【中山】楽毅 【燕】
何故だね
田単のおかげで後世に残る手紙が生まれたのだ
亡命してからも生活には苦労しなかっただろうし、呪う必要がない 結局、楽毅って中山人なの?趙人なの?
小説では中山人だったけど、史記では趙人みたいだし、よくわからないよ! 当時の世界に置いて国籍法なんてないから区分は難しいと思う。
趙で生まれたから趙人になると言うのは現在的感覚ですれば違うと思うし。 一般的には諸葛亮が尊敬した人物の一人として有名だね そうだね。
ただ諸葛亮は、兵法よりも恵王に宛てた手紙の文面の方に、より尊敬の念
を置いていたのかも。 >>6
いやいや、宮城谷の小説のタイトルにもなっている
ブックオフ行く人には、100円本の常連のタイトルとして有名 先祖に魏の文候に仕え中山を征服した名将楽羊
親戚に趙に仕え廉頗とともに長平の戦いで敗れた後に攻めてきた燕軍を破った
楽乗など楽毅の一族は優秀な人が多いな 楽毅の子の楽間もそれなりに頭はいいみたいだな
燕王は2代続けて同じヘマw しかし平は、郭塊みたいな、いい臣に恵まれている。
斉の戦略も狡猾だったのでは? いい臣に恵まれてるけど
いい臣を上手く使ったよな、と思う>平
楽毅と同じ頃に燕に行った面々の濃ゆいこと濃ゆいこと 郭隗、楽毅、蘇代、スウエン、劇辛、秦開などこの時の燕は名臣ぞろいだな その通りですよ。
騎キョウしか人はいなかったのでしょうか? 確かに。しかし、彼を指名したのは恵王だとか。
個人的には田単よりも、先ずは恵王を呪いたい。 燕と斉、しかも城攻めで慣れ不慣れということもないような気がするが
やはり兵士の士気が最大の問題ではないのだろうか
田単はかなり粘っていたようだし、格が劣る騎キョウ(ごめんな、騎キョウファンの人)に指揮が変わって情勢がよくなるとは思えないからなぁ 名臣揃いと言えば、恵文王の趙もそうだ。
あんがい君主運はいいというか、さすが見る目はあるというか。 武霊王がやることなすこと派手すぎただけに、恵文王は見劣りして見えるけどな。
でも君主の質としては、天上天下唯我独尊で突っ走った武霊王よりも
良い臣下に恵まれ、上手く使いこなした恵文王の方が上。
楽毅は2度趙に仕えるんだよな。2回目はちょっと違うけど。 最初に燕に来たときは国賓の申し出を断ったらしいから、趙に戻った
時には家臣というよりも大事なお客様的という感じだったのかもね。 最近伸びていないようだね…。
やはり諸葛亮あっての楽穀なのだろうか…。 そういう突っ込みは要らない
だってマジで間違えたんだもんW 楽毅といえば宮城谷氏の小説「楽毅」は名作だったな
ちょっとフィクション入れすぎな気もするけどww
あれを読んだら楽毅が中華最強の名将と錯覚してしまう この時代では最高級の名将じゃないの
指揮能力は斉の完全制圧が出来なかったから多少劣るとしても、
外交能力は歴史上でもそうそう並ぶものはいないんじゃないのか >>29
ちょっと贔屓の引き倒しに感じる描写もあるよ
根回しと段取りが上手くいったから斉を滅亡寸前まで追い詰めたけど、
純粋に強い名将かと問われれば、白起や李牧よりは一段劣る >>30
いやいや、誰も純粋に強いなどとは言ってないし
5国連合軍を統率したその名声と手腕が素晴らしいと言っているのさ
もちろんこれには斉王の横暴な振る舞いがあるのも事実だがね おいおい
燕の昭王なんて名君に拾われてそれはないだろw いや二代目がさ…。
なんか劉禅下における諸葛亮より恵まれていない気がしてね。 楽毅は斉攻めと六ヶ国の連合くらいしか語ることないな…。
誰か話題をください。 あとは「これ読んで泣かなきゃ忠臣じゃねえ」といわれる恵王宛の書簡か 六ヶ国の連合という書き込みを見て思いついた。
信陵君と比較してどちらが名将だろう。 失礼。五ヶ国連合と覚え違いをしていました。
しかし当時の斉と秦どちらが軍力があったのかにも拠るが楽毅がちょっと有利かな?
確か韓信と同じ上将軍として軍を指揮しその後追撃までして斉をあわやというところ
まで追い詰めていたと思う。対して信陵君は涵谷関も抜けなかったみたいたらね。 涵谷関を抜けなかったんじゃなくて、落とさなかっただけじゃないっけ?
楽毅のほうも連合として斉を追い詰めたわけじゃないんだから。
元の斉の領土に入っても攻め続けたのは燕一国でしょ?
斉の横暴をとめるという連合国としての大義名分が斉の領土に入った時点でなくなったわけだし。
信陵君は魏を救うのが目的であって、秦を滅ぼすのが目的ではないので、
涵谷関を落とすための犠牲を覚悟してまで秦に攻め入る必要がなかっただけじゃないのかな?
連合として他の国がついてきてくれるのも涵谷関までだったろうし。 蘇代って何した人なの?いまいちよくわからん。
斉のスパイ?
あと、郭隗って何した人なの?
いや、かいよりはじめよの故事しか知らないから。