陳寿が本当に書きたかった正史
魏と蜀の扱いにばかり焦点が当てられ、
呉の扱いは忘れられがちだな。 実際、蜀も呉も地方政権的な存在
しかも呉なんて流行で皇帝名乗ったようなものだし 魏はもともと皇帝が目標だったし蜀は献帝が廃された跡を継いだとして呉の場合は「ライバルがみんな皇帝になってる!?俺もならなきゃ負ける!!」
って感じ名乗った感がするな 袁術が朝敵にされて勤王派の立場がなくなったからやけになって?皇帝名乗ったのを彷彿とさせる 皇帝ってのは天下の主なんだから、漢朝が消えてしまうと
新しい朝廷に対して臣従するか、独立を維持するなら自分が皇帝になるか、
二択しかないからね。
諸葛亮が劉秀と耿純の故事を出して「今名乗んなきゃ皆逃げるよ」と言ってる。
蜀も呉も同じ事情だ。 魏末期〜晋にかけての重臣の扱いはどうだっけ?
列伝の終わりについてる評で陳寿がもにょってそう。 >>31
陳寿はもにょる以前に扱いに困る人物は立伝しないという荒技を使ってます
王祥とか チラ裏だが
いい加減ちくまの訳から離れないと、陳寿の胸中に近付けないような気がした。 >>33
ちくまは本文と注の区別がつけづらいから、誤訳の類は別にしても陳寿の意図は分かりにくくなるよ あの注釈の位置は便利だと思ってたけど短所もあるんだな…。
各人の伝を全部とは言わないが、列伝末の評だけは自分で訳したいな。
正統論とかヌキにして、私史としての三国志に触れたいというか。 ふと陳寿の筆法とかそんな言葉でググってみら東夷伝の解釈、
邪馬台国の場所の推定ばっかで噴いた。
あのパワーがこっちの方にもあればな…(´・ω・`) さすがにあっけに取られるよな、あれは
三国志で引っかかるサイトがほとんどないもんな
邪馬台国の研究はよくわからないけど
そっち方面の人が陳寿の文章をすごく丁寧に読んでいることは伝わるから
尊敬するよ
ただ、邪馬台国だとほぼ東夷伝に集中すればいいけど
三国志になると全文追いかけなきゃいけないから
あそこまで丁寧な解釈はなかなか難しいかなとも思うよ
陳寿の記述様式にまで言及して三国志を語れるようになれば
また面白いものが見えてくるだろうな〜とは思うけど ここんとこ三戦板・中英板ともに正史スレが盛り上がってるね。
ここは相変わらずマターリだ(´ω`)
ところで、列伝の陳泰の評がネ申がかって見えてきた。
春秋の筆法に班固の技法も駆使し、魏の忠臣陳泰を三国志の中で表現してた。
んで裴松之は、その裏に込められた陳寿の意図を酌んでも、口には出さず注釈に専念した。
不思議ちゃん系史家とツンデレ注釈家…いろんな意味で不朽でした。 >>38
正史全体の議論は発言者の史観の表れでもあるから
皆白熱するんだろうね
そういえば陳寿は高貴郷公の一件はほとんど直接的表現は用いてないんだね
裴注と同時に読むとそこらへん混同しちゃうなぁ
ジュンキョクが陳寿の魏書に不満を持ったのも
陳泰への表現が関わっていたりするのかな?
>>39
「資治通鑑綱目」「朱熹」「蜀」なんかで検索すれば詳しいサイトが出てくるよ
簡単に言うと司馬光の「資治通鑑」は三国期の年号を魏のものを使用しているのに対し
朱熹はその簡易版「資治通鑑綱目」で蜀の年号に書き換えていることから蜀漢正統論者となるらしい 一足遅れた…まあいいや。
金に中原を追い出されてできた南宋、朱熹はそんな時代の人。
これの冒頭部分が分かりやすいかな。
(訳) ttp://members14.tsukaeru.net/emilyduck/teiyo.html
それに道義から言って「簒臣は正統としない」とのことらしい。
資治通鑑綱目を実際見てきたわけじゃないし、朱子学とかは門外漢だし、
該当スレで尋ねてきたほうがいいんじゃない? 武陔の陳泰評を前提にして
「泰弘済簡至,允克堂構矣」を読むと、陳寿のトリックに見事に引っ掛かるんだよね。
「弘済」は書経・顧命篇、「堂構」 は書経・大誥篇の言葉なんだけど、それぞれ
「幼帝を艱難より救う」――高貴郷公は司馬昭への反抗の結果、命を落とした。
「父の業を継ぐ」――――当時の人々は「公は卿に愧じ、卿は長に愧ず」と言っていた(張華「博物志」)
…と、あまり妥当な評と言えなかったりする。 書経・大誥(の一部)
王は、またことばを改めて、おおせられた。
「過ぐる日、予は、『予は国家統治の困難なことを日々思っている』と誓ったことがあった。
譬えば、父が家を作ろうとして、設計を定めておいたのに、その子が土台を築こうともせず、
まして柱組みもしようとしないならば、その父は、『わしにはよいあとつぎがある。わしの基業
を棄てない』といいはしないであろう。また、その父が耕地を拓いておいたのに、その子が種
を播こうとせず、まして刈り取ろうとしないならば、その父は、『わしにはよいあとつぎがある。
わしの基業を棄てない』といいはしないであろう。
されば、予はなんで、この予が文王の大命を完遂しないでよかろうぞ。もしもれっきとした
叔父でありながら、その友人を助けて、その子に当たる者を伐つというのでは、下々の人民
の場合でも進んでその子の方を救わずにいられようか」
※叔父の原文「兄考」は父の世代にあるものの美称。
(平凡社・中国古典文学大系1 書経から転載) 陳泰が司馬兄弟と親しい友人だったことは、武陔の言葉の直前に出てくる。
この若き王(実際は周の成王のことね)を曹髦と見立てて、
太后からの詔で下された「不孝」という汚名の正体は何だったのか。
陳泰を称え、暗に「友を助けてその子を伐った」人々(彼らの父の多くは創業の臣)を
厳しく非難して、不忠不孝はどこの誰かと問いを発しているような。
縁もゆかりも無い蜀の人が亡国の臣をこれだけよく彼を評したのは、
ただの自己満足ではできないことだと思うんだよ。
陳泰が単に空気の読めない子で、あの評が必ずしも正しく事実を表していなかったとしても
それはそれで、陳寿は一家の言をもって「三国志」を完成させたのだと思った。 この過疎っぷり…俺の日記帳と化する悪寒が…。
夏侯湛、哀愁漂ってるなあ…。
夏侯一族の再興は外戚羊氏によるところが大きかったにせよ、
晋を認めざるをえない元皇族って立場なんだよね(´・ω・`) 諸葛亮って何であんなに堂々と凄かったって書いてよかったんだろう
晋の皇族かなんかに諸葛亮の血縁者と結婚した奴いない?
諸葛氏自体は魏とか晋にもいたよね? >>47
司馬氏と諸葛氏(諸葛誕、諸葛緒双方の系統)は姻戚 あ、やっぱそうだよね
って事は親戚関係にあるからあんだけ陳寿も堂々と褒め称えられたんだ >>47
一週間ぐらい考えてマジ遅レスすると
三国中、託孤を受けて最もよく幼君を補佐したってことが評価されてたんだと思う。
魏呉ともみごとに国が傾いちゃったからね。
司馬昭→炎の継承問題とか孫権・孫策の関係などなど、
陳寿の時代に鑑となることが多かったから、三国まとめて史として纏めたんジャマイカ?
>>50
四字の褒貶に気付いた自分キモスwww 中国学科教員 問題言動集
N.S教授・・・・・授業中に、
「人間は働かなくても生きていける」
「(自分のことを棚に上げて)中国語学科の学生は常識が無さ過ぎる」
「(上に同じく)教育学科の学生はロリコンだらけ」
「三国志が好きな奴は中国学科に来るな」
「一般教養など必要ない」
「セクハラというものはその行為を行う本人に悪気が無ければセクハラには当たらない」
「大学教授は世間を知らなくて当たり前だ」
etc迷言・珍言多数
W.Y教授・・・・同じく授業中に、
「第123代天皇は精神異常者」
「N.K(D大名誉教授)、F.N(T大教授)、S.T(元G大教授・故人)、H.I(元N大教授)、
I.S(芥川賞作家・都知事)、K.Y(妄想漫画家)は人間のクズ」
「金持ちに対する税制優遇を廃止して、税金をできるだけ多く搾り取るべきだ」
Y.Y准教授・・・・退学願を提出した学生に対して、
「私の言う通りに行動すれば、君の要求が通るように私が裏で話をつけておいてあげよう」
という内容の取引を持ち掛けた。
以上のように、中国学科はキ○ガイ教員の巣窟です。
これから大○文化への入学をお考えの皆さんは、
中国学科にだけは絶対に出願をしないようにして下さい。 諸葛亮を褒めるということはその諸葛亮にまがりなりにも勝った武帝の祖父である司馬懿を称賛することにもつながるからじゃないですか? 理由の一つとしての可能性はあるが、それだけと言うのは考えにくい 劉孝標の世説新語注に王沈の魏書からの記述があるんだけど、
彼の「魏書」に司馬懿と師昭兄弟の伝があったかもって本当かな?
>>55
王沈の魏書の編纂には阮籍が関わっていたので
編纂が開始されたのは阮籍の死亡する263年以前ということになる
それだと司馬炎がまだ皇帝に即位していないので
司馬懿たちが魏の臣下の扱いを受けて魏書に立伝されていた可能性は高い
ただ、世説新語に載せられている魏書の本文を見ると記述時期がよくわからんね
言語の16項目に注釈されている箇所だと
魏 書 曰 :「 司 馬 師 字 子 元 , 相 國 宣 文 侯 長 子 也 。 以 道 コ 清 粹 , 重於 朝 廷 , 為 大 將 軍 、 録 尚 書 事 。 毋 丘 儉 反 , 師 自 征 之 ,薨 謚 景 王 。 」
となっていて、司馬懿の事を宣文侯と書き、司馬師が景王を追謚されたと書いていることから
司馬師の伝が司馬昭が晋王に就く前後に書かれただろうと推測できるけど
徳行の15項目に注釈されている箇所だと
魏 書 曰 : 「 文 王 諱昭 , 字 子 上 , 宣 帝 第 二 子 也 。 」
となっていて、なぜか司馬昭を文王としておきながら司馬懿のことは宣帝と書いているので
司馬炎が禅譲受けた後に執筆されたとも取れるし、
もし禅譲後も執筆が続いていたなら
晋の皇帝号を贈られた人たちをわざわざ魏書に立伝するのは妙な気もする。
まあ、途中まで書いていたから司馬炎禅譲後もそのままの形で完成させたのかもしれないし
劉孝標が注釈する時点で、魏書の文字表記を変えたのかもしれないけどね
おお、サンクス。
司馬師の部分だけ見ると、単独で立伝されてそうだな。「薨」だし。
しかし司馬昭の記述は微妙というか、
これだけの文なら、劉孝標はもっと詳しい史書を引用しなかったのかとも思う。
そういえば裴松之って、司馬懿−師−昭に関しては注を入れてなかったような…。 爽やかさんはともかくとして、三族誅殺はやりすぎだよなあ。
曹羲たんは、どんだけ言っても兄さん聞いてくれないから、涙をふるって席を立ってったよ!
それに比べたら鍾毓・鍾会兄弟はなんて大甘裁定。
鍾毓は司馬昭にチクってたので親族が事なきを得たけど、
兄として弟を諭すどころか、友人の傅嘏に真っ正面から忠告されてるとか儒教的にどうよ…。
似た例として、
公孫淵が遼東で謀反したとき、都にいた兄の公孫晃も連座したのな。
でも公孫晃は、フッチーきっと心変わりするって度々言っていたらしい。
そこで高柔が、
「公孫晃も死刑が当然だろうけど、本当に先の発言があったのなら(善に帰すということで)赦してやるべきだ、云々」
…とまあ、高柔伝にその是非を論じたことが載せられている。けっきょく公孫晃も頃されるけど。
辛口裴松之も、今も昔も鍾兄弟のような例は少なくないってのに、公孫晃だけ(´・ω・`) カワイソス て言ってる。
この論理からいくと、斟酌されなかった曹羲も(´・ω・`) カワイソス…。 誤爆った…。
公孫淵まわりの元ネタはたぶん魏略(&魏書?)からだろうけど、
これを高柔伝にしっかり書いた辺りに、陳寿のあざとさを感じるなw
正始政変の裁判を担当したのは盧毓で、このとき高柔は廷尉ではないけど、
曹爽らの軍を抑えるために動いたことへの当てつけじゃ…と言ってみるテスト。 のちの六朝貴族の原型とも言える魏朝の朝臣たちにとって、
穎川名士の鍾毓は救われてしかるべきだが、
所詮は宦官の流れをくむ曹氏の一族はガンガン殺しちゃっておk
ということなんだろう そういや曹羲って論語集解の編者の一人だな。
何か曹一族と名士連中とのパイプ役なイメージがある。
法も結局名士たちの為に機能してるってのが皮肉な話だ…。
ところで、成済や王経のときの廷尉って誰だろう?
それぞれ役職名だけが出てくるだけで、名前が分からないという不思議。 ttp://mujins.chicappa.jp/text/san_zhiguan1.html#tingwei16
これ参考になるかも? こんなのもあるんだ…便利な世の中だなあ。
渦中の賈充はあのとき中護軍だからまず違うとして、
次の衛カンも、陳留王ときに侍中になって、それから数年して廷尉になったといってるので
陳騫と和テキがクサいんだね…。
官職の推移について陳騫は廷尉→鎮北将軍、和テキは侍中→廷尉→吏部尚書となるので
このへん洗い出せば答えは出るかね? なんかここへ恥かきに来てるみたいだ…orz
んで、和洽や和嶠の伝を見てて、気になることが。
晋書の和嶠伝に
「じーちゃん和洽は魏の尚書令、トーチャン和ユウは魏の吏部尚書。…(中略)
和嶠は父の爵位、上蔡伯を継いで、出仕して太子舎人となった」と言っていて、
和ユウは五等爵創設〜晋の受禅の間に亡くなったらしい。
そうすると、魏志の和洽伝で上蔡伯がスルーされているのは何でだろう、と。
諸葛亮集を撰集したとき、陳寿からみて和嶠は上司だったワケだし、
採録漏れとしても失礼に当たるんじゃないかと不思議不思議。 爵位制度があんまりわからんのだけど
その爵位は晋から与えられた可能性はないのかな?
魏から与えられたものでないなら魏書に書かないのもありうる気がする。
魏が与えた爵位なら書かないのは何か変?ではあるけど 五等爵は司馬昭のとき、司馬炎が襲位したとき、禅譲を受けたときの3回あるみたいね。
先の2回は魏志と晋書で微妙に時期がずれるけど。
(3度とも改封・進爵があるのは賈充だけ!)
諸葛亮集を奉る上表文で、済北侯荀勗、関内侯和嶠という文言が出てきた。
荀勗の済北侯は納得だけど、何で和嶠が関内侯を名乗ってるんだ…。
トーチャンの勲功だから遠慮して遜って言ったんだろうか?