【反骨の】 魏延 【相】
個人的に魏延は権力を握れなかった姜維といった印象
魏延が諸葛亮死後に生きていたら姜維のように暴走して国を疲弊させてただろう 劉備一派が入ってきた時点で、益州やら荊州やらにとっては疲弊させられていく未来しかなかったと思うけどね。
誰がやってもw 法正、孟達、張松らが早死にしちゃったからねぇ><
評判ほど蜀に人材がいなかったのも一因な気がするのだが tp://www.narinari.com/mobile/news_co.php?view=2007-04-7290&p=0
増長した董卓・呂布・魏延などの裏切り者がたどった末路
tp://sengoku.choice-and-order.com/02/03.shtml
馬岱は魏延と反乱を起こします…魏延が魏に降らないように
tp://www.accessup.org/jgame/7_Sangokushi_202/
呂布や魏延・糜芳など寝返り・謀反で有名な方々は忠誠度100でも寝返るほどです
tp://kanshigyoku.client.jp/jin-syoku7.htm
漢中を征圧し、蜀を滅ぼそうと目論むが、
tp://ameblo.jp/shiro13-1/entry-10183186544.html
単なる裏切り、魏延ごとき反骨だけの人物
tp://www001.upp.so-net.ne.jp/eiyutan-3594/karuta/efudassa.htm
魏に投降しようという魏延に対し
tp://www3.ocn.ne.jp/~kinnoji/batai.htm
魏延は馬岱に「魏に投降すべきだろうか?」というと
tp://www2.plala.or.jp/NA-YO/zijishaojiepeji.html
魏延の裏切りっぷりはものすごいものがあった。
1回の戦いで10回近く裏切ったからね。実際にあんな武将がいたんじゃ困ってしまうぜ!
tp://6551.teacup.com/orif/bbs/455
魏延は名将及び能力のある人物とは思えません
tp://seraphim.blogtribe.org/entry-f436ab54e4c542bc50762e91dcb08ba0.html
そして実際諸葛亮の死後魏延は蜀を裏切り魏に下ろうとし、(中略)
その時魏延が自分の武に驕り、(中略)
馬岱は悪人魏延の配下に降格させられると言う(しかも蜀の他の武将には誰もそうだとは知
らされていない。誰もが馬岱が本当に魏延の部下に降格させられたのだと思っていた)
屈辱よりも蜀への忠誠を優先させ、最後に魏延を斬って諸葛亮の最後の命令を遂行する。
西涼の武将に共通するのだろうか、義に厚い武将が西涼には多いように思う。 アニメ横山三国志や人形劇では呂布の最期が悪党にふさわしい見苦しいもの
ではなく美化された最期になっていた(なんと人形劇では魏延の最期はかか
れてない)
テレ東の三国演義はこういった改悪ではなく魏延の最期を美化することなく
きちんと史実に忠実に描写すべきだ 史実はただの自爆だけど
演義では孔明が魏延を虐げてるように描かれてるから魏延に同情が集まることも多いんだよな
昔の中国中央電視台のドラマ三国演義でも
孔明が無意味に魏延に辛くあたって虐げる描写が何度かあって魏延が辛そうにしていた
陳式が魏延に全ての罪をなすりつけるセリフもあるし、
少なくともそのドラマでは「薄幸の英雄」ってキャラ立ちだったな 魏延は犠牲になったのだ・・・孔明の犠牲にな・・・・
特に最後の方、どう見ても魏延への嫌がらせレベル
最後の反乱(?)も
魏延が蜀を制圧する、俺が皇帝だ!とかしてる訳でもないし
実質反乱でもないよなあれ、知らない人だと
単に魏延が悪い事をして危険だから処罰されたように見えるけど・・
劉備への忠誠心も高く高評価され
色々な目にあっても最後まで蜀に仕えた名将だろ
孔明、おまえチートレベルの軍師なら
もう少し上手くやれよ・・・
最初から最後まで魏延警戒し過ぎな上に批判し過ぎ
最初のあの黄忠と一緒に仲間になった時
一方的な論理で殺そうとした時からもうね・・・
>>306
蜀漢の帝紀たる後主伝では「権力争い」の扱いだから
蜀漢王朝としても一方的な反乱とは思っていなかっただろうな
ただ孤立していたから自滅したのは仕方ない
肝心の劉備がとっくに死んでいたにもかかわらず
劉備にしか忠誠心を見出せなかったのが失敗だろう
「云何以一人死廢天下之事邪?」なんて
本来蜀漢史上有数の名言だと思うけどねぇ
(234年以降の魏延じゃどうやっても成功できないけどね) >308
>云何以一人死廢天下之事邪
王平が魏延の兵に向かってした一喝と良い対比だな >>309
魏延が「状況を読めなかった」のが問題なのか
それとも「空気を読めなかった」のが問題なのか
(要するに蜀漢そのものが「諸葛亮が絶対」という価値観に支配され
劉備しか見ていなかった魏延がそれに気付かなかったということだけど)
もともと蜀漢の大義はあくまでも「漢(劉氏王朝)の復興」であって
決して「諸葛亮の理想」なんかではない
蜀漢が中興の祖とする劉備が死んでなお北伐を行っていた以上
一部下に過ぎない諸葛亮が死んだくらいで北伐を止める道義はあり得ない
だからそういう意味「だけで見れば」魏延は正しい
(もちろん総司令官=最高権力者が最前線で死亡するという状況で
そのまま北伐継続が可能だったかと言えばそりゃ難しいだろうし
そもそも234年の戦況が蜀漢に有利だったかどうかも判らないけど) いや魏延は普通に蜀漢王朝の臣としての自負で動いているだろう。
だからこそ「丞相一人が死んだくらいでなんだってんだ!」と言ったわけだから。 権力争いの中で死んだまでで、空気読めなかったとかじゃないだろう。 >>312,>>313
いやもちろん「魏延の意識」としてはその通りだろうし
ただの権力争いだった可能性も高いだろう
ただ楊儀(は劉備時代にも抜擢されているけど)や王平、蒋琬、董允等は
劉備よりもむしろ諸葛亮によって抜擢、重用された者だから
彼等にとっては「漢の大義」よりも
「諸葛亮の理想」の方が大事だったのではないかと疑っているのだが
(さすがに自分でも考えすぎじゃないかとは思うが) はいはい諸葛亮が悪い諸葛亮が悪い
みんな魏延の味方だよ その諸葛亮は魏延の味方なんだけどな。
態度からして、普通に不敬で首飛ばされてもおかしくないのに、他人の非難から庇ってやるぐらいだ。
その諸葛亮が死亡し、遺言(本物であれ捏造であれ)が作られて、諸将が認めた時点で、もう魏延は詰んでる。
魏延の思惑通りに言ったとしても、その後は上手くいかないだろうけどな。
楊戯に勝利したとして、魏延の思惑がどうあれ、単なる軍官に留まるわけがない。
高位の将軍として、国を切り盛りしなければならなくなる。漢中太守という実績もあるしな。
が、魏延の根回しの不足、調整能力の欠如は明らかだ。
蒋エン(事実上の失脚)、費イ(姜維らとの対立)ですら失敗したのに、魏延が継いだら空中分解しちまうだろ。
大体、魏延が劉備の忠臣扱いになってるのも胡散臭い。
劉備抜擢組の馬忠、張嶷や、劉備と縁戚関係の呉班すら、魏延に従ってないんだから、
忠誠云々ではなく、権力闘争による単なる暴走と見ていいんじゃないか。
大体、魏延信者が対立軸に置く諸葛亮は、劉備の忠臣の筆頭だろ。
同じく劉禅を任されておきながら、簒奪を暗に進める李厳と比べれば一目瞭然。
その時の対応や、出師の表での劉備への追慕を無視して、
『諸葛亮の理想』を『漢の大義(というか劉備の威光)』と相反する位置づけにするのは無理だよ。 君主が暗愚だったから群臣の競争や暗躍が顕著になる。 >>316
前半については同意
(「不敬」には該当しないだろうが)
魏延に務まるのはせいぜい一司令官までだろう
ただ魏延が劉備の忠臣であったということと
諸葛亮が劉備の忠臣であったということは別に矛盾しないし
二人とも死ぬまで劉備の忠臣であったと思うよ
だって両者が対立したのは「北伐の是非」といった国策の話ではなく
「北伐の戦法」という手段のことでしかないのだから
呉班だって同じ「劉備の忠臣」だからって魏延に従う理由にはならないだろう
(馬忠、張嶷は当時南中にいたから関係ない)
あと「漢の大義」と「諸葛亮の理想」を別のものとして出したのは
楊儀らにはそう見えてたのではないかと言っているだけであって
諸葛亮本人がそう考えていたとは一言も言ってないぞ >>318
調べ直したら、馬忠、張嶷は、もう北伐に関わってる形跡がないな。
こちらの勘違いだ。北伐に参戦したのとごっちゃになってた。すまない。
魏延が忠臣だという事に関しては、それが疑う余地、とされているのに反感があるんだ。
国家の重鎮が、丞相を非難する(行動の是非ではなく、人格に対して)っていうのは、
軽率と言っても仕方が無いと思うよ。
魏延の行動はお世辞にも理性的とは言えないし、劉備への忠義を言い訳に出来るものでもない。
忠臣、という言い方が妙に魏延を持ち上げている気がする。
魏延が忠臣なら、他の連中だって忠臣だろう。なんだって魏延だけ忠臣扱いで持ち上げようとするんだってね。
嫌な味方をすれば、ずっと憚られているのを勘違いした猿山のボスじゃないか。
自身の能力に対する自負が、何故劉備への忠義という理由で糊塗され、美談にされるのか、理解に苦しむんだ。
正直なところ、魏延には司令官すら務まるのか疑問がある。
記述から窺える戦術レベルでの有能さに対して、戦略レベルの考えが稚拙すぎる。
長安強襲案とか、冷静に考えればギャグとしか思えん代物だ。
性格からしても、誰かに使われている間が一番才覚を発揮できるタイプだと思う。
楊儀らには諸葛亮の理想と漢の大義の二つが別物に見えていた説は、否定も肯定も出来ないな。
ただ、創成期からだんだんと国のあり方が以降してくるのは、蜀に限らずよくある事なんで、魏延の件と絡めるにはちと微妙。
とりあえず、漢の後継という大義はブレていないしね。 訂正
魏延が忠臣だという事に関しては、それが疑う余地、とされているのに反感があるんだ。
↓
魏延が忠臣だという事に関しては、それが疑う余地が無い、とされているのに反感があるんだ >長安強襲案
蜀につてがあるかも怪しい魏人の記述は気にせんでよし 正史に従っても、潼関で合流するつもりだったとあるので、
さらに勝算がない事になるんだけど…… >>318
誰も魏延の「行動」が正しかったとは言っていないと思うけど
魏延が「劉備に対して」忠臣であったことを疑う理由はないでしょ
(記録上彼が問題を起こしたのは諸葛亮時代以降の話だから)
それに魏延が忠臣かどうかということがわざわざ言及されているのは
彼が「反逆者」扱いされていることに対する反論だから
最初から忠臣として扱われている諸葛亮らとはそもそも立場が違う
確かに魏延が諸葛亮を「怯」と公言したことは誉められることではない
でも魏延は五丈原の撤退以外に諸葛亮の命令に逆らったことはない
(これすら本当だったかどうか疑問視されている
というか魏軍から見て蜀軍の撤退が大過なく行われたことを考えれば
魏略にある魏延主導の撤退が正しい可能性すらあると思う
だって他の説だと五丈原の蜀軍内で混乱が起きないはずがないから)
長安強襲案なんてギャグ扱いされているどころか
むしろ「北伐の数少ない可能性」として扱われている
(だから王夫之のように「北伐は魏を滅ぼすためではない」という主張が出てくるのだし
逆の面で魏延が再評価されているのだろう
もちろん魏延の力で実行できるかどうかは全くの別問題だけど) >>321
亡命者は言うまでもなく
交戦している以上降伏者や捕虜は当然発生するだろうから
彼等の証言で「正しい」敵国の情報が伝わっている可能性はあるでしょ >>323
俺の考える忠臣、というのは、人物、国家に対する無私、
もしくは忠義を窺わせるエピソードのある人物、という考え方なんだ。
そうでなければ、裏切っていない=忠臣になる。ちょいと短絡的過ぎないか。
それに、魏延は忠義というよりは、自身への自負から暴走したように見えるんだ。
漢中太守任命時の抱負からも、彼の己の能力への自信が窺えるし。
それが、国家を左右する作戦に口を挟める程になって、暴走していった、と見る。
少なくとも、諸葛亮に対する反感を窺わせるエピソードはあっても、
劉備への忠義を窺わせるエピソードは無い。
劉備を裏切らなかった事、劉備に刃向かわなかった事を理由に忠臣に位置づけるならば、
魏延は間違いなく忠臣なのだろうけど、そうすると、その他大勢の忠臣が増えすぎる。
撤退に関しては、
諸葛亮の遺言から楊儀らを臨時の指導者として諸将が認めて撤退。
その上、魏延が全軍の撤退に関して、橋を焼いて阻害するという妨害工作を行ったという記述があるのに、
なぜ魏延主導という考えが出るのか、理解に苦しむ。
実際に、魏延の行動のお陰で混乱しているわけだしね。
魏延案の是非については、長文になるので、他人様のサイトだが、こちらを参考にしてほしい。
こっちが主張するより分かりやすく纏められてるしね。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/35318621.html
魏延案については、魏略を信用しないパターンでも、潼関で合流するつもりだったというのがアウト。
長安を何とかして潼関も何とかするつもりですかと。何処に勝算があるのか分からない。 >>325
忠臣の意味は「主君に忠実な家来」だから
劉備に対する忠臣がたくさんいたって何の問題もないし
後に問題を起こしたからと言って忠臣であったことまで否定することはない
魏延にそれだけの自負を持たせたのは劉備なのだから
劉備に対する忠義はあったとしていいだろう
撤退に関してあなたが魏延伝(通説)を正しいとするのは結構だけど
私は魏略が正しかったかもしれないと言っているだけなのに
他人が他説を出すこと自体を「理解に苦しむ」というのはどうよ
(晋書宣帝紀によれば司馬懿は撤退する蜀軍を追撃した時点ではなく
その後蜀軍の陣営跡を見た時点で諸葛亮が死んだと判断しているし
蜀軍が五丈原に文書等を放置した理由を諸葛亮の死に求めている
魏軍の司令官の記事だから「魏軍から見て」といっていいだろう)
魏延案の再評価については多くの本では「議論されてきた」としかなく
管見の限りでは張大可氏くらいしか見つけられなかったけど
私は「ギャグ扱い」に対して反論しているだけだからこれで十分でしょ
(さすがにJominian氏はよく考察されているけど) >>326
こっちは魏延が自尊心から来る暴走でやらかしたと見るから、どうしても評価が辛くなるんだよね。
同じく自尊心が強い(と若い頃のエピソードから思われる)諸葛亮が、
劉備死後の国家にも無私の忠誠を尽くしたのとは対照的。
だから、どうしても忠臣という見方に不満が出る。とはいえ、そちらの見方も分かる。
魏延は不満を吐きつつも、指示には従ったわけだし(まあ、それも他の人間が普通に従っている事を考えれば、+要素にはならんが)
正直な話、撤退に関しては恣意的に魏略の件を採用したんじゃないか、と思える文だったから、少し攻撃的な文章になった。
いくらなんでも言いすぎだった。すまない。
ただ、前後の状況から見るに、魏延主導の撤退とは、どうしても思えない、というのはある。
蜀側の資料や、費イの行動の記録なんかを見るに、魏延主導の撤退には思えない。
というか、主導で撤退させてるのに、楊儀らにしてやられたのなら、魏延が間抜けすぎる。受け入れづらい。
やはり諸葛亮死亡による撤退に反発して、取り残されたという方がしっくり来る。
ギャグ扱いに対して反論、というのは、こちらが攻撃的過ぎた事から来るものかな。
魏延案に従っていれば北伐は成功していたと、無条件で設定する論が多いから、感情的になっていたのかもしれない。
とはいえ、正史、魏略どちらに従っても、成功の公算があまり見出せない案である以上、あまりいい評価は下せない。 >>319
驚いた。自分が前々から思っていた事とそっくりだ
同じ考えの人がいたんだな
特に「忠臣」の部分
何故いつも魏延ばかりが忠臣、忠臣と特別扱いなのか
ほんと疑問だった
正史にはとくに特別忠臣である事を示すエピソードもないのに
「劉備」と特定されてるのもよく分からない
とくにエピソードがないんだから劉備も劉禅も同じことだろう
「忠臣」「悲劇の英雄」は魏延を語る場でよく散見されるお決まりのワードだけど
だた単に史書には、有能だけど傲慢な武将が
撤退命令に逆らって楊儀に政争を仕掛け返り討ちにあったって書いているだけなのに
なぜ「忠臣」の「悲劇」なんて話になるのか >>327
まぁ私の書き方もあまり良くなかったからお互い様ということで
魏延は「自爆」しただけで「反逆」はしていないというだけで
特筆する程の忠臣ではないとするあなたの考えは正しいと思う
撤退の件については諸葛亮の謀略説まで出てきている有様だから
まぁあり得なくはないという程度に取ってもらえれば
魏延案が支持されるのは「諸葛亮は失敗した」という史実があるから
魏が油断していた最初の時に奇襲したらうまくいったかもしれない
という意味で支持されているのだと思う
(他には案自体ないし) そもそも忠臣=良臣ではないからな
臣下として本当に求められる像は社稷の臣なんだが、
仮に魏延が「劉備個人にのみ忠を尽くす臣」だとするなら、
たとえそれが劉備からみれば忠臣ではあっても、蜀という国家に
とっては害悪にもなりうるわけで 一般的に魏延といえば=裏切り者、になっていて、
それは違うだろ?と魏延ファンとしては大声で言いたいんです。
で、not裏切り者、に一番近い単語が”忠臣”なだけだと、私は思います。
正直、魏延を語る上で“忠義”が重要な単語とは、私には思えないんです。
劉備も孔明も、そんなものを持ち出す必要が無いほど、魏延を評価し、使ってくれてますから。 魏延は劉備に対してのみ忠臣、てのを熱心に主張する書き込みがあったけど、
たとえそれを周囲が認めたとして、それがどれほど魏延の名誉回復につながるの?
劉備さえよければ周りに迷惑かけようがどうでもいい魏延、
自分の子供さえよければ周りに迷惑かけようがどうでもいいモンスターペアレントと一緒じゃないか。 >>335
「反逆者」と「モンスターペアレント」では
名誉という点ではかなり違うと思うけどね
(馬鹿という意味ではたいした違いはないが) >>335
個人的にはそういうの吐き気するけどな、結局それは自己愛だから。
でも日本人はそういうのが好きんなんだよ
「八百屋お七」なんて
恋した相手に会いたいがために放火しようとした
こんな話が美しい悲恋として扱われてるんだからな
>>336
劉備を溺愛する「モンスターペアレント」で
劉備以外の他の人間にとっては「反逆者」ってことになってしまうぞ 劉備に対して忠であった、ってのはそもそも演義のエピソードから生まれたイメージだけどな。 >>338
陳寿の時点で謀反ではないという考えはあったけどね 魏延は叛逆の罪で夷三族の刑を受け、蜀漢滅亡まで名誉が回復されることはなかった。
だから陳寿は「あくまで権力争いの末での敗死であり、皇帝・朝廷への叛逆の心があったわけではない(処分は不当に重い)」
と擁護しているのであって、魏延が正しいとか忠誠だとか言っているのではない。 >>339
今は劉備個人への忠誠心の話をしてるんです すまん、なんか言葉が抜けてるな。
劉備に対して「だけは」忠であった、だった。
コーエーとかそれ以外の三国志系のファンブックに
襄陽で中から門開けようとしたり、韓玄を斬ったりとか、そこらへんがあるから
劉備にだけ忠義モノ、なんて感じのネタが有ったよなあ、と思い出してた。 >340 ショウエンが楊儀を失脚させて魏延の無念を晴らしたって伝承は有ったよね 魏延の罪を押し付けられて楊儀と諸葛亮はいつも悪者扱い
このふたりに同情するよ >>328
つかさ、魏延の当時の立場を見る限り事実上ナンバー2、
諸葛亮亡き後なら魏延の指揮下に入るのが当然。
それなのに勝手に退却したからもめたんだろ。
そして魏延の指揮下に入るのが嫌だったから、諸葛亮が生前退却命令を出していたことにして、
命令違反とか言っているようにしかみえんのだが。 >>319
正面からせめても勝てない。これは諸葛亮が証明してしまった。
双方大軍を運用するのに向いてないし、進軍すればするほど状況は悪くなる。
長安は大都市周辺には要害も多いしまともに落とすのは蜀の国力では無理がある。
なら北伐をしないか、といったらこれは諸葛亮にはできない相談だ。
なら奇襲しかない。魏延案は別に鼻で笑われるような案ではない。
>>346
当然じゃないよ。
楊儀は丞相府の事務を統括しており、印綬と官属を抑えることで諸葛亮死後の執行権をそのまま引き継げる立場にあった。
加えて司馬・護軍という実務責任者の支持があった。
魏延は丞相府に席は持っていたが、本来的に外にいる将軍であり、
ナンバー2の高官といっても、丞相府の権限を介さなければ北伐全軍に命令する正当性を持たない。
だから費イは、魏延の意思に従う振りをして「楊長史を説得しましょう」と答えた。
楊儀と費イが魏延を欺いて彼の主張を無視したのは事実だろうが、だからと言って、魏延の側に諸葛亮の後を継ぐ正当性が
あったわけではない。 身分の高さとか正当性以前に、嫌われ者の上司には誰もついてこないって事だろ。
そんな魏延をホイホイ出世させた孔明、厄介事は嫌だとへりくだってた周りも責任はあるが、
偉くなればみんなついてくると勘違いし、自重するどころか傲慢に振舞った魏延は、
いい年して大人気ないと思わざるを得ない。しかも戦乱の世で、下が上に取って代わるなんて日常茶飯事なのに。
面識があったかどうかは定かではないが、同じ蜀にいた関羽や張飛の末路をなんとも思わなかったのだろうか。 史書に無い頭の中で作られたストーリーを当然のように話す魏延オタに何言っても無駄な気がする
まともな魏延ファンにも迷惑だな
ただ、費イはもっと違うやりようがあっただろとは思う
早急に事を運ばなければならなかったから焦ってたのかもしれんが >>347
奇襲が悪いのではなく、そこに勝算が皆無なのが問題なんだよ。
魏延案の駄目さは>>325のリンク先を参照。
潼関で合流するのもどうやって? という感じで勝利の道筋が見えない。
正面から攻めても勝てないのは諸葛亮が証明した、というのも首を傾げる。
第一次北伐や第四次北伐は、なんだかんだで優位な状況は生み出せていた。
結果的に配下のミスで終わったのも同様だが、そこに勝算がない、というのはどういう事だろう。 >>350
あいつらは手始めに、コーエーの歴史ゲーとか無双あたりから入った新参者に
三国時代の名前や字(あざな)は…、一騎討ちは…、青龍偃月刀や蛇矛は…、とか
少なくとも間違いではない、当たり障りのない知識をひけらかしておいて信用させて、
そこから魏延にだけ都合のいい嘘や法螺を吹聴するんだよな。それで新参者は
「あれだけ三国志に詳しい人が言ってるんだから正しいんだろう」と鵜呑みにしちゃう。
幸いにも、俺や家族、友人は被害に遭ってないから詳しいやり口はわからんが、
詐欺やペテンと一緒だな。ネットで少し調べる程度ですぐに化けの皮が剥がれる、
騙したところで何のメリットもない、ちょっと考えればデメリットしかない意味不明な詐欺行為だが。 ここで被害妄想を語られても困る。
愚痴りたいだけならよそでやってくれ。 >>351
そのJominian氏は「史実での」魏軍の対応を基準として考察しているのだが
その史実では蜀は「揚聲由斜谷道取眉」と出発時点で行動を明らかにして動いている
(だから魏は諸葛亮本体の動きに気付かず陽動に引っかかったのだろう)
長安を奇襲することを前提とする魏延案でこんなことするはずがないのだから
「漢中の駐屯地を出発してから魏に察知されるまでの時間」も考慮すべきであって
それを無視して魏延の到達時間だけで考察してもあまり意味はない
(もちろん夏侯楙の逃亡を抜きにしても長安を落とせない可能性もあるけど
Jominian氏が魏延に有利な条件を無視しているのは事実だろう) 直從褒中出,循秦嶺而東,當子午而北,不過十日可到長安.
だから、子午谷に入って十日とかからず、という意味なんだろうな。 >>354
子午谷そのものも200km位だろうから十日では厳しいのは同じだろうけどね
(発言が本当なら威勢よく切り上げた数字なのだろう)
問題はどこで察知されるかだけど
1 沔陽又は南鄭出発時点:可能性は低い
史実での諸葛亮の動きを知らなかった魏側がこの時点で察知できる可能性は低いし
見付かっても5千人の部隊だから漢中東部の守備強化と思われる可能性がある
2 子午谷への入口:可能性半々?
子午谷全体が国境であって蜀側の入口にまで魏の部隊がいることはないだろうから
入口が魏(西城)が偵察できる位の状態なら見付かる可能性が高いし
蜀側(南郷)が完全に支配していたのなら見付からない可能性が高い
3 子午谷の中:ほぼ間違いなく見付かる
2と同じく魏側の入口まで蜀の勢力圏ということはないだろうから
余程間抜けでもない限り谷中のどこかに哨戒部隊はいただろう
その時点で長安に連絡が行くのは避けられない ttp://maps.google.com/maps?f=d&source=s_d&saddr=107%E7%9C%81%E9%81%93&daddr=
33.671783,108.667145+to:210%E5%9B%BD%E9%81%93%2F210%E5%9C%8B%E9%81%93+to:210%
E5%9B%BD%E9%81%93%2F210%E5%9C%8B%E9%81%93&geocode=FdRKBwIdfFt8Bg%3B%3BFXIG_gEdqoN2Bg%3BFXPL-wEdrIhxBg&hl=ja&mra=dpe&mrcr=0&mrsp=1&sz=10&via=1,2&sll=33.517354,108.560028&sspn=0.790004,1.226349&ie=UTF8&ll=33.591743,107.731934&spn=3.157086,4.905396&t=h&z=8
(三行合わせてから飛んでくれ)
漢中盆地の端から山脈出口までで200キロだろう。隣に出来ている西漢高速を使えば現代なら100キロで済む。
勿論、道は現在よりはるかに悪かっただろうが。
漢中-長安間って直行できるなら意外なほど近いよ。 >>325
そのブログの管理人コメントで魏延ヲタにからまれてて同情した
これだから・・ >>358
ここで紹介されて見た奴なんじゃないのか >>289
興亡三国志は好きだな
魏延脇キャラだけど >>359の言い分がよくわからんが、
ここで紹介されて見た奴なら荒らしても許される、とでも言いたいのか?
それにしても、珍しく論理的に魏延擁護されてるのに、2週間近くほったらかしとはな。
やはり魏延オタクは、物事を調べたり客観的に考える事ができずに、
都合のよい我侭や妄想でギャアギャアわめきたてる事しかできないから、
この議論の流れについてこれなかったのか。 リンク張ったからここから凸した奴がいる、みたいな事言いたいんだろ。
お前の頭もわりと論理的じゃないぜ。 どうでもいいけどここでリンク張られる前のことだぞ
コメントの日付見てみな >>361
それだと>>354以降魏延を否定する側から具体的意見は何も出ていないから,
魏延アンチは反論すらできないということになるけどいいの? 魏延アンチなんてものは存在しない
お前は幻を見ているんだ >>366
ああごめん。>>354と>>356は私の発言だ。
Jominian氏の意見よりは魏延の策に可能性があることを指摘しただけなのだが。
だから魏延を否定する側からの意見は全く出ていないのだけど。 >>364
の文面なんかは妙に挑発的だね。
>>354 >>356の文章を書いた人とは思えない。
>>365の言うとおり、魏延アンチってほどの人はいないと思うんだが。
さて、魏延案の問題点だが大別して、
夏侯楙が逃げてくれない限り、長躯後の攻城戦を控えていること。
部隊の秘匿がどこまで出来るかということ。
>>356で語られる魏延部隊の発見率がやや甘めに見える自分からすれば、この点ちょっと辛いかな、という印象を受ける。
大意については同意する。
察知後の魏中央の事後対応の速度。
(魏延の奇襲の場合だけ、甘めに見積もることは出来ないだろう
史実では諸葛亮が喧伝したことを差し引いても、時間はあまりない
疲弊した兵で長安を落とせるか)
ただし、これらの条件は、夏侯楙が魏延の目算通り逃げてくれるか、
あるいは周辺の不満を持つ勢力の協力(兵站面も)があれば、成功させられるか。
それでも潼関を閉鎖できるかどうか。潼関を抑えない限り、長安は維持できない。
魏延案は潼関で諸葛亮の本軍と合流する事が前提なわけだし。
孟達と通じる事に失敗し、討伐されていた事もマイナス要素。
蜀は、第二次の記述からも分かるが、陳倉城が修復された事すら気づけないほどの諜報力しかない。
この状況で、魏の油断を期待する魏延案が魅力的に映るかと言われると、難しいのではないかな。 >>368
>>361に対するレスだから挑発的に書いただけだけどね。
発見率については子午谷の漢中側の状況次第だから何とも言えない。
あなたが指摘する孟達の件も魏延案には不利に働くだろうし。
(孟達に向かった司馬懿が長安に来れそうにないことだけ有利だけど。)
やはり奇襲出来たとしても長安が落とせるかどうかが一番の問題だろう。
魏略での扱いからして夏侯楙が強かったということはないだろうけど,
それでも長安でちゃんと守られれば落とすのは困難になる訳で。
あと潼関の件は魏略には出てこないから,合わせて考える必要はないのでは?
いくら魏延でも5千の兵で長安+潼関を抑えようとはしないだろうから,
諸葛亮が来るまで長安を維持するつもりだったと思うけど。 >>369
>>361は魏延アンチというより、信者へのアンチに見えた。
まあ、曹操信者が暴れてた頃と同じ、反動だろう。
確かに夏侯楙が逃げてくれればそれに越したことはないんだが、
逃げなかった場合、魏の増援が到着すれば、魏延隊の全滅はほぼ確定、諸葛亮本軍も危険に晒される。
落とせなかった場合のアフターケアが効かない、というのもネックかねえ。
総合すると、どうしてもマイナス要素の方が強いように見える。
まあ、こっちが魏延案に否定的だから、悲観的に見えている部分もあるんだろう。
ただ、潼関は関中を維持する、関中を固めるのに必須の場所。これは譲れない。
長安はだだっ広い平原ばかり広がる、防衛にとんと向かない地形。
これを補うのが潼関。これを取らないと、せっかく長安を陥落させても、維持できない。
魏延がこの案を出した以上、潼関を得る事を想定していない筈がない。 >>370
魏延には自身があったのだろうけど,リスクが高すぎるのは明らかだからね。
「魏を倒せなければ滅亡しても構わない」という覚悟がないと採用できないだろう。
個人的には「魏を倒す方法」としては諸葛亮案よりましだとは思うけど。
(逆に「蜀が長生きする方法」としては諸葛亮案は優れていたと思う。)
潼関が長安を維持するために必要だという意見は分かるけど,
現に魏略の魏延案には潼関は全く登場しないし,
魏延も長安での食料の話や咸陽以西を奪取できるとしか言っていないから,
長安を確保したまま諸葛亮を待ち,長安で決戦するつもりだったと思う。
想定している魏軍の到達日数(20日以上)も長安までのものだろうし。
(まあ魏延案の可能性を考えている立場として,
明らかに成功率が0になる潼関攻略まで入れたくないというのはあるけど,
魏略には「潼関を取ること」は全く出てこないからいいでしょ。) 諸葛亮が魏延の策を退けた理由
tp://nobmatsu.sakura.ne.jp/itsubun/old/san2/15.html
アンチだの信者だの言い出すと大概くだらない流れになるが
オタ、信者への反動だったら何を言っても許されるなんてことはないし、
>>361>>365みたいな挑発するだけのレスは明らかに不要。擁護する余地なんかない。
>>367>>369>>371はお疲れさん。よぅ我慢したわえらい >>371
潼関を取らなければ長安の維持は不可能とこっちは見ているから、その点で相容れないものがあるのかな。
個人的には、長安での防衛は、無理をして潼関を奪いにいくより運を恃む策のように思える。
長安は防衛面で激弱だし、取ったばかりで飛び地状態の長安で、本軍が来るまで守り通せるかというと、
夏侯楙が逃げるのと同程度、あるいはそれ以上の幸運が必要だと思うんだ。
長期的視野に立った場合、長安を得られる可能性は諸葛亮案の方が高い、と見る。
贔屓目を抜きにしても、魏延案と同程度だろう。なら、ケアができる諸葛亮案の方が順当と見る。
無論、魏延案が成功すれば、短期的に、劇的な形で魏に精神的打撃を与える事が出来る(それは後々の戦略に大いにプラスになる)が
諸葛亮案でも十分だし、なにより天秤にかけた時のリスクを考えれば、魏延案は採用されうるものとは思えない。
魏延案が、周辺の不満を持つ武装勢力の蜂起、協力を前提にしたものなら、
「魏を倒す方法」として、優れたものだ、というそちらの意見に諸手を挙げて賛同するんだが。
そうすれば夏侯楙が逃げなかった場合のケアもまだ利くし、成功時の潼関閉鎖もスムーズにいく。
ただ、これは空想の域を出ないか。
>>373
多分、俺と>>361 >>365を同一人物扱いしているのかな。
少なくとも、俺は>>368 >>370だから、彼らとは関係が無い。
別に信者への反動だから許す、ではなく、曹操の時の騒動を覚えてるから、それを連想しただけだよ。
俺は魏延案に否定的、悲観的な見方をしているから、>>364に乗っかった。
魏延が諸葛亮の北伐で大きな功績があったとは思うけど、だからって案そのものを受け入れる事は出来ない。
誤解を招かない為に含むところはないと前置きしておくが、反動が出るのは、盲信的な信者が暴れた負債、という面もある。
普通に魏延が好きな人には迷惑な話だけど、まあ良くも悪くも北伐関連はいろいろと入り乱れるから、そこら辺は割り切るしかない。 自分の気に入らないレスをアンチ認定、信者認定することが
くだらないと思ったから>>365を書いただけだ
そしたら次はそのレスが同一人物認定されたわけだ
アンチ認定の次は同一人物認定か
ははは・・・・笑い話だね 慎重、堅実、有能の極北であろう諸葛亮が不運のせいで成果を出せなかった以上
大胆、投機的な魏延に一定の支持が集まるのは仕方ないことだね。
だが魏延が司令官として無能なのか有能なのか、
或いは幸運なのか不運なのかが永遠に分からんし結論など出ない 英雄など現代人のエゴで作り出してかまわないんだよ
軍神魏延!非命の忠臣魏延!ロマンだけが真実だ!! >>377
そうだね
実際それでいいと思うよ
だから魏延は英雄!悲運の忠臣!
でも史実の考察してる時にそんなロマンとか後世の創作とか
持ち出さないでね
ちゃんと区別するべし 子午谷は全長約420kmと言われている
これを十日で越えるのは厳しいものがあるが
子午谷を巨視的に計測すると150km程しかない
この違いは何かと考えると傾斜に秘密がある
傾斜がある分距離が伸びるのだがそれでも数qも足せば充分だろう
260〜270kmも差があるのは子午谷が道路だからだろう
則ち牛馬や車も通れるように出来ているということ
牛馬や車を通す為には傾斜が緩くなければならない
最近の大きな建造物には大抵車椅子用のスロープが付いている
車椅子やカートがある高さを登るには、歩行者の十倍近い距離が必要
階段だとほんの四、五段なのにスロープだと8〜10mくらい行かねばならない
これを山に置き換えると人間なら傾斜を数m登るだけなのに
牛馬や車なら数十mを要するという事になるだろう
逆の方がいいかな
牛馬や車が傾斜を登るのに数十mを要するところを
徒歩ならば数mで行けるという事になるだろう
魏延は荷を人が背負って行くと言った
牛馬や車の為の子午道を使わず、徒歩で進行可能な最短距離を行くはずだ
これで日数の問題は片付くだろう
魏延の長安急襲案
精鋭5千と兵糧を背負った輜重兵5千で褒中へ進み、
秦嶺山脈に沿って東へ行き、子午道に当たって北上し、
十日とかからず長安へ至る。
長安を治める夏侯楙は必ず船に乗って逃げ出す。
諸葛亮は斜谷(褒斜道)から来て長安の東の潼関で魏延と合流する。
上手く行った可能性は結構ある。
先鋒を1万とする総勢6万の諸葛亮率いる蜀軍が褒斜道へ向けて進軍を開始する。
その報は密偵により長安に届く。長安の雍州軍は褒斜道の出口へ向かい蜀軍の到来を待つ。
先鋒1万を率いる魏延は褒斜道の入り口まで来ると、輜重車を捨てて兵糧を背負い
褒斜道へは入らず、密かに山脈に沿って東へ走る。子午道の途中に行き当たり、
そこから子午道を行く。諸葛亮の本隊5万はそのまま褒斜道を進む。
褒斜道出口の魏軍は数万の蜀軍がやって来るのを見る。
褒斜道出口で魏軍と蜀軍は対峙する。
魏軍は蜀軍の先鋒が消えたことに気付かない。
魏延は子午道をひた走り、長安の南50qにある子午道出口から出る。
子午道を出た魏延は行軍中に兵糧を消費して身軽になった輜重兵2千ほどを方々に放って
火を掛けて回らせ、自分は精鋭5千と輜重の3千を率いて一気に長安を目指す。
長安の夏侯楙は南方の空が焼け幾つもの煙が立ち上っているのを見て蜀軍の到来を予感する。
そこへ蜀軍が南に突如現れたという報が飛び込んでくる。
南の方々から煙が上がっている状況なので総合的に判断して相当な大軍である模様。
異変が起きて二日と経っておらず長安は事態を正確に把握することが出来ない。
そこへ8千ほどの蜀軍がすぐそこまでやって来ているとの報が入る。
長安の軍は褒斜道へ向かってもういない。
その魏軍が一体どうなったのか、長安はわからない。
蜀の大軍が長安に迫ったということは、既に敗けたのか、どうなのか、わからない。
知りたくても今すぐ確かめるのは不可能。
はっきりしているのは今こうして蜀の大軍が現れ、すぐそこまで迫っているという事。
そして長安にはそれを防げるだけの兵が残っていないという事。
余程肚が座ってないと逃げるだろう。
こうして長安は陥落する。
一方、褒斜道出口の魏軍。
120q離れている東の空が焼けているのは見えるのか、分からないが、
ずっと平野であるし昔の夜は暗いので見えるかも知れない。
褒斜道出口にいる魏軍の兵士の多くは長安周辺に家がある。家族もいるはずだ。
長安の空が焼けていたら激しく動揺するだろう。
空が焼けているのが見えるとしても見えないとしても
数日の内に長安が落ちた知らせが届く。
諸葛亮軍が魏軍の動揺を突いて攻めかかる。魏軍をあっさり破ることが出来るだろう。
長安が既に落ちていることもあって、これで数万の捕虜・降伏者を得ることが出来る。
騎兵で2つの部隊を作り魏延の後を追わせる。
無論諸葛亮も東へ急ぐ。
漢中に使いを出し、漢中に残っている兵の半分で関山道を進ませ
武都・隴右を平定して行かせる。
長安を落とした魏延は千人で西の城門を守り、軍を4千5百人ずつの二隊に分け
潼関・武関を抑えに向かう。(魏略では潼関しか書かれてないが気にしない)
内地なので敵兵は殆どいない。
潼関・武関を落とした頃、騎兵が追いつき、兵力はそれぞれ7〜8千にはなっている。
これで魏軍が押し寄せても、守りに徹すれば本格的な援軍(蜀軍)が来るまでもつだろう。
関に2万も置いて守りに徹すれば敵が6万でも多分落ちない。
東西南北四方に城壁をもつ普通の城を二万の兵で守るとする。
それを六万の敵が囲む。城壁一辺あたり 防衛側5千人、攻撃側1万5千人。
関所の城壁は一辺(単純計算上で)。
一辺を2万の兵が守る。この数字は普通の城の8万人に相当する。
攻撃側の数字も一辺に集中するので、普通の城攻めの24万人に相当する。
がしかし6万人が一斉に関所に攻めかかることは出来ないだろうから
戦闘参加可能員数の上限に引っかかり、過剰分は実効戦力外として数字の上では切り捨てられる。
仮に城壁の長さを1qとすると、
攻撃側が10mあたり100人で攻めると1万人。
防衛側が1mあたり6人で守ると6千人。
城攻めの比率としては城を落とすのが無理な数字。
実際は潼関・武関の横を川が流れているので
この通りには行かないが、基調とはなる。
洛陽から潼関へ、とは来ず
北から迂回して攻めて来られるとどう防ぐか
三輔と河東郡は黄河で隔てられている。
河幅はかなり広く、渡河するには船が必要。
兵1万が黄河を渡るには、20人乗りの船だと500艘
30人乗りの船だと340艘必要。
黄河上流でそれだけの船を調達するのは難しいのではないか。
それに一万程度では戦にならない。
河岸で待ち受け逐次撃滅すればいい。
潼関・武関に2万ずつで4万
黄河に4万
控えに3万
計11万だが、涼・雍併せれば何とかならない数字ではない。
これは潼関に6万、武関に6万、黄河に7万
魏軍総勢19万が一斉に攻めてきた場合の数字で、
いくら魏でも「急襲」による長安陥落という突然起きた事態に
ここまで大規模に即応できるとは思えない。特に黄河方面。
よって蜀には魏が大規模な攻勢を掛けてくるまでに
涼・雍を懐柔できるだけの時間はあると考える。
長安を取ることは可能。
整理
魏延がフェイント、魏が引っかかる
諸葛亮が褒斜道で陽動して魏の雍州軍団を引き付ける
魏延が子午道を速攻で駆け上がり夏侯楙を威圧して逃亡させ、がら空きの長安を占領
諸葛亮と対峙してる雍州軍団は後背地の失陥に動揺してあっさり崩壊。
漢中から部隊を派遣して隴・涼制圧。
魏延は4〜5千づつの2部隊で潼関、武関を押さえる。
諸葛亮の援軍の騎兵と合わせて7〜8千で奮戦し、本隊からの更なる援軍を待つ。
北側を迂回されたるケースもあるだろうが、船を調達出来ないだろうし、水際で撃滅する。
潼関、武関に2万ずつ、黄河に4万、予備に3万を配備できる態勢にすればひとまず磐石。
魏は大規模な動員を掛ける前に蜀に関中以西を掌握される。
魏延は北伐の度に求めたというから
タイミング毎に考える。
第一次は>>137の言う通り。
魏の対応は早かった。
魏延が潼関まで間に合ったか微妙。間に合ったとしても、
兵を休めたり、防戦の準備をする時間はないかもしれない。
少しの遅れも許されない綱渡りのような際どい作戦となっていた。
第二次・第三次
張郃は南陽郡の葉(方城)に屯していた。
他にも荊州には呉攻めの為数万の軍が集結していた。
蜀が潼関・武関を押さえられるか微妙。
それにこのとき関右に魏兵があまり居ないので
長安を落としても兵をあまり吸収できない。
のちのち長安を維持できるかどうか。
第四次
長雨で桟道が断絶している。
第五次
司馬懿の動きが遅い。子午道を警戒して慎重に行動した可能性がある。
もしそうなら失敗する。
だが、どのタイミングでも所詮ダメだったかといえば、そうは思わない。
227年 諸葛亮らは軍を率いて漢中に移り、沔陽に屯した。
3月に劉禅が詔を下しているのでその前後と思われる。
沔陽に屯するまでは南鄭に居た。(多分)
魏延の提案は南鄭でなされたことなので、
長安奇襲が提案されたのは227年3月頃のことだと考えられる。
この頃司馬懿はまだ宛には居らず、孟達もまだ生きている。
魏略には「劉備の死後、蜀に人はなく備えをしていなかった」と書かれてあるが
同じ魏略の、長安に行幸した曹叡が第一次北伐終結後に出した布告文に
高定の名が出ており、曹叡が蜀の辺鄙な所の異民族の酋長の名まで知っていたことが
明らかになっている。
諸葛亮が出陣して沔陽に屯していることを魏が知らなかったとは考えられない。
敵国が軍を出し、攻め込まんと駐屯しているのに備えをしないわけはない。
第一次での魏の対応の早さはこれに由ると思われる。
第二次での魏の対応はと言えば、諸葛亮が陳倉を囲んで20余日たっても
中央軍はまだ来ていない。
囲んだ場所を長安に移して考えれば、約180q洛陽に近づく事になるので
洛陽からの中央軍が長安に到達するのは[20余日+α]−[180kmの行軍日数]日となる。
これが長安陥落から中央軍がやって来るまでの日数となる。
20日という魏延の予想は妥当と言える。
長安−潼関 間が150kmあるので魏延と魏軍が同じ速度で移動したとすると
長安−潼関を4日で移動すると魏延が潼関を落としてから魏軍が来るまで12日。
5日で移動するなら10日。もし3日で移動するなら14日。となる。
荊州方面は武関まで行かなくても途中の丹鳳関でいいかも知れない。
更に孟達を寝返らせれば魏興・荊州を牽制できる。
この通りに進めば、三輔・涼州を策源と出来るし、益州からの輸送も余裕を持って行えるので
兵站の心配は消える。
ただし、これが上手く行きそうなのは沔陽に屯して時間を費やす前まで。
それに諸葛亮の言うようにリスクが高い。
もし子午道出口に敵が居て塞がれていればそれで終わり。
魏延軍一万は食糧不足により全滅しかねない。
それに褒斜道の諸葛亮軍はほぼ無策で出征していることになる。
従って魏延が失敗すれば諸葛亮軍も撤退しなければならない。
撤退時に敵の追撃を受けて大被害を出す危険性もある。
おいそれと秦嶺越えての遠征は出来るもんじゃない。
それに諸葛亮は駐屯地の沔陽で充分な軍事訓練を施して北伐に向かっただろうから
この選択なら史実のような蜀軍の練度の高さは無いことになる。
諸葛亮が却下した一番の理由はおそらく『正義』ではないかと思う。
蜀は蜀国でもなければ蜀漢国でもなく、“漢”国。
蜀の勢力が帝国となって、初めての魏との戦争。
漢にとって魏は「賊」で、蜀は「正義の国」ということになる。
正当な帝国の正義の軍が、奇襲でいきなり快進撃っていうのは格好悪すぎる。
奇襲というのは弱くて卑怯な者のすることだ。
強い者は堂々と正面から当たる。強い者は強いのだからそれで勝てる。
奇襲で長安取るのと、正攻法で堂々と長安取るの
成功したらどっちの方が格好いいか、
どちらの方が他国の漢臣の評価を得られるか、
後者だろう。もしかしたらその後彼らの支持を得られるかもしれない。
正攻法で勝つ自信が有るなら正攻法で行ったが上策。
>>381の辺りからの文章は、前にどこかのスレで見たな。
結構な反論(まあ取るに足らないものもあったが)が飛び交ってたように思うけど、
コピペするほどのものかね。 >>381以降の文章もかなり魏延に御都合的ではあるな そうか?全然思わないぞ。ご都合主義とは偶然を味方にさせる事だが
>>381以降に書かれている事に偶然はなく、戦理と蓋然のみがある。作戦とはそういうもの。 魏延厨を何が何でも叩くスレになってるな
魏延を盲目的にマンセーするより気持ちわるい >>381
これコピペなのか?なんだこれ
この考えだと距離が縮んだ分傾斜も急になって辛くなり
しかも牛が背負う分人が担ぐわけだからそれだけ兵にかかる負担も多くなるのに
牛馬に運ばせると辛くて人が担いで行くと楽
なんてわけないじゃん
それと、日数だけじゃなく兵士の疲労も考えるべきだろう
これじゃ使いものにならんぞ