>>852
呉懿も中原の武官上がりだよ
劉焉の入蜀に従って劉焉が蜀の支配を固める過程で活躍したと推測される
妹が劉焉の息子の劉瑁に嫁ぎ劉焉の外戚になり劉焉の後劉璋が跡を継いだ後も外戚武官の筆頭で重用された
劉備が入蜀してくると劉璋軍の総大将として劉備軍を迎え撃つが敗れた
劉瑁が若くして亡くなったので妹は未亡人だった
劉備は新たに加わった蜀の人々の人心掌握の為に劉璋時代の重臣だった呉懿を取り込むため未亡人になっていた呉懿の妹を正室に迎えた
これにより呉懿は劉備の外戚となった
呉班は呉懿の一族

楊儀は兵を率いる将軍ではなく左将軍府の兵曹掾から尚書、丞相府参軍長吏と軍の実戦部隊のライン長ではなく参謀スタッフとして働いた
一時的に太守になった次期はあるけどそれは魏領内の太守で実質的な仕事はない左遷人事だった
上記の事からその出身階層は名士層ではなく地方役人レベルの士レベルだと推測される
なので趙雲、王平と同じぐらい
蒋琬や費禕とは仕事上のやり取りが多かった事で魏延よりは彼等と繋がりは深かったというぐらいだと思う
また将軍位としては趙雲、魏延より常に下位
蜀に仕えてからの年数では王平より長かったので王平よりは上だった
劉禅即位の223年の時点では陳到は永安都督・征西将軍で楊儀より遥かに上の将軍

馮習に関しては夷陵で護軍(領軍)だった以外将軍号すら不明なので分からない事がほとんど
同時期で趙雲、陳到より上だったとは思えないけどね
そもそも黄権が劉備に随行していたらその護軍は黄権だっただろうからその場合は馮習は前部督とかだったと思われる