【項羽】 前漢時代の英雄達総合 【劉邦】
中国前漢の建国の経緯〜王莽の簒奪までの人物達の総合スレです!
建国の経緯:項羽と劉邦が激しい戦いの末、劉邦が前漢を建国(*・ヮ・*)
劉邦死後:皇后呂后と呂氏一族が権力を握り専横を奮ったが、呂后死後陳平や周勃などにより呂氏全滅(*;ヮ;*)
文帝・景帝時代:この二人の皇帝は文景の治と呼ばれるほどの治世を行う(*^ヮ^*)
7代目武帝時代:霍去病、衛青、李広利ら中国を代表する名将が匈奴討伐に。さらに西域・南越・朝鮮なども征服、内政も充実し全盛期(*>ヮ<*)
宣帝時代:武帝が悪政をするようになり、宣帝になってからも霍光が権力を握ったりするが宣帝の治世が光る(*^ヮ^*)
滅亡:しかしその後は暗愚な皇帝が続き、最後は外戚の王莽によって簒奪されて滅んだ(*;ヮ;*)
何年も続いた中国の王朝、その中には英雄達が大勢います!
彼らを語りましょう!! 悲劇の英雄・李陵(?〜前74)
字は少卿。李当戸の子。李広の孫に当たる。若くして侍中・建章宮監となった。匈奴と度々戦って、騎都尉に登った。李広利
の下につくことを厭い、武帝に奏上して歩兵五千で別働隊を率いることとなった。匈奴の本軍に遭遇して善戦したが、ついに降
伏した。李陵が匈奴の単于に漢軍に対抗する戦術を授けていると、誤って武帝に伝えられたため、武帝は李陵の家族を誅殺し
た。漢への帰参の道を絶たれたため、単于の女婿となって右校王に立てられ、匈奴で重用された。昭帝の時代となり、霍光・
上官桀らが任立政を遣わして、漢に帰参するよう求めたが、李陵は応じなかった。匈奴にいること二十余年で没した。 霍去病(かく きょへい 紀元前140年 - 紀元前117年)は、前漢の武帝時代の武将である。父は、霍仲孺。異母弟は、
大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。
衛青の姉、衛小児の子にあたり、同じく衛青の姉であり、霍 去病の叔母にあたる衛子夫が武帝に寵愛されて戻太子を
生んだことで皇后に立てられたため、親族にあたる霍去病も覚えが良く武帝に寵愛されていた。
騎射にすぐれており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いている。その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、紀元前121
年に驃騎将軍に、更に紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬とされた。大功と武帝の寵愛により
権勢並ぶ物が無くなった霍去病だが、紀元前117年、わずか24歳で病死した。
霍去病と衛青は同時代に活躍し、血縁でもある事から良く比較される。衛青は少年時代に奴隷であった経験から人にへ
りくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。その一方で霍去病は物心付いた時には既に一族は外戚であり、叔
父が匈奴討伐に大功を上げていた。その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分達は豪華なテ
ントの下で宴会を開くような事をしていた。しかし宮廷でも兵士の間でも霍去病のほうが人気が上であった。衛青はへりくだ
りが度を過ぎて媚を売るような所があったらしく、また霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていたようだ。武帝も自身の性
格から積極果敢な霍去病をより好んでいた。 浅学ながら、前漢の人物なら張騫が好き。
あの時代に匈奴を超えて遠く離れた月氏に行こうなんて男らしいじゃないか。 大きく分けると、楚漢戦争時期の英雄と、
西漢の対匈奴戦争時期の英雄に分けることができるね。
楚漢戦争は、別にスレがあるから、ここは対匈奴戦争の英雄たちについて語るべきだろう。 となると、衛青、霍去病が中心となるが、この2人のスレも既に立っているし… >>7
だよね! あの頃は今みたいに正確な地図もなかったろうし、匈奴って
言ったら昔から遺恨があった危険地帯だったんだから、
そこを越えて未開の、遠く離れた国の文化に触れた彼は本当に凄いと思う。
私事になって申し訳ないんだけれど、横山とKOEIの三国志から中華の歴史に興味を
持った人間だから、そんな時代に既に遠くまで旅した人が居たなんて
思うとアツい歴史の探求ロマンを感じるんだよ。 高祖の粛清は外様に限ったもので後の明太祖のと比べると
まだ優しい方だ。 朱元璋の粛清は徹底していたからね。
皇帝の絶対独裁権力確立のために、皇族を除いて疑いのある者は殺し尽くした。
だけど、残った皇族が仇にw 同じ腹から生まれても信用できないのは煬帝が示してくれたからな
まして叔父甥じゃ望むべくも無し 周亜夫は若い頃から、父と同様に軍人として活躍し、匈奴が漢の領域に侵攻してきた際には、文帝から、一軍を率いてその防衛の
一翼を担うように命じられる。
それから間も無く、情勢が安定すると、文帝は国の守りに力を尽くしてくれた将兵を慰問したいと、各陣営を訪問・閲兵した。どの陣
営も和気藹々とした雰囲気で、文帝を迎えたが、周亜夫の陣営のみが
「ここは戦陣なので、皇帝陛下にもそれなりの作法で閲兵して頂きたい。」
と言って、文帝にも陣中の作法を守らせて、陣営内でも下馬をしたうえで通行させるほどであった。
後でこのことを知った、文帝の側近達は、
「なんと無礼なやつだ。」
と、周亜夫を非難したが、文帝は、
「あの男こそが、真の将軍たる人物だ。」
と、彼を褒め称え、死に際しては皇太子(後の景帝)に、
「もし大がかりな戦争が起こったならば、周亜夫を軍の総帥にして事態を解決しろ。」
と遺言したと言われる。 楚漢に興味持ったんだけどさ
司馬遼太郎の「項羽と劉邦」読めばおk? 個人的には司馬さんの方がオススメ
登場人物に個性があって面白い 司馬作品以外の楚漢戦争全体を扱った長編小説って他にある? >>23
横山は劉邦に有利に描きすぎてて史実からだいぶ離れてる。
項羽も劉邦もあんまり魅力的な人物に描かれてないし。 基本は司馬遼太郎だろうな。
小説読むの面倒なら、今BSでドラマを放送している。 司馬遼太郎は「劉邦の名前」などのヨタ話を鵜呑みにさえしなければ、流れを知るためにもいい
もちろん小説として面白い 司馬小説で最初に読んだのが項と劉だった
その次が歌人と竜馬がいく なんか項梁カッコいいぞ^^
あー、ここは前漢スレだから
項羽と劉邦スレの方に行ったほうが良いのかな? 移動したほうが良いだろうな。ココは建国後のスレだから。 文帝(劉恒)も英雄だろう
租税完全免除なんて羨ましすぎる 細かい事だが免除は田租だけだな
人頭税や徭役や兵役はそのまま 散々というほどかな?
貨幣問題のことを言っているのかもしれないが。
まあ文帝、景帝の「垂拱の治」は豪族による兼併を放置した側面などもあるから、よく言われるような手放しの賞賛は妥当じゃないとは思うけどね。
あと前の補足だが、租の免除は田を捨てて末業に走った者や豪族の庇護下に入った者を帰農させるための政策。
損して得取るみたいな感じ。 有能な権謀術数家であったが具体的に何かしらの政策をした訳じゃない。
まあ匈奴の挑発に乗らなかったのは賢明と言える。 皇帝の能力では
武帝、宣帝、哀帝が三強
名君かどうかとは別だけど 言っちゃ悪いけど張良が最高の人物だよ。
揚げ足のとりようがない。
誰にも疎まれないところと、中立的且つ公正で陰謀無しで登りつめ、
自分の成したことに責任と自信を持ち、満足できたところがすばらしい。
言っちゃ悪いけど張良も隠遁後は戴けないよ。何故韓信や英布、ハンカイなどの功臣討伐を諫めなかったのかな。他の事には手出ししといて。それをしなかったが為に謀反は続発した。 漢が長期政権だったのは結果的に初期の荒治療というか静粛があったからだと思う
日本史を例に挙げてごめんなさいだけど
足利尊氏は気前よすぎて外様が力をつけて後に応仁の乱とか起きたし
人は一代、御家は万代みたいな考えはあったかどうか分からないけど 戦争を勝利に導いたのは張良の功が大きいのかな?
劉邦の勢力を作り上げた点では蕭何の功が圧倒的だと思うが。 劉邦が匈奴討伐に出陣する際に張良は何らかの進言をしたのだろうか。
敗退するのが分かってて沈黙していたとしたらとんでもない奴だが。
張良は漢作った後は知らんぷりしてたらしい。この辺が責任感無いよね。自分の理想を実現出来るような奴はいないと絶望して匙を投げたのか、面倒だったのか。この人は多分凄いインテリであらゆる意味で理想主義者だったんだろうな。 張良は項羽に韓王を殺されたから復讐として劉邦に手を貸してただけじゃないの
統一後の国家運営なんて興味なかったとか そう考えると張良の好感度下がるよね。なんだか利己的に人殺しに励んだ天才って感じ。まぁ無私の役人などいないということか 韓王信が冒頓単于に帰順してしまい、同じ韓の出身の張良は猜疑を受ける立場になってしまったのかもしれない。
そういう点では漢の社禝を守った陳平の方が張良より上かもね ネタ振りだけど、氾僧って本当に愚鈍な軍師だったのかな?政策も戦略も統べてポシャッてたらしいが、これは漢が勝ったから記述されたことではないだろうか? 功臣粛清の状況を考えたら下手に進言して手柄をたてたりして警戒されるより、我関せずの方が賢いと思ふ。
封地に留を自ら選んだ様に粛清されない為に気を使った張良…乙 >>60
劉邦に3万戸やろうって言われたのを「陛下と初めてお会いした留の町をいただければ十分です」
とやんわり断ったあたり、大きな領地を持ったらいずれ警戒されるのを見通してた感じだな。
実際、劉邦に仕えて以来、他人に警戒されたり嫌われたりした形跡が全くないもんな。
蕭何ですら功績第一位に推された時、前線で戦った武将たちの不満を買ってるのに。
他人に全く警戒されないってのは策士として超一流の証だ。 ただあの主君が曲がりなりにも王となったのは范増の功績が大だったことの逆証とも言えるな。
歴史は勝者によって作られる。だから、史実には范増が献策して成功したものが只の一つも(ここが重要)残っていないのではないだろうか? 羊飼いを楚王に据えて反秦連合の求心力にしようと献策したのは創作? >>53‐>>56>>60‐>>61
老子の言葉に「功遂げ身退くは、天の道なり。」「足るを知れば辱められず、止るを知れば殆うからず。」という言葉があるが
老荘の徒の張良は正にこれを実践したのである。
また若い頃からの夢である仙人に本気でなろうとして穀物断ちを行い心配させる事により呂后の猜疑の目をも躱している。
張良の一連の行動は始めから計画されていたのだ。 > 老子の言葉に「功遂げ身退くは、天の道なり。」「足るを知れば辱められず、止るを知れば殆うからず。」という言葉があるが
そう考えると儒教は大変だよな。
死しても忠を、それよりも孝を果たせだからな。 >>64
はっきりとは分からないけど、逆に信憑性がない?
項籍を王にしたければ、わざわざ范増も、王をたてようとは言わない。
発見しちゃって、王にせざるを得なかった。
だから、その求心力を逆効果にしてしまう壊王暗殺についても止めな
かったとか?
え〜え、釣りですとも 陳平の人間の心理を巧みについた権謀術数と高祖も政治家としての素質を見抜けなかった才能が好き。 呂氏の一族から英雄らしい者は出なかったんだろうか? 項籍との戦争の時から呂族の名将を聞かないね。
あの頃を経験してないとなかなか武門を学ばせることは出来ないかも…。 呂氏の一族ってのは武門として向いてない一族だったのかな >>76
呂氏の時と違って諸侯王はロクなのがいないし、大臣はあらかた自分の与党だし、敵はいないと思ったんだろうね
まさかただの傀儡だと思ってた宣帝自身が最大の敵になった上、張安世や魏相みたいな奴らまで(霍氏から見ると)余計なことをするとは思わなかったんだろう 劉<りゅう>【氏】
@帝尭の子孫が名乗った。祁姓。
A晋の士会の子孫が秦に残って劉氏を名乗った。祁姓。(春秋)
B周の頃王の子が劉に封じられ、封地名をもって氏とした。姫姓。(春秋)
Cその他にも劉氏があり、漢代以降さらに増える。 前漢末期で、確か劉姓の皇族が数万人に達していたんだよね。 そりゃあ、標準以上の美人だったと思われ。
客観的に見て絶世の美女だったかどうかは疑問としても、
劉秀があれだけ寵愛したんだから、容姿も平均以上と思われる。 劉秀という人物像が、かなり庶民的な感じだから
麗華さんも絶世の美女という類ではなくて、かわいい感じだったと妄想する。
あまり笑わないそうなので、人によっては冷たいイメージを受けるかも。 姓からして“陰”だから、あまり陽気なイメージは出て来ない。 漢建国の功臣・蒙恬。
北伐に活躍した上、毛筆を
作ったという記録もあるのに……
霍去病や衛青よりマイナーとは(T_T) >>88
蒙恬は秦の人ですよ。
毛筆なんか作ってないし。
間違いを堂々と書き込まないでくださいね。 >>90
作っていないというソースを。
でないとそっちが捏造を堂々と書き込むことになる。 毛筆くらい秦帝国以前の戦国時代からあったんじゃないの?
戦国時代の竹簡の写真を見たことあるけど。 「作った事実がない」ことの証明は、悪魔の証明であって無理を強いるもの。
「蒙恬が毛筆を作った」と主張する側が、作った事実を証明すべき。 作っていない事実なら、以前から毛筆はあったことを
証明すればいい >>96
蔡倫の紙は新規の発明じゃなくて、改良した物だったと陳舜臣が書いてたような・・・
つまり、性能を著しく向上させたってことになるのかな。 前漢代(だったと思う)の墓から崩れかけた紙が出土したことがあるらしい
でも、紙が爆発的に普及したのは蔡侯紙から
昔と比べて、製造費が安くなったのか耐久性が上がったのかは知らないけどね 「洛陽の紙価を貴からしむ」が西晋の話ということは、
当時は紙はいちおう普及してたが、需要が増えると
値段が高騰するぐらいには貴重品だった・・・
そうすると、漢代に紙が本当に普及してたかはちょっと分からなくなる
「洛陽の紙価」は比喩的表現なんだろうけど
しかしスレ違いだな