何故、魏は大国でありながら呉と蜀に苦戦したのか5
本当にね、皇帝になりたかったなら肉親が殺されても相場通りの賠償金要求に止めとくべきだった。間違っても徐州で抵抗する連中へのクソ措置の口実にしては生らなかった。 有能を抜擢し無能を忌む改革者曹操はステレオタイプでもあながち間違ってないんだよな
超有能は警戒され改革は途中で挫折して自分が全く評価してなかった才能のない息子を後継にせざるをえなかったけど どうでもいいけど、太保と大司馬ってどっちが上なんだろうか?
司馬懿を大司馬にすると司馬司馬になるのと前任者で縁起が悪いとかみたいだけど
それで太傅にしたってことは大司馬は太保より上なのだろうか?
大将軍から大司馬への昇格が複数いるから大将軍より上みたいだけど 司馬懿を太尉から大司馬にするのが不吉だから別の官職というので
太保が大司馬よりも上だったら太保に任命したと思われる
もっとも太師や太保はほとんど任官者がいなかったから
時々任官者がいた太傅にしただけかもしれないが >>451
実際それが禍根になって滅亡した
前例踏襲が大正義のシナにおいて、曹丕のやらかしは洒落にならなかったし、曹叡が収拾しようにも強硬路線にせざるを得なくなってしまった
ただし陏唐までの争乱を産み出した賈充よりは(戦犯として)小物だけど 不吉説は正史だよ
もともと大将軍と大司馬はどっちが上なんてものではなく、そもそも並存していたものではないが
後漢末の将軍濫造の余波を受けて魏も採用するになった
その経緯と言えば孫権を大将軍に任命するために、大将軍曹仁の繰り上げ先のポストが必要になったというもの
以後大司馬は大将軍の上位となり曹仁曹休曹真と曹氏だけが歴任していた
司馬懿が大将軍になることも異例だったが、大司馬になれば余計に特別な名誉となったろう
ただその就任を阻止したのは曹爽ではなく、朝臣たちで
太傅というポストのほうが大司馬より政治に口を出しやすい雰囲気があるので、曹爽一派への牽制として太傅にされ
司馬懿は大司馬になり損なったのかもしれないね >>457
大司馬が大将軍より上なのは呉漢からじゃね >>457
蜀も孔明の後継者が大将軍から大司馬に昇進していたし
大司馬の方が上位ってのは一般認識だと思う
ネットだと大将軍の方が上だとか同格だって言ってる人もいるけど
それにしても司馬懿が大将軍から太尉ってのは三公になりたかったからかな? >>459
多分その時は明帝が司馬懿を大司馬にすることを躊躇ってたんだと思うな
なので大将軍の上として、太尉だけど兵権を握った初めての特例太尉として実質昇進扱いにしたのかと
そのせいか太傅に任命されるときも「もともと先帝(明帝)は大司馬にそのうち任命するつもりだったけど〜」
と言い訳がましいことを言われている それと斉王が司馬懿を丞相や相国にと言って、辞退を繰り返されているから
相国>丞相>太傅>太尉の順は確実 >>461
ベクトルがやや違う
相国丞相は実権職、太傅は名誉職
董卓が相国と大師を兼任したのも実権名誉の両獲りって意味がある
まあ録尚書事と緒軍事持ってれば中書と皇帝以外は敵にすらならないのが魏の制度だから
両方持ってる司馬三代の固辞っていうのは、善人アピールでしかないんだけどね 不逮捕特権と法案の拒否権を持っているローマの護民官が平民しかなれないけど実質とんでもない官職だったように録尚書事もね 司馬懿は丞相任命を九度も断って曹操曹丕と違うことをアピールした
だけど死んだあとは追贈でもっといい官位あげなきゃ!ってノリになるからそれで与えられたのが相国
一度受ければ前例となるわけで撫軍大将軍と同じく司馬氏の中で特別なものとなり
司馬師や司馬昭も相国に任命されることになる
ちなみに司馬師は死んだあと大司馬を追贈される
史書で読むと分かりづらいが、司馬昭が晋王になり改めて司馬宣王司馬景王とされる前は
司馬懿は相国、司馬師は大司馬と呼ばれていたはず 秦代や前漢は、関中にある中央と、その他の地方は、別個だった。州制度は、中央と地方の差異、関係性において、変遷してきたから。 >>16
漢発祥の地の漢中・巴蜀の辺りが異民族の棲息地なんだから漢そのものが元から異民族の国だし
泗水郡出身の劉邦は楚人
その前の項籍の西楚もその前の秦もその前の周も異民族
「中原に暮らす純血種の民族」なんてのがそもそもの幻想で中華は常に異民族の集合体 >>4
この戸籍表からわかることは
戦乱時の戸籍の数字はまったく当てにならねえって事なんだ
https://i.imgur.com/Hk3yXTV.jpg >>468
当てにならんというか
屯田の人口入ってない説があるよね >>468
北周の人口はおよそ隋から北斉と陳を引いたものか 中国は広すぎる
よほどの才能がある人間がやらないと人々を動かして統一するなんてできない >>474
その方針は晋が呉を圧倒して滅亡させたので正しいベクトルだと思うが
結局はプライドの関係で武力制圧になってしまうのが天命
それよりも魏は呉よりも延命できなかったのが問題
三國全て残念国家なのに残念な順に滅亡している感が
呉よりも魏の方が残念で魏よりも蜀の方が残念だったというのが歴史の結果 蜀滅亡時の魏の魏室が末期の後漢レベルなんですがそれはどうなんですかね >蜀滅亡時の魏の魏室が末期の後漢レベルなんですがそれはどうなんですかね
魏の末期が後漢レベルの酷さという現実は否定しないが
それよりも酷くて残念なのが蜀の末期だったという事
どちらも残念なのには変わりない 二宮の変とかで内部抗争でドロドロの呉が三国で一番マシという地獄絵図 >>480
マシというか貴族政治の理想だからな
責任おっかぶせても問題ない上に自分の身を守れる御輿を置いて、貴族は好き放題荘園も私権行使もできるっていうのは
貴族同士はなあなあで済まして下層と皇帝をプゲラすればいいという、ある意味三国の中で最も安定した体制といえる
東晋から南斉にかけてもそれが引き継がれたし
南梁で陰りが見えたら北周陏唐を宿主に利用してまで生存を図ったくらい優秀 漢中(張魯)制圧時に、司馬懿達の進言どおり蜀攻めてればよかった 曹丕の呉攻め無理にいかんと合肥あたりで待機してプレッシャーかけたら良かったのに 大国ロシアでもウクライナを制圧できなかったのと同じだ
プーチンが今頃朝ごはんのボルシチを食べながら、「鶏肋 鶏肋」と言ってるだろうよ なるほど、鶏肋ってこういう状況のことをいうのか、なんかすごく納得した 閣下がウクライナ料理であるボルシチを召し上がっている……
なるほど閣下はどうしてもウクライナを飲み込みたいのだな! >>488
皮肉なことにドンバスヘルソンと黒海沿岸以外、ウクライナはガチ鶏肋だからな
キーウすら戦略的価値は低い
価値の高いとこだけは実効支配してオデッサに王手かけるあたり目ざとい 世界有数の穀倉地帯捕まえて鶏肋とかほざいてんのマジウケる >>492
その穀倉地帯の源泉チェルノーゼムあるのが東部地域(ドンバス)
ウクライナのGDP押し上げてる工業地帯もドンバス(マリウリポリ)と黒海沿岸
輸出入のルートが黒海、そこらへんのライフライン支えてる要衝がヘルソン
残りはおんぶだっこの地域だから民族主義でどうにか支えていた >>485
司馬懿と諸葛亮と同じで名手同士だと迂闊に手が出せず硬直のまま終わった可能性が高いな 三方面の戦いが魏と呉のオールスター戦で最高に面白かったわ
三国志で一番盛り上がったのは官渡でも赤壁でも無い >>494満寵相手だと陸遜も膠着状態に終わったしな >>496
陸遜は北条氏康と同様に「負けない戦」を志向するからなあ。 状況によるだろうけど呉蜀が争って漁夫の利を得るのが魏だという時点で両者睨み合いだけして終戦協定を結んで終わるだろうね
大勝を望めない相手に消耗戦をしてその後の国力が続かない未来を望みはしない >>498
諸葛亮は蜀随一の親呉派なので呉と事構える事はしない
呉と事構えるぐらいならジャンピング土下座や
孫権の尻舐めるぐらいはしてもおかしくないw
劉備死んで諸葛亮が蜀最高権力者の時代は
蜀は呉の従属勢力と言っても過言でないぐらい呉に忠実
孫権の皇帝就位も諸手を挙げて歓迎するぐらいだからな 5chの人間に比べたらマシと擁護される皇帝は曹丕だけ へー、おれらってあんなパワハラ常習犯より人格が劣るんか。戦争に関しても何晏を「おい継子野郎!」呼ばわりして部隊運営の生贄にしてた節があるし、そっかー、そんなのより下なんだ(棒 >>500
おまけに呉の記録を読むと諸葛亮は呉の人事に普通に口を出しているんだよな >>502
あなたが言ったかはともかく
日本人には
平気で大学どこ?とか職業何?とか聞くにんげんのくずがおおいんだよなあ >>503
諸葛亮が呉の人事に口出ししたのは諸葛恪とかの件だと思うが
諸葛亮の口出しが呉の人事に効いてる感は無いな…
それよりも魯粛が劉備の人事に口出しした件の方が遥かに権力あるな
魯粛の口出しのおかげで龐統は県令クビからいきなり軍師中郎将へ出世 他国の重臣やってる兄貴から養子貰えるってかなり呉との関係良いよね諸葛亮
同じ蜀に使えてた弟は子供いなかったのかな >>506
諸葛亮の弟諸葛均には諸葛望という息子が居たらしい
しかしどうせなら息子3人居る兄貴から養子貰った方が色々メリットありそう
それはともかくWikipediaでは諸葛均の生年が何故か189年になっているが
諸葛均の父諸葛珪は187年に亡くなってる説なので
どうやったら諸葛均が189年に生まれるのか四六時中問い詰めたい >>507
年号でやると数年間違えるんだよ
今年を令和2年と間違えたり
曹叡とかも年齢おかしいとかあるけど
それは今の感覚で西暦で簡単に計算できるからだよ
甲子とかの計算も普段は三年とか五年とか年号就けずに年いうからごっちゃになる >>505
諸葛なんとかが丞相の言葉で云々みたいな記録があって
これは呉の丞相か蜀の丞相か明記されていない
まあ、95%諸葛亮だろうけど 明治大正昭和平成令和が数年ずつで変わったらごっちゃになるでしょ? >>509
張悌の件なら丞相は諸葛亮でなく諸葛恪らしい
張悌は荊州襄陽郡の人だが世代が違い過ぎて諸葛亮と接点ない 諸葛亮なんて50年前に死んだ人だからな
しかも晩年は北伐三昧だし呉の人材抜擢してる余裕はとてもじゃないがなさそう >>508
今でも昭和や平成や令和で比較する時は西暦に直して何年かで計算しているし
それがない当時は、特に何々何年と言わず、元年とか三年とかだけで
元号は普通使っていない
建安とか一部長いのもあるけど元々年号は武帝が六年おきとかに変えていたものだしごっちゃになってもおかしくない
正式文書で間違えるわけないだろは今の感覚で
生没年不明が大量にいるし、本人が年齢数年間違えるのはよくありそう >>513
荊州義陽郡(新野県辺り)出身で202年生まれのケ艾も
幼少時に劉備がその界隈で駐屯してたのに全く接点ないからな
張悌と諸葛亮も普通に考えて接点ないだろうな >>517
自己レス
ケ艾は195年生まれ説が有力だな
どちらにせよケ艾と劉備や諸葛亮らに接点が無いのは確か 張悌は孫休が皇帝の時代に屯騎校尉になった以前の詳しい事績が残ってない
どうみても諸葛亮に抜擢されたと思えない出世具合
丞相は諸葛亮でなく諸葛恪で間違いないだろう
あと胡散臭いが張悌236年生まれ説もあるので >>512
あれもちくまの有名な誤訳だから勘違いする人が出てきてもおかしくないが
まとめサイトでも誤訳鵜呑みで間違えたまま載せてるところあるのは脳味噌ヤバい
呉人(張悌)と旧魏の呉人(諸葛靚)との会話で
何の脈絡もなく蜀人(諸葛亮)が出てくるのに疑問を懐かないのは相当ヤバい
諸葛丞相が諸葛亮しか居ないなら仕方ないが呉に諸葛丞相(諸葛恪)居るんだからさ スレタイに戻るが魏が呉と蜀に苦戦したのは
後漢末の混乱で人口が減って天下統一どころでないぐらい余力無かったから
なので曹操は赤壁以後天下統一よりも人攫い(人材確保)の方が熱心だったり
魏に天下統一できる余力が出てくるのはケ艾の献策の屯田&運河が成功して兵糧充実して以降
そういやケ艾も曹操の人攫いの被害者wなので曹操の方針はある意味間違ってなかった >>520
諸葛恪は三国志の本文とそれに付随する裴松之の注でも丞相にはなってなかったはず
建康実録ではなってるようだが、作者は唐代の人間なので
そりゃ裴松之も注訳のための史料として採用できんからな 諸葛亮だったらあなたの同族で丞相になった人物なんて濁す意味ないのでは
その末路から名前出せない人物(諸葛恪)で、諸葛一族かつ名前出せないということで誰のことか諸葛靚にも通じるからそういう言い方したんでしょ
そもそも襄陽記出典だから逸話の信憑性自体アレだが
ドラマチックにするためにいろいろ盛ってそうだし >>517
>>518
庶民みたいな者だから
俺らが安倍晋三と選挙演説の時に見かけるぐらいしか接点ないようなもんじゃね >>519
孫休の時代に諸葛恪の政敵の孫綝(孫峻)派閥が葬られて
諸葛恪の名誉回復されてるから
張悌が孫休に取り立てられたのは
張悌が諸葛恪の派閥だったのが推測できるな 三国志の本文の元ネタの呉書(韋昭著)でも初代丞相の孫邵がハブられてたり
呉一番の臣張昭が丞相に推挙されても厚遇した事にならないと輔呉将軍にされたり
許沇みたいに史書で一切見られず石碑でしか存在知られていない丞相が居たり
呉では丞相はある意味忌諱される存在なのかもしれない 呉は世兵制で、各豪族が兵を各領地にて兵を養い、
皇帝の指示に従って兵を動かすというやり方を持つ。
この兵は各豪族で世襲される。
各豪族が兵を直接掌握することになり、
孫権存命時はまだまとまりがあったが、孫権晩年の二宮の乱に始まる
派閥争いのため、バラバラになっていった。 この府をそれぞれ統括するのが、
八柱国・十二将軍である。
全体を統括するのは当然丞相宇文泰である。
兵戸、鎮が今度は府という単位に変わり、
それぞれ八柱国・十二将軍が管理。
強力な軍権を掌握することになる。
後に十二将軍から隋の楊氏、
八柱国から唐の李氏が出たのはよく知られることである。 しかし>>503みたいに張悌の件の誤認識で諸葛亮が呉の人事に口出ししてるとか
妄想(願望?)で根本から考察大きく間違えてるのに気づいてないのは末恐ろしいな
諸葛亮が同盟国呉に嘆願して何とか共同作戦取り付けても
一度として諸葛亮の思い通りに呉との共同作戦が進まない件みても
どう考えても諸葛亮が呉の人事に介入する影響力ないのは明らかなのに
しかし呉も共同作戦に付き合ったりでイメージよりも結構義理堅い
蜀滅亡の時も間に合わなかったけど援軍出してるしな >>531
結構手紙でいろいろ書いているらしいし人事に口出しはしているみたい >>532
そうなんだけど諸葛亮の意見はほとんど呉の人事に響いてないのがな・・・
夷陵の戦いの「もし法正が居たら・・・」と同じで単なる願望にしかなってない 要するに諸葛亮の手紙とか残ってて史書の中で現世に伝わったのが多かっただけで
それが当時の歴史上に反映されてないので結局はガヤの戯言レベルでしかない
日本でいえば清少納言みたいな仇敵や和泉式部や赤染衛門などの同僚までdisりまくった
チラシの裏日記が後世に伝わってしまいそれを読んだ奴らが鵜呑みにしてしまった
紫式部日記みたいなもんだな あの国かなり無理して経済回してるしいつ崩壊してもおかしくない
不動産業とか政府の権限強くなかったら潰れてたし 人権無視で子供産ませたチャウシェスクがどうなったかを考えたらなあ
ぶっちゃけ正解ねえぞ 話が通じないし、自己正当化しかしない
父親も頭がおかしいけど そうだね中国はゴミだから永遠に侮ってればいいよ
恃交援而簡近隣、怙強大之救而侮所迫之國者、可亡也(韓非子、亡徴)
交援を恃みて近隣を簡(あなど)り、強大の救を怙(たよ)りて迫る所の国を侮る者は、亡ぶべきなり。
友好国の援助をあてにして近隣の国をないがしろにし、強大国の救援をたよりにして、迫って来る国を侮るものは、滅びる可能性がある。
あとお前は自分を絶対正当化したことないって言うんやねw