少弐氏について語ろう
歴代当主ほとんど戦死。戦争に勝ったことすらほとんどない。
しかし戦国まで続いた大宰府少弐氏である。
とりあえず勝った戦いおしえてくれ 家臣の馬場頼周が謀略で龍造寺を壊滅状態に追い込んでるね 初代武藤資頼、二代少弐資能(弘安の役で受けた傷が元で戦死)、三代少弐経
資、四代少弐盛経、五代少弐貞経(有智山城で戦死)、六代少弐頼尚(筑後川
の戦いで菊池に敗北、少弐衰退の一因をつくる)、七代少弐直資(筑後川の戦
いで戦死)、八代少弐冬資(今川貞世に謀殺される、水島の変)、九代少弐頼
澄(北朝の菊池に反抗するも敗れ亡命、死亡か)、 十代少弐貞頼(豊前守護職を大内氏から奪い取るも病死、毒殺かも)、十一代
少弐満貞(大内氏に討たれ筑前秋月城で戦死)、十二代少弐資嗣肥前与賀庄の
戦いで戦死)、十三代少弐嘉頼(少弐氏再興のため大友と結び戦うが大内氏と
の戦いで戦死)、十四代少弐教頼(応仁の乱で東軍につき戦うが高祖城におい
て大内氏に敗れ戦死)、
十五代少弐政資(大内氏に奪われていた筑前・筑後を一時回復し少弐氏再興
を果たすが結局大内氏に敗れ専称寺において自害)、十六台少弐高経(父政
資より三日長く生きたため当主とする、政資とともに討たれる)、十七代少
弐資元(大友氏や竜造寺家兼の助けもあり一時的に勢力を回復し、大内義隆
と和議を結ぶがこれは謀略で結局自害する)、
十五代少弐政資(一時的に筑前・筑後を回復し少弐氏再興を果たすが結局大内
義興に敗れ専称寺で自害)、十六代少弐高経(政資より三日長く生きたので当
主、しかし結局大内に討たれる)、十七代少弐資元(大友氏や竜造寺家兼の後
ろ盾もあり大内氏と和議を結ぶがこれは謀略で、結局大内義隆に攻められる前
に自害)、 十八代少弐冬尚(竜造寺家兼に助けられ少弐再興を果たすも、馬場頼周の諫言
を信じ竜造寺一族を討つ、結果的にこれが少弐滅亡の要因となった、1559年竜
造寺隆信に攻められ勢福寺城で自害、しかし生き延びたという説もある)、
十九代少弐政興(一般的に政興は投手として認められていないが、大友宗麟と
結んで少弐再興を目指すも肥前中野城で竜造寺隆信に降伏) 一族衆
少弐景資(二代少弐資能の三男、文永の役で敵の副将劉復亭を討ち取る、しか
し霜月騒動で兄の資能に討たれる)、千葉胤頼(少弐資元の次男か三男、1559
年兄の冬尚とともに竜造寺隆信に討たれる)
その他もろもろ
少弐政資が大宰府を回復した後、大内義興が幕府から太宰大弐の位を
幕府から得て少弐攻撃の大義名分ができた、のでその時に大弐と名乗っても
いいはず・・・だが正確には名乗ってなっかったと思う
少弐政興と千葉胤頼(少弐資元の子)の系統が生き残ったはず、現在でも少弐という苗字は全国に10軒ほど残っているはず 少弐政興と千葉胤頼(少弐資元の子)の系統は生き残った、今でも少弐という苗字は全国に10軒ほどあるらしい 五代少弐貞経は精力絶倫で20人ほどの子があったらしいが
皆有智山城で菊池に滅ぼされたのか?
誰か知らないか 自己解決した、一族郎党ほとんど討ち死にということらしい
このスレ自分しか書き込んでないのでだれか質問でもしてくれ
大内氏は、筑前を奪取する大義名分を得るため、公家に多額の献金をして、
太宰大弐の官職を得て、少弐は先祖が太宰少弐だったことから名乗っているのに対して、
その上だと誇示したところが面白い。 少弐ってなんで弱いのに筑前とか筑後とかの守護に代々なれたんだろ?
すまんかった、つい口が滑った
おわびに武勇伝を一つ
少弐資時(三代少弐経資の三男、文永の役で十二歳で初陣、このとき先陣に
立ち鏑矢を放つがそれが元・高麗連合軍のあざけりの対象となった話は有名、
弘安の役にも壱岐の守護代として出陣、壱岐にて元の東路軍と戦い激戦の末
守備隊全員が玉砕、若干十九歳であった)
少弐一族の肖像画って見たことないんだが、どっかにあるのか? 歴代当主がほとんど真っ当な死に方をしていない、凄いな。 要するに何百年かかっても大内を越えられなかったダメ豪族
対馬の宗や肥前の江上・神代とか動員できる戦力は決して小さくはないのに
無能続きだったまさに滅びるべくして滅びた一族 蒙古襲来の時の絵巻に少弐景資が描かれていたはず、他は知らぬ 少弐武藤(詳しい系図関係は不明、筑後川の戦いで戦死) 筑後川の戦いも大友少弐連合軍五万で、一万に満たない菊池軍に敗退しているし戦下手は否めない 嘉頼の死因は不明で、高経は政資より先に死んだって記憶があったが
まあウェブ経由の情報しか知らんが
朝日氏とか横岳氏ってどうなったんかな
勝ったのは大内盛見倒したときと田手畷ぐらいか 確かに嘉頼は1444年に対馬で死去している。スレ立て者として誤った情報を書いて申し訳ない。
高経が大内氏に討たれたのは1497年4月21日、父政資が自害したのは4月19日でわずか3日だが高経のほうが長く生きてる。 田手畷の戦い
1530年北九州で起きた大内氏と少弐氏の戦い。1497年少弐政資を自害させ、少
弐氏を肥前の小領主にまで追い詰めた大内義隆は、少弐氏にとどめを刺すべく
少弐資元の居城勢福寺城を攻撃するも竜造寺家兼、馬場頼周、鍋島清久などの
諸将が奮闘し、鍋島清久の赤熊軍団(詳しくは忘れたがお面をつけて奇襲をか
けたという)の活躍などあり大内氏を敗走させた。
この後、勢いに乗った少弐氏は大宰府に侵攻するなど、一時精力を回復するが
1535年大内氏当主の義隆が自ら大軍を率いて出陣してくると、竜造寺家兼の裏
切り?もあって結局資元は自害。
田手畷の戦いで大内方は横岳資貞、筑紫尚門らを戦死させてるが
どちらも少弐氏の一族という悲劇。 少弐冬尚の誕生年って1527〜1529年とするものが多いのですが、父親が年取りすぎている気がする
のですけど・・・。兄弟も1530年以降の生まれみたいなのでつじつまはあっているようですが、
定説ってあるんですかね・・・。天下統一とか戦国史では1510年を生年と設定してますけど。
ご存知の方レス願います。
スレ立て者だが、自分の手元にある資料によると、少弐資元が1517年に幕府から正式に大宰少弐の位を受け、家督を松法師丸(冬尚)に譲った、と書いてあるから冬尚の生年は当然1517年以前ということになる。
あと、上の少弐歴代当主一覽は自分が書いたのだが、間違いがあるかも知れぬ。 少弐頼澄(一族が、筑後川の戦いで菊池に多大な損害を被ったため
父少弐頼尚の命で宮方につく、このことに兄の少弐冬資は非常に怒り
少弐氏は分裂することとなる。この後今川貞世に兄冬資が暗殺されると、
少弐九代当主となるが、同盟を結んだ菊池他の北朝方の勢力が衰えて
くると、有智山城を追われ肥後に亡命した)
上の歴代当主一覧でなぜか、北朝の菊池に反抗するも、と書いたが
正しくは難聴の今川貞世に反抗するも、だった、申し訳ない。 冬尚の生年定説は1510年。 ただ父資元の生年がはっきりしてないので、何歳の時の子かは分からん。 このスレほとんど自分しか書きこんでないので、誰か何でもいいから質問してくれ、俺はこのスレをなんとしても100までいかせたい。 鍋島氏は少弐教頼の子経房が祖と名乗っていたが、家紋が明らかに違う(少弐一族なら四つ目)、 ただ、筑紫氏は四つ目なので少弐氏と関係があるのは確か 眠かったので意味不明なこと書いた。正しくは北朝の今川貞世に反抗するも、であっていた。 申し訳ない。 冬尚の生年について、このマニアックな質問にお答えいただきまして本当にありがとうございます。
ウィキペディアや信長の野望は1529年を生年と記載してますが、何が根拠
なんですか。1559年に死んだときに享年30才とでも記録されてるんですかね。 足利尊氏を助けて多々良ヶ浜で菊池に勝ったのは何代目?
この頃が小弐氏の最盛期だよな。 冬尚の年齢の根拠はさすがに分からんが、前にも書いたが1517年に家督を継
いでるのが明白だから人名辞典とかだと1510年生まれと書いてある。
あと、余計なことだがかりに1529年が生年で1559年に没したなら、享年は31歳になる。
昔は生まれたときから1歳と数えたから。 少弐頼尚、少弐家六代目当主。
ただ、少弐氏全盛期を築きながら筑後川の戦いで大友含め六万の兵を率い
一万程度の、菊池に負けたのが惜しまれる。
一族は相変わらず戦死するし、有力家臣を多く失ったので、
少弐氏が分裂するきっかけを作ってしまった。 南北朝争乱じゃ大友も分裂してたし、九州は南朝が強かったけど、
少弐の場合は室町幕府にも終始逆らってるんだよな、応仁の乱の一時期を除いて
冬尚の娘が横岳資房に嫁いでたって話も聞くけど
資房の父の資貞が幼少の資元を引き取ったみたいな話も聞くから
けっきょく何がなんだか分からん一族だ
ウィキペの生年はいいかげん、というか武将ファイルソースので書かれて
そのまま残ってるってパターンだろうな 横岳氏(横岳氏は少弐氏の支流で、少弐貞頼の次男頼房に始まる)
横岳資貞(横岳頼房の子、少弐政資・高経父子が大内氏との戦いで討ち死に
したため、家督を継いだ資元をよく支援し、大宰府回復に貢献した。しかし
1531年幕府が大内氏に少弐氏追討の命を出し、大内氏が大軍を持って攻めて
きたため、筑紫尚門、朝日頼貫らとともに大内方に寝返った。このとき子の
横岳資誠、馬場頼周・頼員父子、竜造寺家兼、鍋島清久、筑紫惟門、出雲頼
通らの活躍で、なんと大軍の大内勢を破った。この戦いで大内方の横岳資貞、
筑紫尚門、朝日頼貫ら少弐一族が多数討ち死にするという悲劇。
横岳資誠が寝返らなかったのは少弐冬尚の娘を妻にしていたからとされる)
どちらかが勝っても家名を絶やさない策に出たのだろうが裏目に出たな
どうせ大内はこいつらを先陣に使ったんだて 宗像大宮司に伝わる逸話、
大宰府を回復した十五代少弐政資は自信を得、おごり高ぶるようになった。
宗像大宮司に猫の金像があった。政資はそれを無理に所望し、大宮司はしぶ
しぶ手渡した。
ところが、政資は「猫の金像はもうひとつあるはずだから、それも欲しい」
と言い出したのである。
これを聞いた宗像大宮司は非常に怒り「あるものはもうすでに渡した。ない
物を請うとは、奇怪なことよ。必ずや少弐を七代のうちに滅亡させる。」
と言い、小指を噛み切り、壁に少弐への恨みを書き綴り切腹して果てた、と
いう。
ただ、そのような事があったとはどの書物にも記されていない。
事実なら恐ろしい話なんだが 竜造寺家門(竜造寺家兼の子。竜造寺家兼は1535年少弐資元が自害したさい、
大内氏との内通を疑われ、それ以来少弐氏の家臣から孤立するようになった。
しかし、十八代少弐冬尚は少弐氏の危機を感じ、竜造寺家兼と和解することを
決意する。
そして、家兼の子竜造寺家門を少弐の執権とすることを決め、復帰した家兼ら
の活躍で少弐氏は再興を果たした。
しかし、これを見た馬場頼周は竜造寺が強大になることを危惧し、冬尚に
先代少弐資元が自害したのは竜造寺の企みによるもの、と諫言した。
冬尚はこれを信じ、竜造寺一族をことごとく滅ぼしたのであった。
このとき家門も討ち取られ、馬場頼周らによって家門の首は散々足蹴りに
されたという。ちなみに竜造寺隆信は家門の兄家純の孫に当たる)
家門というより、竜造寺一族抹殺の話になってしまった。
伊達家も少弐家には及ばないな。
探題レベルで同じとみなすと奥州探題=九州探題となる。
現地受領の総帥のレベルで並ぶのが鎮守府将軍陸奥守=太宰少弐筑前守の家柄。
探題と現地受領トップでどちらが上になるのかは見方は論争もあろうが
東北九州という保守的土地柄を考慮すると
新設探題職は歴史の重みからみてやはり軽いとみられたはず。
鎮守府将軍の歴任者としては藤原秀郷、平貞盛、源頼義、源義家、藤原秀衝、
足利尊氏、北畠顕家ら歴史を彩った華やかな名が連なる。
太宰少弐も現地実務官では事実上トップ。
太宰大弐の平清盛、頼盛、少弐の藤原隆家らこれも摂関家血筋や伊勢平氏棟梁ら
歴史上の著名人物がつらなる。
伊達家は戦国末期に奥州探題を拝命したり
系図上奥州藤原氏につなげかえたりしているけど
鎌倉一御家人からスタートした家史は変えられなかった。
少弐家は鎮西すべてを束ねる鎮西奉行職からスタートしている。
その意味からも少弐家は伊達家よりは上であろう。 これほどまでに少弐氏を褒め称えた文ははじめて見たw 大宝寺氏は武藤頼平の子氏平(少弐資頼の弟)が祖、
代々氏を通字にしている。
出羽の戦国大名、戦国期には大宝寺氏のほうが栄えていたかも知れぬ 朝日、綾部、江上、神代、宗、筑紫、馬場、鍋島、横岳、竜造寺ら
優秀な家臣は山のようにおり、大友とも関係が厚いのに、
戦いには負けるという悪夢を繰り返した。 >>64
竜造寺と鍋島を併記するのは如何なものかと
まあ並べられた名前を見ても独立色の強い豪族たちばかりで、
小弐家が家臣団を作り上げることが出来なかったことが見て取れるな 十一代少弐満貞(十代少弐貞頼の子。子に資嗣、嘉頼、教頼ら。
1404年父貞頼の死により家督を継ぐ。九州探題渋川満頼・義俊らと戦い、
1423年博多にて渋川義俊を打ち破った。しかし義俊が大内盛見と結んで再び
戦いを挑んできたため、窮地に立たされる。相変わらず大内との戦いになると
弱い少弐氏は案の定大敗し、博多を放棄し逃亡した。
しかし、粘り強いこの当主は1431年大友持直と結んで筑前守護大内盛見を攻め、
なんとこれを討ち取った。
しかし大宰府回復もつかの間、1433年先代盛見の恨みを果たすべく家督を継いだ大内
持世が自ら出陣してくると、大内の大軍には敵わず結局筑前秋月城で自害した。
このとき子の資嗣も肥前与賀庄の戦いで戦死したという。
満貞享年39歳というので、資嗣はまだ十代だったかもしれぬ。二人の遺児は
対馬の宗氏のもとへ落ち延びた。後の嘉頼、教頼である)
個人的には、満貞は歴代当主のうちで最も戦上手ではなかったか、と密かに思っている。
大内氏の将を討ち取ったのは後にも先にも、少弐満貞だけ。
名称ということにして良かろう、と思っているが…、異論あれば言ってくれ、
さっき書き込んだばかりだが、資嗣享年二十一と書いてある本を
みつけた。あと小法師丸という兄もいたらしい。
何か質問あったら書き込んでてくれ、できる限り答える また間違った事書いてしまった。確かに資嗣の幼名は小法師丸だった。
兄と思ったのは氏法師丸という名の人物であった。申し訳なかった。
しかし少弐満貞は若くして死んだのに子が多い。系図に見えるものだけでも、
資親、氏法師丸、十二代資嗣、十三代嘉頼(初法師丸)、十四代教頼(松法師丸)、
頼経(馬場氏祖)、資治、頼門(筑紫氏祖か?)らがいる。
少弐氏は代々幼名に〜法師丸とつける。
あと、個人的に少弐氏のことが知りたい人は、「武藤少弐氏の興亡」という
本がある。絶版だが九州地方の古本屋とか図書館にはあるかも知れん。
興味がある人は読むといい。 少弐元盛(少弐資元の四男。父少弐資元が自害した時はまだ一歳であった。
資元が自害した後は横岳資誠に養育されたという。
それ以後のことは良くわからんが、子に少弐資宗、関新左衛門、中牟田七郎兵衛、
中牟田新兵衛がいる。この兄弟は皆少弐滅亡後は竜造寺に仕え、1584年沖田畷の
戦いで兄弟全員討ち死にしたという。
なお元盛は僧になったと何かの本に書いてあった気がする)
誰か質問してくれ・・・
結構力いれてるんだが・・・ 馬場鑑周(あの馬場頼周の孫で政員の子。十八代少弐冬尚が自害した後、
弟の少弐政興を擁立し大友宗麟と結んで少弐氏再興を目指すも、竜造寺隆信に攻められ
1565年肥前中野城において降伏。この時の政興の悔しがり方は尋常ではなかった、
といわれている。
少弐政興は出家したらしいが、鑑周は母が竜造寺家純の娘だったこともあり、
一命を救われ竜造寺隆信に仕え、1582年の竜造寺政家の肥後攻めにも
参加している)
ついでだが、母は竜造寺家純の娘というが、家純は竜造寺隆信の祖父であるから
年が変な気もする。まあギリギリあるかも知れんが…少し疑わしい。
頼周と政員が殺害されたときも、やっぱりママのおかげで生き残れたのか
東肥前十九将?だったっけ 25代義弘、堺で幕軍と戦い自刃
26代盛見、筑前少弐氏との戦いで戦死
27代持世、足利義教暗殺の際、巻添となり死亡
28代教弘、伊予出陣中病死
29代政弘、大軍を率いて応仁の乱に参戦、後半の
戦局を支配
30代義興、足利義稙を奉じ大軍を率いて上洛、再度
将軍とし、11年間幕政を左右する
こうしてみるとライバルの大内も
なかなかドラマチック おお! 1ヶ月振りにレスきたか!
確かに大内もなかなかだが、少弐もすごいぞ、
なにしろ歴代当主でまともに死んだのは嘉頼だけだ。
まあ大内と少弐は長年のライバルでもあったからなあ・・・ 少弐との戦いで討ち死にしたのは大内盛見ぐらいか。 嘉頼も対馬で客死って感じだからまともに死ねたとはいえないような
ほとんど記録ないみたいだけど、盛経はまともに死んだと思うよ 少弐が生き残れたのは
武藤資頼の世渡りの上手さ…70%
実績はないが名門扱い…25%
悪あがきだけは一流…5% 前半は菊池、後半は大内、相手が悪すぎた
でも、大友は大内とまともにやりあっていたのに、
大友よりも本来格上であるはずの少弐が、こんなにも脆いというのは、
やはり少弐の側にも原因があったのだろうな
筑前のような交通の十字路のような場所は、逆にまとめにくかったか?
あるいは、鎮西探題がいたから、権力集中できなかったからか?
九州北部は常に戦乱の最前線
そんな地域が本領であったことが運の尽きかも
靡下の豪族たちが離合集散を繰り返す最大の要因となってしまった
家を守ることで精一杯、家臣の勢力を削って権力を確立することもできず
優れた当主も特に現れず、最後まで都合の良いシンボル的存在に甘んじてしまった あれだけ幕府に逆らってむしろよくもったほうだと思う
探題の渋川よりは長持ちしたんだよなぁ >>95
基本的には「資」と「頼」と思われ。
他に「経」や「貞」もあるが。 1さんは何故に少弐氏に興味を持ったンですか?
私は野望天翔記の歯応えを求めて、少弐で攻略した事ですが。 >>97
1じゃないが おいらは元寇や尊氏との関係から 名門なのに歴代当主のほとんどが天寿をまっとうできないとこかな 高経も資元も冬尚もか、生年はわからないから没年齢は不明だけど 一色範氏、懐良親王、足利直冬、今川了俊、渋川満頼・義俊、役者ぞろいの中でよく生き残ったもんだ
大内が本格的に出てきてからは厳しいが 現代の末裔と思しき人々は少弐じゃなくて武藤を名乗ってるよね?
なんで武藤に戻したの?大宰少弐じゃなくなったのに少弐名乗るのはアレだから? バカ、没落してからが少弐氏の底力の見せ所だろうがw 戦国時代は少弐氏より秋月氏のほうがはるかに活躍したね 当方、福岡市西区在住。名字が少弐。
であるが、歴代水呑み百姓。
子孫ではないだろね ハ,,ハ
('(゚∀゚∩_ おいらをどこかのスレに送って!
/ヽ 〈/\ お別れの時にはお土産を持たせてね!
/| ̄ ̄ ̄|.\/
| .モツ煮..|/
 ̄ ̄ ̄
現在の所持品:たばこ・ライター・コーヒー・ブラックブラック・枕・ケータイ電話・睡眠薬・聖教新聞・ダッチワイフ
外付けSCSI340MHDD・ネットランナー4月号・TYG02・小嶋進社長・ゲルトモ・ディプスファンタジア・抵抗1kΩ(黄紫橙金)
(途中10行略)
イーゼルボンバー・山田オルタ・麻枝・DDO・C鯖・ナカノ5+ニゼルsh→シャワフリ・胸パッド・日本酒・眉毛・包皮
オーストリー・北村ひとみ・辻野・幹事・デイジーコラージュ・草なぎ剛・バリカン・YAMAHAシネマステーション
GEOBIT・孫策・NIKON羊羹・風子・あっぴ・SD-W2002・0.6mmのほうのWiiストラップ・炊飯器・ハロプロ・高橋萌木子
モジャ公・耳・すりゅよ・D端子・Aカップ・臭作・征西府・松平容保・クシャトリヤ・ドアラ・ドアラ・ドアラ・段ボールまん
マケイン・ヒラリーいいえ、ケフィアです・カピ様・欝袋・おっぱっぴー ・新成人・ファ板・HARE・コシナツァイス
DT18-70 F3.5-5.6・悟リ・第一段階・ゴジラ・高岡蒼甫・おっぱっぴー・蒙古襲来絵詞 上総(介)というのはいるけどね
他にもいるかな?官名を名乗っている一族 おれは馬場頼周の祖先らしい
家紋がにてて 馬場っていう名前で 佐賀の前にすんでた
>>123 ___
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| .>ノ(、_, )ヽ、.| < あまり私を怒らせない方がいい
__! ! -=ニ=- ノ!__
/´ ̄ ̄ .|\`ニニ´/ `ヽ
{ .|__  ̄ ̄ヾ }
i;;',,, r---イ /|,、_,, ,',;:',i
.l;';',;,, } /;\ / ヽ / ,;,;;',;l
.|;;',;, } ./;;;,, \ / ;;;;;;ヽ ,,;;','i
i;',, / /;;,',';; ノ--, ',',;;::',',゙i ,,';';i
i;,'; /./,',',';;" / \ ',',',;;,'i ,;',i
/ / i 、 / ヽ ',;::'、| \
ヽヽヽヾ丿 〈 ヽ'' {////
```` ト, i | 、 i´´´
|',',;; } ! ',',;;i
|,','、 / ヽ',',','|
!;;', / !,',;,;'|
!'' { }'' !.
/ i, 〉 ヽ.、
彡、,,,-‐┘ └ュュュュ
名門と呼ばれる割には目立ってない
十数代も続いた割には名将が特にいない
畳の上で死ねた当主が少ない
その割には、滅亡したと見せかけといてすぐ復活する >滅亡したと見せかけといてすぐ復活する
この点に関しては日本史上で最強ではないか? といっても連続復活記録が途中で途切れてしまってるんだが… 鍋島みたいな成り上がりの家系がよく使う手だからあてにならんけど、
少弐の当主の肥前への流浪癖を考えたら、そこらに種蒔きしてても
不思議はないから厄介 100年も前の話って考えられるし、
龍造寺が何回か本領失陥してるから
鍋島もそれなりに記録の散逸があったんじゃないかな 100年といっても現代とは寿命が違うからね。
今なら祖父が祖父に聞いた話とかは身近。 資元にしても冬尚にしても波乱万丈でしかもむくわれないからなぁ それが少弐クオリティだからな
そもそも少弐は元々身の丈に合わない大封を得ていたような印象 身の丈にあわないってこともないんじゃないかな
室町幕府にあれだけ反抗して、しかも最強守護大名の大内が相手になったから
戦国初期には既に足元がフラフラだし 細川と良いか 山名・大内と良いかに諸勢力は分かれるね。 少弐は名族だから 大内には負けない ってプライドはあったろうね。 織田有楽や日向の伊東みたいに
プライドさえ捨ててしまえば家名存続出来たかも知れないのにね 意地は重要だが、名門の意地で戦うわけじゃねーだろ
物語の読み過ぎだ 室町期の少弐に関しては「意地」以外の要素が見つからない 基盤を強くしすぎて他の御家人の離反を招き、逆に弱体化した>得宗 もちろん大きな影響を与えたが、それが致命傷だったわけではない。>元寇
むしろ元寇以後の専制の強化の方が、御家人に与えた影響は大きかった。 時宗は元寇の後高麗討ち入りを本気で考えてたらしいから、時宗が長生きしたら
もっと早く酷い事になった可能性も高い。 少弐盛経って影薄いけど
やっぱ九州探題に北条がすべりこんできたのが原因かな 少弐氏の末裔が生き残っていれば龍造寺伯庵が龍造寺再興を訴えた時に、
「鍋島が龍造寺から政権を簒奪したと言うのであれば、龍造寺こそ我ら少弐氏から政権を簒奪したではないか」
ってはっきり言ってくれそうだな。 まあ戦国大名なんてどこも何らかの下克上でのし上がってきた連中だし…。 名門のプライドは強そう。大内なぞどこの馬の骨かと とか。 けっこうな名門なのに歴代当主ほとんどが畳の上で死んでいないというのが凄いよね 職場に菖蒲(しょうぶ)って人がいて、
ちょうど少弐氏がいた辺りに実家があるんだけど、
この少弐家となんか関係あるんでしょうかね? >>176
少弐冬尚は家臣の江上氏から勢福寺城を追い出され麓の城原で死んだと云う。
その地にはポツンと墓が建っており悲哀さえ感じる。
>>178
菖蒲氏って神代氏の家臣と思うけどね。
もっとも神代氏は少弐氏の家臣だから多少関係はあるかもね。
>>179
レスありがとうございました。
本人は“何かしら少弐氏に関係する家の生まれなんじゃないか”と
内心ワクワクしているようでしたが(信長LOVEだそうですが)、
少弐家が滅亡してしまってるんじゃ、
その後の末裔がどうなったかは難しいですよね…
神代氏の家臣に文字通りの菖蒲氏がいたんですね。
たぶんそっちは知らないと思うので教えてあげようとおもいます。 龍造寺と敵対したのはいつくらいでナゼ険悪になったん? 母方なので家督は受け継いでいませんが、自分は少弐氏の末裔です。
江戸中期に書かれたと思しき家系図があります。題名が藤原姓平井系図。
代々鍋島藩平井氏の子孫で、曾祖母が鍋島藩の乳母にあがったそうです。
系図によると鍋島直茂公の御子女を室に娶った記録があり、血縁があるようです。 >>183
夢を壊すようで悪い気もするが、
江戸時代の系図は売買されたり依頼製作されているので、
信頼性はゼロだと思っておいたほうがよい。
系図は証文や感状などの古文書(偽書含まず)や過去帳それに藩士録などと合わせ、
それらがすべて合致して初めて信頼性が得られる。
>系図によると鍋島直茂公の御子女を室に娶った記録があり
鍋島氏側の系図で確認が取れるかどうかは調べてる? >184
歴史家の人が位牌と戸籍でかなり詳しく調べて間違いないと断言していましたの
でかなり精度は高いはずです。また、代々佐賀藩に仕えてきた事は紛れも無い事実。
鍋島氏の出自を少弐氏とする説は、大内氏と戦って敗れた少弐教頼は
龍造寺氏を頼って肥前佐嘉に来て与賀に滞在した。
このとき経直は教頼と知己となり、娘を教頼の妾に差し出し、二人の間に
一子ができた。応仁二年(1468)、教頼が戦死したのち、経直はその男子を
養育して家を譲った。これが清直で、ここに鍋島氏は藤原姓を称するように
なったのなだという。清直はのちに経房と名乗り、少弐氏系の鍋島氏系図は
この経房をもって太祖としている。
出典 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nabesima.html
系図には平井興市朗 室 鍋島直茂公御養女 百武志摩守とあります。
幕府編纂には「寛永諸家系図伝」、「寛政重修諸家譜」などとして、
編纂が行われているので、名家であればその時期に伝わっているのは
理にかなっている。
個人的には重要な記録なので、一度機関に見せた方がいいと思ってます。 そう、平井興市朗さんが改名して経房としたそうです。平井氏は須古城主の家柄です。 やっぱり、上の鍋島藩の話とは別みたい。
あくまでも藤原/武藤/少弐系の平井氏であって、系図には鍋島氏とは一言も書かれていませんでした。
この《少弐氏/筑紫氏》系図の平井氏とぴったり符合します。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c4.htm >>185-187
須古平井氏というと少弐氏の分かれ対馬氏の分家じゃん。
少弐氏の子孫というか、れっきとした少弐氏一門だ。
しかも平井氏の本家筋ならすげえぞ。
ただ、平井興市郎じゃなく、平井與市郎な。
勃興の興じゃなく、与の旧字の與。
先祖の名前を間違えちゃダメだぜ?
あと直茂の娘じゃなく養女だね。
それでも百武賢兼の娘だからけっこう自慢できるんじゃないか?
平井与一郎で調べたら木山家文書にも名前があるみたいだ。
朝鮮出兵にも従軍してるそうな。
系譜について聞いてみたいんだが、
直秀(妻は竜造寺隆信養女。兄の経治と敵対し自害)−甚左衛門−与一郎
という父子関係で合ってるのかな? >188さん
185-187です。凄い!お詳しいんですね。
調べた方のコメントでは本家がまた別にあるようです。
しかも、ここ数百年なぜか女系一族となり、養子縁組みも交えつつ続いています。
平井直秀-與市郎(甚左衛門)-百武五左衛門-弥右衛門といった系譜です。
系譜の最後に書かれている方がこの家系図を作成したようです。
少し省略していますが、アップしましたのでご確認下さい。
http://www1.axfc.net/uploader/Img/so/58578
左の家紋が現在家系図が残る須古-中島家に伝わる織田木瓜の紋です。
右は言わずと知れた藤原氏の寄掛目結です。
今年の夏、自分が伝説の一族「少弐氏」の末裔だと知り、太宰府に武藤資能の
墓参りに行きました。
今は歴史本を読んだりしてるのですが、4世紀にも渡って登場する少弐氏はなぜ一般的に
認知されていないのでしょうか?
自分にはやっぱり日本を代表して戦った武藤資能がスーパーヒーローです。 少弐氏は我が儘で宗像氏の家宝「金の猫」を奪い
更に要求して宗像大宮司を自害させたから嫌いだ 歴史を見ると血みどろですからね。正直その話を読んで眠れませんでした。
きっと多方面に残る恨みに対して供養した方が良いでしょうね。 龍造寺氏が永禄6年から須古城の少弐系平井(武藏守經治)氏と数度戦ったのち和睦した。
この時和睦として經治の弟左近太夫直秀と隆信の養女が婚姻のち一子をもうけた。
天正2年、和睦が決裂して再度合戦となり、この時も龍造寺氏が敗北したが鍋島直茂が
密かに直秀と会い龍造寺氏への内応を勧めた。
この策略で一時的に經治は逃亡したが勢力を盛り返し再度龍造寺氏と合戦。この折直秀が討死。
この直秀の一子(興一郎)がのち龍造寺政家の小姓となり御側定詰番を務め、成人のち
平井甚左衛門と号し百武(賢兼)氏の婿となっている。
>>189
百武五左衛門尉さんは寛永五年鍋島藩着到によると禄高六十六石だね >>192-193
更なる情報ありがとうございます!だんだんとご先祖様の事がわかって来ました。
平井氏も少弐氏と同じく滅亡の道をたどる様なのですが、その過程で鍋島藩に組み込まれて行くのでしょうね。
自分のひいおじいちゃん位の代では、佐賀で麹酒屋を営んでいる大地主で佐賀藩にもお金を貸し付けていたそうです。
須古というと佐賀県の白石町だそうですが、平井氏系統は須古鍋島家か白石鍋島家になるのでしょうか?
いずれにせよ、少弐氏の血を現在まで受け継いでいるのはごく少数でしょうね。100人に満たない気すらします。 血縁関係があるか分からないけど、自分の5世前が少弐氏庶流の末裔(?)に嫁いでる。
本野という家で、村田家に仕えていたみたいです。
>>189さん
織田木瓜の中島家…
祖母の実家と同じです 白石は何か縁があったようなので、繋がりがあるのかも
知れませんね
で、我が家の家紋が四つ目結(少弐氏とは無関係です) 少弐は最初から最後まで自他ともに血まみれの一族なのに
お公家さんみたいな名前のイメージのせいで、損をしてるともいえる >>195さん
189、194です。
興味深いお話ありがとうございます。佐賀も実家のある大牟田もさほど大きい街ではないので、
きっと繋がりがありそうですね。ちなみに百武氏だと数百人程度残っているそうです。
>>196さん
少弐氏は公家みたいなではなく公家でしょう?足利尊氏を助けて南北朝時代で対立した際、
この武家ふぜいがと言って対立したようです。歴史の捉え方は色々あると思いますが、
少弐氏は対馬宗氏を含め多くの周辺士族に助けられ、何度となく合戦に負け皆殺しにされても這い上がり、
圧倒的なブランド力で、団結のシンボル「寄掛目結」の旗の下に復活を遂げた壮絶な生命力を持つ一族だと書かれていました。 >>200
武藤氏の成立事由は二つ。
1.武蔵を本拠とする藤原氏であったから「武藤」。
2.武者所に任じられた藤原氏が祖なので「武藤」。
少弐氏の場合、1と2を兼ねている。
武蔵を本拠とする藤原氏の流れを汲み(道長流と秀郷流がある)、
武者所に任じられた武藤頼平が、少弐氏初代資頼の養父。 >武蔵を本拠とする藤原氏であったから
面白いね。他国でもあるのかな。 >面白いね。他国でもあるのかな。
可能性としては伊豆から転じて伊藤、遠江から遠藤、加賀から加藤かな?
これが正解かどうかは多分ググればすぐ分かるだろう
>>189さん
織田木瓜の中島……うちの墓がコレです。
ただ、祖父さんが養子に出されたとかで姓は違うものになっていますが、家紋は今も織田木瓜を使っています。
祖父さんがかなり前に他界していますので詳しくは分かりませんが、白石に縁があったような話を聞いていますので、>>195さんとは近縁かもしれません。
てか、中島氏ってなんで織田木瓜紋なんでしょうね。 中島家と白石の関係は戦国時代に遡るらしい。
天正4年12月、龍造寺が須古平井氏を攻略した折に家臣中島刑部少輔信連が平井氏一族の
新宗吟入道と太刀を合せ自ら深手を負いながら討ち取りその恩賞として「白石郷日目ヶ里」
を貰った事が「北肥戦誌」にある。
今から13年ほど前に地元の教育委員会が中島信連の墓碑を発見している。
信連の子中島内蔵允茂時が建立したもので「諦譽義舜居士」の戒名を挟んで、信連が戦いの
翌21日に死亡した事や戦功により、白石の日目ケ里を龍造寺から贈られたことが71文字に
明確に刻まれている。 >>209さん
ご教示頂き有難うございます。
祖母より聞いてた亊が裏付けられたので、感謝しております。
>>207さん
初めましてこんにちは。
195ですが我が家の場合、207さんとは逆に、曾祖父がなかしま家の養子になってますが
曾祖父の兄弟は五瓜に唐花紋を使用してます。
九州探題の家臣同士、姻戚関係を繰り返してたんじゃないですかね?
何の根拠もないのですが・・・
少弐氏の家紋の由来は八幡太郎義家に賜ったと書いてあるが、この事を疑問に思うのは自分だけだろうか?
@当時の恩賞で、家紋の下賜など行われていたのかという疑問?
A八幡太郎義家の弟から4世後の佐竹秀義は奥羽征伐の際に源頼朝より扇に月丸紋を賜ってるが、なぜ家紋を持たなかったのか?
また同じ家紋を使用する佐々木氏の家紋の由来は、後鳥羽上皇に賜ったらしい事を散見できるが
天皇家は家紋を源氏に下賜した後100年近く使い続け、佐々木氏に下賜したのか?(源氏は拝領した家紋を少弐氏に簡単に譲ったのか)
又は、天皇家が源氏から家紋を貰い受けた事となり、少弐氏は皇族なの?って事になってしまうと思うが… >>213
佐竹の場合はあれだぞ
新羅三郎義光嫡流の意識で源氏の白旗掲げてたもんだから「紛らわしいぞ!」と
区別する為に頼朝が扇紋をあげただけ >>212
関氏は元盛系統なんだけど大塚氏はどの系統かな
ほかに政資系統の下村氏がいる 大塚氏は少弐頼尚の子で今川了俊から殺された冬資の弟で資俊の三代後。
少弐教頼没落後
三根郡大塚村に来て資俊から三代後名字を大塚に改め大塚俊氏となり
(本家を継いだ頼澄との母親の関係は分からない) >>214
確かに持たなかったかどうかは分からないですね。
浅学ゆえ失礼しました。
蒙古襲来絵詞には少弐景資と配下の者が目結紋の旗を持ってる所が描かれてるが、この配下の者に
熱田大宮司家の篠田氏が含まれてる可能性が高く、少弐氏よりも院に近い存在だったので目結紋を
拝領してる可能性があり、佐々木氏由来との年代的な整合も得られる
また調姓の三氏(黒木氏、星野氏、河崎氏)は後鳥羽上皇に調朝臣姓を賜った可能性が高いとあり
黒木、河崎両氏の家紋は亀甲四つ目結のようであるがこれも年代的に整合する
(家紋を賜ったかどうかは不明)
家紋の関係からこの三氏も熱田大宮司家の流れを汲む可能性があるが、三瀬の野田(三瀬)氏同様に
居住した付近の神社にこれら近似性が見られる事や、多々良浜の戦いでは調姓の三氏が真っ先に
足利方に寝返った事からも裏付けられないか?
さらに面白い事に、調姓の三氏の系図で能高、能永とあるが、熱田大宮司家の系図に高能、永能とあり
年代的にも13世紀で一致する。
※ただし熱田大宮司家の家系図は改竄が酷くあまり信用できる物じゃないが…
名前が違うから同一人物ではないと思うが、実は鍋島氏の系図にも同じような事を見る事が出来る。
鍋島直茂の11世代前に秀清とあるが、三瀬に下向したのは清秀でこちらもほぼ年代的な一致を見る。
また秀清の前代は通字を後ろに、後代は通字を前に使用しており、調姓の三氏の祖も能高、能永以外は通字を
後ろに使用している。
調姓三氏が藤原南家熱田大宮司族でないのは、同時期に野田、篠田両氏が大江姓になってる事を併せて考えると、
承久の乱での処分で改姓させられたのだろう。 源 為義の娘は佐々木秀義に嫁いでるので源義朝とは義兄弟になるが、武功により頼朝に
本領を安堵されてるのに家紋の賜与は行われてないのはどうしてだろう?
その佐々木氏の家紋の由来が後鳥羽上皇に賜ったという事なので、少弐氏の家紋の由来は
信憑性が極めて低く捏造疑わざるを得ない。
1264年に三瀬に下向した野田周防守大江清秀(戒名は清巌源秀大禅定門)という人物だが
戒名から源氏の血を引く事が想像でき、建立した神社の祭神や官位の周防、野田という姓、
名前の「清」という字から熱田大宮司族の可能性が極めて高いと言える
季範−範忠−忠季−朝季−朝氏−清氏となり、野田朝氏室と藤原親兼室は姉妹なので
朝氏の子、清氏は坊門信清からの偏諱の可能性が高い。
清秀は清氏の兄弟又は、子供と言う事になると思う。
これを踏まえた上で、梅松論に書かれてる多々良浜の合戦で
「当日は御重代の御鎧・御小袖と申すを熱田の野田の大宮司に着せらる」と言う箇所だが
これは何を言おうとしてるのか考えてみた。
熱田大宮司家を味方につけた事で、大きく状況が変化したのではないのか?
それは熱田大宮司家が所有していた、目結紋の旗=錦の御旗だったのではないのか?
もし興味があるなら熱田大宮司家をいろいろ調べてみると面白いよw
規制規制でアフォらしくなったので以後書き込みを止めます。
皆様お騒がせしました。 >>1
> 歴代当主ほとんど戦死。戦争に勝ったことすらほとんどない。
> しかし戦国まで続いた
粘れた理由はなんだろ?
>>223
名家だから、その権威を担ぐ勢力には事欠かなかったって事じゃないかな。 大内が潰れて大友がその跡を乗っ取ったから、
大友がわざわざ少弐を支援する必要性はなくなった 少弐氏が倭寇の中核っていう説があるね。
九州を追われた少弐氏勢力が大挙対馬に逃げたんだけど
対馬には多くの人員を養うほどの生産力はなく
食いっぱぐれた少弐氏勢力が、海賊行為を始め大陸に渡っていったと。 我が家は大蔵姓の血統と云われているけど系図の戦国末期以前がわからない
家紋は四ッ目結
親類に朝日、板部、養父など少弐と関係あるような苗字が出てくる 板部ってのは古代の職掌だろうな。
玉造部とか土師部とかね。 神崎を走行中に「少弐冬尚の墓」の標識を見つけたので下車した。
寂しくポツンとしてたね。
少弐家の墓ってどこかにまとまってあるんだろか
太宰府にまとまった土地を持った武藤さんっているんだけど少弐氏と関係あるのかな
武雄領主鍋島茂義は藩政改革の時武藤と名乗り
白石鍋島家鍋島直章は山辺と名乗って江戸藩邸へ
向かったとある なるほど
鍋島ってそんなに街道筋で嫌われていたのか まぁ、武雄鍋島家とか元々別の家で本姓鍋島と違うからね そういや福岡で武藤氏の流れと言えば少弐氏の他に
武藤→伊東(伊豆)→河津(伊豆)から大内氏の披官になって
筑前・宗像の西郷に移った河津氏があったな
九州に河津と言う苗字は少ないから現河津氏は十中八九その流れだろうな 少弐氏の一族で朝日氏は資法から始まり8代頼貫の時、大内義興と戦い(享禄元年)滅亡したらしいが
一族は生き延びて離散したんだろか。
我が家の先祖を調べたら1650年頃、娘の婿養子が朝日氏(朝日胤元のニ男)からきてる
そこには「朝日ハ少弐家余蘖ト言伝モ系図筑後高良山ニ有リ言写有由」とある。
だから我が家の家紋の一つが四ッ目結紋だろうか。 少弐がキチンと大宰府軍総司令として働き元冦を退けた故
武家が朝廷権威を凌ぐ程の勢いをもつに至り
結果、朝廷機構大宰少弐としての少弐家の権力は失われる羽目になった 大内義隆は少弐を滅ぼすために大宰大弐の職を100貫文で買ったらしいね。 博多祇園山笠−5番土居流「博多守護之武勲」
蒙古襲来で活躍した少弐景資をモデルとした「博多守護之武勲」が博多の町を駆け巡るよ >>245
江戸時代の寛永銭が大体25円くらいらしい
25×1000×100
250万くらいじゃないか? これによると100貫≒1000万だね
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1136700081 まあ官位の値段としてはそんなところなんだろうか。
余談だが、戦国時代の天皇は地方の大寺の住職に「禅師」号を授与していたが
その礼金が馬鹿にならなかったらしい。 >>15
> 武家で大弐だったのって大内だけじゃない?
3年後のレスですまないが、たしかそうだ。
>>251
平清盛も大宰大弐に任命されてる
それとも清盛は貴族扱いで別枠? 武家とか公家とか区別するのは、
江戸時代になってから。 少弐の部下達は一応は国防の最前線を担って来ただけあって強力な面子が揃ってたけど
どこも家臣に収まってくれる家じゃなかった 一族生き残りは佐賀藩士九州千葉家と旗本筑紫家だけ? どの辺までを生き残り、とするかよく解らんけど横岳は佐賀藩家老格で残ってるよ 冬尚がもっとしぶとい人間だったら大宝寺の所に落ち延びたかもわからんね 南朝&菊池とその後の幕府&大内も合わせると200年近く戦い続けてんだよな >>268
流石の正義教狂信者も九州までは来れんしな 御先祖が肥前山城と言うところの出身で 武藤姓なんだけど少弐氏と何か関係があるのでしょうか?教えてください、 足利からの心証が悪くなったのは直冬に肩入れしすぎたのが原因か >>278
後北条5代や長宗我部3代も大河になっていないので無理。 ネットでいろいろ検索してたら
去年、ヤフオクで
「朝日頼貫家 系図」なるものが出品されていたみたい。
内容や落札価格は今となってはわからんが
系図マニアでもある俺にはそれに気づかなかったことが
くやしくてたまらない。
絶対落とすのにw
西の少弐氏、東の小田氏
どっちが日本最弱なんだろうな >>283
(秀吉の天下統一までなんとか生き残った)日本最弱の戦国大名は誰か?
というのは難しい質問だよな。 >>283
少弐氏の場合、あれだけ追い詰められてもなかなか滅亡しなかったというのは
ある意味、非常に強い。 鎌倉時代まで少弐より高い官位の武家は将軍家か執権以外存在しなかったのです
足利家だって尊氏以前は少弐と同位なのです 当主の討死率の高さはなんなんだろうね?
それでも滅びないのはすごいけどさ 分家というと
横岳、馬場、朝日、筑紫、平井、出雲、吉田あたりは系図関係でも出てくるが
下村、対馬、筑後、島とかは家伝とかのレベルなんだろうか?
分家といわれる全部の氏を誰か教えてくれー
できれば典拠も教えていただけるとありがたいです。 >>285
その場合「戦国大名」の定義をきちんとしないとな・・・ 鎌倉幕府滅亡後に1勝してる。
元弘3年(1333年)鎌倉幕府が滅び
翌年の建武元年、規矩高政及び糸田貞義が
筑前、帆柱山城で北条家再興を図って旗揚げするが
敗戦、豊前虹山城へ逃げるが少弐氏や長野氏に攻められ落城となる 鎮西探題の北条英時討ったの少弐貞経だし
幕府滅亡の2ヶ月前には菊池武時も殺っちゃってる 戦闘にはそこそこに強いんだろうが、戦略や政略が弱かったのだと思う。 平氏や大内なんか貿易で強大化したのに
幕府に逆らったのが運のつきだな >>301
軍事には強いが、経済には弱かったんだろうな。 >>292
系図の詐称かも知れないけど一応鍋島家も少弐氏後裔称してるな
弱い弱い言われてるけど小豪族が詐称したがる位九州では名門武家なんだよ 後裔つ〜か落胤ね。
少弐教頼が鍋島氏に逃げてきたとき娘あてがって子供生まれたって話ね。 横岳、馬場、朝日、筑紫、平井、出雲、吉田は確実に分家だが
下村、対馬、筑後、島あたりは自称なのかな?
下村生運も「少弐氏分家。佐嘉郡巨勢郷の領主。父の死により長光寺の僧から還俗。」
とあるが誰系統なのかわからない。
佐賀藩に系図でも提出してれば何かわかるかもしれんが 下村生運の祖父長光は少弐政資の子、資元とは兄弟。
父信光と兄弟は馬場頼周の諜略にて隆信父周家と共に尾崎村祇園原にて討ち死に。 ありがとうございます。
それは出典とかわかります?
系図があるとか? 元寇のときは輝いてたよ少弐氏
…まぁそれ言ったらどの名家も輝いてた時代はあったわけだが 多々良浜で幕府に恩を売ったのに生かしきれないまま没落しちゃったね
大内は一時的にでも天下取ったのに 少弐家末裔から
鍋島みたいな名将生まれるとは
なかなか考えにくい 鍋島藩重臣の関家は少弐の傍流だね。
少弐資元――時尚――元盛――関資宗――茂直――清長(1,200石)――常利(3,158石)――直長(11,662石)
神代常宣が早世した為に、関直長が関・神代両家の知行を相続して神代氏を名乗ってる。
この段階で関家の名跡は消滅したんだろか >>310
そこらへんは栄枯衰勢としか言いようがないな
ろくに歴史に残らず消えていった家も多いんだから
元寇南北朝戦国と名を残しただけマシだと思う 少弐も酷い目に会ってるけど、小弐が追い出された後の筑前国は大内大友毛利
にすき放題にやられて最後は秀吉に国人領主達は取り潰しに転封、
家臣は離散とか散々だわ。 一色も渋川もそうだけどある日突然「足利様の親戚である俺様に無条件で従え」なんてのが鎮西三守護に通じる訳無いわ
問答無用で殴り飛ばしにきた今川了俊の対応が正解 だがの提示した一次資料からすると信長>謙信>信玄なのは間違いないからな。
信玄は官軍6万を率いて賊軍に組する徳川すら滅ぼせないんだもん。
逆に信長は賊軍の上乞食兵1万しか持って居ないのに官軍10万の包囲網を撃破してるからな。
刀根坂では北に朝倉・浅井、南に六角と完全に包囲されているにもかかわらず3倍以上の
朝倉・浅井を一蹴したし、第三次長島では武田水軍が伊勢湾を押さえている上に
水軍を持っていないという状況から海からでも包囲するという離れ業をやっているからな。 世界最強の武家=少弐氏
ということが明らかになった。 しかも少弐資能は弘安の役の時点で84歳
でも前線に出てきて活躍しちゃうw 少弐はどの時点で駄目になったんだろう
やっぱり全盛期の大内との敵対か? ケチつき始めたのは直冬に肩入れして
菊池に負けたあたりかな 少弐氏は軍事には強いが、世渡り下手なイメージがある。 少弐氏は足利尊氏の幕府成立に貢献したが、
平清盛、大内義興のように筑前大宰府を支配した勢力は中央に政権を作る力を得ている
関ヶ原でのキーマンである小早川秀秋も筑前を領有して1万もの軍勢を
中央に引っ張って行けた 「武藤少弐氏の興亡」をB○ok○ffで発見
速攻で保護
時間見つけて読んでみるわ ニンニク焼き電話会談日本橋スーパーきゃべつラーメン
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東福岡国内ニュースイヤホンモラル駐車近代名瀬寒寸電子エンコ運転マナーディレクター駐車中コーンラーメン
ジェニファーナスダック沖縄風説ホテルタトゥー特許禁止mlbファミレス天気倫吾蜜少勇さえず保健所警戒館中国食用猫黒塗り狭告リベンジメディアクール
JK法相puzzleジュネーブイケヤパート正社員グリー総合芸術自然ニコチンカフェインメネージャー 少弐、菊池、阿蘇こそが、九州の修羅の代表だろ
どう考えても基地外としか言いようの無い、戦争の為の戦争で自滅しにいってる
この基地外達と比べたら島津は本当に常識人の集まりだし、江戸時代を大名として生き残ったのも必然だ 『少弐』は屋形号で少弐家自身の名乗りはずっと武藤で通してる あれ?たしか福岡で美容院やってる人が
少弐氏の末裔の一人だって聞いたけど >>340
>菊池、阿蘇
多々良浜の戦いは、軍事では負けていなかったが、政略で完敗した。 倭寇阿只拔都の正体は少弐氏って韓国の李領教授が言ってる。 渋川が滅び、大内も滅んだ時にまだ少弐がしっかりと足元を固めていたら筑前の回復は叶っていたろうか 少弐と大宝寺て
お互いに書状などの付き合いってあったのかね 少弐は応永年間から住所不定の風来坊になってるので遠方からお手紙出しても多分届かない もう多分、40年近く前のテレビで一話限りの歴史ドラマでやってた
俺が小学生か中学生の時に観た記憶があるんやが、
少弐氏なのかどうかそこだけは残念ながら記憶に無いが、昔から続く九州の由緒あるが
今は衰退した大名が、秀吉の命令に逆らったから、秀吉の意を受けて攻めてくる龍造寺の軍と
戦って滅びる?(そこも飽きて観てないから記憶ない)物語のドラマ化
その一族の重臣たち(みんな何々の守とか名乗りがやたら偉いw)が、『龍』が攻めてくるって
言ってたのだけが記憶に残ってる
これ少弐氏の滅亡描いたドラマだと思うんだけど、だれか題名覚えてませんか? わが愛の城・落城記
諌早西郷氏が龍造寺に攻め滅ぼされるまでを西郷の姫視点で描いたドラマで少弐のドラマではないですね ありがとうございます!
やっぱり少弐氏じゃ無かったんですね。
秀吉の意を受けた龍造寺とかで、少弐氏だと時代と背景があわんからチョットおかしいなとは
思ってましたが、さっそくAmazonで文庫本をポチって読んでみます、ありがとうございます。 大内義興の上洛中って大きな動きは無かったんだろうか
龍造寺家兼は一緒に上洛したってのは聞いたんだけど少弐は何してたんだろうか
尼子や安芸武田みたいに留守を狙いそうなものなんだけどな >>353
少弐は大規模な作戦を行うだけの能力は残っていなかったと思う。
大内氏の側も、防御態勢は整えていただろうし。 >>353
上洛したのは龍造寺家和ではなかったか? >>354
調べたら北肥戦誌という資料を紹介してるブログに載ってました
家和・家兼の兄弟だけでなくて少弐資元自身も横岳資誠を名代として送ってるみたいですね
将軍を伴っての上洛ですから父や兄の恨みを一時忘れて協力しておいた方がいいと判断したのでしょうかね 北肥戦誌より大内義興が足利義尹を奉じて上洛した際に同伴した九州の大名
筑前国:秋月種貞・原田興種・麻生元重・高橋親種・立花親載・宗像氏重
筑後国:星野親實・草野親永・蒲池治久・田尻種久
肥前国:渋川尹繁・横岳資誠(少弐資元名代)・千葉興常・龍造寺家和・龍造寺家兼・波多治・草野永信・平戸興信・有馬尚鑑・大村純治
肥後国:菊池義国・相良義滋
薩摩国:島津勝久(島津忠昌名代)
日向国:伊東祐秀
豊後国:大友の一族一同
豊前国:城井正房
対馬国:宗義盛
義興が上洛中の少弐資元は肥前内の親大内派攻撃に努めている
資元が正式に大宰少弐職を得たのが永正十四年、これは義興と義尹・細川高国の関係悪化で
足利将軍家・細川と少弐の利害関係が一致した結果と思われる
資元が大宰府奪還を掲げて挙兵したのは享禄元年、まず松浦郡に攻め入って松浦党諸氏を従えてから
糸島周辺を占領、そこから討って出て大宰府を奪い返した
義興は少弐の追討令を幕府に催促し続けている最中に病死、あとを継いだ義隆が少弐の追討令を幕府から引き出したのは享禄三年
これを受けて資元は筑前の占領地を放棄し肥前に撤退、勢福寺城を根拠に大内軍を迎え撃ち
ここで世にいう田手畷の戦いが起こる >>357
結局協力するどころかちょっかい出し続けていて義隆の代で討たれただけですか
仇敵に屈することなく抵抗し続けたというと聞こえはいいですが何か滅ぶべくして滅んだという気もしますね 少弐資元も一応義尹の入洛には協力しているけど
資元がもともと両細川の乱においては大友親治と共に澄元支持派として行動しているので
その時点の高国・義興派に積極的に賛同して協力するということは難しい 2001年 1月24日
産廃施設設置許可便宜 収賄で逮捕
千葉県小見川町長 鈴木弘治
千葉県庁鈴木佐 父 肥前北部の渋川氏
肥前南部の九州千葉氏
そして大内氏に追われて肥前に移った少弐氏
いずれも九州屈指の名家なのに、みんな消滅 >>362
独立あるいは半独立勢力ではなく、佐賀藩士としての生き残りだからなあ…。
やや微妙。 今川氏は確か姓が変わり持永氏になってた
15年ほど前、取引先に持永さんと云う女性がいたが「世が世ならお姫様」と
聞いたな。 >>364
持永って宮崎3区で厚生省の官僚から衆議院議員になった人がいたな。
厚生省官僚時代に薬害AIDS問題に関与したとされる。
そしてその息子が衆議院選挙と宮崎県知事選挙(vs東国原)に出たがその後落選、
数年後に家族旅行中に事故死 >>365
宮崎県都城市出身だから、肥前今川氏と関係あるかどうかは微妙。 松浦親(松浦宗家)に養子へ入ったのは鎮かな?
この人の妻は少弐政資の娘だし、少弐とかなり深い関係性があった。
残念ながら平戸松浦が大名家として存続する訳だが。 先祖が少弐元盛なんですけど(元盛→資宗→資興・・・の流れです)
家系図に載っていた元盛の子の資氏(善左衛門)が
wikiとかにもに載ってないみたいだけど、なんでだろう?
歴史詳しくないから間違いだったらごめんなさい そうかもしれませんね・・・。
一昨日テレビで末裔がどうのこうのみたいな番組があって、
自分の所はどんなのだったかなと久々に興味が出てきて、祖父からもらった家系図を見ながら
ネットにどれくらい載ってるんだろうかと調べてたんです。
友人の先祖さんの胤頼とかは結構詳しくあるみたいだったのですが、元盛はあまりないなぁとか。そんな感じです。
370さん
おかしな質問ですみませんでした。答えていただきありがとうございました!。 >>369
勝茂が江戸城へ登城した帰りに林羅山が「鍋島家の先祖は何氏でありますかな?」
と問いかけてきた。
勝茂はその場の思いつきで「鍋島は少弐氏の流れにござる」と答えを返したところ、
羅山は「おお、それは名家でござるな。いま幕府では系図改めが進行中でござるが、
いずれ太田備中守殿からお申し入れがあろう」と会話が弾んだ。
勝茂は邸に帰えると、平原善左衛門が少弐氏の流れで、その系図も持っているとわかった。
そこで善左衛門から系図を取り上げて鍋島の系図に作りかえられ、幕府へと提出した。
その後、鍋島家の祖である経直は、佐々木氏だとの説があるとわかった【葉隠】
この平原善左衛門こそが少弐元盛の子である資氏ですね。
系図上は冬尚孫元盛子となっています。
冬尚ー元盛ー平原善左衛門資氏ー善左衛門資義ー善左衛門資道 >>372
資氏は元盛の子であっているのですね。ありがとうございます!
系図が作りかえられてしまうなんて悲しいですね・・・。
私が持っている家系図というのは
藤原朝臣秀郷裔(武藤少弐氏流)平原氏系譜
というのものです。系譜とともに親戚の方や山蔭さん(この方の判子が押してありました)という方が関わって、
家紋や解説(少弐氏の由緒など)、参考資料や地図などをまとめた本にしてます。
ページ数は多くありませんが、私はまだ全部読んでないんです。(なんだか難しくて;)
藤原氏(魚名流)系譜から載っています。
資氏の事に関しては
比の「平原氏」は足軽身分であって「士分」ではない。だから「当家」とは関わりは無い。(一部省略)
と書いてありました。
因みに資宗の箇所には
関氏系譜に「平原氏」あり、当家の流れはこれである。
です。
元盛の子孫が佐賀藩士として命脈を保つも、元の大名に復興することはなかったそうなんですね。 ググったら鏡神社の神職をしていた平原善左衛門資氏
ってでてきた >>372
それは、出来過ぎた話にも思えるんだよね?
少弐の本家を竜造寺隆信の時代に滅ぼして肥前の大名に成り上がってるじゃないですか。
そして、隆信横死の後のごたごたを家老の鍋島が治めてる内に、下剋上が成立したのが
佐賀藩の成り建ちですしね?
主家を簒奪した家老の家を、主家の庶流家の当主が乗っ取った事に成って、鍋島家に都合の
良い事実過ぎますしね?
寧ろ、積極的に鍋島が宣伝してたと考えた方が良い気がします。
まあ、正直、竜造寺➡鍋島の流れは不思議なんですよね?
佐賀の正式な領主は竜造寺なんだから、嫡流の断絶で取り潰しでも不思議じゃ無い気が
するし、幕府に相当な裏工作してたんでしょうし? 秀吉が鍋島への移譲を認めて徳川はそれを追認しただけではないの? 鍋島勝茂が平原善左衛門資氏を召抱えたのは>>372が関係してるのでは。 元盛一家の話は今泉朝覚が柳原資定に働きかけて朝廷から「龍造寺隆信は少弐末葉の安穏を保障しろ」と綸旨を受けたという謂れを
龍造寺を継承した勝茂がその義務を果たしている、という流れからのものだから 龍造寺隆信は元盛の子である関越後守氏宗、関新左衛門、中牟田七郎兵衛、
中牟田新兵衛を召抱えている。
この兄弟は全員が沖田畷合戦にて戦死したが関家は鍋島藩で重臣となっている。
鍋島藩召出しについては関家と平原家は別扱いと思われるが。 関家は舟手組大将の家で、中牟田家は中牟田倉之助初代海軍軍令部長の家系でしょ
少弐元盛末裔が水軍・海軍に携わっていったという事は、元々そっち方面に強い影響力があったのか
少弐本家系にまともな所領が無かった事も関係しているのか >>374
鏡神社はもともと大宰少弐藤原広嗣を鎮魂する為の御社だし
武藤少弐累代が化けて出てこないように験担ぎがてらの祭事を子孫がやっていた可能性はあるかも >>379
>朝廷から「龍造寺隆信は少弐末葉の安穏を保障しろ」と綸旨を受けた
当時の朝廷はそういうこともやっていたのか? >>369
家系図が捏造だから。
滅亡した大名の子孫を詐称する家は多い。 >>384
今泉朝覚が訴えたのは少弐の宗門や社稷の取り扱いについての争議だから朝廷の領分だろう
あと大内が幕府から少弐追討令を得ていたように、少弐は朝廷から度々停戦令を得ていたけど
大内と渋川がそれに応じなかったという前段階の話がある >>385
369です。 資宗、資興、資忠というふうに、
現在元盛から十八代の親戚が名前とは別に「資」のついた名前(?)を引き継いでいるのですが、
やっぱり捏造なのでしょうか・・・; >>387
苗字はなんですか?
少弐?関?平原?それとも? 少弐氏が官途成り・受領成りすると少弐治部とか少弐武蔵って名乗るの? 少弐は屋号的なもので武藤氏本家に対する尊称
歴代当主達はずっと武藤を苗字として名乗ってる
庶家は少弐と呼ばれない 大内氏にボコボコにされ、家臣に背かれた名族でしょ。 少弐氏って藤原北家秀郷流または道長流武藤氏支流と言われてるけど、どっちなんだろうね。
秀郷と道長は近縁ではあるけど、若干血筋が異なるね。 思うに武藤頼平が秀郷系で武藤資頼は道長流からの養子だったのではないかと >>397
レスありがとう。なるほど、資頼のWikiにも書いてあるね。
時代的な少弐氏系図の不正確性と良く聞くけど、一番合点がいった回答でした。 少弐氏は、大内氏と都合350年戦ったらしいけど、一回位、長門国や周防国を攻めたことあるんでしょうか? 鎮西探題滅ぼした時に長周守護の北条時直が少弐に降伏しているから一時だけ占領していた事はあったと思う 鍋島直茂は少弐教頼の男系子孫
少弐教頼→鍋島経房→鍋島清久→鍋島清房→鍋島直茂 大宰府にある少弐氏の有智山城跡と浦の城跡へ行ってきた
浦の城は少弐氏が足利尊氏を迎えた地で、有智山城は本拠(詰め城?)とされる
浦の城跡は御笠川の畔の丘にあり、今は小さい公園になっていて歩いて容易に行ける
有智山城は宝満山の西麓、九重ヶ原にある山城で山道を歩くのが少し大変だった
現地は500年前の城跡にしては石垣が一部残っている。石垣が少弐氏によるものか、その後の高橋氏によるものか不明
井戸の跡が残っており驚いた。ただし雑木林でクモの巣も多く、歩くのは大変
ここに城主や城兵がいたと思うと感慨深かった 神代勝利の領地であった松ちゃんへ野菜買いに行ってきた なんて細く長く続くスレ 少弐氏と一緒だ
武藤を少弐と呼ぶのは斯波を武衛というのと同じって事か 武藤資頼って一ノ谷まで平家の武将なんだよね。
降将がその後守護までなれるのが不思議すぎる。 最後の生命力発揮して九州征伐まで残り
うまく立ち回ってれば近世大名も 少弐氏の本城とされる有智山城跡に行ってきた
太宰府駅で下りて宝満山城があった宝満山に登り、下山して有智山城跡へ
九重ヶ原と呼ばれる山麓のなだらかな林を登ると土塁や石垣が見えてくる
井戸も残っていた
蜘蛛の巣多かったけど、なかなか良い城跡だったよ 小田政光
馬場政員
このあたりの政の字は誰からの偏諱?
冬尚の別名か おお‥このようなスレがあったとは‥
小弐氏は宗家松浦氏の後ろ楯だったそうですが、平戸松浦氏との覇権争いの際、後ろ楯の小弐氏が絡んで来ることも多々あった?かと思います。
宗家松浦氏の後ろ楯として有事の際、北松浦地方に援軍を送ったりしたのか?
など、、北松浦地方での活動について何かご存知の方いらっしゃいましたら、是非お聞かせくださいm(__)m 「プレジール福島」1002号室の井本寛(いもとかん 近畿日本コンサルタンツ勤務 昭和62年うまれ)は怖い住民。井本寛(いもとかん)の壁ドンが横行、住んだら絶対ダメ!そんなマンションが「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、トランクルームとしても役立たない下水臭いマンションが「プレジール福島」(福島区福島1−3−27)、安かろう悪かろうがモットーの商都が運営する賃貸マンション「プレジール福島」(福島区福島1−3−27),
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兄の家系は東北に所領を持つ大宝寺氏
父の所領を受け継いだ少弐氏
武藤家本家に近いのは少弐では 武藤頼平
実子・武藤氏平 →大宝寺氏
猶子・武藤資頼 →少弐氏
義兄の子・近藤能成→大友氏 >>411
鎌倉から遠かつたからね
有職故実に秀でたのも有利に働いただろうが 室町時代の少弐氏で畳の上で亡くなった方って少ないですよね。 REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 俺さ、目が覚めたよ……やっぱり、お前が好きだわ……二度は、言わないぞ?