もし徳川が関ヶ原後全力で島津を潰していたら?
300年後の幕末維新はどのような形になったでしょうか? いや豊臣が残ってしまう形になるかもしれない
そうすればそれ以前にもっと面倒なことにも なぜ島津家が関が原後も健在だったのかは謎だよな 明らかに西軍だし家康の命を最も脅かした一族だろうに 潰すような余裕もなかったんだろ。
徳川家っても、そんなに体制が固まってたわけでもないんだろうし。 でも政権基盤が固まった家光のあたりからなら、福島みたいに難癖つけて
とりつぶすこともできたかもしれないな。宝暦治水みたいな形で明らかに
島津の弱体化を図ってはいるが。 >>8 いま急いでwikiで宝暦治水事件のことを調べたが、こんな可哀想な事件があるとは今まで知らなかった
幕府の役人ってドラマにでてくる悪代官みたいなやつだったんだな おれは薩摩藩士のようにジッと耐えることができたかどうか 耐えられなかったら潰されるだけだろうな。
戦国時代でもそうだろうけど、難癖にしても大義名分は必要なわけで。
ただ、島津が取りつぶされていてもきっと西方(辺境?)の外様が同じコトをやったような気もする。
なぜ西方かと言えば、江戸から見て辺境であることと外国の影響を受けやすい、更に江戸より京
に近いからと言ってみる。
で、一番潰しておかなきゃいけなかったのは朝廷だったと・・・信長でも出来なかっただろうけど。
しかし、朝廷が続く理由のひとつは「実権」がないから?かとも。
>>9
鹿児島では平田靱負を始めとして、その歴史は高校入試でもよく出されるし学校で習ってみんな知っている。
宝暦治水はそもそも、徳川吉宗と尾張宗春の対立があって、その両者の死後、幕府と尾張藩の関係修復の為に企画されたこと。
それを幕府初期のように「天下普請」方式を採用し、そのとばっちりが薩摩に来たというわけだ。
その経過については調べればわかるだろうから、意見としては薩摩の対応について書いてみようか。
薩摩は「関ヶ原の戦い」が、いわば全国デビュー。それまでは九州情勢以上の対応をしたことがなかった。
関ヶ原の戦いについては、完全に流れが読めていない。いわば「田舎大名」でしかなく、秀吉死後の豊臣内部の対立(武断派・文治派)とも無縁。
その結果、当初上杉征伐に赴く徳川家康から伏見を守って欲しいと言われ、快諾(このままいけば東軍)したが、伏見城で徳川家臣鳥居元忠といさかいをしてしまい、結果西軍に。
ところが大垣城で石田三成とも対立してしまい、関ヶ原の戦いでは完全に浮いた存在だった。
結局戦闘はせず、気がついたら西軍は敗北していて、威力撤退をするはめに。
それで追撃を受け、1600名いた薩摩勢が鹿児島に生還したのは80人。95%を失うという散々な内容だった。
問題はこのあと。
家康が薩摩を潰そうとするという噂(事実ではないだろう)は薩摩にも伝わってきた。
臨戦態勢を取ったが、中央政界にも手を打つべき。しかし薩摩には当時一切中央とのつながりはない。
これで何と薩摩はその関係を700年も遡ってそれを求めた。
それが「近衛家」。島津発祥の地島津荘はかつての摂関家の荘園だったところで、それを寄進したのが島津氏だった。
薩摩は近衛家に対し、その700年も前の関係を持ち出し、進んでそれを復活させることで近衛家に徳川家との関係修復を依頼した。
これはタイミングがドンピシャだった。徳川家康は当時、征夷大将軍就任を目指して朝廷と交渉中だったからだ。
征夷大将軍になるには、いくつかの要件があるが、そのひとつが「源氏長者」であること。
徳川家康はそれを楯に征夷大将軍の「補任」を求めたが、
近衛は「同じ『源氏』の島津との関係がこじれていては徳川家を源氏長者とは認めない」という論法で、島津との関係修復が征夷大将軍補任の条件であるとの状況を作り出した。
島津はこの時から、中央との関係、特に外交交渉の重要性を覚ったのだろう。
宝暦治水の後、薩摩は徳川内部の勢力との関係強化を図っている。
それは「一橋家」。徳川御三卿のひとつであり、かつ当主一橋治済は、ひとつの野望を抱いていた。
それは自分の系統から「将軍」を出すこと。その為に権謀術策を用い、その息子豊千代丸を次期将軍へと画策していた。
そのため、一橋家は各勢力との合従連衡を図っていた。そこに薩摩は入り込んだ。
豊千代丸が十一代将軍徳川家斉となる前後から、一橋家および一橋系将軍家と薩摩との関係は密接になっていく。
一橋家から島津重豪の正室(保姫)が嫁いでいる。また将軍家斉の正室は島津から近衛家経由で近衛寔子(広大院)が入っている。
それにより幕府と薩摩は妥協し、幕末へと推移していく。
現在NHK大河ドラマでやっている「天璋院」もそうした流れの中のひとつだ。
ひとついえるのは、薩摩は度々徳川から狙われたが、その度に妥協を画策し、それが成功してきたということ。
そして、薩摩はそれを実行するたびに、かつての田舎大名から次第に政治的なセンスと行動力が身についてきたということだろう。
危機が人や集団をより強く逞しくしていく一つの例ではないだろうか?
>>6
謎?
知らないだけなんじゃ・・・・・
徳川家康にとっては田舎大名なんてどうでもよかった
余裕がないというのもあるが、一番の問題は「豊臣恩顧」大名を如何につぶすかだよ。
だから石田三成とか西軍についた者は当然だが、東軍についた者もそうだ。
福島正則、黒田長政、山内一豊など、味方につけたが戦勝後は遠隔地に配置した。
そして強力な大名については加藤清正も含めて徳川政権樹立後潰していった。
薩摩が謎だったら、西軍総大将だった毛利はなぜ残ったんだ?
豊臣恩顧じゃないからだろ。
そして徳川家康が関ヶ原の直前実際に討伐対象にまでした上杉さえ残っているぞw
関ヶ原の戦いからの徳川政権当初は豊臣潰し。
それ以外はそれ以降の問題。幕末まで家康・秀忠が面倒見れるかよ!!
まあ、島津がいなくても九州には黒田、細川、鍋島と有力な外様大名が
多くいるから、これらが長州と手を結んで幕府に背いていたんだろうな。
でも薩摩の存在なくして倒幕がすんなりうまくいったとは思えない。少なく
とも幕府の寿命が史実よりかなり長いびいたような気がする。 >>13
妄想も大概にしろw
>これらが長州と手を結んで幕府に背いていたんだろうな
って結んでねえよ。
薩摩も長州征伐のころまでは幕府派だよ。
薩長同盟がすべてを変えた。
薩摩を全力で潰しに行くような徳川だったら
すぐに豊臣恩顧大名に反撃されてあぼーん
よって幕末は、ないw てか、関ヶ原以前の秀吉の九州遠征で滅んでた可能性だってあったんだよな
後の北条氏みたいに >>17
そうだよな。島津が滅ぶとした関ヶ原後よりそのタイミングだよな。それでやっと
このスレの仮定が成り立つわけだw 秀吉が薩摩を潰すはずがない。
秀吉は日本統一だけを考えていた訳ではないからだ。
大陸への進出。
これがあるから、特に「西日本」に対してはかなり妥協的だ。
当然、全国統一後の大陸進出時の「戦力になる」からだ。潰してしまってどうする。
本当はその考えで全国すべてを進めるつもりだっただろう。
しかしそれだと問題が残る。
ひとつは家康の勢力圏が秀吉に近く、その立場が脅かされること。
そして、これが大きいが、そんなやり方だけでは秀吉の直轄領が全く増えず、秀吉配下に十分な加増をしてやれないこと。
だから北条は潰した。
それで家康を関東に。それで空いた場所に福島、山内などを宛がった。
島津は領地が戦国時代に増えた分だけ減らされた。また他の九州大名で潰して良い者は潰した
それは、加藤清正(当初は佐々成政)とか小西行長を宛がった。
なんでも潰せば良いというものではない。 >>1
つまり他のどの大名が薩摩を拝領して江戸時代に納めてたかって話だな >>20
誰であれ「納めて」しまえば幕府の天領ってところだなw たぶん島津が秀吉によって潰されてたら、その後は佐々成政が肥後とあわせて
薩摩も支配する。鎌倉以来島津の支配下にあった薩摩は肥後以上に治めにくい、なん癖
つけてとり潰すには絶好の地だな。そのあとのことは知らんが… まだ加藤清正が生きていた頃は肥後からの侵攻を恐れてるよね。
気まぐれな人なんで小さな切っ掛けさえあれば攻めてくるぞって。
清正も徳川・豊臣そっちのけで戦を起こす様な短慮な人ではないが
恐れ知らずで戦好きの猛将って世間では思われてたからな。 まあ俺が徳川将軍だったら薩摩は討伐して徳川の四家目を創設していただろうなw 俺が徳川将軍だったら薩摩も長州も加賀も仙台も博多も佐賀も熊本も広島も土佐も討伐して
最強将軍となり、天皇も討伐して大日本皇帝として君臨してただろうなw >>24-25
おまいらみたいな無茶な将軍がいなかったから幕府は続いたんだろ(爆) 薩摩まで家康が出陣できるものならしてたよ。
なぜ出来なかったかというと外様NO1の伊達政宗の存在があったから。
>>11
征夷大将軍は別に源氏長者じゃなくてもなれるぞ >>33
それを知らないおまいがバカってこったな
逝ってよし 家康が親征などしなくてもよい。
肥後には加藤清正もいるし、九州の諸大名にさせれば済む話。
ただし、島津がこれ見よがしに反乱をおこせばということ。
その状況で島津が乱を起こすとは思えないしな。
マジレスすると平氏である信長に朝廷から征夷大将軍の打診が来ているという現実があるので
源氏長者などは別段大将軍になるのに必要なものではない 三職推任問題を知らないとかモグリにも程があるだろwww 打診だけなら小早川秀秋にも関白の打診は来ているぞw
だからといって関白に毛利の分家でもなれると言えるのかw 石田らがほざいているだけのモノと
朝廷から直々にきたものとを同一視するとは もし島津を取り潰そうとしたとしても、
西軍の残党だらけだし、第一義広義久が引き下がるはずがない。
合戦になったとしたら、家康は三成の野望から豊臣を守る為に軍を出したというのは嘘になり、
家康の野望が全土に知れ渡って、東軍のほとんどがだませたのに癇癪を起こして西軍に下るだろう。
そんな事してたら家康が危ない。死ぬ可能性すらある。これで島津が勝ったとして、
もし淀殿が三成を迎えなかったら応仁級の戦いが勃発するよ。
豊臣等西軍VS石田等賊軍VS東軍残党のね。 義弘だろw
第一宇宙戦艦島津を怒らせたら波動砲が火を噴くぞw 215 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/25(土) 17:24:29 ID:fWV+qKu6
こんなカスのコテ名に使われるなんて安東愛季も泣いてるよ
216 名前:安東愛季 ◆f8GKRWCRoQ [age] 投稿日:2008/10/25(土) 17:27:21 ID:eaIe6HR8
俺の先祖五十目秀兼だからなかないよ
220 名前:安東愛季 ◆f8GKRWCRoQ [age] 投稿日:2008/10/25(土) 19:15:06 ID:eaIe6HR8
馬鹿じゃないの?俺の先祖が五十目秀兼って言う愛季の家臣だから、
しかも湊城址が近くにあるしwwww
お前なんか此処のスレにくんなwww
221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/25(土) 20:29:53 ID:k6x+riMk
五十目さん、安東家を裏切りましたけど?
222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/25(土) 20:55:40 ID:7Y7TjP0h
五城目の近くに土崎城……??
223 名前:安東愛季 ◆f8GKRWCRoQ [age] 投稿日:2008/10/25(土) 21:42:30 ID:eaIe6HR8
>>221
資料くれ
無かったら腐って死ね。
いや、お前はキモくてバクテリアも寄り付かないな。
腐れないな。
じゃあ首釣れ。さっさと死ね。
安東分かんない野郎が安東愛季様を語るんじゃねーよ。
224 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/25(土) 22:03:23 ID:fWV+qKu6
どうせそんな珍名野郎はどこの馬の骨かわからん仮冒師だろうが、
子孫というからにはどう繋がってるかちゃんと言えるんだろうな?
226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/25(土) 22:23:49 ID:k6x+riMk
大光寺左衛門尉は五城目兵庫と語らいて、三戸の北左衛門信愛の館に飛脚を送った。
信愛から書を得た信直はこれを喜び、ただちに陣ぶれをだし、比内攻めを開始。
八戸弾正省弼、北信愛、九戸政実、石亀紀伊守、七戸彦三郎、四戸中務などを率いて
七百余騎をもって天正十六年に三戸を発ち、赤沢大明神(現・秋田県大館市)に陣を取った。
比内周辺の城代の和田内膳は突然の南部軍の来襲に驚きつつも、軍備と評定を行い
大館周辺の勢力を集めて対抗する構えを見せた。
四方より囲まれた和田内膳は、手勢を率いて城中より打って出たところ
かねてよりの合図があったので、五城目兵庫と大光寺左衛門尉は敵を城内に引き入れ裏切りを行った。
比内の秋田方の手勢は奮戦するも、前後から攻められては討ち死にするものが多数であった。
特に和田内膳などは嫡子岩三助、次男小次郎、船水与右衛門、渡辺新左衛門、永井十左衛門、堀内権左衛門
深間内武者之助を始めとする兵七十騎で一丸となて敵の大勢に駆け入り、
六、七度揉み入ったが、次第に討たれ、ついには一人も残らなかった。
大館の城には北信愛が入り、大光寺、五城目もそのままの城に留め置かれた。
直、大館城は秋田の押さえゆえに、与力百騎、足軽百人がさらに北信愛に添えられた。
信直は勝ち鬨を上げて三戸に帰還した
奥羽永慶軍記 巻十六「五城目兵庫心変り 比内落城の事」より概略 島津は中国人の子孫で
大内は朝鮮人の子孫と
先生が言ってたけど本当?