なぜ趙括さんは英雄になれなかったのか?
名将の子で、幼い頃から兵法を学び、議論すれば父をも論破する。
そんな天才児がどうしてこうなった…… 中国史の研究をするなら春秋戦国時代がいいなあ
もっとも東大とかに受かれるわけがないし
研究者には最初からなれなかったんだ 西門慶の逸話も韓非子も
評判の良い人物ほどろくなもんじゃないってね バショクもチョウカツも逸話を見ると優秀だと感じさせらる
両者ともリュウビやチョウシャには評価されていなかったが 徳川家康や劉邦でも愚かな行動をして失敗したことはある
両者は運良くそれが致命的な結果にはならなかったけど、趙括は歴史に残るレベルで致命的な結果になってしまったわけだ >>444劉邦は割と致命的な大敗を何回かやってるよ
それで滅びずに立ち直れたのが劉邦と劉邦家臣団の凄いとこだと思う 劉邦は命こそ失ってないが匈奴戦の完敗はある意味長平をはるかに凌ぐ歴史的な敗北ですね
その後の中華帝国と漢民族の基となった大漢が長期間草原の民の履を舐め続けていたという事実は重い >>446
趙無恤の事を言ってるんならもっと前の文公(重耳)に仕えた趙衰からして狄人を嫁にしている。
即位前の重耳が諸国を放浪していた時に狄で叔隗を嫁にして息子(趙盾)ができた。
晋に戻った重耳が即位すると趙衰は文公の娘の趙姫を娶り子供もできた。
趙衰は狄の地に置いてきた母子の事はほったらかすつもりだったが趙姫が二人を呼べと言って
譲らないので仕方なく呼んだ。趙姫はさらに叔隗を正夫人、趙盾を跡継ぎにしろと言った。
趙盾はこのことで趙姫に生涯感謝して異母兄弟に当たる趙姫の子供たちの処遇にも配慮した。
かくて趙氏の嫡流には狄の血が流れている。 >>448
そう、趙衰のこと 今、宮城谷さんの重耳を読んでいる最中 そうか。俺は重耳は読んでないんだけど「孟夏の太陽」という趙衰に始まる趙氏を扱う一連の短編集は読んだ。
趙氏関連では趙氏族滅から復活する話と趙襄子(趙無恤)が智伯に水攻めにされて滅亡寸前から大逆転で
智伯を滅ぼす話とそのあとで智伯の敵討ちを企てる豫譲の話が好きだ。豫譲は厚遇してくれた智伯が趙襄子に
殺されると「士は己を知る者の為に死し、女は己を悦ぶ者のために容づくる」と言って敵討ちを誓った。
「己を知る者のために死ぬ」はいまでも使われるフレーズだが豫譲の言葉が原点である。 >>450
趙括が駄目なやつだと分かってるなら別の息子を跡継ぎにしろって話だよな 相手が超悪すぎただけでそこそこやれたかもってのは無いの? 趙の国運をかけた戦争の司令官に
抜擢されるんだから、史料が残っていないだけでかなりの実績があったんじゃないだろうか >>355
楚の項羽は鉅鹿救援後、秦兵をたくさん殺した時に、
河岸段丘の崖に追い詰めて、崖から転落させて20万人殺したといわれている。
穴は掘らなくともいいわけだ。
長平の場合もそのために掘ったものではなく、土塁に攻城装置を寄せ付けないようにする空堀に、
降兵を集め土塁を崩して埋めた模様。
これ以外にも、戦国期の中国の城砦には長期に籠城できるように、
黄土の地面に地下に直径十数メートル深さ20メートル程度の穴をいくつも掘ってそれを穀物で満たし、
これに屋根をかけ穀物倉庫とした。
中国の城砦が数年の籠城に耐えられるのはこれのせいなんだよね。
瞬間最大風速みたいに徴兵限界を超えて徴兵できるのも、数年耕作せずとも食うに困らないこれのせいだしね。
で、籠城が長期になるとそれらが空になるため穴埋めで大変重宝しただろうw >>456
長平の戦いの後、韓が滅亡するまでに30年かかっとるがな。
これ、何気に時間稼ぎとしては成功じゃね? 損失(死傷者・捕虜、逃散、秦に帰属)の設定を趙軍5万+上党の人口40万くらいにしたら理解できそう。 >>457
模様って、なぜお主に長平の場合がわかるんだよw
可能性がないとは言わんが想像を事実の如く書いたらいかん >>453
名将の息子で口先だけ優秀な奴は
廃嫡しても君主が勝手に重宝するから無理
似たような例で三国時代の呉の諸葛瑾の息子の諸葛恪も趙括と似たタイプ
こちらは諸葛瑾健在の頃に諸葛恪は既に卿になっているから
諸葛瑾の跡継ぎは諸葛恪ではなく弟の諸葛融
しかし諸葛融は諸葛恪より人望あるが無能で遊び好きという凡将
諸葛恪が滅ぼされた時に諸葛融も一緒にも誅殺されている
まあ名将の息子で親と同じレベルのケースは少ないので求めるのが間違い >>458
韓って南北に分断されて
最終的には新鄭だけになったのか
韓非子が言うに秦に労役と納税を提供して郡県と変わらないとか
実質滅びていたんじゃね
衛も名目上は続いていても魏が滅んだ時に一緒にだし
モナコみたいなものかねえ
フランスに納税しているしフランス人がモナコは国じゃないと言ってた 韓は秦が恵文王の時代、早くも西部の大都市だった宜陽を奪われて洛水北岸を殆ど
失ってしまい、長平の戦いの時期に成皋ら黄河南岸の主要都市を奪われて黄河以北の
上党が孤立して後にほぼほぼ秦に奪われたって感じ
韓の首都である新鄭って韓の領土のかなり東端にあるんで、どれだけ領土を奪われても
不幸中の幸いか首都が最後まで残れたのかな
そこに至るまでにもあちらこちらを奪われたり奪い返したり、割譲したり返還されたりで
いろいろあるけど最後は新鄭周辺しか残ってなかったっていうからなあ 戦国時代は領邑の奪ったり奪い返したりの繰り返しが多くて良く分かんねー!ってなる事が多い 七雄というけど末期の韓って兵力どれぐらいいたんだ?
もう秦の領主程度の力しかなかったんじゃないか 韓は姫姓だし、周を名乗っても良かったんじゃねえの? 史料上の領域変遷ならば日本戦国とか中世近世ヨーロッパ史の方がよほど複雑
戦国時代は領邑争奪の繰り返しが多くてよく分からない
というよりは史料がクソ雑魚ナメクジすぎて全般的に何も分からん 周を完全に滅ぼしたのは確か呂不イだからなあ
無力だけど魏とかも滅ぼそうとしないのは抵抗があったのでは 東周公を滅ぼしたのは呂不韋だけどこれは分家です。(あ、だから「完全に」なのか)
本家は昭襄王の時に秦の保護下に入って赧王の崩御を持って秦が九鼎を接収して滅亡だ。 西周は既に昭王の時代に滅びているし
東周君は王を名乗った説もあるし
そうでなくても周で残っているのはここだけだし 紀元前487年 曹滅亡
紀元前478年 陳滅亡
紀元前447年 蔡滅亡
紀元前445年 杞滅亡
紀元前375年 鄭滅亡
紀元前296年 中山滅亡
紀元前286年 宋滅亡
紀元前256年 西周滅亡
紀元前249年 東周滅亡
紀元前230年 韓滅亡
紀元前209年 衛滅亡 珍しくそこそこレスがあっても、大雑把に歴史の流れや人物を紹介する程度で終わるのがこの時代の弱点だな。
>>467
正しく推測できる人は存在しないでしょう。末期の兵力や人口に関する資料が圧倒的に足りない、というか無い。
まだ雄国の一つと言える版図を(たぶん)有していたBC275頃なら、(たぶん)韓の権臣暴子率いる韓軍が、(たぶん)野戦で秦軍に敗れ4万人やられた紀年記事がある。(たぶん)数万人規模の野戦軍を組織できたはず。
……織豊期の有力大名とか蜀漢くらいのパワーかね? 韓は「戦国策」などに依るなら、蘇秦が遊説した時代ですら数十万ってくらいだから、
猛威にさらされ続けた秦の昭襄王時代以降なんて韓一国で秦と真っ向から戦争できる
軍事力なんてなかったんだろうな
韓は兵器だけは優秀だった様だけど ざっと史記で韓の最盛期とされる時代を確認しても、10万未満っぽい魏軍に連敗している。
当時でも攻勢に使える兵はせいぜい5万、首都や宜陽クラスの都市に立て籠もり根こそぎ動員かけてやっと防衛戦力10万ってイメージ。 衛とかって軍隊がいたかも怪しいよね
末期の方の君主が意味も不明で魏に殺されたり 三国志の蜀も総兵力9万で遠征に使えるの5万ぐらいだとられていたよね
劉備が呉を攻めたのも4万だとか 誰も言わないけど王族だったのだろうか
趙姓が気になる 趙活君は以前何やってたかわからないんだよね?
いきなり無経験の人間を国家の存亡掛けた戦いに引っ張り出すとは思えないし副将はやってたのかな 初めての経験で無理だっていさめられていなかったっけ
実戦経験があったら良くも悪くも実力がばれていたような 「王族?」って言ってる人は最近どこかで見たような。
私も恵文王代の後半から孝成王代の政権構造(特に公子層の動向)について考えた際に想定した覚えがある。もちろん史料の裏付けはない。 同じ趙氏でも王族と何の関係も確認できない人物はけっこういるけどね そもそも確認のしようがない。
誰も答えられないのがわかりきってるから誰も言わないのだろう。 >>475
同年なら東周と魯はどっちが先に滅亡したのか >>485
趙姓以外に王姓っていつ誕生したんだろう 斉の田単みたいに下役人といいながら一応王族なのだろうか >>480
後漢末って中国の歴史のなかでもかなり人口が減った時期 今の中国人は当時の中国人が野蛮人だとみなしていた北方民族の子孫だよね 趙括さんは最期をみても覚悟はあったんだろうし親父や廉頗の副将として実戦積ませれば良かったのにね おそらく秦軍に半ば包囲された状況で将軍に就任したんだし
副将格の一人として戦場に居た可能性もあんじゃね? 作戦参謀官が適任で、将軍適正じゃなかったんだろうね。そういう人少なくない。 そもそも馬謖さんは参謀として功績も(襄陽記の怪しげな記述のみ) 趙括は武帝に寵愛されず衛青という師も居なかった 霍去病や(暴論 人をなめすぎなんだよ無能アホルサンチマンチョン晋三 世界中に大恥さらさせるぞ薬物中毒無礼雑魚 まぁその後も李牧が出て来て粘るんだから趙の国力はこの時代としてはかなり強大だったのは確か
まぁ国王とその取り巻きが馬鹿だとどんな優れた将軍がいても誅殺されて終わるよね
燕の楽毅ですら誅殺されそうになったし 白起「国王と取り巻きが中華戦国時代屈指の君主と名臣でも将軍を〆る事はよくあるゾ」
何度もフルボッコにされてる上に趙と違って地の利となる険阻な地形が乏しい
秦の圧力を真正面から受けながら存続している魏とかいう国を趙よりも評価すべき >>513
蕭何「キミ誰だっけ? 韓王の人かな?」 韓王信と韓信って同一人物じゃないの(´・ω・`)? 別人やぞ。韓王信の「王」ってのはあくまでも韓信と識別するための仮称で本名は韓信か姫信 >>516
そう言われているんだけど
実は同一人物説がないかと期待している
というか庶民だと学問も学べないよね?
韓信は元名門じゃないのか?
別人なら王族と同じ名前ってことだし そもそも史記に韓信は「淮陰侯列伝」として韓王信は「韓信盧綰列伝」としてそれぞれに
列伝が立ってるのに何で別人で有り得ると思うの? 項羽が韓王成を処刑すると張良は庶民となっていた成の親族である韓信(韓王信)を
劉邦に推薦して成信侯にしてもらった。その後、上将軍韓信が韓王鄭昌を降すと劉邦は
成信侯を韓王にした。
同一人物だと庶民から取り立てられて成信侯になって韓王として劉邦に従った流れと
項羽の軍から逃げてきて蕭何の引き立てで上将軍になり趙だの斉だの切り取っていく流れと
両立しないだろ。
それに盧綰と並べられてるのは漢帝国の諸侯王から匈奴に降った裏切り者という括りなので
淮陰侯に失礼だろ。 なんか当たり前のことここまで説明しないとわからないバカいるんだな
そいつに丁寧に教えてやってる奴凄いわw たとえば同時代に趙王歇っているけど、これも趙(国の王である)歇って事で、
韓王成や韓王信も同じだと思えば、わかりやすいのかね 廉頗は勝つ必要がなく、維持で長引かせれば良かった。
趙括は堂々と戦った。
基本どおりの事は出来ても、臨機応変は知らなかった。
兵法は読んでも学者でしかなかったんだろう。 白起は「兵法に通じているとうぬぼれているからこそ趙括を打ち破るのはたやすい」
と言ったんだっけか
親父のチョウシャが「あいつにだけは軍を任せてはいけない」って言ってたらしいし マジレスすると
見ず知らずに等しいであろう外国の新星を、「自惚れているから打ち破るのは容易い」と侮るのは愚将っぽい
>>525
勝つ必要はあったのでは?
趙国の意思が「長引かせれば良い」、であったならば廉頗は非難されんだろう 確かに無名の新人韓信を侮った陳余は愚将と呼ばれ続けてるもんなぁ。 >>527
1戦での勝ち負けではなく、長い目で見ての勝ちを狙ったんだと思うよ。
廉頗は前半で負けた結果、持久戦に持ちこんで守っていたからでは?
趙本国では戦って短期間で勝つことを望んでいたから非難したんでしょ。
秦はどんなに戦力つぎ込んでも、長くは滞在出来ないんだから。
趙兵を殺したのも兵糧の問題もあるから。 >>529
いや、そういうことではなく
本国が短期決戦を想定していたのなら作戦を遂行する将軍のタスクは決戦になる
仮に体力で上回る超大国に勝つべく大戦力を動員し短期決着を狙う計画であったならば
一将軍の勝手な戦術変更は許されないだろう 途中で戦術変更することは有り得ると思うけど。
臨機応変な将軍なら状況で変える事はおかしくない。
最初に作戦が決まったら何があっても作戦通りとは限らない。
状況も考えなければいけないのに。
忠実に任務をこなすだけの無能な司令官ならそうだろうけど
名将と言われる将軍が何も考えもなしにああいう戦法をとるかね?
結局守るだけで戦わなかったから批判されてるだけでしょ。
本国と廉頗とで違うだけの事。
趙括に代えて致命的な大敗したのは、廉頗が正しかったという証明。
秦は廉頗が守りに入ってからは攻めあぐねていたからね。
最初に短期決戦で出陣して、負けが続いても決戦に拘る?
名将と言われる人が、そんな事考えるのかね?
本国との考えの違いから叩かれて代えられたんでしょ。 長平の戦いの結果、秦はその後30年間中原進出ができなかった。
秦に充分なダメージを趙括は与えた。
白起だって趙括の本陣を落とせなかったのだから。 >>531
証明なんて出来ないと思うよ、絶対的情報不足の時代なので俺にしろ貴方にしろ憶測しかできん
実際の兵力はどれだけか、双方の兵站はどうなっていたか、両軍の位置関係、当時の地形・・・
ほとんど分からないのだから
あと名のある将軍だから状況を正しく捉えている、とは限らないよ
調子が悪かったりすると目先の失敗を懼れて展望のないまま引きこもって自滅するパターンもありえる
結果論で言えば廉頗は長平の10年前に状況判断を誤っている(廉頗の発言が事実であればの話だが) 状況しか知らないからね。
廉頗は失敗した経験を生かしてるんじゃない?
失敗したらそれで終わりじゃない。
失敗することも有れば成功することもある。
リスクはあって当然だろうし。
でも代えたのが失敗だったとは考えられるよ。
廉頗は状況判断できているよ。
趙括は勇んで出て行って大敗。
出てくる敵と守る敵。
秦にとってどちらが難しいか。
将の差だと思うけどね。 >>531
いや、短期決戦か長期戦かの選択は戦術じゃなくて戦略だ
戦略レベルだと戦争にどれだけの人民を徴兵したり国家予算を費やすか等が関わってくるから、現場の将軍が勝手に変更していいものじゃない
あと趙括が失敗したからといって廉頗だったら成功していたということにはならんよ
秦との国力差を考えたら、交代が無かったら廉頗が負けるかその前に国が破綻して、趙括に交代させていれば勝てたのにとか言われてたんじゃないかな 秦には大規模な増援を送る余裕があり、やろうと思えば更に遠方の邯鄲を攻囲することも可能。
この差がある限り、「廉頗ならいけてた!」にはならないのよな。
趙括は負けた、という事実が残るのみ……。 勝てば官軍って本当だよね。
織田信長とかも桶狭間ところか家督争いで敗れてたら無能扱いだっただろうし。 >>528旧秦の領土侵攻に貢献した韓信は無名の新人じゃないでしょ