"当時の群馬県上野村の小学校、中学校の生徒が書いた文集を読んだ時、もっとも大きな衝撃を受けたのである。群馬県上野村立上野小学校148名の日航機墜落事故についての文集「小さな目は見た」(1985年9月30日発行)と、群馬県上野村立上野中学校87名の日航123便上野村墜落事故特集「かんな川5」(1985年10月1日発行)である。約53%の子供たちが、事故当日について詳細に書いていた。当時の小学校の校長先生に、先日内容の確認をとったが、事故直後にこの証言集を書かせた理由は、「事故時に見聞きしたことを書き記すことで、520名の人々の真の供養になる、さらに、この事故について、曖昧にすればいずれ忘却の彼方に追いやられることは必至であり、この子供たちの未来のために書かせた」との思いからであった。

特に、「18時45分」という具体的な時刻を書いた小学生H君の目撃情報は次の通りである。

「8月12日の夕方、6時45分ごろ南の空の方から、ジェット機2機ともう1機大きい飛行機が飛んで来たから、あわてて外に出て見た。そうしたら神社のある山の上を何周もまわっているからおじさんと『どうしたんだんべ。』と言って見ていた。おじさんは、『きっとあの飛行機が降りられなくなったからガソリンを減らしているんだんべ。』と言った。ぼくは、『そうかなあ。』と思った。それからまた見ていたら、ジェット機2機は、埼玉県の方へ行ってしまいました。それから、おれんちのお客が出てきて『飛行機がレーダーから消えたんだって』と言った。おじさんが『これは飛行機が落ちたぞ』といいました(ママ)」。

これに似た内容は中学生によっても記されているのだが、大きな飛行機1機が日航機だとすると、ジェット機2機はなんだろうか。その疑問を抱えたまま、私は、群馬県警が発行した当時の日航機事故特集記事の中に、非番の自衛隊員K氏が書いた文章を見つけた。

「8月12日私は、実家に不幸があり、吾妻郡○村に帰省していた。午後6時40分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム2機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした。『何か事故でもあっただろうか』と兄と話をした。午後7時20分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知った。」

午後6時40分という時間に、非番の自衛隊員が、航空自衛隊ファントム2機を目撃している。群馬県上野村の子供たちと同じように、日航機の墜落前の時刻である。

当時、航空自衛隊中部航空方面隊司令官だった松永貞昭氏は、機影消失(墜落)の1分後に出動命令を出して、ファントム2機を飛ばしたと語っている。その時刻は、公式記録によると、日航機墜落後の19時01分。空自百里F4EJ、2機緊急事態と認識して発進。それ以前には自衛隊機は一機たりとも飛んでいない、ということになっている(『読売新聞』2000年8月11日付)。それでは、墜落現場の子供たちや、非番の自衛隊員が見たファントム2機は、何だったのだろうか。これが最大の疑問である。"