淳于瓊について語ろう
官渡の戦いで袁紹軍の兵糧の護送隊長を務めるも、烏巣で
曹操軍の奇襲に逢い、兵糧を焼き払われた上に鼻を削がれて
処刑された悲劇の武将・淳于瓊仲簡。
彼のことについての史実は正直言って少ないが、彼のファンで
ある私にとっては出来る限り語りたいと思う。 関羽と張遼を追い散らしたっていうのは何かの史書に書いてあるの? 淳于瓊と関羽・張遼が最接近するのは三国志を見る限り
武帝紀の建安5年2月から4月のあたりで
このとき顔良が関羽・張遼にやられたことしか書いてない
淳于瓊と関羽・張遼が直接対決した事すら載ってないぞ
あるならソース希望 曹操が白馬と官渡が二つとも保持していれば、
袁紹は延津で身動きが取れなくなっていただろう。
第一渡河を妨害する為にその二将を派遣したのに、
先鋒の顔良だけ斬って退くというのはありえない。
力押しで追い返されたor最初から解囲が無理な戦力差だった、というのが納得出来る展開。
延津で対決をするフリをして白馬に援軍を出すという紛らわしい真似をしているが、
結果として戦略目標を達成していない。
戦後の結果から「曹操は神知の持ち主なので白馬の敗戦にもなんらかの意味があった」と解釈するのは贔屓が過ぎる。
関羽・張遼がどんな猛将だろうが、兵力が倍以上で並みの指揮をする敵将相手には、そうそう勝てるものではない。 郭図、淳于瓊、顔良が白馬に屯していながら
荀攸が曹操に「・・・顔良可禽也。」とハナから顔良だけ狙ってるような献策をして
じっさい顔良しか斬られていないのは何故か
>>197の謂は合理的だとは思うが、それでも淳于瓊が関羽と張遼を追い散らした事の
直接の証左にはならないのでは
なお「曹操は神知の持ち主」だとは毛頭思わない 1 白馬で顔良が戦死した。
2 戦前の会議で荀攸が「…顔良可禽也」と彼の猪突傾向を指摘していた
3 後世になって彼の知恵を裏付けるエピソードのひとつとして陳寿が記述
4 100日の対峙後、烏巣と官渡で戦況が大逆転。陽武で捕虜八万とされる大勝利に終わる
5 ↑の結果から曹操乃至荀攸が「神知の持ち主」と思われる
6 まるで顔良一人を斬るために延津〜白馬の防衛線を譲り渡し敵の渡河を許したような解釈が広まる
当初の計画では黎陽を拠点に防ぐ予定だったようだが、劉備の討伐で大分後退してる、というか後退しすぎなくらいである。
最初から4のような大勝利を予測できるとは思えず、無難に地勢を生かした引き分け狙いと思う。
200年の時点では袁紹は勝てば即座に覇権を掌握できるが、
曹操はこれほどの大勝利でも202年以降の袁氏の内訌が無ければ不可能だったし。
>>198
仮に白馬を守りきれたらそういう献策をしたものが評価される。
荀攸の局地的な献策しかクローズアップされないのは、
曹操以下の首脳陣が大局的にはまるで手を拱いていたからと考えるのが自然な気がする。
実際、顔良を斬れたから白馬失陥のエクスキューズになったような感じだ。
士気を維持するために関羽の戦功は誇大に自軍に向けて宣伝されたことだろう。 >>199
というか劉備攻めを優先したツケが回ったということか?
まあ劉備を捨てたら捨てたで二正面作戦になるから一概にどっちがいいとは言えないか。 劉備の野心と袁紹の猛威を考えると、絶対に二正面作戦にはならないと思うが。
曹操を滅ぼして一対一になったら次は自分の番だし。
一番有利な袁紹を追い落とすために協調するという選択肢も当然ありうる。
本来曹操は張邈の乱がなければ呂布も劉備も関係なしに、もっと早期に黄河南岸を固められたはずだった。
まあ史実では実力どおりになった感じだが、その分のツケが赤壁以後に出てる感じだ。 あの当時の劉備の野心がどの程度までであったのかは難しいと思うけどね。
よく言われるのは孔明の天下三分を聞いて初めて野心を露にしたってのだけど、
天下三分を無視した事実は別として、俺もこの頃から野心が芽生えたんだと思ってる。
そんな訳で、少なくとも曹操を滅ぼすまでは袁紹と協調する筈。
というか官渡を抜かれれば許はすぐそこだし、曹操は滅亡したも同然。
それを考えれば両者を天秤にかけて漁夫の利を得ようなんて事はしないんじゃないかな。
黙ってても袁紹に重用される事は約束されている、とか考えてそうだし。 >>201
面白い考え方だが、それなら劉備が曹操に背く理由が微妙にならないか?
まあ、董承の暗殺計画荷担をチャラにすると共に独立を果たした上で曹操と協力して袁紹を倒すというのも劉備としてはアリだが、袁紹の下につくことを前提にして曹操に背いたという方がありそうではある。 184年に挙兵、24才
18X年に別部司馬、2X才
192年に平原太守、32才
193年に予州刺史、33才
194年に徐州牧、34才
190年代前半の劉備はツキすぎで、常識的に考えて異常なスピード出世。
桑の木のエピソードを考えれば天下取りへの野心は間違いなくある。
30代半ばの若造の時分に州牧になった人間がそれを持たないはずがない。 挙兵して10年あまりで一軍閥の長になったから、
それで満足、十分ですなんて、年齢的にもないよな。 174年に仕官、20才
184年に騎都尉、30才
18X年に済南相、3X才
188年に西園八校尉、34才
191年に東郡太守、37才
192年に兗州牧、38才
195年に兗州を再制圧、41才
196年に司空、42才
207年に丞相、53才
213年に魏公、59才
216年に魏王、62才 184年に挙兵、24才
18X年に別部司馬、2X才
192年に平原太守、32才
193年に予州刺史、33才
194年に徐州牧、34才
198年に予州牧、左将軍、38才
209年に荊州牧、49才
214年に益州牧、54才
219年に漢中王、59才
221年に蜀帝、61才 劉備に強い上昇志向があったのは当然だと思うけど、
具体的な目標がどこまで固まっていたかは疑問だな。
その曖昧さが戦略性の無さに現れてもいる。
逆に言うと何をするかわからない、だけど。
さて>>199
官渡に至る一連の対陣は曹操にとってギリギリの防衛戦闘、
できればやりたくなかった、というのは確かだろうな。
負けない戦を心がけ(大敗したこともあるけど)、
機動防御的な交戦をし敵に打撃を与えつつ(顔良・文醜)
自陣営の民と兵を収容して(白馬)前線を後退させている。
荀ケが絶対防衛線と設定した官渡を決戦地と定めた上で
長く伸びた敵の兵站を突いて勝利する。
相当高度なもんだよ。恐ろしくギリギリの綱渡りだけど。
決定的な瞬間まで袁紹の優位は続くわけだけど、
故にこそ、「淳于瓊が関羽と張遼を蹴散らした」というのは
大仰な言い方に思える。形勢からして当然の流れだし、
何より、
おまいら同格で参戦した郭図のことも少しは思い出してあげてくださいw それは単に言い方の問題なんじゃないの。
認識そのものは別に違ってないように見える。 うん、言い方の問題であって、いかにも正面決戦の末の曹操の敗北のように言うのは「問題」だろう。
と思って書いたんだが、>>193と>>197>>199の言を混同してしまったか。ごめん。
武帝紀によると、曹操は官渡から北上し、渡河を陽動としつつ白馬を救援して
顔良を斬って解囲に成功し、民を収容して後退している。追撃で大損害を受けた様子もない。
戦略的には押されまくりだが、この場での戦術的には完勝と言っていいはずだ。
対文醜戦といい、劣勢の中での一連の戦術的勝利は
袁紹軍全体の前進を遅滞させるには十分だった(はず)なのだから、
荀攸や関羽の活躍がそれぞれの伝でクローズアップされるのは当然のことだと言える。
顔良を斬れたのはエクスキューズだとか、関羽の戦功は誇大宣伝とか言うのは
斜に構えすぎた見方だと思うな 官渡の曹操の方が先に補給が足りずに根を上げる寸前だったことを踏まえると、袁紹の進軍を遅滞させたことが当時の曹操にとって有効な行動だったのかという問題もある気がしないでもない 「相当に高度な戦略を行ったので最終的に大勝した」
というのは正史を素直に読めば得られる当然の結論なのは同意する。
だが、それは結果論と仮定して、
「水際で防ごうとしたらガン攻めで押し込まれて、
敵の占領が根を張る前に機密漏洩を頼りに必死こいて敵の兵站拠点に突入したら圧勝してしまった、というのが現実じゃないか?」
という懐疑的なスタンスで見てるので、斜に構えた見方に見えるのは当然だろう。
勝ったからいいようなものの防衛線を官渡まで下げても、
自軍の兵站が尽きる寸前だったことを考えれば、
曹操と幕僚らが採った戦略はリスクを取りすぎで下策としか言えない。
百戦百勝どころではない玉砕戦術を成功させたのは流石だけどなー。
「淳于瓊(郭図)が関羽と張遼を蹴散らした」というのも兵力差が違えば当然の結果だろう。
そんな大げさな言い方とは思わないけど。
プライオリティはあくまで「白馬解囲>顔良斬殺」なのだから、
関羽のやったことは凄いことは凄いけどあの時点では焼け石に水だろう。 無抵抗で後退するわけにはいかないしw
これだけ劣勢の戦で万事計算どおりにいくわけがない。
曹操自身も初めから官渡を決戦地に設定して
袁紹を引き込んだわけじゃないだろう。 >>213
白馬の件一点に限っては、現実に解囲に成功して民を引き連れて後退しているのだから、
蹴散らされたとはとても言えない。追撃があったかどうかも怪しい。
んで、烏巣の輜重を焼いたこと自体が圧勝ではないと思うよ。
その混乱と兼ねてからの内部のごたごたによって張コウらが裏切ったため、
袁紹は兵を退いた。その後退につけこんで追撃した時に初めて
人的な大損害を与えることができたのだと思う。
荀ケの「今は両者全軍を集めて対峙しているので、ここで退いた方が負ける」
が正鵠を射たことになる。予備兵力があるなら崩れてもどこかで踏ん張れるが、
余力がなければ混乱は全軍に伝わって立て直せない。
荀ケの考えによれば両者とも同じ状況なので「安全策なんて大愚策。博打しろ」
ということになる。
袁紹がもう少し人心を纏めることに注意したり、あくまで官渡に留まったりすれば
まだ対陣が続いたはずだが、ま、「敗因のない敗戦はない」だから、これによって
曹操の価値を低く見る必要はないだろう。 >>215
>これによって曹操の価値を低く見る必要はないだろう。
いや俺は基本曹操>袁紹だよ。
事実、大敗の影響からか翌年のレイ陽の戦いではあっさり負けて奪った拠点を奪回されてるし。
ただ物量と形勢が加わった官渡戦では曹操と言えども、
そんな高度な計略で望めるほど容易い状況ではなかったのでは?と思うだけでな。
>烏巣の輜重を焼いたこと
人的被害はなくても物的、心理的被害は大きいだろう。
まあこれは大逆転の半ばに過ぎず、許攸投降〜陽武の戦いまで含んで圧勝と言える。
官渡が最終防衛線になった時点で安全策などある訳がないのは、曹操でも流石に分かってるだろw
真後ろが許では引けるはずがない。官渡から引けばその時点で総崩れだ。
荀ケとのやり取りはいつもなら超強気の曹操でも内心ガクブルだったことを示す一因でしかないのでは?
呂布にエン州を掠め取られた時も、赤壁で周ユに負け劉備に追撃された時も、馬超に苦戦させられた時も、
強気な負け惜しみばっか言ってるような男が、第一の腹心である荀ケに弱音を吐くほどだから
活路がまるで見えない悲惨な状態だったと推理するのはそれなりに妥当な推論だと思うが? >白馬の件一点に限っては、現実に解囲に成功して民を引き連れて後退しているのだから、
>蹴散らされたとはとても言えない。追撃があったかどうかも怪しい。
あとこれも解囲の解釈の違いだな。
結局渡河拠点の保持を諦めてる訳で、住民は引き連れても成功したとは言い切れない。
淳于瓊と郭図もあえて追撃して顔良の二の舞にはなりたくないだろう。
態勢の建て直しと指揮系統の再編で一旦停止するのが妥当な判断。 なんかなんで論争してるのかわからなくなってきたなw
単にどこに力点を置いて話しているかの差に過ぎないか。
引っかかっているのはここかな
>「曹操は神知の持ち主なので白馬の敗戦にもなんらかの意味があった」
>「相当に高度な戦略を行ったので最終的に大勝した」
白馬の勝敗は置いといて、一連の後退をして初めからの「神知」と看做す向きが
あるとは知らないので、ここで温度差が生まれているように思える。
なので、一連の後退の価値を曹操への弁護の意味で書かせてもらった>>209
わけだけど。
自分のレス読むと長すぎて削除したところが色々あって、
勿論俺も、機動防御・兵站強襲・反抗の流れが初期からの曹操の戦略だった
なんて思わない。
官渡に至るまで、曹操はずるずると後退しているのは間違いない。
荀ケの発破がなければ曹操は許に篭城するくらいのつもりだっただろう。
烏巣の状況が作られたのは曹操にとっての敗勢と袁紹側の失策の産物だ。
エトセトラ。
にも関わらず、曹操側は…
と、一連の後退と対峙の中で重ねられた勝因を列記するところだけど
長くなるのでここには記載しない。
白馬の勝敗・解囲の件。
これは確かに解釈の差だなー 白馬とか、袁紹の方が兵力で圧倒していたのって何か根拠あったっけ?
1対10だったなんて確かに言われてはいるわけだが、裴松之以来しばしば疑問視される数字だよね
白馬戦自体、曹操は勝ち目(救出や武将殺害ではなく袁紹軍の侵攻自体を押しとどめる)があると踏んで臨んだ、それなりに成算もある兵力差だった可能性はないだろうか? 勝ったところでどうすんだ?
もし勝ってしまったら、向こうが慎重になって余計に長期戦に持ち込まれる可能性もあるんだぞ
次に繋がらない勝ちを狙うだろうか 夷陵と官渡の展開って妙に似てるな。
序盤:連戦連敗で守備側が押し込まれる。
中盤:主要拠点手前で膠着状態に陥る。
終盤:大逆転が起きて攻撃側が大敗。指揮官は逃げるが配下のほとんどが降伏or戦死
とか。 >>220
それはよくわからんりくつだな
黄河北岸から南に行かせなければ、おそらくはエン州に反曹操勢力が跋扈したり、予州(汝南)で袁紹側勢力が次々蜂起したり、といった連鎖反応もなかっただろう
よしんば北岸での長期戦になったとしても、官渡での長期戦よりは許から遠いだけマシ
まして、袁紹に十分な被害を与えれば袁紹は退却するわけで、そうなるのが何よりでしょう
次に繋がらない勝ちというのは、それこそ勝ったはずなのに官渡に押し込まれているという状況を言うんじゃないの?
白馬の戦いに向かう時点では、曹操はそれなりの兵力を持ち、袁紹の侵攻を押しとどめ撃退できる勝算ありと考えて迎撃に出た
しかし袁紹に勝てず、かろうじて白馬救出だけはなんとかしたものの押し込まれた
黄河南岸進出を果たした袁紹はエン州や予州へのゲリラ活動と本体の許への侵攻を自由にできるようになった
これによって曹操の兵站は危機に瀕した
大きな兵力差もこの防戦一方になって以降に初めて出てきたんじゃないだろうか
白馬の戦いは曹操にとっては本来の目的を全く果たせなかった敗戦であり、失策であった
その事実を覆い隠すのが、「白馬を救いに行った」という論調ではないのか?
そして、袁曹の兵力差が元はそれほどじゃないとしたら、曹操を追い落とした淳于瓊らは数任せではなく、かなり上手くやった結果だということになる >>222
開戦前から兵力差は言われている。孔融はそれを理由に降伏論を唱えている。
白馬に投入された&それを支援しうる近傍兵力だけを比べても、
曹操の劣勢は周知のことで、故にわざわざ陽動を掛ける必要があった。
袁紹に渡河を許してからの苦境はわかるが、
最後の段落はちょっと想像が過ぎるね >>209
曹操と袁紹以外は地盤強化が最優先課題だったと断定。
後は孫策くらいか?
つってもこの三人も皇帝を擁立して覇を唱えようという程度だけど。 >225
史実では詳細は全く述べられてはいないが、どこぞの書籍でこの二人の
関係は「日頃仲が悪かった……」と書かれていたのは確からしい。 久しぶりにこのスレに戻って来たが……。
三国志大戦の淳于瓊が違う形で豪傑になって戻って来たよ。 3年前に此処を建てた者だけど、まだキッチリと残っていたのか。
本当に驚きだな。 淳于瓊は何気無く歴史的にも重要な事実を掴んでいる男。 司行方の司行も二字姓じゃないのかね
檀道済、澹台滅明、鬱築鞬はどうなんだ
∧_∧
( ・∀・) 人 ガッ
( つ―-‐-‐-‐-‐-‐○ < >__Λ∩
人 Y ノ. V`Д´)/
し(_) / ←>>232 >大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。僕のほかにも、イジメが原因で精神病になったりひきこもりになったりした子が何人もおる。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。イジメに加担する教師すらおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメはなかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな
>島本町って町は、暴力といじめと口裏合せと口封じの町なんだな
子供の時に受けた酷いイジメの体験は、一生癒えない後遺症になるなあ 淳于瓊は名将中の名将。曹操と袁紹2人の命を握っていた、三国志史上最も重要な人物。
なんちゃってw 西園八校尉って袁紹とかと同格じゃないの?かなりの名家出身か? 鼻削ぎの事はこれだけ有名なのに、削がれるまでの経緯や
誰が実行したのかが具体的に分かってないのは何故だろう?
つーかこの時代では捕虜になると誰でもこんな目にあってしまうんか? 俺が曹操なら淳于瓊の鼻削いだ奴を絶対処刑にしてるな。
この不要な虐待行為のせいで有能な武将を配下に出来なかったんだからな。 Chunyu Qiong
Chunyu Qiong (died 200), courtesy name Zhongjian, was a military general serving under the warlord
Yuan Shao in the late Eastern Han Dynasty. He played a significant part in the Battle of Guandu in 200. あおい輝彦 学研のおばちゃん 浅香唯 —— 阿藤快
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水島裕 宮崎あおい 三倉茉奈 —— 三倉佳奈—— マナカナ 加藤あい
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水島裕子 水野あおい 水の巻(伊賀忍法) 田中真紀子 加藤夏希——加藤明日美——片岡明日香
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水島広子 水野裕子 —— 水野真紀 —— 後藤田真紀 —— 後藤真希 —— ごろまき権藤
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水野久美 《こいつら見分けつかないよな》 坂井真紀 —— サカイまちゃあき —— 堺正幸
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水野きみこ —— 水野美紀 —— 酒井美紀 —— 小堺一機 ——堺屋太一—— 国分太一
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水飲み機 中谷美紀 酒井若菜——酒井彩名——酒井法子
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伊藤美紀 —— 藤谷美紀 酒井和歌子 椎名法子
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藤本美貴 井上和香 —— 井上貴子 椎名真希 椎名桜子——椎名林檎
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三谷幸喜—— 三木谷浩史 白井貴子 しんこ巻 —— にしこり