どうでもいい歴史トリビアを報告するスレ
>>192
ルードイッヒ2世のほうじゃないのか?
ウスターソースのウスターとは発祥地である英国のウスターシャー州のこと。
日本のウスターソースは、発祥地のそれとは材料も製法も異なる。 >>193
ハンカチを投げて今晩の相手決めたとかじゃなかった?
ソースの書籍を神保町に流したのでなんともいえん。
まぁ間違いならスマン ロシアのエルミタージュ美術館は、直訳すると「隠れ家」。
エカテリーナ二世時代、王侯貴族の美術品を保管、観賞するための
彼女個人専用の美術館として作られた。 レンブラントの代表作「夜警」は、本当は昼の時間帯を描いたものだったが、
背景部分のニスが黒ずんで夜のようになってしまった。 清少納言と紫式部に面識はない
紫式部が宮仕えをするために宮廷に出仕したころには、清少納言が仕える藤原定子は亡くなっている。
当然、清少納言は宮仕えを退いている。 日本の火縄銃は遠くオスマントルコまで輸出されていた 徳川家定は徳川慶喜のことを嫌っていた
理由は、自分より慶喜のほうがイケメンだから 徳川家定は徳川慶喜のことを嫌っていた
理由は、自分より慶喜のほうがイケメンだから 1990年までチリでは、チリ人は古代ギリシャ人の末裔だから優秀な人種だということになっていた 多摩、八王子は元々神奈川県の領土だったが、
当時の政府が選挙戦を有利にするため東京都内に編入した。 色物芸人の色物の由来は
寄席で落語家の紹介が黒い墨で書かれたのに対し
間に挟んで寄席に彩を添える落語以外の芸人は朱色の墨で書かれていたため。 三国志や戦国無双で有名な光栄は、
昔ちりめん問屋を経営していた。 関が原ぐらいの年代のサムライの骨が見つかったんだけど、どれもこれも不思議な筋がついていた。
学者がなんだろうって不思議に思っていたが、どうやら発達した筋肉が骨を削っていたらしい。
>>215
今はメッカのカーバ宮殿の聖なる石を拝んでる
ちなみにこの聖なる石
元々の地元民が聖なる石としてた物
今のイスラム教徒にとりエルサレムはマホメット昇天の地 エルサレムは3宗教の聖地、というのは教科書にもあること
それが果たして「どうでもいい歴史トリビア」になるのか? 最初に拝んでた場所はどうでもよい話じゃね?
ハンニバルが最後まで保持していたゾウの名前はスールスとされる
インドゾウとも言われる
先進国の中で唯一毎日風呂またはシャワーを浴びる人の割合が50%
を切っている国がある。フランスである。
伝統は生きている。 俺は日本人の容姿
イギリス人の舌
ドイツ人のユーモアセンスポーランド人の知能
イタリア人の我慢強さ
フランス人の衛生観念を持っている 日本人は古代イスラエル人の末裔
火星は木星から生まれた
そうですね信憑性ないですねすいまてーん ヒミコ女王の使節が魏の国に来た時、
当時の魏の皇帝は三代目の曹芳。 GMは戦前、ドイツのオペル社を子会社化したがナチスの圧力で放棄。
戦後再びGMが権利を取り戻した。 昔発刊されてた
『ドラえもん大百科』1巻と2巻の作者は
藤子不二夫ではない 小林一茶は50歳の時に童貞を捨てた
俳諧師ではなく江戸時代の大魔法使い >>224
「魏志」の記述に従えば
卑弥呼の最初の遣使は
景初2年(238年)6月のこと
これだと
二代明帝曹叡の時代になる
しかし
この時中継点の「帯方郡」は
公孫淵の領土で
魏の領土ではなかったため
翌年の景初三年(239年)6月の
誤りだろうとされていて
これが通説となっている
それだと三代曹芳の時代になる
しかし
「魏志」の記述が正しいという
異論も一部にはある
まあ、どっちでもいい話なんですけどね >>217
宗教を信仰していない私にとって、どうでもいい歴史トリビアです。
>>234
お前の主観でモノ見るならここ見てもつまんないだろwww
日本で仏教と神道の争いを和解させ両立させたのは聖徳太子 昔っから日本では坊主が神輿担いだり、ヒンズー教の神と道教の神を一緒くたに拝んだりするぐらい宗教には無頓着な民族だから、
信長がいなくても宗教戦争とは無縁でしょう。 山縣有朋は若い時「山縣狂介」と名乗っていた。
ちなみに、氷室京介も昔は「氷室狂介」という名前だった。
イデオロギーから来る宗教戦争はもとからあまりないだろうが
寺社のすさまじい武装化を信長が削いだのは事実
実際それ以前の比叡山なんて宗教団体というよりは完全に軍隊
>239
信長が比叡山延略山焼き討ちにして皆殺しだもんな 延暦寺の寺名は元号の延暦から命名された
延暦寺の僧、天海僧正は延暦寺のコピーを江戸に造る時、延暦寺にあやかり
当時の元号から寛永寺と命名した。 それより元読売、現横浜の真田が幸村(信繁)の子孫という方が疑わしい。 鷹狩りの途中で偶然立ち寄った寺での秀吉と三成の三杯の茶の出会い。
実は秀吉の側室だった三成の一族からの推挙で、秀吉が三成に
会いに行った、予定されていた行動だった。 >>238
高杉晋作は「西海一狂生」「東洋一狂生」と名乗っていた。
彼らが“狂”の字を用いたのは、政府(幕府)を倒して天皇中心の政治に戻し
急速な近代化で欧米の脅威を退けるという途方も無い大事業達成のため、
自ら尊皇攘夷の鬼となり捨て石となるという一種の決意表明みたいなもの。 553* 名前:白馬青牛 ◆8mr41B7alChB [] 投稿日:2010/10/10(日) 01:03:18
>>544
米国債なら、中共も持っとりますが、安易に売ると敵対行為になります
からね。天皇家の即位は近代国家で重要事じゃ無いでしょう。
じゃが、宮中も米国の意志は浸透しとるんと思いますけどね。
日本はマスコミも含め、日本のシマを取っとる事実は否定し難いで
しょうに。例えば大手の球団を持っとる処もねえ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/06-02/060208amaki.htm
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20100225/1267043189
一番上の人物概要でも、載って有馬氏の米公文書館外交機密で
明らかになって、ネットに関してはタブーがのうなったが、テレビや
新聞では未だタブー視されてますが、CIAは正力氏にポダムと
云うコードネームを付けましたね。
冷戦時代、わしゃあ、保守系メディアは米国の工作で、革新左翼系は
ソ連クレムリンと監視する米国側の工作がある云うたら、陰謀史観と
馬鹿にするもんもおったけど、有馬氏のおかげで一例が明らかになりました
わ。
二番目ので、米国が岸元首相より、ポダム氏を重要視したんも、
岸氏のアジア主義の本質を見抜き、状況によっては、日本自主独立を
警戒した部分もあると思います。護憲派の天木氏だけじゃあ、
何ですけぇ、
三番目は、核武装派の山崎氏の見解を挙げましたわ。
まあ、ネット右翼が嫌いな朝日だけじゃのうて、大手マスコミは
そういうもんですよ。
まあ、隠蔽体質の日本の公文書じゃあ、こういうことは出て来ませんし、
焼却されるでしょう。その分だけ米国の方が日本たぁましな国家
ですからね。まあ、日本の世論ですら米国の手の内にあるんですよ >>247
大坂では真田幸村の人気が高く、
明治以降に憧れからその姓を名乗ったものがいるらしい。
ハチ公が渋谷駅で待ってた理由はご主人様ではなくて焼き鳥だった。 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした時、前後の門前で、大石内蔵助・大石酒税が太鼓を叩いているシーンが映画等ではよく使われているが、近所迷惑や吉良側の追っ手に討ち入りを知らせる事になるので、実際の討ち入り時は見張りが見張っていた。 「火薬」はルネサンスの三大発明のひとつだが、
不老不死の薬を開発する過程で出来た偶然の産物。
魔女は今でも実際にいる
正しくは妖術(占い、シャーマン)系統の職業とする女性 >>213
へ〜…
そんな事有り得るの?
ちなみにどこの筋肉がどんな運動によって発達したんだろうね?
興味深いので、ぜひとも教えてほしいな!超人みたいだね♪武士道極めると人間離れするのかな!
>>83
そんなバカな…!
速やかに…速やかに…日本に帰還されたし。
それはちょっと…あまりにも危険すぎる!
ご先祖様に物凄く恨みをかった格となる代表的人物がいた事をしっているのだろうか?
何故にまた…よりによって因縁のある宿敵国に…。
米国は人質をとったつもりなのか?
それもまた杞憂でジョークをとばしながら楽しくやっていたり…。
今、頭の中に東條閣下クリソツの丸眼鏡に髭に米軍の軍服を着たご子息の…信じがたい光景がうかんだ…。ニッコリしていた…。
なんとも実に愕然とする事実ですな…。
>>79-80
マジ?
203高地見た時に…戦争が終わった途端に両軍抱き合って泣いたって話なら見たけど…。
まさか戦時の停戦中にそんな奇想天外な交遊があろうとは…。当時の侍魂の懐の深さに脱帽。スゲーな!
ぜひソースが欲しい。
日中戦争で手裏剣!まだ武士道は生きていたから考えられる。先祖は伊賀か甲賀か?
これもぜひソースが欲しい。
>>47-48
質問であります。
合戦とか決戦とか乱とか変とかありますがどういう違いで使い分けるのでありましょうか?
スレタイからは想定外の内容の豊かさ…
まさかの良スレ!アゲ
コレがあるからオモロイんだけど…ガセや釣りもありそうですね?
卑弥呼は、遼東国際戦争において、公孫淵の後背地であった、
帯方郡・楽浪郡に出兵し、使者を派して、司馬懿と連携。
公孫淵の縦深戦略を崩壊させた。
遼東に籠るしかなかった公孫淵は、司馬懿により、難なく討ち滅ぼされた。
卑弥呼は、この功績により、親魏倭国王の金印紫綬を受けた。 【三戦板自治新党 歴代党首】(2002年12月14日結党)
初代 学徒出陣(2002.12) …終身名誉党首
二代 宇喜多秀家(2002.12)
三代 ロコロール(2003.1)
四代 宇喜多秀家(2003.1)
五代 ムコーニン(2003.1〜5)
六代 ロコ太郎(2003.5)
七代 若人(2003.6)
八代 ロコ三郎(2003.6〜7)
九代 雨宮塔子(2003.8〜9)
十代 ムコーニン(2003.10〜2004.4)
十一代 学徒出陣(2004.5〜6)
十二代 御茶○刑事(2004.6〜8)
十三代 ピッキー(2004.8)
十四代 ムコーニン(2004.8)
十五代 ナイトワーカーズ・リターンズ(2004.8)
十六代 まあc(2005.10〜11)
十七代 張春華(2005.11〜2006.2)
十八代 ムコーニン(2006.2〜5)
十九代 ひょーりみ(2006.6〜8)
二十代 金宰陽(2006.8〜12)
二十一代 八戸ロコ金四郎(2007.1〜11) 現:ロコ常陸四郎
二十二代 小魔玉(2007.11〜2008.4)
二十三代 中山幸盛(2008.4〜5)
二十四代 ロコふるーちぇ(2008.5〜8) 現:アンジェ
二十五代 クマッタ(2008.8)
二十六代 ひょーりみ(2009.1〜3)
二十七代 聖臣義光(2009.4〜7)
二十八代 神ツコツ(2009.7〜9)
二十九代 ロコ康三郎(2009.9〜2010.1)
三十代 クマッタ(2010.7)
三十一代 井伊直角(2011.3〜5)
三十二代 学徒退陣(2011.6〜8)
三十三代 八戸のぶなが(2011.9〜12)
三十四代 婿ビンゴ(2011.12〜2012.2)
三十五代 小魔玉(2012.2〜 ) 佐久間象山横死に関し、新選組が現場検証を実施し、
馬を道具として刺客らに反撃した形跡有り、
武士道にもとる破廉恥行為である。
として、幕府筋に報告を上げた。
馬を攻撃の道具として使ってはならぬ、
というのは戦国時代の掟であるのだが、
結局この理が通り、佐久間象山家は断絶、
子はレッキとした浪人となり、周囲の薦めで
新選組に入隊した。 >>267
へー!へー!へー!
ホントなら素晴らしい!
大したもんだ♪
出鱈目検死は新撰組のお家芸。
動機は、佐久間の帰属していた松代藩へのユスリ。
同じ要領で伊東甲子太郎が近藤勇を強請ろうと
企てたのが近江屋事件への介入であって
伊東は油小路にて暗殺される結果となった。 大黒屋光太夫と言えばロシアの印象だが、彼が漂着したアムチトカ島は現在アメリカ合衆国の領土。 研究熱心な榎本武昭は隕石には特種な鉱物がある事に気付いていて、積極的に隕石を収拾していた。
更にその収拾した隕石を原料としてに榎本はドス(小刀)を数本造っている。
酒井忠次が自分の息子と、松平広忠嫡男とをすり替えて、
今川家に送り込んだのが後年の徳川家康。
直後にからくりがばれ、家康は文字通りの人質として冷遇された。
ちなみに、徳川秀忠も酒井忠次の息子であり、家康とは異母兄弟である。 武家政権が「幕府」と呼ばれるようになったのは、江戸時代の中期。
古代において、神崎川の河口部に、
綺麗な放物線形状の小さな岬が海に突き出していて、
女性的に湾曲する神崎川を膣道に見立てるならば、
なんとなくクリトリスであり、尼ヶ崎と呼ばれた。
この岬の付け根に、現在においても大物神社があり、
大物主の水上武力の基地があったものと推定される。 グリゴリー・ラスプーチン
ロシア帝国を亡ぼす切っ掛けを作ったと言われる怪僧であるが、彼の神憑り的な祈祷の力を完全に信じ込んだニコライ2世は側近として扱ってしまう。
元々農民出身のラスプーチン。生まれつき人間離れしていたモンスターぶりは肉体的な面も大きい。
ガタイもデカく生命力が異常に強く、絶倫ぶりたるや並のロシアの男と比べものにならない程に群を抜くと言われていた。
そして最も問題になったのが、その素行の悪さであった。手当たり次第にヤりまくる獣と化したラスプーチン宮廷内ではめまくる。
困った事にラスプーチンの巨根は宮廷内ですっかり評判になり、秘密裏にハメたがる女が続出。
次第に秩序を乱す素行と政治に口を出しはじめた事が問題視されはじめ、側近によって最終的に毒を盛られ暗殺される。
食事に毒を盛られるも一切効かず、業を煮やした側近達は襲いかかり、タコ殴りの血だらけにしてしまう。それでも死なないレスラー並の生命力。
最期は極寒の外に放り出され、河の氷を砕いた中に沈められる。死因は溺死となっている。
その異端ぶりと謎めいた生き様は様々な歴史研究家も興味を持ち、本や小説が残される事になる。
…ラスプーチンの巨根は死後に局部を切り取られ、今でもホルマリン漬けとなって標本になっている。
萎えた時点でもそれなりの大きさであり、これが最大時にはどうなるのかはご想像にお任せする。
とある検索画像で見れはするが、予めグロ注意。
16代目の徳川家達は、シーメンス事件で山本権兵衛内閣が辞職後
組閣の大命降下を受けるも熟考の末に辞退した。第4代貴族院議長。
ワシントン会議には幣原喜重郎、加藤友三郎と共に日本全権として出席。
(しかし高校教科書では、3人のうち家達のみ記述されていない) 現代アイスランド人、モンゴル人、インドネシア人の大半には姓がない 聖書では悪役のポンテオ・ピラトは、若手実戦派軍人。
ティベリウス帝は、その治世の晩年に、
シーザーがやり残した事業、すなわちパルティア遠征を
やり抜こうとした。ユダヤ王国を解体し、自治国格から
属国よりも下位の属州にまで格下げして、軍事進駐権を確保し、
パルティア遠征の前線基地と位置付けた。
そして、お気に入りの戦闘的将校ポンテオ・ピラトを
属州総督に親任したのである。
ポンテオ・ピラトは、日本でいうなら、近藤勇のごとき人物である。
近藤勇は七人の屈強の部下を引き連れ京都へ行く。同じように
ポンテオ・ピラトは七人の屈強の百卒長を率いて、
エルサレムに赴任したのである。 スペインにはパンツにかけて勝利を誓った女王がいた
カスティーリャ女王イザベル一世 >>285
それってイタリアじゃなかったっけと思ったら、自分の知ってるのは
自らスカートたくし上げてパンツ見せた女領主様だった 747年4月、唐将・高仙芝(ガオ・クシュンジュ)は、精鋭2万を率い
クチャ(安西都護府)を発し、カシュガルから西進しゾグディアナへ進出、
シュグナン回廊を南進し、ワハン回廊との結節点にて吐蕃軍と交戦して撃破、
敗走した吐蕃軍は連雲堡(H4590)に籠り、唐軍を山岳戦へ誘引した。
高仙芝はここで軍を三分し、部下二将に連雲堡の北面、東面を攻囲させ
自らは、播密川(パンジー川)を下り、護密川(サングリッチ川)を遡り
護密国(サルハッド盆地)を過ぎ、連雲堡の西面を強襲し、これを攻めおとし
吐蕃兵を皆殺しにした。
連雲堡から西へサルハッドを通り、バロギル峠(H3777)を抜け
ヤルフーン川を渡り、坦駒嶺(ダルコット峠、H4707)を踏み越え
ヤシン川を下り、阿弩越城を奪取して小律勃(ギルギット)に西から乱入し
国王とその后(吐蕃公主)を捕らえ、吐蕃系重臣を斬り
大律勃(パルディスタン)と吐蕃とへ通じるインダス川の橋を焼き落とした。
唐の軍威は大いに揚がり、軍利を失った吐蕃は
水面下の軍事工作で対抗し、アッパース朝辺境軍がこの工作を受け
751年のタラス河畔の戦いへと繋がる。 唐朝絶頂期に吐蕃、突厥との激闘を経て戦闘力を充実させた、
安西軍閥と北庭軍閥とが競合連携しつつ西方を侵略。
安西副都護高仙芝の活躍は目覚しく、
パミール高原を踏み越えてギルギット、チトワールを攻略し
インダス河以西を吐蕃から切り離す戦略を成立させた。
平原部においても、北庭軍がウィグル軍を尖兵としてカルルクを攻略した。
反動として吐蕃の軍事工作によりフェルガナを中心に反唐武装戦線が形成され
シーア派宗教革命を成就させ聖戦気運に載る新興アッパース朝の辺境軍が
この闘争に介入、タシュケントに進出したズイヤード・イブン率いるアッパース朝軍は
反唐勢力を糾合して大軍を編成、カルルク方面回復を目指し聖戦北伐を開始した。
これに対応した高仙芝は怛羅斯城(H2000)に大兵力を集結させてア軍を挑発、
ここに両朝の辺境軍同士の大規模會戰が実現した。
高仙芝は怛羅斯回廊深奥部へ敵を誘引し、
北庭軍が回廊進入口を塞ぐことによる挟撃殲滅策の実行を要請し、
北庭軍機動部隊もジュンガルを進発し戦場へ急行した。
高仙芝の唐軍は城を出て、直ぐ南の高所に有利に布陣。
統制を乱した敵が狭間に進入すればこれを叩く罠を仕掛けた。
ア軍は怛羅斯河最上流部南岸(H1300)に平押し重層布陣、
右軍が東面して唐左軍の側攻を防ぐ
古典的な直交型堅陣を形成し、北の怛羅斯城を睨んだ。
唐軍は高所からの強襲を繰り返し、ア軍の寸断を画策。
ア軍は耐え鎬ぐが崩壊寸前であり、唐軍勝利は時間の問題。
ここで参戦していた吐蕃軍が独断で大迂回を敢行。
唐左軍の背後に回り込み、東から西へ奇襲した。
奇襲を受けた部隊が戦意が低く脇備を担当していたカルルク軍であり
持ち堪えずに怛羅斯城方面に壊走、これが内応と見紛われ
怛羅斯城との連絡線を切断された唐軍は壊滅、
高仙芝は敵中突破して戦場離脱した。 缶詰はナポレオンのロシア遠征のために開発された。
当時は細菌の発見以前で、開発者もなぜ缶詰にすると長持ちするのかは原因不明のまま製造
密閉技術が粗末だったため、ほとんどの缶がガスで膨らみ、腐ってしまったとか 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
マルコによる福音書のこのフレーズは実は誤訳の可能性が高い
当時使われていたアラム語では「縄」と「らくだ」の音が似ていたため、
ギリシャ語で聖書をまとめたときに取り違えられてしまったとか