宋の襄公を語るスレ
自分が正妻の子にも関わらず庶兄の目夷に後嗣を譲ろうとしてさらに
楚をナメてかかってあっさり捕縛されオウ水ではお馬鹿な戦闘で敗れて
だらに全く持って厚顔無恥だった宋の襄公を語るスレ この人は前時代的な人間なんだと思う
人間を生け贄に捧げたり、戦争の際礼儀を重んじたために負けるという時代遅れな行動など商王朝の末裔であることを考えるとそう不思議じゃないかも
伝統ある宋がどちらかといえば新興の楚に負けたということは時代が新しいものを必要としていたのだろう 桓公が燕に領土を割譲したって話なんかもそうだけど
中国が長く儒教に縛られたのも、そんな行為が堂々まかり通る時代が実際にあったからだろうな そういうところ、春秋時代以前って何だか非現実的な感じを強く受ける。 この時期の戦争ってのは、後の戦国時代に比べたら、
まだまだのどかさが残っていた。
だから、襄公な人物も存在できたとも言える。 当時の人々も後世と違って純朴なところが大きかったのかな? 宮城谷版だと「いいひと」か「優しい人」になってたりする。
そのせいかあまり嫌いじゃないんだよな、この人。 純朴というより正義感に燃えまくってたんじゃない?
覇者としてこう振舞わなければならないって所にがんじがらめだったとか
斉の内紛を短期間で鎮めた手腕を見る限り
おめめキラキラの夢見がち人間ではない 日本の戦国時代だったら、絶対上杉謙信に助けを求めただろうな。 上杉憲政のプライド高い版?
日本の戦国は疎いからよくわからんが^^; プライドっつーか
軍事で勝ち方にこだわりすぎな上杉謙信のような
まあ、日本史で例えてもあんまり意味はないと思うけどね >>29
公生活のどの辺がいかれてたと思ったのか?
※この時代に公私生活の別があったのか知らないけど
便宜的に「公生活」とさせて貰います 会盟の主催を務めたら覇者という考え方なんだろうな。
名と実が違い過ぎるけど。 会盟を主催できるだけで十分威勢はあると思うが。
問題は仁義を貫いてなお覇者足りえた斉桓公・秦穆公・晋文公のようにいかなかったこと。 亡国の末裔の上、小国という悪条件で
楚に無茶苦茶にされたとはいえ一応、会盟開いてるからな
やはりひとかどの人物であったのではなかろうか 覇者(会盟主催者)って反楚軍事連合みたいな面も大きかったからな
斉桓が死んで、楚の脅威に対抗するために
誰か代りが必要だと思ってちょっと無理して頑張ったんじゃあるまいか 良い意味でノーテンキな人だと思う。新興国の鄭や異民族の秦・楚を目の敵にしてきた姫姓でない宋国。姫姓は“衰退の運命”だから火中の栗を拾う英雄は自分しか居ない!…と思ったのだろう。 余力のある時に敵に塩を送っても別にこっちは困らない。
宋襄の仁は弱い所を攻めないで結果負けてるから拙い。 なんせ宋襄の仁の場合、礼徳としては優れた有様ではあるが
戦術という観点からは只のアホウというどうしようもないモンだからな。 ただ宋ってこの規模の国にしては結構戦国時代中期まで残ってるよね
負けはしたが、国家国民がよりどころを失う=亡国に向かうような負け方はしていないと言えるかも >>43
でも泓水の戦いが行われた当時の宋や楚は、殷王朝以来の古礼を重んじる国だったから、
渡河中の敵を叩いたり、あるいはそれに備えるという発想そのものが双方に無かったのかもね。
もっと言えば、菅仲以外に「戦術」を考える者がこの当時にいたかどうかすら疑問だが。 そういう説もあるようだけど、一方で楚と言ったら俺は蛮族だから周の天下など知った事では無い、と言って
勝手に王号を名乗ったりもする訳だ。 >>45
>もっと言えば、菅仲以外に「戦術」を考える者がこの当時にいたかどうかすら疑問だが。
鄭の荘公 >>44
この子孫の最後が宋襄の仁とは正反対のDQN 斉の桓公が脅されて領土を割譲し信義を立てたように
宋襄の仁も敗れて襄公の信義が立った
怪我せず長生きしてればもう少し称えられただろう
もっとも勝っていれば
晋の文公の三舎を退くに匹敵する故事になってただろうけど そう勝っていれば何の問題も無い。負けたのが全て悪い。 文公が三舎退いたのは自軍が有利な地に楚軍をおびき寄せるためっていう説もあるけどな こいつを五覇にしてるのって確か孟子だよな
つまり孟子は宋襄の仁を王者の所業として肯定してると思うんだけど
今使われている無用の情け的な意味は
孟子を重要視する朱子学上では認められていたんだろうか?
いないからこそ今こういう意味で使われているのかな? 孟子が宋襄を五覇に数えてるかどうかは実は孟子の注釈者によって意見が分かれるけど、
覇道に批判的な儒教において五覇が称賛されるということはまずないよ
徳治を行うのが王道、実力で治めるのが覇道で、儒教的価値観に照らせば覇道は劣ったやりかたであって
孟子は五霸は夏禹・商湯・周文の三王にとっての罪人だとか、孔子の徒で桓公・文公の事を言う者はないと言ったし
荀子も孔子門下では子供ですら五覇を称することを恥じたと言ってる
襄公を五覇に入れる立場は、仁ていうのは人民に恩徳を施すことなのに
戦争で相手に譲るときに仁を用いたのは仁の意味を理解してないからで、
王者の資格がないっていう消極的な意味で覇者に数えたんだろうね
無用の情けには違いないけど、本来の王道・覇道の区別は今日的な用例では失われてるっぽい
春秋のファンサイトとかで、孟子が宋襄を五覇に入れたのは宋襄の仁が儒教的に称賛されるべき行いだったからと説明してるのがあるけど
これはだいぶ誤解してる
で朱熹は孟子集注において宋襄を五覇に含める説と含めない説とを併記した上で
諸侯を伐することは天子の命を奉じてなすべきものなのに、五覇は天子の命によらず勝手に諸侯を伐したと指摘してる
朱熹や朱子学の徒が宋襄の仁に直接言及したかどうかはちょっとわからないけど
肯定的に評価するということはなかったんじゃないかな >>53
詳しくありがとう。
というか、曖昧な質問なのに
聞きたい事が全て答えらててむしろ感動してる。
長年2ちゃんやってるが、これほど親切で的確なレスに出会ったことがない
慈父の下に孝子なく、名君の下に諫臣なしというけれど
自分の無知さえもこのレスに出会えた事を考えれば
誇らしく思えるわ
きっと>>53は世が世なら名宰相と称えられる器量を持ってるね
気持ち悪いぐらい褒めてるけど
この感動をどうにかして伝えたかった、すまん >>53
そもそも儒教で五覇が否定的に取られていることも知らなかったから、
目からうろこ。 確かにこれは眼から鱗です。
覇道を否定しているのだから襄公を五覇に入れたのは良い意味ではありませんよね。 なんでこんな無力なアホが春秋五覇に名を連ねているのか