聖徳太子について教えてくれ
生まれて、生きて、そして死んだ。
そんな人生だった。 ユダヤと秦氏の歴史の話をすると始皇帝の時代からの話になり
長くなりすぎるんで省くが
そもそも厩戸王とブレーンの秦河勝の伝記には
様々なユダヤの伝説が盛りこまれているからな
秦河勝にはユダヤ教の開祖・モーセの話が盛り込まれ
厩戸王はキリスト教の開祖・イエスの話が盛り込まれている。
平安時代成立の太子伝『聖徳太子伝暦』によると
穴穂部間人皇女の前に救世観音が現れて、
母胎を借りると言って口の中に入る。
皇女は男と交わらずにみごもり、馬官(うまのつかさ)まで来たとき,
厩の戸にぶつかって急に産気づき,その場で太子を産み落とす。
聖書ではイエスの母マリアの前に天使ガブリエルが現れて受胎告知をし
マリアは処女懐胎して、やがて厩でイエスを出産している。 また幼少期のイエスがいなくなったので両親が探しに行くと、
神殿で多数のラビに取り囲まれ、
ただ一人で沢山の相手と問答していたという。
厩戸王も1人で10人の話を一度に聞いて相手したという逸話から、
豊聡耳皇子(とよそみみのおうじ)と呼ばれている。
イエスは大工であり、父ヨセフは
メーソン(石工)組合のグランドマスターだったとされる。
厩戸王も大工の祖、大工の守護神と呼ばれて崇められている。
イエスはたくさんの信者の中から12人を選び教えを継がせたが
厩戸王もたくさんの天皇の臣下に12の階位を定めている。 『日本書紀』によると厩戸王は片岡山で
ガリガリに痩せた聖人と出会い、衣食を与えた。
その男は死亡して葬られたが、数日後に復活して天に昇った。
そのため棺の上には衣しか残っていなかったという。
また13世紀に書かれた『聖徳太子伝説』には、
厩戸王が一度死んで復活したと書かれている。
イエスは弟子たちに飢えた者がいれば食物や服をめぐんでやれと教えた。
そして死亡して墓穴に葬られた。
だが復活したため、マグダラのマリアが墓に行ったところ、
屍体を覆う布(聖骸布)しか残っていなかった。
その後にイエスは弟子たちの前に現れて昇天していったという。 これらの伝説の多数の類似性は
当時の日本に既にキリスト教徒がおり
後の記紀編纂に深く関わっていた事を意味している。
もっと言えば長くなるんで省くが
聖徳太子は仏教の祖のように祀られているが
実態は神道を推進しており、
不比等以前の原始神道はユダヤ教から派生したものだった。
ユーラシア大陸の端にある朝鮮半島の新羅には
ローマングラスなどローマ帝国から入ってきた品々が多数残されている。
新羅の寺である仏国寺は世界遺産に指定されており、
景教(キリスト教ネストリウス派)の十字架や漢文聖書が発見されている。
新羅にはキリスト教が伝わっていた。 聖徳太子が秦河勝に預けて
広隆寺に祀られた弥勒菩薩像は
日本の仏像のような楠ではなく
新羅の仏像に見られる赤松で作られたもので
新羅から入ってきたものとみられる。
事実、新羅では弥勒菩薩信仰が盛んで、
類似した弥勒菩薩像がいくつかある。
比較宗教学者のエリザベス・ゴードン女史らも言っているが
日本や中国の弥勒菩薩はルーツを辿ればインドのマイトレーヤ、
更にはペルシアのミトラに逢着し、
そこからミトラス教のミトラス、ユダヤのメシア、
キリスト教のキリストが派生している。
要は弥勒菩薩像の正体はキリストの像だ。 なお広隆寺では牛に乗った摩多羅神が
四天王と呼ばれる4人の鬼を従えて境内を練り歩く「牛祭」が行われていた。
このマダラ神もミトラ → マイトラ → マダラとなまったものでイエスの事だ。
須弥山の東西南北を守護する四天王も、
仏教ではなくペルシアがルーツで
教典に記されたミトラ神の御稜威を4つに分割したものだ。
そもそも秦氏は仏教系ではなく神道系で、広隆寺も寺ではなく
本拠地である太秦に建てた三位一体の
天界の三神を祀る蚕の社と対になる建物だ。
太秦(うずまさ)という名は本当は
イエス・キリストのアラム語読みであるイシュ・メシャか、
ヘブル語の「光の賜物(ウズ・マサ)」からきている。 秦河勝はユダヤ教の祖・モーセの伝説が投影されている。
生まれて間もないころ、モーセは葦舟に乗せてナイル河に流された。
これを古代エジプトのファラオの娘が拾い上げて育てた。
モーセという名はヘブル語で
「マーシャー(河から引き上げた)」という意味だ。
河に勝つという意味でもある。
そしてファラオのもとで高度な教育を受けて育ち、
後にユダヤ民族を率いる指導者になった。
これとそっくりな話が
能楽の祖であり、かつ秦氏であった
世阿弥元清の著書『風姿花伝』書かれている。 欽明天皇の時代、大和の泊瀬川が氾濫して洪水が発生した。
すると、上流からひとつの壺が流れてきて、
村人が拾ってみたところ、壺の中には子供が入っていた。
その夜、欽明天皇の夢に壺の中の子供が現れ、
自分は秦始皇帝の生まれ変わりであると称した。
驚いた欽明天皇は翌日子供を内裏に招き入れ、
殿上人として育てる事にする。
15歳になると、秦始皇帝にちなんで秦という姓を与え、
また氾濫した泊瀬川から助かったことにちなみ、
河に勝ったという意味で、名を河勝としたという。
同様の説話は金春禅竹の著書『明宿集』にも記されており、
こちらは欽明天皇ではなく、推古天皇の時代としている。 ユダヤの預言者たちは対立する宗教の預言者たちと戦い、これを撃退してきた。
秦河勝にも同じ逸話があり、『日本書紀』によると
皇極天皇3年(644年、東国の富士川あたりに住まう大生部多が
虫を祀る宗教を作り出し、虫を祀れば富を得て若返るといつわって、
人々に財産を捨てさせ、酒や食物を寄進させていた。
その信仰は都にまで広がったが、人々を益することはなく、
その損害は甚大だった。
秦河勝は民が惑わされるのを憎み、大生部多を討伐したという。 厩戸王が亡くなったあと、蘇我馬子が実権を握った。
厩戸王側近であった秦河勝は失脚し、身の危険を感じたために、
播磨国坂越に逃れた。
同様の内容が世阿弥の著書『風姿花伝』や『明宿集』にも書かれている。
大避神社の主祭神は秦河勝である。
大避大明神とは秦河勝のことである。
国学者の鈴鹿連胤が秦氏の祖と述べているのは、
秦河勝が秦氏の首長であり、
太秦の称号をもっていた事実を前提として語っているのだ。 17条憲法 第八条
官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。一日じゅう
かけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、
はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう。
ブラック企業やサービス残業、社畜だらけの日本になってるのは17条憲法の8条が元凶なんじゃないだろうか・・・
今となっては古代の遺物なんだし現代的価値観でみると全部が全部正論とは言えないな・・・ 社畜たちは、早くから出仕し、深夜おそくなってから退出しなさい。業務はうかうかできないものだ。一日じゅう
かけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、
定時で退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう。