The Ventures(ベンチャーズ)Vol.2
アメリカ合衆国出身のインストゥルメンタル・バンド、ザ・ベンチャーズを語りましょう。
前スレ
The Ventures(ベンチャーズ)
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloe/1426677126/ ヴェンチュアーズの国内初LPが「カラフルヴェンチュアーズ」であった。
もちろんステレオが普及していなかった頃なのでモノラルで発売された。 モズライトの音色は重々しすぎて好きになれない
やはり初期のフェンダーのほうがいい 当時の日本では、ロックやインストのバンドでも、アルバムやシングルでは
楽団名義で出るのが普通だったらしい。そういう時代だったんだな。 ベンチャーズのクリスマスアルバムがいちばん楽しく聞ける
当時ヒットしていた曲をイントロに使う画期的なアルバムだった クリスマスアルバムのジャケットはオリジナルよりも、日本盤のほうが趣きがあるね。
インストのクリスマスアルバムとしては、これが1番!! このテのランキングにベンチャーズが入る事はまずない
今回もまた然り
【音楽】「史上最高のロック・アルバム」ランキング・べスト100 (uDiscoverMusic) ★2 [湛然★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1640607449/ 1965年に2度目の来日をして
日本国中にエレキブームを巻き起こしたことは永遠に記憶に残る
あのときも1月の寒いときだったな 先程、遂にこの訃報が・・・
リーダーで、唯一のオリジナルの存命者
Don Wilsonが22日、88歳で死去。The Venturesは本当に伝説のバンドになってしまった。
60年代のエレキインストの大物も存命者はHank Marvin, Blues Welch, Brian Bennett,
Duane Eddy, Sandy Nelsonくらいになってしまったな。
ま、いつか来るとは思ってたが、高齢だから仕方がない。あの世で亡くなったメンバー達と
出会っているかもな。The Venturesは我々日本人にエレキインストの素晴らしさを
教えてくれた。"素晴らしい名曲をありがとう!! The Venturesは永久に不滅です。" R.I.P. The Venturesは親父が好きだったのが影響で、自分も愛聴するようになった。
彼らを生で見たのは1990年の長崎旅博でのLiveだった。それから何度か
友人と公演を見るようになり、長崎(2000)での公演では客席で歩きながら演奏しているGerry Mcgeeに"Knock Me Out"のCDを見せたこともあったな。
DonWilsonも、Nokie Edwardsそうだが、The Venturesの亡きメンバーには
感謝したいi。自分の人生にこんな素晴らしい音楽を聴かせてくれたからね。
これからも聴き続けるよ。 ベンチャーズくらいになればAKBやモー娘。みたいにメンバー継ぎ足し継ぎ足しで
存続させても誰も気づかないと思うし受け入れてくれると思う 東芝レコードの赤盤レコード時代が懐かしい
小遣いためてLPを何枚も買った >>58
コーラスグループではあるねプラターズとか。
オリジナルメンバー全員亡くなってる。 The Kingston Trio, The Left Banke, J.Hendrix Experienceも全員故人。
60年代の有名グループは故人在りが常になってきた。
逆で言えば、60年代のグループだとすると、The Young Rascals, The Seekers, Manfred Mann,
M.F.Q.のオリジナルメンバーは全員、今でも存命中。 Don Wilson, Nokie Edwards, Bob Bogle, Mel Taylor,
日本では、オリジナルメンバーといったらこのメンバー、これは日本だけの特権。 結成時の初代ドラマーのホーウィー・ジョンソンはまだ生きているのか? 1988年に亡くなっている。彼は確か、交通事故に遭ったのがきっかけで
その後遺症で脱退したんじゃなかったかな? Martha & the Vandellasはオリジナルメンバー3人とも存命
Four TopsはAbdul "Duke" Fakir、
TemptationsはOtis Williamsだけがオリジナルメンバーで頑張ってるね
MiraclesはSmokey&Claudette Robinson元夫妻の二人が存命
>>61
Left Banke全滅か 知らなかったわ 2009年だったかな、六本木のスイートベイジルの最前席でライブを見た。
目の前でノーキーが華麗な指先でヒッチハイカーを弾きまくる。
流石に立っての演奏にはならなかったけどコンパクトなクラブでのライブを楽しめた。
キャラバン終了後にノーキーは握手にも気軽に応じてくれた。
暖かくて大きな手だった。 これは個人的な願望だが、追悼を機にDon WilsonのヴォーカルのコンピのCDが
出てほしい。2000年の時も出ていたけど、あれは新録音や未発表のリミックスだったが、
そうではなく、60~70年代にソロや変名で出していたシングルや、リミックス無しの未発表、
などの内容であってほしい。イギリスのACEだったら出てきそうな気もするが、どうかな? ボブのリードはノーキーに比べると下手くそだった
だからベースにまわされたのだ >>63
因みにThe Venturesに参加したことがあるJohn Durrill(元The Five Americans)や
Mel Taylorの後釜だったJoe Barile(元Shango)は現在も存命。
この2人はThe Venturesのメンバーというよりも、()のメンバーの人の印象が強い。 エレキギターの元祖はレス・ポール
エレキギターを主役にのし上げたのがデュアン・エディ Duane Eddyは1938年生まれで、現在83歳。50年代後半から活躍しているR & R系の
大物ギタリストとして今も存命なのは彼だけになってしまった。
イギリスでも50年代から活躍している存命中の大物ギタリストはHank Marvin,
Bruce Welchくらいだろうな。JAZZでは50年代だと大物の存命者はKenny Burrellだけ。 おいおいwジェームスバートン
おまえだけじゃなくここにいるやつのレベルがよくわかるな そうだったJames Burtonも存命者だった。忘れてはいけない人物。
じゃ、ここのレス住人を上目線で見てるお前は、ここで紹介してる人物以外で、
50年代から活躍している存命者のギタリストの名前が言えるんだな。 >>72
今の40代以下の若い連中は、Les Paulのギターには関心があるけど、
Les Paul本人の演奏やアルバムには関心が無いだろうね。
ROCK誕生以前の人だから、それ以前のポピュラー音楽も古臭いと言われても仕方が無い。
モノラルの音楽自体理解できないだろうな。
逆に高齢の年輩の人達は経験しているからモノラルにも親しみがある。
この場合、Les Paul & Mary Fordで馴染んでいるだろう。 ノラ / レス・ポールといえばこれしかない
https://www.youtube.com/watch?v=InxUonKOLa4
子供の頃、さんざんラジオで聞かされた名曲だ "Teen Beat"のヒットで有名な伝説のロックドラマー、Sandy Nelsonが14日、83歳の高齢で、
亡くなったそうだ。
Sandy NelsonのLive(録音が良くない)アルバムに収録されている" Mr. John Lee (Part I,II)"には、
The Ventures加入以前のJerry McGeeがギターで参加している。
当時の日本盤の"Live!"の解説には"ジェリー・マクギー"として紹介されている。R.I.P. サンディーの「ドラムを叩け」はヴェンチャーズもカヴァーしていたな 「ベンチャーズとエレキを弾こう」という突拍子もないLPが発売されたことがある
Raunchy" "Tequila" "Memphis" "Walk,Don't Run"の4曲のリード、リズム、ベースの
各パート毎の演奏にベンチャーズの完奏ヴァージョンを加えた
エレキ・ギター・バンドの教則レコードだ
ギターの種類、チューニング、構え方からギターの指番を使った譜面に
パート譜まで満載の16ページのブックレット綴じ込み、
更にその4曲のドラムスも含めた完璧なパート譜がオマケに封入されているという豪華盤
そのためか定価は2,000円
通常、当時のステレオ盤は1、800円だったから高価なレコードであった ヴェンチュアーズのおかげで日本はエレキギターが爆発的に売れた
楽器メーカーは感謝、感謝だよな 教則レコードで、The Ventures以外で思いつくのは、
Chet AtkinsかドラムのHal Blaineくらいかな。Chetのほうはジャケ違いの日本盤が出てたはず。
ドラムの教則レコードは自分的には、Mel TaylorやSandy Nelson, Earl Palmerに
出して欲しかったな。 1960年代当時のレコード界は東芝がダントツで売り上げNo.1であった
ビートルズとベンチャーズという人気バンドを一手に手中に収めていたからだ
プレスリーはすでに人気が衰えてビクターの売り上げは下降線をたどってたし ベンチャーズのLP、EP、シングル盤はバイトして買いあさった
青春時代の懐かしい思い出だ。 >>83
1965-67年の頃のエルヴィスは本当にどん底の時期で、ヒット曲も"涙のチャペル"以降は
低迷が続き、映画も成功しなかった。もう過去の人扱い。
だが、この王者は68年にカムバックし、スターの座を取り戻すことになる。 プレスリーなんて映画が飽きられたんで仕方なく
ホテルのステージで無様な見世物をやってただけ
あの下品なコスチューム姿は見るも無惨であった
声量はとっくに落ちてたしみっともないもいいとこだったな 1965年にベンチャーズと同時期に来日したアストロノウツというバンドがあった
日本で「太陽の彼方に」というヒット曲を出して
当時のエレキブームに便乗したかたちで来日したんだ
結局、この1曲だけで消え去った一発屋で終わった アストロノウツがインストグループとして定着しているのは日本だけだろう、
本国アメリカでは、れっきとしたロックバンドで、歌入りのナンバーも数多い。
末期のアルバムやシングルでは、歌入りモノが殆どで、カヴァーナンバーが目立つ。
この頃の作品はサーフミュージックというより、ガレージ寄りに近いほうかな。
末期のアルバムも日本盤のLPが出ていたらしいが、見向きもしなかっただろう。
アストロノウツといえば、去年の11月、ヴォーカルの1人が亡くなって、その数日後にドラマーが後を追って亡くなった事があったな。 アストロノウツといえば過剰なピチャピチャしたリバーブ効いたギター アストロノーツの歌入りの曲日本でもちょっとヒットしたよ ベンチャーズとともにエレキブームのきっかけをつくったアストロノーツだが
来日したときの素行不良ぶりでいっきに人気が下がって
エレキファンはマナーのあるベンチャーズに移行してしまったんだよな The Astronautsの"Movin〜太陽の彼方に"がヒットしたのは日本だけで、
本国でチャートインしたのは"Baja"(94位) たったこれだけ。 ザ・スプートニクスはグッドルッキンだったので宇宙服を着て少女漫画雑誌の表紙を飾っていたな。
ヴェンチャーズの、あの面がまえでは少女相手の本が売れんぞな。 「ワイプ・アウト」のヒットを飛ばしたサファリーズも来日したことがある
あの頃はいろいろなエレキバンドがたくさんヒット曲を出していた
「アウト・オブ・リミッツ」のマーケッツもそうだし サファリーズも当時、日本で数多くのシングル出しているね。
日本でのシングルは、初めはインストが主だったが、後期はヴォーカルものが多い。
ヴォーカルものはリアル世代の人だったら、" Karen"だろう。
"Wipe Out"のThe Venturesヴァージョンのシングルは東芝音工時代に出ていると
思ったが、"青い渚をぶっとばせ"のEP盤に収録されているだけだったとは意外だった。 >>93
The Spotnicksが日本の少女漫画雑誌の表紙に載ってたとは意外だったな。
Bo Winberg以外のメンバーは当時の新メンバーっぽいところも気もする。
このグループも歌ものも数曲あるが、歌はイマイチなんだよね。 スプートニクスといえば来日した時ビートルズのツアーに参加したジミー・ニコルが
ドラマーやってたのが話題になった オーストラリア公演で風邪で倒れたリンゴの代役を務めたが
フランケンシュタインみたいな顔してて愕然としたよ
まさかこいつがこれからビートルズのドラマーになるのかとね
でもその公演だけのピンチヒッターだったので安心した ビートルズファンは、ジミー・ニコルはリンゴの代役のドラマーとして知っておけば
いいほどで、それ以外の音楽やザ・スプートニクスには興味なさそう。 Getting Betterはジミー・ニコルの口癖だったらしいぞ >>94
シャドウズ、アストロノウツ、スプートニクス、サファリーズ、シャンティーズの
他インストグループも当時、来日してコンサートをやっているが、
ヴェンチャーズと違って、観客はそんなに多くはなかったはずだろう。
地方公演だったら、観客が10人以下だったことも稀だったりして・・ wikiによると、
>日本滞在時にサインを求めてきたファンへいたずらを仕掛ける等、
素行不良ぶりが祟り、殆どのアストロノウツファンはベンチャーズの支持へ移行した。
ヴェンチャーズが紳士的だったのに対してアストロノウツはガキだった、と
あと日本と日本人を軽んじてた節がある (演奏も手を抜いてるような感じ)
ファンが望んだサウンド
http://www.youtube.com/watch?v=zncQ5qDVhcU
http://www.youtube.com/watch?v=aO349CSnYXs
初来日公演
https://www.youtube.com/watch?v=P-rV2-hBTfM
例えるとバルタン星人と2代目バルタンの違いみたいな
ただ、ヴォーカルグループと見れば良いんだよね
Tomorrow's Gonna Be Another Day(明日の太陽)1965年
http://www.youtube.com/watch?v=x1MpzqqEmM8
この曲は翌66年にモンキーズがファーストでカヴァーした アストロノウツは来日したとき日本ビクターのスタジオで歌謡曲も録音した
それが橋幸夫の「チェッチェッチェッ」でなかなかいいできばえで
この時には作曲者の吉田正も出向いてメンバーと対面して曲の奏法を教えた 初来日して素行の悪さをさらしたのがポール・アンカ
大ヒットした「ダイアナ」で一躍有名になったが
あの不良ぶりで評判を落とし日本では人気がなくなった
当時ポールは16歳だった ポールにはギラギラと脂ぎってる好色男のイメージしかない。
、
1960年代中期、彼が司会をするテレビショーの姿ではまだ頭髪ば健在だったがや。 あの"4人組"にヒットのお株をとられてからのPaul Ankaは、60年代後期は
不遇の時代でもあった。チャートに入っても、大ヒットにはなることはなかった。
レーベルを転々として、74年に見事にカムバックするんだよなこの後。 あの"4人組"にヒットのお株をとられてからのPaul Ankaは、60年代後期は
不遇の時代でもあった。チャートに入っても、大ヒットにはなることはなかった。
レーベルを転々として、74年に見事にカムバックするんだよなこの後。 ポール・アンカは一世代前のスターという印象だったが丁度ジョンとポールの
間の年齢 カナダのポールはリバプールのジョンより年下なんだよな ポール・アンカはABCパラマウント時代に才能を出し尽くしてしまった
ほとんどのヒット曲を量産してしまいもうヒット曲が書けなくなってしまった
アホなRCAはこれを見抜けずポールと長期契約してしまい大損をした
RCAに移籍後、何一つヒット曲を出せなかったんだから 本当だ、RCAに移籍してからはTOP 10の曲は1曲もないや。60年代前半に長期契約した
歌手たちは64年になると状況が変わってしまう。Elvis, Paulの他にも、Neil Sedaka, Rick Nelson, Pat Boone などがわかりやすい例え。あのSinatraも66年までは
大ヒット曲が出せなかった。 ロジャー・ニコルズの書いた「タイムス・オブ・ユア・ライフ」はFENでよく流れていた。 >>117
「想い出よ いつまでも」はポール・アンカの最終便だった。 RCAに移籍してから鳴かず飛ばずのポール・アンカだったが
二匹目のドジョウを狙ってかっての大ヒット曲の「ダイアナ」を引っぱり出し
「想い出のダイアナ」を出したがこれまたコケてさらに落ち込んでかっての
栄光を取り戻すことはできなかった http://www.youtube.com/watch?v=w22haP4hgsQ
クロクロ作曲の「Comme d'habitude」に英詩を付けてシナトラに提供したらスタンダードに
自分が作曲したわけでもないのに自身の手柄の様に語るポールはやはり最低野郎だった ポール・アンカが初来日したとき前座に出ていた平尾昌章と楽屋でギターを弾きながら
アイディアを出しあって曲ができた、それが「好きなんだ」という歌
ポールはこれを平尾にプレゼントしてくれた、これはYouTubeで聞ける
ポールは他にも「クリスマス・イン・ジャパン」という
オリジナル・クリスマスソングを書き
レコーディングを日本で行ない、日本のみレコード発売してヒットさせている ポールはバディ・ホリーにIt Does'nt Matter Any Moreをアネットには
Trains Of Loveを送ってヒットさせてるから ポール・アンカはフランスの歌手シルヴィ・ヴァルタンにも曲を提供している
「いつでもあなたを」がそれだ
これはリトル・ペギー・マーチもカヴァーしている
同じRCAのアーテイスト同士だったから実現できた 直訳すると「あなたの頭を私の肩の上に置いて」なのに逆になってる 1960年代初頭、RCAは欧州に目をつけていろいろな歌手を物色して商売を始めた
なかでもリトル・ペギー・マーチ、シルヴィ・ヴァルタン、リタ・パヴォーネを
三人娘としてヤング・クィーン・トリオとして売り出したが不発に終わってしまった
とくにリタ・パヴォーネなどソバカスだらけのブスでひどいオカチメンコだった >>130
邦題は「トマト・ジュース乾杯!」 “にんじん娘”と呼ばれてた。 1本でも ニンジン ニンジン
2本で ニンジン ニンジン
1本でも ニンジン
2足でも サンダル
第3の男でチターを弾いている人が「トマト・ジュース乾杯!」でも弾いてます 15歳で全米1という最年少記録をつくった
リトル・ペギー・マーチは日本に何度も来日している
日本の歌謡曲を何曲も録音してファンにはお馴染みの歌手
テレビの歌謡曲番組で「任しといて」と覚え立ての日本語を披露したときは可愛かった 最年少記録をつくった全米No.1のアーティストは(Little) Stevie Wonder
じゃなかったかな? 確か12, 3歳だったはず
(Little) Peggy Marchの1位の曲はRick Nelsonもカヴァーしてたな。 来日した外タレでも真面目な人もいれば不快極まりない奴もいた
ポール・アンカとは違ってニール・セダカはお行儀もよく好印象を与えた
1965年に日本でカンツォーネブームがおきてレコード会社の金儲け作戦で
イタリアの歌手たちが続々来日した
そのなかのボビー・ソロなど客をバカにし、なめた歌い方で大顰蹙をかってしまい
福田一郎などは激怒してキングレコードの担当者に
「もう日本ではボビー・ソロのレコードは売れないよ」とはっきりと苦言を呈し
ミュージックライフでもボロクソに酷評文を載せていた
同時に来日したヴィルマ・ゴイクのほうは真面目に歌っていたと評価していたっけ ボビー・ソロは「ロッテ歌のアルバム」に出てたよ 下手だなと思ったけど ボビー・ソロは1969年に「涙のさだめ」でサンレモ音楽祭2度目の優勝
日本で人気再燃か、と思われたがオリコン最高82位と振るわなかった
1969年3月20日にキングからサンレモ入賞曲が5枚同時発売されたが1曲(オリコン6位)を除いて全くヒットしなかった
HIT-1612 カテリーナ・カセルリ「恋の遊び」/ジョニー・トレルリ「恋の遊び」
HIT-1613 ジリオラ・チンクェッティ「雨」/マッシーモ・ラニエリ「愛の詩」
HIT-1614 ドン・バッキー「消えたほほえみ」/同「青春に歌う」
HIT-1615 リタ・パヴォーネ「ズッケロ」/ディク・ディク「ズッケロ」
HIT-1616 ボビー・ソロ「涙のさだめ」/ミルバ「消えたほほえみ」 今年に、The Venturesは9月にLIVEをやるらしいけど、正直言って、今のグループは
The Venturesの名は名乗ってほしくはないな。どうせなら、The "New" Venturesとして
改名してほしい。ま、今のメンバーには全く興味なし。
ボビー・ソロといったら、やっぱり"ほほにかかる涙"だな。 西京電発によると、16日23:37頃、村渡県小山国の広域で停電が発生しました。現在、復旧作業が行われています。
■影響地域
小山国:約48350軒(三峯、中久喜、中央州、城北、城山州、城西、儂字三拝川岸、儂字中久喜、儂字出井、
儂字千駄塚、儂字南半田、儂字向原新田、儂字向野、儂字喜沢、儂字土塔、儂字塚崎、儂字塩沢、儂字外城、
儂字小山、儂字平和、儂字西島田、儂字横倉、儂字横倉新田、儂字武井、儂字犬塚、儂字神鳥谷、儂字稲葉郷、
儂字粟宮、儂字羽川、儂字鉢形、儂字間々田、儂字雨ケ谷、儂字雨ケ谷新田、天神州、宮本州、扶桑、本郷州、
西城南、犬塚、神山、神明州、神鳥谷、粟宮、花垣州、若木州、西城南、雨ケ谷州、液南州、液西通り) フランス・ギャルなんてのもいたっけ
欧州のポップシンガーはいろいろ来日した
本場のアメリカでは全然ウケなかったけど 1947年にフランスのパリ12区で生まれた。
父は作詞家のロベール・ギャル。
母はセシル・ベルティエ(パリ木の十字架少年合唱団の共同設立者として知られるポール・ベルティエの娘)。
1963年に、フィリップスより「Ne Sois Pas Si Bête(恋のお返し)」でデビュー。
1964年には、「フランスにおける学校の創始者」とされるシャルルマーニュ(カール大帝)に対して学校で勉強することに関する不満を歌う
「Sacré Charlemagne(シャルマーニュ大王)」(作詞は父親のロベール・ギャル)が大ヒットした。
1965年にイタリアで行われた第10回ユーロビジョン・ソング・コンテストにルクセンブルク代表として出場し、
父親の知人であったセルジュ・ゲンスブール提供の「Poupée de cire, Poupée de son(夢見るシャンソン人形)」を歌い優勝した。
同曲は日本語盤も発売され、1966年6月に来日公演。
60年代後半には、ドイツ語、イタリア語、スペイン語バージョンの曲も吹き込み、また、1967年から1972年まではドイツのDECCAとも契約して、
ドイツ語オリジナル曲を数多く発売した。
1968年にフィリップスを離れ、La Compagnie、Atlantic、Pathe - EMI Music France、Atlantic=WEA、と移籍を繰り返した。
1970年代に入り作曲家のミッシェル・ベルジェ(英語版、フランス語版)と知り合い、
彼のプロデュースのもと本格的な歌手として再スタートを切り絶大な支持を得る。
1976年にベルジェと結婚。
その後長女・ポーリーヌ (1978年11月14日 - 1997年12月18日)と長男ラファエル(英語版、フランス語版)(1981年4月2日 - )の2児を授かった。
1985年、日本においてホンダが同社の製品のバラード・スポーツCR-X SiのテレビCMのバックミュージックとして
「Attends ou va-t'en(涙のシャンソン日記)」を採用した。
1996年、ジャン=リュック・ゴダールが「Plus Haut(もっと高く)」(1980年録音)のプロモーションフィルムを撮影した。
1992年に夫ベルジェが死去。さらに1997年には娘のポーリーヌを嚢胞性線維症で亡くす。また自身も1990年代半ばに乳癌を患い、
以降は表舞台に出ることはなく、実質上の引退状態となった。その後は数々の人道支援プロジェクトに参加した。
晩年は療養生活を送っていたが、2018年1月7日にパリ郊外の病院で死去した。死因は乳癌。70歳没。 アナログ時代、The Venturesの次に、来日回数が多かったのが、
The Brothers Fourだという話は聞いたことがあるな。 テレビ西部劇「ローハイド」の主題歌で一躍有名になったフランキー・レイン
来日したときのポスター騒動には呆れた
あれじゃ本人が怒るわけだ、同情するよ Frankie Laineが来日していたことは知らなかったな。それはさておき、
日本では"Rawhide" "Gunfight at the O.K. Corral"の影響でC & W歌手のイメージが
強いが、実際はれっきとしたJAZZ,ポピュラーシンガーでヒット曲も多数有。
The Venturesに"Rawhide"という曲があったのを思い出したが、あれは
Link Wrayのほうで、有名なナンバーとは同名異曲。 昭和39年4月に来日
東京(新宿)京都、大阪、神奈川(横浜)で公演をしているね