山岳信仰ありきの登山
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うちの地元にも法螺貝同好の人達が登って吹いてる山があるわ 山岳信仰のの山ってどれくらいあるんだろ
月山とか白山? >>3
名のある山で山岳信仰と結びついてないのはほとんどないだろう。 武甲山
縄文時代から続く山岳信仰の山
そんな山の神をも恐れず、毎日毎日発破攻撃を浴びせて山を削り続けるのだから
資本主義とは大したものである。 昔登山道歩いてたら金剛杵みたいのと錫杖もった人が二人いて呪文唱えてた。
白い服着てたな。
帰りに同じ場所見たら盛り塩と米と紙があった。
石碑も何もないところで、なんでここなんだろうと思ったな。 大同年代に開かれた神社はみんなそうだろ
うさんくせえ高野聖の仕業 >>4
おんたけが何やら始めたようだな。
熊野ならぬ、御嶽古道とかなんとか 埼玉にある金鑚神社に行ったら山そのものが御神体らしく登ってきた 日本だと結構ありそうだね
山頂に剣が刺さってるとか 登山何てしたことなかったけど神社巡りするようになって、結果 登山する機会増えた
身体悪くする前に神社に興味持ってたら若い頃からやってたら日本中まわってるのにー泣 全国まわったところで別になんの意味もないから安心しろ 日本だと山は神様のいる場所だからな
殆どの山が地元で何かしらの信仰の対象になってるだろうね 薩長が幕末に起こしたクーデターのせいでそれまで仏教伝来から1500年かけて出来上がった信仰のあり方をぶち壊した罪は重いよな
修験禁止という滅茶苦茶な法律で忘れ去られた信仰の山 霊峰って日本中にたくさんある 実は俺も山岳信仰 修験道と登山の関係に興味があった ほんと薩長はクソだな。
伝統ぶち壊しやがった。
と、個人的には思うんだけどいい面もあったんかな?
歴史に詳しくないのでよく分からん。 まあ薩チョンだからな
が、維新政府の糞みたいな政策の中でも信仰を守り続けた昔の人たちは偉いと思う >>40
あえて無理やりカテゴライズするなら仏様か 岐阜県民だが山の中や道端に霊神碑てのがやたらにあって、御嶽信仰というのを知った。白山も見えるから白山神社も多いんだけど、割とあちこちに独自の修験場があって面白い。
出羽三山は憧れる。 逆に、適当な山に登って山岳信仰の痕跡を見つけると嬉しくなる。 ローカルで有名な山にはたいていあるでしょ
地名とかで残ってる場合もあるし 里山にも祠のひとつやふたつはあるだろそれだって信仰の対象や
おおやまくいやらおおなむちや大物主なら文句なしに山岳信仰やで やっぱり平安後期から鎌倉に掛けての熊野三山、吉野と天皇家の関係がよくわからんね。 秋田 宮城 岩手の県境の栗駒山 それぞれの県によって呼び名が3つある
もちろん山頂には奥の宮 源平合戦で平家が敗れてから、ミカド(帝、天皇)は
背景となる武力を失った。ミカドがこれに代わる軍事力として
頼ったのが、熊野三山の僧兵たちだった。
当時の社寺は広大な領地をもち、大名よりも強力な軍事力をもった
もうひとつの国家だった。それはのちの戦国武将たち信長や秀吉が、
比叡山や大阪本願寺、加賀や三重の一向宗の制圧に手こずったことからも
わかるだろう。日本で最初に鉄砲を量産し始めたのも社寺(堺、根来)だったくらいだ。
ミカドは南北朝に至るまで、何度か鎌倉(北条家)を征伐しようとして、熊野の兵
を頼んで挙兵したが、成功せず、逆に隠岐に流されてしまった。
この後、ミカドが本当の意味で政治の実権を回復した例はない。
幕末には、その経済力さえ小名程度に落ちていたと言われる。
(別の話)
明治政府を作った薩長は、いわずと知れた関ヶ原の敗戦組だ。
関ヶ原の事前の予想では、西軍側が圧倒的に有利だった。
とくに広島の大藩であった毛利家は、敗戦は全く予期していなかったろう。
しかし、この結果、毛利家は芸州を追われ、本州末端の貧乏藩、
長州に押し込められてしまった。薩摩と長州はこの扱いを江戸時代の300年間
恨みに思い、関ヶ原の戦いでなぜ負けたのかを研究し続けたという。
幕末に至り、幕府の統治力が衰えたとき、薩長が今こそ関ヶ原の恨みを
果たすときと小躍りしたのは想像に難くない。
その300年間貯められた、長州の恨みのエネルギーやすさまじく、
幕府に味方した東北諸藩を征伐した戊辰戦争では、その過酷な、徹底した
掃討戦は東北人を恐怖させたという。今でも山口県出身と聞くと、
東北の人々は顔を強ばらせるくらいだ。 ちなみに、天皇や幕府という用語も明治時代にふつうに使われ始めたもので、
江戸時代以前はほとんど使われていなかったのです。 つーか、基本的に山体などを神のいますものと認識したのが初めだろ
大木だろうと巨石だろうと何か神々しく厳かな感じがするもの、基本的に万物に霊が宿ると感じるアニミズムの世界や
素朴な神道じゃ、本殿は無く自然物の本体を拝するためだけの拝殿だけだからな
修験道というものはそれに後付けで仏教的解釈をしたもんだろ
まぁ、山頂に立って大山祇命だろうと何だろうと石の小祠があるとほっこりする やたら口調が厳しいに、石の小祠にほっこりするお前のことは嫌いじゃない 修験は仏教ってわけじゃないけどな
ありゃーいろんなもんまじってる 自然物や仏像(物)を拝むのはそもそも仏教的感性ではないわけですよ。
しかし、修験道がいわゆる神社神道かというと、そうでもない気がする。
修験道って半僧半俗で、山に入ったときだけ僧の戒律を守るという形でしょ。
一応修行なんですよ。神社仏教には修行という形態が少ないから、
やはり仏教と親和性があることになる。
現在の寺は遺跡にすぎず、僧はいない。僧のコスプレしてる奴がいるだけ。
本当は仏教って、僧や法に帰依するもので、寺や建物は関係ない。
だのに、皆寺を見るだけで、僧には興味がない。僧ではないから。寺男。
修験道はかつては半俗としてバカにされたけど、僧がいなくなってしまったので、
半俗でも何かしら修行をしているだけまし。
在家の修行者という形が、現代のサラリーマンにも合いやすい形だから、
脚光を浴びてるのかもね。
ただし、修験道に興味をもつ人が多いけど、まだそこから何かを取り出して
きた人はいないような気がする。山に入れば効用はわかるが、それを言葉にできない。
また現代の修験は集団で、チームで山に登って、自己開発セミナーみたいなことを
しているようだが、それって本来の修験なのか?
集団で山に登っていた行者はいないような気がするんだが。 神仏習合の時代がずっと長く続いたわけだけど、そのときに神と仏のどちらを主とするかっていうところにそれぞれ見解が違ったんだよ
それを本地垂迹っていうんだけど、仏が主ってなるのが日本仏教で、神が主ってなると修験道だったと思う 神仏どころか道教やら仙人やら陰陽やらも混じってるだろ
修験の開祖は呪術者で空飛べたらしいしな 役行者ね。
山歩いてて古びた役行者像に出会うと嬉しくなる! widipediaから受け売りすることしかできない奴は書かなくていい。無駄。 蔵王権現はインドに由来をもたない唯一の神、仏ってことなんだけど、
いまいち性格がはっきりしない。
でも、ヒマラヤがあるインドやチベットに山の神がいないってのも不自然。
いないことはないと思うんだよな。知られてないだけじゃないかな。 山王信仰のまさるはハヌマーン
でも大己貴命は蛇体
よくわからんわ >>68
どうみても○○明王や○○天みたいではある あるね
縄文あたりからある遺跡が後の時代に上書きされている >>68
マハーバーラタには女神ガンガーはヒマラヤの王ヒマチャルの娘との記載があったはず、
これも多分神様だろう。 ヒマラヤ自体が山の神様やろ。
その娘パールヴァティはシヴァ神の奥さんだし、純然たる山の神一族でんがな。 神仏習合の名残りを見かけると何か嬉しい。同じ県でも地域によって廃仏毀釈が激しかった地域とそうでない地域があるよね。
岐阜県民だが山麓の神社で懸け仏を初めて見た時にあーいいなと思った。神体の鏡と仏像が一緒になってるやつ。一番たくさん残ってるのは滋賀県だと何かで読んだわ。 >>67
かといって妄想話連投されるよりは真実だから >>75
茨城の御岩神社凄いよ
宮城の柳津虚空蔵尊も
廃仏毀釈の影響一つも受けてない1500年続いたであろう形残してる 秩父長瀞の宝登山神社では境内に別当寺が現役で残っている。
神社内に仏堂がある例は数は少ないものの幾つかはあるけど、ちゃんと神社の宮司とは別に住職までいるとなるとかなり珍しい。
逆にお寺の中の神社で宮司がいる正式な神社は山寺日枝神社や清水寺の地主神社とか結構あるけど。 宮城にも福島にもあるよ。
福島のは粟饅頭が有名なんだよな。 >>77
おまえアホだろ?
あそこ20年くらい前は心霊スポットとして有名だったところだし、佐竹から水戸に変わったころからずっーーーと観光地
祀ってる神さまの数みてみろよアホらしくて笑えてくるわ ウソ書かない。無知さらさない。
いわゆる浅間神社とか修験寺は、今でも神主はおらず、住民管理になっていて、
境内ないし横に寺があるのが普通。
神仏習合といっても、実際は僧侶(別当)管理なわけだし、
形式は神社だけど、実質は修験寺でしょ。
熊野がいい例。
沖縄に神社は少ないけど、あるのは熊野神社のみ。
これも沖縄には仏教はあったので、その僧侶が熊野に修行にいって、
勧請して出来たのが始まり。
沖縄には中国から勧請した寺はないのかなぁ?
沖縄も意外と内地とつながってた? >>83
うちの近所の浅間神社は宮司がいくつかの神社を管理しててそのひとつみたいになってるね 浅間神社というのは、寺がやってる神社(別当寺)だったわけ。
しかし、明治に修験道禁止、神仏分離のおふれが出て、
なくなったところ、神社を偽装したところも多い。
しかし、お祭りのときなど、今でも修験系の僧侶が来て
仕切っているところが多い。
というのは、氏子の多くが修験者の末裔なのだ。
一方、御嶽山や八海山のように、仏教色を排して、
教派神道系の修験道になったところもある。
しかし、それでも般若心経を唱えたりと、
仏教色は残っていて、やってることは大差ない。
ただ、日本では仏教は事実上、明治時代に滅びてしまって、
僧侶は還俗し、在家になってしまった。
だから、今の寺には僧侶がいない。
でも許されてるのは、日本人が寺を神社と同じように考え始めたから。
神社の神主は世襲で、在家と同じ、特別ではない存在だ。
というのも、神社はご神体や自然物を拝むところで、神主はどうでもいいからだ。
本来の寺は、僧侶に会いにいき、説法を聞きに行くところだったので、
ご神体や仏像を拝むところではなかった。しかし、本当の僧侶がいなくなったので、
人々は仏像や寺建築を拝みに行くようになった。
つまり寺院が神社化しているわけだ。
コスプレ僧侶は無視され、神主と同様のとるに足りる存在になってしまった。
僧侶が無視される仏教寺なんて、世界中どこに行ってもないよ。
すでに日本には仏教はない。神社化し、名所化した寺が残っているのみ。
そんなこんなで、在家で寺をもたない修験道が見直されているわけ。
修験道で修験者を無視する人はいないでしょ。話も聞くよな。
つまり、修験道にはまだ仏教の本質的要素が残っているわけ。
つまり、山を崇拝したり、自然物を拝むだけでは、修験とは言えないわけだな。
単なるハイキング。
そいつが何か言葉を発して、人に説法するようになったら修験道ではないかな。
修験に仏教の要素を見るなら、そういうことになる。 昔の仏教、僧が還俗する前の仏教ではね、
僧が特別な存在、なにかスーパーマンのような
特別の能力をもった人たちと考えられていたんですよ。
今、袈裟を着ている人たちをそういう風に見る人はいないでしょ。
でも、この要素がなくなったら、それは仏教ではないのよ。
修験者はまだちょっと特別の存在風にとらえられてるでしょ。
だから、まだ仏教っぽいんですよ。
仏教は僧あるいは僧が説く法に帰依する宗教だからね。
山を拝んでるだけでは修験ではない。 山を拝んでるだけだったら、よく言って古神道。
マタギの信仰とか、熊を山の神として崇めてうんぬんとか。
民話とか民俗学とか。
しかし、これもまたクセモノで。
柳田邦男は、遠野に行かずに遠野物語を書いた。
東京で遠野から出稼ぎに来ていた老人に話を聞いただけだ。
田舎とか関係なく、都会のサロンで成立しているのが民俗学。
聞き語りが問題なのは、この種のことがうまいのは精神病者だからだ。
霊界物語とかをえんえんと話すのは精神病者に多い。
だから、民俗学と精神病理学は同じようなものだ。 仏教の要素はいらないんじゃないかとしか思えない
そもそも寺請制度で強制的に仏教を信仰しろと庶民に強制したわけじゃない 江戸時代に
それが廃仏毀釈で取り払われただけでさ
仏教伝来より以前に山岳信仰ってあったわけで、それにより近づけたほうがよいのではないだろうか?
登山やキャンプなんて西洋にもヒマラヤにもあるわけで 木曽御嶽山は凄かった。
富士山の「お富士講」の富士塚が大好きだ。
都内・埼玉、色々回ってみた。
今でも登拝出来るところもあったりとか、かなり楽しい。 まあ開山したのは僧侶が多いし山と仏教は切り離せないわな
浄土平とかまさに浄土を想像したんだろうな >木曽御嶽山は凄かった。
どうすごかった?
実は木曽御嶽教から派生した新興宗教は多い。
神懸かり的な霊魂降ろしをやるのが特徴。
大山倍達の山ごもりって知ってるよね。
でも、実はあれはウソで、実際は本土剛柔流の山口剛玄という開祖が
のがその山ごもり伝説のモデル。
彼は御嶽教の信者であり、毎年二回の山ごもりを生涯欠かさなかったという。
奥多摩の御岳山山も木曽御嶽の分社みたいなもの。 富士講ねぇ、山岳信仰が宗教化、道徳化したものらしいが、
詳細は知らない。
確か身禄というのが、二代だっけ。
弥勒菩薩をさしていると思う。
弥勒菩薩は西洋に流れてキリストの原型になった。
(ここまでは中学の歴史教科書の範囲な) 埼玉秩父の三峯神社には
ここで山籠もり(空手修行)したと言われる大山倍達の立派な石碑がある。 山で修業しても心願成就するよ。
100ゲットなら心願成就ッ! >>95
「講」というのは何も富士山だけのものじゃないよ。
そして、山岳信仰だけにあるものでもない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています