趙雲 子龍 之二 〜演義与正史〜
趙雲(?- 229年)は中国、東漢末期から、三国期にかけての武将。字は子龍で、常山郡真定県の人。
劉備に従って転戦し、劉備の死後も蜀漢に仕えた。
【子龍】 趙雲 【人気は演義のおかげ?】
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1169537568/ >元々は劉備が一身これ胆なりと褒めさらに夜通し宴会したって別伝に書いてあるのに
>漢中王になったらシカトはないだろ?ってとこから発してるんで
そこは矛盾点としていいと思うよ。
だからと言って「趙雲別伝」自体が他の箇所の多くよりも信憑性が低いとする理由には以下略。
蜀臣の事績は、陳寿が掬い切れなかった、という可能性が大いにある。
当時の一次史料を地方から掻き集めるのは非常に大きな労力を必要とする。
のちに編纂された後漢書などは主に九つの後漢史書の編纂校定で成り立っていて、高い評価を受けている。
「後から成立した」というのはそう馬鹿にもできない。
陳寿の時代はそのような参照史料がまだ殆ど生まれておらず、陳寿が死ぬまで著作したとか
親子二代とかいう時間を掛けて書き上げたようなものでもない。
だから、先に編集された魏書、呉書などの引き写しの率が高く比較考証が十分に行われていないとも思われている。
蜀にはそれに当たる史書さえなかった。そのため、高官の官位や封爵、その年度など、
要度の高い記述さえ、陳寿の本文から抜け落ち、華陽国志によって初めて知ることができるようなことが多い。
厳顔が太守というのは陳寿の誤りだよ、と注釈されているものもある。 >>335
にまとめてあるけど、「別伝」と名づけられた史料だけでもかなりある。
「袁氏世紀」「譜叙」などは子孫の作。「零陵先賢傳」「華陽国志」「襄陽記」「江表伝」「呉歴」などは地元顕彰の書。
「魏書」「魏略」などはほぼ同時代史と言ってよく、潤筆ぶりは裴松之の指摘する通り。
「呉書」は孫皓が圧力を掛けた堂々たる欽定史書。
それらの殆どで、「陳寿本文」と矛盾する記述が見つかるだろう。
それを以ってして、その価値全体を「自ずから担保」してしまうのか? という話だね。 >>425
誰が言い出したかより妥当な内容かどうかのほうが重要じゃないか? まず趙雲が漢中王即位に反対したという説の具体的根拠が
趙雲が漢中戦後に昇進してないことしかないわけで
内容だけで妥当か判断するのは無理だろ >>427
值曹公揚兵大出だから最初に趙雲が破った追撃隊に関しては曹操本人の軍じゃないの
空城の計の相手に関しては断定はできんが曹操本人の可能性も高いと思う
公軍と書いてあるのは蜀側の視点だからだろ 趙雲の最終的な官職ってなんだったんですか?
柴田錬三郎の三国志だと大将軍って記述なんだけどww
あと、その三国志にでてくる趙雲の
「血はせいほうを染めて よろいを通して紅なり
古来陣をついて 危主を助く
当陽誰かあえてほこさきを争わん
ただあり 常山の趙子龍」
ってもっともらしい詩があるんだけど、これってシバレンの創作?w >>436
それは『三国演義』の創作。
第四十一回の最後に「後世の人が詩をつくり歌っている」とある。 最終官職は一次北伐後に降格された時の鎮軍将軍
最高官職はその前の鎮東将軍 >>437-438
遅れてしまいました
返レスどうもでした >>430
「趙雲別伝は三国志以前に成立していたが、陳寿は知らなかった」って可能性もある。
あと趙雲は漢中王即位時に昇進があったものの記載漏れした可能性がある。
例えば魏の韓キは大鴻臚がなったことは本伝では書かれず、
裴潜伝のあとに付帯された魏略の韓宣伝に唯一記されている。
蜀ならDVの劉エンなんかも何やってたか分からない時期があったと思う。 別伝というものの性格、陳寿の三国志との間に特に矛盾が無い点を考えれば、
陳寿の三国志を読んで不足や不満を感じた子孫等によって後から成立した可能性が高いだろう
元になる資料がもしあったとすれば正史以前から存在した可能性もあるが、
別伝という名が付いている以上『趙雲別伝』という形になったのは陳寿の趙雲伝より後のはずだ(当たり前だが)
趙雲の場合別伝があり、正史に無い詳細な情報も書かれていることからすると、
昇進という大事な情報について記載漏れする可能性は低いだろう
ちなみに、劉備の漢中王即位時だけじゃなく皇帝を名乗った時も趙雲は昇進の記録が無い 陳寿が採用してない=信憑性が無い、とかそんな理屈は通らんぞ。
公平に見れば別伝は、正しいか正しくないか測ることができない、だろう。 別伝にケチつけるなら、そこらへんの微妙なところいくより
孫夫人から阿斗を取り戻した逸話あたりだろう。 本屋色々と探し回って
在庫が一冊しか置いてなかった雲漢遥かに
それほどの出来という訳では無いが、もっと皆に
こういう漫画が有ると知れ渡れば良いんだが ダーウィンが来たを見たら
チベットモンキーに子龍という名前が付けられていた
もちろん趙雲から取っている >>441
>別伝という名が付いている以上『趙雲別伝』という形になったのは陳寿の趙雲伝より後のはずだ(当たり前だが)
別伝という名は便宜的についてるだけだろ。
陳寿の三国志の趙雲伝とは別の「趙雲伝」だから、趙雲別伝。
「趙雲別伝」が正式タイトルではない。 >>441はタイトルの話をしているのではない
『趙雲別伝』が内容を含めあの形に成立した時期は陳寿の趙雲伝より後だろう、と書いている
その1行だけ読んで突っ込みを入れるのではなく前後の文脈も読んでね >>451
そうか。成立時期については必ずしも同意しないが。では別の議論を。
>趙雲の場合別伝があり、正史に無い詳細な情報も書かれていることからすると、
>昇進という大事な情報について記載漏れする可能性は低いだろう
まず、昇進の記載漏れの可能性が低いとは思わない上に、
裴松之が「趙雲別伝」の、正史本伝とかぶらない箇所全文を付記したとは思わない。
孫堅の父親の名前は建康実録に載っているらしいが
これは呉で編纂された呉書にも載っていたのではないか。
同様に、趙雲別伝には昇進が記載されるも、裴松之がその箇所を引用しなかった可能性は十分あると考える。 >孫堅の父親の名前は建康実録に載っているらしいが
>これは呉で編纂された呉書にも載っていたのではないか
まずこの時点で推測じゃあ推論にすらなってないのでは
つか建康実録自体注釈に含まれてないし例としても不適格では?
ついでに言うと>>450でいう趙雲別伝が正式名称でない、というのもただの君の推測では?
ソースがあるなら聞きたい 趙雲に以外の人物でも○○別伝って注に引かれてるのは結構有るよ。 >>453
>まずこの時点で推測じゃあ推論にすらなってないのでは
意味が分からん。
そっちだって推測を重ねた推論だろ。
そちらの推論が成立するには
「裴松之が「趙雲別伝」の、正史本伝とかぶらない箇所全文を付記した」ことを説得しなければならないだろ?
本当にそう思ってるわけ?
そしてその根拠はあるのかな?
>>454
>ついでに言うと>>450でいう趙雲別伝が正式名称でない、というのもただの君の推測では?
そもそも正史には「趙雲別伝」なんて語はどこにも載っていないよ。
「雲別傳曰」と注釈が始まるだけ。
(趙)雲の別の伝ではこう書かれてある〜、ってことだよね。 まず>>441は俺じゃないんだが、意味が分からんのはそこの誤解が原因かも
まあ考えは大体同じだけど、俺が言いたいのは
「昇進という重大事項が別伝に記載があるのにハイショウシがあえて抜かしたというのは不自然」ということ
その可能性がまったく無いわけではないが低いのではないかということ
この考えに裴松之が全文を付記したことを証明する義務は無いと思う >「昇進という重大事項が別伝に記載があるのにハイショウシがあえて抜かしたというのは不自然」ということ
>その可能性がまったく無いわけではないが低いのではないかということ
俺のは推測に依拠していて推論になってないと言われたが
そっちは推測ですらない感想じゃないか。
趙雲伝の注に裴松之がもってきたのは、どれも逸話形式のもの。
「昇進という重大事項」というはそっちの思い込みだろ。
細かな昇進の記録(の異聞)を後世に伝えるのが裴松之の仕事だったとでも? >>460
>趙雲伝の注に裴松之がもってきたのは、どれも逸話形式のもの。
これだって君の思い込みだろう
・公孫サンの配下になるまでの経歴
・荊州平定後に偏将軍、桂陽太守に任されたこと
・劉備が呉を攻めたとき江州を取り仕切ったこと
これらは単なる逸話ではないし別伝にしか記載が無い
ハイショウシにとって漢中戦の活躍の後の昇進がどうでもよかったつー方が無理があると思うけど
わざわざ「虎威将軍と号された」ということは書いてあるのに
君にとっての感想と推測の違いは分からんけどな >>461
どれも逸話だろ。
逸話という言葉の認識が違うと言うかも知れないが
どれも纏まりのある話題を扱っている。
切れ切れの注釈ではない。
なので、その話題から外れた記述については捨象された可能性がある。
注釈の記事と、劉備の漢中王即位、皇帝即位はリンクしていない。
>ハイショウシにとって漢中戦の活躍の後の昇進がどうでもよかったつー方が無理があると思うけど
>わざわざ「虎威将軍と号された」ということは書いてあるのに
別伝をコピペしたのなら、違和感はない。
裴松之がやりたかったのは趙雲の逸話の紹介であって、細かな昇進の異聞の紹介ではない。
>君にとっての感想と推測の違いは分からんけどな
感想でも推測でもいいんだが、人の意見を「推論にもならない」と言っておきながら
自分の場合には「俺はこう思う」だけが論拠。それってどうよ。
で、逃げないで答えて欲しいんだが
裴松之が別伝の全文を付記したと思ってるわけ?
誰も証明しろなんて言ってないし、その答えが議論を決定するとも思わないが、
この質問から逃げるようでは議論にならんよ。
>>462
さっきからミスリードがお上手のようで
>注釈の記事と、劉備の漢中王即位、皇帝即位はリンクしていない。
即位そのものは関係無くても即位した時の趙雲の昇進なら関係あるだろう
まとまりのある話題と言うが益州平定からイリョウ敗北までひとまとめにされてるし
北伐後の恩賞の話は単体であるし、君のいう切れ切れとまとまりの区別が分からない
>自分の場合には「俺はこう思う」だけが論拠。それってどうよ
まるで「俺は違うけど」とでも言いたいみたいだな
>>452みたいに全く根拠にならないことをもっともらしく言われればそりゃ突っ込みたくなるわ。
「どこかに記述があるもの」を例にして「どこにも記述が無いこと」をフォローしてるんだから
>裴松之が別伝の全文を付記したと思ってるわけ?
そりゃわからんとしか言いようがない、別伝も残ってないし
俺の考えは>>459に書いたとおり
ハイショウシが昇進の記述をあえて省いたというのには「可能性は低い」と言いたいだけ
ついでに言うと昇進の記録が正史にも他の野史にも全く記述が無いのは不自然とも思ってるが
それは今とは関係ない話 つーか何も「即位時」じゃなくてもいいな
昇進したことを書けばいいんだから 裴松之が趙雲別伝を丸写ししたはずはないが、
裴松之の注釈の目的自体、
陳寿本文から漏れた人物の経歴・事績・官歴・逸話等を回収することにある。
実際趙雲伝の注はこれが顕著で、
偏将軍・桂陽太守・留営司馬という官歴を裴松之のお陰で知ることが出来る。
この裴松之の態度を信じる限り、劉備の即位前後に限って
趙雲の昇進歴が漏れているという可能性はかなり低いだろう。
少なくとも記載漏れがあったと前提に何かを論じることはできない。 >裴松之がやりたかったのは趙雲の逸話の紹介であって、細かな昇進の異聞の紹介ではない
確かにこの部分も彼の推測だよな
どうしてそこまでハイショウシの意図を限定できるのやら >>463
どこがミスリード?
>北伐後の恩賞の話は単体であるし、君のいう切れ切れとまとまりの区別が分からない
恩賞の話は諸葛亮とのやり取りを含め、ひとまとまりの逸話として紹介されているだろ。
>>>452みたいに全く根拠にならないことをもっともらしく言われればそりゃ突っ込みたくなるわ。
全く根拠にならないという理由は?
俺は、裴松之が「正史と重ならない異聞はすべて注釈に取りこんだ」とする根拠がないのであるから
「すべては取りこんでいない」根拠として建康実録の例を挙げた。
そちらはそれが例としてふさわしくないと言うが、それには同意しない。
呉の宗廟には孫氏の父祖も祭られたはずで、孫堅の父あたりの名前が呉書に記された可能性は高いからだ。
呉書はすでに孫権の時代に編纂が試みられている。孫権が祖父の名すら知らなかったとは思えない。
>「どこかに記述があるもの」を例にして「どこにも記述が無いこと」をフォローしてるんだから
「どこにも記述が無いこと」のフォローなどしていないんだが。
俺がやったのは、「裴松之が当時の史料のすべては取り込まなかった可能性」の例示。
>そりゃわからんとしか言いようがない、別伝も残ってないし
わからん、つまり可能性があるならば、あとは昇進の記事が注釈に載ることの可否に議論が絞られる。
>俺の考えは>>459に書いたとおり
それについてはすでに批判を加えたが。
裴松之が別伝を元に作文したのではなく、コピペしたのであれば
「昇進の記述を『あえて』省いた」ということにはならない。
紹介すべきエピソードの部分をそっくり抜き出し、他を捨象しただけだから。
>>458には返答はないし、なんだかなと思うわ。 >>467
相変わらず「ひとまとめの逸話方式」云々は良く分らん
なぜ趙雲だけが意図的にそういう形式にしてあると思うのか、
他の人の伝の注釈には昇進や任命の記述だけがポツンとあるのが散見されるが
趙雲だけそうしなかったのは何故?
しかも趙雲の場合さっきも書いたが益州からイリョウ敗北までひとまとめにされてるので
昇進があればそこに混ぜればいい、全然不自然にはならないと思うんだが
>すべては取りこんでいない」根拠として建康実録の例を挙げた
>呉の宗廟には孫氏の父祖も祭られたはずで、孫堅の父あたりの名前が呉書に記された可能性は高いからだ
だからさっきも言ったが建康実録は元々ハイショウシは注釈にないっつーの
ハイショウシが正史に載らない異聞すべてを載せたとは俺も思わない
しかし根拠の時点で推測に推測を重ねる姿勢がミスリードと言ってるわけ
「孫堅の父の名が呉書にある」というのがはっきり分かった時点で初めて根拠になる
さらに異聞を全て載せてないとしてそれが直接昇進の記述が無いことのフォローにならないことは認めるよな?
>裴松之が別伝を元に作文したのではなく、コピペしたのであれば
>「昇進の記述を『あえて』省いた」ということにはならない
これもさっきも言ったが
益州征伐から漢中戦、イリョウの敗北までの注釈の記述はひとまとめになってるんだよ
つまり漢中王、皇帝即位はイリョウ戦の前で漢中戦のあと
別伝にその頃に昇進した記述が載っていて、なおかつハイショウシがそのままコピペしたなら
なおさら昇進が載っていないと不自然だと思うが?
>>458についてはまだ確認してねーわ >>468
>なぜ趙雲だけが意図的にそういう形式にしてあると思うのか、
費イや劉放(というより孫資)など、別伝からの注釈の場合は、記述の分量があるので
自然とそうなっているという印象だが。
>昇進があればそこに混ぜればいい、全然不自然にはならないと思うんだが
それはお前が「昇進は重要事項」だと思い込んでるからだろ。
そっくり返すよ。「どうしてそこまでハイショウシの意図を限定できるのやら 」
もし必要ならば自然不自然関係なく、注釈に加えるだろう。
>だからさっきも言ったが建康実録は元々ハイショウシは注釈にないっつーの
建康実録が裴松之の注釈にないのは問題とならない。
裴松之が引用した史料がどれほど現存しているか知らないが、
それをもとにしか裴松之の史料選択を考察してはならないとする根拠が一つもない。
>しかし根拠の時点で推測に推測を重ねる姿勢がミスリードと言ってるわけ
推測であったらなぜミスリードなんだよ。
俺がしたのは、「裴松之が当時の史料のすべては取り込まなかった可能性」の例示。(何度も書かせるなよ)
建康実録が気に食わない(?)なら構わないが、
孫権の祖父の名が呉書にないとするなら、それを主張してみればいい。簡単だろ。
>「孫堅の父の名が呉書にある」というのがはっきり分かった時点で初めて根拠になる
そもそも「裴松之はすべての情報を取り込んだ。注釈に載ってないのは、元ネタの別伝に載ってないから」
という議論の可能性を封じるための論を立てた。
「裴松之はすべての〜」の論自体が根拠の薄いものであるので、「孫堅の父〜」程度の論拠で十分対応する。
それに、「というのがはっきり分かった時点で初めて根拠になる」というのはお前の妄想だろ。
推測を重ねて考察して何が悪い。問題はその推測の妥当性だ。
それを否定するのは史学の否定だろ。
>さらに異聞を全て載せてないとしてそれが直接昇進の記述が無いことのフォローにならないことは認めるよな?
何度も言わせなんなよ。
>俺がやったのは、「裴松之が当時の史料のすべては取り込まなかった可能性」の例示。
>益州征伐から漢中戦、イリョウの敗北までの注釈の記述はひとまとめになってるんだよ
違う。益州平定後の政策提言、漢中戦、夷陵の敗北という3つのトピックが引用されているのであって
もともとの別伝で続きの文章であるかどうかは不明。別伝自体が裴松之の時代に完全に残っていたかも分からんし。
>なおかつハイショウシがそのままコピペしたなら
欲しいエピソードだけ抜き出し、信憑性の薄い記述などはカットしたかも知れない。
その際に、採用する箇所から外れていたために漏れた可能性はあるだろう。
いずれにせよ別伝の逸話的な詳細な文章は、陳寿の本文とは別種。
もし別伝がまる写しされたのでないなら、漏れた文章はそのまま正史本文と重複する形ではないだろう。
あと夷陵くらいは変換したらどうだ。 >費イや劉放(というより孫資)など、別伝からの注釈の場合は、記述の分量があるので
>自然とそうなっているという印象だが。
おいおいそう言っておきながら
>もし必要ならば自然不自然関係なく、注釈に加えるだろう。
こういってるということは君の言う「ひとまとめの逸話方式」云々という話は
全く昇進が載らない根拠にもならない意味のない話だと認めてることだと思うんだが
最初からハイショウシにとって昇進がどうでもいいかよくないかの議論だということになるんだが
>そっくり返すよ。「どうしてそこまでハイショウシの意図を限定できるのやら 」
最初にハイショウシの意図を断言したのはお前だろうが
>裴松之がやりたかったのは趙雲の逸話の紹介であって、細かな昇進の異聞の紹介ではない
これはお前が書いたんだろうが
俺は最初から「ハイショウシ知っていてがあえて省いた可能性は低い」としか言ってないし
>裴松之が引用した史料がどれほど現存しているか知らないが、
>それをもとにしか裴松之の史料選択を考察してはならないとする根拠が一つもない
>「裴松之はすべての〜」の論自体が根拠の薄いものであるので、「孫堅の父〜」程度の論拠で十分対応する。
この辺とか何言ってるんだかさっぱりだが
三行目を見る限り健康実録の話は何の意味もなかったというの認めるということ
>それに、「というのがはっきり分かった時点で初めて根拠になる」というのはお前の妄想だろ。
>推測を重ねて考察して何が悪い。問題はその推測の妥当性だ。
>それを否定するのは史学の否定だろ
「ハイショウシが全ての異聞が載せてるわけではない」という主張の根拠が
なんで「呉書に異聞があったかもしれないかもしれないから」になるわけ?
ある確かな根拠をもとに推測を重ねるなら一つの推論だが
推測で作り上げた根拠をもとにさらに推測を重ねた推論は論外としかいいようがない
>違う。益州平定後の政策提言、漢中戦、夷陵の敗北という3つのトピックが引用されているのであって
>もともとの別伝で続きの文章であるかどうかは不明。別伝自体が裴松之の時代に完全に残っていたかも分からんし
>欲しいエピソードだけ抜き出し、信憑性の薄い記述などはカットしたかも知れない。
>その際に、採用する箇所から外れていたために漏れた可能性はあるだろう
おいおい、だからコピペとか「ひとまとめの逸話方式」言いだしたのもお前だろうが
昇進の話は「虎威将軍」や漢中戦の活躍ともリンクするし
ハイショウシが取捨選択でわざわざ省くのは不自然だと最初から言ってるんだがまた最初に戻るのか もう寝るから続きがあれば明日
正直これ以上君と議論しててもお互い何も歩み寄ることも得るものも無さそうだが
まあ出来る限り続けるよ >>470
まず、いいかげんハイショウシを変換してくれ。
>ひとまとめの逸話方式」云々という話は全く昇進が載らない根拠にもならない意味のない話だと認めてることだと思うんだが
「逸話方式云々」と「裴松之は昇進を重視したか」はパラレルに成立する問題。
>最初からハイショウシにとって昇進がどうでもいいかよくないかの議論だということになるんだが
別に2択ではない。その上で多面的に見て、記述の遺漏の可能性を探っているだけ。
>最初にハイショウシの意図を断言したのはお前だろうが
>>459に「昇進という重大事項が別伝に記載があるのにハイショウシがあえて抜かしたというのは不自然」とある。
「昇進という重大事項」という価値判断は「裴松之にとっての」という主張だろ?
それとも「>>459にとって」なのか?
>この辺とか何言ってるんだかさっぱりだが
俺には、裴松之の注釈を考察するのに建康実録を持ち出すのは不適当とするお前の根拠がさっぱりなんだが。
>三行目を見る限り健康実録の話は何の意味もなかったというの認めるということ
何の意味もなかったはずはない。
議論の初期段階として、裴松之が史料の全てを注釈に用いたか、そうではないかを指摘することは有用だと認識している。
俺は、そうではないとする立場として、それが「なんとなくの印象論」ではなく、
根拠して例示できるものがあることを指摘した。
正史に残っていない孫権の祖父の名前が裴松之の時代に伝わっていた可能性は十分にあり、
「建」康実録の話が「何の意味もなかった」とするのは、くだらない煽り、不当な罵倒でしかない。
>ある確かな根拠をもとに推測を重ねるなら一つの推論だが
>推測で作り上げた根拠をもとにさらに推測を重ねた推論は論外としかいいようがない
推論の定義は俺が決める、どこから論外となるかは俺が決めるってこと?
そもそも「ある確かな」の範囲を決めるのは誰なんだよ。
『「孫堅の父の名が呉書にある」というのがはっきり分かった時点で初めて根拠になる』(>>468)とか意味がわからない。
俺の、「裴松之は史料のすべては引用しなかった」という主張が「論外」ならば
お前の、「ハイショウシが正史に載らない異聞すべてを載せたとは俺も思わない 」これはどうなんだ?
俺が、お前のは感想じゃないかと言っているのはこのことだ。
>昇進の話は「虎威将軍」や漢中戦の活躍ともリンクするし
>ハイショウシが取捨選択でわざわざ省くのは不自然だと最初から言ってるんだがまた最初に戻るのか
こちらの主張が妥当かどうかはさておき、これについては明確に説明したつもりだが、そちらの読解力が足りないようだ。
俺が言っているのは、別伝の中から「逸話的な、ひとまとまりのエピソード」の3つ(これらは本来別々)を「コピペ」した可能性。
ちくま訳で言えばP188の注釈[一]を、まるでひとつの文章のように思っているから、こちらの主張を理解できないんだろう。
>昇進の話は「虎威将軍」や漢中戦の活躍ともリンクするし
漢中王即位に伴う昇進と、皇帝即位に伴う昇進を峻別していない時点で「ミスリード」だろ。
これは別伝の実体に関わり、雲をつかむような話だが、>>469の最後の段落でこちらの考えは示した。
いちいち重複して書くのもやめるが、
>ハイショウシが取捨選択でわざわざ省くのは不自然だと最初から言ってるんだがまた最初に戻るのか
要は、「裴松之が省いても不自然ではない可能性」を示した。
それについて同意できないなら、正面から批判を加えればいい。
いくらでも批判はあろうと思っていたが、読解して貰えないとは思わなかった。 >>471
>正直これ以上君と議論しててもお互い何も歩み寄ることも得るものも無さそうだが
議論という段階に入ってすらない。
この、趙雲の昇進に関する議論なんて元々が、クリティカルな結論を生み出せそうにない代物。
ある段階から先は、ほとんど印象論でしか語れなくなるだろう。
俺は「昇進の記述が漏れた可能性あり」派だが、それを説得力をもって語るのが難しいことは当然承知している。
しかし、その前段として議論の屋台骨を組むことが出来る可能性はある。
それが「別伝」の検証であったり、裴松之の注釈全般についての考察だろう。
であるにも関わらず、>>454では
>ついでに言うと>>450でいう趙雲別伝が正式名称でない、というのもただの君の推測では?
>ソースがあるなら聞きたい
と、まるで「趙雲別伝が正式名称である、またはその可能性を示唆する根拠がある」かのような態度でありながら、
いざこちらの根拠を示しても返答はなく、改めて問うたら「まだ確認していない」とか。
PCから書きこんでるなら原文を探せようし、でないならば、そもそもソースを問うたのは何なんだ?
「ソースがあるかどうか質問したが、確認できる手段も意思もない」とかただの嫌がらせだろ。
その挙句、「これ以上君と議論しても得るものがなさそう」だからなw
ソースだけ要求して、相手の失点を待っていただけか。
議論が勝ち負けでなく、そちらの言うように共通理解を得るためのものならば
君の今のやり口のままでは、議論の相手としてふさわしくないと思っている。
「推測」や「推論」についての定義は示してこないし、どうせ「俺様定義」だろうし。
そんなもんに10レスぐらい費やす気もないのでね。 >>474
裴松之が建康実録を史料として用いた、というようなことは書いていないが。
>「逸話方式云々」と「裴松之は昇進を重視したか」はパラレルに成立する問題
いいや、成立しない
「偶然そうなったと言ってる」と言っておきながら「必要なら不自然でも載せる」と言ってるんだから
君の言う「ひとまとめの逸話方式云々」はなんの意味もない
>俺には、裴松之の注釈を考察するのに建康実録を持ち出すのは不適当とするお前の根拠がさっぱりなんだが。
> 議論の初期段階として、裴松之が史料の全てを注釈に用いたか、そうではないかを指摘することは有用だと認識している。
>俺は、そうではないとする立場として、それが「なんとなくの印象論」ではなく、
>根拠して例示できるものがあることを指摘した
「正史に残っていない孫権の祖父の名前が裴松之の時代に伝わっていた可能性」
まずこの時点で推測なのにこれで何を主張できると?
ハイショウシが異聞すべてを載せたわけではないという根拠はここから来てるんだろ?
>根拠して例示できるものがあることを指摘した。
だから最初から根拠にすらなってないっつーの
この時点で認識違い、その件に関しては後で
>俺が言っているのは、別伝の中から「逸話的な、ひとまとまりのエピソード」の3つ(これらは本来別々)を「コピペ」した可能性
その「ひとまとまりのエピソード」云々は説得力が無いとさっきから言ってるはず
本来別々とか言うのも君のただの推測のはずだが? そういう部分がミスリードだと言ってるんだよ
持っていきたい結論 ハイショウシが全ての異聞を載せてない
根拠の根拠 孫堅の父親の名前は建康実録に載っているらしい
↓
(推測)これは呉で編纂された呉書にも載っていたのではないか
↓
根拠(推測) 呉書に載ってある記述をハイショウシが載せてない!
これに無理を感じないのは多分君だけだと思うよ >>475
裴松之の話をするときに建康実録云々は例え話としても不適切いうID:oCTIzQyx0に同意って話だよ
成立時期も違いすぎるし、資料としての性格も違う。そもそも鵜呑みにしても良い内容の資料でもないしね
逆に言えば、君は建康実録以上に自論の根拠になるものを見つけられなかったってことだろ?
建康実録の話は横に置いておくとしても、
韋昭らの呉書は完成していなかったこと
陳寿の呉書は呉末期は自ら書いたが、信憑性の低い記述と省いて
ほぼ韋昭らの呉書を丸写ししたと思われること
裴松之は注をつけるにあたって全国を駆けずり回ったわけではなく
手に入った資料については信憑性の低い記述でさえ断りを入れつつ記載していること
(この段落に書いたことは俺の自論ではなく普通に流通している研究書に載ってるレベルの話で
きりがないのでいちいち根拠は挙げない)
これらのことから、韋昭らの呉書には孫堅の父の名は記載されていないと推測できる
その頃誰も孫堅の父の名を知らなかったとは自分も思わない
が、知っていたからといって韋昭らがそれを書かねばならなかったわけではないだろう
呉の太祖は孫権で、父とはいっても孫堅は二代前に当たるから、それを記せば充分だと考えたのかもしれない
(陳寿の魏・蜀・呉書はそれぞれ編纂の経緯が異なるから、劉備や曹操の祖父の名が遺されているというのは理由にならない) >>476
こちらは、そちらの提示した個別の疑問にそれぞれ答えているつもりだが
そちらは答えたいところだけをピックアップして答えている見受ける。
>>477
>これに無理を感じないのは多分君「だけ」だとよ
そういう「ミスリード」はいらないよ。
以上のことから、議論が手段でなく、目的の人間であると判断したので、これで終わらせて貰う。
あれだけ言って別伝のタイトルについては黙殺だからな。
>>478
>裴松之の話をするときに建康実録云々は例え話としても不適切いうID:oCTIzQyx0に同意って話だよ
>>474を読む限りでは、とてもそうは読めない。普通にレス出来んのかと問いたい。
「逆に言えば」などと妙なミスリードを誘っているが、建康実録がいかんというなら、正面から批判すればいい。
成立時期や資料としての性質の違いが、この件に関して例として持ち出すのにいかに不適当かをね。
>が、知っていたからといって韋昭らがそれを書かねばならなかったわけではないだろう
>呉の太祖は孫権で、父とはいっても孫堅は二代前に当たるから、それを記せば充分だと考えたのかもしれない
俺は可能性の話をして批判を受けたが、そちらも大差ないね。
「裴松之が趙雲の昇進を書かねばならなかったわけではない」
孫権の祖父の名のみならず、その一族の出自すら記述されていないんだがね。
一武官の昇進より、呉の創業者とも言える武烈皇帝の父親の名や出自の方が重要な情報だと思うけどね。
あと、孫堅は二代前じゃないだろ。孫策は皇帝じゃない。
>ほぼ韋昭らの呉書を丸写ししたと思われること
孫権は呼び捨てだけどな。当然、差を設けたわけで、丸写しとも思えない。
>手に入った資料については信憑性の低い記述でさえ断りを入れつつ記載していること
俺は「流通している研究書」にどんなことが書かれているのか知らないが、
信憑性の薄い記述であるからこそ取り上げて論難した可能性も高いと思うんだがね。
でも、>>478の立場は「裴松之は入手した異聞はほぼ載せた」ってことなんだ。
oCTIzQyx0とは違うんだね。 まあ結局君もこっちの質問に答えてないし偉そうに言えないよね
もう答えたくないなら別にいいけど
とりあえず
・「ひとあとめの逸話方式」云々は何の意味もなかったこと
・裴松之がやりたかったのは趙雲の逸話の紹介であって、細かな昇進の異聞の紹介ではない。
というのがただの君の決めつけであり、これを根拠に何かを主張するのが無理だということ
上記の二つはちゃんと認めてくれたようなので心残りは無いよ >>480
>上記の二つはちゃんと認めてくれたようなので心残りは無いよ
最悪だなコイツ
図星もなにも常に反論していたろ。
多少口調が荒くなる場面もあったとは言え
基本的にレスを応酬していただけなけなのに
こんな結果とはな。
最悪というのは迷ったうえでの抑えた表現。
当初書こうと思った通りに、「キチガイ」に訂正しておく。
俺以外の人から反論受けてるのも君一人なのに勝手に相手を「キチガイ」認定
俺がキチガイなら何で君の意見に賛同する人がいないんだろうねw
まあ結局は認めるようだし別にいいけど ものすごい長文を掛けて出た結論が、「記載漏れの可能性はないこともない」
では、歴史研究には何の意味もなさないなあ >>成立時期も違いすぎるし、資料としての性格も違う
って書き方だけで理解できないのはそちらの思考または知識が浅いからだろう
>>が、知っていたからといって韋昭らがそれを書かねばならなかったわけではないだろう
↑この部分は、
>>これらのことから、韋昭らの呉書には孫堅の父の名は記載されていないと推測できる
↑これを俺の結論とした上で普通に導き出される答え。
>>呉の太祖は孫権で、父とはいっても孫堅は二代前に当たるから、それを記せば充分だと考えたのかもしれない
↑この部分は単なる予想だが、この部分を上記の根拠にしてるわけじゃないから不確かでも構わないはずだ
(これらを説明しないと理解できないってのは予想外だったw)
>孫権は呼び捨てだけどな。当然、差を設けたわけで、丸写しとも思えない。
呼び名を変えることは当たり前のことなので書き忘れた
>信憑性の薄い記述であるからこそ取り上げて論難した可能性も高いと思うんだがね。
お気に召さないようなので言い方を変えよう
「もっと本読んで知識と論理性を身につけてから書き込めw」
この一言で済む話だったな。>>477に同意する >>486
彼には何を言っても無駄だと思う
・建康実録に載ってるから呉書にも載ってるかもしれない孫堅の父の名前
・趙雲伝の注釈は「ひとまとめの逸話方式(?)」
・裴松之がやりたかったのは趙雲の逸話の紹介であって、細かな昇進の異聞の紹介ではない
これらは彼の「主張したい事そのもの」ではなく
あくまで彼が「主張したい事の根拠」として当然のように出してきたもの
つまり彼は「独自で作り上げた不確かな推測を重ねた推測」を根拠にして「別の何か」を主張することに
疑問や違和感を毛ほども感じないという特別な人なんだよ。
俺達常人が付き合える相手じゃない
最後まで建康実録の話が例として何がおかしいのか理解できなかった事からもそれが分かる。 >487
そのようだね
その「別の何か」は不鮮明だが、理屈ではなく感情的なものようだ
>>441に噛み付きたいのか、趙雲は劉備にこの上なく大事にされていたと思い込みたいのか…
もし後者のような理由なら、実は俺は嫌いじゃないw >>478
>手に入った資料については信憑性の低い記述でさえ断りを入れつつ記載していること
ジョウヨウキやカヨウコクシには採用されてない記事も多いが
貴方の読んだ研究書・論文ではその問題はクリアされてるわけ? まだ来てないのかな?
文字数が多いので載せず、みたいなこと言って省略する場合もあるよね。ハイショウシ。
彼が参照した資料は当時は入手可能なものだから、そのすべてを載せる必要はなかったと思う。
ただ陳寿が贅肉をそぎ落とし過ぎているので、つまりはデラックス・エディションを作ったわけでしょう。 墓から新資料でも出ないかね。
蜀侵攻の際は別動隊率いて、方面軍指揮とってるようだし、季漢輔臣賛の趙雲項見ると
よく言われる親衛隊長だのボディーガードだので、大軍率いて
戦った事がないただの部隊長クラスだったってのは、納得いかないんだよな。
もしそうであるなら、ここまで評価なり逸話なりが
広がるものなのだろうか。。。 >>502
まるで信憑性の無い資料の場合、矛盾点が色々見つかるものだが、
趙雲別伝は陳寿の正史と矛盾する記述は特には無い。というくらいには信頼できる
が、例えば、本当に公孫サンに対して「我が州の意見は〜」と言えるほどの立場にあったのか?
漢中では空城の計なんて本当にそんなに上手くいくか?などの疑問はある 「わが郡の意見は」ね。
別伝によると矛盾しない。
趙雲は中山の郡吏と義兵の代表として公孫サンに味方した。
群雄割拠の時代だから郡の住民の総意のはずは無いが、
郡を統治する正当性を持つ(はずの)中山郡府の意見を公孫サンに伝えるのは自然なこと。
空城の方はよくある伝説の可能性が高いだろうけど。
文聘とか徐盛とかよくある話。 >>504
正史読み直してみれば?
我が「州」だからもしかしておかしいんじゃないかと言われてるんだよ こりゃすまん。こちらの勘違いだった。
・冀州の人間は皆袁氏に附くことを望んだ。
・しかし趙雲らだけが公孫サンに附いた。
・公孫サン
「貴州の人々のうち、なぜ君だけ回心して迷いから覚めて
(正しい道に戻って)くれたんだね?」
・趙雲
「我が州の総意は『仁政の在るところに従う』というだけで
(それに従ってみなそれぞれの判断で動いているだけです)
別にあなたに私するところがあるのではありません」 州ってのは郡ほどのまとまりはないから
郡が誰に従うかを刺史が決定することはできないし
全太守が集まって会議するようなことも普通はしない
文書で総意をとるような時間的余裕もないだろう
この時の冀州も郡ごとにバラバラだった結果、常山郡だけが公孫サンについたという話なのに、
郡から推薦された身に過ぎない趙雲は州の意見が云々と述べる立場ではない
また、趙雲は他のエピソードでは正論や事実を述べ納得させる方法をとっており、
ハッタリで誇張するパターンはない
事実上総意がとれていないものをとれているかように言うことはパターンから外れる
実際に趙雲がハッタリ(嘘)を言ったというよりは、
趙雲を良く見せたい別伝の著者、編纂者が「我が郡」を「我が州」に誇張して書いたのではないか
そもそも空城計の例もあり別伝の全てを無理に信頼しようとする必要はないだろう 文書で総意なんて取れるわけないじゃない。
「住民はみな善政を願って行動してるだけ」って、当たり前といえば当たり前のことを弁明しただけ。
ハッタリですらない。 >>508
なんか思い込み激しそうな人だな
その解釈が正しいと決まったわけでもないのに
原文は「鄙州論議」、住民には意見を述べる権利などないし論議の主体は民ではない
文化的背景を無視して無理な解釈をするなよ 「住民」って別に名もなき一般庶民って意味で使ったわけじゃないし、
それは別にツッコむところじゃないんじゃないか?
高級官吏およびそれに影響力を与えうる階層の民、ってことでいいだろう
矛盾する記述もあるにはあるよ
本伝だと公孫サン配下時代に既に趙雲は劉備の配下になってるはずなのに
別伝だと公孫サン配下時代は出会っただけで袁紹配下時代に初めて
劉備の配下になったことになってる 本伝には公孫サン配下時代に劉備が田楷救出に向かうときに随行した旨が書いてあるだけ
その直後の文が長坂でそのまま劉備配下になったと思ってしまうけど
そのまま劉備に付き従ったとは書かれてないよ
別伝は穴を埋めてるだけで矛盾はしてないだろう 孔明伝のヒゲのはえたダンディ趙雲は都市相応っぽくてかっこよかったがその後は出てこなくなったな
あれは趙雲が寿命で死ぬしリアルだった ドラマ三国志を見ていたら(劉備が孫小妹を娶る辺り)趙雲は孔明の仲人で見合いをし結婚したとありましたが
脚色ですか? 脚色だね。
少なくとも史書や演義にはない。
他の説話や、中国の最近の小説などではどうか分からないけど。
趙雲の古里に行ってみたい
どんな所か気になるんだよね
ドラマの三国志見てたら6月から成都直行便始まるみたいだし 眉毛が太くて目が大きいくらいなら、現代でもイケメンで通じるかな。
問題は顎だなあ。二重顎でなく割れ顎という事なら「水嶋ヒロ」タイプでいけるんだけど。 趙雲を現代日本人で例えるなら、藤岡弘、しかいないだろ >>525
なるほど納得。
藤岡さん、あれで65歳だからなあ。 >>518
演義だと劉備より年上
227年の北伐時に数えで70才=158年生(劉備は161年)って設定
>>528
ところが、演義初登場の界橋の戦い(192年)では「少年(未成年の若者)」と書かれている。
二十歳だとしても、173年生まれで劉備より8歳年下という設定。
演義はさまざまな講談や読み物語の集成なので、どちらが先に出来た描写かはわからないが、
まあおそらくは死亡時年齢の計算ミスだろう。
史書で言えば、劉備は趙雲を厚遇して自分のベッドで寝かせている。
これは年上に対する礼ではない(年上をもてなすなら寝台を客に譲って自分は床などで寝る)
ので、趙雲は劉備より同年以下だったと推定できる。 ただ趙雲は、常山郡の、少なくとも郡府から派遣された代表として
兵や官吏を率いて公孫サンに味方しているので、
192年当時二十歳というほどの若輩者とも考え難いが。 >>529
> ところが、演義初登場の界橋の戦い(192年)では「少年(未成年の若者)」と書かれている。
明確な数字はなし、憶測に過ぎない
> まあおそらくは死亡時年齢の計算ミスだろう。
そして、登場時の方に表現のミスの可能性を考えないの?
> これは年上に対する礼ではない(年上をもてなすなら寝台を客に譲って自分は床などで寝る)
趙雲は客じゃない、家臣になりに来たのだから一概には当てはまらない
これから仕えようとする人を差し置いて寝台で寝るなんてマネ、自分が年上だろうとできるはずがない
> ので、趙雲は劉備より同年以下だったと推定できる。
従って、根拠としては薄い