【中山】楽毅 【燕】
結果として優秀な人を集めた。
んで、彼らが活躍した。 いや、かいよりはじめよっていうのは、
郭隗を優遇することによって、郭隗ごときが優遇されるなら俺ならもっといい待遇を受けれると思って
燕にくるってことでしょ。
ってことは、郭隗は当時の人にはそれほど評判が良くなかったってことだよね?
自分が読んだのは横山光輝の史記だけなので、実際史書ではどうかかれているか知りたい。 だから、自分の評判を落としてでも
主君の人材集めに協力したんだろ。 それは要するに、郭隗は優れた人物である程度知られていたところを、
自分でダメダメな人物だといううわさを流したということ?
そんでそんなダメダメな人物が優遇されるなら俺も俺もっ!!って人が集まる ってこと?
>>47
どうしてそういう解釈になるのか
>>46の言う事も変だけど、郭隗くらいの才能の人間は当時でも珍しくなく、
その郭隗ですら王から下にも置かない待遇をうけるのであれば、更に
有能であればそれ以上の待遇をうけるだろうと、才能ある人物が燕へ多く
集まるようにということが、「先ず隗より始めよ」ってことでしょ
べつに郭隗がわざわざ評判を落としたとか、そういったものではない 孔子だったか誰かに、優れた後継者を推薦した者がいちばん偉いなんて話があったっけ。
楽毅の身を寄せたことが、郭隗のおかげかどうかは知らないが 管仲を推薦した鮑叔、子産を推薦した子皮か。
昭王の要請に応えてしっかり人材引き寄せて自分もちゃっかり良い身分貰ってるし
それだけでも相当の切れ者だと思うなあ、郭隗。 そもそも「人材集めるのにどうしたらいい?」って相談受けてるし
信頼されてたんだろな、多分。
って楽毅じゃなくて郭隗のスレになってないか?w 当時の燕の状況を知りたかった俺のせいでこんな横道にそれた話題に…
しかし、話す寝たがないからしょうがないです。
んで、楽毅はどうして燕に行ったの? やっぱり昭王がすごいよな。
20数年間耐え続けるなんて普通できないぜ。
日本だって20数年間国力の充実に努めれば
アメリカの大半を占領して、ワシントンを包囲できるかもなw 田斉って、楽毅の攻撃がなかったとして、
あのまま国力を伸張させ続けることはできたんだろうか? ビン王が戦争ばっかやってるからそのうち5カ国連合軍とかすごい軍勢が迫ってくれば終わると思ふ >>59
単純に、斉が西進しても、同様に東進してきた秦とガチでぶつかって潰されるから無問題。
楽毅は局地の戦闘では白起や韓信に劣るかもしれないけど、政治的なセンスや大局眼は勝ると思う。
白起・韓信のようなタイプはクラッシャーとしては優秀だけどいつまでたってもなんも平定できなさそう…
古代ローマで言うとこの軍団長レベルだと思う。 連投で追伸して申し訳ないが、楽毅最大の影響(功罪の判断は各人のお好きに)は、
唯一秦に対抗し得るポテンシャルのあった斉を叩く→燕の恵王から逃亡→斉、弱体化して復活
というコンボで秦1強を確立したことだと思う。
楽毅と恵王はある意味最強の連衡タッグ。特に恵王。こいつに秦は足向けて寝られないだろってくらい最強。 マークの中の人も楽毅に注目している様です
ttp://marc2.exblog.jp/5984348 この時代の斉ってどうしてあそこまで国力を伸張させることができたんだろう。
秦や楚は、背後に広大な未開発地があるから分かるけど。 斉の都臨シが当時の中国で最も人口が多い都市であったことを考えると領土は秦や楚に劣るが一番人口が多い国だったんじゃないだろうか
余談になるけど斉は遼東のほうにも海を越えた領土をもってたらしい >>63
秦の軍事的脅威に直接さらされなかった事と、秦に次ぐ脅威となりうる存在で
国土を接している楚が猫の目外交で弱体化した事、いざ戦争となれば韓・魏を
抱き込んで合従できる素地が魏の衰退以降にできあがっていた事、の三つが
大きいかと。
小説ほどの影響力はないにせよ靖郭君や孟嘗君による巧みな外交戦略が
功を奏してもいたはず。 >>66
関係ないことだが、「靖郭君」を郭靖くんだと思ったおれは金迷。 ビン王になって孟嘗君を追放してから斉は外交に陰りを見せ始める
しかも燕のスパイである蘇代の言うことをホイホイと聞いてしまうという馬鹿の上塗り ビン王の失策は宋併合が原因かな?
確か宋滅亡で宋に隣接する諸国が大混乱を起こし
それが遠因で楽毅を上将軍とした五カ国連合が起きたとか起きないとか(うろ覚えで申し訳ない)
>>68
蘇代はしっかり縦横家やってるんだよなー
あの頃の合従家たちは、対斉・対秦を見込んだ合従論を説いていたんだよな
秦は函谷関以西に閉じ込めてたから大丈夫
あとは斉かって感じで、ビン王はある意味で袋叩きにあった可哀想な君主
もうちょっとうまく立ち回れなかったのかっていう批判はあるけどね まあビン王は諫臣たちを殺し、自分に媚びる奴しか近づけないような典型的な暴君だから
いずれ破滅してたろうね 楽毅が書いた有名な手紙の内容を簡単でいいので教えてくれませんか?
ぐぐっても内容がでてこなかったので、、
あと、胡服騎射の胡服と、当時の中国の服装の違いがはっきりわかるイメージとか
文章もあればお願いします!
クレクレですみません 楽毅の手紙は史記見れ
全文載ってる
胡服騎射はこんなんかね
ttp://www.gaopu.com/tousyu.html >>73
そうでもないと思う。
古来、中原区(おおよそ太行山脈西部、つまり晋陽から宛あたりの地域)と燕遼区(薊などを中心とする)
ほかには海岱区(山東半島を含む地域)なんていう文化領域があり、そこらを基軸に軍閥が割拠していたので、
中央ではないが(中央は当然中原区)、中央からみれば雄藩的な位置づけと言えるんじゃないかな。
四川や江南のほうがよっぽど辺境だったのじゃなかろうか?
雁北区、燕遼区
甘青区、中原区、海岱区
巴蜀区、両湖区、江浙区
らしいな。 楽毅より名将と言える人って史記にいる?
個人的に無忌が同ランクのイメージ いや単純な戦果なら冒頓単于だろう
史記という括りなら 単独戦術戦闘なら白起はすごそうだな。終った後の事はなんもやらんけど・・
王翦は人格的には評価できない〜みたいな事が史記かなんかに書いてた気が
するけどどの部分がそうなの? 保身が行き過ぎたこととかかな・・
でも彼が死ぬと子孫の名臣が世に出ないし保身くらいいいじゃん・・
つーか王翦の立場だと先人達の末路色々知ってるんだし
保身に気使わなかったら馬鹿だろ。 まあお約束の判官贔屓というか
悲劇的な末路を好む心情がある訳で
それから見ると保身保身で身を長らえた王翦は
あまり頂けないということではないか。
宮城谷氏なら燕を去った後の楽毅の描写が好きだ。
秋風ぴゅーぴゅー吹きまくってる寂しい感じがタマラン。 沙中は俺も好き
孟夏の太陽を先に読んだ人は沙中嫌いって人多いね 沙中は士会だけじゃなく先軫や郤缺他一族など色々な人物を通して成長
していく過程がいい。俺が俺がみたいじゃなく逆に主人公っぽくない書き方をしてる
とこが余計楽しめる。 最早楽毅のスレじゃなくなってることには誰もツッコまないのかw
沙中は趙盾の扱いが悪いからなあ
こういう作品・主人公によって扱いが違うのが宮城谷さんの面白いところではある
是非斉側からの視点で楽毅がめちゃくちゃ悪役な小説も書いてもらいたいが
もう中国史ものは書かないのかな・・・ >89
いやいや、三国志書いてるじゃないか。もっと春秋戦国で書いてほしいけどね。
楽毅の裏側の話という点では、縦横家書をベースにした蘇秦の話を読んでみたいな。 局地的戦闘・大局観・占領行政・他国の将軍との折衝の総合力なら楽毅はかなり上位クラスだとオモ 趙盾は身内の様に引き立ててもらった韓蕨(草冠いらないっけ?)にとってはかけがえの無い恩人、
外から眺めていた士会にとっては独断専行のきらいがあり、表面的な礼にとらわれる面のある宰相。
恐らくどちらも正しいのでしょう。
君主の葬儀のときに礼のためと言い他家の田土を削ろうとしたにも関わらず、別の機会に自家の
田土や廟に手を付けられそうなときは自らの都合で礼をまげようとした子大叔に肖ていると思う。
子大叔の持っていなかった大国の宰相であるという驕りがあるの分、趙盾の方が劣悪とも言える。
また、上辺の礼にうるさく、献言を許容できないという点では士会の孫の士カイにも肖ている。
三者とも身内に甘く外に厳しいから身内とその他で評価は正反対になる。
大国の相としてはお薦めできない人格と言えるでしょう。 中国史で初めて大国を攻略し、
占領政策までやった将軍はもしかして楽毅が初めてなのか? いや、楽毅はちゃんと成功してるぞ。
その成功を全部覆したのが恵王。 あれは敵である田単の離間でもあるし、一応2城残ってたし、
それに恵王の所為だとしても中途で失敗したことには違いない
まあ理解のない上司に代わるのは伍子胥にしても楽毅にしても不幸だって事ですかね。 >>89>>90
塚本史の「白起」を読もう
趙に行ったが活躍できず、心労で胃潰瘍になった哀れな楽毅がそこに… 塚本史は文章が幼稚。多作にして駄作多し価値がない。 >>99
光武帝でがっかりした後、こいつの本は読まないと誓った 宮城谷氏の楽毅は中山時代の方が面白かったな
燕時代も面白かったけどね 塚本史wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 塚本史は読みやすいんだが。
始皇帝のアイキャンフライには吹いたw >>106
あれは衝撃のラストシーンだったよなwwwwwww 中山国交相が辞任=麻生政権、出だしから苦境
↑
このスレの住人なら“ちゅうざん”と読んでしまうよな? ヤフニュースとかでは、「なかやま」と認識したが、今は「ちゅうざん」だったぜ。
やるな、>>109よ。 >>109
読んだ。中山国の行人かなんかかと一瞬思った >>109
「中山国」「交相」で区切って頭の中が?だらけになった このスレでこんなこと書いていいのかな〜っ話なんだけど。
宮城谷氏の楽毅の文庫版、「がっき」ってふりがなふってあるけどおかしい。
「がっき」じゃなくて「がくき」だよな。
それじゃあ白起が「はっき」なっちゃう。 いくら言いやすいにしても、「がっき」はやりすぎだろ
どうまかり間違っても楽という姓を「がっ」とは読まない 姓はむろん「がく」氏だろうし、祖先の楽羊も「がくよう」だ。
しかし、楽毅は「がくき」と発音するより「がっき」のほうが自然となる。
これはカ行が連なるため、日本人の発音のしかたによるものと思われるが、どうだろうか。
日本では、「がっき」と発音・表記しても、問題ないと思うんだがな。
もっとも、こんな発音するのは世界広しといえど、日本だけだが。 国家、国旗、国語、国体
さぁ、どう読みどう表記する? ならどうする?
正しいのはむろん「がくき」だが、それで?
出版社にでも文句つけたらいいだろうが。そっちこそアホだろ
こんな辺鄙なところでのたまってて何か変わるのか?
柔軟に解釈することもできんようなガキは寝てろ。 >>121
口語体では「がっき」になってもいいが正しい表記は「がくき」
希臘が「ギリシャ」と口語体で言っても文語体では「ギリシア」なのと一緒で
会話において音便化されてるだけ
音便化されたものを「正しい」と言い切る奴はただのアホ >>123
何が柔軟な発想だ
立田(たちた)って奴がいるとして、呼びやすいからという理由で「たった」とか表記されたらそりゃ怒るだろ
また、渋谷という地名を勝手に「しぶたに」と表記するのも問題だわな
こういう風に固有名詞というのは「柔軟な発想」とやらで勝手に読み方変えちゃいけねーんだよ 俺のレスから国語の議論になってる…。すみません。
そもそもふりがないらないんだよな。
「がっき」って書かれちゃうと、それを強要してるみたいだし。
新潮社がよけいなことをしたという。
ハードカバー版の、正字で大きく「樂毅」をそのまま持ってくればよかったのに。 韓、魏、趙のことを晋(三晋)といったり、
魏を梁といったり、
韓を鄭といったりするくらいなのに、
楽毅の読みくらいどうでもいいじゃんか。 >>129
>韓を鄭といったりするくらいなのに、
それは知らんぞ。 >>130
昔どこかで「首都を新鄭にしてから、鄭とも言われた」って見たんだけど、見間違いかなあ?
間違ってたらスマン。 韓が鄭を滅ぼしたから白起は韓も怨んでる
ってあったな、青雲はるかにだったか 白起と学毅と王センと孫武と韓信を同じ部屋に閉じこめたらどうなるの? 134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/10/14(水) 22:17:17 ID:57/2UVqeO
白起と学毅と王センと孫武と韓信を同じ部屋に閉じこめたらどうなるの?
↑↑↑↑淳干コンのとりなしで皆仲良くなるでしょう↑↑↑↑ いきなりすみません。分かる方がいたら教えてください。
「へんしつようき」の単語の漢字がどうしても思い出せません。
偏質庸器 はちょっと違う気がしています。
言葉の意味は「資質に偏りがあって、凡庸で」みたいな感じで・・・
多分、楽毅の4巻の前半あたりに記載されていたと思います。困ってます。 >>136
確認したところ、「偏失庸器」
偏失とは中正ではないということ
出典は四巻の「一家の春」
太子時代の燕の恵王の資質についてふれた場面だった >>137さんへ!
136です。ありがとうございます!
とても助かりました。感謝です! みんな燕の昭王をどう思う? 個人的には斉制圧が失敗に終わると分かっていた、と妄想してる。
燕という国の民度の低さを、誰よりも考え苦悩していたのではないかと。 ゲリラ(?)もやってたくらいだし。 楽毅の知識が乏しい俺に教えてくれ
楽毅って一般的に中山の臣か燕の臣どっちなの?
時間的には中山の方が多いの?
あと丹冬とかって実在すり人間?