諸葛亮の人選
てかさーたまたま目付き悪かったくらいで“反骨の相”とか言われてもなあ。そりゃあ怒って当たり前だよ >>48
人を見る目はあるんだけど使い方がヘタな時あるよね。
張飛に留守番させるとか。 その留守居を失敗したから漢中の守将に魏延を任命したんだろ
劉備の人を見る目は鋭いし、非常にシビア >>47
反骨の相というのは絶壁頭のことらしいぞ。 癖の強い魏延を十全に使いこなすのは蜀漢ではやっぱり癖の強い劉備だけなんかなぁと。
諸葛さんは過不足なく使えるけど癖の強い人材は劉備ほど使えない印象。 >>54
そこは英雄になり得るだけの存在だった劉備と,
どこまで行っても名臣の域を越えられない諸葛亮の差なのかなと。 >>57
関羽、張飛、趙雲、黄忠、魏延、馬超、馬岱、簡擁、糜竺、孫乾
関平、周倉、王甫、伊籍、馬良、張苞、関興、関索、厳顔、李厳
呉懿、呉班、呉蘭、雷銅、向朗、向寵、霍峻、霍弋 、黄権、黄崇
李恢、王平、張翼、馬忠、張嶷、呂凱、蒋エン、費イ、董允、郭攸之、姜維、夏侯覇
ついでに徐庶、ホウ統、陳圭、陳登、田豫
何か? 魏にいたら名前も残ったかどうか
あやしいやつばっかだな 徐庶なんか、魏に行ってただのボンクラだったことを自ら証明したしなw
>>59
武聖関羽
中華武人最高位の称号
魏なんて問題にならんな。
中国の歴史全てでナンバーワンだ。 徐庶はきちんと魏で出世してるぞ
場末の地方勢力とも呼べないような集団の特に重鎮でもない人物が敵に投降して中郎将にまでなってるんだからむしろ相当実績を積んだんじゃないかと思うんだが >>61,>>64
つうか単家の出かつ後からの加入で右中郎将や御史中丞のような中央官を歴任できる時点で,
相当優秀だっとしか思えないのだが。 でも、孔明があのジョショがあの地位とか魏にはどんだけ人材がいるんだよって嘆いたんでしょ まぁ諸葛亮的には徐庶なら州刺史くらいよゆーよゆーって評価だからな
いくら中央官とはいえこの程度じゃ徐庶には役不足だと感じるのも無理は無い 諸葛亮の軍事の面は、北伐の際に隴西まで攻め込んでいた部分はかなり評価出来る。
登用の面も、馬謖の一件はあるけれども、前コメの通り、蒋琬などの後事を託せる人間を見出している部分は大変評価出来る。
ただ、そもそも、一人の力だけで国を維持するのは大変難しい。
身は一つであるからだ。
その点、曹操、曹丕なんかはほかの人材を上手く使って広範な地域を治めていたのだから、魏の方が上手になるのも仕方ない。
諸葛亮は蒋琬や費禕なんかに色々と託してしまって、もっと長生きして、人材育成に徹した方が良かった。
彼の誤算は色々とあるけど、
関羽が荊州を取られてしまったことと、劉巴が早世してしまったことだろう。
荊州は軍事面でも重要拠点だったけど、太学という学問機関があり、優秀な人材も集まっていた。また、肥沃な土壌でも知られている。
劉巴は激務の尚書令を非常に優秀な能力でこなしていた。彼が早世してしまったことで、相当負担が増えたのは間違いない。
あとは、彼の失敗は派閥を放置していたことだと思う。競争が人を育てると思っていたのか分からないけれども、蜀人が徐州、荊州、益州、それに他国からの投降者の差異を忘れ難くて、チームとして一枚岩でなかったのが、北伐失敗の遠因かもしれない。
そういう人間的な部分に配慮出来なかったのは、諸葛亮の失敗だった。
例えば、楊儀魏延の不仲を諫めたり、和解させようとしたり、そんなことをやっていれば。
あとは、もっと、魏延に配慮して、自分の心中をせめて明かしていればと思う。
忙しかったからなのか、それとも、その優秀さゆえに友人関係……分かり合うことの大きさを得られなかったからなのか。
とはいえ、諸葛亮存命中や、黄コウが実権を握るまでの間、大した問題もなく、蜀漢が安定していたのは、彼の功績が大きい。
蜀漢は、劉備・孔明の人徳の上に成り立ち、漢室復興の上には真に成り立っていなかった。 まてまて、劉備も張飛を留守番に任命して、手痛い失敗してるだろ。
それ以降二度と独立した場所には置かなくなったし、よっぽど堪えてた思うわ。
失敗は馬謖、李厳
後年は派閥によらず人事を成功させてる
癖のある魏延楊儀の登用
有名どころではケ芝の抜擢や、董允、蒋?、費?の育成と
成功例は多い >>21
日本の少子化とか、20年前から放置した氷河期世代のせいだし
その世代をせめて10年前になんかしといたら今の日本は違ってた
ということ? 人材が不足してたかどうかはわからん
蜀の記録はやっぱり少ないからな 魏滅蜀之戦最終防衛軍一万
漢行都護衛将軍平尚書事武郷侯諸葛瞻
漢武郷侯世子諸葛尚
漢尚書張遵
漢尚書郎黄崇
漢羽林右部督李球 別嗣~統顯于東冥者爲阿辰沄須氏。其後寧羲氏著名五原ゥ族之間。 お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳、元自衛隊)をご存知か、この方は将来素晴しい人物になるから覚えておいて損はないぞ 蜀がまともにやって魏に勝つのはどう考えても無理っぽいが
魏も後半は反乱の連続であり、まともにやらなければ勝てた可能性はあると思うようになった >>54
満足するような人材は確実に政敵になる
素直に従うわけがない そこで蒋琬は、司馬に自身の軍を取り仕切らせると共に、各部の監軍を大司馬府(大将軍府)に集め、諸葛亮時代と似た組織を、よりコンパクトに再生しようとした。
初め、李福を前監軍として前部を大司馬府に取り込み、更に右監軍姜維を呼ぶ事で右部を取り込んだ。また、王平を大司馬府に入れる事で後部をも指揮下に収める事になった。
蒋琬は大司馬として漢中に幕府を開くと、漢中防衛の軍となっていた王平の後部を指揮下に収めると、改めて王平を前護軍として前軍の指揮官とさせ、後部と右部、更に中部を中監軍領司馬姜維の旗下に入れ、軍の再編制に努める事になる。 諸葛亮の父は諸葛玄で、従弟とされる諸葛誕はその異母弟 諸葛亮の元の字は「公明」で(後に「孔明」と改称)、異母弟とされる諸葛誕の字である「公休」と共通していること 諸葛亮は名門出身というのは微妙で、劉表さえ相手にされず、やむなく劉備に仕官したこと 劉封と仲が悪く、劉封を葬ると「劉備の実子」から「劉備の養子」扱いに改竄したこと 嫌った彭羕を葬ったのは、自分に抵抗する益州軍閥が劉封を擁立する計画があったため、これを壊滅したこと 荊州牧の劉表はかつての昔なじみの諸葛玄を「かつて袁術の部将」だった理由で冷遇したため諸葛玄は悶々としたが、旧友の蒯越のとりなしで、特殊な客将の位置を保障されたが、諸葛玄が197年に悶死すると、劉表は諸葛玄の遺児とされる諸葛亮らを庶人に降格させて野に下らせたこと 実際の諸葛亮は、濁流を呑み込めない正義派の「酷吏」型の官僚で、怖くて近寄りがたい人物だったこと 蔣琬費禕姜維を見いだせる人間がなんで周りの反対を押し切って馬謖を起用したのか 孔明「劉禅様のためにはこれが最良です、子どもを殺したぐらいで女々しく泣くんじゃありません」
劉備「子どもを殺したのが哀しいんじゃない、忠臣を知らずに殺してしまったのが哀しいんだ」
と、孔明のKY振りを劉備に強調させている上に、この会の末尾の作者のまとめで「こんなこと(劉封謀殺)をやった孔明は犬や豚以下の糞野郎だ」とまで言ってるからね。 諸葛恪は二宮の変のとき、息子を敵側においた。真田幸村の謀略と同じだ。諸葛恪は、息子を毒殺して、変を勝ち抜いた。
諸葛氏は、三国をすべて内側から乗っ取ろうとしていた。魏の諸葛誕も、主導権を握ろうと、叛乱した。 三国志諸葛亮伝によれば、劉禅は建興元年に諸葛亮を益州牧とし、以降、諸葛亮が丞相領益州牧として、季漢の朝廷と、地方行政の全てを統括する体制が築かれるのである。 行丞相事の行は「ギョウ」と読むのか「コウ」と読むのか? >>70
楊儀は劉備が先に大抜擢して左将軍府入りしたんじゃなかったかな