五胡十六国南北朝を語るスレ16
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五胡十六国南北朝を語るスレ15
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1628202812/
晋書
ttps://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8
→晋書訳サイト二点。
・晋書簡訳所
ttps://readingnotesofjinshu.com/
・いつか読みたい晋書訳
ttp://3guozhi.net/sy/top.html
魏書
ttps://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AD%8F%E6%9B%B8
資治通鑑
ttps://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91
資治通鑑本末訳(渡辺 省氏)
tp://www2.ktarn.or.jp/~habuku/tsukankize.htm
勢力変遷動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=ugjAoQJKBWc 賈充は司馬氏に取り入り、奸智を駆使して司馬氏の王朝簒奪に貢献し、
西晋の「建国の功臣」として、娘を皇后に送り込むほどの栄華を手に入れたが、
その娘が晋の王室をかき乱して内乱の元凶を作り、
結果、西晋は内戦で自壊してしまい、さらには異民族に攻め込まれて滅亡。
その一方、わが世の春を謳歌していた賈氏一族も、司馬氏の王族によってことごとく誅殺。
結局何したかったんだよ…というような結末に。
因果応報、悪謀で手に入れた栄華は長続きしないという好例か。 >>693
司馬懿に人生を壊され、師に畜生道を与えられ、昭と弱味を握り合い、炎に気を遣わせる重鎮となる
やってることは最低最悪だが、仕官から辿っていくと多少同情はできる
立ち止まるのを拒否して自己保身に邁進した結果だから >>688
バタフライ効果どころかいまもだけど弊害を無視して何かやってってのばかり 賈充や西晋、八王の乱の話題はこっちでやってくれ。スレチだし、三国志が好きなやつばかりとは限らない。
正史『三国志』 三十二巻
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1536187646/ 曹魏西晋は、漢趙の興亡の原因、北魏から南北朝となった理由の知識として大事だからね…
ステレオタイプ異民族ヒャッハーしかない時代として談義するなら不要だけど 八王の乱抜きで五胡十六国時代を語るのは無理だろw
すべての元凶なんだから 三国志スレではスレチと言われ五胡十六国時代でもスレチ扱いの八王関連 >>702
司馬ばかりで分かりづらい、どの司馬が八王なのか分かりづらい、(だいたい越のせいだけど)対立構図が分かりづらい、オチが劉淵劉聡になる
というので敬遠されてとりあえず内ゲバした司馬家が悪いというのに纏まりがちな八王の乱
でも一個一個紐解くと、今まで漢民族が積み重ねてきた制度の破綻が凝縮されているという魅力的な存在になる
劉秀になれる資質のあった司馬乂の偽善が、物質主義の浸透で陳腐化する様や
皇帝自称か譲位かで揺れつつホイホイ皇太弟の座に釣られる炎の血族たちや
もぬけの殻になった洛陽に居座る裸の王が匈奴にわからされるオチなど、カタルシスを感じる場所も随所にある 八王がスレ違いなら劉淵の人生のほとんどは語れないし劉聡劉曜石勒も前半生はスレ違いということになってしまうやん >>706
スレは編年体だから。なんでそこで列伝? >>683と>>688みたいに主張強くて周りを見渡せない人達が意地張って内輪で延々レスバしてたのが八王の乱っすw
その後スレがガチの荒らしに攻め込まれて五胡十六国時代が始まった 俺がこの混乱を収めてやる
その前に一度左国城へ帰らせてください 関係あることを言っても関係ないという人間には何を言っても無駄 >>710
おお!劉元海殿が匈奴の精兵を率いてくだされば、醜賊共もたちまちのうちに地に伏すことでありましょうな >>713
石敬瑭「ワイが晋復活させたで」
西晋東晋よりも酷いな後晋
どうせなら「晋」でなく「趙」名乗れよと >>714
再現は無理だろな
準優勝チームの傘下にいた知識人が家族に突き上げ食らって蛮族になったり、名前借りて弔い合戦しかける酔狂者が出てこなきゃいけない
今回は、賈疋に何度斬首されても死なない成都王を見て、盧志も汲桑も石勒もドン引きして去ってる感じ 趙庶人は悪く言われるけど今の政治家も会社上層部もみんなそれ以下じゃん >>718
趙王は大失敗した劉邦苻堅かつ、劉邦式統治はもう通用しないという見せしめの例になった存在
・反賈南風勢力を全部背負う
・開祖を宣帝まで遡って皇帝になる
・恵帝を廃位ではなく太上皇という新ポジに置く
・部下に委任しまくり自身はゴーサインのみ
と破天荒なことやってるわりに御輿としての要点を抑えていたから、宗族だけでなく陸幾ら中間層まで取り込んでる
問題は、賈南風勢力がいなけりゃ誰もが特権階級になれると踏んでたこと
でもそんなリソースはないから小分けになり、結局は納得できない者同士の奪い合いになる
制度化により妥協なんてものは一切なく、趙王は御輿であることが求められる存在だから止めもしない
これが原因で政権奪取してから反賈南風勢力は空中分解した
しまいには賈南風が消えたことで担ぎやすくなった恵帝が再評価され、趙王は責任負って消滅というオチ
しかし根本的解決にはならず乱が継続したのは皮肉なことだ 5chという便所の落書きが業績になるといいですねw 梁が変だよな。皇帝菩薩に宇宙大将軍。バグみたい
司馬氏はこの時期梁から倭国に渡って、神社を主宰する物部氏と争い勝って仏教を広めたのだが、遣隋使のタイミングでは煬帝と噛み合わず浦島太郎の状態だったのかな? 司馬達等の倭国における居留地が、今の大阪市平野区。
加美って、神と同じ音だ。しかも司馬遼太郎の生家までこの辺だったらしい。本名は福田
https://kami-sugahara.wixsite.com/home/kuratsukuri わぁ、これが統万城ですかー
壁にいろんな死体が埋まってますねー 向こうに機嫌の悪い赫連勃勃がいるんだ。
あとでそこへ行こうよ 勃勃主催の武具コンペは、職人にとって命がけで恐ろしいものだった。
武器と防具を競わせ、
武器が防具を貫通すれば、ペナルティとして防具職人が殺され、
逆に防具が武器を防げば、こんどは武器職人が殺される、
つまり必ず誰かが殺されるという、いかにも勃勃が好みそうな恐怖のイベントだった。 >>692
・前例踏襲のはずなのになぜか後漢の傀儡皇帝は無視し
・自分が「愚弄」の根拠、内容として挙げた陳寿評を何故かごまかし
・皇帝を貶めたのは賈充だ!だのなんの反論にもなっていないことをかじょうがきし
・恣意的に「本来」を決め後漢の前例を無視する説明は何一つなく
・「理解不能」などということは一度も言っていないのに明確な妄想に逃げている
もはや自分でも何を言ってるのか記憶すらできていないだろう >>728
赫連勃勃は「矛盾」の諺を実証した科学者ともいえるな
「矛盾」は『韓非子』に載ってるから周以前の話
それまで誰も検証してないとか今まで何やってたのかと >>729
>・前例踏襲のはずなのになぜか後漢の傀儡皇帝は無視し
桓帝始め本人が強く望み、世論が外戚を否定すれば権力復帰が可能
また公の場で玉体を害するなど不可能であった
魏末は司馬昭賈充が世論をねじ曲げ専横、晋末は世論が皇帝を見捨て首都崩壊という大暴落を起こした
>・自分が「愚弄」の根拠、内容として挙げた陳寿評を何故かごまかし
711で指摘のとおり絶対に認めない相手への唾棄
史書の筆法としてオーソドックスな婉曲が分からないと自白した相手への最適解
>・恣意的に「本来」を決め後漢の前例を無視する説明は何一つなく
前例を踏襲しているからこそ賈充による価値の暴落が明らか
霊帝どころか少帝すらも政治において必要な存在であり、廃位はあの曹操すら否定
>・「理解不能」などということは一度も言っていないのに明確な妄想に逃げている
迷文意味不明過ぎて何を言ってるのかまじでわからないよという発言をド忘れ
ミラーリングで自己逃避
哀れ >>732
壊れたら無敵の矛でも盾でもないから駄目でしょ
聖闘士星矢では両方壊れていたけど
でも盾の方が有利だろうね
矛で突き刺すのは難しいけど同じ硬さなら盾を貫けないし
貫かれなければいいから使い勝手とか重さとか無視できるし >>729
>>731
この二人は互いに自分の方が頭いいと思ってそう ドチモドチは支配者の特権
責任比率を10:0から5:5どころか3:7まで持っていく 争いは同じレベルの者同士でしか発生しない
という故事成語があるからね >>737
カスみたいなチンピラでも聖人に喧嘩売ることはできるんだよなあ >>739
それグノーシス主義で神や聖人=白痴って救いようのない結論になるパターン >>739
聖ってのは耳と口があるってことだから
まともな耳でまともに話を聞けて、口で言えれば聖人 >>743
もっと正確には耳と口と王だから
庶民でもエンペラー吉田ぐらいの
皇帝の称号を持つ徳を積んだ偉人でないと
聖人とは認めがたい 殷の紂王の息子?の王子聖は原文だと下の王がないみたいだよ
エンペラーヨシダ???
ハラじゃなくて 司馬遼太郎は司馬氏にゆかりのある大阪加美近辺の出生。
ノモンハン事件に従軍した時は、どんな気分だったろうな。
間接的にとはいえ、司馬氏を滅した鮮卑が勃興したフルンボイル草原。そこで勝ち目のない理不尽な戦いに動員され、ソヴィエトの兵士と殺し合う。ハイラル要塞の近辺に住む鮮卑の現地人と接するに、ひと方ならない思いを抱いたかもしれない。 多くの場合、監査部署には、若者や一般職(権限の軽い者)が置かれることがある。 >>748
司馬遼太郎は1923年生まれでノモンハン事件(1939年)当時は中学生だけどな
確かに司馬遼太郎は後に満州関東軍の戦車隊に配属されたがノモンハンから5年後の1944年で
更に終戦当時は栃木県佐野市に居たので司馬遼太郎はノモンハン方面には行った事がないぞ
司馬遼太郎のノモンハン事件や司馬氏や胡十六国南北朝時代についての造詣は
このスレ出入りしている人全員束にかかっても敵わないのは衆目の一致するところなのは認める 西晋を興した司馬氏のふるまいは、五胡時代すでに評判が悪かったらしい。
石勒は
「大丈夫たるもの、大事を成すには白日のもとで正々堂々と行うべきであって
曹操や司馬懿父子のように、卑怯なやり方で天下を盗るような真似はしてはいけない」
と述べたし。
一方の東晋では、簒奪に意欲を燃やしていた桓温も、その野心をくじかれたとき、
「男子として生まれたからには、悪名でもいいから後世に名を残したいのに、
俺は文景(司馬師と司馬昭のこと)の臭も残せないのか!」
と嘆息したという。
どちらも悪しき見本として創業期の司馬氏を挙げている。 >>751
旧孫呉地域出身の虞預や干宝は司馬氏(司馬懿)ベタ褒めだけどなw >>750
1944満州の四平陸軍戦車学校入学
1945本土防衛のために佐野に配属 >>752
立場の違い
司馬氏は皇帝を置物から道具へ格下げし、貴族の蚕食を容易にしたからこそ
治世のための強い皇帝を志向する者にとっては人間の屑、皇帝を道具にしたい者にとっては人間の鑑になる
孫呉は皇帝が道具化を嫌ったから、成功例の司馬懿はさぞ持て囃されただろう >>747
殷侯として封じられた武庚禄父は金文では王子聖(耳口で下の王はない)
彔子聖や彔子耿と発掘資料にあるが
彔子の意味は不明だが、王子と呼びたくないからなのは明白
聖(耳口)と耿はどちらも発音が似ていてコウみたいな音らしい
一説には(学会では認めない)
朝鮮侯の殷叔の養子になって王位を継いだとか 殷の紂王(帝辛)は先帝を文武帝としていて
史記等にある帝乙は卜辞(甲骨文)では見つからない
ただし、周側の記録で文武帝乙とあるので間違えたか先代を理由があって否定したか
王子聖は帝辛の弟、もしくは先代の子かもしれない
または辛とか乙が氏族名(名字?)で別族の可能性もある 前涼の白興という人は自分の妻を廃して娘を妻にしたのて張駿に誅殺された
なんやこいつ…
マイナーだけど面白いやつだな 力と知恵はあっても勇気がない、というのが石虎
圧倒的な武功だけでなく禅譲の手際の良さ
治世で時折見せる漢文化への造旨の深さ
現場の将軍よりも的確な指示が送れる空間把握力
どれを取っても優れているのは間違いない
反面、勇気のなさが治世の地味さを生み出した
他者に委任する勇気がないため神経質になり
都を空ける勇気がないことで親征ができず肥え太り
自身の選択を信じる勇気すら失い宮中に籠り
独断しないであろう末子を立てて国を傾かせた
石勒の資質の中で最も優れていた勇気こそ、石虎に必要だったというのが感慨深い >>762
石虎は『ゼルダの伝説』のトライフォースでいえば
ガノンドロフ(力)とゼルダ姫(知恵)のトライフォースは持ってても
リンク(勇気)のトライフォースを持ってないという事か
残念ながら石虎にはマスターソード(退魔の剣)は持てなかったという事で
ボードゲーム『お化け屋敷ゲーム』でいえば石虎は
のっぺらぼうとか河童とか(「力」「知恵」が弱点)には勝てるが
フランケンシュタイン(「勇気」が弱点)には負けるという事か この時代はアホアホな皇帝もかなり輩出してるよね。
どこの皇帝だったかは忘れたが、
お気に入りの妃が「城が落ちるところが見たい」と言うので戦争に連れて行って
敵の城を総攻撃。ただし
「朕と妃の輿が現地に到着するまでは落城させてはならぬ」と厳命したので
軍は落城寸前までこぎつけるも、一時中断して帝の到着を待った。
ところが妃が化粧に時間がかかって到着が遅れてしまい、
その間に敵方は防衛体制を強化したので、結局城を落とすことができず、すごすごと退却。
中断さえなければ完全勝利だったのに、命がけで戦っていた現場の士卒の心境や如何に。 というか
いきなり二人目の皇帝である二世皇帝が
「馬鹿」の語源となるイベントをやらかした超アホだしな キチガイの振りして
ると見せかけてほんとにキチガイだった慕容超さん キチガイの振りした
と見せかけて結局キチガイだった慕容超 >>765
『馬鹿(バカ)』の語源はサンスクリット語で
「癡、愚か」を意味するmohaの音写である
『莫迦(バカ)』の読みからくるとする説がある
二世皇帝胡亥のだと『馬鹿(バロク)』(音読み)もしくは
『馬鹿(うましか)』(訓読み)なので 北斉は慕容部ウィルスに感染したのかと思うほど基地外の宝庫
北周に対して3〜4倍の国力があったのに捲られるとか舐めプにも程がある 北周は西魏時代に漢中と益州と北荊州を獲得してるから北斉との国力はかなり縮まってる ギリギリの状況で良く戦った宇文泰に比べると宇文邕の東征は色々雑
でも相手がびっくりするぐらいカスだったので勝てた あれほどあっさり北斉が潰えるとは、北周側も想定していなかった。 武成帝は段韶と斛律光、そして高長恭をうまく使えてるところを見ると
軍事面ではやはり高氏の才能を出してる >>773
段韶が一番優秀っぽいのに一番マイナーなの悲しみ >>775
段韶は斛律光の1年前
高長恭の2年前に死んでるからじゃないかな
多分2人よりも長生きしてたら死んでる暇ないぞ 世襲は難しいよね。
名君の子が名君になるとは限らんから。
北周なんてもともと暗君が少なくて、武帝の代で天下統一に王手をかけた状態までいったのに
その後を継いだのが天元皇帝だからなあ。
外戚の普六茹那羅延(漢名楊堅)に美味しいところ全部持っていかれちゃった。
もっとも、漢民族にとってはその方が良かったかも。
北周の国是である鮮卑民族主義を「漢魏の旧に復し」たのは普六茹那羅延改め楊堅だし、
もし宇文氏が中華を統一していたら、今ごろ現代中国語は鮮卑語ベースで、
中国人の名前も、孫文とか袁世凱とか習近平ではなく、「破六韓跋乙根」とか「叱奴干骨羅弗」みたいな名前になっていたかも。 >>777
たかだか100数十年前まで中華全土を長期間支配した満洲族でさえ固有の民族名を名乗り続けたのは国姓の愛新覚羅ら一握りで、大半は一字か二字の漢族風の姓に変えているから更に昔の鮮卑風の姓など後世まで引き継がれる訳ないよ。 現存している複姓
https://kknews.cc/culture/6yrbbv.html
さあ、このスレの諸君ならどれが鮮卑系か抜き出せるはずだ 満州族が漢姓を名乗るようになったのは辛亥革命以降でしょ。
漢化とか利便性ではなく、反満感情に満ちた時世で弾圧を逃れるための方便に過ぎなかった。
それに清と北周の違うところは、北周は漢族にも鮮卑姓を与えたこと。
北魏の孝文帝と真逆で、少なくとも言語や姓名においては中国の鮮卑化をはかっていたと思われる。
楊堅が漢語と漢姓に戻しても、独孤、宇文、慕容、呼延、尉遅などの胡姓は隋唐以降も残り、
今は漢姓としてわずかながら現代中国人にも存在する。
もっとも北周王朝が続いていたとしても、
江南を併合して漢人の比率と影響力がさらに高まると、やがて鮮卑化政策を廃止せざるを得なくなってたかもしれんが。 >>779
爾朱とか禿髪ってもういないのか
斛律もいないな
独孤、拓跋、慕容、宇文、赫連、尉遅とかはまだ残ってるようだが >>780
辛亥革命以前に既に漢族風の姓に変えている満洲人はいる。例えば『駱駝の祥子』等で有名な近代中国の作家の老舎は辛亥革命以前の1899年生まれの満洲旗人だが本名は舒慶春で舒は宋代の代表的な姓を載せた「百家姓」にもある古来からかの漢族風の姓である。
これとは逆に漢族ながら満洲風の姓を与えられた者もあって、例えば明末にヌルハチを敗死させるなど明軍の中心として後金と戦いながら讒言によって凌遅刑に処された袁崇煥の子の袁文弼は清に仕えて漢軍八旗に属する旗人となり袁佳という満洲風の姓を与えられ、その子孫も清末に太平天国と戦って功績を挙げた袁崇煥の7世の孫は袁佳・富明阿(フミンガ)と満洲風の姓名を名乗っている。 >>781
爾朱氏は朱氏
禿髪氏は源氏
斛律氏は斛氏
を名乗っている子孫居るような 孝文帝の漢化政策の反動なのか、東魏・西魏・北斉・北周時代は
複雑怪奇な胡姓を名乗る人物が、むしろ五胡時代よりも頻出するようになるが
これも隋唐時代になるとだいぶ落ち着く。
それでも独孤、宇文、慕容などの胡姓が後世まで残ったのは、北族の中でも特に貴種で
漢族社会の中でもそれなりのブランド、浸透力を持っていたからだろうか。
「尉遅」はもともと名門ではないかもしれんが、
唐の尉遅敬徳が凌煙閣二十四功臣に挙げられるようになって箔が付いたか。
元鮮卑人が多い漢姓としては、源(禿髪氏)、長孫(拔拔氏)、陸(歩六孤氏)、竇(紇豆陵氏、破野頭氏(匈奴系))など。
陸氏も竇氏も古代からある漢姓だが、唐代の史書に出てくる著名人はやたら鮮卑(もしくは匈奴)の帰化人が多い。 >>779
独孤、万俟、尉遅、慕容、長孫、宇文、拓跋、達奚
そのリストには現存の鮮卑系姓の中でも比較的多い「叱干」がない
赫連、呼延は匈奴系
賀蘭とか斛律とかかっこよさそうなのに残ってないのか >>783
復姓を単姓に変える事は多いからな。
例えば夏侯から夏や南宮から南に変えているし、諸葛などは元々は諸城出身の葛だから諸葛にしたのに葛に戻したり諸に変えたりしている。 >>780
清はチャイナプロパー得てからも、税制浄化で漢民族十倍増加というアホみたいな展開に襲われたからな
明代どころか過去の王朝時代からの流民が大挙して押し寄せた 三国〜唐初はやたら人口少ないけど部曲・流民・兵戸・奴隷あわせて5000万近くキープしてた可能性あるかね? >>788
南北朝あたりからはそれ以上に膨れ上がってた可能性もある 南北統一から20年まだ高句麗遠征も行われていない609年の隋の戸籍登録人口が約4600万人で実質的には5000 万人を超えていたとして、それより前の五胡十六国から南北朝は約3000万人台から4000万人代で5000万人は達していないと思われる。 戦乱の時代は、統計に反映されない流民の数が半端ないからね。
あと定住地を持たない遊牧民も戸籍には登録されないか。
さすがにこの時代の北族は定住してるやろと思われるかもしれんが、
唐の高祖李淵の夫人である竇氏は匈奴人で、オルドス地方で遊牧を営む費也頭集団のリーダーの娘。
この父親は北周の上柱国でもあった。
もともと劣勢だった北周の勢力が大きく伸びたのは、この匈奴遊牧集団の軍事力によるところが大きいと言われている。
南北朝末期でも、国家の重鎮が遊牧を営んでいた。 5000万人とかでも現日本人の人口の半分も居ないんだな・・・
五胡十六国乱立に至っては1国が日本の地方県レベルだったり ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています