【暗君】一条兼定【暗君】
戦国屈指の暗君といえば、氏真や兼定が浮かぶ。
(実際どうだったかは別として)
が、蹴鞠やらのエピソードがあって、
全体としてほのぼのとした印象のある氏真に対して、
兼定はなんと言うか・・・宗柵の手打ちとか姦淫生活とか
負のイメージが強すぎて、擁護する気になれない。
それが俺の中での二人の差。 それらのエピソードは長宗我部のねつ造じゃないかという指摘がある件 「実際どうだったかは別として」と断り書きしてる書き込みにするツッコミではないような。 >>56
牛裂きの刑をやった
三好実休さんのお子さんも忘れないで。 家臣に源なんたらがいたんだっけか
さすが公家だけあってモノホンの源氏まで手下にしてたんだよなw 豊後に落ちてからだけどね
土佐時代はまだ洗礼を受けていない >>61
従三位なのに津野基高を屈服させたり、それなりに優れていたと思う
死因がよくわからない(自殺とも)のようですが >>60
公家の方の源氏(清和源氏じゃなくて村上源氏とか)は
藤原北家(のちの五摂家)の腰巾着だったからな
源氏の末裔が五摂家の一つである一条の手下なのは当然かも
>>61
房家、房基はなかなかのやり手
房冬はすぐ死んだけど凡人かそれ以上
兼定はよくて凡人以上天才以下、風評は最低 放蕩を諫めたら、刺客をよこしてくる兼定オソロシス。
それで殺された土居宗珊カワイソス。 兼定は、中国に行っても立派に暗君がつとまりそうなスケールの大きさを感じさせる 長宗我部は豊臣政権内で毛利や島津に比べるとかなり格下扱いだが
その一因に一条家の下の陪臣という捉え方もあったらしいね。
秀吉は天下盗りの過程で自身の権威と正統性を関白の位に求めたので
皇族・公家を目に見えて解る形でぞんざいにはできなかったとか。 いっそ内政が長宗我部内部を切り崩す位の器量があれば面白かったろうになぁ。 土佐一条家と長曾我部家の関係は
主従としてとらえる向きの学説のほうが最近では強くなっている。
両者の軍勢が対峙した四万十川の戦いが
以前の土佐領有を巡って衝突した2勢力という見方の根拠になっていた。
しかし、実際は土佐一条家は土佐7雄の上に君臨した権威で
別格の存在であったという視点がいくつもの史料から明らかになってきている。 ちょっと疑問なんだが、実際それだけ権威があったなら長宗我部家
改易時のごたごたの時、一条政親が無視されてたのは何でだろう?
この時どちらかの陣営が自分達の行動の根拠として担ぎ出しても
おかしくなかったと思うんだが。
この時点ではもう神輿としても意味を失ってたってことかな? 土佐一条家の潜在を際立たせる一例。
戦国時代の室町将軍の極位極官が従四位から従三位。
最期の12代、13代、14代、15代が
将軍宣下を受けたときの自身の官位はだいたい従五位。
朝廷もしばらくしてから(つまり統治の実績を見定めてから)
従四位に引き上げているが、当時その程度の官位を持っている
国人や大名はざらにいた。 そういった国人の極め付きは日向伊東家の三位入道と号した伊東義祐や
大宰大弐を拝命した従二位大内義隆。
このほかにも従四位の地方戦国大名はたくさんいる。
当時の西国でこれらの戦国大名が積極的に外交関係を結び
子女との通婚を求めた相手はもはや室町将軍ではなかった。
これらの西国有力大名らが仰ぎ見た対象は土佐一条氏。 太閤(前関白)として下向した初代教房。
太閤と地元国人加久見氏の娘との間に生まれた二代房家。
一条氏三代は津野氏を武力で敗死させ戦国大名としての実力も見せた。
第三者からみた客観的視野にたって当時の最高の武家貴族の教養、文化度、
政治力、財力を判断しうる材料が天正遣欧使節。
4人のうちの1人は伊東氏から選ばれているが、
彼は大友宗麟の甥、土佐一条氏の縁戚という血筋。 ハプスブルグ家などヨーロッパ皇帝・国王家の帝王教育で名を挙げる
イエズス会は「語学力と容姿端麗度、社交界で恥じない身のこなし」を
天正遣欧使節の選出帰順に挙げている。こうした歴史的史料から見ても
当時の西国の武家社会サロンの頂点に位置したのが
伊東、大友、大内、土佐一条らの諸氏だった。
2台房家の子供は京一条本家を継いで関白に昇っているし、
京本家の下に位置したというより、京本家と土佐一条家は密接な結びつきを
保持したというほうが正確。 織田家の記録にも「一条殿の臣でちょうそかべとめずらしき苗字」と
出ているし、豊臣秀吉も一条家の家臣として長曾我部を遇している。
織田信長も右大臣を拝命し、豊臣秀吉も公卿官位に固執した。
豊臣家は明らかに公卿権威にこだわった改姓であるし、
秀吉が意図したところは、公卿権威を制すること。
御所に近隣近国の国人衆を参勤させ、
戦時には甲冑を身につけ、土佐や伊予の諸地域に出陣した
一方で領国経営を成功させと遣明貿易で巨額の財を築く。
こうした土佐の関白家の武名・声望は西国中に伝わった。
これこそが秀吉が求めて止まなかった権威であったといえる。 改易後に政親の消息不明というのが引っかかる
もし国主として改易されても公家身分までは剥奪できないし、京都に帰って
公家として暮らせたと思えるし、土佐に残って阿波公方みたいに過ごせた
かも >>79
江戸時代の阿波公方がどれほど冷遇されていたか知らないと見える。
それはさておき。
その当時、京の一条家が代替わりし、先代に男子がいなかったので
後陽成天皇の皇子が次の京一条家当主となり、土佐一条家とは血縁関係が切れてしまった。
このことと関係があるかも知れない。
もっとも政親に関しては史料自体が少ないので
その辺に関しても全く先行研究はない。 一条昭良が生まれるのは慶長十年(1605)、
内基の養子になるのは慶長十四年(1609)だから、若干時代がずれる気はしなくもないが 土佐の大名と言えばこの人で、長宗我部はかなり後まで家臣扱いだったぽいね。 >>86
「一条殿の家人で長宗我部とかいう珍しい名字の奴がいるらしい」
という趣旨の記録があるらしいしな
一条って、土佐の国司にはなったんかな?
北畠が伊勢の国司になったのは有名だが。
土佐の守護は細川って理解で良いのかな? 土佐国司にはなってない、慣用的にそういう風に言われるようになっただけ
戦国三国司で正式に国司に任じられたのは北畠だけ
但し国司に任じたのは南朝なので、北朝を奉じた室町幕府体制下では僭称同様だったと思うのだが…
土佐の中村に昔から荘園を持っていたのは事実だが>一条 >>90
兼定も含めてなっているな。
まあ、実際にはもっと上の官位にまで上り詰めてもいるが。
いや土佐国司になってるよ
前関白が次は土佐国司ってのもある意味凄いけど つまり初代教房自身も土佐国司をわざわざ朝廷から拝命している この初代教房の頃(東国では後北条氏が箱根を越えて駿東から
関東へ本格的に勢力を移植し始めた頃)から
次第に武家の間で官位官職が次第に復権し始める。
土佐守護家の没落と同時に畿内・西国では公家官位のほうが
ハイエンドなブランドとして流通し始める。
信長は部下に羽柴筑前守や維任日向守など
九州の名門旧家の姓や官職を名乗らせた。
徳川時代になって各国の国主は
鎌倉室町武家職制の守護・地頭職ではなく、
平安時代以来の受領国司名や朝廷官職を専ら用いた。 >>95
室町幕府の守護で江戸時代の領地も、その国全域だったのって、島津ぐらいってのもあるんじゃないか?
今の領地と違う地域の守護なんて名乗ろうものなら、無駄な軋轢生むことになっただろうし。 どちらかというと、しりとりに近いかな
実経ー(実家)ー家経ー(内家)ー内実ー内経ー経通ー房経ー経嗣ー兼良ー教房ー房家ー房冬ー房基ー兼定ー内政
もしくは教房以降は房とも言えるね >>101
「内政」とか先祖帰りしたかのように、内の字が復活してるね。 戦国大名化した土佐一条家を懸念した一条内基が土佐に下向、
介入して(恐らく長宗我部に内政預けて)偏諱を与えてる。 なるほど、勉強になります
ちなみに同時代の京一条家
教房ー冬良ー房通ー兼冬ー内基 >>104
補足すると、
冬良は教房の弟、房通は房家の子で房冬の弟、兼冬は房通の子、内基は房通の子で兼冬の弟なので、
兼冬・内基兄弟と兼定は父方を通じての従兄弟同士。
今の我々が思う以上に当時としては近しい親戚関係だったのかもしれない。 最近、中村に引っ越してきたから調べていれば兼定スレがあるとは・・・
ノブヤボ版の曹豹キャラとして愛されてるんだw
宿毛市史に「兼定の最期」として結構くわしく書かれてるよ
ttp://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/014001.html 一条房家かその子房基かどちらかだが
西国の大大名大内義隆の妹を妻にしていた。
二人の間に生まれた子が大内性に復し晴持を名乗った。
大内晴持は大内家の嫡子として義隆に大切に扱われた。
張持の実家土佐一条家の申し入れもあったのかと思われるが
大内家中に藤原氏の氏寺東大寺の所領を横領した一族がいる。
それがほかならぬ大内氏親族で譜代筆頭の陶氏。
大内義隆は陶に命じて東大寺旧領を返還させた。
この頃の大内氏は貿易港博多を支配し、西国10カ国近くを領していた。
これにいずれ大内氏を継ぐ大内晴持の実家土佐一条氏の土佐を加えると
大内氏は丹波路、瀬戸内海、阿波・和泉・摂津路の3方面のどちらからでも
入京を果たせる勢いだった。土佐一条氏の阿波侵攻の動きも
そうしたことが背景にあったのかもしれない。
>>107の補足。
晴持の父は、房家の息子で房基の父である房冬。
房冬の正妻は伏見宮玉姫であり、側室が大内義興の娘。
晴持は房基の異母弟。
晴持が死ぬことになる出雲遠征のときは、義母である玉姫も戦勝祈願のため厳島神社を訪ねていたが、
大内方の敗報を聞くと山口へ向かっており、かの地で晴持の死を聞いたものと思われる。
陶氏の東大寺押領は大内氏の政策。
大内氏と東大寺の間では数度の折衝が行われ、陶氏も寺領年貢を送ったり送らなかったりしている。
応仁の乱の上洛の際に、上方の寺社勢力を敵に回したくないときは年貢を送り、
応仁の乱が済んで撤兵すると再び年貢を送らなくなった。
細川氏に内乱が起こり上洛戦の可能性が高まると、再び東大寺と折衝を始めている。
そして上洛戦も終わり尼子氏の対立が激化するといつものように年貢不送。
隆房と義隆(及び相良武任)の対立は晴持の死後に台頭するため、一条氏との関係は不明。
応仁の乱では、一条氏は親細川派であったため、大内氏との関係は良好ではなかった。
一条氏出身の僧尋尊(房家の叔父であり、師匠でもある)は大内氏を憎悪して罵倒している。
土佐一条氏の拠点であった中村には貿易による舶来品(中国製陶器等)が多数出土している。
これらは大内氏と友好関係であった時代に持ち込まれたものと推測されている。 この人は鳥坂峠の戦いで河野の援軍として来た小早川隆景とも戦ってるんだな。
華々しく負けたらしいが…
波乱に満ちた人生で興味深い人物ではあるな。 大内義隆と陶隆房の対立については表面化したのが1541年の出雲遠征敗退だったが
それ以前にも主従の対立関係があったかあるいは
陶隆房氏への何らかの処罰さえ下されていたとも考えられ得る。
理由は応仁の乱以降顕著となる傭兵を用いた戦が増えたことと
日本全体的に人材フローの流動性がさらに増したことだろう。
戦国大名は金銀鉱山の開発や港や主要河川の掌握に懸命になった。
それらの軍資金が有能な人材の確保に役立った。
応仁の乱後はご一門やご親族集がお殿様の藩屏として
評定の場でも戦陣でも主君を取り囲んで数の力で押し切るという時代では無くなっていた。
まったく主家とは縁もゆかりもない他家の出身者や場合によっては
どこの馬の骨と家中で揶揄中傷を浴びる者でさえ軍師の地位や評定衆の列に加わることを許された。 おそらく晴持を嫡子として遇した大内義隆は摂関一条家の名流を
大内家時代当主として本気で据える意思があったのだろう。
明治の世になってから井上馨や桂太郎といった毛利家親族が
首相の座についたがそれは山口県出身者である総理大臣のリストの
ほんの一部に過ぎない。中世毛利家も飛躍のためには他家出身者をどんどん登用した。
摂関家の血筋を次期当主の座に据えた例としては美濃斉藤家などが知られている。
また日野家出身で八幡太郎義家の血を引く開祖親鸞以来
本願寺座主は代々日野家猶子であったが
戦国期にはとうとう摂関家とも直接結びつくようになった。
それほど一向宗の政治的権力は時代を経るごとに拡大していた。 この当時世界的に有名だった奴隷市場といえばイスタンブールやエジプトの戦奴市場。
それらの市場で有能性を評価されたトルコ傭兵や東欧出身者や
欧州の皇帝家・国王家で常用されたドイツ傭兵等が代表的なものだった。
彼らの中には有能性を認められついには一方面の師団長的役割を任されたり
あるいは地方領主・君主の座にまで登りつめた者もいる。
本願寺最盛期を現出した顕如の場合、妻の三条氏を通じて
管領細川晴元、六角氏、武田信玄とも姻戚関係だった。
いざとなれば一向一揆の力を借りることも戦国大名は辞さなかったし、
三河一向一揆で名立たる徳川の重臣が一向一揆側に与したことを見ても
百、千単位で軍編成を組める傭兵のほうが逆に
土地と縛り付けられた国人衆、同朋衆、親族より使いやすかった。
大内義隆はそのような体制に家中の変質を進めていたのではないだろうか? 氏真公は治世の名君、乱世の凡君だが
この人の場合は典型的な暗君だな 数少ない補佐役・土居宗珊を手打ちにしてる所とかは救いがたい。 で、兼定様が主人公の「兼定の野望 四国風雲録」の発売マダー? >>115
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm1103049
でがまんしとけ 兼定公は地元じゃ名君として神社にも祭られてるんだけどね。
某ゲームの影響力はすごいわ。 まぁ正直、町おこしの一環って感じでしかないけどね……。 いや、なんで一条が雑魚に思われてるのかわからん。
吉良みたいなもんか むしろ思い切りクズならそれはそれで面白かったんだがなぁ。
元親にしてやられて、その元親も信長秀吉には小物扱いと
順繰りにスケールダウンしちゃったというか。 無為無策で飲まれていった連中が多い中
兼定はけっこう足掻いたと思うんだがな 普 通 な気概ってw
でも実態より低評価なのは禿同意>土佐一条家
良質な史料がないのが拍車をかけているような気がする。 ま、一言でいうと地味なんだよな。
結局、公家なんです珍しいでしょ?が最初に来ちゃう辺り。 そういう部分もあるだろうね
しかし山内は持ち上げなかったんだね >>133
家格が違いすぎるから、自分の統治が面倒になるだけだったんじゃ?
後、武家としては、一応守護の細川絡みでいろいろ難しいだろうし。 出来星大名の場合、多くが在地の権威を徹底的につぶそうとするからな。 土佐一条氏について書かれた文献を教えてください。
素人でも読める程度でお願いします。 『地方別 日本の名族』四国編(新人物往来社) 但し現在絶版。図書館で借りなされ。
『中村市史』 これも完売。図書館で借りましょう
後はいくつか論文があるが、イパーソ向けを書けと言うことなので割愛。
>>139
論文も気になるな。
そっちも紹介してもらえるとうれしい
>>140
『長我宗部元親のすべて』(新人物往来社)にも一条氏について独立して一章立てられている
分量は少ないけど・・・ >>141
土佐一条氏に関する論文自体が非常に数が少ないと思うが
見たことがあるのは
・『土佐一条家年表』小松泰(朝倉慶景編)
・「天正初期の土佐一条家」上・中 朝倉慶景(『土佐史談』166,167号)
・「足摺岬金剛福寺蔵土佐一条氏位牌群」野澤隆一(『國學院雑誌』)
これだけ。
上二つは入手も難しいと思う。国立国会図書館からコピーするしかないかな。
>>141が高知なら地元図書館で持ってる可能性もあるが。 金かかるが国立国会図書館にコピーおながい、かなw
高知の県立図書館でもやってくれるかも知れないから取りあえず問い合わせて見なされ。
天下創世の話。
俺は関東足利氏を将軍にしたことはあるが、
一条公で四国を併呑したことがない。
結局、足利晴氏の場合、
命令回数が1ターンの中で2回じゃん。
それに比べて、一条公運の場合、1回のみ。。。
守備よく西園寺や長曽我部を滅ぼしても、
大友や毛利など、九州、本州の沿岸部の大名が
巨大化し過ぎて、とてもではないが、戦えない。
一条公だけは将軍にするの、まず無理。
断言できるよ。 伝承の多くは勝者である長宗我部氏によって書かれており、兼定を実態以上に悪く記述している可能性が高いって本当ですか? このての質問を見ると、むしろそうじゃないと思ってるかお前は、と問いたい。
勝者側にいいよう改変されているんだ、悪い奴らだ!て言いたいだけちゃうんかと。 善悪論では結局のとこ、同じになってしまうからな
中村での権力確立がもっとはっきりすればなと思うが
逆説的に、なぜ権力が崩壊したかも分かるはず 仮にも父親の恩人の家を滅ぼしたわけだからな。
いいところがあったとは記録に残せないでしょ。
もっとも、長宗我部が滅ぼせた理由はあるはずだけどな。
いくら元親が命じたところで、一条に非がなければ、武将が動いたとは思えない。
有力なところだと、一条本家から独立しようとしていたために、
一条本家からの要請で討伐しただけだから、大義名分がしっかりしていたとも言うようだが。 元親の技量の方が優ったというのは簡単な考えすぎるか。 一言でまとめちゃえばそうじゃね?
いろいろ要素はあれどまぁ兼定<元親<秀吉だったという。