石勒 P35
五胡十六国時代の最大の英雄。文盲の後趙の創設者。
奴隷から盗賊、盗賊から皇帝になった男 >>1
そんな濃いメンバーまとめられるのは石勒くらいしかいないだろうな、 こいつ明らかに曹操の足元にも及ばないよな
何か喧嘩売ってるけど 負けまくったけど、肝心なところで勝つ石勒と、
勝ちまくったけど、肝心なところで勝てない曹操では比較が難しいな。
ただ、この二人がガチバトルすれば、最終的に勝つのは石勒だと思う。 曹操の比較対象としては、この時代であれば桓温がまず挙げられるべきなんだがな。
簒奪を図った逆臣であり、志半ばで逝去したという点
軍功により勢力を拡大して行ったという点、政治にも精力的に携ったという点
何よりお茶目な性格つながりで、これほど同類項はおるまいに。
石勒は曹操を散々に扱き下ろしたけど、比較の土俵が違いすぎるからなあ。
教養や軍略と言う点では、石勒は曹操の足元にも及ばないのは確かなんだが、
そういう次元を超えている感があるのが石勒なんだよ。
悲惨な奴隷が貴族軍人の時代に一石を投じたことこそ、最も重大なことだと思う。
土俵もくそもない。
石勒は、曹操がまだ子供の献帝を人質にとって大義名分を強引に掲げたことに対して、
「大丈夫のやることではない」と非難したわけであって、つまりは、
「俺はそんな卑怯な真似はしない」と断じたのだ。
現代の我々は批判すらカテゴライズするけど、石勒からすれば上記の一点ですでに曹操は語るに落ちた存在だということ。 そりゃ皇帝が全く別の場所にいて安泰だったんだからどうこうしようと言う発想自体無かっただけ。
後付けの知恵で物を抜かした小賢しさに引っ掛かる時点で可哀想な脳みそですこと 趙スレが無いのでここで質問
劉曜に仕えた遊子遠って人物について詳しく知りたいんだけど
wikiや百度百科覗いても西方の反乱征伐と劉曜の墓作りを諌めた以外のこと書いてないっぽい
他の人物伝とかで登場してたりしない?こいつも陳元達コースだったのだろうか・・・ >>439
前趙からして敗北者だからな。
もっと詳細に官制や地方行政の在り方を調べようとしても
全然資料が無えからわからなくて難儀する。
まあ、游子遠の場合、この名前はおそらく「字」だろうから
本名さえまったく不明ってな状態のわけだ。
(呉懿や許攸も同じ字だしなあ。)
劉曜に限って言えば、そこまで勲功を吸い上げているとは思えないがね。
どっちかと言うと、良い諫め役だと思うぞ>>游子遠 >>438
石勒は司馬氏の皇族の大半を直接始末した張本人なんだけどね。
その気になれば、いくらでも推戴するチャンスはあった。
(部下からは、扱い辛いしやめときましょう、とやんわり釘刺されてたけど)
ただし、自分を奴隷に落とし、辛酸を味わわせてくれた西晋病巣社会の
元凶を上に戴けるかどうかは、……まあ、俺にはできないな。
劉曜のことを言っているのであれば、もう宿命のライバルなんだから
担ぐ云々の問題じゃあないよ。
食うか食われるか、殺さなきゃ殺されるのは石勒の方、これは項羽と
劉邦の関係に近いかもね。 石勒は誰かを推戴して、その下で実権を握ろうなんて思考はしないと思うな。
あくまで自分自身が頂点に立つことを目指す感じ。 キン準の事件頃までは劉曜を覇道を助けるって考えもあったんだろうけど
>>443
もともと負けて進退きわまって劉淵に降伏しただけだし、
その後も半独立状態で動いていたから、
いつかは自立してやろうと思ってたんじゃないかね?
石勒は最後まで誰かに従える類の人間じゃないと思う。 劉淵、劉聡には一応というか、結構恭順してなかったか?
18騎で一番功績あげてるのは誰?徐光、孔長、張賓は18騎ではないし、そもそもなぜ18騎と呼ばれるようになったの? >>447
桃豹だろう。十八騎は最も最初に石勒に従った18人の部下。 いやそれは知っているけど
そんな呼ばれ方するくらいだから何か特別な功績あげてるのかな?と思って
たいしたことないなら8騎から10騎をあえて足さなくてもいいんじゃないか? 寝返りを受け入れる場合と拒否する場合があるけど違いはなんだろう
祖逖の場合は何となくわかるけど他の基準がイマイチわかりません
王彌の時も最終的に殺しているし >>450
王彌はあからさまに札付きの危険人物だからだろ?
やばくなさそうなのは受け入れて、やばそうなのは受け入れない。
それだけじゃないか? 王彌じゃなくて王浚でした…(游統の件)
王彌は劉聡も嫌っていたのかな? >>558-559
そもそも項羽はその直前、親である劉太公の人質の件で劉邦が対話に出てきたときに兵を伏せ、
交渉が芳しくない結果におわると、挙げ句に無防備な劉邦めがけて狙撃までさせたわけだから、
中国の倫理学的文脈では一度の停戦条約破り「まで」の報復は正しいとされたんじゃないかと。 直前というのは和議前ね。
項羽側が劉太公を煮殺す振りをして降伏を迫ったのを劉邦が出てきて断り、心臓付近狙撃されて足を押さえて逃げ帰った件。 >>1 李菟たん(仮)勝手に支援します
『北堂書鈔』巻一百十七 武功部五 騎八に
鄴中記云、石虎皇后出女騎千人、脚皆著五菜鞾也。
という文章がありまして、内容は
『鄴中記』には石虎の皇后が女騎士を引き連れていたといってるよー
というものです。
なら李菟たん(仮)もあながちありえない話ではないかと
ただ皇后の護衛で女騎士がいるからといって、女将軍がいるというのは
飛躍しすぎというのは承知です。
でも可能性としてゼロではないかなぁとは言えると思います 石虎を斬らなかったのが石勒最大の失敗だな
徐光の言うこと聞いとけ いくら乱暴とはいえ可愛い弟分を危険分子って理由で殺せないだろ
年の離れた実の弟みたいな存在だし
彼を奴隷にさせた責任感とか色々あるだろ…
そこら辺の人情味が石勒の魅力じゃないの? 結果を知っていればともかく、
未来がわからない軍部は石虎が、これといった理由もなく処分されたら、
軍部の離反を招いた可能性がある。
徐光も未来が読めていたわけではなく、シビリアンコントロールと皇帝権の増大、
漢人勢力の増大をより考えていた可能性は否定できないし。
未来が読めない石勒には、あれが限界だったんだろうな。 でも粗暴だったのはわかってるし、何らかの手は打っておいて良かったのでは? 石勒の行動はベースが保守というか安全で、身内が生き残るのが最優先
だったし、出自を考えれば当然の行動だと思うんだけど
劉曜や段文鴦を捕まえたあたりになるとちょっと変わってくるけど
転機はどこだったのかな 傅伏は北斉の将軍で高寶寧とともに北周に最後まで抵抗した人物
北斉の皇帝が既に捕らわれたことを知ると、慟哭した後、降伏した
その忠誠を武帝に賞賛され、かつて河陰への攻撃を防いだときの褒章が
永賞卿だったことを知ると、傅伏がいたから河陰を攻略できなかったのに
その程度だったのかと言われた 傅暢の息子は東晋に戻って交州刺史になっているので
子孫の可能性は有るかも知れませんが少ないでしょう。
>>475
そうですか、当時は江南政権は陳だったので
再度華北に逃れた可能性もある程度の認識にしときます >>470
王浚や劉琨経由だけど、裴憲・荀綽・崔悦もそうだな。
でも後趙ぐらいまでの漢人文臣はあくまで魏晋以来の名族が主で、
各地域に根差した豪族が参画しだすのはやっぱ前燕以降だなぁ。
北平陽氏とか渤海封氏とか。 傅暢の追加情報。
楊駿の誅殺時に武郷亭侯になっている。
魏代に武郷は無い、西晋に武郷は登場する、
司馬炎が胡族を内地に移民させた開拓地なのだろう。
劉夫人は匈奴部帥の一族かなあ、扱いの良い所をみると。
劉夫人は軍議にも参加してたみたいだから、軍略や武勇は並以上なんだろか?
劉淵配下になったとき、もらったんかな? 王彌を殺した後じゃないかな、石勒を身内に留めようと
したと思ってるんだが、江南攻めに失敗した時は石興を
身ごもってたんじゃなかろうか、肝もすわるだろう、
石興が死んで石勒は大単于の劉氏と切れたと思うんだ。
崔鴻・後趙録 (載記に無い物)劉皇后@
石勒劉皇后、侍中閏之妹、後部胡人也、勒納之於胡關、美色、有特寵。
胡(hú)と壺(hú)は同音なので、308年春の壺關攻略時に妻としたようだ、
劉淵配下になった直後だね。 崔鴻・後趙録 (載記に無い物)劉皇后A
張枰反於襄城、后抽劒斬之、勒頼后而済。
懐帝紀にある310年10月に襄城を陥落させた時の事件らしい。
劉夫人の武闘派ぶりが判るエピソードだ。
崔鴻・後趙録 (載記に無い物)劉皇后B
后性惠有幹。助理軍國之務、有呂氏輔漢之風、然厳整貞婉容裕不妬忌過之也。
劉曜の羊皇后みたいに政治に参加してたのね。 劉夫人の記事、面白そうだけど、できるならそれを訳してくれるとありがたい。
見た限りだと「姐さん、マジパねえっす!」状態だな。石虎も敵いそうにないくらいだが @
石勒の劉皇后は、侍中の劉閏の妹で、後部の胡人である、石勒は胡關で
妻として迎え入れた、美貌であったので、格別の寵愛が有った。
資治通鑑では壺關攻略は309年夏になっている。
劉備の孫夫人と考えれば良いか。 A
張枰が襄城で裏切った、劉皇后は剣を抜いて張枰を切り殺した、石勒は
劉皇后のおかげで助かった。
二人の所を襲われたようだ。石勒の正妻は並み女性では務まらないのだろう。
石勒は石虎と実力が拮抗する人物を作れなかったのも失策だな。
姚弋仲がそれにあたる人物ではと思う。石虎に対しても、けっこうタメ口きいてたりしてもOKだったみたいだし。そして後趙への忠義も厚い。
ただ、後趙へ仕えたのが前趙滅亡してからなんだよな。せめて石勒があと10年生きてくれたら、影響力ある地位につけて、石虎と姚弋仲が並び立てば、後趙も永らえたのではないかと。 もうこの時代の軍人は独立独歩志向しかしないしそうしなければ生きていけないよ。 姚弋仲は羌族の首領だからそんな国政に踏み込めないでしょ…
どっちかと言うと桃豹とかキ安とかの18騎の人たちじゃない? 姚弋仲を挙げた者だけど
18騎の面々がというけど、石虎が脅威と見なしてないし、18騎の面々は石虎に従うばかりであてにはならない。
劉皇后も石堪使って、石虎に抵抗するけども…失敗だしな。
石虎との関係を見ると、いいストッパ役だと思って、姚弋仲を挙げてみた。 おそらく無理
石勒を押さえ、死後は徐光ら要となる人物をあっさり処分した手際の良さを見ると勝てないだろ
戦力はあるのに団結出来ないから負ける侯景の時と同じ 反対分子の排除は迅速にやってるし、軍務は意外と真面目にこなしてたらしいし、すごい人物ではあるよな。>>石虎
やはり、石勒だからこそ制御し得たということか。石虎をしっかりと制御できた点だけでも、石勒が英雄たる証拠か。
まあ、あの雑多な軍団を率いているわけだから、そうとうな統率力だわな>>石勒 徒民を無くし、慕容部の南下を防いだだけでも政治レベルも高いと言える
石勒と同じく冉閔を処分出来なかったのが問題だけど >>505
あそこまで完全に包囲されて孤立した状態から、逆撃して後趙を壊滅させた
李農・冉閔らを褒めるべき、つーか冉閔は石虎存命中はそこまで大物じゃない
石虎の後継者らの内紛の中で地位を固めた部分が大きいから、石虎にしてみれば
有能な一軍の将程度の認識(その意味では大都督を務めた李農の方がはるかに脅威)
しかし、冉閔はなぜ慕容恪と同じ時代に生まれてしまったんだか…… 石勒は天下統一狙ってたのか、それとも中原だけでよかったのか
晩年には荊州北部を郭敬に攻めさせてたが、荊州を奪ってから、益州か揚州狙いにするか >>507
張賓が死んだしなぁ
そもそも晩年は東晋も堅いし…とはいえ初期は張賓が止めてる
晩年は保身が信条の石勒が東晋を攻めるとも思えないし 石勒が功臣39人の名前を石に刻んだというのがあるが、誰が入ってるんだろうか?
張賓は確実に入ってそうだから、残り38人か 異姓No.1 の王陽も間違いないだろ、
石勒より長生きしてれば石虎の天下もなかったろう。
建徳殿に立てられたのが325〜326年辺り。存命人物もいるし、バランスを考えるとなると、色々揉め事がありそうな気がする。
十八騎が全員入るか、それとも選択するのかかな。 建徳殿三十九功臣(仮)
・張賓(石勒の軍師的存在。石勒の信任も厚い)
・孔萇(幽州攻略、その他の戦いで功績多し)
・石虎(各地を転戦し、数多くの功績を上げる)
・王陽(十八騎。将軍として活躍するとともに、石弘の武術の教育も行う)
・支雄(十八騎。将軍として、石勒死後も活躍)
今のとこは5人くらいか。残り34人。程遐は…活躍、してないし、どうだろうかな? >>513
十八騎は数人こぼれてもほぼ入るだろ、12−14人位か。
>>515
豚さんは確実に入らないと思うw
鹿さんが一番最後まで生き残っているけど、この人も微妙だな 張敬も入ってくるだろう。記録の中では初代左長史となってるし、軍を率いて戦いにも赴いてる。
石勒に趙王をすすめた中心人物に名を連ねているし、軍中では重要人物だろう >>518
郭黒略に五戒を授けて弟子としたとあるが、真逆なことを生業としてるし、ちゃんと守っていたんだろうか?
仏図澄は佐命の功臣にしてもいいくらい、石勒に貢献してると思う。 ぶっちゃけ十八騎っていっても
王陽・キ安くらいが目立ってて、後は石虎・孔萇・張賓あたりと比べると雑魚だもんな >>521
支雄も重要人物だと思う
個人的なイメージなんだが
石虎の宮中だと、夔安とか支雄あたりは、石虎のことガキんちょ扱いしてそう
特に、後年の姚弋仲との関係とか見るに
石虎って、案外そこらへんが度量深そう 祖逖と石勒は相性よさそう。祖逖が服属してきたら、石勒がどんな使い方するか楽しみだ。
程遐あたりが変なこと言いそうだが にしても、雑多な軍団構成だよな、石勒のとこは。超常的な坊さんも味方してるわけだし 雑多というか異民族連合政権が実態でない?
後趙は石氏一族のカリスマで持ってた国だなと思うわ
石虎って、前趙にいた時期があるんだな。陳安の乱のとき、記述がある。だとしたら、のちの劉皇后と接点があってもおかしくないが。
石勒のスパイかもしれんし、もしかして案外本気だったかも 石虎が前趙にいたとは知らなかったな
休屠王だったか石武という人物がいたと思うけど… 石虎は陳安の乱の時は曹嶷を相手に半年の間
包囲戦をしてるから別人だろ
それに石虎の劉皇后は318年生まれだから323年はまだ幼児だよ