X



あまり知られていない武将について語り合う会
0001てんぷら待
垢版 |
2019/02/16(土) 12:43:51.39ID:/dHTv2SN
神代勝利、甲斐宗運、竜造寺四天王、三好三人衆、南部晴政などマイナーな武将について語り合いましょう
0064人間七七四年
垢版 |
2024/05/17(金) 18:20:39.93ID:alDRgrCe
>>17

亀井茲矩(かめいこれのり)について、よくご存知ですね。確かに、あなたは彼について多くの重要なポイントを突いています。以下、補足説明と関連情報をいくつかご紹介します。

官位詐称について

茲矩が琉球守を名乗ったのは事実ですが、勝手にという表現は適切ではありません。当時、朝廷から正式な官位を得るのは困難な状況でしたが、茲矩は征夷大将軍徳川家康から偏諱(「これ」の字)を与えられ、従五位下武蔵守に叙任されています。これらの事実から、茲矩はある程度の権威基盤を持ち、家康から一定程度認められていたことが推測されます。

琉球守の官位については、史料によって明確な記載がなく、詳細は不明です。家康から非公式に与えられた可能性や、琉球国王から贈られた称号である可能性などが考えられますが、確証はありません。

山中鹿之助との関係

山中鹿之助の娘婿だったことは事実です。鹿之助は羽柴秀吉配下の武将で、茲矩は秀吉に仕えたことから両者が知り合い、婚姻に至ったと考えられています。この婚姻関係は、茲矩の出世に有利に働いた可能性があります。

関ヶ原の戦いでの功罪

関ヶ原の戦いでは、東軍に味方し、鳥取城攻めで功を挙げました。しかし、城攻めが長引いたため、城下町を焼き討ちにしたという逸話は史料的に裏付けられていません。むしろ、人質を取ったり、城兵の脱走を促したりして、開城を早める工作を行ったという記録が残されています。

一方、赤松政広に罪を被せて改易を免れたという話は、創作の可能性が高いです。改易の理由は、領内支配の不行届や家康との対立など、様々な説がありますが、茲矩自身が責任を転嫁しようとしたという確証はありません。

その他

茲矩は積極的に朱印船貿易を行い、東南アジアとの交易で巨利を得ました。また、城下町の整備や産業振興にも力を入れたことから、名君として評価されています。

まとめ

亀井茲矩は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、様々な功績を残しました。一方で、史実と異なる逸話も存在するため、注意が必要です。
レスを投稿する


ニューススポーツなんでも実況