◆◇◆秦◆◇◆
紀元前221年に中国を統一し紀元前206年に滅亡した
首都咸陽。 日本は一文字やるから使えって文化もあるな
佐久間信信殿は誠に果報者でござるな 漢は皇帝の諱をあまり使われない字から選ぶ様になったな だからよく使われる字の奴は本来後継者候補じゃなかった
秦王趙正、これを跡継ぎにする気はなかったんだろうな >>151
でも、名前では呼ばない
今でも部長を太郎とか花子とか呼ばない 秦の始皇帝は、始皇帝を名乗ってはいない、皇帝である 「優秀な労働力」とはどういったものなのでしょうか?命令を理解し、指示に従順に従う事を言います。工場労働は集団行動ですので、集団行動に適した人間である必要もあります。軍隊が求めている「質の良い兵隊」と全く一緒じゃないですか!!これが理由です。 >>150
ロシアや東欧でキタイと呼ぶのはわかるけど
ベトナム? 本当か? 中国のことを英語でChina、ギリシャ語でΚίνα=キナ、トルコ語でÇin=チン、ロシア語でКитай=キタイと言う。 >>164
ベトナム語では?
googleだと "Trung Quốc" だがこれカタイやキタイの系統じゃなくて
「中国」って漢字のベトナム音だろこれ
googleが中共に忖度してんのかな? >>140
秦が「俺らは趙の同族だ」と自称して系譜こじつけて
趙の神話に接続したんだろ
本当の先祖は狄だろうと思うが >>142
それは周の礼だからということで避諱が廃止になったりして。
秦の礼は新たに制定。もしくは法をもって礼となす? 政が使えないときついな
政と同じ意味の言葉ってなんだろう 秦は申だったとか
政は正月に生まれたからと言っているのだから正だろうね
政だったら、その文字が禁止されて政治のことを別の字で言うようになったはず
滅びて従わないとしても政のことは何々と言うがない 卑弥呼は公孫氏の女と史書に書かれているのを日本の学界は無視し続けている >>171
当時、邪馬台は遼東の公孫家の支配下にあっただけじゃないのか >>172
支配下にあった国の中で邪馬台国の卑弥呼だけ公孫氏女と書かれている 関羽・張飛は武勇に優れ、一身を捧げて世を正し、主上を奉戴扶翼し、雄壮果敢であった。
左右の守りとなり、電の閃くが如く飛びまわり、
主上の難儀を救い大業を助け、韓・耿と同じ功績をあげ、並ぶ名声と徳義を打ち立てた。
人との交際・応対に礼儀がなく、共に凶事を将来する事になった。
彼らの浅慮と、身を滅ぼして国を救った態度が悼まれる。
関雲長・張益徳を賛える 邪馬台国の女王卑弥呼は遼東で燕王を自称した公孫氏の娘である
倭人の中で王を立てようとすると争いになるため
彼らの宗主国である燕の王女を王とした 春秋戦国時代末期においては、秦、斉、宋など殷の末裔の国々では日本語が喋られていた。
これ本当かな エイ氏が築いてきた身代を呂不韋の子孫が台無しにした 周と秦の子孫のY染色体ハプログループDNAは同一
呂不韋は相邦呂不韋と書かれている
通常李斯も丞相斯と書かれているのに
仮説だが、呂不韋は呂が氏で不韋が名ではなく、呂不韋で名 >>184
子孫?
中国は何度も異民族が侵入してぐちゃぐちゃ
どうやって周王朝だの始皇帝以前の秦王家だの呂不韋だのの遺伝子を特定したんだ?
アホも休み休みいえ >>186
Y染色体の遺伝子は父からだけ
ミトコンドリア遺伝子は母からだけ
男系遺伝子が一致したという話
また、周は王族と国民で遺伝子が異なる
定説では同じ民族のはずが文化は同じでも遺伝子が違っていたのが判明したりもある
遺伝子研究の成果では95%以上の生物は20万年前までに誕生して進化していない >>187
>どうやって周王朝だの始皇帝以前の秦王家だの呂不韋だのの遺伝子を特定したんだ?
これ↑に答えろよ。サンプルどっから採ったんだ?
与太話もいい加減にせいよ >>189
墓らしい
貴族と人民で遺伝子が違うんだって >>191
周の貴族の複数の人骨と、庶民の複数の人骨で
Y染色体ハプロDNAが異なる別民族(どっちも周族だけど) 周に秦も何百年も続いてるのに
どの時代の人骨だよw >>194
複数の時代で同一のハプロらしい
それで周は支配階級と国民は別の遺伝子だと分かった 総論として書いておきたいのは、私が良く言う周の時代の国民と王族は同じではないって書き方がある。
これ証拠と言えるか?まだ分からないけど、実際墓、装飾品などから平民と貴族で区別が出来、そのハプロが違ったからになる。
周の貴族のハプロはQ系になる。これ複数の場所からとられていて、それが重なってるのも大きい。
1つは西の方でウイグルに近いのでなんともいえないが、ここで出たハプロはQ系だった。
後は山西省だったと思いますが、ここで平民と貴族でくっきりハプロが別れます。平民はO2系ばかりで、稀にO1がある程度です。 周人とは何か?となると、周の王族ではなく、国民だという話しになります。
私は黄帝もこれだと見ています。
黄帝が実在したか?してないか?は重要じゃなくて、
中国の多数派の象徴として移住の歴史を子孫として脚色されてる可能性があると言う点です。
黄帝が象徴だとは思っていません。それと言うのも舜の末裔と言われる子孫のハプロが01B1で、
中国では南方のハプロです。何故中原の支配者が?となると、今と違う民族構成だったのでは?と見ています。 古代中国語には発音的に南方の要素があって、
南方系が初期支配者だった可能性があると見ています。
そういった代表的人物は居たが、
後から追加して民族の代表者となってしまった部分があると見ています。
実在は事実でも逸話は大半象徴として描かれてると見ています。
鮮卑系と書きましたが、
私はこれでイコール唐の皇帝がこうだったとは思って無いです。
内モンゴルやウイグルに多い。それは、遊牧民系。
これが中国内部にも入り込んでいる。それは後から入り込んだのでは?って話です。
唐の皇帝が率いた部族にいたO2系がこの系統だった。
それと言うのも中国が騎馬民族化したわりにはC2系の割合が少なすぎます。
元々騎馬民族は少数の支配者とそれにつならなる連合軍の形を取っていて、
清もそうです。大して2度も本格的に支配を受けたのに、C2系の割合高く無いです。 ゆえに、唐の皇帝は実際はC2系だった可能性もあります。
鮮卑に関しては子孫の話を聞いてなくて、中国で多いハプロだからって雑な予測で、
周もおなじです。もう1つ多い劉邦系と始皇帝系は、
子孫からの類推がきちんと考慮されています。
周の場合古すぎて胡散臭いのが大きいです。それを言うと舜も十分胡散臭いです。
中国最古の孔子より古い2系統ですからね。
その最古で信用できる家系が3つのハプロを絞れないとなっています。
孔子は貴族の出らしくて、それで当時の貴族に多かったQ系が怪しいとは見ています。
夏はまだなんとも言えませんが、孔子が殷の貴族だったらしいので、
2王朝ともQが当時の貴族の血統だった可能性は高いです。
このQどこから来たのか?でモンゴルの当時の遺跡でN、Q、C2がのハプロが確認されています。
おそらく遊牧民だったのでは?と推測されています。 それと言うのも、甲骨文字のルーツが東夷系で発掘された原始的な文字じゃないか?と推測されてるからです。
じゃ遊牧民じゃないだろ?これ実は遼河文明は初期からモンゴルに近い地域は微妙にモンゴルに近い文化になってる部分があり、地域差があります。
後の時代には完全にモンゴルが混ざります。それゆえ東夷にモンゴル系が入り込むのは全くおかしなことじゃないです。
周は当時匈奴の前身となる部族と争っていたらしくて、
匈奴の中心グループはQだと見られています。それゆえQのいる地域だとしたら、
周もありうると見ています。元々別の所に住んでいたと記録があるのですが胡散臭いとは見ています。
これらに似た話しは、百済や高句麗がその典型です。
高句麗は漢族が支配していた地域に入り込んだので、
当然国民の大半は王族と血統は違うでしょう。百済は国民が分かりにくいので、
ハプロでO1B2の地域にやってきた、高句麗から分かれたC2C系の騎馬民族です。
ちなみに高句麗の王家はO2系です。 更始や赤眉との戦いのつづき。なるほど!ものすごく、よく理解できた。更始がほろび、赤眉がほろびたあと、みなが頼ったのは、じつは劉永かも知れないなあ!いちはやく皇帝を名のっても、指示を得られない。後漢末のだれかと、おなじだ。