秀吉頑張れば中国に王朝立てれたって
秀吉が大明国に攻め入った時、
その兵の人数はヌルハチが明を倒した時の10倍。
軍事力では朝鮮には楽勝して明だって倒せるレベル。
実際に陸では連戦連勝。
でも海が駄目だった。秀吉が海賊禁止令なんて出すから
船の技術の進歩が遅れていたんだ。
海戦で負けて補給路を断たれた。それで現地の兵は
篭城とか苦しい戦いを強いられたんだ。
でも負けて良かったかもね。日本が中国征服したら
中国が勢力回復した時に日本も吸収されただろう。
実際に満州民族は明を滅ぼし清を立てたが
清王朝が滅亡した時、満州もいつの間にか
中国のものになっていた。 >>1
ぶっちゃけ無理だと思うよ。
単純に兵力や戦闘力の問題じゃないから。
まだ残っているか分からないけど、
中英板ができる前に三戦板にあったスレで秀吉、あるいは当時の日本による、
明の征服は不可能、だから占領ではなく、戦局を優位に進めた上での講和を目指そう、
と結論が出ていた。 24 :無名武将@お腹せっぷく :2006/09/12(火) 13:13:39
中国の征服となると、女真族の金による靖康の変、
女真族の後裔満州族の清の中原進出などがあるだろうけど、
いずれも鍵は兵力の多寡よりも、騎馬による機動力の有無だと思う。
広大な大陸を制圧するには何より機動力が必要。
それに中国の既存の統治機構を上手く取り込むことが必要。
大名配置による支配のようなものをそのまま持ち込んだら、
元朝の旧南宋地域支配より悲惨な状態になると思う。
25 :無名武将@お腹せっぷく :2006/09/12(火) 13:26:12
靖康の変のような展開に持ち込めれば理想だけど、現実には難しそう。
まず遼東の平原を突破して、山海関を攻め落とすことができるか。兵站の維持が絶望的に難しそう。
万暦年間の明軍は腐ってはいても、首都に接近されれば、本気でこれを防ごうとするだろうし。
海路渤海を通って天津付近に上陸する手もあるかも知れないが、
北直隷は広く、北京まで結構距離がある。北京にまで進撃して包囲することができるかどうか。
万暦帝が江南へ逃げる可能性もあるし。 やっぱり機動力の問題がある。
清軍は朝鮮を征服した際は、鴨緑江を渡って6日で漢城(ソウル)にまで到達している。
日本軍で、これだけの進撃速度は無理だろう。 モンゴルが宋を征服するのにも何十年と歳月を費やしたのに
秀吉だけでは基本的に無理。後継者が居なければ明は征服し尽くせない。 ヌルハチやテムジンだけでは中国を征服していないんだな。て言うかできてない。
秀吉のような老いぼれでは無理だから、後継者が居ないと無理。 >>9
モンゴルは基本的に両面に征服対象がいたという事を考慮しても、南宋にかなり粘られたからな
後金・清なんか北京落としたのが三代目で統一したのは四代目だろ? そもそも当時の日本軍が仮に明を征服することができても、
大名制を導入したら、統治なんてあっという間に破綻するんじゃないか。
統治とかは別にして秀吉の後継者(秀頼なり三成なり家康なり)が明征服を画策したらどこまでいけただろうな まずどう攻めるか。
朝鮮半島を経由した上で遼東を突破するか、渤海を押し渡って北京に迫る。
あるいは、東シナ海を渡航するか、台湾経由で、江南や福建に攻め込む。
両方同時に行う手もある。
いずれにせよ、制服は無理だと思うけど。 航海技術をどうにかしないと江南作戦は無理だし、
朝鮮半島経由でも、遼東の荒野をどう突破するかが問題。 理想的には、靖康の変パターンで明朝を崩壊に追い込みたいものだけど、
明朝の場合は、各地に皇族が散らばっているし、
北京を占領して万暦帝を取り押さえても、地方の誰かが南京に入って、
即位してしまうかもね。 土木の変の時とかの前例からして、北京を攻めた場合、
明は北京での籠城を選ぶだろうか?
それとも、南京への避難を選ぶだろうか? まあそう簡単にはいかんだろう。
どんなに腐敗した国でも骨のある将軍は少しはいるだろうし。 当時の朝鮮は政界が腐敗していたし
兵器も日本より劣っていたからチャンスはあったのだが
李舜臣が邪魔だったな。ただ向こうの首脳陣はアホだから舜臣を干したり投獄したりした事実もある
あと一息だったのよね。うまく離反の計をかけて舜臣を日本へ亡命させるか、失脚、処刑されていれば >>16
土木の変ほどの間抜けな醜態を、そう何度もさらしてくれるとは思えない。 卑弥呼が仲達や孔明に勝てたか
蘇我氏が隋を征服できるか
清盛が宋を支配できるか
北条時宗が元を大陸で滅亡させられるか
義満が明の南京を占領できるか?
つまりはそういうことだ 半島経由で北から攻める場合、山海関を落とせるかどうか。
満州族があそこを落としたのだって呉三桂の裏切りがあってこそだし。
古代はともかく、明代以降の万里の長城は馬鹿にできない。
ついでに日本軍の数からして半島、草原を経由して兵站を維持するのはかなり難しい。
現地調達しようにも現地に物資がほとんどない。
海路で南からの場合はやっぱ水軍だな。 江南作戦で、何とか楊州から鎮江にかけての一帯を占領できれば、
明朝に打撃を与えられるんじゃないかな。
楊州は塩の集積地だし、経済の中心地江南と北京の連絡を断たれるのは、
明朝にとって痛いはず。
でも何だか、敵中に孤立しそうだな。 万暦時代は、何だかんだ言って明朝もまだまだ国力があったから、
秀吉の時代での征服はまず無理だろう。
むしろ鄭成功の日本乞師に応じて、勝ったら援兵の代償として、
負けたら混乱のドサクサに、台湾・福建か江蘇・浙江あたりを
ブン取る方が、まだしも可能性は高いんじゃないかと思う。 明朝は北京が危なくなったら南京に遷都すると思うけど、
北京と南京を同時に攻められた場合、どこに逃げるだろうか?
唐朝はよく四川に避難したようだけど。 >>31
おそらく四川だろうね
さらに南下して温州・・・はないか 西安はどうなのかな?
北の方から遊牧民が攻めて来そうで、長居するにはちょっと怖いかな? >>23
東条英機が北京、南京、武漢を占領できたか。
できたね。
でも、秀吉は無理だな。統治できない。結局朝鮮だって占領出来てない。 北京って三国志でいう襄平辺り?
洛陽とか襄楊とか漢中あたりはどうなんだろ。
>>34 その頃はガチで国力上回ってたみたいだからなぁ。
明治以前じゃまず無理でしょ。 そもそも当時の日本軍には広大な大陸を駆け回る騎兵戦力がなかったからな。 >>35
北京は、三国時代の平原や渤海辺り。
襄平はもっと半島の方。
ゲームは地図と都市の位置がかなりズレてるから参考にならない。 >>35、>>37
位置は薊≒北京で良いんじゃなかった? 明の北京は元の大都の跡で、元の大都は金の中都をやや位置をずらしたところに作った。
それで金の中都は、遼の南京析津府そのままかな? それ以前に大砲を持たない日本軍が北京を陥す方法が無い 北京を攻めるとなると、最低でも10万人ぐらいの兵力が欲しいところだけど、
朝鮮半島に展開した兵力が最大で16万人ぐらいだったし、
北直隷にそれだけの兵力を差し向けるのは難しいだろうね。
それ以前に、補給線の確立なんてほとんど不可能だろうし。 中国の名将を甘くみない方がいい
岳飛や項羽みたいなのが来たら勝てる保障はあるのか? 平地なら鉄砲でともかく、日本軍て長城なみのでっかい城攻めに慣れてないんじゃないかな?
半島の都市にだって城壁はあるけど、規模も守備兵の数も明じゃ比べ物にならないでしょ。 >>43
最初は鉄砲の餌食にできても、一度痛い目に遭ったら、相手だって、
それなりに対策を立てるだろう。
最初の斉射だけで明軍を壊滅させることはできないだろうし。 兵器の力で勝てるんなら官渡で袁紹が勝ってるっつーの >>48
献身的な民衆、安全な後背地(聖域)、物資を安定的に供給する支援勢力の三つを持った
不正規戦の武装勢力を根絶するのは難しいわな
だからゲリラ部隊のようなものを編成して、倭寇の大規模版みたいな感じで、
沿岸部、特に江南一帯をしつこく荒らし回り続ければいい。
と同時に、どうにかして明との交渉ルートを確立し、
有利な講和、明に歳幇を出させるような、の締結を目指す。 宋が遼や西夏と結んでいたような関係を結べれば上々。
大陸への大規模兵力の展開は、北京、江南のどちらを目標にするにしても、
補給の点において、かなりの困難が伴う。
だから、まあ無理。
時代が時代だし、大東亜戦争ん時みたいに戦線が延びきった状態で、補給線確保しても駄目だったと思いますよ。
前線での戦力は、作戦指令部から前線への距離の二乗に反比例しますから。 まず中国に馴染んだ政治をしなきゃダメだと思う。
モンゴルや五瑚だってそこまで特殊なのはやってなかったんでしょ?
そして、征服者にそこまで器用な事ができるかどうか… つか、大名制度をそのまま大陸へ持ち込もうとしていたんでしょ。
新たな統治システムの構築に非常に手間がかかって、効率が悪すぎる。 実際に中国を征服したモンゴルや清も、創業者一代目で征服は成し遂げていない。
完全征服するには、時間的には数十年の時間が必要だろうけど、
秀吉は後継者に恵まれていないから。 明朝鮮連合って、野戦だと日本軍のひきつけて鉄砲斉射、その後長槍で突撃って戦術に何度もやられてるんだよな。
>>58
モンゴルや清だって野戦では勝ってたし、問題は攻城戦じゃない? 問題は個々の戦いより、補給や機動力といったところだろうね。
朝鮮経由にしても、江南経由にしても。
まずは、倭寇のような戦いを続けながら、20〜30年間明朝と付き合ってみることだね。
まずは相手を知ることが必要。
大陸にスパイを送り込んで、内応者を作ることができたかも知れないし。 いずれにしても、秀吉一代じゃだめだね。信長で瞬間的打撃→秀吉で政治的に混乱→家康で外交的進出と統治の方が現実味がある。
ただそれでも難しいと思うが。 >>61
でもそれだと相手もこちらの手の内を知ってしまうんじゃない?
突然の侵攻で、電撃戦だったから
そこそこ快進撃ができた部分もあるだろうし。 島国だしなあ。
19世紀の覇権国イギリスだって陸軍力でヨーロッパを支配したことはないわけで。
結局みんなが指摘するように補給がうまくいくわけない。
仮に日本が征服したとしても
文化的に中国に取り込まれて
今頃俺たち日本語しゃべっていないかもしれないよ 時期的に王直が頑張ってた頃か鄭成功が頑張ってた頃に
彼らと同盟を結べば良かったんだけど
タイミングは中々合わないもんよね >>65
満州族みたいに漢族風の姓を名乗る羽目になったかもね。 >>66
鄭成功のころはもうひっくり返せないだろう。
鄭成功は援軍依頼はしたけど
徳川幕府も検討したけど中止したんじゃなかったかな
賢明な判断だったと思う。
鄭成功の頃はまだいけるだろう
ひっくり返すのは無理だが、南京近くまで割拠できるんじゃないか
浪人対策だから、別に兵力である彼らを日本に戻さなくていいし 仮に中国に征服王朝を樹立できたとして、日本本国の扱いがどうなるかだな。 秀吉は、日本、朝鮮、明にそれぞれ関白を置くようなこと考えていたみたいだけど。
下手したら、満州みたいに、日本列島に漢民族が流入して、
乗っ取られてしまったりして。 豊臣政権自体、不安定要素が多いからなあ。
阿片戦争みたいな形ができれば、理想だと思う。
そう考えると中国に服属しながらも、吸収されなかった朝鮮ってすごいのか? 生産力なかったから放置されてたんじゃないっけか。
過激な国民性から、服属→自治が適当とかで。 半島南部は本土から遠すぎて、まず直轄統治はしない。
半島北部は北ベトナムと一緒で、余程の拡大主義者な
皇帝でもない限り、まず直轄統治はしない。 半島との間には、海(渤海及び黄海)と、遼東の荒野があって、
中原とは隔離されている感が強い。
まとめて読んだけど、中国って天然の焦土戦術状態って事か? 要は、大陸は広すぎるってことだね。
征服には騎兵の機動力が欠かせないけど、日本にはそれがない。
戦術的勝利を重ねても、それを征服へと繋げられない。 63 :無名武将@お腹せっぷく :2006/09/15(金) 23:43:35
対馬海峡を渡るだけで済んだ朝鮮半島と違って、江南との間には広大な東シナ海が広がっている。
スペイン、ポルトガルの艦隊なんかの全面協力を得ることができたとして、
長崎、平戸辺りから出撃したとしても、江南へ持って行ける兵力は、数万人以下。
三、四万人も上陸させることができれば、上出来なんじゃないかと思う。
最初の上陸地として、真っ先に候補に挙げられるのが寧波。
寧波には市舶司が置かれ、日明間の貿易の指定貿易港となっていたから、
当時の日本人にも比較的馴染みがあったはず。
倭寇として密貿易に携わっている者なら、寧波やその沖の舟山群島の地理に詳しかったはず。
寧波は攻め落とすことはできても、維持するのは難しいかも知れない。
ただ、舟山群島なら島なので、一度占領してしまえば、なかなか奪回されないように思える。
上手くすれば、前線基地として活用できると思う。 靖康の変で、金軍は、開封の掠奪をほとんど宋の朝廷にやらせている。
欽宗を拘留して、人質とすることで、宋の朝廷をコントロールできた。
これと同じように、北京を攻略して万暦帝を捕虜にできれば、
明の行政機構をある程度コントロールできるかもしれない。 朝鮮半島と中原の間に広がる遼東の荒野って、
そんなに厳しいの?
朝鮮出兵の時の軍勢がそのまま明領に攻め入ってたらやばかったってこと?
インパール作戦みたいな感じ?
朝鮮出兵のとき、満州にいた女真族はどんな感じだったの?
厨房なんで、ご存知の方教えてください。 >>88
遼東にあって、女真族を牽制していた明軍が半島へ移動して監視が緩んだため、
後の清朝の太祖となるヌルハチは勢力を拡張することができた。
遼東は基本的に農地が少ない原っぱのような感じの土地が中心だから、
補給をしたくても食糧の現地調達が難しい。
それに山岳部と違って遮蔽物のない平原だと、日本軍は慣れていないし、
敵に補足されやすいでしょ。 明治までの日本民族は、家畜なしで水稲稲作一本槍だった(麦作が日本の
風土に合っていないので、麦作を知っている人間が少ない)。
だから北海道に興味をもっていない、征服しようともしていない。
同様に考えると本来は米のできる朝鮮南部と華南しか興味がわかないはず。
朝鮮南部を占領して、収穫できるかもしれないが、いつ攻めてこられるか
分からないし、征服して意味がある土地か微妙。
台湾は攻めれば、江戸時代以降は台湾は日本になっていたと思う。
稲作が念頭にある日本軍の将兵が、
遼東の荒野を見たら絶望するかもね。 明朝の軍制では、禁中護衛の親軍が北京に約12万人、南京に約10万人。
北京の五軍営が約12万人、神枢営が約7万人、神機営も約7万人。
各地の五軍は、左軍都督府約45万人、右軍都督府約72万人、中軍都督府約30万人、前軍都督府約57万人、後軍都督府約64万人。
全体で明軍の総兵力の定数は約316万人とされている。
ただ、実際は極端に定数を割り込んだ状態にあったため、明軍の総兵力の実数は、せいぜい50万人ぐらい、
文禄慶長の役で朝鮮に送り込めた援軍も10万人程度であったと思われる。 人口十億超の某国でさえ、常備軍は三百万人もいないはずだがw 明征服は多分に名目的なものだったと思うよ。
あの外征は、国内問題の処理が背景にあったと思う。
戦乱が途絶えて、大量の浪人が出ていたし、
武器製造等の軍需産業の存在など、いろんな要素が絡んでいた。
>>95
明代の人口が五千万〜一億の範囲とすれば、
名目上の定数としてはそんなに無理のない数字だと思うよ。
実際の配備兵力が定数に達したことは多分一度もないだろうけど。 まあ、辺境に配備された明軍の兵士も、流刑に処された罪人が多かったから、
かなり質が悪かったんだろうな。 隆武帝の死後に永暦帝に即位した桂王・朱由榔から「延平郡王」を拝受した鄭成功は、明王朝復興のため南京攻略を志
し、1658年 5月13日、兵11万、大小の艦艇290隻からなる大遠征軍を率いて廈門を発った。しかし、8月9日に杭州湾
に浮かぶ羊山沖で猛烈な暴風雨に遭い、成功の息子3人を含む8000余人の将兵を失う大打撃を受けてしまう。鄭成功は
やむなく温州近くへ引き返して盤石衞を攻略し、その地で養兵訓練と造機造船に従事した。
翌1659年4月19日、国姓爺軍は再び南京を目指して盤石衞を発ち、5月17日には前年暴風雨に遭った羊山沖を無事
通過する。沿岸部を北上する国姓爺軍は、5月18日に清の総兵・梁化鳳の死守する崇明島に至ったが、鄭成功は日時を
遷延するのを恐れてあえて攻略せずに素通りすることにした。その後、全艦隊は揚子江を溯上しながら瓜州、鎮江で勝利
を重ね、7月7日にはついに南京城外郭門の一つ観音門に到達する。7月12日、嶽廟山に本藩を構えた鄭成功は、獅子
山に前鋒鎮・余新、儀鳳門に左提督・翁天祐、第二大橋に中提督・甘輝、漢西門に右提督・馬信を配置して南京城を完全
に包囲した。 一方の南京城側では、城外の建物を焼き払い、十里以内の住民すべてを城内に入れて国姓爺軍の襲来に備えていた。
城将の郎廷佐は、鄭成功に対して開城までの猶予を懇願して時間稼ぎをする一方で、松江総兵の馬進宝と崇明総兵の梁
化鳳、江寧総兵のハハムに再三使者を送り来援を促す。成功の右腕ともいうべき甘輝は速やかな南京攻撃を進言するが、
馬進宝が国姓爺軍に内応するという情報を得ていた鄭成功は南京の降伏を待つ方針を変えなかった。
しかし、7月22日、崇明島を発った梁化鳳の軍勢が南京救援に到着し、さらに塞がれていた神策門の漆喰を剥がして南
京城兵が打って出ると、成功の誕生日を翌日に控えて軍規が緩んでいた国姓爺軍は不意をつかれて大打撃を受ける。鄭
成功は観音山まで退いて陣形を立て直したが、翌23日の決戦にも部隊間の連絡が不十分だったために大敗を喫してしま
う。甘輝をはじめ、万礼、林勝、陳魁、張英、蘭衍、李泌、藩庚鐘などの将士を失い、長江での溺死者だけで4500以上の
損害を受けた国姓爺軍は南京攻略を諦めて退却した。
鄭成功は帰路、報復のために崇明島を攻撃したが、梁化鳳の激しい反撃によって多大な損害をうけたため攻略を断念す
る。9月7日に廈門に帰還した鄭成功は永暦帝に使者を派遣し、自らの王爵を剥脱して敗戦の責任をとった。しかし、その
永暦帝もこの年、平西王・呉三桂(1612〜78)率いる清軍に追撃され雲南からビルマへ逃げ込むことを余儀なくされてい
た。南京攻略の失敗によって鄭成功は、清王朝の勢いが強大で中原回復がもはや不可能であることを悟らされた。 >>95
豊臣秀吉でさえ、最盛期で30〜40万人を動員できる状態にあったんだから、
兵制次第で、300万人はそう難しくないと思うよ。
アメリカも、戦時下では、総人口の10%ぐらいの兵力を実現したことがあるし。 信長が新しいハーンになって、1000万のモンゴル騎兵を従えてる時点でもう… 実際は半島すら抜けられなかったわけだけど、
それは>>1の言うように全て海軍力のせいにしてもいいの?
それとも、そもそも半島を制圧して明に攻め入るなんて無理な話だったの? 日清戦争の時も、北京方面への展開はほとんど無理だったんだから、
当時の日本軍じゃ、補給とかの問題でほぼ絶望的じゃないかな。
遼東に殴りこみに行くとかなら、できたかも知れないけど。 明に対して打撃を与えるなら、やっぱり江南を攻めるべし。
塩の集積地でもある揚州を占領して南北の運河の交通を寸断できれば、
明の朝廷も慌てるだろう。
実行するにはいろいろと障害があるけど。 明「朝鮮救援のせいで予算が尽きた…。」
朝鮮「ウ、ウリの国もう滅茶苦茶、哀号…。」
日本「寒いよ、腹減ったよ、帰りてーよ…。太閤の阿呆ォ!!」
笑うヌルハチ じゃあ逆に考えて、
秀吉の朝鮮出兵がなかったら清の建国に大きな影響が出たの?
いっそのこと女真族と共闘すれば道が開けたのかもね。 文禄・慶長の役が、ヌルハチの勢力拡大にとって、大いに助けとなったのは事実。本来、
女真族の監視のために置かれていた遼東駐屯の明軍が、朝鮮へ向かったわけだから。その
どさくさに紛れて、敵対していたある部族を滅ぼしたりしている。
ただ、その前の1589年には既に建州女真の統一に成功しているし、日本の動向に関わら
ず、ヌルハチは快進撃を続けていたわけだから、遅かれ早かれ女真族の統一には成功して
いたと思う。 それともう一つ、中華帝国としての清朝誕生の要因となった、明朝の自滅についても、
確かに朝鮮への援軍派遣による軍費の増大が財政を圧迫し、間接的に明朝が滅亡へと繋
がっている。
ただ、万暦帝の治世を見るに、朝鮮への出兵がなくても、放漫財政によっていずれ明
朝の財政は破綻し、国内の混乱を招いていた可能性が高い。
ヌルハチによる女真族統一、明朝の内乱、この2つの要素は、文禄・慶長の役によって
早められたことはあっただろうけど、なくても遅かれ早かれ起こっていた可能性が高い。
清朝による中国支配は、大きな歴史の流れとして、変えられないものだったと思う。 何か適当に立てたスレが知らん間に伸びてる!!!!! 適当でも、テーマがよければ伸びるさ。
以前、三戦板にあった同じ主旨のスレも、
>>1がどうしようもない糞だったが、>>20を過ぎたあたりから、
急にレスの質が向上し、>>200を超す頃には、三戦板屈指の良スレに成長していた。
半島ルートは実際に試みて失敗している
東シナ海ルートでは大軍を送り込めない
というわけで、
浪人を傭兵として大量に送り込む
→政情不安に乗じて反乱
→日本人王朝成立
という妄想しか思いつかなかった 倭寇を大規模にしたような部隊をいくつも編成して、
まるで嫌がらせのように明の江南一帯を荒らし回り続ける。
5年10年と続ければ、明朝も音を上げて、講和を結ぼうとしてくる。
そこで、自由に交易する権利とか、歳幣をおねだりする。 頑張れば朝鮮と遼東の割譲なんかは可能だったんじゃない?
明制圧とか言わずに、素直に朝鮮を占領しておけば良かったのに。
即効でヌルハチにぶん取られそうだけどw 明には数度の戦に勝利するがヌルハチ率いる黎明期の清軍にボコボコにされるパターン 黎明期の清軍は、末期の明軍と言っても間違いでは無いがw
主力は呉三桂とかだったもんね。 ちなみに朝鮮半島をヌルハチの金(清)と奪い合いになった場合、
朝鮮人は、日本人と満州人のどちらの味方をするんだろう? >>125
当時の朝鮮知識人にとって、野人(オランケ)と倭人(ウェノム)は究極の選択だぞ。 >>125
普通に明に救援を求めて、生き残りの道を探すだろうw >>127
だから、明が内乱とかで、属国の救援どころじゃないというのが前提だろう。
何が何でもどちらかを選ばなければならないという状態。
国王が明に亡命したりするかも知れんけどw 中国人和日本人的共同点:看不起韩国
日本人和韩国人的共同点:要打压中国
中国人和韩国人的共同点:反对日本的扩张
>>115
場合によっては、南明北清の南北朝体制になったかもね。 >>129
拡張?
日本已経放棄了軍国主義。
如果日本政府採取軍国主義、那是美国政府所不准許的。 秀吉の後継者がしっかりした征服ビジョン持ってて満州族や西方南方の異民族と強力しながら水軍で江南に上陸が一番可能性ありそう とりあえず、女真族と手を組めてれば半島での戦いは成功してそうだね。
報酬は半島(と台湾や遼東?)をもらうってことで手を打って。
向こうを説得できるかどうかはわからんけど。
というか、秀吉って本来そういう根回しを得意としてた印象があるんだけどね。 秀吉得意の計略も、異民族相手となるとそう上手くはいかんでしょ。
それまであまり交渉もなかったんだし、相手に対する知識が少なすぎる。
それと女真族は、明の側とも付き合いが長いし、一旦は日本と手を組んでも、
いつ寝返るか分からない部分がある。 そもそも日本は異民族と接する機会が少なすぎた。
まずは積極的に関わりを持って、数十年付き合ってみて、
相手を知ることが肝要。 明の人口は1630年の段階で1億9000万人いたらしいよ、その後の混乱
で激減したけど。 確かに、下手に中国占領したら満州やチベットみたいに日本も中国の一部にされたかも その場合は間にある朝鮮も当然のように吸収される…と。
近代以降の歴史が大幅に塗り変わっちゃうねw 満洲族の数十倍の人口があるし、本国は海の彼方だからそれはない。
入植人口も十倍はあるだろうから、カースト制になるだろう。 その場合本国の年貢を減らして、替わりに継続的な武士の産地にでもするのかな?
大名連はお国替えになるだろうし。本土は丸ごと直轄領になるだろうし。
朝廷はどうするんだか。 ちょんまげとかさせるの?
それとも本土では普通に大司馬とかになるの? もし日本の歴史が半世紀ばかり遅れて進行していたら・・・
明vs李自成vs清vs秀吉の四つ巴の戦いが展開されたかな? 明は、夷を以って夷を制す、の策で、
清と日本を噛み合せようと画策するだろうな。
日本が一番素人っぽくて、はめられそうな気がする。
島国で外国との接触がどうしても少ないから。 日本は海に囲まれて外敵から守られてきたけど、
逆に攻めて行くのも大変だね。
>>145
いや、当時は海外貿易が盛んだったから情報や技術の最先端が日本にあった
はず
少なくとも、明国内の状況に対する知識という点において、
でも豊臣秀吉とか、主立った大名連中の知識はかなり乏しかったはず。
異民族を統治することがどれだけ大変か、実感として分かっていなかっただろう。 >>137
この当時の日本の人口は、推計によってまちまちだけど、
千数百万人ぐらい?
人口差は、大雑把に1:10ぐらいの差かな? 万暦年間の明軍の総兵力の実数は、大幅に定員を割り込んでいて、
50万人ぐらいだったらしいね。
それで、文録・慶長の役で、朝鮮半島に送り込んだ兵力が恐らく最大で10万人ぐらい。
江南に直接攻め込んだ場合でも、直接対峙する兵力は20万人以下じゃないかな。
辺境に張り付かせた兵力を全て一点に集中させることは不可能だし。 万暦の三征ってほぼ同時期に起きてるんだね。
うまく連携が取れてれば…とも思うけど、難しいか。
距離も離れすぎてるし。
やっぱり女真族だよな〜 寧夏やら貴州やらでは、連携を取るのは無理だろうね。
しかも乱を起こした両者は、明朝と繋がりのあった人物だし、
一時的に日本と手を組んでも、すぐに裏切りそう。 明の軍隊は、将兵共に、一般的にはかなり質が低いけど、
たまに優秀な指揮官が現れると、見違えるほど強い軍隊になったりすることがある。
あまり功績を上げすぎると、妬まれたり、
あるいは危険視されたりする。
中央の上司に理解のある人がいるといいんだけど。 >>153
と言うか、明朝の場合、皇帝の座に、ものすごく有能な人物がついたら、
一気に国として強くなるように思う。
皇帝の身に独裁権力が集中しているからね。
万暦帝が永楽帝みたいな皇帝だったら、張居正が建て直した財政をそのまま維持し、
場合によっては親征、日本への逆侵攻も考えたかも。
ま、日本を攻めるってのは容易なことじゃないけど。 つくづく日本は海に囲まれてよかったと思う。
今でも、海に囲まれていることが、
国防上、ものすごく有利に働いているし。 本当は過去に一度ぐらい痛い目にあった方が寧ろ日本の為になったのに・・・ >>160
まぁ第2次大戦で痛い目にあって、それを肥やしにできたから結果オーライじゃね? 頑張れば行けたんじゃね?頑張ればな。
だが出来なかった、だからこの話はこれで終わり。 結局、中国を統治するのに、一番効果的なのは、
既存の行政システムを取り入れること。
ただ、それは漢化を意味するわけでもある。 >>162
だから、どう頑張れば良かったのかを検証するスレだろw >>161
それじゃ遅すぎだ、蒙古に蹂躙されてた方がこの国の為になってたと思われ・・・ >>152
他の民族と連携を取るのは大変なので、まずは、
日本単独で攻めることを考えよう。
まず史実通りに朝鮮半島へ侵攻するか、海路で明本土への侵攻を画するか。 日中戦争でも日本軍は戦闘を優位に進めたけど
広大な領土を占領することはできなかった。
結局負けるし。 戦術的な勝利を積み重ねても戦争に勝てるとは限らないんだよね。 朝鮮と琉球押さえて、有利な条件での講和がベストじゃなかったか。
で機を見て(必要なら)台湾や江南へGOみたいな。
満州はさすがに無理そう。
ヌルハチ手強そうだし。 秀吉の存命中の家康の反抗は難しいんじゃないかな。
関ヶ原の戦いだって、豊臣家臣団を分裂させて戦わせたわけだし、
秀吉がいたら、豊臣家臣団は団結するだろうし、
家康がいくつかの有力大名を味方に引き込んでも、
戦うのは難しそう。
史実のように朝鮮半島南部を主戦場としつつも、
少数の遊撃部隊を編成して、倭寇のように江南沿岸を荒らし回らせて、
明朝を揺さぶる。
その上、明朝と直接交渉して、日明間の交易と、朝鮮南部の割譲を勝ち取るぐらいが、
一番いいと思う。 朝鮮の頭越しに明と交渉し、慶尚道と全羅道の割譲を勝ち取る。
朝鮮は、宗主国が決めたことなら、逆らうことはできない。
やっぱり海を隔てていると、侵攻するのは大変だな。
逆に守りやすくもあるけど。 李舜臣が官僚の支持があって全軍を指揮したら日本は危なかったな
きっと九州の当たりは朝鮮領土になっていた
とても残念だ >>176
日本→朝鮮ルートが難しいように、朝鮮→日本ルートも難しいんだぞ >>176
ただでさえ渡海作戦は難しいのに、当時の朝鮮軍じゃ、
いくら神のような指揮官がいたとしても、九州の占領なんて無理でしょう。
元寇にしたって、たとえ神風がなくても、博多周辺などを一時的に占領することができたとしても、
やがて撤退せざるを得なくなったと思われる。
対馬や壱岐の占領でもかなり難しい。 秀吉は北条氏を攻める際に22万の兵力を動員しているよね。
それ以前、九州を攻める段階でも同じくらいの動員をしているよね。
それを考えれば、島津、北条、その他の領土を併呑して更に大きくなった
段階ではもっともっと大兵力を持っていたんじゃないかな。
朝鮮には最大で15万8千しか送っていないけどこれは輸送船団がやられて
新兵力を送る余裕がなかったからでないの?
名護屋城には30万の兵力が集まったんじゃなかったっけ。東日本にも兵力
を出させておけば朝鮮駐留に10万位あてても北京に雪崩れ込む力はあった
のではないか? 大量の兵を海の向こうに輸送するってのは大変なんだぞ
今みたいにGPSやらなんやらあるわけじゃないし >>176
李と朝鮮の手持ちの船では技術的な問題があって渡海は難しいらしい
どのみち日本も明朝鮮側も補給と兵站の問題が至難の技みたいね >>179
兵を数だけ送り込んでも、補給もきちんと確保しないと、
どうしようもないよ。
それに30万人動員と言っても、全てが戦闘員というわけでもないしね。 でも相手より多数をそろえながら、兵器も先進、士気も高く、
武将も有能ぞろい。
で敗北した。清軍にも日本ボロまけしたんじゃね、といわれてるし
日本軍弱すぎ。 中国の歴代政権を苦しめ続けた北方の遊牧民だって、
別に兵の数が多かったわけじゃないからな。
やっぱ機動力、ゲリラ的な戦いで挑んだ方がいいだろう。
正面から大軍同士でぶつかったって、損耗も激しいし。 ゲリラは地域住民に紛れこんで背後から襲うわけで外人には無理
うまいこと現地の言葉を覚えて侵入したとしてもゲリラ戦なんてやったら現地住民みなごろし戦法をとられる
こええぜ >185
ゲリラ戦と機動戦は違うんだぞ。
ついでに言えば遊牧民がああいう戦い方をしたのは
基本的に交易を有利にするための恫喝や略奪のため戦で
土地を取って長期的に支配するつもりが無いから。
逆に遊牧民といえど中原支配を目指した場合は
大軍同士の会戦や攻城戦などを行ってる。
どんなに勝率がよく損耗率の低い戦い方があっても
「何のために戦争をするのか」って目的を度外視しちゃだめだろ。 >>187
秀吉の目的は服属させること?
それとも日本の新しい領土として、支配すること?
それによって変わってくるね。
>>188
日本で関白にしかなれなかった秀吉は自身の地位向上の為に
明の一部を天皇に献上、自身が明の残りを支配。
その場合、日本は明の一部に過ぎないから秀吉の地位が一番上になる。
そんなことを本気で考えいたらしい。
日本は苦労して補給物資をわざわざ九州から取り寄せた
一方、明は朝鮮から奪った そらま攻め込んできた軍と応援で来て頂いた軍を一緒にしちゃいかんよ 明軍は、ごろつきの集まりみたいな軍隊だからな。
軍隊は、社会の爪弾き者を集めたような場所だったし。 >>189
中華皇帝の地位に就くことによって、天皇を超えようとしたらしいな。 実は信長より秀吉や家康の方が朝廷に介入しているね。 >>194
征夷大将軍になる為に義昭の養子にしてくれと頼んだがあっさり断られた、
そして秀吉は平姓を名乗ってたが、
それじゃ関白になれないんで五摂家の養子になり関白になろうとした。
(どの家かはわすれたが)
しかし朝廷側の思惑としては秀吉を排除したいので新たな姓として豊臣の姓を与えた。
それを踏まえた家康は新田の子孫と系譜を改竄、
新田の子孫を手厚く保護して文句が出ない様にしている。 征夷大将軍になるために足利に容姿に〜って俗説じゃなかったか?
秀吉は征夷大将軍になれなかったんじゃなくて、ならなかったんだというのが正しい見方の筈 いや義昭にあっさり断られたから、負け惜しみ言ってるだけじゃないの?
武家の棟梁にならなきゃ不利なのは事実なんだし。
日本の歴史学者って資料第一主義なんだし、鵜呑みにしてんじゃねえ?
このスレでそれから辺は散々論破されてる
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152118867/
征夷大将軍なんてものは別に武家の棟梁でも何でもなく
鎌倉時代においては北条氏の傀儡で、室町時代においては集権力が無く
戦国時代においては失墜してる権威なのを、わざわざなる必要性が無い訳で
その上、信長が征夷大将軍を断ってるのを秀吉は見たわけで
関白にねじ込んだ菊亭晴季の着眼点と、征夷大将軍なんてもんをあそこまで神格化させた家康の手腕
は多いに見るべきものがあるけれど >>198
スレ落ちてるけど・・・
できれはどう言う結論に落ち着いたのか教えて。
征夷大将軍にたとえ権威が無くてもならなきゃ不利では?
信長が蹴ったのは朝廷の下に付くのを嫌がっただけじゃないの?
右大臣はいやいや受けた訳だし・・・(だからすぐ辞職してる) 秀吉が北京入りしたらどうなっていたか?数十年、あるいは数百年で
一族郎党抹殺されてほかの王朝が始まる。
で、近代になってからは、秀吉が支配していたことが大陸侵略正当化の
理論となって、場合によっては侵略する。
また、逆の理論で秀吉は中国人だから、日本は中国のものだという理論が
幅を利かせて、日本侵略の理論となって、場合によっては侵略される。
それだけ。 >>199
あまりはっきりとは覚えていないけど、
秀吉が征夷大将軍になるために義昭に養子にしてくれるように頼んだという逸話は、
はっきりとした証拠となる資料がなく、当時の状況から見て不自然な部分も多いことから、
後世の作り話でほぼ間違いない、というようなことになっていたと思う。
源氏でなければ征夷大将軍になれないという俗説も、江戸時代になってから広まったもののようで、
現実には、源氏でないどころか、武家ですらないものも将軍となっている。 それと、征夷大将軍の条件は、源氏云々ではなく、東国を平定していることだったという説もあって、
当時の秀吉はまだ家康や関東の北条氏を従わせていなかったために、
征夷大将軍になれなかったという説もある。
ただ当時、征夷大将軍であった足利氏の権威が地に堕ちているのを秀吉は目の当たりにしていたわけで、
将軍職に魅力を感じなかったという説もありえる。
現に秀吉は、征夷大将軍より上位で、よりなるのが難しい関白になっているわけで、
仮に征夷大将軍になりたいなら、資格に問題があったところで、
朝廷に強く要求すれば、強要することもできなくはなかっただろうし。 秀吉も大軍率いれる地位についてからの戦い方でそのまま遠征させちゃった感じだからなぁ
初心にもどって調略から地道にやれば可能性あったかも >>201-202 サンクス
確かに色々な説があるみたいだね。
俺が述べた意見は井沢元彦氏の逆説の日本史という本に載っていたんだよ。
よかったら一度読んで見てはいかがかな? >>205
スマン少し訂正。
源氏で無ければ征夷大将軍になれないはと不利云々は俺の意見。
あと坂上に田村麻呂や親王が征夷大将軍になってるのは知ってるよ。 中国に王朝立てるとして、
モンゴルの大ハーンが皇帝を称したように、
日本の関白が皇帝を称するのか? 天皇の下に皇帝というのもまずいでしょ。
モンゴルみたいに帝国をいくつかの国に分けて統治する形を目指すのかな。 半島〜遼東ルートを採用した場合、北京に行くには山海関を抜けなきゃいけないの?
なんか無理っぽくない?
背後からヌルハチに攻められて、挟み撃ちにあいそう…
ヌルハチが手出しを控えてくれても、
補給の確立をどうするかだな。
実際、朝鮮半島でも北部へ進むと補給が破綻して、撤退に追い込まれたわけだし。
遼東辺りへ進んだら、何もない荒野ばかりで、
掠奪補給もできないし。 やっぱヌルハチとの共闘ありきだね。
話はそれからだ。
もし何らかの理由で日本軍と女真族がぶつかっていたら、
共倒れになって清の建国に影響があったかもね。 ふと疑問に思ったんだけど水は大丈夫なの?
硬水と軟水の違いがあると思うんだけど。
日中戦争のときとかどうしてたんだろ?
身体が慣れるまでは下痢しながらひたすらガマン? 中国は硬水だけど、
とりあえず加熱したら大丈夫みたいだよ。
お茶かお湯で飲めばいい。
そうか。その手があったか。
でもそれだと手間もかかるし、できないこともあったろうに。
水での下痢は強烈だからなぁ・・・orz >>208-209
秀吉は東亜皇帝と名乗り、中国を支配して長となり
後陽成天皇に中国国土の一部を献上、
良仁親王を日本の天皇とし秀次を関白に任命して治めさせるつもりだったらしい。 >>217 前から気になってたんだが。
中国を支配したら国号はどうする積もりだったんかなー。「東亜」なん?
倭は字が良くないから「和」とか、「豊」とか。それとも「日」?
和に「大」付けたら「大和」なんで丁度イイと思うんだけど (笑) 国号は調べてみなきゃわからんが、東亜皇帝って仮の尊号だったらしい。 清の偉かったとこは、
明の最後の皇帝の葬儀を行ったりして
明の支配システムを継承したこと。 漢民族は他民族にレイプされながらもレイプした民族を吸収して勢力を拡大していった民族 >>220
李自成に滅ぼされた崇禎帝の仇を、明の遺臣に代わって討ったって形にしたものね。
こうすると、明の旧臣たちも帰順しやすかっただろうし。 東亜皇帝秀吉の命によって
朝鮮国王はモンゴルか蝦夷の一部を与えられ転封
石高は7万石ニダ 日本に逆らったのだから、朝鮮国王は逆さ磔で公開処刑。 朝鮮の宣祖王も、漢城で籠城でもしてくれれば、
靖康の変みたいにできたかも知れないな。
国王の身柄を押さえて人質にし、朝鮮の朝廷を統制下に置く。
でも朝鮮の場合、国王を人質にってどれぐらい有効だったんだろう。
廃された王も2人いるし。 いくら徳川家康でも素直に従うかな?
まだ関東は、東海の隣だからよかっただろうけど。 秀吉にしたら、徳川家康を外征の主力とした場合、
大陸征服が上手くいった時に、広大な領土を与えねばならず、ますます力をつけさせてしまいかねないので、
外征には子飼いの武将たちを主力とした。 しかしそれが、裏目に出て、
秀吉死後、戦力を温存した家康(直属軍4万)が謀反を起こし、
えらいことになった。 「いずれは明も朝鮮も敵にまわる。関白秀吉なる倭国の王はやがて兵を退こう」
「倭は押しておりますが・・・」
「大義なき戦は続かぬ」
浅田次郎『中原の虹』、ヌルハチとダイシャン(だったと思う)の会話。うろ覚え。 >>232
明確な謀反とは言いがたいな。
家康は一応は豊臣家の権威を盾に動いたわけだし、
賊軍扱いはできない。 しかし、中国に日本による政権を作ることが出来ても、
どっちみち、反乱を抑えきることが出来ず滅亡、
たとえ、維持できても、日本国内の政治に掛けなければならないエネルギーを
大陸での政権維持に取られて疲弊化し、
その後、本格的になったヨーロッパの帝国主義の攻勢に耐えられず、
日本も植民地にされた・・・という可能性はないかね? >>223
考えりゃ…
中国史って太陽政策の歴史なんだよなw 植民地化?鎖国してなかったら銃火器の開発が進んだだろうから
その点の危うさは大したことないだろう、大陸に領土を持てば
造船技術も発達しただろうし
半ば中国人化というのが一番怖い >>237
ああ、そうだな。
大陸に領土を持てば、日本国内のみはともかくも
東アジア全体としては生産性が上がったかもしれないな。
でも、その場合、戦国時代が終わって国内の安定や生産性を高めなければ
ならない時期に、人材やその他を大陸経営にとられて日本国内は衰退、
中国化した日系中国政権に日本が吸収され・・・なんて事になったかも・・・ どっちにしろヌルハチに全滅されたのがオチ。
日本軍は後金軍よりはるかに軍は弱くて
その兵も弱兵である。
と、明の司令官自らが腹立たしげに認めているし
後金自体が日本軍を弱し、と軽んじていたぐらいだからな。
清の強さを考えれば、清の騎兵軍の前にあっさり全滅し
日本の武士も北方騎馬民族の軍の前には弱いことをさらけだしただけだろ。
数分の一の清の軍隊の前に敗れ去る可能性があったから
徳川日本も清に恐怖していたし朝鮮や台湾に結局援軍を送らなかったわけだから。
>>240
やたら清が強いように書いてるけど、モンゴルの時代とは武器が違ってるんだ。
明が火器を使用して女真には明と戦うことは乾坤一擲の大勝負だったんだよ。 いっそのこと、明と結んで朝鮮と女真を討つのは?
大陸に足掛かりを作れるしいいんじゃね?
無理だよな、やっぱ…
>>242
無理も糞も、前提からして滅茶苦茶。
明が朝鮮を攻める道理もメリットも無い。
んな、紅巾党の時代じゃあるまいし。 既に東アジア世界で冊封体制を確立している明が、
日本と手を組んでそんなことする必要がないからねえ。 南蛮、ポルトガルやスペインと手を組むぐらいかな。
こちらの方がまだ現実味があるだろう。 >>245
明の乞師って朱舜水や鄭成功の私的なもので、
民国政府の正式なものではなかったの? >248
このスレが話題にしてる時期と情勢が全然違うじゃん。
それと、その当時に明政府を名乗ってるのは清に駆逐された亡命政権で
しかも各地に似たような亡命政権が他にもあって内ゲバしてるわけで
「正式な物」であることに大した意味は無い。 無理。前線の戦力は指令部と補給拠点からの距離の二乗に反比例する >>247
そもそもポルトガルの様な小国が領土拡大しまくってたのに触発されて
明を征服しようと秀吉は考えだけどね もっと征服しやすそうなとこ狙った方が良かったんじゃね?
オーストラリアとか。 秀吉の統治方法じゃ不可能だよな。
国内にあんだけ独自の勢力残して、中国制圧なんて無理だよ。
信長ならチャンスはあったと思うけどね。
信長の場合、本能寺の変を乗り切っても再び謀反を起こされそうなので、
肝心の国内統一に手間取ってしまう可能性がある。
更に結局のところ、秀吉と使う戦力は同じわけで、
あまり変わらない結果となった可能性が高いと思われる。
どうも、秀吉は駄目だったけど、信長ならできただろう論は根拠に欠ける気がする。 >>249
じゃあ、明に援軍を送って、めでたく清を追い払うことが出来ても、
約束の領地割譲はナシにされてしまう可能性もあったわけだ
>>256
約束はしていても、明朝が国土を回復した後は、
少なくとも本土に日本の領土ができるのはすごく嫌がるだろうね。
何とか領土の割譲は、なしにするか、辺境の領土にし、
代わりに歳幇を支払うような形で処理したがると思う。 領地を割譲させるなら、豊かで、かつ日本とも連絡が取りやすい、
江南の江蘇、浙江、福建のあたりだろうけど、
そこは明が一番割譲を嫌がりそうな地域だ。 「日本による台湾と琉球の支配権を認める」ぐらいの内容でしょ 日本を東夷扱いしてる中華思想の国が領土割譲や台湾・琉球の支配権を認めるとは思えないし
なんだかんだ言って約束を反古にするはず 約束を反古にするのは中華王朝の常套手段なんだよね
野蛮人相手の約束は守る必要がないって
で、後で必ず滅亡への道をたどると・・・ ifになるので、できたといえばできたしできなかったと言えばできなかった。
歴史ってのはそんなもんだ。
ちなみに、朝鮮出兵に関しては形式的だが日本の勝利ではある。
内容はアレだが、明が、中華思想の国が講和した。
アレな内容だが、日本の主張を認めたわけだ。
明が勝利国なら、逆に歳幣や賠償を求めただろうしね。
>>261
常套手段と云えば夷を以て夷を制すもそうだしな
明と手を結び女真族を倒すにしても
結局、明にいい様に利用されるに違いないな日本軍 やっぱ女真と結んで明を撃破後、朝鮮・琉球・台湾をもらうしかないんじゃない?
中国奥深くまで侵攻して占領なんて、20世紀の日本軍でもきつい。
少なくとも朝鮮出兵勃発時から秀吉が死ぬまでには、不可能。
でも女真と結ぶったって、コネもなさそうだしね。
あっち側には、メリットがなさそうだし…
もう少し後のヌルハチが動き出し、明が反乱で苦しんでた頃なら違う展開があったかもね。 秀吉が戦争中死んでなかったら今韓国とか北朝鮮ないからな
>>254
いやまあ信長は謀叛にあったんだろうけど、信長なら国内勢力根こそぎ踏み潰してた
だろうから、秀吉のように国内諸侯残しまくりの統治形態よりは外に向けて動き易いし、
不満が出ても対処しやすいだろうと。
国内の統治形態の話ね。 信長は謀叛のリスクは常に抱えてそうだけど、本能寺に少数で
泊まる無防備のが駄目だよね。 >>264
あの時点のヌルハチの勢力はまだまだ小さいし、
日本と手を組んで……とかそういうことはできなかったんじゃないかな。
下手に動いて明に反抗したら、即座に潰されるんじゃないか。
明は直接叩かなくても、競合部族を煽る手もあるんだし。
やはりオランダやイギリスの様に貿易主体でいくべきだったな。
もしくは、あいつら新教国と手を組んでルソンを侵略するのはどうだろう? 例えばもう少し後の、明が朝鮮にとてもじゃないが援軍を送ることができない頃に
朝鮮出兵があったらどうなったんだろうね?
朝鮮は藁をもつかむ思いで、女真あたりに援軍を頼んだだろうか?
>>260
宋代に遼の華北支配認めてるし、いくら中華思想と言えど
現実には叶わないんじゃないか
まして台湾・琉球なんぞ彼らから見れば化外の地だし
もし日本大活躍で女真防いだとしたら、割譲の可能性自体はあったと思う
でもやっぱり一番可能性高いのは、反故だわな >>271
>宋代に遼の華北支配認めてるし、
でもね遼の華北支配を認めたのは宋が極端な文尊武卑政策を執ったが為に
武力で遼に太刀打ち出来なかった訳で、
宋は遼と屈辱的な講和を結ばざる得ない状態だったんだよ。
仰る通りに所詮は台湾・琉球なんぞ化外の地だし、
褒賞として割譲の可能性自体はあったとしても
所詮は夷狄のくせにと反故にされる可能性大だろうねw
夷を以て夷を制すが中華政権の昔からの常套手段だし、
日本なんか女真族を駆逐する為の道具ぐらいにしか思ってないだろうね。 日本から長躯北京を陥れるなんて無理だろう。
朝鮮を確実に支配して拠点となる基地をつくらないといかん。
そして女真と手を結び、じっくり機会をまつ。
だが朝鮮支配すらままならなかったわけだから結局無理か
とりあえず朝鮮を占領して数十年間かけて統治を確立させた上で、
その間に女真族と交流を持っておかないとな。
何も知らずにのこのこ出かけたら、いいように利用されるだけ。 そういう地道な方策を採ると秀吉が死んじまうのがな。 半島南部の割譲を受けても、維持が死ぬほど大変そうだね >>276
常に北の大陸からの侵攻に気を張らなきゃならんからな
あの時代の航海技術なら本土までは攻めてこられないだろうが
逆にこっちから打って出ることも難しそうだしな 半島南部の領土を維持するために国力を消耗させられそうだな。
半島から難民も押し寄せそうだし。 王朝はたてれただろうね。
ただし、統一王朝ではないね。
日本が明本土に侵入した時点で他異民族もこぞって侵入する
女真はじめオイラート・タタール・タングートといるしねえ。
五胡十六国や五代十国状態
異民族政権乱立ってところでしょう。
盛り上がっていいじゃない
やっぱ戦乱の世でこそ英雄が活躍するわけだからな しかし、清には惨敗したであろう日本軍が
わざわざ手を結ぶことを選択するかなあ。
最強女真だぜ。
騎馬民族を甘く見過ぎてないか。おまいら でもあの時代なら騎馬ってそろそろ斜陽なんじゃない? 騎馬に対する鉄砲(や大砲?)の相性ってどんな感じ? そもそも清に惨敗したであろうっていうか、
一応歴史上日本は一度たりとも女真には遅れはとっていないが。
・刀伊の入寇
・元寇(女真族がかなり多く加わっている。指揮官もいる)
・朝鮮出兵(加藤清正が女真族の一隊と交戦。撃破)
・日清戦争
・満州国 そこら辺と比較するのはどうなんだろ…
> ・朝鮮出兵(加藤清正が女真族の一隊と交戦。撃破)
これはちょっと気になるけど もう、明末くらいになってくると中国でも火器を中心とした武装で
昔みたいに騎馬民族が楽々中国に侵略できるほどでもないのだが。
そもそも、ヌルハチ達は乾坤一擲の勝負で明に戦いを挑んだんだよ。
国力は落ちていたとはいえさすがに明。
火器中心に呉三桂が関所を守っていたじゃないか。
当時の日本軍は戦国時代の流れを汲み軍事力では騎馬民族ごときには引けを取らないと思うが。
ヌルハチは、サルフの戦いで、
明軍の火器の威力を削ぐような戦い方で勝利を収めている。
長篠の戦いの逆のようなものか。
後で大砲にやられちゃったけど。 >>285
> ・朝鮮出兵(加藤清正が女真族の一隊と交戦。撃破)
これって出典は何? >>286 >>285
オランカイ 加藤清正 でググレ
>>287
つかさ、火器中心なわけねーだろ。
その火器ってのが、ポルトガル産とかフランス産の大砲なわけだが。
ヌルハチも外国産の大砲により戦死。
その大砲に官職あたえてるぐらいだからな。
武具についても、日本産のなぎなたとか輸入してるし。
正直、武具や大砲などの面ではかなり劣っている。
要は中国を武力で占領なんて絶対無理だってことだ。
日中戦争でも日本が圧倒的に力が上だったが無理だった。
清のように上手いことやって前王朝の後継者になる。
支配体制をそっくり乗っ取る。これしかないね
ヌルハチ天才杉 >>291
>オランカイ 加藤清正 でググレ
ググれって、ネットがソースですか?(苦笑) >>292
ヌルハチの代で明は滅びていませんが。
正確の意味での清もありませんが。
>>291
>ググレ
あまりにも当たり前すぎて答える気にならないって意味だが
腐るほど出てくるんじゃねえの?
「オランカイ 鍋島直茂」でもググレばでるんじゃねえのww
ヌルハチ一代でも駄目だったのに、年老いた秀吉が死ぬまでに明を滅ぼすのは不可能でしょ。
朝鮮や琉球を占領して、地方王朝を建てるしかないんじゃない?
王朝に拘るなら。 当たり前過ぎてって、もしかして…
オランカイに進入=女真族と交戦。
だと思ってる。って落ちは無しでお願いします。 つうか、何も知らないくせに生意気言うヤツムカつくんだが。
どの史料か教えてください。って教えを請うのは分かるけどさ。
まぁ、いいよ。
スレ覗かなきゃいいわけだしな。
このスレの趣旨も中国女真マンセー的な物を求めてるようだしな。
自分の巣に戻るわ。世界史板とはレベルが違うしな。
ばいばい。 何だか変な方向に話が進んでいるけど、
加藤清正とオランカイの戦いは、記録が少ないし、
そもそも日本と女真の全面激突でもないので、参考にしにくいのでは。
少なくとも日本側は、加藤清正の一部隊だし、
女真の側も恐らくは、野人女真のどれかの部族だっただろうから、
ヌルハチがいた建州女真や海西女真と単純に同じとは扱えない。
そもそも秀吉在世の時点で、戦うなら、日本の主敵は女真ではなく、明。
298みたいな人は中国史で言うと誰に当たりますかネ! ヌルハチにはホン・タイジという優秀な二代目がいた
秀忠もホン・タイジに及ばないとはいえ、幕藩体制の基礎を作った
子孫に恵まれるのは大事なことだね。
子供すら満足に作れない秀吉はその程度の器だったってこった 仮にうまい具合に王朝を立てれたとしても
秀吉が死んだらあっさり崩壊するだろうな 征服王朝なんて作ったら日本が中華文化圏に入って終了。
満州民族も清になってから名前を中華風にして
文字も漢字一筋。
自倭乱朝鮮七載, 喪師数十万, 餉数百万, 中朝与属国無勝算, 至関白 死而禍始息 まず中国を占領したとしても、現地の行政システムを活用できるかどうか。
大名制のようなものをそのまま持ち込めば、目も当てられないことになるだろう。 ↑黒田如水なら現地の行政システムを活用できるってことね >>311
言っておくが日本と中国社会は対照的な社会構造なんだぞ。
日本には村というものがあって自律的な集団として年貢などを納めているが
中国社会の村にはそんなものはないし、村の構成員になるには資格もない。
行政システムにしてもショリといって国家の役人でないものが年貢などの徴収に当たっている。
社会構造が違うから所詮は無理な話だな。 日本側が中国の慣習にできる限り沿った支配システムを作る必要があるけど、
果たして当時の日本人にそんなことができたかどうか。 明側の認識が「オレ達と属国をあわせても勝算なかった」だとしても
現実にどうだったかとはまた別問題じゃあ?
日本の場合、政権の安定度がそもそも怪しい 秀吉死後、事実上2年で豊臣政権は崩壊しているしねえ。 豊臣秀吉が明を征服したとして、国号は日本のまま?
何だか、日本、朝鮮、明にそれぞれ関白を置くような構想があったようだけど。 天皇を大都(=北京)に移らせて、
自らは寧波に拠点を構えるという構想だったらしいね。
寧波は、日明貿易の関係で馴染みがあったし、
日本と大陸との交通の中間点にあって便利という発想だったのかな。
寧波は、日本との連絡には便利だろうけど、
大陸を支配する拠点としてはどうだろうか?
江南に置かれた国都は金陵(南京)か、杭州になるかね。
寧波は位置的に、大陸を統治する拠点としてはかなり不便じゃないかな。
寧波の位置だと北側に海が広がることになるし、
国都としての広がりを確保することも難しそう。 満州を占領すれば良かったんだな
満州は日本の生命線
そうすりゃ明が満州に滅ぼされて清になることも無い この当時の満州(遼東)だと、ただの荒野じゃないかな。
人口もほとんどいないようだし、
占領したらしたらで、一から開拓を進めないと。 >>321
地下資源
石炭に鉄鉱石がいっぱいだよ〜
さあ北九州に高炉を作ろう こうして黒田如水の作った八幡製鉄所は秀吉政権の(以下ry この当時なら、領土の魅力は、
いかにたくさんの農作物、特に米が作れるか。
あるいは金や銀の採掘ができるかだろうな。
その意味では、江南、とりわけ蘇州杭州周辺が一番おいしそう。 南宋は臨安(杭州)に都を置いたけど、
あれは江寧(南京)だと、金との国境に近すぎるからだよね。
臨安自体、仮の都という扱いだったようだし。 >>327
全国政権の国都としての、南京はなかなかいい。
経済の中心である江南を直接押さえられるし。
ただ、北方の軍事力の統制に不安があって、明朝も北京に遷都した。
南朝政権の国都としての南京は、淮河あたりを国境線とした場合、
ちょっと防衛上の不安を覚えるね。 台湾を占領開拓して補給基地化し、
そこを拠点に福建の沿岸あたりからじわじわと征服していくのはどうかな?
ちょっと時間かかるけど。 秀吉一代では征服できないだろうな
時間をかけれるなら、蝦夷や琉球、南方へも進出して面白いことになったかも やっぱ豊臣政権の場合は秀吉の年齢&後継者問題とか家康の存在のせいで
時間が味方をしてくれないってのがネックだよな。 確か長浜城時代に息子が生まれていたんじゃなかったかな。
それが長生きしていればなあ。 まずは日本側の団結が必要。
続いて、大軍を渡航させる外征水軍が必要。
更に、大陸を駆け巡ることができる機動力のある騎兵部隊が欲しい。 じゃあ逆にあるものをなくすか
万里の長城をなくす
満州族の強さを減らす
明の民を減らす
明の軍人が不忠義
これでどうだ? いよいよ明日か
秀吉が何百年ぶりかに天下を取るのは >>338
あまりなくしすぎると、侵略する魅力がなくなるなw 日本の戦国時代って、狭い視野の中で語られることが多いね。
世界史教科書的に書けば、信長秀吉も出る幕がないんじゃない。
こんな記述かな。
「日本では戦乱が続いていたが16世紀終わりに統一国家が出来た」これで戦国時代の記述は終わり。
朝鮮の役くらいは出ると思う
明、朝鮮半島、秀吉、家康だけでさらっと終わる 海外の世界史教科書で日本のことがどの程度書かれているかは興味があるな 戦国時代を手放しに世界最強という気はないが世界に通用しないとは限らないけどな
結局世界は相手にしてないんだから判断できない >>343
まあ、それぐらいしか書くことないからなあ。
朝鮮の役は、16世紀の世界で起きた最大の武力衝突という評価もあるようだけど。
マカオとかフィリピンに攻め込んでいたら、
また変わったかも。 明と戦うより、ルソン攻略の方が楽なんじゃないかと思うんだけどな うっかり少しでも成功したら
満州事変みたいなもんが 何百年も早く起こるわけだろ
・・・そして結果はご存じの通り
失敗して本当に良かった >>346
単純に戦闘力、軍事力だけならかなりのものだっただろうけど、
戦争、とりわけ外征はそれだけじゃ勝てないんだよね。
戦国期の日本の都市人口
京都 10万人
博多、堺 2〜3万人
らすい 外征特に海を渡るのは近代以前では勝つのはまず難しいよな
もし日本が大陸と陸続きだったら・・・・
今頃中国と朝鮮の植民地でオワタ >>353
朝鮮半島と似たような運命になったかもね。 日本の戦国時代、安土桃山時代に動員された兵力数って相当なものだけど、
その中での戦闘員の比率とかが気になるな。
そのへんをはっきりさせないと単純に外国軍の兵力と比較できないし。 てか何百年経って腐った王朝を倒したヌルハチと秀吉の時代を比べるのに無理があると思うけどな 兵力数なら、戦国期日本は、オスマン朝、ムガール帝国、明と並ぶ規模。
しかも鉄砲が早く普及し、戦闘力の面でもかなりのレベルにあったと思う。
ただ、基本的に騎兵戦力に欠けていたし、
兵站等の分野で構造的に長距離の遠征には向いていなかったんじゃないかと思う。
だからそういった大陸国家を相手に、局地的な戦闘では勝てても、
戦争に勝つことは難しかったんじゃないかと思う。 戦国時代の軍隊は、補給部隊たる輜重部隊の比率がかなり高かったみたいだからね。
厳密な意味での正規兵力だと半減するんじゃない? 輜重部隊は普段は戦闘に従事しないけど、
追撃戦なんかの時は戦いに加わるからなあ。
扱いがややこしい。 大陸は水が悪いから、まず間違いなく疫病には悩まされるだろうな。
水は沸かしてから飲むという対策が徹底するまでに、
かなりの戦力を損耗するはず。 水沸かして飲むなんて当時の日本でもデフォでしょ
江戸時代の上水道だって沸かしてから飲んでたもの ん〜もし中国を征服して、日明二重帝国成立なんてネタも面白そうだけど
明らかにその後百年戦争になるような・・・
それに遊牧民じゃないんで満洲はもとより、蒙古、チベットも征服できないなぁ〜
そういえば、日本人はチョンマゲを強制しているのかな? >>363
日本が仮に中国大陸を征服したとして、
当然、支配階級=武士という体制を持ち込みたがると思われる。
>>364
韓国は好きだねえ、そういうことやるの。 >>365
ムリムリ、あの中国と言う大地を支配するにはあそこ独自のルールを尊重しないとだめ
あの清朝ですら譲歩したのに 宇喜多とか小西とか400年前に落ちぶれた本物かどうか怪しいの引っ張りだしてきて島津をだせないあたりで捏造くささを感じるな >>366
清朝の中国征服は、実質的に明朝と合体したような面があるのではないかと思える。 >>369
確かにそういう面もある
弁髪やチャイナドレスなんかも中国の風習でなく、満洲族の風習だったけど中国に溶け込んでいる
でもそのようになるまで、200年以上掛かったし、満洲族も物凄く注意を払っていた
雍正帝や康熙帝による思想弾圧や弁髪の強制などの強攻策も行ったけど
一方で様々な面で漢民族に気を使っていた
正直、日本人が清朝と同じように振舞えることが出来るとは思えない
もし武士階級による支配なんて持ち出したら、それこそ大反発で中国支配なんて終焉するだろう
中国じゃ武官よりも文官のほうが圧倒的に優位に立っているのに
官僚が猛反発する。中国支配の手足となる官僚が従わなければ中国支配なんて夢のまた夢
もし中国を支配したければ、清朝が中国と遊牧世界を別に扱った如く、日本と中国を別個に扱わなければいけない >>370
仮に日本が中国を征服した場合は、モンゴルがやったように、
沿岸の一部を直接支配、残りの大半を間接支配のような形になるかな?
多数派の漢人に対する少数派の征服民族という構図を変えられない以上は、
どうしようもないね。 直接統治は難しいだろうね。
植民地統治のような形になるだろうし、
いずれ反乱が起こって撤退させられるのは目に見えている。
北元のように。 要は、日本が中国大陸を征服した場合、
清より元に近い支配体制になる可能性が高いということですか。
そう言えば秀吉も、日本、朝鮮、明にそれぞれ関白を置くようなことを言っていたようだし。 日中戦争で軍事力と経済力で優位に立ちつつあった新興大日本帝国が、
国民党と共産党の抵抗で補給線を絶たれ、結局十年以上も全土を支配出来なかった。
広大な土地と多様な民族を統治する術は、今も昔も日本にはない。
逆説的に考えるなら、広大な大陸統治で日本国内が疎かになり疲弊したかも。
負けて運が良かった。中国は日本や韓国では到底手に負えない。 あの大陸は、人間をおとしめる特殊な文明を持っている。
結局、最後は堕落する。 秀吉自身には明の臣下だという自覚はあったがな。
希望どおり勘合貿易復活が認められて和平交渉がまとまっていれば、
順義王アルタン・ハンのように冊封を受け朝貢していただろう。 いくつもの板で、誰にも相手にされないコピペを繰り返す人間の脳味噌って可哀想 >>378
秀吉って、プライドよりも実利を優先する人間のように思えるね。
明のお遊びに付き合えば大儲けできるんだし。 でもあまり表立って明への臣従を明らかにするのはまずいんじゃない?
国内の大名への統制という観点からは。
明の臣下となれば、秀吉の威信の低下は避けられないと思う。 足利義満の日本国王への明への臣従という事実は、
日本国内の有力者、大名や朝廷にはどれぐらい認知されていたんだろうか。 勘合貿易で大内と細川が争ったってぐらいだから有力大名は知ってたんじゃね 知られてはいても、
足利義満が「俺は大明国の皇帝陛下に日本国王にしてもらったぜ。どうだすごいだろ」
なんて言うことはなかったと思う。 一応は屈辱的なことだとは捉えられていたんじゃないの?
後で朝貢貿易やめちゃっているし。 モンゴルによる中国征服の方が参考になるな。
ただ、それには五代数十年を要しているわけだけど。 秀吉が80歳過ぎまで生きれたら朝鮮くらいは取れたよ。
もちろん秀頼も成人し家康などに天下も奪われてなかった。 >>388
もし朝鮮を取ってたら、その後の朝鮮は史実の日本統治時代のように
日本の主導で発展してたんだろうか。 >>389
朝鮮を統治すると言うことは、大陸からの侵攻にも対処しないといけないわけで、
それが重荷となって、いずれかの段階で撤退を余儀なくされた可能性が高い。 一説には秀吉は朝鮮を宗氏の属国程度にしか考えてなかったようだね。
実際、宗氏はそのように欺いてたし。
現実は朝鮮は明の属国で、宗氏は朝鮮から属国扱いされてて
まるでアベコベなのだが、そういう基本的な国際情勢すら認識してなかったというのは
秀吉のような聡明な人物としては考え難い。
よほど年くって呆けてたか、有頂天になりすぎてて慢心しすぎてたんだろうね。
信長が天下を取って秀吉を朝鮮征伐に向かわせてたら、もっと詳細に情報分析をして
万全な態勢で統治を行なった事も想像に難くない。
少なくとも捕虜にした王子を最大限有効に使って、彼等のうちの一人に王位を継がせて
朝鮮を間接統治するくらいの事は当然した(播磨の名目上の君主を宇喜多秀家としてたように) この手の話でよく出てくる、
信長ならきっとこうしていたという類の話は、実のところ、
ほとんど希望的観測だと思う。
信長天才論?みたいなのが横行して、世間で過大に評価され過ぎている感があるし。
もちろん、信長がやっていたら成功させた可能性もあるわけだけど、
それと同等に、信長がやっていたら秀吉以上の失敗をした可能性もあったと思う。
実際のところ、信長は本能寺で死んじゃって、推測するしかないし。
大軍勢を動かすには兵糧が掛かる
雪が降れば大軍勢は動かせない
どう考えても秀吉一代で征服するなんて無理だ >>393
北朝鮮〜満州じゃ雪はそこまで降らんぞ。
日本の山地や北国でドカ雪が降るのは、日本列島が湿気たっぷりだから。
大陸は乾燥してるから、いくら寒かろうとドカ雪が降ったりすることはない。
(だから、賤ヶ岳で柴田勝家が足止めを食った、というのに類する話も無い。)
ただ、もちろん寒さ自体はうんと厳しいので、行軍の大きな妨げにはなるが。 確かに雪はほとんどないね。
外国からしたら、越後の上杉家とかの方が驚異的だろう。
ただ満州の冬の気温からして、
当時の日本軍が行ったら、防寒ができていないだろうから、
戦いどころじゃなくなると思う。
軍事行動は夏季に限定される。 秀吉は中国まで攻めようと考えずに南朝鮮だけ位を確実に植民地化して
後は、樺太&千島方面から大陸進出をしていれば、ロシアが不当に
占拠しているウラル山脈から東側の亜細亜の領土は正当に領有しているべき
日本人の土地になっていただろうな。
朝鮮の城って城攻めに慣れた日本軍は余裕で落とせたんでしょ
逆に日本軍が築いた倭城は明軍でもひとつも落とせなかったとか >>399
おいおい、加藤清正が朝鮮式の垂直にそびえ立つ石垣を参考にして熊本城を築いたことをまさかしらんとはいわせんぞ。
日本の戦国期の城は主に石垣ではなくて土塁。
朝鮮は中国同様の都城方式。 大陸の城と日本の城は根本的に構造が違うから、単純に比べられない。
北京城クラスの都城に、戦国装備の日本軍が攻めかかったらどうなるか、
一度見てみたいね。 風土もそうだが、物資の輸送が困難な日本軍が勝てるとは到底思えないよ
当時、海を越えて遠征するなんて果てしなく無謀な事だったわけだし 現実的には日本の数十万の軍兵を朝鮮半島からの年貢で養うというのが明侵略の大前提になる。
しかし半島の百姓を味方に付けるどころか逆に敵にしてしまいゲリラ戦をされるようじゃ
全く勝ち目なんかなくなってた。
また和議で王子を返した事や一時大半の兵士を撤退させた事は大失敗。
その時に親日派は大量に殺され兵糧は明軍に徹底して奪われ焦土戦術で多くの家屋や田畑が焦土化し
日本軍を養える土地を明と朝鮮王朝は残さなかった。 明本国に直接攻め入っても、奴らは平気で焦土戦術を使うからな。 元がどういう手で朝鮮を支配したのか知らんがそのやりかたで支配するとしても
明が支援してるうちは不可能なんだろうな 津本陽の小説では資料提示してあったけど黒田長政や安国寺恵瓊は統治のために
日本語教育(かな文字教育)を熱心に行い、明が漢城を奪還した際には倭語が
日常用語として既に広まっており宣祖は「倭語禁止令」を出したそうだ。
しかし、そんな例はむしろ稀な例でほとんどの戦国大名は朝鮮庶民との意思の疎通には重きをおかず
ろくな通訳も用意せず、上からの締め付けも弱いせいで、各大名の配下は乱暴狼藉、強盗、殺人を堂々と行い
大名は大名で歩けない朝鮮庶民はその場で惨殺し、歩ける者は名護屋城に送ってすぐに奴隷市場で換金したそうだ。
これでは朝鮮を統治するのは無理だよな。 モンゴル人も宋朝を滅ぼしたのはフビライの代であって、
一代では宋朝を滅ぼせなかったんだよな。
少なくとも有力な後継者がいないと秀吉は事業を達成できなかっただろう。
秀吉にはまず寿命が無かった。
ヌルハチは清朝の皇帝の扱いを受けているが、
ヌルハチは清の皇帝に即位した事はない。
ヌルハチは金を建国して金の皇帝に即位したまで。
どうあれ秀吉ができる事は満州に拠点を確保できる程度。
寿命が足りないし秀吉では王朝を開けない 明は朝鮮半島へ陸続き。
日本は朝鮮半島とは対馬海峡を隔てている。
この差は絶望的なまでに大きい。 元寇で元が侵略したときにも中国・朝鮮と日本は海隔てたんだけど、その辺はどうなの? だから水際で完膚なきまでに日本軍にやられてるじゃん
それ考えたら敵領土奥地まで荒らしまわった戦国日本軍は強い
というか海岸に防衛ラインをしいてない朝鮮がアホというべき >>410
元寇では完膚無きまでにやられてないだろ。元王朝は。
集団戦術の元と一騎打ちの日本じゃ勝負にならんし。
物量ともに違った。
台風のおかげで撤退しただけだ。 >>411
釣りじゃなかったら気の毒な人だ・・・・ しかし、なんで日本軍は明軍に野戦で完敗したのだろう
兵站が長く伸びすぎたのは双方同じなのに。
兵力は日本軍有利、兵の精強さは圧倒的に日本、火縄銃の性能も日本
将も(おそらくは)日本史上もっとも戦慣れした時代の武将たち
騎兵の存在や小西行長の失策だけでは説明がつかないような……
中国の兵法や陣形は地味だが有効だったってことかね
(『三国志縦横断』って本には戦のやり方が違うだけといっていたが、
これは素人の意見。個人戦と集団戦闘との戦いでは前者の方が表面上は派手だが、
実は後者の方が戦果をあげているということは多々ある)
となると、当時は
清の騎兵>明の集団戦>日本の侍集団 は決定的だな。
だとすれば、このスレの仮定自体が無意味ってことでいいのかな 明軍と言っても均質じゃないからな。
指揮官の能力次第で大きく変わる構造。 >>414
理由は数多い
日本軍が寄り合い所帯で統一した指揮系統に入ってなかった事が第一
二番目は日本の緒将や兵士の士気がふるってなかった事
三番目は朝鮮王朝と民衆を味方につけれなかった事
四番目は朝鮮対陣の日本軍が諜報活動がおろそかだった事
五番目は兵站に海峡を含んでた事
それらの要素の全てが絡み合って日本がやや劣勢だったわけで
日本軍が明軍より弱かったわけでは全然ない。
>>416
明は軍隊は弱いし、指揮官は科挙官僚がなってるし、指揮統率も一枚岩ではなかったし、
遠征で日本よりも士気が高いとはとても思えないし。。
結局日本は弱かったんだよ。
NEWS23「熊本城は、朝鮮人が作った」
1 :マンセー名無しさん:2007/05/29(火) 10:52:30 ID:MNzkCCwF
NEWS23の特集「日韓学生の交流」
韓国の学生が、熊本城を取材。
「韓国では、熊本城は、加藤清正が朝鮮から連れてきた朝鮮人らに作らせたと教わるのに日本人が何も知らないのに腹が立った。」と発言。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/korea/1180403550/
熊本城と朝鮮の人々の関わりを日本人は知っていますか?
http://uproda11.2ch-library.com/src/117909.bmp
私は朝鮮から連れて来られた人たちが熊本城を作ったと学びました
だからこのような気持ちになるんでしょう
http://uproda11.2ch-library.com/src/117908.bmp >>414
まず明軍に完敗した野戦とはどれのこと?kwsk 江戸城を作ったのは大工さんとか言ってる厨房ぐらいアホだな 銃を上手く使う日本軍に対して大砲の運用に優れてたのが明軍ってな話は聞いたことがあるな。 >>416
まあそれでも個々の戦は大体勝ってるみたいだけどな。
でも、ただ戦で勝つだけじゃ他民族の国家を支配することはできないもんな フランスやアメリカがベトナムに負けたり
オランダがインドネシアに負けたり
米軍滞在中のアフガンでオマル率いるタリバンが現在も連戦連勝で勢力伸ばしてたり
イラクにいくら増兵してもゲリラ戦がますます活発化してるのと似てるかもね。 日本側が大敗したと言われるヘキテイカンの戦いも
小西行長らがろくに諜報活動せず間近に大軍が来て初めて気付いたとか
信じられないチョンボを数多くしたらしいね。
明軍の川を隔てて行軍してるわけだから、きちんと諜報活動してれば
渡河の最中を襲うなり、そこに防衛線を敷くなり、いくらでも戦い方はあったろう。 すまん。全然ヘキテイカンじゃなかった。逆にそこでは日本軍が勝ってたんだ。
戦の名を忘れた。逝きますね 島津義弘は7000人の兵で
37000〜80000ぐらいの明兵をぬっ殺したとか >>425
碧蹄館の戦いは、最初に平壌にいた小西行長が明と和睦交渉をしているつもりで、
油断をしていたところを襲われて慌てて退却。
が、明軍も相手が退却したので調子に乗って攻めかかったら、
碧蹄館の戦いで痛い目に遭わされた感じ。
どっちも間抜けに見えるけど、現実の戦いなんてそんなものなのかもね。
>>427
泗川の戦いは島津軍が劣勢にもかかわらず大勝したのは事実だろうけど、
明の大軍二十万とか、八万人を討ったとかになるとさすがに誇張だと思う。
八万人戦死は明側の報告らしいけど、まじめに実数を報告する武官なんているわけないだろうし。
でも自軍の戦死者数をわざわざ多く報告するもんだろうかね 兵士を連れてく時は兵士数を多目に報告して糧食や軍費を余分に受け取り
逆に負けた時は少な目に報告するのは常識。
(赤城山に立てこもる楠木正成を幕府軍100万の軍勢が攻めたというのは
各地から集まった武将が連れてった兵士を幕府に多目に報告した事から起きた。
実数は1/10以下の8万人か、それ以下ではないかとも言われている) 明って戦で大敗すると責任者が処刑される場合もあるらしいからな。そりゃ捏造が横行もするよな >>429
基本的には負けた場合は、被害を少な目に報告する。
だけど、例えば戦死者に慰労金が出る場合や、
敵を強大だと言い立てて、援軍を引き出そうという意図があったり、
退却の許可を得たり、などの場合は違って来る。
この泗川の戦いの場合、明軍は戦闘に敗北はしているけど、
日本側は撤退途中だったわけで、結果的には日本軍を撃退したという格好になった。
だから、強大な敵に苦戦し、大きな損害を出したが、
頑張って撃退することに成功したと取り繕えば、過失を功績に転じることができる。
その上で、戦死した将兵に慰労金を、という話に持っていったかも知れない。
日清戦争では清の将軍(葉子長だっけ?)が戦場で死んだ兵士に与えられるはずだった給金や
軍糧をネコババして自分のモノにし、なおかつ上司や軍監への莫大なワイロとして散財し
北京の皇帝(西大后だから皇帝ではないか)に粉飾した報告を上げてたんだよね。 明代は、武官冷遇がよく言われる宋代以上に、
武官を蔑視する社会的風潮が強かったみたいだからね。
官位こそ高くても、文人からは、
まともな人間がなるものじゃないと見なされていた。
それで、世襲で武官の職を継げても、それを放り出して、
科挙を受けようとする者がたくさんいた。 戦争に勝つのなら、科挙に登用されるような一定以上の知識を持った人間の方が良い戦略を練れるだろう。
この時代の単純な戦術的勝利の蓄積は軍閥連の軋轢を生み、戦略的な勝利、ひいては戦争の勝利からは遠退いてしまう。 >>435
戦争に勝つ事より軍閥割拠の方が恐ろしいんだろ
異民族侵入をかろうじて防ぎとめる最小限の武装をして
できれば軍人には余分な戦力や権力を持たせたくないというのが本音だろうと思う。
朝鮮征伐でも明は日本に勝とうが負けようがさほど関心なんかなく
最初から講和・和平を主張し続け、逆に朝鮮王宣祖は執拗に和平反対及び日本への復讐及び侵攻を
主張し続けていた。 >>435
そうでないだろ。
科挙官僚の軍事の才能はたいしたことないだろ。
軍事の才能は天賦のもので知的水準とは関係ないだろ。
いい例は英仏100年戦争の時のフランスの将軍、デゥ・ゲクランだろう。 たまに科挙官僚出身で、軍事の才能も持ち合わせている奴が現れるところが、
また面白い。 >>438
軍事の才能とは戦略のこと?それとも戦術のこと?
曽国藩とか李鴻章が思いつくな。 袁崇煥は文官出身だよな
まあ、科挙に受かることと、軍事的な才能に相関はあまり無さそうだが
知将型のイメージはある。 日本に科挙があっても絶対に信長や秀吉は受からなかったろうな。
三成とかは受かったかもしれんが。 >>437
>>軍事の才能は天賦のもので知的水準とは関係ないだろ
才能があっても発揮できないし、教育で才能に磨きをかけなきゃ 岳飛は、まじめに科挙受験したら、受かったかな?
武官にしてはかなり教養あったようだけど、
それで他の同僚武官を見下したから、
嫌われてもいたようだけど。 中国取るより、北海道、樺太、沿海州に進出すれば良かったのにな
欧州人はズル賢いから、強い王朝がある国には戦争仕掛けず、弱い地域を植民地にしていった >435>442
そもそも科挙に受かるための勉強は
教養とか知性に磨きをかけるような物じゃねぇから。
既に学問的な名声を確立してるような大学者・詩人が
「字がきたねぇ」とか「文章表現が独特すぎて様式に当て嵌まってない」とか
そんな理由で落されるような、そういう受験なんだぜ。 >>444
北海道とか台湾を押さえればよかったと思うけど、地理的にややこしいんだよね。
台湾の場合は、島津、琉球経由になるし、
北海道は奥羽諸大名の北、
中央の豊臣家から見ると遠方に隔離された直轄地になる。
やろうと思えばいくらでも北に版図を広げられる蠣崎が松前付近から
ほとんど広げなかった点からみると当時は蝦夷地や樺太は領有しても
経済的メリットは無かったんでしょ。
台湾に関しては鄭成功からの派兵依頼に徳川家綱(酒井忠清ら)が応じて
積極介入してれば台湾を琉球のような外藩に置けた可能性は大きいと思われる。
また朱子学を信奉し親朝鮮派だった徳川綱吉が自主的に鬱陵島を朝鮮に献上したが
もし、他の将軍だったら彼の地も日本領土(天領)となっていたことだろう。
台湾は無理だと思うけど。。。
管理運営するには遠すぎる 管理運営まではむずくても
台湾を清に属さない独立勢力としておく事自体に意味があると思う。
中国・台湾が対立する状況の方が日本も清に対して外交戦術を使いやすい。
仮に朝鮮半島と揉め事が起きても台湾問題をはさんでれば一方的に日本叩きをしづらくなる。
また南蛮貿易でも薩摩が琉球を中継地として貿易路を確保してたが
それが台湾(親日国、庇護国として)まで伸びれば欧州の海洋国や東南アジアとの貿易でも日本が有利になる。 >>448
北海道は明治からの開拓でもあれだけ大変だったからね。
米も基本的には取れなかったし、
領有しようという意欲が湧かなかったんだろうな。 海産物を押さえるだけでも莫大な利益が出そうだけどな。北方は
領土拡張よりも貿易メインで世界進出を図るべきだったと思うよ 当時の海産物は保存もきかないし高級すぎて需要が見込めなかったんだと思う
少なくとも不毛で瘴癘な地に乗り込むほどの魅力はないだろう 北方はメリット無し、って事は無いだろう
少し後にロシア人が東征始めて、アラスカまで行ってるんだから
18世紀の江戸時代の学者で、カムチャッカを領有して遷都すべきだ、とか主張してた人がいたんだよね ロシア人は原住民から動物の毛皮を買ったりして、儲けてたんだよ 毛皮とか、海産物とか、当時の秀吉らの感覚からすれば、
かなり未知の商品だっただろうね。
それに進出しても、数年ではものにならないし、
数十年かけてじっくり開拓しなければならない。 ロシアは国として東征を断行したわけじゃなく
コサックを上手く利用だけだから。
ロシアは農奴制の国で貴族と農民の差が天地の差だったけど
コサックという本来は奴隷のような奴等に皇帝に忠誠を尽くせば
士族の資格を与え(武装する資格を与えられる)土地を与えるよと釣り餌を与え
コサックは競ってロシア人が行った事もない前人未踏の地へ命知らずの探検してまで
「皇帝陛下!新しい土地を見つけて参りました!」と自主的に国土を広げた。
(そのまま皇帝直属の兵士という名誉と勲章を与えられ屯田兵として国境警備と狩猟・耕作・交易にあたった。)
日本で真似するならば「えた、ひにん、水呑百姓」に
「お前等が誰も足を踏み入れた事にない土地へ行って国土を広げれば
旗本・御家人の資格を与えるぞ!」と征夷大将軍が御触れを出すようなものだ。
実際に徳川歴代将軍の誰かがそういう英断をしてれば
貧農たちが御家人になるために蝦夷、樺太、千島、シベリア、アラスカまで進出して
将軍に新国土として進呈した事は想像に難くない。
(しかし実際は国内の開拓に力を尽くし
土地を持たない百姓に未耕地を耕せば一定期間年貢免除という特約で加速的に耕作地を増やした) 江戸時代に幕府の何とかって人が、「罪人を何十人かくれれば、北方を開拓してみせる」って主張してたらしい
その人は豪傑として知られた武士だったそうだよ >>457
日本の場合は、浪人を使うことになるかな?
開拓した土地は領土してあげる、というような政策で。 どんなに領土を広げても結局は近衛や東條のようなリーダーが出て
領土は没収されてたよ。
それが歴史の大きな流れ 明治維新の元勲は賢かったが伊藤博文死後はろくな奴等が残ってなかったもんな
黒田?山縣?なんじゃそれwって感じだし。
凄い先が見えた政治力が卓越した人間が、その後の宰相になってれば
朝鮮北半分を緩衝地帯として英仏に売却して遼東半島の独、北チョンの英仏と満州のロシアが対立するよう仕向けただろうな。
イギリスとしてはロシア憎しの感情が強かったから喜んで、その干渉地帯に壕やトーチカを作って要塞化したと思うぜ。
同時に日本は、それ以上領土を広げられないが日本海の制海権だけをしっかり守り
国土保全をするのは可能だったと思う(タイ王国が自らの国土を英仏の緩衝地帯にしたのを真似たような策だけどw) まあ後世に高みから見ればいろいろ言えるだろうけど、
当時の人たちには分からないだろう。 >>463
その場合、日本のプレステージもここまで振るわなかったと思われる。
白:黄:黒とすると8:2:0くらいの配分だろうか。
少しでも非白人の取り分を増やすには、拙速でも行動あるのみだった。 日本がタイみたいな国になって、それは成功なのかね?
帝国主義戦争する側に回った事で、イギリスやドイツと同じ土俵に立てる国になったわけだし
第2次大戦の時はスペインみたいに、中立の立場を取りたかったね
それなら朝鮮、満州は独立するにしても、台湾、千島、樺太、南洋諸島は残ったはず 秀吉の言動として伝わっているものから窺う限りでは、
大陸を征服できたら、やっぱり大名制を敷くつもりだったみたいだな。 日本、中国、朝鮮にそれぞれ天皇や関白を置くようなことを口走っていたようだけど、
連合国家みたいな構想?
まあ、そこまで深く考えていたかは分からないけど。
寧波に拠点を置こうってのは、当時の日本人からしたら、
大陸の海の玄関みたいな感覚だったんだろうな。 当時の日本人からしたら中国大陸の大きさなんて想像できなかったのかも
せいぜい日本の2倍ぐらいだろとか思ってたんじゃねーの 秀吉は朝鮮の事を宗氏に服属する弱小半島程度にしか考えてなかったそうだし。
明を征服したら、国をいくつ領土してやる、
と言ってる場合の“国”ってのは州のことを指していたんだろうな。
中国大陸の場合、華北なんかでは米の取れない地域も多いけど、
そういうところを領土として与えられたら大名たちもかなり戸惑うかな? 人事圧力のはけ口として秀吉は対明戦争をせざるを得なかったと
堺屋太一らは言ってるけど、それはどうなんだろうね。
大名の過半数や親族まで全員が「明を征伐すべきだ!」と主張して
圧倒的な世論に抵抗できず秀吉が渋々戦争を仕掛けたというなら説得力があるが
実際は逆だしな・・・ >>471
実際朝鮮一国だけならあっさり占領できてたろうしな。
明軍登場までは鎧袖一触だったし 時代の機運として外征を望む声はそこそこあったみたいだよ。
大きかったのは、領地を失ってしまった浪人たちとか、
戦乱の終結で商売が挫折した鉄砲製造などの軍需産業の商人とか、
そのあたりから要望が強かったんじゃないかな。
徳川の時代になってから失業した兵たちが仕事を求めて海外に流出した数は
10万人以上になると聞いたことがあるな 中国人も色々な理由で海外で華僑作り上げて世界中で今ではチャイナタウンつくりまくりなのにその日本人たちの子孫はほとんど現地人化したよな」
日本人が同化しすぎなのか中国人が同化しなすぎなのか >>477
鎖国で本国との繋がりが断たれてしまったのが大きいんじゃないかな?
新たに人間が供給されることもなくなったわけだし。 海外流出した人間の多くが浪人なのか
それとも商人なのかは興味深いね。
俺は海外貿易などをしてた商人の方が多いと勝手に思ってる
戦うだけしか能の無い人間が東南アジア各国の日本人町で立派に生計をたてて
仕事に勤しんでたとは思いづらいからだ。 傭兵として雇われた浪人は結構多いっぽいね。
鄭成功の下にも日本人傭兵はいたっぽいし。
傭兵のスカウト業者みたいなのがいたりしたんだろうか? 商人だけだと海賊に遭遇したケースではお手上げだし
現地で日本人町を開くにも一定の自治能力としての武力は絶対必要だから
ある程度、浪人も雇われただろうね(自衛隊&警察官&用心棒?) ヨーロッパの貿易船も、日本人傭兵を使っていたらしいしね。
やり方次第では、あの時代は、傭兵の輸出でも結構稼げたかもw 倭寇をしていた連中は、文禄慶長の役にはどれぐらい参加したんだろう?
倭寇には中国人がかなりの数含まれていたはずだけど、
日本側として参加した者はいたのかな? 明朝の本体を直接倒したのは李自成だな。
でも、それまでに散々圧迫を加え、更に残党を掃討したのは清朝。 間接的という点では、秀吉もそこそこ影響は与えている明朝滅亡に。 明朝滅亡に加え、ヌルハチの勢力拡大にもある程度は寄与しているよ。
遼東にいた明軍は、朝鮮の役への対応に忙殺されて、
女真族への監視が甘くなったのだから。 ヌルハチが朝鮮に攻め入った時、日本を来させるぞと言われて
朝鮮半島の占領をやめたらしい 朝鮮が徳川幕府との関係改善に積極的だったのは、
満州族の脅威に対して、日本を後ろ盾にして対抗したかったからみたいだね。
見事に失敗しているけどw 仮にうわべだけ同盟結んでも日本は助けにいかないだろうな
申し訳程度に九州の小大名の軍が数千送って三方ヶ原の佐久間状態になるだけだろう その出兵を命じられた九州の大名も、嫌々の出兵だろうから、
元を取るために掠奪とかしそうだしなw
つか朝鮮側も、清に対してそう見せかけたいだけど、
実際に日本軍に来てもらおうなんて全然思っていないだろうし。 >>493-495
つーか、援軍に呼んでおきながら、
途中で朝鮮が寝返りそうな予感 朝鮮人は日本を裏切ることに対しては良心の呵責を覚えないだろうからなw >>478
山田長政の事跡ってどこまで本当なんだろうね。
伝説的な人物だけど。 山田長政の伝説はかなり創作も入って過大評価だと思うけど、
そのわりに日本では扱いが地味で、かえって過小評価な気も。 >>487
鬼石曼子の威名って、実際のところ、
明の本国にはどれぐらい浸透したんだろうね?
どうも日本側で過大評価している気がするけど・・・・・・ >>501
鬼はゾンビや幽靈だと言うから、そもそも威名でないのは今日周知の事実だし、
それが明帝国に浸透していたとしても水滸伝の太閤とやらと同レベルの卑称であったろう。 秀吉みたいな貧農の成り上がりが天下を取ってしまったから、
足るということを知らずに余分な欲望に駆られたんだな。
シナとは付かず離れずの付き合いするのが聖徳太子以来の日本の一種の国是なのに、
そういう教養がないから無理をする。
昭和になって陸海軍の学校が農民の次男三男坊の出世コースになって以降、
皇道派などアホな過激派が力をもってしまって軍隊の道の誤りと堕落に繋がったのと同じ。
>>504
>貧農の成り上がりが天下を取ってしまったか
明を建国したあのお方の耳に入ったら…… >>504
3行目は今の日本の政治家や財界人たちにぜひ言ってやってくれ ぶっちゃけ秀吉の外征は、領土獲得への欲望と言うより、
国内問題に対処するための必要な政策という側面が強かったと思う。
内戦終結で大量の浪人が生じ、軍需産業は停滞、
余剰な軍事力があるという状況に直面したわけだから。 清太宗と豊臣秀吉の差異は豊臣秀吉は朝鮮を攻撃したが
清太宗は明を滅亡させた. 朝鮮が宗主国にする明を滅亡させると
朝鮮も屈服する. また戦略的に見る時サポート勢力が消えるから
朝鮮は自然易しく征腹することができる.
豊臣秀吉は利点が分からなかったのだ.
朝鮮を征伐する前に先に明を滅亡させたら
彼は中国の皇帝になっていたはずだ. これは歴史的教訓だ.
>>508
だから、その明を征服するのが、
実際実行するとなると難しいって話しているんじゃないかw >>508
清(後金)は入関前に朝鮮を屈服させてるんだが。 >>511
清が朝鮮を屈服させることができたのは、何より進撃速度の速さじゃないかと思う。
国境を突破してから数日で漢城まで攻め寄せ、国王に江華島へ逃げる間を与えなかった。 文禄・慶長の役の時も、朝鮮王が北へ逃げずに江華島に籠っていたら、
どうなっただろう?
国王が捕虜になったら、朝鮮側は別に新たな王を立てる? その前に秀吉軍は清(後金)とまともに戦えたのか?
日本人が大陸で騎馬民族軍を相手にしたのってないだろ。
明の凡将ですら、日本の名将せいぞろいが実質負けたわけだぞ。
その明を降した騎馬民族を、日本が相手できたとおも思えない、
彼らをなんとかしないと、明を降すなんて夢だろう。
明の絶頂期でも清の絶頂期でも、まともに相手すれば日本なんて負けた可能性がある。
なのに日本の絶頂期でも出来たばかりの北方の国とまともに相手できないんだぞ。
どうやって明を降して王朝立てることが出来るのよ。
家光だって清にはびびっていたから再三の援軍要求にも関わらず鎖国してこもったわけだろ。
まずは清(後金)の前に全滅しないことを考えようよ。加藤だってヌルハチにびびって
逃げ帰ったんだから。明なんて無理だろ >>513
日本もそれとさほど変わりない速さで首都陥落。
なのにゲリラ戦頻発。清の場合は国民ごとあっさり降伏。
なんでこの差がついた考えないとね。
清相手に元や日本のように全力で戦おうとしなかったわけを。
でも清相手に日本の徳川軍が朝鮮で激突。果たしてドルゴンが勝つか
家光が勝つか。
勝てないとすぐ上で書いているけど、結構面白い結果になったんだろうな 戦う場所によるんじゃね
日本が大陸に攻め込んだらまず大陸側が勝つし反対なら元寇のように日本が負ける >>515
無駄無駄無駄
当時の日本と女真が正面衝突したら、
チャルディラーンの戦いよろしく、
女真がサーファーヴィー朝の二の舞を演じ、
ヌルハチがイスマーイール一世のように飲んだくれになるだけさ(ヌルハチは酒を嗜まなかったらしいが)
女真は、騎馬民族といっても、家付き、土地付きの狩猟、農耕の連中なんだから、
草原の遊牧民と違い、
形勢が有利ならば進み、不利ならば退き、決戦を避け、相手の戦線が延びきったところで反撃する、
っていう戦略をとれないから、決戦を避けることは出来ないしな
まっ、そもそも太閤が出兵した時点では女真は統一されてないし、鎧袖一触というものだろう
それと、
宣教師も、
日本人をキリスト教に改宗させ、自分らの船で兵士として大陸に送り込めば、
容易に大陸を征服できるだろう、
って言ってんだから、
明征服は別に荒唐無稽な話でもなんでもねーよ
万里の長城なんていうネズミのクソほどの役にもたたねーもんを必死こいてこしらえていたような、
愚劣極まりない明ごときを過大評価しすぎだっつーの、ここの連中は
結論は、
やり方がまずかっただけ、海軍力が足りなかっただけ、明征服は十分可能、
それ以上でも、それ以下でもない >>518
しかし以前の朝鮮出兵スレでは明も清も
清の兵一人をもって日本軍30人にあたる、と書きこのされたくらい
勇猛だったそうだが。
実際明も日本軍そのものの兵力は過大に見ても、
日本軍そのものが明より明らかに強かったなんて記述があるのか。
清も日本のことを見くびっていたようだぞ。
実際、他国の侵略というよりは、倭寇の拡大と見なしていたようだしな
>>518
ここのスレ全体としての流れとしては、
戦闘そのものでは、明軍に勝つことは十分にあり得る。
ただ、戦闘に勝つこと=征服には、必ずしも繋がらない、
という意見が多いと思う。
一時的に土地を荒らし回るぐらいならともかく、
征服と言う場合は、領土化して支配すると言うことだろうし、
一筋縄ではいかない。
Battleには勝ててもそれがWarの勝利に繋がるとは限らないからね。
まあ、国力において絶頂期の明に、永楽帝のような歴戦の皇帝がいても、
日本を征服することは無理。
同じように、日本が明を征服することは無理。
渡海作戦による征服はそれだけ難しい。 19世紀と違って、16世紀の時点では、双方の軍事技術の差が、
そこまで隔絶したものになっているとは思えない。 明朝側の“やる気”も大いに関係してくるよね。
何しろ、この当時の明の皇帝は、あの万暦帝なわけだし。 万暦帝はかなりケチだったらしいから、
本音では、莫大な戦費を食う援軍なんて派遣したくなかっただろう。
何らかの形で、日本の狙いが朝鮮半島限定だと分かれば、
平気で朝鮮を見捨てそう。 明には、日本の大軍百万人が、朝鮮半島と江南から攻め込んでくる、
なんて伝わっていたらしい。 朝鮮以外に、琉球も明にいろいろ通報していたらしいからな 嘉靖年間の倭寇騒動程度の規模を想定していたんじゃないの、明朝は 倭寇という問題は朝鮮の戦争と全然違う。
朝鮮で戦っていた明軍の戦闘力は東南地方の軍隊より強いね。
また、明朝の倭寇は大分中国人である。 >>531
朝鮮の王も、そういう今までの倭寇のようなものを連想して、
報告があった初日は何の対処もしなかったらしいしな。 忠州に北方で女真族との交戦経験もある精鋭部隊を集結させて、
ここで絶対に防ぎ止めるぞ、って覚悟だったらしいけど、
数時間の戦闘であっさり壊滅しちゃったらしい。
斥候さえ出さなかったらしいからな、朝鮮軍は
待ち構えていた日本軍に出会いがしらで開戦したらしいしw 明・朝鮮側は日本軍との戦闘を通して、
鉄砲戦術を真似して取り入れたようだけど、
日本軍側は、大陸側の騎兵戦術とかは真似してみたのかな。 >>536
まあ実戦経験があるだけまし、っていうことでしょ
>>537
馬匹の体格はいかんともしがたいんじゃないかな >>538
戦国期日本の馬と、蒙古あたりの馬は、体格的にはそう変わらかったようだよ。
大型の馬が飼われていたのは主に西方世界。 そもそも大陸の騎兵戦術とかの前提にある
会戦に適した平野が日本には無い・・・・・・。 朝鮮の役で日本軍が戦った相手って、実質的には遼東の李氏軍閥だよな。 >>542
前半はおおむねそうだと思うけど、
後半もそうだったのかな。 『壬辰の乱-東アジア三国戦争』:チョン・ドフィ・イ・ギョンスン編、ヒューマニスト、460ページ、2万8000ウォン
[新東亜]壬辰の乱(文禄・慶長の役、1592〜1598)と言う国際戦争に責任のある一人をあげれば、豊臣
秀吉を真っ先に指折るだろう。しかし、壬辰の乱以後、実際に東アジア秩序の主導権を握ったのは清
朝を建設したヌルハチだった。この二人は16世紀末、東アジア世界の既存秩序を転覆しようと野心を
燃やす挑戦者という点で同じだが、このように結果は大いに異なった。どうして豊臣秀吉は失敗し、
ヌルハチは成功したのだろうか。キョ・スンボムの文はその差をとてもおもしろく説明する。
筆者はヌルハチや秀吉が自分たちの野望を実現するためにまず明の分身のように思われていた朝鮮に
向い合わなければならなかったが、その対応方法が対照的だ。ヌルハチは外交を通じて朝鮮と明との
結束を遮断した後、中原を狙う慎重な歩みを見せた一方、秀吉は朝鮮を侵攻してむしろ朝鮮と明の軍
事同盟を強化させ、結局それによって失敗してしまったというのだ。
それでも秀吉の誤判断が個人的問題に起因したとは思わない。WJボートもこの本の他の論文で秀吉は
決して戦争狂ではなかったし、合理的で理性的な人物だったと指摘した。キョ・スンボムは秀吉の選
択が東アジア世界で日本が持つ歴史的位置と関連することを想起する。秀吉の日本は、明が主導する
東アジア世界の中に入った経験がないから、冊封-朝貢制度の明確な意味が分からず、ただ自分が得意
な戦争のやり方によっただけ、というのだ。一方システムの内部でその長短所を正確に理解したヌル
ハチは、新しい世界を建設することができた。 東アジア史に対する無理解
ヌルハチと秀吉の比較は朝鮮と日本の関係の中で侵略とレジスタンスの話として壬辰の乱を理解して
来た私たちに新しい視点を開いてくれる。先に東アジア史の観点で壬辰の乱を理解する必要性を提案
する。東アジア史の観点とは朝鮮と日本、中国と遼東などを含む他者との関係分析と同時に冊封-朝貢
関係に基礎を置いた東アジア秩序の性格に対する細心な理解を要求する。その上で壬辰の乱が論議さ
れる時、私たちは秀吉の軍事的冒険に対する歴史的評価が初めて可能であることを理解できる。
次に壬辰の乱がどのように記憶されるかについて。この本に載せられたタカギヒロシの文は明治維新
以後、日本が秀吉を顕彰して記念する過程とその現実的背景を詳しく紹介している。特に韓日強制合
邦以後、朝鮮侵略の先駆者として、ひいては大東亜建設の雄志を抱いた先覚者として秀吉のイメージ
が拡大再生産されていることをよく見せてくれる。このような操作された記憶が通用する土壌は一次
的に東アジア歴史に対する集団的な忘却と無理解にあるだろう。
西欧史学の流入で歴史の理解が国家単位に割れることで東アジア史に対する総合的理解は不可能にな
った。このような状況で東アジア史研究を推進することは現在の国家記憶が抱えている問題点を理性
的に示すことで、この地域に和解と共存の礎石を押し堅める作業になるだろう。
以上の議論は「壬辰の乱-東アジア三国戦争」における問題意識のキーポイントと言える。この本は1、
2日の努力で書かれたのではない。西江大チョン・ドヒ教授主導の下、2003年から基礎研究と資料の
調査、そして国際学術会議を経て本が出るまで5年の時間が必要となった。その結果、韓国と日本、ア
メリカ、オランダなど多様な地域の専門家が著者として参加して十分な時間を持って論文を作成した。
にわか造りの研究成果が珍しくない現実で、このような努力は高く評価を受けなければならない。
豊臣秀吉の欠陥を指摘することは韓国人の民族的情緒に符合する面があって読者に別に拒否感を起こ
さないだろう。しかし、実際この本は不都合な真実にもっと多くの章を割いている。戦争記憶の操作
は韓国人にも親しいことだったからだ。この本の前半部に載っているいくつかの文はそういう問題を
正面から扱う。 暗い過去を直視する勇気
チョン・ジヨンは驚くべきことに論介(ノンゲ)が倭将を抱えて死んだという話は立証できない、と主
張する。にもかかわらず今日、ノンゲが歴史中の人物と記憶されているのは、6・25戦争(朝鮮戦争)
以後、国家的危機を突破するイデオロギー装置としてノンゲの忠節が活用された結果だ。この話の中
でノンゲは芸者として本来堕落した存在だが、国家に忠誠を捧げれば純潔になることができると設定
された。ノンゲを民族の名前で顕彰するが、実は女性と疏外階層性を排除する位階論理が民族談の中
に働いていることを鋭く指摘する。
ヨネタニの文は壬辰の乱の時の日本で捕らえられていった人々の運命を追跡した。その数およそ数万
に達し、終戦後六千人以上が帰還したと推定されるが、意外にも帰還捕虜らが大部分罪人の烙印を押
される不幸な運命を受け入れなければならなかったことを淡々と叙述する。これまで日本の大規模な
人身掠奪を責める声が高かったが、実際に帰還捕虜たちを朝鮮でどのようにもてなしたのかについて
は関心がなかったことは事実だ。
ハ・ヤンヒの文は、紅衣将軍、郭再祐(クァク・チェウ)が丁酉災乱(慶長の役)の時、昌寧の火旺
山城で日本軍を打ち破った、という話が後代に操作されたことを実証する。英祖(ヨンジョ)代の老
論(訳注:李氏朝鮮の党派の一つ)の精神的支えである趙憲と七百の銃を顕彰すると、彼に対抗して
南人(訳注:同じく党派の一つ)集団が「同苦禄」を出版して火旺山城の話を作り出したというのだ。
以上の文等は壬辰の乱に対する韓国人の民族的記憶が実際には信頼できない、という戸惑う事実を悟
らせてくれる。
一方ジョン・B・ドンコンは歴史では、記憶が国家や特定の集団によって操作されるだけではないこと
を幅広い視点で見せてくれる。彼は壬辰の乱以後民間に流布した「壬辰録」に現われた日本と中国に
対する敵対感を指摘した後、開港以前にすでに朝鮮の非エリート層の間に自分たちが住む郷村社会を
飛び越えた一体感が存在したと評価する。壬辰の乱という戦争経験は漸進的に韓国社会に‘民族’が
形成される基盤を提供したわけだ。
李舜臣の記憶に対する系譜を追跡したチョン・ドヒは、さらに記憶研究の当為性を強調する。彼は李
舜臣に対する近代的記憶を検討した結果、シン・チェホを除けば、みな李舜臣が当面した朝鮮の現実
を話さなかったと指摘する。李舜臣は恐ろしい現実をしばらく忘れるための逃避先(229ページ)だった
わけだ。チョン・ドヒは韓国でも日本でも自分たちの暗い過去を直視する勇気がなければならないし、
そうするためには李舜臣と壬辰の乱に対する記憶の歴史を歴史的に暴く努力が必要だと力説する。
キム・ソグ郡山大講師・史学
naver/新東亜(韓国語)‘壬辰の乱-東アジア三国戦争’ 新東亜
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=262&aid=0000000958 ■対馬島(テマド)を征伐した李氏朝鮮は、どうして領土編入しなかったのか
〜 『朝鮮、平和を片思いする』:張学根(チャン・ハックン)著
著者は李氏朝鮮時代に起こった戦争を大きく四種類に分ける。朝鮮初期、他民族の侵入に
積極対処した領土開拓戦争、朝鮮・中国・日本が参戦した東アジア国際戦争、外交の失敗
が呼んだ戦争、19世紀末の帝国主義列強との戦争だ。
海軍兵学校教授と海軍兵学校博物館長を務めた著者はこのように戦争史のレンズで朝鮮
の歴史全体を分析する。
世宗時代の対馬島征伐(訳注:日本側の呼称は「応永の外寇」。西暦1419年)と北進政策
は、領土開拓戦争に属する。著者は、国家体制が未整備だった頃に朝鮮を苦しめた倭寇を
征伐した対馬島征伐は朝鮮最初の軍事行動であり、新生国家朝鮮の軍事力を誇示する機
会だったする。
しかし、軍事戦略面から見れば成功しなかった戦争だ。当時朝鮮は、対馬島を朝鮮領土に
編入してくれれば朝鮮の臣民となるという降伏申し出を対馬島征伐後に受けたにもかかわ
らず、対馬島の戦略的価値と経済的価値を予想できずに対馬島を朝鮮領土に帰属させる
ことができなかったためだ。
仁祖時代に起きた丁卯胡乱と丙子胡乱は、当時の東アジアの力学構図が明から清に移動
しているにもかかわらず明に頼る政策を展開して手酷い試練にさらされた痛恨の経験だ。
著者は、国際関係に疎い朝鮮が外交的妥協の可能な問題を敢えて無視したためだと指摘
する。
▽東亜日報(韓国語)(2008.02.16 02:57)
http://www.donga.com/fbin/output?n=200802160058 ■李氏朝鮮はどうして幾多の侵略にあったのか
倭乱と胡乱、そして日本に国を丸ごと明け渡した庚戌国恥まで。李氏朝鮮はどうしてこんな
に多くの外侵を受け、ただの一度も勝利をおさめることができなかったのだろうか。そして、
そうした中でいかに500年間も存在を失わないで国を守ったのだろうか。
これについて答を出す本が出版された。軍事史専門家である張学根(チャン・ハックン)氏の著書
『朝鮮、平和を片思いする』がそれだ。
著者はまず、朝鮮時代に起きた戦争を大きく四種類に分ける。朝鮮初期の女真・倭寇討伐
戦争、倭乱と胡乱、そして朝鮮末期の帝国主義列強との戦争に区分する。そして、これらの
戦争がどのように進行し、何が問題で、今日の我々にどのような意味を持つのかを一つ一つ
説明する。
朝鮮が唯一、先に他国領土に入って行った女真・倭寇討伐戦争。著者はこの戦争を、初期
朝鮮を苦しめた勢力に対して朝鮮が積極的に対処した証拠だとして高く評価する。
壬辰倭乱(訳注:秀吉の朝鮮出兵のこと)について著者は「兵法論理を飛び越えた戦争」だ
とする。あまりにも多くの被害を被った戦争だったが、李舜臣という超人的な指揮官の活躍
のおかげで侵略を阻止できたということ。しかし同時に、「この戦争を朝鮮の勝利と見ること
はできない」という点を明確に述べる。<後略>
▽ソース:毎日経済(韓国語)(2008.02.15 18:09)
http://news.mk.co.kr/newsRead.php?sc=30000023&year=2008&no=85453&sID=300 ↑は、頑張れば対馬を領土化できたって、ってところかw 資源に乏しい朝鮮が、自給自足できない対馬なんて取っても
余計なお荷物が増えるだけだしな…。
そこを足掛かりに外征なんて国力もなかったし。 ちなみに大陸の城と戦国末期の日本の城では、日本の城の方が圧倒的に合理的。
朝鮮出兵でも倭城の方が堅固で、それを朝鮮側も認めてる
まあ、市民を守ることを考えてる都城と、純粋に戦闘力を追求した倭城では比較できないんだが
さらに秀吉は。糧秣のほとんど本国から送っている。
現地調達が基本な時代にこれほど補給を重視した戦い方は、後のナポレオンを待たなければならない。
また、戦争を通じて海上補給が破綻したことはない。 日本の戦国時代の城、主に山城だけど、
合戦時には、領内の住民も収容して籠城することが多かったみたいだね。
毛利元就が尼子晴久に攻められた吉田郡山城の戦いがいい例だけど。
これは領民を守るというよりは、
同じ地域の仲間的な意識が強かったのかな。 >>553
だけど、落城した時は、みんな一緒に捕虜となって、
人買いに売り飛ばされてしまう。 >>552
>また、戦争を通じて海上補給が破綻したことはない。
朝鮮出兵ででしょ? 無茶苦茶破綻してなかったか!?
兵糧を欠いて苦しむ蔚山城だかに、博多あたりの米商人が現れて
ボッタクリ価格を吹っ掛けて来たりとか(考えてみりゃスゲェ話だ)。 少なくとも敵の妨害によって、破綻ということはなかったんじゃないか。
あまり戦線を北に伸ばすと、物理的に補給線の構築が難しくなるだろうけど。 豊臣秀吉、小田原の陣の時は、船で兵糧を駿河に集めたんだったよね。
たしか、二十万石分。 スレ違いだけど・・・
今は、1850年代の幕末の明治維新前と同じ。このまま行けば、日本は、
政治経済上は中国の植民地。軍事は、アメリカの植民地、エネルギーは、
ロシアの植民地になる。
今こそ、平成の、坂本竜馬、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通、勝海舟、
吉田松陰、伊藤博文・・・ら、英傑が現れない限り、中国、アメリカ、ロシア
によって、日本は、確実に分割統治されるだろう。
それを避けるには、憲法を改正して、核保有し、核抑止力を持つ以外に道は、無い。
核反対、スパイ防止法反対、という連中は、中国が侵略してきたら、真っ先に
外国に逃げるに違いない。
核を持ちたくなければ、中国に第二の毛沢東を登場させ、内戦を起こさせ
7つくらいの国に、独立させるしかない。本当はそちらのほうが、
中国の一般民衆は教育水準も生活水準も向上し、民主主義の中で生きられ、
幸せであるに違いない
スレ違いと思うなら書き込むなw
とりあえず豊臣秀吉が、海上輸送による補給の思想を持っていたのは確かだろうな。
朝鮮の役の場合は、単純に戦線を広げすぎて、距離が大きくなりすぎたことが失敗の原因だろう。 >スレ違いと思うなら書き込むなw
おまいなぞに言われとうない。 秀吉があと10歳若かったら戦略も変わったのかな。
朝鮮はともかく、北京城を当時の日本軍の装備で力攻めで落すのは、
いくら十数万の軍勢がいても無理だろう。
当時の日本では大城の本郭ぐらいでしか使ってないような
高石垣並みの高さをもつ城壁が壮大に街を囲んでいる様と、
城門一つだけで当時の一般的な城の本丸クラスの防御力をもってそうな
北京城を見ただけで並みの大名は途方に暮れるんじゃないか。
もし秀吉が直接全軍の指揮をとって北京を攻めるとしたら、
小田原城攻めのような戦略をとるのかな?
気付いた時には逆に取り囲まれてそうな気もするが・・・。 この時期に中国目指さずに、沖縄→台湾と、マリアナ方面、あと、北海道から樺太・沿海州・千島からアリューシャンあたりを押さえてればなぁ・・・。350年後に役に立ったのに 国力無いのにいたずらに拡張したって列強相手に維持できるとも思えんけどな。 >>562
樺太、カムチャツカあたりはそう思うな。
オーストラリアも領土にしておけばとは思う。
つーか、遠くから来た西洋人に取られるなんて
アジア人なにやってんのよって感じ。 >>561
当時の大阪城は面積にして世界最大の城郭、北京城よりでかい
国内でそういう城作ってて、実際家康は落したわけだから途方にくれるということはないだろう
まあその大阪城も正攻法では落ちなかったわけだけど
大砲で石垣崩しても意味がないから(中の土塁が露出するだけ)精神攻撃以上の意味を持たなかったし あと北京城の縄張りは非常にシンプルで戦国末期の織豊系城郭に比べると心許ない
目的が違うんだから都城と純粋な防御施設を比べる方がおかしいけど
全然関係ないけど大陸の城で近代戦に耐えた城ってあるの?
日本は熊本城があるけど つーか、デカ過ぎ&外郭の防衛に特化した北京城は、守るのも困難そうだな。
近代戦での北京城の例「義和団の乱」
ttp://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-hokusin.html
まあヒデキチ君でもイエヤシ君でもいんだけど、鎖国なんかせず貿易とか技術開発バンバンやって、
伊達とか島津抱きこみながら屯田兵&貿易商で蝦夷樺太千島とか沖縄台湾ルソンとかガッツリ押さえて、
サイパングアムハワイまで朝貢させる海洋国家に発展を遂げつつ、満を持して
長江や黒龍江の河口を拠点に四川やバイカル湖ウラル山脈までジワジワ遡って、
半島や中原なんか華麗にスルーつうか、漢韓以外の北東南を全部押さえる方向でよかったろ
そうすりゃ浪人問題とか華麗にクリアだし、中原や半島なんか外濠埋められた大坂城みてーな内陸ヒッキー国家に成り下がり、
あとはボタッと落ちるのを待つもよし。いやむしろ
実はあまり役にも立たない無駄に厄介なエリアとして、包囲し無力化したまま放置みたいな?
余剰兵力や軍需産業のエサ場として生かさず殺さず、時々攻めては占領もせずに恩賞用の物質や土地少し強奪して終わりみたいな?
信長ならそんなビジョンが持てたかどうか知らないが、まあ今に及ぶ鎖国による日本弱体化はなかったろうな 鎖国は鎖国で、それなりに明治維新につながるものがあったけどね。 鎖国、キリスト禁止令は西洋から、自国を守るための手段であって、
弱体化といっても、インドみたいに植民地になってたら、弱体ではすまないし。
俺の中学の先生もそうだったんだけど、生々しい虐殺のあったキリスト禁止令はわかるけど、
自国防衛の鎖国を、間違いのようにしか言ってなかった。 現在の中華人民共和国と混同してないか?
あくまで相手は漢民族。
漢民族居住地はそんな広く無い、制海権さえ抑えれたら
充分倒して支配下に入れれたよ。
でなきゃ女真族は漢民族を支配下には置けなかったろう。
南部に明を追いやって南明とでもなってもらって、北部に傀儡政権樹立が妥当だろうな。 そもそも戦国日本軍は、根本的に長距離遠征能力がないからな。
小田原の陣も、補給ではかなりギリギリな局面があったみたいだし、
朝鮮の役も、一旦北部まで制圧しながらも南部に徹底したのは、
根本原因に、補給を続けるのは南部が限界だったからだろう。
中国大陸まで補給を続けられるようになるには、
まずは朝鮮半島で練習を続けるしかないね。 豊臣秀吉は寧波を首都とした東アジア帝国のようなものを構想していたらしいけど、
恐らくはあまり事情を知らずに日明貿易で知名度の高かった寧波を念頭に置いただけのこととは思うけど、
実際に、東シナ海を囲むような形で、日本・中国の連合帝国が実現した場合、
どのような形態の国家になるんだろうか? 寧波は中国を支配する拠点としては、辺境すぎるね
運河は杭州までしか伸びていないから、交通の便があまりよくない
日明貿易の窓口とはいえ、経済力で絹織物産業のある蘇州や、塩取引の中心揚州に遠く及ばない
日本史専門だからわからないんだけど、
明が朝鮮に援軍を送る義理なんてどこにあるの? 明の朝廷は、日本の動向については、属国の朝鮮や琉球、
あるいは日本との間を往来していた福建の商人なんかから情報を得ていたわけだけど、
結構いい加減で、秀吉は二百万の大軍を動員して明に攻め込む、なんて報告になっていたようだからね
それなりの危機感があったんだろう
明にしてみれば、属国の朝鮮が滅びようがどうなろうが、本音ではどうでもいいこと。
だけど、秀吉の目的が明の制服にあると伝わっていたから、
朝鮮が占領されれば次は遼東に攻め込まれ、遼東を突破されれば北京が狙われると認識があったはず。
だから予防的に、朝鮮で日本軍の侵攻を食い止めようという意識が強かったと思うよ
宗主国として属国を助けるという大義名分もあることだしね 琉球経由の情報だと、朝鮮が日本軍の先導役になるという報告で、
朝鮮にそれを問いただしたら、
「宗主国様、それは誤解ニダ」と必至に弁明したらしいしw >>564
地図を見たら、オーストラリアって、ジャワ島あたりから島伝いでいけそうな気もするんだがなあ
まあ、いけなかったところを見ると、海流かなんかの関係で難しかったんだろうね オーストラリアとかシベリアとかの話持ち出して脱線する奴は世界史板に行け
池沼仲間がたくさんいるぞ、思う存分語って来ればいい まあ仮にできたとして、
1000年王国など築けるはずもなく、
10年、遅くても100年で体制は滅び
今頃日本は中国の一部だったろうね まだあるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
∧_∧ ll
( ・∀・)lllll ガッ
( つ||||| 从 ∧__Λ∩
/ /`ヽ(_< >`Д´)/ ←>>3
(_) W /
ワイが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしいで
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうや
その世界ではごっつい有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報やで
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタやな、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識やろ?
秀吉が遠征して明治政府が半島を植民地にした
徳川時代に国力が低下したのでドーショモナイ
織田信長が生き延びていれば植民地がはやく広くできていたと思う
逆らう者は皆殺しにするから効果的に支配できただろう。 織田信長(1534年生まれ)を同時代のイギリスの絶対君主、エリザベス1世(1533年生まれ)と比べてみると、面白い共通点に気が付く。
当時のイギリスは、弱小な島国で、これに対してフェリペ2世が君臨するスペイン・ハプスブルク朝は、ポルトガルとその植民地を併合して、
世界最強の帝国、所謂「太陽の没することのない国」となっていた。
イギリスは、スペイン領のネーデルランドで起きたオランダ独立戦争で、新教側を支援したために、スペインと対立することになるのだが、
イギリスがスペインのヘゲモニーに挑戦するということは、東アジアのヘゲモニー帝国である中国に、弱小な島国・日本が挑戦するのと同様に、リスクの大きい冒険だった。
エリザベス1世は、宿敵スペインに打撃を加えるために、海賊に私掠特許状を与え、スペインの商船を襲わせた。
イギリスの海賊のなかでも、ドレイクとホーキンズは有名で、彼らは、後にイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を破るアルマダの海戦で活躍する。
織田信長も、伊勢・志摩を拠点とする海賊だった九鬼嘉隆を織田水軍の総司令官に抜擢し、大安宅船(鉄板を張り、強力な大砲を搭載した当時最強の軍艦)を建造させ、
第二次木津河口の海戦で毛利水軍を破ることに成功している。
ところが、豊臣秀吉は、明との戦争で、海賊の力を活用することはなかった。むしろ逆に「海賊法度」を出して、海賊の活動を禁止してしまった。
当時、明が倭寇対策に苦心していたことを思うと、敵に塩を送るような愚策なのだが、秀吉がこの「海賊法度」を出した動機は、
同時に出した「刀狩令」の場合と同じで、国内における兵農分離と階級制度の固定であった。
信長が行った兵農分離とは異なって、秀吉が行った兵農分離は、下克上の世を終わらせるためのものだった。
近代的な分業による機能分化と前近代的な身分の固定化は似て非なる政策である。
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/bunroku_keicho.html 信長が、旧体制の権威と秩序を無視して、有能で功績のある人材をいくらでも取り立てようとしたのに対して、秀吉は、旧体制の権威と秩序を尊重し、身分の固定化を図った。
『川角太閤記』にこんなエピソードがある。賤ヶ嶽の合戦で、柴田勝家側について戦った佐久間盛政は、恩賞目当ての百姓に捕らえられた。
すると、秀吉は、盛政を斬るとともに、「百姓には似合はざる事を仕出したるものかな。見せしめのため、褒美のため、はた物にあげよ」と言って、その百姓12人を磔にした。
秀吉自身、小作農の子であったが、いったん権力を握ってしまうと、自分たちの既得権益を守るために、身分の壁の越境を認めなくなったわけだ。
信長と秀吉の間にあるこの格差をイギリスとスペインの間にも見つけることができる。エリザベス朝時代のイギリスにも、もちろん、身分制度の壁はあった。
しかし、ドレイクがそうであったように、農民の子として生まれても、功績があれば、貴族としての称号が得られたし、逆に貴族の子孫であっても、
功績がなければ、称号と土地を失い、平民の身分に没落した。
これに対して、スペインの階級制度は厳格で、いくら才能と経験があっても、平民が軍の指導者となることはなかった。
この違いが、アルマダの海戦の勝敗につながった。無敵艦隊に乗り込んだスペインの貴族たちは、陸上戦の経験は豊富だったが、
海上戦の経験は少なかったが、だからと言って航海経験のある平民を指導者にすることはできなかった。
ドレイクは、海戦における大砲の重要性を認知していたが、スペインの戦士である貴族たちは、大砲を平民の武器として軽蔑し、
重歩兵隊を組織して、敵船の甲板に乗り移り、矛槍で肉弾戦をしようとした、つまり海上戦を陸上戦にしようとしたのだ。
しかし、イギリス船の大砲の射程距離は長く、スペイン船は、イギリス船に近づく前に、撃破された。こうして、アルマダの海戦は、スペインの完敗に終わった。
秀吉の朝鮮出兵は、アルマダの海戦の4年後に行われた。日本軍は、陸上戦では連戦連勝であったにもかかわらず、
海上戦では李舜臣が率いる朝鮮水軍に連敗し、このため補給路が断たれ、明まで攻めることはできなかった。
では、なぜ日本の水軍は、連敗したのか。朝鮮の亀甲船が優秀だったからか。そうではない。
李舜臣が一時失脚した時、日本の水軍によって亀甲船の艦隊が全滅している。
日本水軍が制海権を失ったのは、李舜臣に匹敵する、あるいはドレイクに匹敵する海戦のエキスパートがいなかったからだ。
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/bunroku_keicho.html 信長なら、たぶん、朝鮮・中国の沿岸に詳しい倭寇を活用していたであろう。しかし、秀吉はそうしなかった。
すでに大名になっていた九鬼嘉隆は、日本国内の海賊の出身だったから、朝鮮沿岸の事情は詳しくなかった。
これに対し、李舜臣は、潮の流れの逆転を利用するなど、地元である利点を利用して、少数の亀甲船で日本の大軍を破った。
私は、当時の日本に中国と戦う必要性があったとは思わない。だが、ここでは戦争それ自体の是非を論じることはやめよう。
私が問題にしたいのは、戦争のやり方である。もし、日本がエリザベス1世と同じ方法を用いていたらどうなっていたかをシミュレーションしよう。
当時の倭寇には、もちろん日本人もいたが、その多くは、明に不満を持つ中国人で、いわば反体制ゲリラ組織だった。
もし、日本が倭寇を背後から支援したら、明は、たぶん李氏朝鮮とともに艦隊を率いて日本を征伐しようとしたであろう。
信長は、敵を誘き寄せて叩く戦法をよく採ったが、この方法なら、元寇の時と同様、日本が地の利を生かして、勝てただろう。
そして、敵の水軍力を削いでからであれば、明に対する侵略戦争は成功したかもしれない。
秀吉は信長のプロジェクトを「猿真似」したが、信長の精神を受け継がなかった。秀吉の朝鮮出兵が失敗したのは、ひとえに秀吉の頭が古かったからである。
かくして、日本は海外侵略に失敗し、国レベルでの対外進出を断念し、鎖国への道を歩む。
他方、スペインを破ったイギリスは、新たなヘゲモニー国として、対外積極策に出る。
こうして、ユーラシア大陸をはさむ二つの島国は、その後、対照的な運命をたどることになる。
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/bunroku_keicho.html
今まで2ちゃんねるをご愛用いただきありがとうございました
また会うのを楽しみにしてます
その日まで さようなら
>>1
まず高山国に原田孫七郎を派遣しトキジクの実を取って来させて
信長を不老不死にする、そして陰陽師達に未来予知させて光秀を
呼びつけ「お前これどういう事だよ?!」と詰問し罵倒しストレス性
の胃癌にした上で蟄居させる。
それから、ポルトガルかオランダに接近し裏でスペインと同盟を
結び倭寇とも裏で同盟結んで更に大陸に使者を送りヌルハチと
同盟を結んで台湾に移民送り込んで日本町形成し当然オランダは動揺
するが戦は避ける、仕掛けて来たら計画発動。
スペインと倭寇が台湾東インド会社攻撃し領有権はスペイン、同時に
島津に琉球も攻略させる、普通に考えればこの時点でオランダが敵に
回るが全ては計算の内、オランダと山田長政としヌルハチが明を挟撃し
更に朝鮮にもヌルハチが侵攻する、そして、徳川・毛利連合軍を率いた
明智光秀を強引に援軍として朝鮮に派遣しヌルハチの別働隊を攻撃し
撤退させる。
結果山田・オランダ・ヌルハチ・倭寇の超連合軍が明・スペイン軍を破り
明軍は北京へと撤退。
そこえ朝鮮&光秀連合軍が明へ侵攻し日和見をしていたポルトガル軍が
そこに加勢して大名を大陸に渡らせて明討伐ユーラシアヨーロッパ大連合軍
を結成しアユタヤの六昆(ナコーンシータマラート郡)を首都そして
大朝鮮皇国を建国宣言し天皇を派遣してイ・スンシンを摂政とし日本・
スペイン・オランダ・ポルトガル・アユタヤ・満州・朝鮮の連合藩国と
する。その後は知らんWW
まあ、結論から言えば秀吉には無理。 最終的には東南アジアは山田長政ヨーロッパはスペイン中央アジアは
ヌルハチ中国大陸は朝鮮、朝鮮半島は日本の人類史上初の大世界帝国
が誕生し産業革命がカラコルムで起こる!
明と大英帝国が同盟してアメリカからもぬけの殻になった日本列島を
占領して冷戦が勃発すると思う、勝てるかどうかは知らん。 >>403
文禄初期-交渉期-慶長の役を通じて、秀吉方に味方してる朝鮮人は多い。
朝鮮出兵で秀吉軍勢力地に、どんどん逃げ込む朝鮮人民衆が当時の朝鮮の記録に記されている。
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcerk3c2n
そして朝鮮人と左翼が「日本軍の残虐性」ばかりを強調する慶長の役にも
日本軍に味方する村々や人物がいたと朝鮮の記録に記されている↓
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcgggz3w9
更におまけに↓
宣祖実録の記録と、小西行長とその将兵から聞き取りしたフロイスの記録に残る、
日本人に成りすまして、略奪暴行する朝鮮人の記録↓(今も昔も変わらないね)
唐武陣 文禄・慶長の役の偏り2 民衆の騒乱
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcvk4n5gd >>605
つか、そもそも負けてない。
慶長の役で、明史や李朝実録に記されているように、
明朝両国は日本に勝てる見込みはなかった。
実際、慶長の役は、戦略・戦術ともに秀吉軍の企図通りに進んで、
さらに明鮮軍の攻撃も悉く撃退している。
そんな状態で1599年には、秀吉軍の一大攻勢も予定されていた。
完全に日本軍主導で、戦争が進んでた状態で、
秀吉が死去したので、日本軍は帰国した。
これが慶長の役の顛末。 ただ自分の思うがままに出兵し自分の都合のみで帰る
近隣からすると災厄そのものだな >>607
知っていましたか、朝鮮のほうが日本を侵略した回数が、
多い事実を。
新羅の入寇は、124年間にわたって執拗に攻められて、
官舎は焼かれ、民は殺され、さらわれ、
家畜食料は奪われたりしていた。
対馬、北九州が標的だったが、ひどい時は九州全域が
攻撃されていた。
↓下記も。
0997年 長徳の入寇(高麗)
1001年 高麗の賊が攻めてきている。
1019年 刀伊の入寇(高麗・女真)
1274年 蒙古襲来・文永(東路軍の44%が高麗人【朝鮮人】 )
1281年 蒙古襲来・弘安(東路軍の67%が高麗人【朝鮮人】 )
1389年 康応の外寇(高麗・朝鮮)
1396年 李氏朝鮮による対馬攻撃)
1419年 応永の外寇(李氏朝鮮 )
初期の倭寇も高麗の記録や、中国の記録にも
元寇に対する復讐戦と書かれてるよな。
もっと詳しく言うと、百済は各種記録、出土する古墳、装飾品、
遺伝子調査、言語的、民族的から現朝鮮人とは連続性は無く、
むしろ和系と明らかになっています。
新羅(現朝鮮)そんな日本の任那や和系百済の領地も侵略したよな。
文禄・慶長の役で、左翼と朝鮮人が反日的に大騒ぎするけど、
上記を見る限り、そこまで被害者面できないよね。 >>597
そもそも、朝鮮水軍が補給路を断ったという説自体がうそ。
日、明、朝の記録には一切存在しないにも関わらず、
朝鮮水軍が日本軍の補給線を分断して、苦しめたとの嘘が流布されている。
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(文禄の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_10.html
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)
http://tokugawa-tokugawa.blogspot.jp/2011/09/blog-post_9643.html >>611
どのレスのことを言ってるのかわからんけど、
李舜臣ひとつをとっても、日、明、朝鮮、宣教師の記録を読んでも朝鮮水軍のせいで、
補給が切れたってどこにも書かれてないからなぁ。
北方に突出した部隊への遅延と、冬季到来で名護屋-対馬-釜山間の
船の航行ができなくなったことと、これも冬季で部隊間の移動が
困難になったことだし。
で1593の春には、フルに船を動員して釜山には1年半以上
持ちこたえられるほどの物資があると記録されてる。
>>608のこともニホンノシンリャクガー、「朝鮮は侵されたことはあるが、
侵されたことは無い キリッ」って韓国人や在日朝鮮人、反日日本人が
ほざいてることだけど、嘘っぱちってわかるよな。
歴史的事実を載せることが、視野が狭いってどういこと? とりあえず自分の書き込みを見直してみるんだ。
明らかにおかしい個所がある。 ホント韓国を叩きたいだけの奴が来るとスレが終わるな >>613
たとえばどこ? 君らっていつも具体的に指摘しないで曖昧なんだよね。
コピペするけどこういうのもおかしいことなのかい?↓ だた単に事実が記載されているだけなんだが。
604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/25(水) 16:03:54.56 ID:F34nscgh0>>403
文禄初期-交渉期-慶長の役を通じて、秀吉方に味方してる朝鮮人は多い。
朝鮮出兵で秀吉軍勢力地に、どんどん逃げ込む朝鮮人民衆が当時の朝鮮の記録に記されている。
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcerk3c2n
そして朝鮮人と左翼が「日本軍の残虐性」ばかりを強調する慶長の役にも
日本軍に味方する村々や人物がいたと朝鮮の記録に記されている↓
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcgggz3w9
更におまけに↓
宣祖実録の記録と、小西行長とその将兵から聞き取りしたフロイスの記録に残る、
日本人に成りすまして、略奪暴行する朝鮮人の記録↓(今も昔も変わらないね)
唐武陣 文禄・慶長の役の偏り2 民衆の騒乱
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcvk4n5gd 「朝鮮は侵されたことはあるが、
侵されたことは無い キリッ」
日本語が矛盾している。他の人のことを非難する前に、まず自分の文章をおちついて見直そうね。
書き込みを見直そうと言ったのに、見直さないで新しい争点を持ってくるあたり冷静でない証拠。 >>616
歴史に歴史問題を持ち出して、現在までネチネチと金品を
たかるのは韓国と在日朝鮮人と反日日本人だろ?
それに対する皮肉だよ、 ひ・に・く
で>>608のこれ↓を見ると朝鮮人と、左翼がほざいてることが出鱈目ってこと
知っていましたか、朝鮮のほうが日本を侵略した回数が、
多い事実を。
新羅の入寇は、124年間にわたって執拗に攻められて、
官舎は焼かれ、民は殺され、さらわれ、
家畜食料は奪われたりしていた。
対馬、北九州が標的だったが、ひどい時は九州全域が
攻撃されていた。
↓下記も。
0997年 長徳の入寇(高麗)
1001年 高麗の賊が攻めてきている。
1019年 刀伊の入寇(高麗・女真)
1274年 蒙古襲来・文永(東路軍の44%が高麗人【朝鮮人】 )
1281年 蒙古襲来・弘安(東路軍の67%が高麗人【朝鮮人】 )
1389年 康応の外寇(高麗・朝鮮)
1396年 李氏朝鮮による対馬攻撃)
1419年 応永の外寇(李氏朝鮮 )
初期の倭寇も高麗の記録や、中国の記録にも
元寇に対する復讐戦と書かれてるよな。
もっと詳しく言うと、百済は各種記録、出土する古墳、装飾品、
遺伝子調査、言語的、民族的から現朝鮮人とは連続性は無く、
むしろ和系と明らかになっています。
新羅(現朝鮮)そんな日本の任那や和系百済の領地も侵略したよな。
文禄・慶長の役で、左翼と朝鮮人が反日的に大騒ぎするけど、
上記を見る限り、そこまで被害者面できないよね。 「朝鮮は侵されたことはあるが、
侵したことはない」じゃないの? >>615
第二次出兵でも、日本軍につく朝鮮人がいたんだな
はじめて知った。
とくにこれが朝鮮人らしいなw
「従軍して敵軍の首一級を斬った者には、科挙及第を許可することになり、
人々はこれを斬首及第と称した。
それからというものは、飢餓にさいなまれていた百姓らに、もう一つの災難がふりかかり、
いつどこで首を掻き取られるか分からぬ厄介な時世となった。
同胞を殺して剃髪し敵軍の首と偽ってさし出す者あれば、敵軍兵の首であっても、
他人から買い入れて提出する者もあり、時には売買のかけ値が問題となって訴訟に
及ぶこともあった。ともあれ、こうして二三品の昇叙にありつくというしまつであった」
春坡堂日月録巻九 義兵。
宣祖実録巻36宣祖二十六年三月三十日己亥条 によると。
同福県監奇孝曽は、むやみに義兵将を自称し、討賊の実績も無しに、
よぎる村々であますところなく暴飲暴食と横柄を働き、
百姓らのもてなしが気に食わぬと直ちに、
拷問にかけて虐げるばかりでなく勝手に官倉を開き軍器と
軍量をほしいままに持ち去る暴挙を平然としてのけたが守令らは
手出しもせずに見ぬふりをしていたので、
たまりかねた土民らは、奇孝曽の名を聞くだけで身の毛がよだつ思いで逃げかくれた。
竜蛇日記壬辰十二月初四日条 では、
所謂、義兵という者は、尽忠報国の誠を以て討賊する者多けれど、
義兵の名にかこつけて私利を図る者もすくなくはなく、進展を意のままにし統制も受けずに、
ただその郷里を守っているにすぎない >補給路が断たれた
太平洋戦争でも同じようなミスしてんだよな >>622
別に秀吉軍だけでなく、補給が切れて苦労した話は
東西関係なくあるわけで・・・そこでww2の話に飛ぶのもどうかと・・
一例として30年戦争にも、皇帝軍や諸侯軍にも
補給不足や寒気に苦しんだ事例は多くあるのだが。
で本題の、秀吉軍だが補給で苦労したのは1592年の7月-1593年の3月くらいまでで、
しかも、文禄2年3月3日の書状にも4月11日まで食料はあると記されており、
釜山にも食料があると書かれてる。 同書状には食糧輸送の遅延の原因は道が険しいことと、
人手不足のせいだとも。
【釜山海之御兵糧も、山坂に而御座候間、五日路六日路、道中届かぬ可申候哉、
川に付て船にてのほせ申儀も、今のつなきの御人数にては、難届候由申候】
文禄2年の春には船をフルに活用して、釜山やその周辺に補給が再開されて、
半島南部の秀吉軍を、一年半以上持ちこたえられるほどり物資に
溢れていると記されている。
実質、補給に苦しんだのって8-9ヶ月だよ(ブサヨとか在日はこの戦役全期間の印象操作してるけどね)
文禄の経験を活かした秀吉は、慶長の役では失敗していない。 オレオレ伊ロマ鷺取りファッショニスタパスポートチェックベンチャー依存症違法企業主生存率ロスドバイべネエズラインドウェア低ニーズテレビ編集者冷や飯南京上場バカハードメーカー駐車近代とんこつラーメン低原価GTM860MIGZO
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秀吉一代では何もできない。
秀吉には寿命が足りない。
どうあれ寿命の問題で無理だと思う。 朝鮮出兵は南部に留め
大陸の江南 旧都の臨安を押さえ、華南を兵站拠点で長期戦なら可能性も
家康に裏切られ、浙江省と江蘇省に豊臣政権でも、ヌルハチに潰されるかと まず作戦が長期にわたることを想定し、後継者争いが起きぬよう取り計らって秀吉逝去に備える
次に朝鮮に的を絞って平定し、時間をかけて前衛基地化した後、明征伐を決行する
先行して敵戦力情報をリサーチし、舜臣などは離間工作で自陣に取り込むか排除しておく
戦線も前進させすぎないように味方間の連絡、作戦要諦を周知しておく
朝鮮を平定すれば造船技術も手に入り、明入りもより多くの侵入経路が確保できたろうし、北方と連絡をとる糸口も掴めたかもしれない
満州族と連携すれば明征伐も成し遂げられた可能性はある あの時代のスペインの貿易商人の記録をみるといろいろと面白いことがわかる。
日本からの輸出品は米と塩漬けの魚がほとんど。
ハムもたくさん輸出していて、何のことかと思ったんだが
穢多が解体した病死牛馬の塩漬け肉のことだと思う。
意外だったのは陶磁器の輸出がほとんどないことで、
漆器も本国であまり人気がないので送ってこなくてもよいと言うお達しが。
美濃焼きや織部焼きのような「数奇」な焼き物は、
南蛮人の目にはがらくたにしか映らなかったのだろう
同時に宣教師は、この国は魅力的な奢侈品が少ないのに兵の数だけは多いので
攻め捕る必要性は乏しいと、本国に報告している。
AKBや秋葉原の文化が世界中で大人気だと思い込んでいる
今の日本の状況と少し似ていると思った。 >>627
既に朝鮮出兵の数十年前から南蛮船が来航して世界一周できる艦船に触れている日本が
朝鮮を平定しなければ造船技術が手に入らなかったとは考えにくい
朝鮮出兵は兵站に問題あったのが撤退の一因だと思うが
それは海軍力というよりも現地の土地の貧しさと反抗的堕落的な現地民による
兵站の保持や現地調達能力の乏しさが主因ではと思う
それは現代の朝鮮半島の様々な記事を見て感じた 朝鮮出兵と同時期に楊応龍の乱、ボハイの乱が起きているが、もっと大きな反乱が明国内で起きていれば。 三年前の盆休みに大阪へ大学時代の友人の家に
遊びに行ったが、大坂城巡りは楽しかった。
普通語を勉強したことがあったから中国人観光客
がいっぱいいて、じっくり展示物を見ていること
に気が付いた。彼らは秀吉が明に攻め入ろうとし
たことをあまり気にしていないのだろうか?
韓国人にとっては秀吉は大嫌いな日本人の一人だと
言われているが、実際に大坂城や豊国神社を見に来る
人もいるそうだから人の心ってよく分からんな。
日本が負けた戦争だったからよかったのかな? >>631
明、つまり中国側の視点では単に辺境を荒らしただけに過ぎないからな。
それよりも大坂城巡りと言うのが気になるわ。
大阪城は大坂城跡に建てたのではないのか? >>629
秀吉はコエリョにフスタをくれと言って断られているように造船技術の低さは江戸時代見ても瞭然だぞw
日本の造船技術の向上は幕末に外国人技師雇って横須賀にドック付きの造船所作ってからだぞ >>623
沿岸部にしか拠点ない時点で補給もクソもないだろうがw
戦略性もなく拠点点在させて善戦とか旧日本軍の大本営発表かw >>104
アメリカが人口の一割を動員?
そんな事ありました? 秀吉の朝鮮出兵って、
ナポレオンのロシア遠征とか
と同じでアホな戦争ってだけだよ。
無駄な戦争だってね! 秀吉の朝鮮出兵って、
ナポレオンのロシア遠征とか
と同じでアホな戦争ってだけだよ。
無駄な戦争だってね! 1599年に予定されていた大攻勢はソウルを攻略し朝鮮半島全土を完全に支配下に
置くことなっていただろう
秀吉は半島南部割譲だけで満足するとは思えない
将来的に明と構えることも考えていただろうからそんな小さな目標では無かっただろう
明は難しいからせめて朝鮮半島だけでも完全支配下に置きたかったと このまえハローワークに行ったら、プ-さんのぬいぐるみ置いてあった。それ見てちょっとキレかかったよ