】【春秋時代】晋の六卿について語ろう
晋の正卿
先しん、先且居、趙盾、げきけつ、荀林父、士会、げき克、欒書
、韓けつ、知おう、荀えん、士匂、趙武、韓起・・・
春秋はマイナー、日本語記事書いてくれるマニアが少ないんや 別のスレでwikiの内容が、
宮城谷小説のコピペレベルだって話を
してた人がいたけどどうなんだろうな 山本太郎
愛媛県の伊方原発が再稼動される。正気とは思えない判断だ。東電原発事故や熊本地震から一体、何を学んだのだろうか?
http://ameblo.jp/yamamototaro1124/entry-12189491723.html
マイト レーヤは原発の閉鎖を助言されます。
マイト レーヤによれば、放射能は自然界の要素を妨害し、飛行機など原子のパターンが妨害されると墜落します。
マイト レーヤの唇からますます厳しい警告と重みが発せられることを覚悟しなさい。彼はいかなる人間よりもその危険をよくご存じです。
日本の福島では多くの子どもたちが癌をもたらす量の放射能を内部被ばくしています。
健康上のリスクは福島に近づくほど、高まります。福島県民は発電所が閉鎖されれば1年か2年で戻って来られるでしょう。
日本の近海から採れた食料を食べることは、それほど安全ではありません。汚染されたかもしれない食料品は廃棄すべきです。
問題は、多くの人々が核の汚染の影響で死んでいるのに、日本政府が、原子力産業を終わらせるおそれのあることを何も認めようとしないことです。
注意欠陥障害(ADD)多動性障害(ADHD)、慢性疲労、あらゆる種類の癌の増大、呼吸そのものが脅かされています。
世界中で病気、主に皮膚、心臓、肺に関する病気の発生率が上昇し、ずっと昔に征服された病気が復活しはじめています。
汚染による死者の数は、他のいかなる原因よりも多いです。河川の汚染は社会に対する犯罪と見られなければなりません。
免疫システムの崩壊の結果がアレルギーです。人々は肺炎やインフルエンザやHIV/エイズなどに抵抗できなくなっています。
認知症の過程は放射能汚染によって加速します。増加するアルツハイマー病の原因となっており、より若い人々に起こっています。
2011年
3月18日 「致死量の放射能を放出しました」東電の小森常務は、こう発言したあと泣き崩れた。
事故に直接責任のある清水・勝俣に20億円を支払い、事故当時の経営陣は全員、全額退職金を税金から分捕って逃亡 趙武が成人した時、智罃に「趙の忠節、趙盾の文徳を見習いなさい。」
って言われた話と、韓起が叔向に貧しさを相談した話を見比べると
時代の変化が感じられるな。
韓起が時価の都合ばかり考える人だったと解釈して、
公室への忠誠心が旺盛な宰相は趙武が最後だったのだろうと考えたくなる。 >>673趙武は色んな意味でもっと評価されても良いと思うわ
趙武が死んだ後は平公の暴走を叔向が止めれなくなるしな なぜか士匂だけwikiに記事がない・・
悪名強めだけど影響力あったはずだし >>675人格面では全然誉められないけどその能力はやっぱ士会の血だなって思う 六卿の序列で中軍の将、中軍の左とかあったけど原文はどうなんだろう
ネットで見ていたら将中軍、中軍将とあってどっちが正しいのか分からない
それと序列1位が正卿で2位が次卿なら3位以下は卿だけで○卿じゃないのかな >>677
ネットで見ていたらって、それが原文か日本語の記事かで判断できない? pixivで六卿を女体化してる人がなんだそりゃと思った 原文の肩書が知りたい
今の中国語ですら当時の表記と同じとは限らないから 俺の考えでは県知事が以前は知県事だったようにどっちでも良いんじゃないかと思う。
どっちも「県の事を知る」と読んで意味は同じだ。 将軍の語源が軍を将いるだよね
通常軍のトップは司馬だったり宰相だったり将だったり
春秋戦国辺りの正式な名称が何なのか気になる
ウィキペディアの中国版でも○国とかってなってるけど
本当は国じゃなくて邦のはずだよね
関係ないけど漢文で国君なのに和訳を国王にしているのがふざけるなって思った 史実では趙韓魏が晋を三分したが
もし残りの三卿が国を興してたら国号はどうなってたんだろう >>341
焼死で笑ってしまったw
亡命とか戦争とかシリアスなのに混じって 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組の官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化し使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄に落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなり脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全ては自分の出来心から起きた事で、どこに訴えて出ると言う訳にもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切った上で新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 武公が晋の統一をしたことはもっと評価されるべき。
人材の獲得もしたし 最近ほかの春秋戦国系スレが盛り上がってるしここも盛り上げようぜ とはいっても一日に複数回レスする数人で過疎スレを半ば無理やり盛り上げてる状況、春戦系スレ分散しすぎですわ。 文公の死後の三行ってどんな人が将を務めたんだろう? 平公死後の晋の様子ってあまり語られないよねと思ったら、
ここの上のほうで結構語られてるな 春秋時代後半自体が我が国では超マイナーゆえ語る人が限られるし
唯一目立つイベント智氏滅亡関係エピソードも人気があるとは言えない 移るほどの人気は多分ない・・・
わかりやすい呉越物語は春秋時代の中では圧倒的だな、六卿はちょっと複雑すぎる 個人的に、六卿の興廃は未だによく分からん
気がついたら知氏が最強勢力になっていて、危機感抱いた残り三氏に滅ぼされてた感じさえする 都市国家から領域国家への転換期だよねこの時期?
范・中行氏を滅ぼした時にどういう風に分配したんだろう 他国だとどんなのあるっけ?魯の三桓とか鄭の七穆くらい? >>707
この時代の事がよく分かってる人ってこの世に存在しないと思うw
時代も人物も空白部分が多すぎて分かったつもりになるのも難しい >>707 >>712
確かにな。史料も少ないしどう勉強すればいいのか・・ >>713
呉期「経文の範囲外だが最後に少し書いてあったぞ」 依拠できる史料は限られ必然的に材料は乏しい
それは仕方ないよ何事も限界はあるし無理に勉強することは無い >>702
全然聞かないけどどうなのか
誰か知らない? >>702>>719
俺も気になったので、ざっと調べてみた
晋が三行を設けたのは前632年
三軍を増やして六軍にするところを、本来、六軍を率いるのは周王のみというところに
遠慮して、「軍」ではなく「行」としたといわれる
このときに中行を荀林父、右行を屠撃、左行を先蔑が率いる
しかしこの三行は3年後に五軍に再編される
その後は荀林父の系列の当主が中行伯と呼ばれた様に、名称にのみ残ったと思われる
その後、史料に見えるのは前524年に右行辛という名と、前520年の右行詭という名のみ
右行辛は賈氏だとする説もあるが断定はなされていない
ざっと史料をあらっただけなんで、こんなとこ >>720
>このときに中行を荀林父
それで中行氏になったのか。 >>720
>しかしこの三行は3年後に五軍に再編される
なるほど、道理で「三行」をすぐに見かけなくなったわけだ >>720
左行だけ名乗るものがいなかったのか・・ さっき気が付いたんだけど欒枝って結構長生きじゃないか。
父親の欒成が死んだのはBC709
欒枝が死んだのはBC622だから
90歳前後まで生きたと思われるのだがどうであろう? 前から思ってたけど、六卿や三晋の領地の変遷って気に成りますよね。
魏の根拠地が安邑と大梁で、韓の根拠地が最初平陽って普通に韓の領地で魏は
東西に分断されて無いって疑問に思うんだよね? 三晋が独立した後の晋は絳や曲沃だけになり、最後は三晋に攻められた
絳や曲沃は魏に囲まれてるのに三晋で攻めるってどうなんだろ?
旧主だから1人では攻めにくかったのかな? 晋陽や邯鄲、温とか持ってることもあったし、智伯を滅ぼすまでは邑を点で持ってる状態で、分断という感覚はないんじゃないかな? この時代はまだ領域国家じゃなくて点と線だからそうかも。 六卿画像でググると六卿時代と趙韓魏智の領地が完全に分断されていて正に点と線だ、
>>591を見ると平公時代も重なり韓起だけ妙に長期政権だったのか意外だった、
政権基盤もそれ程強くないのに大変そうであり趙武時代のような理想を追えなくなったのか >>733
韓起の正卿時代が長いのは趙武が思いのほか短命だったせいもあるかな
趙武って50歳くらいで歿してるのよな
しかも最晩年は耄碌したと云われてるし
六卿時代の領地図は俺も昔に作りかけてた事があるんで飛び地が多いのは
ある程度は知ってたけど、改めて見てもバラバラだね
三晋が生き残ってからは領地の交換やら韓が南部に拠点を移したりで纏まっていく
みたいだけど 耄碌したというより生に執着しなくなったってイメージなんだよな
もうすぐ死にますよって言われて喜んだみたいな記述もあるし 三晋が諸侯になってもまだ魏侯が晋の正卿だったのには驚いた >>730
多分イメージ的に足利将軍じゃないかね。足並みをそろえないと他の晋の卿に旗印に
されるんで睨み合いに成ってたんでは。
山之内上杉だって元家老の越後守護代の長尾に担がれて北条氏は偉い目に遭ってます。
長尾為景は以前山之内の当主殺してるんで、北条氏も予想外だったんでしょうが。
でも実際担がれると、元家老の所に逃げたんで大義名分に。 ほとんど力のない、周だってずっと滅ぼされなかったしね
秦は他の全ての国を敵に回して戦えるから滅ぼしただけだし
人口3万しかいなく、しかも、西周と東周に分裂しているってね
結局、晋は分家に乗っ取られ、分家内でも一族を滅ぼし、最後はその分家の韓に滅ぼされ
韓は周に圧力を掛けて、秦の属国どころか郡県と変わらないありさまに >>733
本当に錯綜してるよね、六卿画像で見ると。まあ同じ国って建前の時は普通に交通が
出来て補給線とか関係無かったのかもしれない。
韓の本拠が平陽で、魏の本拠が安邑で無茶苦茶入り組んでる。趙は晋陽と邯鄲に二分されてて
間に大きく知領があるし。
逆に言うと、六卿時代までは同じ国って建前があったんだろな。
あの形は守りにくいだろうし。 >>742
建前というか一応は同じ国だよ
六卿は実質王みたいになっていただけで >>743
晋公室の直轄領が殆んどないのに驚いたよ、以前はあれ以外に祁氏や羊舌氏の所領が
あったにしても公室弱い。
正に将軍家の領地が保々無い室町将軍家ですね、あれは。
六卿画像は実に興味深い。字体からすると元ネタは中国人が作ったんでしょうけど。 祁氏や羊舌氏の領地は滅んだ際に公室無視して勝手に分け取りしてるしな
欒氏や郤氏の領地はどう分布してたのかも気になるけど
やっぱり以前に放り投げないで自分でも作っておけばよかった 大貴族が実質王以上の権力を持っている
君主にはどうしようもない
君主がころされたり、亡命したりもしている
内乱に周辺諸国が2つに分かれて戦争に参加したりで実質同じ国ではなくなっている
ただし形式的には周に諸侯と認められてもまだ晋の正卿だったりする
例えて言えば、千葉県知事が国際社会から独立国認定されているが
形式的には日本国に所属していて内閣総理大臣を兼任している
ただし、日本国の言うことは全く聞かないし
気に入らなければ天皇を退位させたりころしたりしているような状況
天皇は埼玉県知事、東京都知事、千葉県知事の家を頭を下げて回っている
知事の嫡男を皇族として、天皇の血族は国外追放 公弘は若輩ではあったが、抜きん出た精神の持ち主だった。
二十歳で夭折し、花を開くに至らなかったのが残念である。
程公弘を賛える 13年も前のスレですね 晋はその200倍も前の話だけど >>744
文公以降、いや、恵公からとも言えるが
世継ぎ以外は全部国外追放、公族は国の根本と言われても無視
そして、卿の嫡子を公族として扱う
オスマン帝国は皇子を黄金の鳥かごに幽閉して
舌を切り取られ鼓膜を破られた宦官が世話
日本は子孫を残さないように仏門に入れたり臣籍降下 日本で例えてみれば、
皇太子以外の皇族は全員国外追放
華族の嫡子を皇族、親王とする 春秋晋では文公が三軍を創設してより、各軍の指揮官である将と佐が卿として国政をも運営し、この将佐を指して“六卿”と通称しました。
将中軍が宰相である正卿を兼ね、以下、佐中軍、将上軍と続き、末席が佐下軍となりますが、初めは必ずしも将佐=卿ではなかったようです。
又た後には、軍と卿が増設された時期もありました。
六卿は本来は“時の六卿”を指していましたが、公室の衰えが決定的となり、伝統的な卿族が六家に絞られたB6世紀半ば以降は、范氏・中行氏・智氏・趙氏・韓氏・魏氏の総称でもありました。
尤も、その期間は半世紀ほどに過ぎません。 BC633年に文公が三軍を創設した時の六卿は、郤氏(中軍)・狐氏(上軍)・欒氏(下軍)・先氏(下軍)から出され、文公の末年(B628)までに胥氏・趙氏・箕氏が加わっています。
ちなみに、重耳の亡命に従った五賢臣は、趙衰・狐偃・胥臣(賈佗)・先軫・魏犨とされています (程度の差こそあれ、本国の一族との接触を保っていた事は、恵公や懐公が国内の重耳派潰しに躍起になっていたことでも解ります)。
荀氏は霊公の時代、士氏(范氏)と韓氏は景公の時代に挙げられ、魏氏が卿に列したのは悼公の時代になってからでした。
このうち、郤氏・欒氏・先氏・韓氏が公族で、荀氏は土着の大族、魏氏が姫姓、士氏・趙氏は他国出身で、狐氏は異民族出身です。
重耳が帰国した当時、晋で最大の勢力があったのは恐らく郤氏で、でなければ、宗家が恵公の腹臣をやっていながら、
支族の郤穀が重耳の入国を援けたくらいで亡命組をさし措いて将中軍とか、宗家が程なく卿に復帰して正卿に駆け上がりとかありえないと思います。まあ、狐氏や趙氏が大人の分別ができたということでもありますが。 文公の卿族で真っ先に没落したのが狐氏と先氏で、文公を嗣いだ襄公の継嗣問題で狐射姑と先蔑・先克が趙盾に蹴落とされ、士氏も瀬戸際に立たされました (先氏は公族とはいえ、狐氏と同じで亡命時代から重心を重耳に置きすぎていたような感じです)。 又たこのタイミングで箕氏も一代卿として退場しますから、亡命組で残った卿族は趙氏と胥氏のみとなります。
ただ、この胥氏もパっとしないまま霊公の時代に潰されるので、襄公の死を引鉄に、文公側近派に対する反動が実現したような感じです。 霊公−趙盾体制下で地着きの荀氏が挙げられ、士氏も復帰してますし。
個人的には、趙盾は箕鄭を嗾かしといて、先克が滅ぼされるのを待ってからシレっと箕鄭を討ったと捉えてます。 悼公の一代は当人の絶妙な政治センスもあって大過なく、晋も覇権を回復しましたが、次の平公の時代には欒氏が范氏に滅ぼされ、稍く六卿と六氏が同義となります。 B514年に、公室から分かれた祁氏・羊舌氏が六卿に廃ぼされたことで、君権は更に縮小しました。 公族の粛清が結果的に公室を没落させて新興層の抬頭を促すのは、諸国に共通する社会現象です。 日孫名阿a美辰沄繾翅報順瑳檀彌固。日祖乳之。命高天使鷄。載而降臻。是爲~祖。蓋日孫讀如戞勃。高天使鷄讀如胡馬可兮。辰沄繾翅報。其義猶言東大國皇也。 又遣使伊鎩河畔。載龍髯酬以遠鎩河及頌卑離。乃亦令勃婁達修杜キ那、置納祇米行高密帥志、禳寇云。鑑罄乎此矣。 辰沄繾翅報 案斜踧岐 賁申釐倪叔斿
珂洛秦弁支廉 勃剌差笏那蒙緬 >>761
陳舜臣の『中国の歴史』@では、晋は周王室化した狄(古代トルコ系)とする説を唱えたね 晋は異民族だろうね
どうでもいいけど斉も荘公が2人いるとか絶対最初の方の君主は後から創ったと思う 武王が紀元前1021年ころに崩御し、当時は末子相続だったため、
11歳あるいは14歳になる幼い末子の太子季誦が即位した(成王)。
しかし、摂政となった魯の周公旦の統治に不満を持った唐君は間もなく反乱を起こした。
周公旦自ら唐の討伐に向かって、これを滅ぼした。 その一方、成王のすぐ上の同母兄に唐叔虞がおり、字は子于であった。
彼らの生母である邑姜は叔虞を身籠ったときに、
生前の武王は天帝から「汝はこれから男子を儲けるであろう。
その子に「虞」と名付けるように。彼は唐の主となるであろう。
彼の末裔は栄えるであろう」という天の告げの夢を見た。
武王はそのことを太史の尹佚に話した。
まもなく邑姜が男子を産むと「虞」と名付けられた。
叔虞は武王の6男であり、徐伯・密仲・邘叔・応叔・韓叔という異母兄がいた。 前述の周公旦が唐を滅ぼすと、
その後釜として太史の尹佚はまだ封地がない叔虞をその主にするように進言した。
周公旦も賛同したので、成王は兄の叔虞を唐侯に封じ、以降から叔虞は「唐叔虞」と呼ばれた。
後に唐叔虞が亡くなると「太公」と謚され、子の丁公燮(爕)が後を継いだ。 しかし、丁公の子・唐侯遂の代になると、
外従兄弟である古代トルコ系翟(白狄)の狐氏出身の晋の武侯寧族が反乱を起こしたために、
国を追われた唐侯は本宗家の周の昭王瑕の下に逃れた。
これを憐れんだ昭王は成公に対して唐の封地を南方の溳水あたりに移転させた。
同時に昭王は遊牧的で強大な軍事力を誇る武侯寧族の強引な要請に屈して、
(武侯の)母方の「姫姓」を賜り、唐に代わって「晋」の建国を認めさせた。 紀元前506年に唐の最後の君主である成公は同族の随と蔡とともに、
南方の蛮族と蔑まれた呉(姑姓)と盟約した。
そのため、翌紀元前505年秋7月に楚の公子結と秦の子虎・子蒲兄弟の連合軍によって、
成公は捕虜となり、ついに唐は滅亡した。 当時は末子相続だとしているけど
それだと次男の武王が後を継いだのがおかしくなる
康叔またはそれが幼くても近い誰かが継ぐのではと
状況的に最年長が継ぐべきだったなら武王の後も長子が継ぐはずだし