夏王朝とシュメールの類似性
オカルト乙
西アジアがシュメールで東アジアが長江下流域で其々文明が興った >>15
説によれば史記もオリエントの歴史のパクリらしい 龐萌は、光武と同格か、それ以上だな。更始の方面軍としては、かなり優秀。光武が龐萌に「私の幼子をたくせる」と言ったのは、ご機嫌とりだったのだ。ほんとうに、腹心だったのでない。光武は、ウソばっかりだ。 啓(けい)は、夏朝の第2代帝。子に帝太康および帝中康がいるほかに、少なくとも5人の男子がいる。『墨子刊誤』によると、元々は開という名であったが、漢代に諱を避けて啓と呼ばれるようになったという。
『竹書紀年』によれば、39年間帝であり、78歳で没したという。
禹はもともと帝位を益に譲ろうとしていた。禹の死後、益は帝位を受けずに、啓を帝にしようとした。諸侯も、益のもとを去り、啓のもとに行ったため、啓は帝位に就いた。しかし、益が実際に帝位に就いたが、啓が益を殺して、帝位に就いたという説も有る。
啓の在位中、諸侯であり異母兄の有扈氏が従わなかったため、甘において、有扈氏と戦って勝利した。この戦いの前に、啓は六卿の前で、「甘誓」を披露した。この「甘誓」は『書経』に残されているが、本当に啓が作ったものなのかは非常に疑わしい。有扈氏は実は益の支持者であったという説もある。 元々は開という名であったが、漢代に諱を避けて啓と呼ばれるようになったという。 禹は姒姓じせいであったが、その子孫は分封ぶんぽうせられて諸侯となり、それぞれの国名をもって姓とした。それ故に夏后氏・有扈氏・有男氏ゆうだんし・斟尋氏しんじんし・彤城氏とうじょうし・襃氏ほうし・費氏ひし・𣏌氏きし・庶≠サうし・辛氏しんし・冥氏めいし・斟氏しんし・戈氏かしがある。 昔、禹と有扈氏が戦ったが、有扈氏は三軍をもってしても従わなかった。禹は1年間修め、教えたところ有扈氏は服従を願い出た。 禹は曹魏を攻め、有扈氏を跪かせばかにすることで、その教えを行った。 啓はまさに戦わんとするときに甘誓をつくり、天子直属の六軍の将を召して申しわたした。啓がいうには、「ああ、六軍の将およびその士卒たちよ、われは誓って今汝らに告げる。有扈氏は暴威をふるって五行の徳を侮り犯し、天・地・人の正道に従うことを怠ってこれを廃棄した。よって天は怒ってその天命を絶とうとしている。今、われはつつしんで天命を奉じ、天の降す罰を行おうとする。さて、左乗がその任務である射をつとめず、右乗がその職である矛で撃つことをしなければ、わが命令をつつしまないことになる。馭者がその馬を乗りこなさないことも、これわが命令をつつしみ行わないことになる。よくわが命令を用いて功を立てる者は、その先祖の前で賞揚しよう。わが命令をつつしみ奉じないものは、社の前で誅殺されるであろう。ただ、汝を誅するだけでなく、妻子までも誅殺するであろう」と、宣誓して、遂に有扈氏を滅した。 昔、有扈氏は義を為して亡んだ。啟の庶兄の有扈氏は堯と舜が賢人を舉げたのに、禹だけが子に〔政権を〕與あたえたのを憂い、故に啟を伐った。〔逆に〕啟は之を亡した。 殷の王亥は季の徳を取り守ったが、その父季は善い人であった。何故に王亥はいつまでも有易てきに身を寄せ落ちぶれて、あの牛や羊を牧していたのであろうか。王亥は干たてを合わせて舞った。女はどうして彼を懐ったのだろう。女はなだらかな脇腹、つやのある皮膚でなまめかしかった。どうして王亥はこれと関係したのだろうか。有易氏の牧童となっていた王亥は、どのようにして女に遇ったか。寝床を襲って撃ちかかれば、まっ先に出て逃れた。その生命はどこから助かったのだろう。 禹の父は鯀といい、鯀の父は帝顓頊
顓頊の5世が鯀であった
黃帝は駱明らくめいを生み、駱明は白馬はくばを生む。白馬が鯀である >>11
今はパンデミックに乗じて再びオカルトがブーム
引き籠りにトンデモを吹き込むアホが多い 孟達の裏切ライフ
孟達には独立した伝がない。蜀書「劉封伝」と魏書「明帝紀」を主な史料にして、繋ぎ合わせるしかない。この扱いからして、所属勢力があやふやな匂いがする。
扶風郡の孟達は飢饉を避け、同郷の法正と劉璋に仕えた。彼は法正らと謀り、劉備を益州に迎え入れた。兵二千を率いて江陵に駐屯し、乗っ取りの推進派として動いた。《転職1:劉璋から劉備》
孟達は劉備に信頼されない。219年に上庸を攻撃しようとしたとき、劉備は養子・劉封を遣った。劉封に孟達の軍を統率させた。上庸太守の申耽と弟の申儀は降伏した。
窮地の関羽が孟達・劉封に救援依頼を出したが、断った。
関羽は死に、劉備は孟達を責めた。孟達は罪を受けることを恐れ、かねてから仲の悪い劉封を恨んで、魏に降伏した。《転職2:劉備から曹丕》
孟達は、劉備にこんな絶縁状を出した。
「私は山ほど過失を犯してしまった(関羽を見殺しにしたり、関羽を見殺しにしたり)。こんな私が、立派な臣下の皆さんの列に加わっていてはいけません。身の処し方を潔くしたいので、自らを追放することにしました。私のモットーは『交際を断った後に相手を非難する発言はせず、君のもとを去る臣下は恨みがましい言葉を吐かない』です。私は劉備殿のことをトヤカク言いません。劉備殿も私のことをトヤカク言わないで下さい。さようなら。探さないで下さい、達ちゃんより」。
孟達は、私兵四千家あまりを統率して帰伏した。曹丕は鑑定団をやった。「孟達亜は将軍の器です」「天子を補佐する大臣の器です」と報告を受けて、大喜び。孟達の容姿・才能を愛し、新城太守を任せた。
曹丕は孟達を褒めた。「興亡の兆しを見極め、成功失敗の必然的な勢いを察知できる人なんだね」と。
曹丕は孟達の手を引いて、自分の車に乗せた。孟達の背中を撫でてからかった。「キミはまさか劉備の刺客じゃないだろね(原文:卿得無為劉備刺客邪)」。孟達への寵愛が過度なので、周囲から不満が洩れた。曹丕はそれを聞くと「よもぎの茎で作った矢でよもぎの原を射るようなものだ」と答えた。毒を持って毒を制すの意だ。
曹丕は孟達の真摯な眼差しを評価しつつも、警戒は解かないといった感じ。 廟曰弗莬毘。廷曰蓋瑪耶。國曰辰沄繾。稱族竝爲辰沄固朗。稱民爲韃珂洛。尊皇亦謂辰沄繾翅報。 2018/06/03(日) 18:00:03.29 蒋琬はずっと丞相府の事務を取り仕切っており、軍事についての経験は少ない。
彼が総司令官として軍を取り仕切るには、経験が絶対的に不足しており、それを蒋琬自身も分かっていたのだ。
また、諸葛亮死後、丞相府の率いた軍隊は各部の監軍や護軍が取り仕切り、かつてのような一つの指揮系統に収まっていなかった。 中国の歴史家にとっては、慢性的な飢餓など書く必要もないことなのである。それは第一に庶民のことであって、皇帝の正統とは何ら関係のないことである。そして慢性的な飢餓など、中国においてはあまりに当然のことだから、あえて書くまでもないのである。「太陽が東から昇って西に沈んだ」と記す歴史家がいないのと同じことだったわけである。 殷は夏を否定したが西からはそのままだと思われたのではないだろうか 周は殷王を衣王と呼んでいた
衣という儀式は合同祭祀を意味する
衣は日本語でエと読んだ 周は大邑商を滅ぼしたが、商と呼びたくないので殷と呼んだ
王子耳口のことも王子と呼びたくないのでロク子コウと呼んだ 殷とは夏のことである
漢を秦と西方諸国が呼んだように
西の周方は、東の大邑商を殷と呼んだ 姜維はなんであんなに出世できたんだろう
大した地位でもないよそものの降将で(初期は)大した功績も見当たらないのに異常な速さで出世して最終的には劉禅ですら気を遣うほどになってる 三国志演技でも目上の人(劉備)に自分の妻を料理として差し出すって美談(!)があったな
晩年の奸臣ぶりがなけりゃ儒家の教えの体現者としても(少なくとも中国では)もてはやされていただろうに、まあ料理の神様にはなっているが
あくまで明代に成立した作品での描写だから、そのまま鵜呑みにするのは危険だ。武具や服飾の描写は明代そのままの作品だし。
漢代では食人はタブーだった(王忠のエピソードを参照)が、明代では人肉はありふれた食材だった。こうした影響は、水滸伝などの明代に成立した作品全般に見られる。 お前ら和歌山県出身の下村拓郎氏(35歳独身、元自衛隊)のことを知っているか?この方は人格的に素晴らしい人物なのでよく覚えておけよ 殷代甲骨文によると、殷代の領主層には「侯・伯・子・婦・田・老・師・亜・小臣・䑳・邑」等
の複数の君主称謂があり 【焼きそばまとめ】ジャガイモ入りモチモチ太麺焼きそば/大満足!1.1キロのデカ盛り硬焼きそば/手塚治虫も愛した13種類の具材のうま味たっぷり"特製焼きそば" など (日テレ 五等爵 に関わ る爵号 は股以来存在す ることか ら,そ の初 めにおいてはひとつの制度 ではなか ったに して も,呼 称 と して用 い られてい くうちに,自 ず と上 下の区別が現 れ ま り陳薬 によれば 「五 等爵制」 は存在 しなか ったの ではな く,十 分 に行 き渡 らなかったというわけである。