家が貧乏だったやつしかわからないこと Part.18
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まあいつもはトライアルで売ってるメガ盛り88円の食べてるけど。 豆腐ハンバーグを食べた(ハウス食品・豆腐ハンバーグの素を使用)
見た目で大豆ミート・ハンバーグに需要が奪われるだろうね
S&Bゴールデンカレー・動物性原材料不使用でよくカレーを作るよ
俺は獣肉を食べないんだ 独身時代、ジャワカレーにサツマイモ入れて3日分作り、飽きたら食パンに挟み
良く食べた。安上がりだったし腹持ちした。 貧乏といっても学生までで、就職した時点で貧乏ではなくなるからな >>553
学食は素うどんに、コロッケのせか、
中華そばにマーガリンかな お前ら裕福過ぎてワロタ!
貧乏人しかわからない、戸籍謄本で初めて姉弟の存在を知った複雑な青春時代の心境。 父の誕生日を知ったのは戸籍謄本だったな
命日は保育園児の時から知っていたが 高校まで預金残高が一万円行ったり来たりだったのに、働きだしたら預金残高が十万の単位になって心底驚いた。 大学の学食はいつも170円のカレー食ってたわ
バイト代出た次の日だけは250円のカツカレー食べるのが楽しみだった 貧乏だったのに大学かー自分は高校が奨学金で早く働け働け言われ続けてなんとか卒業したわ。 おでん大根(デカイから) 50円
大ごはん 150円
学生貧民だった。 経済的には高校より大学の方が楽だぞ
授業料免除と奨学金とアルバイトで
アルバイト収入は勤労学生控除対象外になるくらいだった >>552
スーパーの特売になる銘柄は地域や店舗によって違うみたいで
オカンがククレは安くならないからと言ってレトルトはボンカレーばっかだった
ウチのオカンがバーモントでカレー作ってたから俺も自宅でカレー作る時はバーモント使いたいんだが
転勤して他県に住んだらその地域のスーパーはこくまろカレーばっか特売になって
しょうがなくこくまろで作ってたけどある日安くなってないけどバーモント買って作ってみたら久々懐かしい味で泣きそうになった 高校の時なんて常に腹減ってた思い出が強く残ってて
中学までできなかった買い食いがしたくてバイトしてたような時期もあった
2時間目終りの休憩で弁当は食い終わってて
昼は学食のうどん食って売店で買ったパンかじりながら教室に戻ってた
この事をバイト先の肉屋の店長に話したら余ったコロッケメンチカツを大量にくれて
俺はそれをおかずに家でメシおかわりしてオカンはニッコニコだった 靴下が常に穴空き
パンツのゴムが伸びきってる
中学の時の長袖のジャージが買えない >>579
永谷園のお茶漬けの素を2回に分けて使って食べてた >>581 ちょっと話が逸れるけどあの東海道五拾三次のカード欲しい人っているの?
あれ要らないからその分安くしてくんないかな? >>581
うちは、甘めの味噌にチリメンじゃこを入れて火を通したのを
飯のアテに作ってあったから、それのせて、熱いお茶かけて食ってた ネスカフェがない時はクリープをお湯で薄めて飲んでいた >>579
同じくww
父親の実家が米農家だから売る程あった。 >>585
わかるぅw
クリープに砂糖入れて飲んだ。甘くて美味しいの凄い贅沢した気分になった。
クリープ粉なめてた。 最近は塩分控えめの塩鮭が多いけど、昔は白く塩が浮き出るのを塩抜きしないで食べてたな。
ひとかけらでご飯一杯は行けた。
あれで作る鮭茶漬けはうまいんだよ。 すごい賛同わかるぅ
ワテが子供の頃おかんが買って来たのは2種類
凄いオレンジ色が濃いめちゃくちゃしょっぱいのが弁当で家で食べるのは、普通の塩気 >>1
スレたてありがとうございます。
童心に帰れるしみじみここすきだ。 クリープって、今はすごい高級感がある
何年か前に箱買いしたら、そのあと急に値段が上がって驚いた
サンマの水煮缶も箱買いしてから、不漁が続いて上がったし
昔は塩のかかっていない紅鮭が、普通に売られていたんだけどな
今は養殖の銀鮭が主流だ
なんか日本の食生活は昔より貧しくなっていっている クリープはワゴンセールで数年前に買っただけだな。空き容器にマリーム詰めて使ってる。安いと思って買ったトップバリュのは不味かった。 クリープを入れないコーヒーなんて、、、手裏剣を使わぬ忍者のようだね @クリープのCM 昔のインスタントはスリープとかで誤魔化さないと飲めたものじゃなかったから
いまのインスタントはブラックでもかなり美味しい 珈琲にはクリープではなく牛乳を入れている
妻は豆乳を入れているが、自分には合わない
豆腐は好きだけれど、豆乳は美味しくないな >>557
子供すぎて覚えてないんだけど、おそらく
牛だったと思う。肉の色が黒かったような?西日本です
>>553
その頃だと、巷の店の素うどんは200〜250円と
いったところかな、どうだったっけ。。 >>582
あの頃、ああいうのを入れるの流行ってたんかな
森永のハイクラウンだったかは、ピーターグリーナウェイ、って人の
カードが入ってたように思う >>600
うどん、200円高いな、
最近まで素うどん140円の某県だと信じられん値段 え、つまり香川?w
140円は安すぎる!
今、地元のチェーン店のうどん屋の素うどんは420円・・・
肉うどんにいたっては680円・・・
まぁ、だしがしっかりした店だからしょうがないのかも?
バブル時期は病んでいたから、あまりしっかり世情を覚えてないな
モスバーガーが初めてできて、セットメニューが450円か500円?
高いな〜、と思った記憶だ >>603
某県だと、その値段なら高級店だな
今の値段だと、かけ小 160円
肉うどん340円
うどんはうまいよ
たぶん平成前期までは100円の店もあったね
それでも金がないときは玉売り買って、家であたためて
てきとうにつゆつくって食ってた
今調べたら1玉60円、昔は30円だったのに
高級店で大事な客をつれていく店だったら肉うどん600円かも >>600
西日本で肉うどん言うたら牛肉やね。
3年前大阪から東京出てきてうどん屋で肉うどん頼んだ際豚肉の肉うどんで驚いた!東京じゃどこも肉うどんに豚肉つこてんな >>604
新橋にある香川県のアンテナショップのうどんが一番うまい。安くはないけど。
香川でガイドブックに出ている何店かでうどん食ったけど、全てそこより劣ると感じた。 >>607
観光客相手の店の凋落は激しいのは認めますね
客がほっといても来るから、平成20年までが一番よかった
店のオーナも世代替わりした今はね >>582 >>601
お茶漬けの東海道五十三次のカードと羽衣あられはセットで思い出される
羽衣あられと味覚糖の純露は貧しい少年時代に近所のおばちゃんがたまにくれて嬉しかった もう30年以上も前に岡山の児島ってとこに住んだ時、セルフのうどん屋を初めて見て
安いし美味いしでヘビロテで利用させてもらってた
出張の帰りの電車でうっかり乗り過ごして瀬戸大橋を渡ってしまって坂出まで行ってしまった
ひとまずホームのうどん食ってみたらやたら美味くて、それでもまだ時間があったので
帰りの電車来るまで駅前ブラついたらセルフうどん屋があちこちにあった
それからしばらくは休みの日にうどん食いに瀬戸大橋渡るのがささやかな楽しみになった かけうどん一杯100円なんだけど、トッピングの天ぷらで高くついたりなー おはようございます。
素敵なお話にほっこりしました。 毎日の平日昼はうどん、あげ載せてきつね、ちょっと贅沢して卵のせて
きつねの月見です、医者に血糖値高めで注意されているので
それで我慢してます。
安く昼が食べられるのが利点かな、モーニングうどん、がまんしてます 大阪万博(1970年)の会場内で
親父が食べたラーメンが1杯200円だったよ
当時俺は小学生だったが高いと思った おまいらさ、電話が(呼)だったひといる?
ガキの頃、親は電話の権利なんか買えなくて、ずっとお隣(小さな商店だった)の電話(呼)で
親切なお隣さんが「○○さーん、電話ですよー!」って呼び出してくれてた。
個人情報やプライバシーなんて外国の話かと思えたド田舎の話。 学生アパートは呼び出しだった。
管理人の好意で取り次いでもらってたわ。
長電話なんかしようもんなら張り倒された。 彼氏の寮が呼び出しだった。
電話に出るおじさんが私の名前覚えて彼呼んでくれた。その内私の声だけで待ってなと彼呼んでくれた。懐かしい20代 学生の頃は居間(と言う名の一間)に黒電話あっただけだから片想いの女の子に電話する事も出来ず数キロ離れた公衆電話までよく走ったわ >>616
電話のある家は集落に数件、だいたい農協で借りてたな
電話があると集落放送で呼びだされたよ
緊急は電報 おばあちゃんがうどんの乾麺を茹でてくれて、茹であがったところでお椀にすくい上げてそこに醤油を掛けて食べたのですら旨かったわ。 >>615
昭和60年つくば万博会場内で素うどん一杯800円 俺は郷ひろみと同学年です、因みに掛布も一緒が玉にキズなんだけど >>616
西東京市(田無)に住んでいたけど当初は呼び出しだったよ。 >>616
ニコイチボロ長屋で電話はお隣さんの呼び出しだったから学級名簿はお隣の番号に(呼)だった
高校卒業間際にお隣さんが引っ越したけど卒業名簿は変わらずお隣さんの番号に(呼)のまま
就職して少ししてマシなアパート借りて親と引っ越して電話もちゃんと引いたけど
同級生たちは俺の住所も電話番号知らないからしばらく俺が行方不明のまま同窓会が開かれてたらしい 学校の制服が入学式に届かないってニュース見て
入社式に着るスーツ持ってなくてギリギリまでバイトして
やっと買えたスーツのズボンの丈直しが間に合わなくて学ランで入社式に出た事思い出して泣きそうになった
社長や工場長にはすぐに覚えてもらえて「貧乏を恥じるな」と言ってもらったけどさすがに恥ずかしかったなあ
制服の利点は着る物を考える手間が無くなったり子供を地域で見守りやすくなる(事件とか特別支援が必要な子の行動とか)だったり
生活レベルの格差が目立たなくなるとかコメンテーターの人が言ってたけど
衣替えの季節にワイシャツ持ってなくて困ったヤツが俺含めて学年で3人くらいいて
着る物で悩んで生活レベルの低さを露呈する事もあるんだぞとこっそり思った 安いスーツしか着れなかったな。でも作業衣の制服だあったので良かったよ。 高校時代、バイトは基本禁止だったけど家の事情を先生方が考慮してくれて
同級生の家の家業を手伝う形でバイトして、運転免許をとるために貯金してたんだけど、
就職決まって通勤用の服も靴もカバンも、諸々無いことに気づき、揃えてたら貯金無くなった。
大人になって貯金はそこそこできたけど、なんだかんだでいまだに免許持ってないよ。
当時って、今よりも服も靴も高かったよなあ… そりゃ当時はほとんどメイドインジャパンだったからな
今ほど安くない代わりに品質もブランド力も桁違いだった訳だし たしかにバブル時期にローン組んで買った服で一部残ってるものを
今触ると、生地の厚さが全然違うから驚くわ。中国製はペラペラなんだよね、安くていいけどさ
先日、街中を久しぶりに少しだけ疲れない範囲で歩いてみたけど、中三の時に
友達と自分と3人で「バイト募集してませんか?」と聞いて回った路地とか通って
懐かしかったわ
自分も同級生が自営してたので小学校高学年から手伝いに行ってたよ
兄も中学から新聞配達してレコードが息抜きだったみたい
たまに寝過ごすと、新聞販売店から黒電話に電話がかかる
自分の家は商売してたから店は肌色で、家は黒だった スイッチする黒い箱があって、二階と一階で、通話をつなげられるのよ
間違えて受話器揚げる前にそのレバーを倒すと切れちゃうw
もっと上の先輩世代も小学生高学年から牛乳配達やってる人とかいたよね
今なら児童虐待?wになるんかもしれんけど、敗戦後はそんな事言ってられなかった
今の若者は知らん世界の話やで あと、服とかカバンはとにかく親戚からのもらい物や
近所からのもらい物で凌いだよ >>632さんは、おそらく都会育ちじゃないか?
何故なら田舎なら親戚縁戚がいて、大体その辺りは賄えるんだよね
もちろん、とんでもないセンス、時代遅れ、サイズ感の違い、があるんだけれど
昭和の時代は、とにかく物がなくて人から借りるのは当たり前、って時代だったと思う
物がない分大切にしたし、まぁとにかく戦争世代の、物を捨てないこと
まぁ、第三次大戦がこれから起こるなら、今後もあまり捨てない方がいいのかもしれんけどね
このスレにくるとあれこれ懐かしいよ 兄貴は、何でも新しい物買って貰って
私は、親戚からお古傷だらけのつくえ >>636
632だけど、本当にこのスレ懐かしいことたくさん思い出すね。
つらいことの方が多かったけど、あれがあったから今はちょっとしたことでもしあわせ感じられる。
金持ちから見たら負け犬みたいに思われるだろうけど、雨漏りがしない家に住んで
毎日風呂に入れて好きなメシが食えるってだけでしみじみしあわせだわ。
不幸自慢じゃないけど、自分は貰いっ子で養父母は貧乏すぎて、親戚にもあまり関わられなかったんだ。
一番歳の近いイトコにたまにお下がりもらうくらいで、ほとんど着たきりでそれでいじめられたりしたよ。
関東の山ん中の話。
長文ごめんなさい。 仕事が辛い時にこのスレ読んでる。
子供は成人して、本来は楽出来る状態の筈だけど、寄辺無いので、いまでも頑張らないと未来がない。
波平より一つ歳上になったけど、新しい事を覚えないといけないから、見た目は還暦超えらしいが、見た目よりかは中身は若いらしい。
やっと、五十越えて新しい事を出来るというのを幸せと思っている。
お金がない呪縛は解けないけど、仕事柄、守ってくれるギブアンドテイクのしがらみさんが心地良い。
長文スマソ。 >>637
自分のコメントかと思った!
私もそうだった。
学生カバンもスポーツバッグも兄貴のお古。
服は従姉妹のお古。
年に一度のお年玉で新品を買おうとしたら、その金まで親にまきあげられた。 自分は中学校の制服がお古だったんだけど小柄だったんで肩が落ちてるし袖は長いしで恥ずかしかった。だけど中1の夏休みに急遽引っ越す事になり転入先の制服は新しいのを買って貰えた。 昔に比べりゃ、金も入るし
ちょっとは幸せそうに見えるのさ
だけど忘れた時にへまをして
ついてないぜと苦笑い
金が欲しくて
働いて
眠るだけ たまの楽しみは風邪ひいたって
嘘ついて寝ていると
ばあちゃんがりんごとバナナを買って来てくれた。
嘘のようなホントの話! 病気にならないと
りんごもバナナも食えなかった話
分かりにくくて、ごめん。 そうだったな。
テレビのある茶の間で寝て、NHK教育テレビでノッポさん見てるとカーチャンが桃缶開けてくれたんだ。
今もたまにずる休みして桃缶自分で開けるけど。 >>640
同じく
お年玉は、お正月町に1軒だけあったおもちゃ屋さんにお兄ちゃんと一緒にいくんだけど
毎年おもちゃ屋で、兄ちゃんに二人でお金あわせればこのおもちゃが買えるとお年玉巻き上げられてた。兄ちゃんの要求を断固断ると家に帰ってから母親になんで兄ちゃんの言うう事を聞かないと冬休み中ずーと母親に責められた。 >>645
ノッポさん見てた何でも作れるノッポさん
子供時自分にはノッポさんヒーロー的w
うちは風邪の時は、桃缶食べれた。 家には足踏み式のミシンはあったな
別にそれで内職をしていたわけではないけど、
裁縫には自信があったのか母がいろいろ作ってくれた
毛糸でセーターも編んでくれた
服を買ってもらった記憶はあまりないが、ジャンパーくらい >>649
wwwww
こいつ何でカタコト?知的障害者か?
お前性格の悪さ滲み出てるな >>638
そうだったのですね・・
自分の兄も、中学に入って母親方に来て、それは
別れた父親が兄を高校には行かせない、という話になり
母が10年ぶりに引き取ってせめて高卒に、ってかんじでした
父側の家では母が去った後にすぐ腹ボテの後妻が来て
兄はそちらで、小遣いをもらえなかったから
新聞配達をし始めたんじゃないかしら
昭和の中期までは日本全体が貧乏だったと思うよ?
米ソの冷戦終了が見えて来たモスクワ五輪ボイコットの後あたりから
後の中国市場を意識した、まず日本を西洋式に「更に」変えましょう、
みたいな波がきて、あの敗戦の薄暗い貧困が少し変化してきた印象だ 自分は冷たい井戸水で牛乳瓶を洗ってるのに、テレビでアメリカドラマ見ると
栓をひねればお湯が出てるらしい?!! 瞬間湯沸かし器ではなく!!
と、きらびやかで華美で明るい戦勝国をどれだけ羨んだかは懐かしい思い出だけれど
そんな国にも光と影の部分が当然あり、何もかもが完成されたような幸福とか
満たされた国、なんてないのじゃないか、と年とったら思うようになった
それと同じように、家庭もある種演技する場、というか本当に外からじゃ判らないというか・・・
638さんは、貧困よりも実両親がいない事の方をつらく、悲しく感じていらっしゃるのかも?
お金はがむしゃらに働けば自分で解決できるけど、子供時代の境遇は、どんな権力者でも
改善するのは難しいし、どうしようもない無力感を思い知らされるというか (よく知りもせず高説スマソ) ていうか昔のバナナ、ってほぼ真っ黒だったよね?
黄色部分4割、黒7割、ってイメージだわ
あと干しバナナが年寄のお茶請けによく出て来てたような?
それも黒かったし 水木しげるさんと布枝さんがゲゲゲの女房で
黒くなって売り物にならなくなった安いバナナを
買ってきて食事代わりにしていたね
すごく人気があった連ドラだけど、傷痍軍人に嫁いだ布枝さんが
当時の心境を語ったものではなかったな 中学校の帰り道にパン屋さんがあって袋一杯食パンのミミ10円で買って食べてた。
味より食べることが幸せだった。今は味が優先。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています