庶民出ゆえになんの耐性もなく権力の世界に晒され、身を崩していく姿は、一種の庶民の代表に見えるけどね。女だったら宮廷物語だw
朱元璋の人間臭さって権力欲・出世欲の一言で済まされるようなものではないでしょ。
白蓮教から儒教に宗旨替えした瞬間だけじゃなく、儒教に絶望して粛清しまくった時期をよく見ておくといいよ。
呉王即位の時が朱元璋と儒教の蜜月で、皇帝即位の時には既に……って感じだし。
というかイデオロギーで儒者にすスリ寄ったのではなく、儒者=浙東の豪農・豪商集団だから天下取りに必要だったんだろうけど。

地方官に直接指示して免税、開墾、屯田、徒民、灌漑を徹底して行わせて農民を回復させたのは事実だし
そこに儒学者がいうような寛仁の政策はない。
皮肉な事に、民衆の教化政策は儒者が粛清され、朱元璋が独裁を始めた事に行われるのであって
既存の体制=儒者=豪農・富商による既得利権の容認、富・権力の独占であった糧長制度によって苛められていた農民を
年度による交代や、収入に対して課税を増やし、簡単な揉め事なら郷里の習慣に一任する里甲制によって救ってるわけだ。

朱元璋の儒学=浙東系集団への傾倒は朱元璋の経歴において殆ど一瞬の出来事なのに、
それを中心であるかのように言われると、それこそ鼻について仕方ないな。
基本的に彼は自分の母体集団である淮西集団を優先してきたし。
故郷である鳳陽に蘇州の富豪や農民を強制移住させるなど、仁君のするようなことじゃない子供っぽい事をやってるけど、
それもこの郷土集団への仲間意識であり、その昔から共に戦ってきた二十四人衆の放蕩もまた朱元璋の絶望の一つだろう。
彼の治世の殆どは南方文化人との対立であり、それは民衆を搾取する富裕層との対立だったよ。
科挙を実施しておきながら、これを採用しなかったのも南方人が多すぎたからだし。これは宋代から続く頭痛の種だが。
国家経営論を持っていた劉基や宋濂(彼は官吏採用が南方人に偏らないよう、朱元璋に命じられて北方出身者の教育をしている)ですら
その子弟に浙東系集団を持っていて、影響を排除しきれなかったことが、朱元璋が彼らを切ることに繋がるんだけれども。

この朱元璋の孤独、理想、猜疑、絶望、失望、憤怒を、ただ一言権力欲・出世欲と評してよいものか