅弗」みたいな名前になっていたかも。 >>777
たかだか100数十年前まで中華全土を長期間支配した満洲族でさえ固有の民族名を名乗り続けたのは国姓の愛新覚羅ら一握りで、大半は一字か二字の漢族風の姓に変えているから更に昔の鮮卑風の姓など後世まで引き継がれる訳ないよ。 現存している複姓
https://kknews.cc/culture/6yrbbv.html
さあ、このスレの諸君ならどれが鮮卑系か抜き出せるはずだ 満州族が漢姓を名乗るようになったのは辛亥革命以降でしょ。
漢化とか利便性ではなく、反満感情に満ちた時世で弾圧を逃れるための方便に過ぎなかった。
それに清と北周の違うところは、北周は漢族にも鮮卑姓を与えたこと。
北魏の孝文帝と真逆で、少なくとも言語や姓名においては中国の鮮卑化をはかっていたと思われる。
楊堅が漢語と漢姓に戻しても、独孤、宇文、慕容、呼延、尉遅などの胡姓は隋唐以降も残り、
今は漢姓としてわずかながら現代中国人にも存在する。
もっとも北周王朝が続いていたとしても、
江南を併合して漢人の比率と影響力がさらに高まると、やがて鮮卑化政策を廃止せざるを得なくなってたかもしれんが。 >>779
爾朱とか禿髪ってもういないのか
斛律もいないな
独孤、拓跋、慕容、宇文、赫連、尉遅とかはまだ残ってるようだが >>780
辛亥革命以前に既に漢族風の姓に変えている満洲人はいる。例えば『駱駝の祥子』等で有名な近代中国の作家の老舎は辛亥革命以前の1899年生まれの満洲旗人だが本名は舒慶春で舒は宋代の代表的な姓を載せた「百家姓」にもある古来からかの漢族風の姓である。
これとは逆に漢族ながら満洲風の姓を与えられた者もあって、例えば明末にヌルハチを敗死させるなど明軍の中心として後金と戦いながら讒言によって凌遅刑に処された袁崇煥の子の袁文弼は清に仕えて漢軍八旗に属する旗人となり袁佳という満洲風の姓を与えられ、その子孫も清末に太平天国と戦って功績を挙げた袁崇煥の7世の孫は袁佳・富明阿(フミンガ)と満洲風の姓名を名乗っている。 >>781
爾朱氏は朱氏
禿髪氏は源氏
斛律氏は斛氏
を名乗っている子孫居るような 孝文帝の漢化政策の反動なのか、東魏・西魏・北斉・北周時代は
複雑怪奇な胡姓を名乗る人物が、むしろ五胡時代よりも頻出するようになるが
これも隋唐時代になるとだいぶ落ち着く。
それでも独孤、宇文、慕容などの胡姓が後世まで残ったのは、北族の中でも特に貴種で
漢族社会の中でもそれなりのブランド、浸透力を持っていたからだろうか。
「尉遅」はもともと名門ではないかもしれんが、
唐の尉遅敬徳が凌煙閣二十四功臣に挙げられるようになって箔が付いたか。
元鮮卑人が多い漢姓としては、源(禿髪氏)、長孫(拔拔氏)、陸(歩六孤氏)、竇(紇豆陵氏、破野頭氏(匈奴系))など。
陸氏も竇氏も古代からある漢姓だが、唐代の史書に出てくる著名人はやたら鮮卑(もしくは匈奴)の帰化人が多い。 >>779
独孤、万俟、尉遅、慕容、長孫、宇文、拓跋、達奚
そのリストには現存の鮮卑系姓の中でも比較的多い「叱干」がない
赫連、呼延は匈奴系
賀蘭とか斛律とかかっこよさそうなのに残ってないのか >>783
復姓を単姓に変える事は多いからな。
例えば夏侯から夏や南宮から南に変えているし、諸葛などは元々は諸城出身の葛だから諸葛にしたのに葛に戻したり諸に変えたりしている。 >>780
清はチャイナプロパー得てからも、税制浄化で漢民族十倍増加というアホみたいな展開に襲われたからな
明代どころか過去の王朝時代からの流民が大挙して押し寄せた 三国〜唐初はやたら人口少ないけど部曲・流民・兵戸・奴隷あわせて5000万近くキープしてた可能性あるかね? >>788
南北朝あたりからはそれ以上に膨れ上がってた可能性もある 南北統一から20年まだ高句麗遠征も行われていない609年の隋の戸籍登録人口が約4600万人で実質的には5000 万人を超えていたとして、それより前の五胡十六国から南北朝は約3000万人台から4000万人代で5000万人は達していないと思われる。 戦乱の時代は、統計に反映されない流民の数が半端ないからね。
あと定住地を持たない遊牧民も戸籍には登録されないか。
さすがにこの時代の北族は定住してるやろと思われるかもしれんが、
唐の高祖李淵の夫人である竇氏は匈奴人で、オルドス地方で遊牧を営む費也頭集団のリーダーの娘。
この父親は北周の上柱国でもあった。
もともと劣勢だった北周の勢力が大きく伸びたのは、この匈奴遊牧集団の軍事力によるところが大きいと言われている。
南北朝末期でも、国家の重鎮が遊牧を営んでいた。 5000万人とかでも現日本人の人口の半分も居ないんだな・・・
五胡十六国乱立に至っては1国が日本の地方県レベルだったり >>791
竇熾とかそんな感じ全然しないんだがほんと? 隋唐の頃の日本の推定人口が4〜500万で大陸の10分の1くらい
まあそんなもんじゃねという気もしなくもない >>785
中国古装ドラマにはアクセント的に1人2人は複姓キャラが設定されている気がするが、何か賀蘭さん率は高めではないかと思う。 >>791
後漢とか地方を支配できていなくて実質地方政権だったとか >>793
竇熾は養由基級の弓の名人で騎射が得意な人だから
むしろ遊牧を営んでたという方が自然でよくわかる
しかし竇熾と護衛兵2名が東魏軍に囲まれて
雨霰と降り注ぐ矢を拾っては射返して敵兵倒しまくるとか
まるで真・三国無双の世界だなw >>794
現代の日本の人口が約1億2000万人で中国の約14億人(もっと実際は多いらしいが)の人口の10分の
1くらい、また日本の推定人口が始めて1000万人を超えたとされる室町時代中期の16世紀は同時期の明の推定人口は約1億人と見られ、元和偃武以降の泰平が続き人口が急増した江戸時代の日本の推定人口が2000万人を超えた18世紀は同時期の清の推定人口は約2億人を超えたと見られるように、どの時代でも日本の人口は中国の10分の1くらいだったと思われる。 >>295
賀蘭は中国で2020年に行われた調査で約1万人で複姓だけのランキングで10位に入っている。
ちなみにベスト10は
・1位ー欧陽(約111 .2万人)
・2位ー上官(約8.8万人)
・3位ー皇甫(約6.4万人)
・4位ー令狐(約5.5万人)
・5位ー諸葛(約4.8万人)
・6位ー司徒(約4.7万人)
・7位ー司馬(約2.3万人)
・8位ー申屠(約1.9万人)
・9位ー夏侯(約1.1万人)
・10位ー賀蘭(約1万人)
で鮮卑由来は賀蘭だけのようだ。 欧陽だけ多いなあ
単姓化した欧氏ってのもいるのにどうして
この時代なら陳の欧陽頠がいるね
孫が欧陽詢 >>799>>800
ちなみに韓国で2010年に行われた調査のベスト10は
・1位ー南宮(約1.8万人)
・2位ー皇甫(約1万人)
・3位ー諸葛(約5千人)
・4位ー司空(約4千人)
・5位ー鮮于(約3千人)
・6位ー西門(約2千人)
・7位ー独狐(約1千人)
・8位ー東方(約3百人)
・9位ー長谷(約60人)
・10位ー岡田(約50人)
長谷と岡田は日本からの帰化だが他は中国からの渡来したもので皇甫と諸葛は中国と韓国の両方でベスト10入りしている。 >>798
むしろ、中国の人口推移に日本の推定を寄せてるんじゃないかという >>802
中国の場合は1世紀の前漢末から19世紀の清末に至るまで各王朝の最盛期の戸数もしくは人口の記録が残されているが、日本の場合は10世紀の平安時代初期から16世紀末に豊臣秀吉が太閤検地するまで全国範囲の戸数もしくは人口調査の記録が残っていないので、より確実性のあると思われる中国の推定人口に日本の推定人口を寄せている可能性はあるな。 匈奴姓の「独孤」が、韓国でベスト10入りしているのが驚き >>804
韓国の独孤姓の始祖は唐から新羅に帰化した独孤公舜で河南の南原出身なので、その子孫の本貫(宗族の発祥地)は南原独孤氏としているが韓国の独孤姓の本貫は南原独孤氏だけである。
ちなみに韓国には独孤声(故人)・独孤永宰・独孤俊と親子三代の俳優一家がいるが、これらは芸名で本来の姓は全である。 韓国の姓といえば「金(キム)」が人口の約2割とかもう近親相姦レベル
「金(キム)」て匈奴人の金日磾の末裔を名乗ってる奴多いけど
どうみても詐称なので赫連勃勃が激怒して皆殺しにされてもおかしくない
そういや話変わるが末期の李氏朝鮮は
王族・両班(支配階級)約48%、平民約20%、白丁(奴隷階級)約32%という歪な世界
普通の社会では支配階級は約10%でそれを超えると国家破綻する
遊牧民族は支配階級多いイメージあるがそれでも社会構造は朝鮮に比べたら遥かにまとも まあそれは当たり前の話で
日本で言えば源平藤橘の姓だけが存在して苗字がないから
徳川も足利も細川もみな源名乗ってるようなもんだし 源平藤橘だけってよくいわれてるけどたとえば毛利氏なんかは源平藤橘どれでもない大江氏やろ 靳準の乱で靳一族は滅ぼされたけど
後趙末期に出てくる靳豚って何者なんや?
名前に豚を入れる代わりに助命してもらったんか? >>808
源平藤橘と言うが橘氏は他の三氏に比べて少ない。
例えば江戸時代初期の諸大名と旗本以上諸氏の系譜集である『寛永諸家系図伝』は各家を姓氏で四区分しているが、それは清和源氏・平氏・藤原氏・諸氏で橘氏は諸氏に含まれている。
ちなみに儒者の林羅山が『寛永諸家系図伝』の編纂を行ったが彼は序文で「蜀漢の劉備が中山靖王(劉勝)の子孫だと言ったり、趙匡胤が趙広漢の末裔だと言ったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。戦国武将の系図にも同様の例が多い」と、わざわざ例に出して劉備や趙匡胤をdisっている(w >>810
孫武の子孫・蕭何の子孫・楊震の子孫・李耳の子孫「ヨシ!」 >>811
劉交の子孫・陳寔の子孫「朕たちもヨシ!」 >>809
靳豚は数十文字の文の中に名前があるだけで
情報少なすぎて出仕がよくわからん
靳姓は黄帝の孫の顓頊の子孫名乗ってて
春秋戦国時代の楚の屈原の同僚の靳尚とか昔から居るから
靳準の乱で靳準一族が殺されたぐらいでは絶滅せんよ 日本の武士がみーんな、源氏、平氏、藤原氏の末裔を名乗ってるのは面白いよな。
お前ら全員、中央貴族の血筋なのか。純血の坂東の土豪は一人もおらんのか、
坂東からは一人の丈夫も輩出できないのか。
伊東、大庭、北条、三浦、和田、千葉、上総、畠山、梶原、
この辺はみんな平氏らしいけど、本当にみんな桓武天皇の子孫なの?
織田信長は最初平氏を名乗ったが、室町幕府を滅ぼしたら源氏に鞍替えした。(征夷大将軍を意識か)
家康も、上州得川(とくがわ)を発祥とする足利系源氏の末裔と称した。
まあスレチだからこの辺にするが、やたら貴種をありがたがるのは日中を問わないんだな。 家系図偽造が大好きなのもあるけど
遺伝子で父系が入れ替わるってよくあるのと子孫を残せる男が力のある奴になるから意外と子孫なのかもしれない
皇帝の最も近い子孫が大井町の眼科医だし >>814
海外貿易(明国)だと源姓名乗らないと相手してもらえなかったくさい
明の文書だと豊後の大将源義鎮(大友義鎮)とか周防の大将源義隆(大内義隆)とか名乗ってるから そうかな将軍源何々で相手にされず、准三后の称号を受けてとかあったし
単に倭国王倭満だかみたいに中国向きに中国形式姓を使っただけじゃ
秀吉や宗氏も平のを名乗ってたみたいだし 最近は教科書にまで隋唐が拓跋王朝とか拓跋国家と書かれるようになってるけど
拓跋を強調しすぎ
武川鎮から出てきたのと府兵制とかの制度継承からしたら宇文王朝といったほうがいいのでは
女系的には独孤王朝だな
独孤信は日本では浅井長政みたいだ >>818
北魏と唐は別物だわ
南北朝の新書でも拓跋国家は言い過ぎって言ってた 日本では歴史に大きく名を残し、多くの武士の起源ともなった源氏だが
その「源」氏の起源は中国の北魏。
禿髪破羌が北魏に帰順したとき、太武帝は喜んで迎え入れ、
拓跋(タクバツ)と禿髪(トクハツ)は起源が同じだとして、「源」姓を与えた。
破羌は名も「賀」と改め、源賀と名乗るようになった。
「はげ頭、羌を破る」から「源賀」へ。雅でいいですな。
しかし中国の源氏はその後ほとんど名を残さず、歴史の表舞台から消えてしまった。 正直
隋唐を異民族系と強調したいのって歪んだコンプだろ >>822
ハゲだけでもヘイトスピーチなのに「羌を破る」とかひどす >>823
西方からの影響を強調し過ぎな感じ
南北朝以前も周だって秦だって西戎とか揶揄されてたわけだから(晋書劉元海戴記より) >>821
会田大輔の新書を読んだのか
あれ、単調な通史みたいでかなり挑戦的な内容だったよ
文宣帝の狂気、梁武帝の捨身、北周宣帝の享楽とか
南北朝の酷いところの見どころに合理性を与えてるってのが個人的な印象
それと、孝文帝の洛陽遷都は南朝を征服して中華を統一するためってところ
一般的には、南伐すると見せかけて遷都したのは漢人になるという文化的な面が強調されるが
それと、宇文護がかなりの高評価 梁武帝の捨身に政治的な意味があるのは
河上麻由子「古代日中関係史-倭の五王から遣唐使以降まで」 でも触れられてた
梁武帝は捨身中に法話やったりしてて単に寺男として暮らすつもりはなかったって解釈 >>818
八国柱十二大将軍から隋唐王朝出てるのは
人口3000人の町で五輪メダリスト4人出るぐらいの驚異的確率だなw
宇文王朝でいいと思うが宇文泰や高歓や隋唐創始者の先祖の他にも侯景まで
爾朱栄の配下だったと思うと爾朱王朝(武川鎮王朝)ともいえる >>822
唐代に源乾曜とか宰相級の人物がいる。
名を残していないとは言えない。 >>826
宇文護の貯金を宇文ヨウが派手に使って北斉ボコったようなもんだからな
イニシアチブが誰が握るかが暗殺の焦点であり、路線自体は宇文泰同様にきっちり国力と結束を高めてた 宇文護は内政では貢献したけど外征は失敗続きで良くないだろ
名将のいる北斉に負けまくるのは仕方ないとしても同盟する前の陳にも敗戦して巴州や湘州の獲得失敗してるし >>817
慶長文禄の役では明もかっこつかないので
捕虜になった日本兵の中から
平正成と平秀政という大将を仕立てて
凌遅刑で処刑したという…
そんな大将は日本には居ません >>829
現代にも源菲然という香港出身の女優(1999年生まれ)がいるな。
>>835
足利義満も豊臣秀吉も明は平と呼んでいるか平という姓の武将なら格好つくと思っていたのだろう。 源って名字だとアフロの人たらし刑事しか連想できんのだが 源純夏「シドニーオリンピック銅メダリストの私を忘れんといて」 中華では源姓よりも平姓の方が歴史古い
(確か春秋戦国時代の韓哀侯の子の韓諾が祖)
なのに圧倒的に源姓よりも存在感薄いのな・・・
この時代でも平熙とか平季とか居るのに
如何せん禿髪の強烈さには霞む >>842
錦衣衛「はい。キミ頭髪の量にハンデキャップを抱えた人に対するヘイトスピーチね。今から取り調べするから」 禿髪といえば
禿髪樹機能
上の名前も下の名前もインパクトある
樹機能の頃の禿髪部は
イナゴのように襲来して略奪して荒らし回るだけのガチの蛮族だったけど そんな禿髪が南涼そして伝説上は吐蕃まで建国するとは 吐谷渾って慕容氏なのにチベット史に入れられてるよね >>847
そりゃ曲がりなりにも王朝築いたからな
しかもラテン帝国のように無惨な末路を辿ったわけでもない 慕容吐谷渾は青海にはどのくらいの人数で行ったのだろうか
末期は隋唐にボコボコにされた挙句吐蕃に吸収されたから結構残念な感じ >>849
慕容吐谷渾が弟慕容廆と別れた時1700戸(一説には700戸)率いていたような
小月氏は敦煌方面に遷ってて後に北涼建国したと云われているのもあり青海は空白地帯で
慕容吐谷渾は子供60人居るから青海に着いてから爆発的に増えてると思うが
日本の例えば岩手県みたいな地方県と同じで夜やる事無くてお盛んだったと予想 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています