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周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 呉の軍師を語るスレ 6

0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/03/03(土) 01:13:00ID:XM3pG02J0
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 呉の軍師を語るスレ
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1158115995/
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜を語るスレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1129711574/
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜の中で一番は?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1129283103/
周瑜VS魯粛VS呂蒙VS陸遜
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1063987940/
周瑜と陸遜どっちが優秀なのか
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1046456958/
0224名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/10(月) 22:04:47ID:+Qvn0oJq0
いわゆる孫呉を豪族連合政権と捉える見方なら
豪族でない呂蒙には政権内で発言権が無い、と言える。

いや、まあ微妙な理屈だが。
0225名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/10(月) 22:53:28ID:wmuk+G1t0
孫権の寵愛があれば別。
荊州奪還は孫権の兼ねてからの願いであり、呂蒙の計略とぴたりと一致したから
実行に移されたのだろう。
呉の大豪族の陸遜が荊州を欲しがったというのは理由がよくわからないが、
それだけに面白そうだな。その辺続けてくれ。
0226名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/11(火) 08:45:19ID:aFe+sxhn0
>>222-223
んー、そこに説明が必要だとは思わんかったが。
とりあえず呂蒙が貧民出身なのは分かってるわけだよね。
孫権が学問をやれと言ったのが豪族層の上に立たせるためだってことも。
襲粛や成当らの部曲を辞退したのも知ってるよね。
徐盛や朱然が、周泰に対してどういう態度を取ったのか覚えてれば、
そういう疑問なんか湧かないと思うけど。
その周泰と呂蒙、呂蒙と一緒に学問をやった蒋欽の三人は、
三人とも濡須督に就任していて、似たような地位にいたと推測できる。

明記されてることしか信じないってのは史料の読み方じゃないよ。
0227名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/11(火) 12:07:43ID:RULbJwzq0
>>226
で、どこがどう豪族の言いなりに結びつくの?

>孫権が学問をやれと言ったのが豪族層の上に立たせるためだってことも。
何故豪族が出てくるの?こんな仮定は意味ない。

>徐盛や朱然が、周泰に対してどういう態度を取ったのか覚えてれば、
>そういう疑問なんか湧かないと思うけど。
あの出自を馬鹿にされたエピソードから、
何故に言いなりにまで発展するのか。むしろ、そこが疑問だ。
と言うか、呂蒙を推挙した張昭。蒋欽を虚仮にした徐盛は、徐州の人で豪族じゃないし、
大体言いなりだったとするなら、行間を読むなりしてそれと解る所を指すのが筋。
ただ、呂蒙や蒋欽等の出自が低かったこと、一時期それで侮られていたことを示すのみ。
出自の低いこと、侮られていたことを何度示しても、
結びつけても言いなりだったとの結論にたどり着かない。

>明記されてることしか信じないってのは史料の読み方じゃないよ。
この手の一文は最近よく見かける。
史料に完璧があるわけないことを利用した非常に便利な理屈だな。
要は、数箇所史料から抜き出し、
明記されてることしか、信じないのは史料の読み方じゃないと、言えばいいわけだからね
0228名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/11(火) 12:14:34ID:B0uPXKzH0
>>226と「いいなり」が全く結びついてない
説明して欲しかったのは呂蒙が豪族の「いいなり」になっていたと見る理由だ

孫権は豪族層よりも呂蒙、蒋欽、周泰らの非豪族層を厚遇していた
豪族にこれ以上力をつけさせたくなかったからだ
>>225の言う通り孫権のそういう意向があれば別
0230名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/11(火) 12:46:07ID:RULbJwzq0
>>229
いや、そんな一文で誤魔化さずに、
呂蒙が活躍した頃に、四姓を始めとする豪族が張昭や張紘、周瑜等の名士より権勢があって、
尚かつ呂蒙が孫権や張昭、周瑜等の後ろ盾でなく、
豪族の言いなりだったことを示そうよ。
0231名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/11(火) 14:11:24ID:RULbJwzq0
間違えた。
>尚かつ呂蒙が孫権や張昭、周瑜等の後ろ盾でなく、
じゃなく

尚かつ呂蒙に孫権や張昭、周瑜等の後ろ盾がなく、

に訂正します。
0232名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/11(火) 19:28:08ID:IyuVbgiG0
認識が違うなら30行でも50行でも使って認識させればいいよ。
それが理に適う論ならば、納得させることが出来るはずだ。
0233名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/11(火) 19:36:46ID:IyuVbgiG0
>>227で面白いと思ったのは、
張昭と魯粛が孫権への影響力を争った形跡があることだよな。
魯粛・周瑜はいわば同じ党派に属する。二人とも江北の出であるが豪族で、
故に軍事力を持っていた。
張昭は儒学的名士であり独自の武力を持たず、名声は高いが
孫権の幕府や宮廷にあるしかない。
これは言うまでも無く対曹操戦で真っ二つに割れた組み合わせ。
張昭の政治的行動を追ってみる必要があるかもしれない。
0234名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/11(火) 21:40:10ID:dh97cY0I0
>>233
張昭は面白い題材と思う。好きな人物だし。
魯粛とは外交(含む軍事)を巡って争ったのでしょうね。
ただ張昭は軍事行動に結構反対しているから、
外交軍事主体の魯粛と意見が対立するのは自然と思う。
けれど党派を組んでの争いとは言い難いと思う。
赤壁の時のも諸将達が皆、降伏論を唱えたと書かれるように抗戦論は極少数だったようだし、
張昭と周瑜の二大巨頭が役割分担し、あくまでも孫権の決断を尊重したから、
明確な派閥争いに至らなかったと思われる。
さらに孫政権初期は党派意識も薄いと思う。周瑜と魯粛は劉備を巡って意見が割れたし、
呂蒙のように張昭、周瑜の両者から目をかけられる人物もいる。
魯粛が友という諸葛瑾と張昭は姻戚だしね。

あと周瑜と魯粛は豪族の出といえるけど、豪族の所以たる土地と切り離されているため、
呉の四姓や全氏や呉氏の様な土着とは区別が必要と思う。
どちらかと言えば豪族出の名士層と位置付けられると思う。
琅邪諸葛氏の諸葛瑾もこのタイプ。
0235名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/12(水) 00:17:01ID:VJ/Lz5is0
ここまで読むと、呂蒙の話題よりも孫権の君主としての有能さが分かるなww
身分に関わらず、的確な人材抜擢するのは才能だろうか。
周瑜や張昭、魯粛などが、それを支えたというのもあるだろうけど。
まず、孫家三代の確固たる地盤があって、三代に渡って君主が変わるという
不安定を埋めるべく、一丸となって呉を盛り立てようとした感じか。
0236名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/12(水) 00:21:46ID:hd1Uc+Pu0
>>235
わかるわかる。初中期の孫権マジ有能。
宗族・豪族・名士・武官のごった煮状態で喧嘩しまくる臣下を片っ端から仲裁してるもんな。
呂壱が一時期権勢を振るった時も、改めて謝罪して臣下との和を維持してるし。
孫権が傾いていくのはやはり孫登の死後か。
0237名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/12(水) 03:24:23ID:VJ/Lz5is0
孫権は長命だったが、周りの優秀な人材は結構バタバタ死んでるんだよな・・・・
「もしも、生きてたら」ってのが一番多い国かも。
周瑜、魯粛、呂蒙も悔いの残るタイミングで死んでしまったのが残念すぎる。
0238名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/13(木) 19:01:59ID:WHOd08kw0
苦楽をともにしてきた家臣たちに先立たれ
かなり頑固でうるさいが兄が若くして死んだ時からずっと支えてくれた後見人に死なれ
期待していた息子に先立たれ
自分だけ一人取り残され年取っていく
孫権がおかしくなるのもわかるな
0239名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/13(木) 19:14:07ID:D9hieM3g0
ここの流れいいな

合肥あたりのはかばかしくない戦績と、晩年のみをあげつらって無能認定してる
奴らにはこういう考察はできんのかなあ
0245名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/18(火) 23:37:30ID:GC1KDRvX0
>>236
孫権がマジ有能なのは否定しないし同意するが、逆に言えば、そういった有能な
君主が常に仲裁に勤めないとならないほど、政権内部は混沌としていたわけで。
(混乱とは言わない)
国家制度が成立していないから、個人の能力カリスマに頼るしかない。孫権死後
政権がグダグダになっていったのは当然の成り行きかと。

>>220
違うよ。周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜。みな同じ天下二分という戦略の持ち主だった。
周瑜は自力で江陵を獲り、荊南に割拠した劉備を取り込んで関張を指揮下に入れ、
さらに蜀も征服することで長江流域を呉一色に染めることで華北の曹操と対抗
するつもりだった。
魯粛も同じで、ただ現在の実力では単独ではそこまでやれないと踏んで、あえて
劉備を対抗馬に仕立て上げた三分に妥協したが、あくまで劉備を呉の下に置く
戦略は変えなかった。演義では役に立たない外交官と道化にされているが、史実
では劉備がしぶれば実力で軍を率いて荊南を奪い返すべく関羽との一戦も辞さない
ほど主戦派。
呂蒙、陸遜はその魯粛の戦略を継承してさらに推し進めた。
0246名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/20(木) 09:02:43ID:dw8naFDL0
>>245
彼らが蜀に対してどう当たったかってことだけじゃなく、
その行動が対魏関係にどう影響したかってことを考えてみてよ。
0248名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/20(木) 16:44:19ID:78LzL3Zd0
何度も合肥を攻めたのは、何bセったんだ。
赤壁での孫権も、どっか別の場所で何かやってた気が。
0249名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/20(木) 21:01:10ID:RqFLkUoJ0
>>236
孫権が有能なことと、孫呉が国家としての伝統をついに確立できなかったこととを、
「逆に言えば」で繋ぐ必要は無いんじゃね?

それにまた、新興の国家が、個人ではなく国家として忠誠心を得て存続しうるか否かは
二代目以降に掛かっている。創業の君主はどうやってもそのカリスマから逃れられない。
臣下の忠誠心を国家に向けさせるには、カリスマを持たない二代目とその臣下がなんとかするしかない。
孫権に責があるなら、適切な後継者を決定してその元に臣下の忠誠を集め分裂を許さないという
君主の最後の責任を果たさなかったことだ。

>>246
有り得るかもしれなかった魏による荊州制圧を未然に防ぎ、鼎立の体勢を40年維持させた。
とも言えるな。
蜀が長江戦線を呉ほど上手く渡りきれたかというと、分は良くはないだろう。
結局呉には呉の、蜀には蜀の理があるってだけだ。

>>248
孫権は戦争の陣頭指揮だけは下手。これはもうどうしようもない。
0250名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/20(木) 22:05:43ID:yl/ngXZj0
>>249
>適切な後継者を決定してその元に臣下の忠誠を集め分裂を許さない
これはとても難しい
なぜなら、後継者にあまりに注目が集まりすぎることは自分の求心力低下につながるから
実は分裂の芽なんだ、それは
最高権力者にとって後継者は大事であるが危険でもある
曹操のように良いタイミングで死なないと継承は案外上手くいかない
清の皇太子密建が優れているのは、ここをクリアできるから
0251名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/20(木) 23:07:56ID:RqFLkUoJ0
>>250
嗣子以外を外に出し、継承の意思を明確にする。
皇太子に軍権など持たせず、適度な修養と適度な交際をさせておく。

それだけで全然違うよ。
孫権、袁紹が失敗し、曹操が危ういところだったのは、少子を継がせるか迷って
複数の子が並立状態になり、人心を分裂させたから。
劉表が曹操南下直前という最悪のタイミングで死んだにも拘らず
継承自体を成功させ劉家の系譜を存続させることが出来たのは、
劉gを外に出し権臣と権力を劉jにそのまま引き渡す用意が出来ていたから。
父帝の即位二年、大敗後の死というこれまた最悪のタイミングで
後を継いだ劉禅が国を40年守り抜いたのも、家臣団の忠誠の方向が
予め定まっていたからでもある。剛勇と評された劉封が健在だったら、
帝位を窺わないまでも権力を振るって反主流派を誘引した可能性がある。

能力のある息子を選びたいという誘惑や諸派閥の言に抵抗するのは
難しいかもしれないが、やるべきことはそんなに複雑ではない。
あとは後継者の器量次第。
0252名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/20(木) 23:11:01ID:RqFLkUoJ0
続き。
密建のやり方が優れているのは、朝廷の基盤が安定して、
誰を選ぼうとも臣下の官僚集団が揺るがないという前提があるからでないかな。
0253名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/20(木) 23:24:42ID:yl/ngXZj0
>>251
劉表の継承はカクが言ってるように失敗だよ
成功したのは子孫を残すことだけで、覇業は最悪の形で分裂しどっちも闇に消えてる
0254名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/20(木) 23:33:28ID:RqFLkUoJ0
劉表が生きていたとしてもどうしようもなかったよ。
割拠が潰えたのは継承の失敗じゃない。
夏口の兵力を持っていかれただけで、荊州の中枢は分裂せず
嗣子と家臣ともども官位を貰って次の王朝に組み込まれた。
家の存続という当時の高価値を、困難な状況で達成したのだから成功だ。

当時の曹操や賈クの視点からはそんな種類の成功は成功の部類に入らなかっただけのこと。
でも、「そんな種類の成功」を収めた人間だけで魏の朝廷は構成されているわけだからね。
0257名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/21(金) 13:21:23ID:VSfiXPKt0
劉表は劉キを追い出して劉ソウを後継者にするってはっきり宣言してるのに、
それでも御家騒動になっちゃったってのは、結局、
部下の派閥争いを根本的にどうにかしないと意味ないってことなんだろうな。
ていうか、不遇の貴公子なんか作っちゃったら、逆に非主流派に担がれやすいだけでは。
0258名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/11(日) 22:27:11ID:uXVfFW790
周瑜の死は、かなりの痛手だったと思う。
国家戦略の変更に匹敵するわけで、呂粛は有能な戦術家がいてこそ光る。
でも、周瑜以後は、呂蒙や陸遜が頭角を現す前に死去。
呂蒙や陸遜は呉に尽力したが、この頃になると魏蜀打倒も厳しい。

やっぱり、周瑜と呂粛だなぁ・・・・
彼らの動向によっては、赤壁以後の呉の勢力図もガラリと変わったかも。
0259名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/14(水) 08:05:52ID:F6qH+J8/O
呂粛って誰?
0261名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/20(火) 17:17:46ID:t+cqH0vhO
多分 魯粛さんのこと? 不思議な人ですよね。初陣が赤壁で、都督になって…政治家、外交官として卓越した人。
0262名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/22(木) 12:51:34ID:HTuszSDX0
>>261
家財で私兵を養ってたとか。
まぁ、当時の呉では一番先見性あった人だろうな。
周瑜の推挙だっけ?
演義ではカスみたいな扱いだけど、超重要人物だった気が。
0264名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/23(金) 13:48:17ID:Lm4M1shu0
魯粛は孫権の許可を得ずに劉備と同盟の話をしてしまったりかなり破天荒な人物っぽいな。若い頃は
金をばらまいたり剣・馬・弓もやってたらしいし。特別強かったわけではないみたいだけど
周瑜・魯粛・呂蒙のうち1人でも長生きしてればなあ。呂蒙は荊州取ってどうするつもりだったのか
よくわからんけど。孫和が継げなかったのも痛いな。特別有能でなくても真っ当な君主だったろうに
魏・晋に対抗しきれたかはわからんが
0265名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/23(金) 18:51:04ID:8XWYwvg+0
孫和が継いだらってのは微妙かなー。
二宮の変では孫和派の連中でさえ、能力的には孫霸の方が上だけど…
みたいなこと言ってるわけだし、
結果的に孫亮に鉢が回ってきたのはよかったんじゃないか。

個人的には関羽の死後、陸遜が北上して魏を侵略したらしいんだが、
これがうまくいってたらどうなったかと思うよ。
0266名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/23(金) 20:00:28ID:0nQCzVjB0
孫和の息子はあの孫晧。
孫和が継いだとしても、死んだらジ・エンド。

あと、孫亮は名君の資質があったとは思うが、
幼すぎて権臣の専横を招いたため、
彼にあのタイミングで帝位が回ってきたのは、
呉という国にとって不幸なことだったと思う。
0267名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/23(金) 20:58:00ID:Us8YC4kwO
敬愛する魯粛さんのことを、娘に教えてて、陣中でも書物に親しんで勉強してたと言ったら、お母さんも見習わなきゃって話になってしまった。
0268名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/24(土) 00:18:55ID:SSU5eXuF0
でも現代で「陣中」って言ったらどこだろうなー?
職場とか?仕事中に書物に親しむのはヤメテっ><
0269名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/24(土) 05:10:52ID:NCpjDo320
>>264
前々から気になってたんだが、「魯粛は孫権の許可を得ずに劉備と同盟」のソースは?
江表伝には「孫権は魯粛に同時に劉備と手を結ぶことを命じた」とあるんだが
0270名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/24(土) 09:05:52ID:WtQUKPKy0
あやふやで悪いが魯粛が弔問・同盟を命ぜられた時は荊州の主は対外的にはわかっていなくて、
たぶん実力者の劉備がまとめるだろ、劉備を曹操の盾にしようぜ!と行ってみたけど劉ソウが継いで
それだけならいいけど曹操軍が凄いスピードで来て、しかも劉ソウは一瞬で降伏、同盟ってレベル
じゃねえ!劉備なら・・・劉備なら江陵に篭ったりして時間稼ぎをしてくれる!と思ったら

どこも落とさず長坂で蹴散らされて領土は無しで呉に来ました!同盟軍の劉備です!とか言われて
えーおまけで誘ったのに本命なにも無しでおまけだけ来ちゃったよ・・・荊州で盾やってくれると
思ったのに・・・そんな同盟聞いてないよ・・・な感じなんじゃないの?今ちょっと見当たらなくて
悪いんだが、江表伝見れるなら劉備伝のそこらへんのところに魯粛とのやり取りでいろいろ書かれてる
ってどっかで見たような。見れるなら見てみてくれ
0272名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/24(土) 19:50:52ID:ymqJJLg30
>>265
> 二宮の変では孫和派の連中でさえ、能力的には孫霸の方が上だけど…
> みたいなこと言ってるわけだし、
これって誰が言ったの?
0273名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/25(日) 01:12:49ID:UIpCd4fZ0
>>270
時間的にも情勢的にも相当慌しい状況だっただろうからね。
その中で何らかの答えを出さなければならなかった場合、魯粛の判断は
間違いではなかったとは思う。
対曹操という方針になると、早急に同盟組める勢力は劉備くらいか?
まぁ、選択肢も少なかったとは思うが。
周瑜いなかったら、降伏してたかも知れんし。
0274名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/25(日) 08:02:42ID:FVntN1s/0
外交使節としての専権行使じゃないかね
魯粛が諸葛亮をつれて戻った時孫権は戦略の決断を付けていなかったわけで、
劉備with劉gとの同盟というのは開戦へ大きな材料となっただろう
0275名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/25(日) 14:55:58ID:qpe9Kwec0
>>272
もちろん明言してるわけじゃないよ。
孫霸派の人が魯王は英雄の素質がありますみたいな言い方をしてるのに、
孫和派の人は太子は年上だしお優しい人ですくらいの言い方に留まり、
ちょっと誰だったか思い出せないけど、孫和派の人が
孫霸は有能だから、地方に出して元帥にしようとか言ってたと思うよ。
まああとで確認取ってみるわ。
0276名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/25(日) 15:05:30ID:qpe9Kwec0
ああ、俺が言ってるのは是儀のことかもしれん。

しかし孫和を褒める人でさえ誰も孫和を有能だと言わんのは、
まあ戦術的に長幼の序を唯一最大の武器にしたいというのもあるだろうが、
ちょっと寂しい話だよな。
一人くらい「年上だし、しかも有能」とか言ってやれよって思ったりする。
0277名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/26(月) 21:49:51ID:eRypHjyC0
是儀は孫霸の傅(後見役)。
その是儀が「孫霸を都から追い出してください。前線に送ってください」と言っている。
「孫霸が優秀だからこそ前線におくって、国家の盾となってもらいましょう」とエクスキューズ。
そりゃあ「太子とその弟を同列に扱うなんてバカなことやめてください」とは言えんよ。
同じく「孫霸を外に出して夏口の司令官にしろ」と言った吾粲は殺されている。

孫和に関しては孫和伝では褒められまくってるよ。
もちろん信憑性は疑うべきだが。
0278名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/26(月) 22:58:31ID:CCPitytf0
長幼の序って皇帝位の相続では案外怪しくて、呉から見て手本となる漢ではしばしば長幼の序を無視している
武帝しかり明帝しかり
つまり長幼の序を第一の武器にするのはものすごく心もとない
「光武帝は能力主義で後継者を選んだよね」とか言われちゃうと否定できなくなる
だから能力がそれなりなら、長子であること以上に能力を推すべき

それなのにあまり有能さをアピールされてないということは・・・
0280名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/26(月) 23:33:20ID:eRypHjyC0
>>278
長幼の序っつーか、孫和を太子に立て、孫霸を魯王に封じながら同格に扱ったのが問題なんだよ。
能力の点から孫霸が適任なら、孫霸を太子にすればいいだけの話。
是儀が問題にしてるのは長幼の序ではない。
「二人の宮様の間には段階の差があるべき」「上下の秩序が重要」と言っている。
0282名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/27(火) 00:57:56ID:6VoOWVRB0
陳寿の呉志が孫和を有能だと書いているのは、
孫和が孫晧の父であり、陳寿は孫晧の時代に編纂された韋昭の「呉書」
を主に引き写して呉志の部分を書いたからだと思われる。
陳寿が孫晧の「昏君」ぶりを書けたのは、呉が滅びた後の記録や、
魏晋の史書を参照することが出来たからだろう。

さて、では同じく孫晧の「悪事」を書いている後の時代の地方史である
「呉歴」や「江表伝」ならば、陳寿が知り得なかったソースを元に、
権力に気兼ねなく孫和・孫覇の人物を描写し得るだろうし、
原典を読み通した裴松之チェックに引っ掛からないはずはないだろう。
にも拘らず、裴松之は
「和は既に正位にあり,適子と庶子は分け定められていて,たとい才コが殊ならずとも,
なお義は庶子の党にない。いわんや霸の実を聞くことは無く、和が令嗣であるならば」
と述べている。これはどういうことか。

…と思って軽く孫和伝見てみたんだが、孫和を褒めてるのはやっぱり「呉書」だけだった。
呉志全体から引用文献ごとに比較考証でもしてみないとなんとも言えそうに無いね。
0283名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/27(火) 02:49:13ID:FXNf+eCz0
孫和はともかく、孫覇ってそんなに英邁だって書かれてたっけ?
是儀以外のとこでどっかある?
0284名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/27(火) 05:16:56ID:ZKwF1cWO0
>>282
呉書も含めて、孫和の評価の仕方って、
馬鹿を率直、愚鈍を慎重、独善を独創、乱暴を活発って言い換えるみたいな、
何の取り柄もない人をむりやり褒めようとしてるみたいな感じ。
記述に具体性がなくて、史書ではお決まりの文句の一般論で終わってる。
温厚な人柄ですよーって、それ無能の言い換えじゃないかと。
呉録で、厳しい問いにも即座に答えられたってあるのが一番ましなくらい。

>>283
どん引きするくらい楊竺が絶賛してる。孫権もそれに納得したらしい。
0285名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/27(火) 07:44:43ID:6VoOWVRB0
つまり両者とも褒めてるのは党派の人間が主なんだよな
呉についての主な史料である呉志・呉書が当てにならないとすると
史料の量的に随分厳しいことになるわけだが
0286名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/27(火) 08:56:16ID:HwbV3Z1tO
孫呉は、内部抗争で本当にもったいないことを… 周瑜、呂蒙の子も罪を得てるし、陸遜自身、憤死だし。魯粛の遺児は、最前線の地方周りで無事だったけど中央じゃ活躍していない。
0287名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/27(火) 21:30:57ID:J/svOZ560
孫権の息子の中で最も権力欲が強くてもっとも無能な孫奮が皇太子という方法はいかが?
0292名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/05/02(土) 12:49:13ID:m3BacFER0
天下を獲れる可能性は滅亡前まであった
一番可能性が高そうなのは孫策
次は生存後の予測がつかない孫堅(呉じゃないか)
袁氏滅亡後は以前と較べて中原が段違いに安定してるから難易度も上がる
周瑜の益州侵攻の他には南郡攻略後の益州侵攻が考えられるけど材料が少なすぎるか
合肥攻略、襄陽保持、241年の大攻勢のどれかが成功してればな…
0293名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/07/05(日) 17:11:50ID:9KEag+Y10
三国鼎立後は我慢比べが蜀呉の基本戦略だったはずなのに、
それに成功して国内を安定させたのが魏を掌握した司馬氏だったというのが皮肉。
呉は孫登が長生きするか、せめて二宮の変がなければ高官同士の勢力争いも起きず、
諸葛誕らの叛乱に十分な戦力を送り込むことができただろうに。
0294名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/23(日) 20:53:59ID:wS91Wlkx0
いつも不思議なんだけど、長坂でこってんぱんにやられて一部隊にも満たなかった(魯粛伝)劉備が、何で呉にとって同盟相手たり得たの?
袁紹とこに逃げたみたいにただの帰順じゃない?
妄想1なんだけど、曹操に荊州が落ちてしまえば呉が魏と渡り合うのはまともに考えればまず不可能で、魯粛は実態のない劉備陣営を無理矢理捏造して、同盟しちゃうことで開戦せざる得ない状況を作っちゃったんじゃないか、ってのはどう?

妄想2はもっと身も蓋もなくて、呉と劉備の同盟なんて、実は後から蜀側の人間(陳寿含む)の捏造なんではないかと。
蜀は実質の力から言えば、三国の一部に数えるには馬鹿らしいど田舎の小国なんだが、ただ、"物語"としての三国志演義の中では常に漢室の流れをくむ"主役"として扱われてきた。
何故か?
それは後世の史家(陳寿)の意図的なでっちあげがあったのではないか?
そして、正史と言う歴史書では描けない嘘を、演義が補って来たのではないか?
そもそも演義と言う物語が民間で伝承されるようになった始まりは何だったのか?
その作者は誰なんだ?ってことを考えると、赤壁で風をふかし、三国鼎立と言う巨大なギャグを打ち立てたあの人しかおらんのではないかと妄想するのです。
0295名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/23(日) 22:22:24ID:2B3irdw+0
>>294
妄想1は分からんでもないというか、「捏造」「開戦せざる得ない状況」は言い過ぎと思うが、
魯粛が開戦の方向に持っていく材料の一つとして
「勢力としては弱小でもとりあえず劉備と結んどけ」って思ったのかもしれんね

妄想2はどこから突っ込んでいいかわからんよ
陳寿と羅漢中らの時代は離れすぎてて言いたいことがぼやけているというか…
根拠は省略するが陳寿はそこまで蜀に肩入れしてないだろう
呉志については韋昭らの呉書をかなりの割合で丸写ししているようだ
そんなところをでっちあげるならコッチもソッチもいじったはずだってことになるんじゃないか?

三国志演義の成立までの過程は『三国志演義の世界』(金文京)辺りをどうぞ
0296名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/23(日) 22:34:15ID:wS91Wlkx0
きれいに突っ込んでくれてありがと!
もっとけちょんけちょんにいぢめられんじゃないかと怖かったよ。
羅漢中は民間で伝承されてるもんを纏めたんで、その伝承がどこから来たのか知りたかったんだけど、文献あげてくれてありがと!
演義も勉強してみます。
0297名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/23(日) 22:47:22ID:deBHfkbp0
>>294
長坂でやられた中に関羽は入っていない
そして関羽は兵を率いていた(諸葛亮いわく1万)
しかも江夏太守劉キは事実上劉備と一体で、もちろん劉キも独自の兵を率いていた(同じく諸葛亮いわく1万)
劉備直属の兵が敗れていても、自称2万の兵の助力は美味しい
それだけでも十分同盟相手としてなりたつ
0298名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/24(月) 00:19:54ID:T2SRYNcY0
>>296
「羅漢中は民間で伝承されてるもんを纏めた」ってのはちょっと、いやだいぶ違う
単なる表現の違いで実はちゃんと分かってるってんなら申し訳ないが
0299名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/26(水) 12:03:39ID:6eMtv/k40
>>294
実のところ長坂でコテンパンにやられたのは劉備、じゃなくて着いて来た民衆や兵の家族で
兵はかなり保全されてるから
0300名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/26(水) 17:53:19ID:izQrzc9x0
>>299
保全はされてないだろう
この当時の兵の大半は歩兵なんだから、
敵の精鋭騎兵に追撃されて味方の首脳部が騎馬で遁走した時点で、
大部分の兵は離散してしまう。先鋒だけで兵にしても民にしても殺しきれるような数ではないが、
劉備が再回収するにもかなりの時間が掛かったはず。
0301名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/26(水) 18:14:20ID:MXOwtzmV0
当時の劉備の軍が一部隊に満たなかったってのは魯粛伝にソースがあるんだけど、
関羽、リュウキの軍二万って結局赤壁でなんかしたのかな?
勉強不足ですみません。
謎多き赤壁。どんな戦いだったんだろう?
孔明の矢を集めた話は嘘にしても、連環の計や苦肉の策、法統や闞沢の活躍はほんとにあったのかな?
ごめんね、余りに無知過ぎて。
0303名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/26(水) 20:30:21ID:MXOwtzmV0
ありが惇!
物語にしても、やっぱよく出来てるね、演義って。
演義って、呉が不当に貶められてる感じがして、結構避けて通ってた。認識を改めます。
スレチなんだけど、お勧めの演義訳があったら教えてくれると嬉しいです。(変にナウい文体にしていない、原文の良さ(漢文)が伝わるものがあれば)
吉川も面白そうなんだけど、純粋な三国志演技で。
色々ごめんねm(_ _)m
0304名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/26(水) 20:52:56ID:6eMtv/k40
>>300
時間ならいくらでもあるんだよ
結局江陵まで取ったら取ったで曹操は戦後処理しないといけないからな
実際、長坂から赤壁までは数ヶ月ブランクがある
0306名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/27(木) 04:48:34ID:FIO+46af0
>>291
周瑜の益州侵攻プランってのは周瑜自身の才能に頼るところが多くなってしまいそうな気がする
もちろん、周瑜ってのは頼るに足りる才能なんだけどさ
機を制して相手に不利な場所に陣を張らせる戦略眼(赤壁)、疲労した軍でそのまま城攻めして成功する統率力(江陵)
加えて部下の進言をよく聞いて採択するから独立して軍を預けるにこれほど相応しい将はいない
曹操は結局そういう武将を持ち得なくて天下を制することが出来なかったし、劉備は任せた関羽は能力が及ばなかった

時期的に考えると漢中の五斗米道と益州の劉璋が一番険悪化している時期だし、ここに呉軍が攻め込むってのは面白い
法正らも味方するかも知れないし(彼らは別に絶対劉備じゃなきゃ駄目って事はないだろう)
最初から大兵力で、相手が漢中に敵を抱えたまま、名将の周瑜が攻めるなら劉備と同じ1年かそれ以下で陥としてしまうのも夢じゃないかも知れない

問題は劉備で、これを外交力で抑えられるかというと中々難しいと思う。魯粛や孫権もキレ者だけど
さらに曹操は史実では西涼にちょっかい出して馬超と交戦状態に入るけど、周瑜益州に入るという状況なら馬超とは友好関係を維持したまま南下する可能性も大きいだろう
周瑜自身は馬超を同盟相手にしたいと考えているけど、それも上手くいくかどうか
最悪、劉備、曹操と戦うとして本国に残した兵で足りないってことはないが(絶対的不足なのは揺るがないけど、戦線を維持できない程ではないだろう。3万ほどあれば)
海千山千の劉備軍、曹操軍に誰が対抗しえるか、外にいる周瑜の動きを理解して行動しえるか、というと誰もいない。呂蒙がもっと早く育ってればいいが。
孫権には悲しいかな武将としての才能がないんだよね。これが孫策なら……
0309名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/28(金) 13:11:41ID:zMG8w5kE0
>>308
関羽、劉キの2万ってのは前提な
そんだけいりゃ十分同盟相手になる

さらに劉備が兵を糾合するわけだから
開戦までにかなりの兵が揃うって話だぞ
0310名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/28(金) 18:15:14ID:nHgQ1KkN0
>開戦までにかなりの兵が揃うって話だぞ
そんな話をしていたかどうか微妙だが、目算自体には一理ある。
魯粛と諸葛亮が「これから左将軍が荊州兵をどんどん集めますからもっと増えますよ」
とか半分ブラフかましたかもしれない。「保全されている」とは言わないだろうけどね
0311名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/28(金) 21:37:17ID:lzLzukEr0
オレは立間祥介訳以外の演義は読む気になれん。
これ中身は講談調で読む人を選ぶかも知れんね。
0312名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/30(日) 20:23:23ID:uUnx6k4x0
関羽の一万なんてソース見あたらないんだけど?
先主(劉備)伝にも、関羽伝にも、船数百艘としか残ってない。
となると、劉備の一部隊、数十騎と関羽の数百隻が劉備の全軍で、加えるリュウキの一万の方が圧倒的に多い。
劉備と同盟って言える数かな?

陳寿が蜀贔屓にして他(特に呉)を貶めているのは、正史 蜀書の解説に詳しい。ハイショウシの注の膨大さにも、後世、蜀を正当とせんための意図的な誇張、改竄が明らかに思う。

結局、正史にしたところで蜀を賞揚しようとする陳寿の意図に、真実は多く隠蔽されている。

だからこそ、こうして裏の裏の裏の行間を読み、自由に想像を広げる楽しみもあるんだろうけど。
0313名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/30(日) 20:54:09ID:VkmwZ7dT0
>>312
諸葛亮伝も見たかい?

あと、仮に「同盟」時点では少ない兵力だったとしても、潜在的な兵力というものもある
つまりちりぢりになった兵の回収や荊州における募兵などで、今後兵力を増やすことが出来る可能性が高い
これらは元々劉表と敵対して荊州を侵略していた孫権には困難なこと
0314名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/31(月) 00:13:09ID:KAkbBE1l0
>>312
呉の「国選史書」である呉書から主に採録され(他に史料がなかっただろうが)
呉歴や江表伝から注が引かれまくってる三国呉志が存在しなければ、
その意見は正しかった
0315名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/31(月) 02:41:43ID:ElpcHXC90
>>313
そういう荊州絡みの事情は大いにありそうだ
漢の血が流れていると言われている劉備のネームバリューも込みで
後々呉のために便利に使いたかったんだろう

そう考えれば、たとえ劉備が身一つだったとしても
評判さえ失っていなければ同盟を結ぶ価値はあったんじゃなかろうか
0316名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/31(月) 02:58:14ID:ElpcHXC90
>>312
もしかして>>294の人だろうか?
>>314で完全に反論できているから蛇足だが…

もしも「一人の史家の感情一つで歴史なんてどうとでも伝えられる」とか思っているなら
昔の人や社会を馬鹿にしすぎというものだ
陳寿の蜀に対する遠まわしの優遇や敬意の表現は確かに見られるが、
陳寿の頃は「明らか」と言えるほどのあからさまな贔屓ができる状況ではなかった
ちなみに三国志が正史に認定されたのは世間が蜀贔屓になるより前の時代

陳寿の蜀書がそっけないほど短いから、裴松之の注が自然と長くなったとも考えられないか?
裴松之はいくつかの矛盾する逸話があればそれらをそのまま掲載した上で
自分の意見を沿えるという公平な手段をとった人物
蜀の注の量しか理由が無いのでは「誇張、改竄が明らか」とは言えない

そこまで断定的な表現で書き込みをするなら先にもう少し勉強するか、
或いは、自分の意見に凝り固まらずもっと人の意見に耳を傾けたほうがいいぞ
0317名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/31(月) 10:28:13ID:sFewg5gm0
普通、陳寿の蜀贔屓の根拠とするのは、楊戯の季漢輔臣賛を入れたことだな。
季漢輔臣賛の採用は他国と比べて明らかに公平性を欠くが、
(他国の賛は取り入れなかったし、賛をいちいち採用していたらきりがない)
賛に付随する形での陳寿の筆による記事は、伝に漏れた人物を知る上で重要な史料でもある。
0318名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/31(月) 17:58:02ID:M9Qi/pLMi
確かに久々に蜀書を読んで、蟠ってる赤壁までの流れを参照すると、色々あれれとおもうところがあって、ちょっとばかし頭に血がのぼってしまい、言葉に行き過ぎたところがあったように思います。面目無い。

けれど、(けっして陳寿のことが嫌いな訳じゃないけれど)劉備だけを先主として、孫権は権と呼び捨てたり、劉備の妻だけ皇后とする書き方に、蜀と呉の間で(魏晋は除く)「あからさまな贔屓目が」あったかなかったと言うのは、もはや個人の感性の問題と言う気がします。
(数百の船と、劉備の兵と言って本当に良いのか、と言うリュウキの一万を軍に迎えるのが、同盟っぽくないと感じるか感じないかも、やはり感性の問題な気もします。)

バカバカしくも私は決して>>294で述べたような妄想を、盲信するつもりもないですし、私は自分の意見に凝り固まってると言われる謂れもないです。私は関羽一万と言う数に、正史の記述から多いに疑問をもったに過ぎません。

ただ、私は蜀書の井上律子さんの解説にある様に、正史の中に、既に劉備を正当と認めようとし、演義の元となる様々な仕掛けがある、と言う説にとても説得力を感じた次第です。

長坂から赤壁までは、劉側と孫側では、結構印象が違います。(劉側の赤壁は、「劉備が曹操と戦うのを孫権は助け、これを打ち破った」なんて記述がありますが、これはやはり殆ど詐称の様な書き方であることは認めて頂けるのでは?)
0319名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/31(月) 18:37:59ID:ElpcHXC90
>>317
自分は三国が公平だったとも一切贔屓が無かったとも言っていない
蜀の優遇は輔臣賛以外にもいくつもあるだろう
それらを総合するとかつて自分が仕えた国に対する義理だけというよりは
もう少し大きな優遇をしていると自分も考えている

しかしそれらの優遇は主に表現の上での扱い方だ
「意図的な誇張、改竄が明らか」だとかいうならば、
陳寿が事実を曲げた他の具体例を挙げねば論理的ではない
少なくとも、他の資料ではなく陳寿に原因があると推測できる明らかな矛盾点等が
いくつか挙がらないことには説得力が全く無い。話はそこからだ
ここは呉の軍師のスレなので呉の軍師に関わる矛盾点で頼むw
0320名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/31(月) 18:46:50ID:KAkbBE1l0
荊州東部はこの時劉備-劉g連合の所有だったのだから、
そこに呉軍が進出して戦う以上、「劉備が曹操と戦うのを孫権は助け」というのは正しい表現。

一方呉の記述を見ると、孫権伝や周瑜伝・魯粛伝では「備と伴に進み」というように書いてある。
この赤壁前後の戦力はというと、劉備軍が諸葛亮による公称2万。
周瑜が呉書では3万。建康実録では周瑜2万に孫権の後詰1万とされる。
その後の荊州戦線の分担を見ても、この場の投入戦力では極端に格差がある同盟ではない。
(地力では大きな差があったことはその後の数年の劉備の苦労によってわかる)

>劉備だけを先主として、孫権は権と呼び捨てたり、劉備の妻だけ皇后とする書き方
云々に込められた陳寿の故国顕彰の念とは別のところで、
国史というのは結局自国を中心に歴史を書くものだし、陳寿は三国それぞれに伝わる史伝を
結構忠実に書き写したのだろうと判断できる。
0321名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/31(月) 19:55:45ID:sFewg5gm0
>>319
自分は陳寿による贔屓と言えば普通は季漢輔臣賛を取り上げるだろうと、
>>312に言いたかったんだが…どうも誤解されたようですな
0322名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/09/01(火) 00:18:23ID:40OqMEW+0
おっと失礼、自分より前に>>318が書き込みしているとも>>317が別人とも思わなかった

>>318
あれこれ想像するのは良いことだし、楽しみ方は人それぞれだが、
歴史である以上「感性の問題」で片付けられるものではない
本当に感性の問題だと思っていて、もし誰に同意されなくても良い、
誰にどんな意見を言われても聞く気がないのならば、こんなところに書き込む必要もないのではないか?

>>294では自分で妄想だと言ってるからけちょんけちょんにする気も起きなかったが
>>312では正史すら充分に読めていないのに、それまでのレスに対して充分なレスもせず
それらの意見を踏まえもせず自分の言いたいことだけ言い、しかも断定口調だから「凝り固まってる」と感じた

このスレや板には井上律子並に勉強になるレスも多いし、良い本も良いサイトもいくつもある
それらを読めば大方の疑問や間違いは自然と解消するだろう
0323名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/09/01(火) 21:35:27ID:EIKHJMke0
>劉側の赤壁は、「劉備が曹操と戦うのを孫権は助け、これを打ち破った」
>なんて記述がありますが、これはやはり殆ど詐称の様な書き方であることは認めて頂けるのでは?)

周瑜伝でも呉主伝でも「劉備と協同で軍を進め、曹操と赤壁で遭遇し打ち破った」
「劉備は周瑜らとともに追い打ちをかけた」とあり戦闘での劉備軍の活躍を否定してない
それに本人の伝では自分が主体になるのは当たり前でなぜ明らかな詐称とまで言えるのか分らない
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